第30話
文字数 8,562文字
…五井東家の消滅…
いや、
消滅ではない…
五井東家は、東家出身の、昭子の妹、和子の孫、菊池リンが、継ぐことになった…
これは、やはり、規定路線だったのだろうか?
それとも、重方(しげかた)、冬馬父子を、五井東家から、追放するために、急遽、昭子が、考えた結論だったのだろうか?
考えた…
普通に、考えれば、ずっと前から、考えていたに決まっている…
現に、あの菊池重方(しげかた)自身の口から、
「…姉は、ずっと以前から、私を評価していなかった…」
と、私に会ったときに、重方(しげかた)が、私に告げた…
と、同時に、
「…子供の頃は、可愛がってもらった…」
とも、言っていた…
この発言は、一見、矛盾するように、思える…
そんなに、可愛がっていたなら、なぜ、評価しないのか? と、考えがちだ…
しかし、冷静に、考えれば、可愛がるのと、評価は、違う…
いくら、可愛がっていても、それと、評価は、別のものだからだ…
たとえば、わかりやすい例で、言えば、自分の娘でも、親の欲目でも、美人か、否かは、わかるものだ…
もちろん、親の欲目が入るから、評価は、甘くなりがちだ…
しかしながら、それでも、自分の娘は、美人で有名な佐々木希に匹敵する美人だと、豪語する親は、いない…
そういうことだ(笑)…
そして、もし、自分の娘が、佐々木希に匹敵する美人と、本気で言っている親がいたとすれば、頭がおかしいか?
あるいは、実際に、佐々木希に匹敵するか、少し劣ったレベルの美人に違いない…
この場合は、仮に佐々木希に、少し劣ったレベルの美人でも、親の欲目で、佐々木希に匹敵するレベルと、勘違いする…
そういうことだ(笑)…
私は、考える…
つまりは、昭子の場合もこれと、同じ…
10歳離れた、弟の重方(しげかた)を、可愛がる半面、冷静に、重方(しげかた)の能力を、はかっていたに違いない…
菊池重方(しげかた)は、藤原ナオキにも、言ったが、決して、無能な人間ではなかった…
一度、会ったきりだが、それは、確信が持てた…
だが、だからといって、有能か、どうかは、わからない…
わかりやすい例えで、言えば、東大を出ていれば、すべての人間が、会社でも、役所でも、出世できるわけでは、ないからだ…
出世=評価されるか否かは、上司に恵まれるか?
同僚に恵まれるか?
仕事は、自分に合っているか?
など、こう言っては、身もふたもないが、本人の能力とは、別の外的要因も多い…
いくら、東大を出ていても、スーパーマンではない…
なんでもできるわけではない…
たとえば、宅急便の配達や、郵便の配達を例に取れば、わかりやすいが、東大を出ていれば、偏差値40の工業高校出身の人間に、必ず勝てるわけではない…
これは、誰でも、わかるだろう…
配達時間で、差が出るので、能力の差が、すぐにわかる…
非常に、わかりやすい例だ…
そして、そのように、能力がわかりやすい仕事は、世の中に、稀だ(笑)…
話を重方(しげかた)に、戻そう…
菊池重方(しげかた)は、国会議員で、自民党の大場派の幹部だった…
これも、また菊池重方(しげかた)の評価に違いない…
無能な人間ならば、派閥の幹部になれるわけはない…
ということは、普通に考えれば、重方(しげかた)が、無能のはずがない…
五井家出身ゆえに、五井家の財力を背景に、派閥の幹部になれた可能性は、否定できない…
だが、普通は、それは、下駄をはかせる程度…
お金持ちゆえに、派閥での昇進は早いかもしれないが、ただ、金を出すだけでは、幹部にはなれないだろう…
まったくの無能では、幹部になれないだろう…
そういうことだ…
だが、有能か、どうかは、また話が違ってくる…
国会議員としての、能力は、また別のものだからだ…
これは、国会の関係者に聞かなければ、本当の評価は、わからない…
が、
重方(しげかた)の能力は、ひとまず、置くとしても、重方(しげかた)、冬馬の父子が、五井家を去った事実は、変わらなかった…
五井家を去る…
これが、重方(しげかた)の、国会議員としての地位に、どう影響を及ぼすか?
