第55話 洋一は本を借りる為に茉莉先生を訪ねた

文字数 1,499文字

 藤木洋一が大学に入った最初の黄金週間のことだった。茉莉先生からメールが届いた。
「大学生になった気分はどう?あなたに是非読んで貰いたい本が手に入ったの。いつでも都合の良い時に取りに居らっしゃい」
洋一はその日の夜、自室のベッドで横になって茉莉先生のことを思った。先生に恋をしていたのかも知れないと考えると、淫らな思いが浮かんで来た。彼は眼を閉じ、壁の方へ顔を向け、枕を胸に抱えてギュッと抱き締めた。茉莉先生の綺麗な姿態が洋一の内部の何かを揺さ振った。
洋一は黄金週間の最後の夜、本を借りる為に茉莉先生を訪ねた。
借りた本を腕に抱えて帰ろうとした時、彼を混乱させ困惑させる事態が起きた。茉莉先生が大真面目に話し始めたのである。
彼女は洋一のことを考えて胸を熱くしていた。人間はどのような困難に直面しなければならないか、彼女はそれを純情で賢い洋一の心にしっかりと刻みつけてやりたいと考えていた。
「あなたはもっと人生を知らなければならないわ」
茉莉先生は言った。その声は真剣そのもので震えてさえいた。
「あなたは、今は先ず、生きるべき時なのよ。あなたを怯えさせる心算は毛頭無いけれど、あなたが将来何をやろうとしているのか、私はその意味をあなたに解らせたいと思っているの。学ぶべきは人々が何を考えているかであって、人々が何を言うかではないのよ」
夜が更け、外はすっかり暗くなって、部屋の灯だけが明るかった。洋一が立ち去ろうと背を向けると、茉莉先生が静かな声で洋一の名前を呼び、衝動的な動きで彼の手を握った。人生の意味を彼に悟らせたいという情熱的な欲求が彼女の全身に押し寄せた。洋一が人生の意味を正しく真直ぐに解釈出来るように、彼女は身を乗り出して、唇で洋一の頬に触れた。その瞬間、洋一は茉莉先生の際立った美しさに改めて気付いた。雰囲気がぎこちなくなり、二人は慌てて離れた。茉莉先生は気分を変えるように厳しく横柄に言った。
「今は言っても無理ね。私が言っていることの意味をあなたが解かり始めるには、後十年はかかるわね」
そう言いながらも、尚、小一時間ほど彼女は人生について語った。彼女は洋一の為に人生のドアを開けてやりたくて堪らなくなった。自分の教え子で、人生を理解する頭脳に恵まれていると思われるこの青年の為に・・・。その思いが余りに強く、とうとう肉体的な欲求にも近くなった。彼女は再び洋一の肩を掴み、自分の方を向かせた。部屋の灯の中で茉莉先生の眼が輝いていた。
茉莉先生は教師であったが、女でもあった。洋一は、最早、少年には見えなかった。男であった。将に、男としての役割を果たそうとしている男であった。肉体的欲求が動物的衝動となって、道徳的思考と理性的判断を凌駕した。
洋一が茉莉先生を引き寄せた時、彼女は抗わなかった。五月の温かい部屋の空気が突如として重くなり、彼女の躰から力が抜け、彼女は待った。洋一が手を彼女の肩に乗せると、彼女は躰をぐったりと洋一に預けた。彼は彼女の躰をしっかりと自分の躰に抱き寄せた。
 夜更けて、洋一は自宅の自室に戻ると直ぐにベッドに横たわった。そして、じっくり部屋中を見回して、先刻に茉莉先生の部屋で何が起きたのかを考え理解しようとした。激しい迸りの中で、一瞬、躰の奥底から突き上げて来たあの疼くような感覚は何だったのか?・・・彼は頭の中であれこれと考えを巡らせた。茉莉先生が言おうとした人生の深淵については良く解らなかったが、何か一つだけ掴め得たように感じた。そう、彼は自分が男になったことをはっきりと覚ったのである。
洋一は掛け布団を首まで引き上げて眼を閉じ、満ち足りた気分で眠りに落ちて行った。
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