第48話
文字数 7,528文字
「…伸明さんが来る? …この家に?…」
一呼吸置くと、つい大声を出した…
自分でも、意外なほど、大きな声だった…
眼前のナオキが、おどけて、耳を塞いだほどだった…
私は、ナオキのその子供っぽい仕草に、我に返ったというか…
落ち着きを取り戻した…
「…ごめんなさい…大きな声を出して…」
「…いや…いいんだ…綾乃さんが、まさか、そんな大きな声を出すとは、思わなかった…」
ナオキが、ニヤリとした…
「…綾乃さんの意外な一面を見たというか…とにかく、諏訪野さんが、大切なことがわかった…」
私は、ナオキの言葉に、
「…」
と、なにも言えなかった…
押し黙るしか、なかった…
「…綾乃さんは、諏訪野さんのことを、どう思ってるの?…」
「…わからない…」
即答した…
「…わからないって、どうして、わからないの?…」
「…自分でも、どうしていいか、わからない…」
「…それは、一体?…」
「…伸明さんの結婚は、自分では、現実的とは、思えない…だから、どうしても、実感が湧かない…それに、病気もある…」
「…」
「…正直、自分の面倒を見るのに、手一杯…恋だ、愛だ、言ってられる状態じゃない…それに、今、ナオキ…アナタと、こうしている…この時間も悪くない…正直、居心地がいい…だから、そんなことを、色々考えると、モラトリアムというか、現状維持…ただ、このまま、ゆっくりと、時間が過ぎれば、いいとも思う…」
私の言葉に、ナオキが、考え込んだ…
ひどく、真面目な表情になった…
しばし、沈黙した後、
「…綾乃さんの気持ちは、わかる…」
と、ゆっくりと言った…
「…綾乃さんは、まだ退院したばかりだし、体力は、戻ってない…だけど、時間は、持てあましている…だから、つい色々なことを、考える…」
「…」
「…でも、それは、たぶん、諏訪野さんも同じだ…」
「…どうして、同じなの?…」
「…綾乃さんと、置かれた状況は、違うが、悩んでいることに、変わりはない…」
「…」
「…誰でも、皆、悩みはある…そして、たぶん、諏訪野さんも、綾乃さんも、今、一般の人よりも、悩んでいる…そういうことさ…」
「…」
「…そして、なにより、綾乃さんは、諏訪野さんと、会わなければ、ダメだ…きちんと話さなければ、ダメだ…そうしないと、周りがゴチャゴチャ言って、その意見に惑わされる…流される…」
ナオキが、至極真面目な表情で、語った…
私は、ナオキが、言ったことはわかるが、なんだか、至極真面目な表情をしているナオキが面白く、つい、
「…プッ!…」
と、吹き出してしまった…
私の予想外の言動に、今度は、ナオキが目を丸くした…
「…綾乃さん…どうしたの? …いきなり? …なにか、ボクが、面白いことを、言った?…」
「…いえ…そうじゃないの…ナオキ、アナタが、至極真面目な顔で言うから…」
「…それは、そうだろう…こんなこと、笑いながら、言う人間はいないよ…」
「…でも、ナオキが、すごく真剣だから…そんな表情をしたナオキを見たら、一体、何年ぶりに、そんな表情をしたナオキを見るのだろうと、思って、つい…」
「…それは、テレビを見ないからさ…テレビで、キャスターをしているときは、いつも、真面目さ…」
ナオキが、反論した…
私は、ナオキの言い分に、またも、
「…プッ!…」
と、吹き出してしまった…
「…なに、綾乃さん…なにが、おかしいの?…」
ナオキが、戸惑う…
「…だって、ナオキ…アナタ、子供のように、ムキになって反論して…」
私が指摘すると、ナオキは、一瞬、表情が、固まった…
それから、ゆっくりと、
「…綾乃さんには、叶わない…」
と、嘆いた…
「…こっちが、主導権を握って話していると思うと、いつのまにか、綾乃さんが、主導権を握ってる…」
「…」
「…これじゃ、お手上げだ…」
そう言って、両手を上げた…