普通に考えれば、今季限り…
次回の選挙に出馬することは、叶わないだろう…
菊池重方(しげかた)は、五井家あっての、菊池重方(しげかた)だ…
五井家という、大げさにいえば、江戸時代の徳川家のような三つ葉葵の御文を背景にしていたから、国会議員になれた…
その五井家から、追放されたら、なにも残らないに違いない…
五井という、いわば、お金と、ブランドの両方を手放したのだ…
これでは、残るものは、なにもないに違いない…
重方(しげかた)は、無能ではないに違いないが、失礼ながら、重方(しげかた)と、同程度の能力の持ち主は、国会で、ごまんといるに違いなかった…
さらには、冬馬…
息子の菊池冬馬に至っては、なにもなかった…
冬馬は、わがままで、五井家内で、居場所がなく、それゆえ、五井でも、持て余していた…
五井の関連会社を、あちこち、たらいまわしにされた挙句、五井記念病院の理事長の座に就いた…
しかしながら、理事長の座は、名ばかり…
実権もなにもない、実質は、お飾り…
それが、嫌だったに違いないことは、誰にもわかるが、さりとて、その理事長以外には、居場所がなかったに違いなかった…
つまりは、重方(しげかた)、冬馬は、父子共々、追い詰められたと、いっても、良かった…
現に、私の病室を訪れた、諏訪野マミですら、
「…冬馬もバカなことをしたものね…」
と、呆れていた…
「…バカなことって、なんですか?…」
私は、病室で、ベッドの上に上体を起こして、言った…
「…寿さんに、ケンカを売ったこと…」
「…私にケンカを売ったことですか?…」
「…あの件が、すぐに、週刊誌の格好の話題になり、昭子さんは、決断した…」
「…決断した?…」
「…昭子さんは、ずっと、我慢してたの…」
「…なにに、我慢してたのですか?…」
「…重方(しげかた)さんと、冬馬父子の扱いによ…」
「…」
「…重方(しげかた)さんは、バカじゃないわ…」
…バカじゃない?…
…やはり、諏訪野マミも、そう思うのか?…
私は、内心、考えた…
「…ただ、やり過ぎるのよ…」
「…どういう意味ですか?…」
「…議員になったのもそう…昭子さんは、重方(しげかた)さんに、政治に関わるな、と、何度も念を押したそうよ…」
「…どうしてですか?…」
「…やはり、五井の金でしょ…」
「…」
「…金に困った議員が、重方(しげかた)さんに、群がって、財布扱いされては、困ると思ったに違いない…」
「…」
「…それに、重方(しげかた)さんは、人がいいというか…安易に、人に流されるところがある…つまり、人間的な弱さね…それを利用されると、昭子さんは、思ったと思う…」
「…」
「…そして、そんな重方(しげかた)さんが、冬馬の半面教師になったと思う…」
「…冬馬さんの半面教師?…」
どういう意味だろう?
私は、思った…
「…要するに、冬馬は、重方(しげかた)さんが、嫌いなのね…」
「…嫌い? …自分のお父様を…ですか?…」
「…結局、重方(しげかた)さんの人に、利用される姿が嫌いだったんだと思う…」
「…」
「…だから、冬馬は、基本、人と群れない…つるまない…いつも、独りぼっち…」
「…」
「…人とつるんで、誰かに利用されるのを、誰よりも、嫌がった…きっと、重方(しげかた)さんが、人に利用されるのを見ているからだと思う…」
「…」
「…つまり、二人は、コインの裏と表…きっと、内面は、似ているところがあるんじゃいかな…」
「…似ているところ? …どんなとこが、似ているんですか?…」
「…冬馬から、すれば、たぶん、自分の中に、父の重方(しげかた)さんと、同じく、他人に、利用される弱さみたいのものが、あるんだと思う…」
「…」
「…きっと、内心、それを恐れてるんじゃないかな…私は、以前、寿さんに、言ったように、わりと、冬馬と、親しかったから、なんとなく、そう思う…」
「…」
「…ほら、ひとって、自分と似ているひとが、嫌いでしょ?…」
「…どういう意味ですか?…」
「…おしゃべりは、おしゃべりを嫌いってこと…」
「…それは、一体?…」
「…おしゃべりな人間は、ホントは、自分が、おしゃべりなことを、内心嫌ってることが多い…だから、おしゃべりな人間を見ると、自分の嫌な部分を、見せつけられたような気持ちになる…」
「…」
「…これは、ウソつきも同じ…よくウソをつく人間は、他人がついた小さなウソを見つけると、アイツは、ウソつきだから、大嫌いだという…自分が、ウソつきで、有名なのにね(笑)…」
「…」
「…それはきっと、おしゃべりと、同じで、潜在的に、自分が、ウソつきであることを、内心嫌悪しているんじゃないかな…だから、自分と、同じ、ウソつきを嫌う…」
「…」
「…だから、冬馬が、父親の重方(しげかた)さんを、嫌いなのは、自分の中にある、弱さみたいなものを、重方(しげかた)さんに、見ているんだと思う…」
意外な言葉だった…
これまで、冬馬をそんなふうに、見たことがなかった…
だが、そういえば、わかる…
諏訪野マミが、そんなふうに、説明すれば、どうして、冬馬が、重方(しげかた)さんを、嫌いなのか、わかる…
まして、父子だ…
自分の中にある、弱い部分を、父親の中に見るのは、ひどくありがちなことだ…
が、
だとすれば、どうだ?
冬馬の中に、重方(しげかた)さんのような、ひとに利用される弱さがあるとすれば、どうだ?
真逆に見れば、重方(しげかた)氏の中にも、冬馬と同じく、傲岸不遜というか…
金持ちの家に生まれたがゆえに、驕り高ぶった気持ちがあったということか?
私は、思った…
私が、そんなことを、考えてると、
「…つまりは、あの父子は、似た者父子なのね…」
諏訪野マミが、断言した…
「…あの二人は、一見、似ていない…冬馬の目は、険があるし、真逆に、重方(しげかた)さんの目は優しい…」
「…」
「…でも、よく見ると、目以外は、そっくり…顔立ちも背格好も同じ…」
「…」
「…でも、目つきが違うから、全然、別人に見える…歌舞伎の十二代目市川團十郎、海老蔵父子と同じ…目以外は、すべて、似ている…」
ということは、どうだ?
