僅かに見えた希望と苦悩(二)
文字数 2,395文字
☆☆☆
シャワールームで杏奈は、自分の身体を執拗にこすり洗いしていた。汚された、その想いに支配されて。
茜の部屋で行われた服従の儀式。とても世良に相談できる内容ではない。
(どうして私がこんな目に……)
すぐにシャワーのお湯に流されるが、涙が止まらなかった。
杏奈は家族を愛している。だからこそ茜に従って屈辱を受けた。しかし今は家族に対して恨みが湧き上がってきていた。
負債が大きく膨れる前に父が工場を手放してくれていたら。
母が父を説得してくれていたら。
弟達は杏奈が犠牲になったことを知らずに、この先も楽しい学校生活を送るのだろう。
(どうして私ばっかり……)
長女ということで杏奈は幼い頃から我慢を強いられてきた。
後から生まれた弟達の世話に母は掛かり切りだった。杏奈は二歳で独りで眠ることに慣れ、着替えもできるようになった。周囲からは「しっかりしたお姉ちゃんね」と褒められたが、本音を言うと自分も母に甘えたかった。
そして今度は父の作った借金の尻拭いをさせられている。
(セラみたいに家族が居なければ……)
施設育ちの親友を気の毒に思ったことが有った。長期休暇でも寮に残る彼女を憐れんでいた。
でも世良は自由だ。後ろ盾は無いが、重い荷物も無い。
杏奈は声を殺して泣いた。
ふと、人の気配がした。別の誰かがシャワー室に入ってきたのだ。
杏奈は泣き顔を見られたくなくて、一番端のシャワーボックスを使っていた。だというのに後から来た誰かは空いている他のボックスを素通りして、わざわざ杏奈の隣のボックスに入った。
不思議に思って杏奈は隣を窺った。ボックスには使用者の胸から太腿を隠せるように、防水処置が施された短い板の囲いが有るだけなので、相手の顔は簡単に確認できた。
「! 神谷先輩!?」
隣に入ったのは行方知れずだった神谷奏子だった。奏子は杏奈の呼び掛けに対して笑顔を向けた。
「ご無事だったんですね先輩、良かった! お怪我は有りませんか?」
「ええ。見ての通りよ」
そう言って奏子は、一糸纏 わぬ自分の身体を惜しげもなく杏奈に見せた。
「!…………」
杏奈はつい目を逸らせてしまった。そして意外に思った。神谷奏子はこんなに大胆な女性だったのかと。
実家が武道の道場を開いていて、厳格な両親に育てられたと噂の三年生。大抵の生徒が二年生に進級すると同時に制服のスカート丈を短くするのに、奏子は膝下十センチの長さを保っている。
「あ、私、先に出ますね。セラを待たせているので」
気まずくなって杏奈は自分のボックスを出た。
「ええ。また後でね田町さん」
流し目で微笑んだ奏子に杏奈はゾッとした。目の前に居るのは確かに奏子。それが一瞬だけ、得体の知れない別の何かに思えてしまったのだ。
(私、自分が思ってる以上に疲れてるんだな……)
杏奈はそう理由付けて無理やり納得した。
☆☆☆
二十分後、少女達は寮母の部屋に集まっていた。世良、杏奈、小鳥、詩音、花蓮、そして奏子の六名である。
「ソーコ、いったい今までどうしてたの? シオンから学校で幽霊に遭遇したって聞いたよ?」
口火を切ったのは奏子の相棒の花蓮だった。
「ええ、白い着物を着た女性ね。彼女に廊下を塞がれてしまって、私はみんなとは反対方向に逃げることになったの」
これは噓だった。奏子は枝のような触手に掴まれて、職員室へ引き摺 り込まれたのだから。しかし彼女はそのことを皆に告げなかった。
「やっぱり別方向へ行ったんだね……」
「でも校舎の中、迷路みたいになっていたでしょ? 迷ってしまったの」
「迷路……ですか?」
校舎へ行っていない小鳥が不思議そうに聞き返した。
「地震の後の校舎ね、私達が知っている学校とは違うものになってしまったのよ。どこまでも続く廊下、存在しないはずの部屋がいくつもできて、まるで映画に出て来る迷宮よ」