「…とにかく、諏訪野さんとは、近日中に、綾乃さんに、連絡するように、言ってある…この家で会ってもいいし、どこか、近くの店で、会ってもいい…とにかく、会って話すことだ…話せば、わかることもあるし、そもそも、話さなければ、なにもわからない…」
それだけ言うと、ビールを飲んだ…
「…せっかくのビールが、ぬるくなった…」
ナオキが、嘆いた…
私たちは、それ以上、話さなかった…
私は、まだ病み上がりだし、体調は、完璧には、ほど遠い…
これ以上は、カラダに負担がかかる…
だから、
「…申し訳ないけど、もう寝るわ…」
と、ナオキに告げて、寝室に戻った…
「…わかった…綾乃さんのカラダの負担になるようなことを、長々と話して、申し訳なかった…」
私は、それには、答えなかった…
私とナオキは、寝室は別…
ナオキは、ジュン君のいた部屋を使っている…
ナオキは、ただの同居人…
すでに、男女の関係はない…
すでに、パートナーでもない…
繰り返すが、ただの同居人…
ただし、私の数少ない、家族と同様な大切な存在だった…
また、ナオキとて、今さら、私をどうこうしようとは、露ほども思ってないに違いない…
私にしても、そうだが、諏訪野伸明と、結婚するかもしれない状況で、他の男と、セックスをすることは、ありえない…
男女の関係になることは、ありえない…
なにより、私は、まだ、病み上がり…
そんなことができる状況ではない…
いや、たとえ、そんなことができる状況でも、もはや、ナオキとセックスすることは、ありえない…
なぜなら、諏訪野伸明との結婚が、完全にご破算になっていないからだ…
完全に、ご破算になれば、フリーだから、ありかもしれない…
しかし、そうでなければ、ナオキとのセックスはありえない…
そんなことをすれば、諏訪野伸明を裏切ることになるからだ…
そして、それを、ナオキもまた、わかっているに違いない…
なにしろ、ナオキと私は、十数年の付き合い…
だから、互いがなにを考えているか、わかっている…
そして、わかっていることもあるし、ナオキが、また、そんな状況で、私を求めて来ないことも、またわかっている…
他の男と、結婚するかもしれない私と関係することは、ありえない…
そんなことをすれば、信義違反…
私は、その男を裏切ることになる…
そして、その男=諏訪野伸明と、ナオキは、仲がいい…
ウマが合う…
だから、伸明との関係からも、ナオキは、私を求めてくることは、ありえない…
そんなことを、漠然と考えていると、いつしか、眠りについた…
私が、朝、目覚めると、すでに、ナオキの姿はなかった…
会社に出社した後だった…
リモート出社では、まだ、会社は、回せない…
どうしても、社長である、ナオキが、社長室に出向くしかないのであろう…
私は、思った…
私は、ひとりで、サイフォンで、コーヒーを入れて、飲んだ…
昔から、コーヒーは好きだった…
ずっと、以前、まだ学生の頃、ひとりで、喫茶店に入ったが、出されたコーヒーが、でがらしのコーヒーだった…
でがらし=すでに、一度、客に出したコーヒー豆で、抽出したコーヒーだった…
だから、まるで、薄い紅茶のようだった…
私は、ひどいと、憤ったが、なにも言えなかった…
まだ、二十歳前の学生だったからだ…
正確には、高校生だったからだ…
だが、今の年齢では、躊躇うことなく、文句を言える…
オバサンになったからだ(笑)…
若い頃は、口に出せなかったことも、口に出せるようになった…
思えば、その喫茶店の主も、こちらが、女子高生だから、文句も言えないと、思って、でがらしのコーヒーを出したのだろう…
ある程度の年齢なら、客に叱られる…
それを見越して、したのだろう…
個人経営の喫茶店だったが、おそらく、もうないに違いない…
そんな商売をしていたら、客を失う…
信用を失う…
どこの市で、飲んだのは、わかるが、具体的に、どこの店だったかは、忘れている…
覚えていない…