性格もまた似ているということか?
もし、重方(しげかた)が、冬馬と似た性格だとしたら、人一倍プライドが高いに違いない…
そんなプライドの高い重方(しげかた)が、息子の冬馬共々、五井家を追放されたら、どうなるか?
火を見るより明らかだ…
なんらかの形で、五井家、いや、昭子に復讐しようとするに違いない…
そして、当たり前だが、昭子は、重方(しげかた)の動きをあらかじめ、見抜いているに違いない…
対策を講じているに違いない…
私は、思った…
そして、その日から、遠からず、私の、退院に向けるスケジュールが、見えてきた…
私は、冬馬とケンカしたことで、この病院の中で、有名人?と、なったが、いつまでも、この病院にとどまることは、なくなった…
それは、あの長谷川センセイが、私に、告げた…
「…寿さん…おめでとうございます…遠からず、退院ですよ…」
「…ホントですか?…」
思わず、声を上げた…
まさか、退院の日が、そんなに間近にやって来るとは、思いもしなかった…
「…ホントです…ウソは言いませんよ…」
長谷川センセイが、にこやかに、言った…
「…と言っても、まだ一か月は、先です…」
「…一か月先?…」
私は、長谷川センセイの言葉に、落胆した…
「…その頃には、ことによると、松葉杖も、いらなくなるかもしれない…」
「…ホントですか?…」
「…ウソは言わないです…ただ、あくまで、ことによると、です…ただ、松葉杖をついても、今よりも、楽に歩けるでしょう…」
私は、長谷川センセイの言葉に、どう答えていいか、わからなかった…
正直、戸惑ったというか…
せっかく、退院できると聞いても、その退院の時期は、一か月後…
松葉杖をつかなくても、歩けるかもしれないと言われた後に、でも、それは無理かもしれないというようなことを、言われては、素直に喜べなかった…
なんだか、中途半端…
すべて、中途半端だ…
だから、嬉しいような、悲しいような、気持ちだった…
退院は、嬉しいが、一か月後では、遠いし、松葉杖を使わないで、歩けるようになるのは、夢だったが、それも、当面は、夢で、終わりそうだ…
なんだか、怒っていいのか、笑っていいのか、わからない気持だった…
そんな私の表情に、気付いたのだろう…
長谷川センセイが、
「…なんだか、寿さんを、ガッカリさせたようで、申し訳ありません…」
と、私に謝った…
「…いえ…」
私は、形式的に、否定した…
「…とんでも、ありません…退院できるのは、嬉しいです…」
私は、言ったが、やはり、説得力に欠けたというか…
私が、落胆している気持ちは見え見えだった…
「…寿さんって、案外、気が弱いんですね…」
傍らの看護師の佐藤ナナが、口を挟んだ…
「…意外ですね…」
と、私をからかうように言う…
私は、そんな佐藤ナナを見ても、怒る気にもなれなかった…
そんな気力がわかなかった…
これは、ちょうど、ナチスの拷問に似ている…
ふと、思い出した…
昔、読んだ本に、書いてあった…
手錠で、手足を縛られて、椅子に座らされた、囚人を、ナチスの憲兵が、棒で、殴る…
いわゆる、拷問だ…
そのときに、殴られた囚人は、殴られてる最中は、グッと、こらえている…
我慢している…
そして、いつしか、拷問が、終わる…
「…よし、これで、終わりだ…」
と、殴る憲兵が、告げる…
すると、それまで、殴られていた、囚人が、ホッと気を抜く…
その気を抜いたところへ、憲兵が、思いっきり、棒で殴る…
すると、それまでで、一番の痛みが、囚人に走る…
ホッと、気を抜いたところへ、棒で、殴られるので、堪ったものではないからだ…
それと、似ている…
私の場合も、それと同じ…
せっかく、退院できると、ぬか喜びさせて、現実は、退院は、一か月後…
松葉杖を使わずとも、歩けるようになると、言った後に、でも、できないかもしれない…
…そこまで回復しないかもしれない…
そんなことを言われては、私は、落胆するし、ある意味、嫌がらせのようだとも、いえなくはない…
誰だって、そうだろう…
長谷川センセイを憎む気持ちはないが、ちょっぴり、恨めしく思った…
そんなことを、考えてると、
「…でも、長谷川センセイ…残念ですね…」
と、またも、佐藤ナナが、口を挟んだ…
「…大好きな寿さんが、退院しちゃいますから…」
佐藤ナナの言葉に、長谷川センセイが、
「…ボクは、冬馬に頼まれて…寿さんを…」
と、言って、顔を真っ赤にした…
私は、長谷川センセイの態度を見て、当惑したというか…
あらためて、この長谷川センセイが、私を好きなのを、確信した…
が、私と長谷川センセイが、どうこうなるはずがない…
私は、今、諏訪野伸明と結婚するかもしれない…
そういう立場だ…
それはまた、長谷川センセイも、わかっている…
にもかかわらず、やはり、好きだと態度で、示されると、嬉しいものだ…
が、
一方で、どうしていいか、わからない…
私を好きだと言ってくれるのは、嬉しいが、どうこうできる話ではないからだ…
だから、とっさに、
「…冬馬理事長は…」
と、話題を変えた…
思えば、私と、長谷川センセイの共通の話題と言えば、冬馬…
菊池冬馬だけだった…
だから、あえて、冬馬の話題を出した…
「…冬馬がどうかしましたか?…」
「…いえ、冬馬さんは、理事長を辞めてから、どうしているのかと思って…」
「…それは、ボクにもわかりません…」
長谷川センセイが、ムッとした表情になった…
途端に、機嫌が悪くなった…
「…むしろ、寿さんの方が、わかるんじゃないですか?…」
「…私の方が?…」
「…寿さんは、五井家の諏訪野伸明さんと、親交がある…だから…」
たしかに、そうかもしれないが、五井家を追い出された菊池冬馬が、その後、どうなっているか?
