6月7日の迷宮(三)

文字数 2,355文字

 ただの壁だったはずのそこから、肌が赤黒く変色した両腕がにゅっと肘まで生えていた。腕は後ろから杏奈の首を絞めた。

「アンナ!」

 世良は太刀を一旦構えたものの下した。まだ扱いの慣れない武器で腕だけを斬り落とす自信が無かったのだ。密着している杏奈も一緒に傷付けてしまいそうだ。

「このっ……」

 世良は素手で親友の首に絡む指を外そうと試みた。凄い力だ。とりあえず頸動脈を押さえていた人差し指と中指を浮かせたが、他の指が首を締め上げ、杏奈の顔が赤くなっていく。

「セラ、どきな!」

 水島が割り込んできて、サバイバルナイフで腕の化け物の左肘付近を下から斬り付けた。スパッと皮膚に入った線から数秒後に血が噴き出した。
 悲鳴は無かったが赤黒い一対の腕はブルブル苦しそうに震えて、そして消滅した。

「……ぅゲホッ! ゴホゴホッ」

 解放された喉に急激な酸素供給が起こり、杏奈は激しくむせた。その背中を世良は優しく(さす)った。

「ゲホッ! あ、ありがとうセラ……」
「いや水島さ……、コハルさんのおかげだよ」
「…………。ありがとうございます、水島さん」

 杏奈にとってこの男に礼を言うのは屈辱だった。水島はそんな彼女の心情を知ってか知らずか、肩を軽く(すく)めて見せた。

「まだ居る! 三人とも壁から離れて!!

 指示を出すと同時に、多岐川のライフルが銃声を轟かせた。世良が見ると壁には新たに二人分、四本の赤黒い腕が生えてウネウネ動いていた。それらは即座に多岐川によって撃ち倒されたのだが、

 ズアッ!

 床からもざっと数えて二十本程度の腕が一斉に伸びた。さながらその光景は鎌首を持ち上げた蛇の大群だ。

「キャアアッ!?

 下から突如湧き出たグロテスクな化け物に、皆は完全に不意を突かれた。
 逞しい男性の腕、華奢な女性の腕、骨が出て筋張(すじば)った老人の腕、プニプニした幼児の小さな腕。様々な腕が皆の脚を掴み、床へ引き倒そうとしてくる。

「みんな転ぶなよ、アンナちゃんみたいに首を絞められるぞ!」

 全員武器を使って魔物へ攻撃を加えた。自分が傷付かないよう慎重に、世良は斬らずに太刀を突き刺して腕だけの化け物を倒した。
 横に居る美里弥の戦う(さま)が視界に入ったのだが、とても器用にナイフを扱っていて世良は感心した。
 苦戦していたのが杏奈と、殺傷能力が低いモップを持った詩音だった。自分に絡んできた魔物をいち早く片づけた水島と多岐川が、続けて彼女達の救助に当たった。

「……これで全部、ですかね」

 壁からも床からも赤黒い腕は発生しなくなった。

「腕だけっつーのも気味悪いモンなんだねぇ」
「アンナ、それっ……」

 杏奈の両ふくらはぎにはいくつかの赤い線が刻まれており、そこから滴る血が(かかと)の下に血だまりを作っていた。魔物は霧散する時に流れた体液も同時に消滅するので、これは杏奈本人の血液なのだろう。化け物の爪で引っ搔かれてしまったか。
 屈んで杏奈の傷跡を診た多岐川が言った。

「けっこう深く(えぐ)られた箇所が有ります。出血もそれなりですね。今日はもう探索を切り上げて帰った方が良いでしょう」

 反発したのは水島だった。

「え、多岐川さん、帰るってまさか全員でですか?」
「ああ。少人数での別行動は危険だ」
「はぁ!? 今日はまだ一部屋も見てないッスよ? 来て三十分くらいじゃないですか、これで終わりにするんですか!?
「我々の仕事は生徒のサポートだ。その生徒が負傷したんだから戻ることが最善だろう」
「えええ~……、マジでぇ? もおぉぉぉ!!

 いたたまれなくなった杏奈が強がった。

「私は大丈夫です! 一人で寮へ帰りますから、皆さんはこのまま探索を続けて下さい」
「あ、そう? 助かるよアンナちゃん。じゃあ僕達はこのまま……」
「馬鹿っ!! アンタは怪我した女のコをたった独りで、危険な迷宮を歩かせるつもりなの!?

 怒りのあまり、世良は目上の水島をタメ口で批判してしまった。彼の態度は酷過ぎた。

「いやだって、アンナちゃんが大丈夫だって言うからさ……」
「アンタが目の前で文句言うからでしょーよ! そんなに探索したいのならしたらいいよ。私はアンナと一緒に寮へ帰るから!」
「セラ、怒らないで」
「私も高月さんの意見に賛成だ。水島、重ねて言うが生徒のサポートが最優先事項だ。皆で帰るぞ」
「…………はい」

 先輩の言に従ったものの、水島は唇を噛んだ。

「五月雨さん悪いけど、私の太刀も持ってもらえるかな?」
「構いませんよ」

 世良は美里弥に武器を預け、杏奈を背負った。足手まといになってしまった杏奈は居たたまれない気持ちでいっぱいだった。

「セラ、世話かけてゴメンね……」
「そんなのいいから、しっかり掴まっててよ。途中で階段有るからね?」
「すみません高月さん。代わって差し上げたいのですが、銃は渡すことができませんので」

 申し訳無さそうな多岐川に世良は笑顔で(こた)えた。

「解っています。警備隊員の皆さんはいつでも戦えるようにしていて下さい」

 こうして探索メンバーは帰路についた。
 美里弥は口にこそ出さなかったが、内心では水島と同じ気持ちだった。

(私とユリヤだけでは手こずると思ったから参加したのに……。これで終わりとは拍子抜けですね。田町アンナ、戦闘能力の低い人間は出しゃばらず、寮で大人しくしていれば良いものを)

 そして詩音は複雑な想いで皆と行動を共にしていた。

(何もできなかった……。アカネに前回カレンを救ったと自慢されたのに、私は碌に戦えなかった。せめて高月さんのように負傷した仲間に手を貸していたら、雫姫の印象が少しは良くなったのかな)

 考えて、詩音は自分への嫌悪感に震えた。

(私、どんどん嫌な人間になってる……。高月さんは素直に田町さんを心配しているのに、私は打算ばっかり)

 重い足取りで、彼女は地上への階段を上がった。
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