今では、ネットで検索すれば、たとえ、その店が独自にホームページを持っていなくても、地図等でわかるが、そもそも、どの店だったか、忘れているので、調べることができない…
私は、そんなこと、思い出した…
苦い思い出だが、今となっては、懐かしい思い出…
そして、それが、私の商売に対する原点になっていたのかもしれない…
商売というか、人間関係における原点というか…
商売に対する原点は、信用であるということ…
それが、大事だと痛感した…
一度いっただけの店だが、もう二度と訪れることはないと思った…
文句は言わないが、態度に出す…
そういうことだ…
その喫茶店の主と話した記憶はないが、信用できない人間と、思った…
それが、その喫茶店の主の評価だった…
そして、私だけでなく、きっと他の客にも、似たようなことを、何度もしていたに違いない…
今となっては、そう思える…
そのたびに、信用を失っていったに違いない…
そして、廃業…
終着点は、そこだったろう…
人間性が、商売に出た典型だった…
私は、それを思い出すと、結局は、ひとは、信用できるか、否かが、究極の評価というか、分かれ目になると、思った…
美人もブスも、関係ない…
イケメンもブザイクも、関係ない…
ルックスも、頭の良さも、生まれの良さも、なにも、関係ない…
つまり、能力の善し悪しも、なにも関係ないということだ…
その人間を信用できるか、否か、それが、すべてだった…
その人間を信用できなければ、その人間が、どんな報告をしようと、まったく、信用することができない…
なにを言っても、なにも言わないのと同じになる…
なにを言っても、信用できないからだ…
それが、私の対人関係の基本と言うか、その喫茶店での出来事が、その後の私の人格形成に大きな影響を与えた…
それを、思えば、その喫茶店の主は、恩人だった(爆笑)…
最強の半面教師だった(爆笑)…
諏訪野伸明から、連絡があったのは、そんなことを、考えている最中だった…
早朝だから、連絡をするのに、打ってつけと、思ったのかもしれない…
スマホの呼び出し音が鳴っているのに、気付いた私は、急いで、電話に出た…
ナオキだと、思ったからだ…
なにか、私に言いそびれたことがあるのだろうと思った…
だから、どこから電話があったのか、表示された電話番号を見なかった…
だから、
「…もしもし、なに?…」
と、高圧的な言い方をした…
電話の相手は、ナオキ以外に考えられないからだ…
が、
相手は、ナオキではなかった…
だから、相手は、面食らったというか…
戸惑ったらしい…
「…諏訪野ですが、おはようございます…」
と、申し訳ないような小声で、声が聞こえてきた…
…エッ?…
…諏訪野さん?…
私は、内心、慌てた…
と、同時に、今、ナオキの名前を出していないことに、安堵した…
ナオキの名前をいえば、ナオキと同居していたことが、バレる…
あるいは、すでに知っているかもしれないが、自分が結婚するかもしれない女が、自分とは、別の男と、同居していると、知って、少なくとも、気分がいい男は、この世の中に、いないだろう…
私は、一瞬、言葉に詰まったが、
「…おはようございます…」
と、返した…
すると、相手も、
「…」
と、無言だった…
どう返していいか、わからなかったのかもしれない…
少し間を置いて、
「…誰かと、間違えたようですね…」
と、声が聞こえてきた…
今度は、私が、黙る番だった…
私は、内心ビクビクだった…
諏訪野伸明の口から、藤原ナオキの名前が、いつ出てくるか、焦っていた…
が、
伸明は、なにも言わなかった…
それ以上、言及しなかった…
あるいは、知っていて、黙っていた可能性もある…
問い詰めれば、私が、困るし、真実を知れば、自分もまた、いい気はしない…
だから、これ以上、この話題を続けないのが、賢明だった…
私にしても、今現在、ナオキと同居はしているが、やましい関係でもなんでもない…