むしろ、五井家の人間よりも、冬馬の学生時代の友人の方が、知っているのではないか?
そんな、淡い期待があった…
だから、
「…私は知りません…」
と、即答した…
「…冬馬さんが、この病院の理事長をお辞めになってから、諏訪野伸明さんは、まだ、この病室に、見舞いに来たことは、ありません…」
これは、ウソではない…
諏訪野マミは、やって来たが、諏訪野伸明は、やって来ていない…
だから、あの後、冬馬が、どうなったのか、諏訪野伸明の口からは聞いていない…
ただ、諏訪野マミの口から、思いがけず、重方(しげかた)と、冬馬の父子は、実は、似ていると言われたのが、意外だったというか…
「…冬馬は、前にも、言いましたが、嫌われ者です…だから、学生時代の知り合いで、今も冬馬と交流している人間はいない…」
「…」
「…ただ、噂は、聞いています…」
「…噂…それは、どういう…」
「…変な話…冬馬は、嫌われ者ですが、注目度が高いんです…」
「…注目度?…」
「…五井家のお坊ちゃまでしょ? だから、どうしても、目立つ…」
「…目立つ?…」
「…だから、気になる…噂では、菊池リンという同じ一族の人間と接触しようとしていると、聞いてます…」
「…菊池リン?…」
まさか、その名前が、ここで出るとは、思わなかった…
いや、
思わないではない…
菊池リンは、五井東家を継いだ人間…
五井東家を追い出された、菊池冬馬が、接近しても、おかしくはない…
ただ、その事実を、この長谷川センセイから、聞くとは、思わなかった…
「…どうして、センセイが、その名前を?…」
「…週刊誌で、見たんですよ…」
長谷川センセイが笑った…
それから、
「…と言いたいが、ボクの周囲にも、五井家以外にも、金持ちがいて、その友人が、こう言っては、身も蓋もないが、金持ち繋がりで、情報を得たらしいです…」
私は、長谷川センセイの言葉に、納得した…
金持ちには、金持ちのネットワークがあるに違いないからだ…
だから、そういうネットワークを通じて、情報を得ることができるのかもしれない…
私は、思った…
しかし、菊池冬馬と、菊池リン…
あの二人が、接近するとは、思わなかった…
いや、
そうではない…
以前にも、その気配はあった…
劣勢に立たされていた冬馬が、菊池リンと、結婚するかもしれない、と、噂があった…
諏訪野伸明の母、昭子の一卵性姉妹である、妹の和子の孫、菊池リン…
彼女と、菊池冬馬が、結婚すれば、ひょっとしたら、五井本家に対抗できるからだ…
五井家の女帝、昭子の妹の、和子を、自分の味方に引き入れることができるからだ…
だから、以前も、その可能性に言及した…
が、
それはなかった…
いや、
最初から、その可能性に気付いていた和子は、重方(しげかた)、冬馬、父子の動きに、警戒していたに違いない…
孫の菊池リンが、キーパーソンになる…
そう、睨んでいたからだ…
そう、気付いていたからだ…
だから、菊池リンと、冬馬の結婚を、和子は、一笑に付したと、諏訪野マミが、言っていた…
菊池リンが、冬馬と結婚することを、なにより、恐れていたからだ…
そして、もし、冬馬が、菊池リンと、結婚あるいは、婚約でもしていれば、冬馬は、五井家から、追放されることも、なかっただろう…
それが、今、追放された身の上で、冬馬が、菊池リンに、接近しようとしているとは?
冬馬は、一体、なにを考えているのだろうか?
あるいは、これは、冬馬の父、重方(しげかた)の指示なのだろうか?
それとも、ガセ?
そもそも、その話自体が、ウソ臭い?
そんな予感もした…
だが、同時に、やはりというか、不安は捨てきれなかった…
重方(しげかた)、冬馬、父子が、なんらかの動きを見せることは、不可避だったからだ…
プライドの高い、重方(しげかた)、冬馬、父子が、五井家を追放された…
このままでは、終われない…
当たり前だが、そんな復讐の炎にメラメラ燃えても、驚くことではなかった…
ただ、その復讐の方法が、どうなのか?
問題は、そこだった…
あの女帝の昭子が、肝を抜かすといえば、大げさだが、そんな方法を思いつくか、実行すれば、驚くが、その可能性は、低いと、言わざるを得なかった…
なにしろ、そんなことができるのならば、五井家から、追放されないように、あらかじめ、手を回していたはずだった…
それができないから、追放された…
そんなことも、できない、重方(しげかた)、冬馬、父子に、逆転の秘策など、ないに違いないと、思っていた…
にも、かかわらず、不安は消えなかった…
逆転は、不可能と思いながらも、不安は消えなかった…
いや、
消滅ではない…
五井東家は、東家出身の、昭子の妹、和子の孫、菊池リンが、継ぐことになった…
これは、やはり、規定路線だったのだろうか?
