第91話 遼司、リハビリで頑張る老婦人に出逢う

文字数 1,969文字

 遼司は三月中頃の夕暮れに右足の脹脛に激痛を覚えて歩けなくなってしまった。
総合病院の整形外科でX線撮影とMRI検査を受けた結果、腰椎椎間板ヘルニアに起因する間欠性爬行と診断された。直ぐに腰椎に神経根ブロック注射をして痛みを和らげた後、週二回のリハビリが始まった。
 あれから四ヶ月・・・
トレーナーに指示されて腰の牽引台に仰向きに寝た遼司は直ぐにうとうとと微睡んだ。十五分間の治療が終わり、トレーナーに軽く膝を叩かれて目覚めた遼司は、電気治療を受けるベッドへ向かう為にゆっくりと起き上った。
 その時、その老婦人を見たのである。
彼女は髪を振り乱し必死の形相で、歩行訓練器の手摺り棒を掴んで歩く訓練をしていた。手を探るように前に突き出し、一呼吸擱いてからゆっくり右足を踏み出し、左足を踏み出した。そして又、手摺り棒を探るように手を前に突き出す。
「あっ、危ない!」
遼司は思わず叫んだ。老婦人の姿勢が不意に崩れて腰が砕けたように二本の手摺り棒の間に身体が沈んで、転んだのである。
付添いの介護トレーナーが屈んで手を差し伸べたが、彼女はその手を取らなかった。
「駄目です!今、一人で歩く訓練をしているのですから」
その拒絶は、遼司の胸には快く響いた。明るく澄んだ表情だった。
老婦人は足をそろそろと引き、一旦横座りの格好になってから手摺り棒の縦支柱を掴んで少しずつ腰を上げた。片膝をつき片方の足を立て細面の顔を真っ赤に力ませて全身の力で立とうとした。
「ほら、もう一息だ!」
遼司は心の中で叫んだ。
遂に老婦人は一人で立ち上がった。そして、笑顔を浮かべて袖で額の汗を拭った。
 担当のトレーナーに促されて、遼司は我に返ったように電気治療台にうつ伏せに乗った。老婦人の歩行訓練はその後も暫く続いた。
 強弱、長短、リズミカルな心地良い電磁波の刺激に心も身体もリラックスして来た遼司が、今のような浮き草稼業ではなく、もっとまともな普通の堅気の仕事をして暮らすことも、やろうと思えば出来るのではないか、とふと思ったりするのは、こういう心が和んだ時である。実際には遼司はシェーカーを振って酒を作り、酔客にお愛想を言って飯を食っている男であり、酒場の臭いが身体に染み着いてしまっている人間であった。
だが、僅かな間にしろ、遼司が酒場のバーテンらしくないことを考えるのも事実だった。今日のように心が和み、胸の中を一陣の清々しい風が流れる時、一度普通の人間の普通の暮らしをしてみたいとも思うのだった。
 
 遼司が電気治療を終えて身繕いをし、医師の巡回診察を受ける為に待合室に入って行くと、先刻の老婦人が車椅子に座って外の景色をじっと眺めていた。
遼司は老婦人の隣に空いている席を見つけて腰掛けた。
「随分と頑張っておられましたね、歩行訓練・・・」
遼司は遠慮したように小声で聞いたが、此方に向いた老婦人の顔は明るく穏やかだった。
「わたしはこの春に足の骨を折って、それ以来ずうっと寝ていましたの。でも、この儘では歩けなくなって、一生車椅子の生活になってしまうのではないかと心配で、先生にお願いしましたの、何とか歩けるようになりたいって。そしたら、漸くお許しが出ましたの」
「それで歩行訓練を始められたのですか」
「わたしにも未だ未だ、行きたい所も見たい物もやりたい事も食べたい物も、一杯有りますからね」
そう言って老婦人は口元に手を宛てコロコロと笑った。
「あなたはどうなさったの?腰のリハビリとお見受けしましたけれど・・・ひょっとして立ち仕事をなさっているのかしら」
遼司はうろたえた。不意打ちを喰ったような思いがした。夜の仕事と酒焼けでくたびれた貌をしているのは自分でも解かっている。
遼司は返答に窮した。嘘を答えることは容易かったが、老婦人の澄んだ目に見詰められると、その嘘が見抜かれそうで躊躇した。
 話している内に巡回診察の医師がやって来た。凡そ患者一人に三分から五分の診察である。
先に診察が終わった老婦人が「それではお先に」と遼司に笑顔で一礼して、リハビリセンターを出て行った。車椅子はトレーナーが押して行った。
 それから、桐島美禰と言う名のその老婦人に、遼司はリハビリの度に出会うようになった。会う度に二人は短い話を交わすようになっていた。
遼司は自分のリハビリが終わり医師の巡回診察を受けた後も未だ、桐島美禰が歩行訓練を続けているのを見ると、「ほら、しっかり」とか「さあ、頑張って」等と声を掛けて彼女を励ました。
 遼司は思っていた。
爽やかでいじけたところが無く、必死でリハビリ訓練に取組んでいる。気持ちの良い人だ。昨日より一寸でも多く歩けるように一所懸命にやっている。健気なもんだ・・・俺にもあんな風に一生懸命になった頃もあったなぁ、チャンピオンを目指して猛練習に明け暮れていた高校生の頃だ・・・
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