だが、それを主張しても、信じない人間は、なにを言っても信じない…
だから、あえて、なにも言わないのが、お互いに、賢明だった…
そこまで、考えたとき、
「…ご無沙汰しています…」
という声が聞こえてきた…
そして、その声が、なにより、遠慮がちで、はにかむような感じだった…
だから、その声を聞くと、私自身、ホッとしたというか…
こんなときに、横柄な上から目線の声で、
「…誰と間違えたんだ!…」
と、怒鳴られでもしたら、目も当てられないからだ…
が、
諏訪野伸明は、そんな人間ではなかった…
また、そんな人間ではないと、信じていたから、私は、結婚を前提に付き合った…
そういうことだ…
「…昨日、藤原さんと、電話で話したんですが、藤原さんから、聞いてますか?…」
「…ハイ…」
即答した…
「…私と会いたいと…」
「…そうです…」
諏訪野伸明が、応じた…
「…最近、全然、会ってない…」
「…そうですね…」
「…だから、やはり、直接会って、話したい…」
「…いつですか?…」
「…今日は、どうでしょう?…」
「…今日? …私は、構いません…ご承知の通り、病み上がりですし…いつでも、家にいますから…」
「…わかりました…でしたら、今日の午前中にでも、そちらに伺います…家は、藤原さんに聞いて、わかってますから、近くまで、行ったら、また、電話します…近くの店で、昼食でも食べながら、話しましょう…」
そう言うと、一方的に、伸明は、電話を切った…
私は、唖然とした…
伸明から、電話が来るのは、藤原ナオキから聞いて、わかっていたが、こんなに早くとは、思ってなかった…
朝一番…
まるで、昔の牛乳配達…
新聞配達だ…
一方で、そんなにも、早く伝えたかったんだろうか?
とも、思った…
朝、何時に、電話をすればいいのか、常識は、わからないが、まだ、7時にも、なっていない…
普通に考えれば、他人の家に電話をするには、早すぎる時間帯だ…
にも、かかわらず、電話をかけてくるとは?
それほど、重要なことなのだろうか?…
だとしたら、それは、別れ話かも?
とっさに、思った…
諏訪野伸明の口から、直接、これまでのことは、なかったことにしたいと、言いたいのかもしれない…
私は、思った…
これまでの話の流れから、考えるに、それが、一番当てはまる…
これは、私が、諏訪野伸明と結婚したいとか、したくないとかとは、別の話…
別次元の話だ…
すでに、諏訪野伸明には、五井家当主としての立場がある…
以前は、確かに、伸明のみならず、伸明の母の昭子も、私の入院する、五井記念病院の病室にやって来て、私と伸明の結婚を許すようなことを、言っていたが、あのときとは、状況が違う…
あのときは、まだ、五井は、内紛状態には、なかった…
が、
それをいえば、今も五井は内紛状態には、ない…
五井南家が、五井本家側に立ったことで、内紛が、終了したからだ…
しかし、
そこには、米倉平造の存在があり、あの佐藤ナナもいる…
つまりは、内紛が、終了したが、内紛以前と、内紛以後は、五井本家を巡る状況が、変わった…
そういうことだ…
それを、考えると、あらためて、ここは、私から、身を引くべきだと、思った…
これ以上、伸明の心を悩ませるのは、気が引ける…
さらにいえば、私と伸明は、付き合っているといっても、どれほどの付き合いでもない…
冷静に考えれば、結婚を前提として、付き合っているにしては、驚くほど、付き合いが浅かった…
それは、私が、ジュン君の運転するクルマで、はねられて、病院に入院したこともあるし、諏訪野伸明が、仕事で忙しいこともある…
だから、まるで、多忙な芸能人かなにかが、交際するように、実質的に会う時間がなかった…
実質的に会う機会がなかった…
それを考えると、それほど会う機会が、少なかったにも、かかわらず、互いが、結婚を意識したのが、不思議…
おかしい(笑)…
互いが、互いのことを、知らなすぎるのだ(笑)…