それとも、重方(しげかた)、冬馬父子を、五井東家から、追放するために、急遽、昭子が、考えた結論だったのだろうか?
考えた…
普通に、考えれば、ずっと前から、考えていたに決まっている…
現に、あの菊池重方(しげかた)自身の口から、
「…姉は、ずっと以前から、私を評価していなかった…」
と、私に会ったときに、重方(しげかた)が、私に告げた…
と、同時に、
「…子供の頃は、可愛がってもらった…」
とも、言っていた…
この発言は、一見、矛盾するように、思える…
そんなに、可愛がっていたなら、なぜ、評価しないのか? と、考えがちだ…
しかし、冷静に、考えれば、可愛がるのと、評価は、違う…
いくら、可愛がっていても、それと、評価は、別のものだからだ…
たとえば、わかりやすい例で、言えば、自分の娘でも、親の欲目でも、美人か、否かは、わかるものだ…
もちろん、親の欲目が入るから、評価は、甘くなりがちだ…
しかしながら、それでも、自分の娘は、美人で有名な佐々木希に匹敵する美人だと、豪語する親は、いない…
そういうことだ(笑)…
そして、もし、自分の娘が、佐々木希に匹敵する美人と、本気で言っている親がいたとすれば、頭がおかしいか?
あるいは、実際に、佐々木希に匹敵するか、少し劣ったレベルの美人に違いない…
この場合は、仮に佐々木希に、少し劣ったレベルの美人でも、親の欲目で、佐々木希に匹敵するレベルと、勘違いする…
そういうことだ(笑)…
私は、考える…
つまりは、昭子の場合もこれと、同じ…
10歳離れた、弟の重方(しげかた)を、可愛がる半面、冷静に、重方(しげかた)の能力を、はかっていたに違いない…
菊池重方(しげかた)は、藤原ナオキにも、言ったが、決して、無能な人間ではなかった…
一度、会ったきりだが、それは、確信が持てた…
だが、だからといって、有能か、どうかは、わからない…
わかりやすい例えで、言えば、東大を出ていれば、すべての人間が、会社でも、役所でも、出世できるわけでは、ないからだ…
出世=評価されるか否かは、上司に恵まれるか?
同僚に恵まれるか?
仕事は、自分に合っているか?
など、こう言っては、身もふたもないが、本人の能力とは、別の外的要因も多い…
いくら、東大を出ていても、スーパーマンではない…
なんでもできるわけではない…
たとえば、宅急便の配達や、郵便の配達を例に取れば、わかりやすいが、東大を出ていれば、偏差値40の工業高校出身の人間に、必ず勝てるわけではない…
これは、誰でも、わかるだろう…
配達時間で、差が出るので、能力の差が、すぐにわかる…
非常に、わかりやすい例だ…
そして、そのように、能力がわかりやすい仕事は、世の中に、稀だ(笑)…
話を重方(しげかた)に、戻そう…
菊池重方(しげかた)は、国会議員で、自民党の大場派の幹部だった…
これも、また菊池重方(しげかた)の評価に違いない…
無能な人間ならば、派閥の幹部になれるわけはない…
ということは、普通に考えれば、重方(しげかた)が、無能のはずがない…
五井家出身ゆえに、五井家の財力を背景に、派閥の幹部になれた可能性は、否定できない…
だが、普通は、それは、下駄をはかせる程度…
お金持ちゆえに、派閥での昇進は早いかもしれないが、ただ、金を出すだけでは、幹部にはなれないだろう…
まったくの無能では、幹部になれないだろう…
そういうことだ…
だが、有能か、どうかは、また話が違ってくる…
国会議員としての、能力は、また別のものだからだ…
これは、国会の関係者に聞かなければ、本当の評価は、わからない…
が、
重方(しげかた)の能力は、ひとまず、置くとしても、重方(しげかた)、冬馬の父子が、五井家を去った事実は、変わらなかった…
五井家を去る…
これが、重方(しげかた)の、国会議員としての地位に、どう影響を及ぼすか?
