揺れる想い(二)

文字数 2,616文字

 世良を真ん中にして右に小鳥、左に水島が並んだ。400メートル以下の短距離走で使われるクラウチングスタート。全員が前屈姿勢を取った。

「用意」

 多岐川の号令で腰を上げる。スタートまでの数秒間の凝縮された緊張。世良はゴールを見据えた。

「GO!」

 一斉に三名は弾丸のように飛び出した。頭一つ抜け出したのは水島。しかし徐々に身体を起こしてトップスピードに乗った世良に40メートル地点で追い抜かれた。

(速い……!)

 その脚力を目の当たりにして水島は驚愕した。水島も脚はかなり速い方だ。100メートルを11秒台後半で走る。その彼が女性の世良に僅かにリードされていた。
 中央に配された選手は左右を牽引してタイムを上げる役割を担うが、身をもって水島はそれを実感した。世良が、軽やかな風が自分を引っ張っていく。

 小鳥もまた感動していた。乱れない美しいフォーム、差をつけられて遠くなっていく世良の背中。しかし追い掛けたいと思った。あの背中をずっと。

 ダダダダダッとなだれ込むように世良と水島はゴールした。二秒遅れて小鳥も。

「……コハルさん、速いんですね!」
「いやキミに負けたけど」
「僅差じゃないですか! 0・1秒くらいですよ。正直言うと、ぶっちぎるつもりだったんですが引き離せませんでした」
「それは、セラが僕を引っ張ってくれたから……」

 不思議な感覚だった。水島は世良との一体感を味わったのだ。

「アハハ、私は押し上げられた気分でしたよ? コハルさんと一緒に風になった感覚でした」
「!」

 水島の心臓がドクンと鳴った。

「セラも同じように感じてたんだ……」
「はい! 一緒に走れて良かったです! 思い切り走り抜けるってやっぱり気持ちがいいですね」

 それはきっと相手が世良だからだ。他の人間とでは違っていただろうと水島は思った。たとえ世良と同じくらいのタイムで走る女子が居たとしても。

「コトリちゃんもけっこう走るね。13秒台?」
「はぁっ、はぁっ……。はい、ベストタイムは13秒6です……。お姉様……凄い」
「私はこれが専門だもん。逆にサッカーのリフティングとかはサッパリだよ」
「あ、じゃあ私がお教えしますよ! ケホッ、……ぜぇっ、ぜっ」
「その前にピヨピヨは一旦休め。その調子だと明日確実に筋肉痛が来るからな、覚悟しておけよ」
「ううう……」

 小休止を挟んだ後、グラウンドに在る体育倉庫からサッカーボールを取り出し、三人はリフティングに興じた。
 一番上手かったのは経験者の小鳥だったが、運動神経が抜きん出ている世良と水島もコツを掴んでからは、七~八回連続でボールを落とさずリフトできるくらいに上達した。
 二人からリクエストされて、小鳥は見事なシュートも披露していた。

 多岐川は目を細めて若者達を眺めていた。殺伐とした日々が続いているが、今のこの瞬間は年相応の明るさと笑顔で過ごしている。ずっとこんな風に笑い合えたら。
 しかし無常にも刻限は迫っていた。西の空が赤く色づいたことを確認して、多岐川はタイムアップを告げたのだった。

「陽が落ちます。寮へ帰りましょう」

 ボールを戻して四名はグラウンドを後にした。
 ふと世良は振り返った。以前は毎日汗を流していたグラウンド。異変が起きてからはそれが遠い過去のように感じられていた。
 だが今日、水島と小鳥と走り回って生き返った気がした。ここが自分の存在する場所なんだと改めて思い知った。

「また来ようや」

 水島に言われた。まるで以心伝心だと世良は嬉しくなった。


「お帰り。スッキリできたか?」

 寮へ戻った世良達を出迎えたのは藤宮一人だった。三枝は生徒の様子を見に行ってくれたそうだ。代わりに食堂に杏奈が居た。おそらくは茜の夕食を取りに来たのだろう。

「はい! 走れて気持ち良かったです。コトリちゃんにリフティングも習いました」

 元気に答えた世良を見て藤宮はホッとした。塞ぎ込むことが多くなった世良。リフレッシュできたようで何よりだ。

「セラ、この後どうすんの?」
「汗搔いたのでシャワー浴びてきます。その後でご飯かな」
「あ、僕も汗搔いた~。一緒に浴びよっか?」
「ウフフ、私のシュート見ましたよね? ボールと同じようにあなたの股間も蹴り飛ばしましょうか?」
「……ピヨピヨその目、本気みたいで怖いぞ?」
「本気ですもん」

 台所で佇んでいた杏奈は、三人のやり取りを見て驚いた。彼らは第三者の目から見てずいぶんと親しくなっていた。

(セラだけじゃなくてコトリちゃんまで……。あんなに気安く水島さんと会話するなんて)

「じゃあセラ、お別れのハグしようよ」
「だ、駄目ですよ! 私は今、汗臭いですから!」

 慌てて下がる世良に水島はキョトンとした。

「…………。自分の汗の匂いが気になるの? 僕が嫌なんじゃなくて?」
「……あれっ?」

 世良もキョトンとした。本当だ。どうして自分はセクハラ魔王相手に気を遣っているんだろう。
 水島はニヤけた口元を隠さずに指摘した。

「セラ、僕のこと好きになり始めてるだろ?」
「!!! ち、違っ……」
「それは絶対無────い!!!!

 小鳥が大声で全否定した。

「さ、お姉様、私と二人きりでシャワーを浴びる準備をしましょう! 着替えを取りに部屋へ戻りましょう!」

 そのまま小鳥は世良の背中を押してズンズン歩いた。二人が二階へ上がるのを見届けてから、水島はニヤついたまま水を取りに食堂へ入った。そこには杏奈が居た。

「よ、アンナちゃん」
「こんばんは……」

 挨拶だけで、大型冷蔵庫から水のペットボトルを一本取った水島は去ろうとした。

「あ、あのっ」

 杏奈は水島を呼び止めた。

「何?」
「あの……セラに手を出すのはやめてもらえませんか?」
「………………」

 藤宮と多岐川は既にレクレーションルームへ戻っており、周囲には杏奈と水島しか居なかった。

「せ、性欲の処理が必要なら……、わ、私がお相手しますから……」

 決死の覚悟で杏奈は言った。だのに水島は噴き出した。

「アハハ、ハハ、友達想いだねアンナちゃん。自己犠牲の精神ってヤツ?」
「……セラを傷付けたくないんです……」
「大丈夫だよ」

 水島は杏奈ではなく階段方面へ視線を向けた。

「僕も世良を傷付けたくない。だからゆっくり行くよ」
「………………」

 杏奈に指一本触れずに水島もレクレーションルームへ引き上げた。
 それでいいはずなのに、世良の安全も約束されたのに。
 杏奈は寂しさを感じてしばらく食堂から動けなかった。
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