これでは、仮に結婚すれば、どうなるのか、わからない…
これでは、まるで、お見合いだ…
一度か二度、会って、結婚を決める…
それと同じだ…
大昔、母の若い頃には、冗談で、
…一回目のデートで、手を握り、二回目のデートで、キスをして、三回目のデートで結婚の約束をする…
そんなことを、女の友人同士で、言い合ったそうだ(笑)…
それと、似ている…
だが、まあ、見合いが、悪いというわけではない…
なまじ、会社の同僚や、学校の友人と結婚をして、いっしょに生活を送り、
…こんな人とは、思わなかった…
というのは、よく聞く話だ…
公私というと、おおげさだが、会社や学校で見せる顔と、家で見せる顔がまるで、違うのだろう…
学校や会社では、いつもニコニコと、いい人を演じていて、そのくせ、家では、他人の悪口ばかり…
よく聞く話だ(笑)…
要するに、裏表が激し過ぎるのだ…
これは、極端すぎる例だが、皆、似たようなものだ(笑)…
むしろ、見合いで結婚して、よくわからないまま、いっしょになった方が、幸せかもしれない…
…このひとは、こんなひと!…
そんな予備知識がないままに結婚するから、
…あれ、なんか、思ってたのと、違う!…
が、ない…
だから、ゼロ…
予備知識ゼロだから、相手が、どんなひとか、わからない…
せいぜいが、学歴や職歴やルックス…
どんな学校を出て、どんな会社に勤めているかしか、知らない…
そして、わかるのが、初対面での互いの印象ぐらいだ…
それで、結婚する方が、会社の同僚や、学校の友人と結婚するよりもいいかもしれない…
予備知識がないから、裏切られることがない…
互いに、どんなひとか、わからないからだ…
私は、そんなことを、思った…
いつのまにか、伸明の話から、見合いの話に、意識が飛んだ(笑)…
それから、今日、これから、諏訪野伸明と、どんな話をするのだろう?
と、あらためて、思った…
やはり、別れ話だろうか?
それを思うと、身を切られるように辛かったが、やはり、覚悟はしなければ、ならない…
いや、
覚悟さえ、しておけば、思ったよりも、衝撃は浅い…
ダメージは少ない…
あらかじめ、誰かに殴られるとわかっていて、殴られるのと、いきなり殴られるのでは、痛みが、違う…
そういうことだ…
それを、思えば、覚悟ができた…
別れる決意ができた…
そういうことだった…
一呼吸置くと、つい大声を出した…
自分でも、意外なほど、大きな声だった…
眼前のナオキが、おどけて、耳を塞いだほどだった…
私は、ナオキのその子供っぽい仕草に、我に返ったというか…
落ち着きを取り戻した…
「…ごめんなさい…大きな声を出して…」
「…いや…いいんだ…綾乃さんが、まさか、そんな大きな声を出すとは、思わなかった…」
ナオキが、ニヤリとした…
「…綾乃さんの意外な一面を見たというか…とにかく、諏訪野さんが、大切なことがわかった…」
私は、ナオキの言葉に、
「…」
と、なにも言えなかった…
押し黙るしか、なかった…
「…綾乃さんは、諏訪野さんのことを、どう思ってるの?…」
「…わからない…」
即答した…
「…わからないって、どうして、わからないの?…」
「…自分でも、どうしていいか、わからない…」
「…それは、一体?…」
「…伸明さんの結婚は、自分では、現実的とは、思えない…だから、どうしても、実感が湧かない…それに、病気もある…」
「…」
「…正直、自分の面倒を見るのに、手一杯…恋だ、愛だ、言ってられる状態じゃない…それに、今、ナオキ…アナタと、こうしている…この時間も悪くない…正直、居心地がいい…だから、そんなことを、色々考えると、モラトリアムというか、現状維持…ただ、このまま、ゆっくりと、時間が過ぎれば、いいとも思う…」
私の言葉に、ナオキが、考え込んだ…
ひどく、真面目な表情になった…
しばし、沈黙した後、
「…綾乃さんの気持ちは、わかる…」
と、ゆっくりと言った…
