第120話 青春のあの頃から三十年の歳月が経過した 

文字数 2,255文字

 二十二歳の若い嶋と麗子が愛し合った青春のあの頃から三十年の歳月が経過した。
その間、嶋はオタワの後、ニューヨーク、ロンドン、パリ等の欧米と北京、ソウル、シンガポールなどのアジアを歴任し、シドニーを経て二か月前に海外事業本部長となって日本に帰って来た。敏腕と実績で業界では名の知れた存在になっていた。
 佐々木は本社の人事部一筋に歩んで、人事制度の改革や人材育成システムの構築などに業績を残し、他部門からの信任も厚い人望で部長に昇進していた。
二人の仕事の成果は順調だったのである。
 あたふたとした挨拶回りや業務引き継ぎが終わって、漸く、嶋の本部長の仕事が軌道に乗り始めた頃、佐々木が「ちょっと会いたい、話がある」と連絡して来た。
 
 指定されたのは、時間は週末の午後六時、場所はおでん屋、ということだった。其処は昔、新人時代に仲間達とよく呑んだ店だった。
「君はあれ以来此処の常連なのか?」
「ああ、よく来ることは来るな。女将とは昔馴染みだし、気を使うこともないし」
暫く二人は仕事のことや会社のこと、世間話などをしながら酒とおでんを口に運んだ。
それから、不意に佐々木が話題を変えて嶋に言った。
「麗子が一年前に死んだんだ」
「えっ!」
嶋は次の言葉が継げなかった。驚愕の眼でじっと佐々木の次の言葉を待った。
「膵臓癌で、な。もう直ぐ一周忌になる」
嶋には言い継ぐべき言葉が見つからなかった。
更に佐々木は、静かにではあったが、衝撃的な話を続けた。
「麗子はずうっと心の中で君に詫びていたし償いたいとも思っていた。いつか三人で話せ
る日が来ることを願っても居たよ」
「詫びるとか償うとか、そんな、君・・・」
「いや、彼女がそう思っていたのには訳が在ったんだ」
「と言うと?」
「彼女は君の子を中絶していたんだ」
「何だって?君・・・」
嶋の胸の中に何かがグサッと突き刺さった。
何てことだ・・・嶋は虚ろな眼を佐々木に向けた。
「俺が結婚を申し込んだ時に彼女が打ち明けたんだ、何もかも誰にも相談せずに自分一人
で処置したって」

 麗子は、嶋がカナダへ旅立った暫く後に、生理がもう二か月も無いことを慮って産婦人科の診察を受け、妊娠していることを告げられた。だが、嶋は独りカナダへ赴き、麗子は未婚の母を貫く勇気も持てなくて、悩んだ挙句に、中絶を決断したのだった。
 中絶手術の後、麗子はずうっと心と身体の調子が優れなかった。子供を始末した罪悪感に苦しみ、夜ごと現れる水子の霊に慄いた。腹の中に大きな空洞が出来たように感じて、其の場処が物凄く寒かった。布団を被ってもカイロや湯たんぽで温めても駄目だった。
又、真夜中に金縛りにあって目が覚めると、枕元に怖い形相をした赤ん坊が居たり、寝るのが怖くて起きていても、廊下から赤ん坊が這いずり回る音が聞こえたり、泣き喚く声が
聞こえたりした。麗子は怖くて辛くて自殺をも考えた。
水子の霊に摂り憑かれない為に、と教わった神社へ幾度かお参りし、祈祷を受けて水子供養をした後、麗子は小さなお守りを買った。それを腰に着けて歩くとぶら下がった鈴からチリンと言う安らかな音がした。そして、もう二度と子供はつくらない、と固く心に決めた時から水子は現れなくなった。 
「それ以来、麗子は子供を欲しがらなかった」
「そうか・・・」
「彼女は、独立して始めた会計士の仕事が忙しいから子供どころじゃない、って言っていたけど、水に流した子供と君への詫びと償いが心の底に在ったんだと思う」
「然し・・・」
「君の子供を勝手に始末し、俺たちの子供だけを産むというのは、彼女にとっては倫理に合わなかったのではないかと俺は思っているよ」
 嶋の胸に苦い思いが沸々と拡がった。
嶋の脳裏に凛と背筋を伸ばして闊歩する麗子の姿が蘇った。然し、それは遠い青春の頃の麗子だった。大人の女に成長した麗子については何ひとつ知らなかったことに嶋は思い至った。
嶋の子を勝手に始末したことを嶋と水子に詫び、それを償う為に佐々木との子を設けなかった麗子の真摯さ、全てを飲み込んで麗子に限り無い愛情を注いだ佐々木の大きな心、二人の矜持の高さと強靭な意思に嶋は胸を熱くした。
二人は一生をかけて俺と俺の子に詫び、償い続けようとしたのか!・・・
「彼女の霊前に線香の一本も上げさせて貰いたいのだが、駄目だろうか?」
「そうしてやってくれれば彼女も気が楽になるだろう、是非頼むよ」

 翌日、一台のタクシーが佐々木の家の前で止り、中から嶋が降り立った。嶋の腕には大きな白い花束が抱えられていた。
彼は中に入って通された居間で、「御仏前」の忌袋を供えた後、緊張した面差しで恭しく麗子の霊前に額ずいた。
部屋は暖房が効いて暖かかったが、嶋の心の中には冷たい夜気に頬を撫でられる思いが充満していた。
仏壇には亡くなった麗子の写真が飾られていた。遺影の麗子は歳相応に老いてはいたが、嶋の知らない面影ではなかった。若き日の知的で魅惑的な麗子が嶋の胸に彷彿と蘇えった。
線香を上げチーンと鐘を叩く嶋の後ろで佐々木も一緒に手を合わせた。無量の感が嶋の胸を覆った。
 焼香を終えた嶋の背中が不意に震え出した。嶋は咽び泣いた。
佐々木に背を向けたまま天井を仰いだ嶋の背中が小刻みに震えている。佐々木が嶋に身を寄せて、元気付けるように彼の肩をぽんぽんと軽く叩いた。
二人は嘗て共に愛した麗子の為に泣きながら、暫しその場を動かなかった。
 残酷にも五十二歳の若さで、膵臓癌と闘って早逝した麗子への哀悼と愛惜の溢れる思いが、追憶の涙が、嶋の心に溢れかえった。

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