普通に考えれば、今季限り…
次回の選挙に出馬することは、叶わないだろう…
菊池重方(しげかた)は、五井家あっての、菊池重方(しげかた)だ…
五井家という、大げさにいえば、江戸時代の徳川家のような三つ葉葵の御文を背景にしていたから、国会議員になれた…
その五井家から、追放されたら、なにも残らないに違いない…
五井という、いわば、お金と、ブランドの両方を手放したのだ…
これでは、残るものは、なにもないに違いない…
重方(しげかた)は、無能ではないに違いないが、失礼ながら、重方(しげかた)と、同程度の能力の持ち主は、国会で、ごまんといるに違いなかった…
さらには、冬馬…
息子の菊池冬馬に至っては、なにもなかった…
冬馬は、わがままで、五井家内で、居場所がなく、それゆえ、五井でも、持て余していた…
五井の関連会社を、あちこち、たらいまわしにされた挙句、五井記念病院の理事長の座に就いた…
しかしながら、理事長の座は、名ばかり…
実権もなにもない、実質は、お飾り…
それが、嫌だったに違いないことは、誰にもわかるが、さりとて、その理事長以外には、居場所がなかったに違いなかった…
つまりは、重方(しげかた)、冬馬は、父子共々、追い詰められたと、いっても、良かった…
現に、私の病室を訪れた、諏訪野マミですら、
「…冬馬もバカなことをしたものね…」
と、呆れていた…
「…バカなことって、なんですか?…」
私は、病室で、ベッドの上に上体を起こして、言った…
「…寿さんに、ケンカを売ったこと…」
「…私にケンカを売ったことですか?…」
「…あの件が、すぐに、週刊誌の格好の話題になり、昭子さんは、決断した…」
「…決断した?…」
「…昭子さんは、ずっと、我慢してたの…」
「…なにに、我慢してたのですか?…」
「…重方(しげかた)さんと、冬馬父子の扱いによ…」
「…」
「…重方(しげかた)さんは、バカじゃないわ…」
…バカじゃない?…
…やはり、諏訪野マミも、そう思うのか?…
私は、内心、考えた…
「…ただ、やり過ぎるのよ…」
「…どういう意味ですか?…」
「…議員になったのもそう…昭子さんは、重方(しげかた)さんに、政治に関わるな、と、何度も念を押したそうよ…」
「…どうしてですか?…」
「…やはり、五井の金でしょ…」
「…」
「…金に困った議員が、重方(しげかた)さんに、群がって、財布扱いされては、困ると思ったに違いない…」
「…」
「…それに、重方(しげかた)さんは、人がいいというか…安易に、人に流されるところがある…つまり、人間的な弱さね…それを利用されると、昭子さんは、思ったと思う…」
「…」
「…そして、そんな重方(しげかた)さんが、冬馬の半面教師になったと思う…」
「…冬馬さんの半面教師?…」
どういう意味だろう?
私は、思った…
「…要するに、冬馬は、重方(しげかた)さんが、嫌いなのね…」
「…嫌い? …自分のお父様を…ですか?…」
「…結局、重方(しげかた)さんの人に、利用される姿が嫌いだったんだと思う…」
「…」
「…だから、冬馬は、基本、人と群れない…つるまない…いつも、独りぼっち…」
「…」
「…人とつるんで、誰かに利用されるのを、誰よりも、嫌がった…きっと、重方(しげかた)さんが、人に利用されるのを見ているからだと思う…」
「…」
「…つまり、二人は、コインの裏と表…きっと、内面は、似ているところがあるんじゃいかな…」
「…似ているところ? …どんなとこが、似ているんですか?…」
「…冬馬から、すれば、たぶん、自分の中に、父の重方(しげかた)さんと、同じく、他人に、利用される弱さみたいのものが、あるんだと思う…」
「…」
「…きっと、内心、それを恐れてるんじゃないかな…私は、以前、寿さんに、言ったように、わりと、冬馬と、親しかったから、なんとなく、そう思う…」
「…」
「…ほら、ひとって、自分と似ているひとが、嫌いでしょ?…」
「…どういう意味ですか?…」
「…おしゃべりは、おしゃべりを嫌いってこと…」
「…それは、一体?…」
「…おしゃべりな人間は、ホントは、自分が、おしゃべりなことを、内心嫌ってることが多い…だから、おしゃべりな人間を見ると、自分の嫌な部分を、見せつけられたような気持ちになる…」
「…」
「…これは、ウソつきも同じ…よくウソをつく人間は、他人がついた小さなウソを見つけると、アイツは、ウソつきだから、大嫌いだという…自分が、ウソつきで、有名なのにね(笑)…」
「…」
「…それはきっと、おしゃべりと、同じで、潜在的に、自分が、ウソつきであることを、内心嫌悪しているんじゃないかな…だから、自分と、同じ、ウソつきを嫌う…」
「…」
「…だから、冬馬が、父親の重方(しげかた)さんを、嫌いなのは、自分の中にある、弱さみたいなものを、重方(しげかた)さんに、見ているんだと思う…」
意外な言葉だった…
これまで、冬馬をそんなふうに、見たことがなかった…
だが、そういえば、わかる…
諏訪野マミが、そんなふうに、説明すれば、どうして、冬馬が、重方(しげかた)さんを、嫌いなのか、わかる…
まして、父子だ…
自分の中にある、弱い部分を、父親の中に見るのは、ひどくありがちなことだ…
が、
だとすれば、どうだ?
冬馬の中に、重方(しげかた)さんのような、ひとに利用される弱さがあるとすれば、どうだ?
真逆に見れば、重方(しげかた)氏の中にも、冬馬と同じく、傲岸不遜というか…
金持ちの家に生まれたがゆえに、驕り高ぶった気持ちがあったということか?
私は、思った…
私が、そんなことを、考えてると、
「…つまりは、あの父子は、似た者父子なのね…」
諏訪野マミが、断言した…
「…あの二人は、一見、似ていない…冬馬の目は、険があるし、真逆に、重方(しげかた)さんの目は優しい…」
「…」
「…でも、よく見ると、目以外は、そっくり…顔立ちも背格好も同じ…」
「…」
「…でも、目つきが違うから、全然、別人に見える…歌舞伎の十二代目市川團十郎、海老蔵父子と同じ…目以外は、すべて、似ている…」
ということは、どうだ?
性格もまた似ているということか?
