世良の自覚

文字数 2,606文字

 日が変わり6月13日。
 12時半。迷宮探索前にトイレへ入っておくのは必須事項だ。
 用を足して股間を拭いたトイレットペーパーを、世良は裏返して確認してみた。白い紙にはだいぶ薄まった桃色の経血が付着したが、ショーツに貼り付けていたナプキンに汚れは無い。今日は生理六日目。今月の煩わしさから解放されるのはもうすぐのようだ。
 世良の場合、月経の出血が激しいのは最初の二日間だけ。その後は急激に勢いが落ちる。水島がシャワー室に乱入してきたのは大事件だったが、それでもそれが四日目でまだ良かったと世良は思った。

 裸だけではなく、太腿(ふともも)を伝う経血を彼に見られていたら落ち込むどころではなかっただろう。
 ショートパンツを染めた血を見られた時だって、平静を装ってはいたが、本当は泣きたいくらいに恥ずかしかったのだ。

(コーチになんて、生理周期を把握されてもまるで平気なのに)

 短距離走者の世良を指導しているのは、33歳の男性コーチだ。
 女性アスリートにとって生理や妊娠は、競技に影響を及ぼすマイナス要素となってしまう。コーチへ身体に関する全ての情報を渡して管理されるが、そういうものだと思っているので特に抵抗は無い。
 ちなみに生理が激しい期間中は満足なパフォーマンスができなくなる為、試合当日と重ならないようにピルを服用して調整している。

(藤宮さんや多岐川さんに生理バレしたのも恥ずかしかったけど、気まずいって感じだったよね。コハルさんの場合は……何て言うか、それこそ顔から火が出るくらいに……)

 思い出して世良はトイレの個室で身悶えそうになった。
 『僕のことを好きになり始めてるだろ?』
 そう言われた時ドキリとした。毅然とした態度で否定できなかった。一緒に走れた時は、ただただ気持ち良かったのに。

(私……コハルさんを意識してるんだ……)

 えっちで戦闘狂。いい加減な言動ばかりで、セラが憧れるウルトラマンの真面目さなど持ち合わせていない男。
 でもつらい時には誰よりも早く気づいてくれる。抱き寄せられると安心する。
 自分は水島に()かれているのか? それはまだ判らない。だが気になる存在であることは認めた。


「よ、セラ」

 12時40分。レクレーションルームの扉を開けた世良を、愛嬌たっぷりの笑顔で水島が迎えた。三人の警備隊員達と、五月雨姉妹が既に室内に居た。
 当たり前のように傍へ寄ってきた水島を前に、世良の心拍数が上がった。

「セラ一人か? ピヨピヨは?」
「あー……、酷い筋肉痛みたいで、今日の探索はパスしたいそうです。夜中にこむら返りも起こしていましたから」

 私は普通に話せているよね? 世良は高鳴る心音が外に漏れていないことを願った。

「ハハッ、やっぱりかピヨピヨ。普段運動してない奴が全力で走るとそうなるわな」

(ヤバイ。コハルさんの笑顔が眩しい。…………重症だ)

「ん? どした、セラ」
「あ、いえ」

(気取られては駄目だ。彼を調子に乗らせる。からかわれる)

「……コトリちゃんが居なくて、ちょっと寂しいなって」
「何だ、そんなこと」

 更に水島は接近してきた。

「セラには僕が居るじゃん」

 耳元で甘く囁かれて、セラは顔面が一気に熱くなった。

「え、セラ?」

 ドクンドクン。火照りを気づかれないように世良は顔を横へ向けた。隠し切れてはいなかったが。

「………………」
「………………」

 赤面したセラを見た水島は真顔となった。ヤバイ、彼がこの顔をした時はヤバイ。横目で水島を窺った世良は、一旦ここから離れることが吉だと判断した。
 幸い水島の大きな身体に隠れて、他の皆には照れた表情は見られていないようだ。世良は無理やり明るい声を出して場を取り(つくろ)った。

「私、喉が渇いたので水飲んできます!」

 苦しい言い訳だな。そう自嘲しながらそそくさと退室して、世良は向かいの食堂へ逃げ込んだ。しかし水島も付いてきたので隔離は成立しなかった。

「な、何でコハルさんまで来るんですか!?
「僕も水飲みたいから」

 しれっと答えられて脱力した。

「そうですか……」

 世良は言い訳を現実にしようと、プラスチックのコップ置き場へ指を伸ばした。その指が水島の大きな手で包まれた。

「!」

 驚いて反射的に手を払い除けた世良。振り返った彼女は至近距離に居た水島によって、優しく食堂の壁へ押し付けられた。また壁ドンだ。

「あ、あの、これじゃ水が飲めないので、……どいて下さい」
「………………」

 高身長で筋肉質な自分。男みたいだと何度言われたことか。
 だというのに今の世良は、自分が小柄でか弱い少女になった気分だった。
 水島が世良より立派な体躯の持ち主だからか。いや、世良は怯えていたのだ。始めて味わう感情に。

 その気になれば前のように水島の腕の中から逃げられるだろう。それに少し大きな声を出せば、レクレーションルームの皆に助けを求められる。
 しかし世良は伏し目となって、自分の足元へ視線を落としただけだった。

「セラ……」

 明らかにいつもと違う世良の反応に水島も戸惑っていた。

「顔を上げて。僕を見て」

 頬を紅潮させて唇を結ぶ世良。彼女の心の内側を知りたい。水島の心拍数も上がっていた。

「僕のことを、好き?」
「………………」

 世良は答えられなかった。照れでも意地を張っている訳でもない。彼女自身にも解らないのだ。

「お願い、教えて。僕はセラが大好きだよ」

 (すが)る子供のように水島は懇願した。いつもの余裕の有る彼ではなかった。壁に付けた腕で今すぐ世良を抱きしめたい。熱を持った瞳は世良を捉えて放さなかった。

「焦らさないでくれ。苦しいんだ」

 少し掠れた水島の声に罪悪感を感じた世良は、顔を上げてゆっくりと本音を吐露した。

「解らないんです……」
「どうして? 自分の気持ちだろ?」
「だって、あなたは私が好きになるタイプじゃない。チャラチャラして、皮肉屋で、暴力的で」
「…………僕が嫌い?」

 世良は一度奥歯を噛みしめた。

「だから、解らないんです。どうして、そんなあなたを私は嫌いになれないのか」
「!………………」

 水島は言葉を発しなかった。その代わりに、自身の顔を世良の顔へ近付けた。
 二人の唇が僅かに触れ合った所で水島は止まった。

「嫌なら、殴っていいよ」

 彼の熱い吐息が世良の鼻先をくすぐった。頭の芯がぼうっとした。

 唇が重なり合い、逃げなかった世良に水島の唇が強く押し付けられた。世良は(まぶた)を閉じて彼を受け入れた。
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