第81話 大晦日の夜は妻と静かに語らうことにしている

文字数 1,891文字

 吉井秀夫は大晦日の夜は家で妻と静かに語らうことにしている。
彼は夕方五時から少し熱めの湯にゆっくり浸かって入浴し、真新しいカシミヤのパジャマに着替えてその上にシルクのガウンを羽織る。暖房の効いた温かいリビングで、老舗料亭から取り寄せた三段重ねの「おせち料理」をテーブルの上に開いて、上質のワインを一本開ける。そして、耳に優しい静かなクラシックの曲を聴きつつ、料理を食し、ワインを飲む。テレビは点けない。
吉井はワインのグラスを軽く擡げ、それから徐に一口啜る。
ああ、美味しい、と言う妻の声。二人の語らいが始まる。
「ねえ、私たちが若い頃、二人でよく行ったワインの美味しい酒場の名前を憶えていますか?あなた」
「ああ、あの酒場な。さて、何と言ったかな。名前までは憶えとらんよ」
「あなた、あそこでわたしにプロポーズしたのよ、それなのに名前も憶えていないの?」
「えっ、俺があの店でお前に求婚したのか?」
「そうですよ、だから、しっかり思い出して下さいよ」 
「幾らなんでも、酒場なんかでプロポーズはしないだろう」
妻がフッフッフと含み笑った。
「真実か?お前。それで、あそこでOKしたのか?」
「まさか!・・・こんな処で言っても駄目よ、って言いましたよ」
「それで?」
「そしたら、翌日の晩、あなたは私の家へやって来て、いきなり両親に、紗智子さんを下さい、って言うものだから、両親も驚いてたまげていましたよ」
「それから如何なったんだっけ?」
「その時の父親も少し変でした。お受けするにしろお断りするにしろ、直接自分の口から返答して上げなさい、って言ったの。あれには私も吃驚したわ」
「それから?」
「仕方ないから、わたしの答はYESです、って言ったの」
「仕方なくYESと言ったのか?」
「そうでもありませんけど・・・」
「そうか、それで安心したよ」
二人は其処で、笑い合った。

「あなたのお友達の河嶋さんが初めて訪ねて来られた時も驚きましたね」
「えっ?」
「だって部屋へ入って来るなり、いきなり、肘を枕にしてゴロッと横になられるんだもの、吃驚しましたよ」
「あれは結婚した翌年の暑い夏だったかな。和室二間の狭いアパートで未だエアコンも付いて無かった」
「幾ら親しい学生時代からのお友達とは言え、初めて訪れた家でいきなり寝転がる人は滅多に居ませんからね。何て気の置けない人なのだろう、と感心しましたよ、真実に」
「はっはっはっはっ、そんな事も有ったっけな」
「それに、あのお酒の飲み振りにも気圧されました。あっと言う間にビールが一ダースとウイスキーの半瓶が空いたんですから。あの頃は、あなたは未だ夜毎に晩酌をされる習慣は無かったですからね、私は近くの酒屋さんへ冷えたビールを買いに何遍も往復しましたよ。当時は瓶ビールが殆どでしたから、重たくて泣きたい気分でしたよ」
「うん、うん・・・」

「あなたが単身赴任で二年間留守だった時も大変でしたのよ」
妻の話は思いつく侭に彼方此方に飛び回るようであった。
「子供たちは七歳と十歳でしたから、まだまだ児童でしたしね」
「月に一回、金曜日の夜に帰って来て月曜日の朝に赴いて行く、そんな生活が二年間も続いたんだから、お前にも苦労をかけたと思っているし、心底、感謝しているよ」
「でも、子供達も良い子でしたよ。特に十歳の娘は食器を食卓に並べたり、食事の後の片付けをしたり、弟を指図しながら毎日よくやってくれました。それに、あの二年間はどういう訳か、二人とも病気をしませんでしたしね。風邪もひきませんでしたから」
「息子は俺が帰って来ると喜んだね。必ず一緒に風呂に入りたがった。流石に十歳の娘はもう一緒には入らなかったが・・・」
「あなたも良く遊んでやってくれましたよ。不自由な単身生活で疲れているだろうに、オセロをやったりドンジャラと言う麻雀もどきのゲームをしたり、時には市立公園の大きな広場で私まで引き入れて野球の真似事をさせたり、いろいろ気遣っていましたよ」
「否々、お前の苦労に比べれば何程の事でもなかったよ」
「そうそう、一度だけね、部長さんの奥さんの前で愚痴を溢したことが有るんです、まるで母子家庭みたいだ、と言ってね」
「奥さんの前で?」
「ええ。部長さんの娘さんが結婚されることになって、そのお祝いの品をご自宅まで持参したんです、あなたに頼まれて」
「うん、憶えているよ」
「その時、私達の仲人をして頂いたことや以前から親身に心配戴いていたこともあって、ついつい、甘えが出たんです、本音の。それで、早く帰して欲しい、みたいなことを言っちゃったんです。帰宅してから随分と後悔しました」
「そうか、そうだったのか・・・」
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