†弓の三死・中貫久①† 七回戦
文字数 2,810文字
呂晶達が行商に参加する、ひと月前────ここは長安の北に広がる森林地帯。
(まだ……
まだ撃たない
気か!?)二十歳の女盗賊・呂晶は、自分に狙いを定める
最高速では無く、最大戦速────その〝ジグザグ走法〟を行いながら、弓手の動きや表情から〝あるタイミング〟を測っている。
(このアタシに、近間で勝てるとでも思ってんのか……!?)
接近しなければ相手は倒せない。けれど
弓を撓らせ、力学的エネルギーを内包し、今にも発射されようとしている先端────それを向けられているだけで不安と焦燥は掻き立てられていく。〝先端恐怖症〟という本能である。
(判ってるハズだ……もうこの距離は……!)
矢を避けることは難しい。けれど〝距離〟さえあれば難しいことは無い────ドッジボールだってコートの最奥にいれば捕球は容易いし、それも難しいなら体育館の最奥まで下がれば良い。
ただし呂晶の位置はもう、見てから回避出来る距離を
越えている
。あとは相手の予備動作から〝タイミング〟を計るしかない。そのタイミングは〝殺気〟などと呼ばれることも多いが詰まるところ〝勘〟である。相手の表情筋の小さな変化、小さな予備動作、小さな予備動作に入るための予備動作を見て『来る』と察知したら迷わず回避する。
放ってもいないのにビビッて避けようとすれば、それこそ格好の
遠方の相手とシンクロするように。〝
(もう
デッドゾーン
を越える…… このままイッちまうぞ!)その呂晶の十五メートル先────美しい佇まいで絃を引く弓手、
小刻みに足のスタンスを変え、細い腰を柔らかに捻り、ワルツでも踊っているように見えるが、上半身だけは全くブレず、呂晶の正中線に狙いを定め続けている。
「……」
矢を避けることは難しい。けれど、もっと難しいのは
当てること
。相手は的のようにジッとしていない。動く的にまっすぐ撃っても当たらない。〝偏差射撃〟を行う必要がある────と言っても、この距離ではそれも必要無いだろう。そんなことを考えていると、呂晶の動きが緩やかになり、突然、斜めに、大きく、低姿勢で、急激に加速する。
「────……ッ!」
今撃っていたら、確実に外れていた。
呂晶の動きが緩やかになったのは、遊珊の足元に視線を落とし〝ある確認〟を行ったからだ。
(あと〝二歩〟でデッドゾーンを越える……先生の戦速をアタシの戦速が上回るよっ!)
接近する気功家は恐怖である。大きな刃物を振り回し、超能力まで操る、警察でも逮捕できない通り魔────そんな化物に接近されれば大人と子供、蟻と象ほどの戦力差。紙で指を切ったあの耐えがたい痛みが広範囲に駆け巡ると同時、見慣れた身体は分解され、見慣れない自身の内部を拝むことになる。
接近して来るだけで不安と焦燥を掻き立てる。〝接近恐怖症〟という本能だ。
「……」
そんな状況の中、遊珊は『アフリカでは十秒に一回そうやって子供が死んでいるのでしょうけれど今、集中しているから話し掛けないで』とでも言うように、澄ました顔で目線を下げ、またそれを上げる。
(あと、
一歩
ね……)呂晶は己が〝デッドゾーン〟と呼ぶ範囲、
(二……一……————)
それを越える
一歩前
で跳躍する。(ここで先生は撃ってくるぅううううッ!!)
横移動に慣れた視界から消える、体内気孔を駆使した大ジャンプ。
おおよそ人間が不可能な跳躍に、遊珊の細い首が反り上がる。
「……っ!」
弓手は接敵される
前
に敵を射抜かなければならない————かと言って、遠くで放っても回避される。接近恐怖症が募る中、今にも放ちたい気持ちを堪え、相手が回避できない距離まで〝引き付ける〟相手を引き付けるほど矢は当たる。弓矢とは〝遠近両用武器〟なのだから。
(あれ……っ!?)
しかし、引き付け過ぎれば不気味の谷に落ちたように、途端に〝命中率〟が低下する。弓を旋回させ、正中線に定めて放つ————この〝弓の戦速〟が、相手の移動や斬撃の速度に負けるからだ。
遠過ぎず、近過ぎない、必殺の間合い────〝デッドゾーン〟へ引き付けて放つのが〝弓術〟の基本である。
勿論、それは相手も重々承知している。だからデッドゾーンでは方向を変えて的を散らし、憎たらしくもフェイントを掛け、引きの甘い矢は無慈悲に弾かれ、渾身の矢を物ともしない理不尽な装備や体格の者さえいる。そしてどのような場合であろうと、こちらは外せば『死』が待っている。
(先生、なんで撃ってねーんだよッ!?)
デッドゾーンに引き付けた後にも〝最終行程〟が残っている────それは相手の動きの〝先読み〟
こちらが『撃とう』と思う瞬間、それは相手にとっても『撃たれる』と思う瞬間。こちらが放つ殺気でも察知しているのか、放つと同時にシンクロしたように動かれる事もザラだ。
(まあ、とっても高いわ。そんなに高く跳ね上がったりして————
素敵じゃないわね
)呂晶は遊珊のデッドゾーン、それを抜ける〝一歩手前〟で跳躍した。もう一歩進めば遊珊には『死』が待っている。ならば遊珊は一歩手前で撃つのが道理。
それでも遊珊は撃たなかった。華奢な身体に似合わぬ度胸で、呂晶との我慢比べを制した。
「ふっ……!」
遊珊は素早く息を吐き、
絃が内包していた力学的エネルギーが解放され、矢が上方へ飛翔する────空中では回避は不可能。
(クソッタレ!)
同時、呂晶も矛を爆裂加速させ、遠心力を高めて旋回させる。
いわゆる〝廻し受け〟────受けられるかどうかは運次第だが、確率としては〝受けられない場合〟の方が多い。
(弾いて……っ!)
額に向かっていた矢が〝チンッ〟という金属音を立て、もみあげを貫いていった。
(惜しかったな先生……勝ちにしてやりたいくらいだぜッ!)
呂晶が着地すると、遊珊はもうそこにはいない。完璧なタイミングで放ちながら、放つと同時にバックステップしている。
弓で言うところの〝残心〟────つまり呂晶は未だ、デッドゾーン内にいる。
(ダメ、間に合わないわ……!)
後退しながら遊珊は腰裏の籠から矢を引き抜き、絃につがえ、引きながら放つ────威力も精度も無視した速射。
呂晶も爆発したように踏み込み、遊珊に襲い掛かる。
「つぇええええーーーいッ!!」