もし、重方(しげかた)が、冬馬と似た性格だとしたら、人一倍プライドが高いに違いない…
そんなプライドの高い重方(しげかた)が、息子の冬馬共々、五井家を追放されたら、どうなるか?
火を見るより明らかだ…
なんらかの形で、五井家、いや、昭子に復讐しようとするに違いない…
そして、当たり前だが、昭子は、重方(しげかた)の動きをあらかじめ、見抜いているに違いない…
対策を講じているに違いない…
私は、思った…
そして、その日から、遠からず、私の、退院に向けるスケジュールが、見えてきた…
私は、冬馬とケンカしたことで、この病院の中で、有名人?と、なったが、いつまでも、この病院にとどまることは、なくなった…
それは、あの長谷川センセイが、私に、告げた…
「…寿さん…おめでとうございます…遠からず、退院ですよ…」
「…ホントですか?…」
思わず、声を上げた…
まさか、退院の日が、そんなに間近にやって来るとは、思いもしなかった…
「…ホントです…ウソは言いませんよ…」
長谷川センセイが、にこやかに、言った…
「…と言っても、まだ一か月は、先です…」
「…一か月先?…」
私は、長谷川センセイの言葉に、落胆した…
「…その頃には、ことによると、松葉杖も、いらなくなるかもしれない…」
「…ホントですか?…」
「…ウソは言わないです…ただ、あくまで、ことによると、です…ただ、松葉杖をついても、今よりも、楽に歩けるでしょう…」
私は、長谷川センセイの言葉に、どう答えていいか、わからなかった…
正直、戸惑ったというか…
せっかく、退院できると聞いても、その退院の時期は、一か月後…
松葉杖をつかなくても、歩けるかもしれないと言われた後に、でも、それは無理かもしれないというようなことを、言われては、素直に喜べなかった…
なんだか、中途半端…
すべて、中途半端だ…
だから、嬉しいような、悲しいような、気持ちだった…
退院は、嬉しいが、一か月後では、遠いし、松葉杖を使わないで、歩けるようになるのは、夢だったが、それも、当面は、夢で、終わりそうだ…
なんだか、怒っていいのか、笑っていいのか、わからない気持だった…
そんな私の表情に、気付いたのだろう…
長谷川センセイが、
「…なんだか、寿さんを、ガッカリさせたようで、申し訳ありません…」
と、私に謝った…
「…いえ…」
私は、形式的に、否定した…
「…とんでも、ありません…退院できるのは、嬉しいです…」
私は、言ったが、やはり、説得力に欠けたというか…
私が、落胆している気持ちは見え見えだった…
「…寿さんって、案外、気が弱いんですね…」
傍らの看護師の佐藤ナナが、口を挟んだ…
「…意外ですね…」
と、私をからかうように言う…
私は、そんな佐藤ナナを見ても、怒る気にもなれなかった…
そんな気力がわかなかった…
これは、ちょうど、ナチスの拷問に似ている…
ふと、思い出した…
昔、読んだ本に、書いてあった…
手錠で、手足を縛られて、椅子に座らされた、囚人を、ナチスの憲兵が、棒で、殴る…
いわゆる、拷問だ…
そのときに、殴られた囚人は、殴られてる最中は、グッと、こらえている…
我慢している…
そして、いつしか、拷問が、終わる…
「…よし、これで、終わりだ…」
と、殴る憲兵が、告げる…
すると、それまで、殴られていた、囚人が、ホッと気を抜く…
その気を抜いたところへ、憲兵が、思いっきり、棒で殴る…
すると、それまでで、一番の痛みが、囚人に走る…
ホッと、気を抜いたところへ、棒で、殴られるので、堪ったものではないからだ…
それと、似ている…
私の場合も、それと同じ…
せっかく、退院できると、ぬか喜びさせて、現実は、退院は、一か月後…
松葉杖を使わずとも、歩けるようになると、言った後に、でも、できないかもしれない…
…そこまで回復しないかもしれない…
そんなことを言われては、私は、落胆するし、ある意味、嫌がらせのようだとも、いえなくはない…
誰だって、そうだろう…
長谷川センセイを憎む気持ちはないが、ちょっぴり、恨めしく思った…
そんなことを、考えてると、
「…でも、長谷川センセイ…残念ですね…」
と、またも、佐藤ナナが、口を挟んだ…
「…大好きな寿さんが、退院しちゃいますから…」
佐藤ナナの言葉に、長谷川センセイが、
「…ボクは、冬馬に頼まれて…寿さんを…」
と、言って、顔を真っ赤にした…
私は、長谷川センセイの態度を見て、当惑したというか…
あらためて、この長谷川センセイが、私を好きなのを、確信した…
が、私と長谷川センセイが、どうこうなるはずがない…
私は、今、諏訪野伸明と結婚するかもしれない…
そういう立場だ…
それはまた、長谷川センセイも、わかっている…
にもかかわらず、やはり、好きだと態度で、示されると、嬉しいものだ…
が、
一方で、どうしていいか、わからない…
私を好きだと言ってくれるのは、嬉しいが、どうこうできる話ではないからだ…
だから、とっさに、
「…冬馬理事長は…」
と、話題を変えた…
思えば、私と、長谷川センセイの共通の話題と言えば、冬馬…
菊池冬馬だけだった…
だから、あえて、冬馬の話題を出した…
「…冬馬がどうかしましたか?…」
「…いえ、冬馬さんは、理事長を辞めてから、どうしているのかと思って…」
「…それは、ボクにもわかりません…」
長谷川センセイが、ムッとした表情になった…
途端に、機嫌が悪くなった…
「…むしろ、寿さんの方が、わかるんじゃないですか?…」
「…私の方が?…」
「…寿さんは、五井家の諏訪野伸明さんと、親交がある…だから…」
たしかに、そうかもしれないが、五井家を追い出された菊池冬馬が、その後、どうなっているか?
