第45話 もうこれで、あの人とは生涯巡り合うことは無いのだ・・・ 

文字数 2,273文字

 「あなたも、僕が尿道結石で入院した時、毎日見舞いに来てくれました」
一週間、信子は毎日病室を見舞った。肌着やパジャマなどの衣料品と歯磨きやタオルなどの身の回り品を買い、果物も差し入れた。花瓶に花を入れ替え、病院のコインランドリーで汚れ物を洗濯した。二人は互いに心の垣根を取り払い、私的な会話を交わすようになって行った。
「高井さん、お子さんは?」
「女の子が二人です。上の娘は来年、中学に入ります。下の子は三歳年下ですから未だ未だ子供です」
「そうですか、可愛いでしょうね、女のお子さんは」
「ええ、まあ・・・家内と結婚してもう十五年近くになるんですが、その内の半分以上は単身赴任の別居生活でして、家事も育児も全て妻に任せ切り、真実に済まないと思っているんです」
それは初めて高井が信子に語った私事の断片だった。
「サラリーマンというのは渡り鳥なんですよ。辞令と言う紙切れ一枚で北海道から九州ま
で、いや、アメリカからヨーロッパ、中国から東南アジアまでも飛んで行くんです。ですが、自分はそれが技術屋としての使命だと思っています。己の知識と技能と経験と創意とで、世の中の、世界の、人類の、未来に貢献する新しいものを創り出して行く、それが技術屋たる者の使命だと思っているんです。一カ所に居続けたのでは、其処に在る技術に関わるものしか創り出すことは出来ません。身勝手だと謗られるかも知れませんが・・・」
日頃寡黙な高井がこの日は驚くほど能弁だった。信子は、彼が漸く自分に心を許してくれていることを確信した。

「あなたは私が立ち眩みと眩暈で倒れた時、直ぐに病院に運び込んでくれました」
 仕事が早く終わった金曜日、高井が珍しく午後七時前に「あだち」にやってきた。が、彼の前に立ったのは六十歳中半の大女将だった。女将の信子は立眩みと眩暈がして二階で休んで居ると言う。
「如何でしょう、うちの会社の病院で診察を受けられては?今なら時間的にも大丈夫ですから」
高井は信子と信吾を乗せて病院へ車を走らせた。
 診察室に入った信子は直ぐに寝台に寝かされて安静にするように言われ、それから、そのままの姿勢で医師の問診が行われた。眩暈の状態や普段の生活等について問い質された後、検査が始まった。
行われたのは、血液検査、眼振検査、聴力検査、重心動揺検査の四つであった。これらの検査を行って、眩暈の原因が何であるかを調べていくのだと言う。診察の結果はメニエール症候群と診断された。
メニエール症候群とは、耳や脳などには問題がなく、原因が不明で、眩暈や難聴や耳鳴りなどの症状を繰り返す疾患の総称であり、三十代後半から四十代前半に発症することが最も多く、比較的女性に多発する病気であった。
めまい止めの薬の他に精神安定剤やビタミン剤、血管拡張剤や吐き気止めを処方され、幸いにして、その後、信子に眩暈が発生することは無かった。信子は高井に大いに感謝し心からの信頼を寄せるようになった。

「信吾の面倒も良く見て戴きました。自転車だけでなく、その後も野球を教わり、サイクリングや魚釣りにも連れて行って貰って、あの子はあなたにとても良く懐きました」
信子はじっと高井の顔を見詰めて更に続けた。
「あなたの居ないこの街なんて何を見ても空虚です」
高井も信子を凝視して応えた。
「あなたの顔を見ない自分の眼は何を見ても朧です」
「あなたの来ないこの店はどんなに灯が燈って居ても、私には暗いんです」
「あなたの声を聞かない自分の耳は何を聴いても素通りです」
「あなたの座らないその椅子は、いつまで経っても温まることはありません」
「あなたに逢えない自分の心は何をしても虚ろです」
「・・・・・」
「女将さん、いや、信子さん、自分は・・・」
「駄目!おっしゃらないで!」
信子が人差指を唇に当てて強く遮った。
二人は釘づけされたように互いの眼を見つめ合った。
見る間に、信子の眼から大粒の涙が溢れ出した。彼女は顔を覆い、踵を返して、厨房から勝手口を通って外へ出て行った。
信子は十五分ほど戻って来なかった。
その間、高井は信子の消えた勝手口辺りを凝然と見詰めていた。
やがて、戻って来た信子は目を赤く腫らしてはいたが、貌はもう普段の表情だった。
「それで、何日、発たれるんですか?」
「ぎりぎり最後の月末、三十一日の午後に発つ予定です」
「それじゃ、未だ半月近くありますわね。発たれるまでは毎日来て下さいね、精々美味しいものを見繕いますから」
 
 そして、愈々、最後の夜、何時も通りに食事を終えた高井は信子とその義父に心からの礼を言った。
「四年間、真実にお世話になりました。有難うございました。皆さんのことは生涯忘れません」
深々と頭を垂れた。
いつの間にか、信吾とその祖母も厨房に降りて来ていた。
高井は鞄の中から軟式野球のボールを一つ取り出して信吾に手渡した。真新のボールには
“高井健二”のサインが入っていた。
戸口へ向かう高井に信子が小さな紙包みを手渡した。それは紫の生地に金色で“幸徳大神守護”と刺繍されたお守り袋だった。
「これを私の心だと思って持って行って下さい」
高井は守り袋をスーツの胸ポケットに大事に仕舞い込み、それから、真直ぐに信子の眼を見乍ら、一言、「さよなら」と言った。信子は頷くようにして「さようなら」と小さく答えた。
信子は高井を見送らなかった。
閉じられた格子戸の内と外で二人は思い合った。
もうこれで、あの人とは生涯巡り合うことは無いのだ・・・
信子の眼からまた涙が滴り落ちた。
高井は小糠のような春雨の中へ歩を進め、おばんざい屋「あだち」の灯を後にした。
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