「そんな……。確かに校舎の壁、光ってたけど中まで変わったなんて……」
「噓みたいな話よね。信じられなくても無理はないわ」
花蓮が肯定した。
「いや、あたしは信じるよ。化け物を見ちゃったからね。高月が倒したソイツの死体、まだレクレーションルームに在るし」
奏子は頷いて続けた。
「そうね、厄介な化け物も居るわね……。私は迷った末に何とか北玄関に辿り着いて、そこからグラウンドへ出たの」
「そちらも鍵が開いていたんですか?」
「ええ。自由に出入りできたわ。……私達だけじゃなく化け物もね。グラウンドに化け物が徘徊していて、私は大きな桜の樹の陰に隠れた。そこで夜明かしをしたの」
「それって、地獄絵図に出て来る餓鬼のような風貌でしたか?」
世良が質問した。
「ええ」
「寮を襲った奴らと一緒だ」
「…………寮の玄関近くに、無残な状態の生徒の死体を見たわ。化け物はここまで来たのね」
「すみません、神谷先輩の居ない間に寮が襲われて、四人が犠牲になったんです。それと、パニックになった生徒達が逃げる為に階段に殺到して、そっちでも押されて犠牲者が出ました……」
「高月さん、あなたが責任を感じる必要は無いわ。寮長である私だって隠れるしかできなかったんだから。長い時間留守にしてごめんなさい」
「ソーコ……」
奏子は微笑んだ。
「でもね、化け物には弱点が有るって判った。陽の光よ。明るくなってきた途端、グラウンドに居た化け物は慌てて校舎に入ったの。遅れて太陽を浴びた化け物が居たけど、奴は一瞬にして塵となったわ」
「塵に!?」
「すっげ、まるで吸血鬼だな」
「でも……、だとしたら明るい今は外へ出られるってことですか!?」
「やった!」
「今の内に学院の外へ逃げましょう!」
世良、杏奈、小鳥の下級生組は声を弾ませたが、花蓮と詩音が待ったを掛けた。
「あ、それは駄目なんだわ、ゴメン」
「え?」
「さっきね、学院警備室と連絡が取れたの。それで……」
詩音は警備室長である立川との会話を皆に話して聞かせた。
シャワールームで杏奈は、自分の身体を執拗にこすり洗いしていた。汚された、その想いに支配されて。
茜の部屋で行われた服従の儀式。とても世良に相談できる内容ではない。
(どうして私がこんな目に……)
すぐにシャワーのお湯に流されるが、涙が止まらなかった。
杏奈は家族を愛している。だからこそ茜に従って屈辱を受けた。しかし今は家族に対して恨みが湧き上がってきていた。
負債が大きく膨れる前に父が工場を手放してくれていたら。
母が父を説得してくれていたら。
弟達は杏奈が犠牲になったことを知らずに、この先も楽しい学校生活を送るのだろう。
(どうして私ばっかり……)
長女ということで杏奈は幼い頃から我慢を強いられてきた。
後から生まれた弟達の世話に母は掛かり切りだった。杏奈は二歳で独りで眠ることに慣れ、着替えもできるようになった。周囲からは「しっかりしたお姉ちゃんね」と褒められたが、本音を言うと自分も母に甘えたかった。
そして今度は父の作った借金の尻拭いをさせられている。
(セラみたいに家族が居なければ……)
施設育ちの親友を気の毒に思ったことが有った。長期休暇でも寮に残る彼女を憐れんでいた。
でも世良は自由だ。後ろ盾は無いが、重い荷物も無い。
杏奈は声を殺して泣いた。
ふと、人の気配がした。別の誰かがシャワー室に入ってきたのだ。
杏奈は泣き顔を見られたくなくて、一番端のシャワーボックスを使っていた。だというのに後から来た誰かは空いている他のボックスを素通りして、わざわざ杏奈の隣のボックスに入った。
不思議に思って杏奈は隣を窺った。ボックスには使用者の胸から太腿を隠せるように、防水処置が施された短い板の囲いが有るだけなので、相手の顔は簡単に確認できた。
「! 神谷先輩!?」