むしろ、五井家の人間よりも、冬馬の学生時代の友人の方が、知っているのではないか?
そんな、淡い期待があった…
だから、
「…私は知りません…」
と、即答した…
「…冬馬さんが、この病院の理事長をお辞めになってから、諏訪野伸明さんは、まだ、この病室に、見舞いに来たことは、ありません…」
これは、ウソではない…
諏訪野マミは、やって来たが、諏訪野伸明は、やって来ていない…
だから、あの後、冬馬が、どうなったのか、諏訪野伸明の口からは聞いていない…
ただ、諏訪野マミの口から、思いがけず、重方(しげかた)と、冬馬の父子は、実は、似ていると言われたのが、意外だったというか…
「…冬馬は、前にも、言いましたが、嫌われ者です…だから、学生時代の知り合いで、今も冬馬と交流している人間はいない…」
「…」
「…ただ、噂は、聞いています…」
「…噂…それは、どういう…」
「…変な話…冬馬は、嫌われ者ですが、注目度が高いんです…」
「…注目度?…」
「…五井家のお坊ちゃまでしょ? だから、どうしても、目立つ…」
「…目立つ?…」
「…だから、気になる…噂では、菊池リンという同じ一族の人間と接触しようとしていると、聞いてます…」
「…菊池リン?…」
まさか、その名前が、ここで出るとは、思わなかった…
いや、
思わないではない…
菊池リンは、五井東家を継いだ人間…
五井東家を追い出された、菊池冬馬が、接近しても、おかしくはない…
ただ、その事実を、この長谷川センセイから、聞くとは、思わなかった…
「…どうして、センセイが、その名前を?…」
「…週刊誌で、見たんですよ…」
長谷川センセイが笑った…
それから、
「…と言いたいが、ボクの周囲にも、五井家以外にも、金持ちがいて、その友人が、こう言っては、身も蓋もないが、金持ち繋がりで、情報を得たらしいです…」
私は、長谷川センセイの言葉に、納得した…
金持ちには、金持ちのネットワークがあるに違いないからだ…
だから、そういうネットワークを通じて、情報を得ることができるのかもしれない…
私は、思った…
しかし、菊池冬馬と、菊池リン…
あの二人が、接近するとは、思わなかった…
いや、
そうではない…
以前にも、その気配はあった…
劣勢に立たされていた冬馬が、菊池リンと、結婚するかもしれない、と、噂があった…
諏訪野伸明の母、昭子の一卵性姉妹である、妹の和子の孫、菊池リン…
彼女と、菊池冬馬が、結婚すれば、ひょっとしたら、五井本家に対抗できるからだ…
五井家の女帝、昭子の妹の、和子を、自分の味方に引き入れることができるからだ…
だから、以前も、その可能性に言及した…
が、
それはなかった…
いや、
最初から、その可能性に気付いていた和子は、重方(しげかた)、冬馬、父子の動きに、警戒していたに違いない…
孫の菊池リンが、キーパーソンになる…
そう、睨んでいたからだ…
そう、気付いていたからだ…
だから、菊池リンと、冬馬の結婚を、和子は、一笑に付したと、諏訪野マミが、言っていた…
菊池リンが、冬馬と結婚することを、なにより、恐れていたからだ…
そして、もし、冬馬が、菊池リンと、結婚あるいは、婚約でもしていれば、冬馬は、五井家から、追放されることも、なかっただろう…
それが、今、追放された身の上で、冬馬が、菊池リンに、接近しようとしているとは?
冬馬は、一体、なにを考えているのだろうか?
あるいは、これは、冬馬の父、重方(しげかた)の指示なのだろうか?
それとも、ガセ?
そもそも、その話自体が、ウソ臭い?
そんな予感もした…
だが、同時に、やはりというか、不安は捨てきれなかった…
重方(しげかた)、冬馬、父子が、なんらかの動きを見せることは、不可避だったからだ…
プライドの高い、重方(しげかた)、冬馬、父子が、五井家を追放された…
このままでは、終われない…
当たり前だが、そんな復讐の炎にメラメラ燃えても、驚くことではなかった…
ただ、その復讐の方法が、どうなのか?
問題は、そこだった…
あの女帝の昭子が、肝を抜かすといえば、大げさだが、そんな方法を思いつくか、実行すれば、驚くが、その可能性は、低いと、言わざるを得なかった…
なにしろ、そんなことができるのならば、五井家から、追放されないように、あらかじめ、手を回していたはずだった…
それができないから、追放された…
そんなことも、できない、重方(しげかた)、冬馬、父子に、逆転の秘策など、ないに違いないと、思っていた…
にも、かかわらず、不安は消えなかった…
逆転は、不可能と思いながらも、不安は消えなかった…