隣に入ったのは行方知れずだった神谷奏子だった。奏子は杏奈の呼び掛けに対して笑顔を向けた。
「ご無事だったんですね先輩、良かった! お怪我は有りませんか?」
「ええ。見ての通りよ」
そう言って奏子は、
「!…………」
杏奈はつい目を逸らせてしまった。そして意外に思った。神谷奏子はこんなに大胆な女性だったのかと。
実家が武道の道場を開いていて、厳格な両親に育てられたと噂の三年生。大抵の生徒が二年生に進級すると同時に制服のスカート丈を短くするのに、奏子は膝下十センチの長さを保っている。
「あ、私、先に出ますね。セラを待たせているので」
気まずくなって杏奈は自分のボックスを出た。
「ええ。また後でね田町さん」
流し目で微笑んだ奏子に杏奈はゾッとした。目の前に居るのは確かに奏子。それが一瞬だけ、得体の知れない別の何かに思えてしまったのだ。
(私、自分が思ってる以上に疲れてるんだな……)
杏奈はそう理由付けて無理やり納得した。
☆☆☆
二十分後、少女達は寮母の部屋に集まっていた。世良、杏奈、小鳥、詩音、花蓮、そして奏子の六名である。
「ソーコ、いったい今までどうしてたの? シオンから学校で幽霊に遭遇したって聞いたよ?」
口火を切ったのは奏子の相棒の花蓮だった。
「ええ、白い着物を着た女性ね。彼女に廊下を塞がれてしまって、私はみんなとは反対方向に逃げることになったの」
これは噓だった。奏子は枝のような触手に掴まれて、職員室へ引き
「やっぱり別方向へ行ったんだね……」
「でも校舎の中、迷路みたいになっていたでしょ? 迷ってしまったの」
「迷路……ですか?」
校舎へ行っていない小鳥が不思議そうに聞き返した。
「地震の後の校舎ね、私達が知っている学校とは違うものになってしまったのよ。どこまでも続く廊下、存在しないはずの部屋がいくつもできて、まるで映画に出て来る迷宮よ」
「そんな……。確かに校舎の壁、光ってたけど中まで変わったなんて……」
「噓みたいな話よね。信じられなくても無理はないわ」
花蓮が肯定した。
「いや、あたしは信じるよ。化け物を見ちゃったからね。高月が倒したソイツの死体、まだレクレーションルームに在るし」
奏子は頷いて続けた。
「そうね、厄介な化け物も居るわね……。私は迷った末に何とか北玄関に辿り着いて、そこからグラウンドへ出たの」
「そちらも鍵が開いていたんですか?」
「ええ。自由に出入りできたわ。……私達だけじゃなく化け物もね。グラウンドに化け物が徘徊していて、私は大きな桜の樹の陰に隠れた。そこで夜明かしをしたの」
「それって、地獄絵図に出て来る餓鬼のような風貌でしたか?」
世良が質問した。
「ええ」
「寮を襲った奴らと一緒だ」
「…………寮の玄関近くに、無残な状態の生徒の死体を見たわ。化け物はここまで来たのね」
「すみません、神谷先輩の居ない間に寮が襲われて、四人が犠牲になったんです。それと、パニックになった生徒達が逃げる為に階段に殺到して、そっちでも押されて犠牲者が出ました……」
「高月さん、あなたが責任を感じる必要は無いわ。寮長である私だって隠れるしかできなかったんだから。長い時間留守にしてごめんなさい」
「ソーコ……」
奏子は微笑んだ。
「でもね、化け物には弱点が有るって判った。陽の光よ。明るくなってきた途端、グラウンドに居た化け物は慌てて校舎に入ったの。遅れて太陽を浴びた化け物が居たけど、奴は一瞬にして塵となったわ」
「塵に!?」
「すっげ、まるで吸血鬼だな」
「でも……、だとしたら明るい今は外へ出られるってことですか!?」
「やった!」
「今の内に学院の外へ逃げましょう!」
世良、杏奈、小鳥の下級生組は声を弾ませたが、花蓮と詩音が待ったを掛けた。
「あ、それは駄目なんだわ、ゴメン」
「え?」
「さっきね、学院警備室と連絡が取れたの。それで……」
詩音は警備室長である立川との会話を皆に話して聞かせた。