「…綾乃さんは、まだ退院したばかりだし、体力は、戻ってない…だけど、時間は、持てあましている…だから、つい色々なことを、考える…」
「…」
「…でも、それは、たぶん、諏訪野さんも同じだ…」
「…どうして、同じなの?…」
「…綾乃さんと、置かれた状況は、違うが、悩んでいることに、変わりはない…」
「…」
「…誰でも、皆、悩みはある…そして、たぶん、諏訪野さんも、綾乃さんも、今、一般の人よりも、悩んでいる…そういうことさ…」
「…」
「…そして、なにより、綾乃さんは、諏訪野さんと、会わなければ、ダメだ…きちんと話さなければ、ダメだ…そうしないと、周りがゴチャゴチャ言って、その意見に惑わされる…流される…」
ナオキが、至極真面目な表情で、語った…
私は、ナオキが、言ったことはわかるが、なんだか、至極真面目な表情をしているナオキが面白く、つい、
「…プッ!…」
と、吹き出してしまった…
私の予想外の言動に、今度は、ナオキが目を丸くした…
「…綾乃さん…どうしたの? …いきなり? …なにか、ボクが、面白いことを、言った?…」
「…いえ…そうじゃないの…ナオキ、アナタが、至極真面目な顔で言うから…」
「…それは、そうだろう…こんなこと、笑いながら、言う人間はいないよ…」
「…でも、ナオキが、すごく真剣だから…そんな表情をしたナオキを見たら、一体、何年ぶりに、そんな表情をしたナオキを見るのだろうと、思って、つい…」
「…それは、テレビを見ないからさ…テレビで、キャスターをしているときは、いつも、真面目さ…」
ナオキが、反論した…
私は、ナオキの言い分に、またも、
「…プッ!…」
と、吹き出してしまった…
「…なに、綾乃さん…なにが、おかしいの?…」
ナオキが、戸惑う…
「…だって、ナオキ…アナタ、子供のように、ムキになって反論して…」
私が指摘すると、ナオキは、一瞬、表情が、固まった…
それから、ゆっくりと、
「…綾乃さんには、叶わない…」
と、嘆いた…
「…こっちが、主導権を握って話していると思うと、いつのまにか、綾乃さんが、主導権を握ってる…」
「…」
「…これじゃ、お手上げだ…」
そう言って、両手を上げた…
「…とにかく、諏訪野さんとは、近日中に、綾乃さんに、連絡するように、言ってある…この家で会ってもいいし、どこか、近くの店で、会ってもいい…とにかく、会って話すことだ…話せば、わかることもあるし、そもそも、話さなければ、なにもわからない…」
それだけ言うと、ビールを飲んだ…
「…せっかくのビールが、ぬるくなった…」
ナオキが、嘆いた…
私たちは、それ以上、話さなかった…
私は、まだ病み上がりだし、体調は、完璧には、ほど遠い…
これ以上は、カラダに負担がかかる…
だから、
「…申し訳ないけど、もう寝るわ…」
と、ナオキに告げて、寝室に戻った…
「…わかった…綾乃さんのカラダの負担になるようなことを、長々と話して、申し訳なかった…」
私は、それには、答えなかった…
私とナオキは、寝室は別…
ナオキは、ジュン君のいた部屋を使っている…
ナオキは、ただの同居人…
すでに、男女の関係はない…
すでに、パートナーでもない…
繰り返すが、ただの同居人…
ただし、私の数少ない、家族と同様な大切な存在だった…
また、ナオキとて、今さら、私をどうこうしようとは、露ほども思ってないに違いない…
私にしても、そうだが、諏訪野伸明と、結婚するかもしれない状況で、他の男と、セックスをすることは、ありえない…
男女の関係になることは、ありえない…
なにより、私は、まだ、病み上がり…
そんなことができる状況ではない…
いや、たとえ、そんなことができる状況でも、もはや、ナオキとセックスすることは、ありえない…
なぜなら、諏訪野伸明との結婚が、完全にご破算になっていないからだ…
完全に、ご破算になれば、フリーだから、ありかもしれない…
しかし、そうでなければ、ナオキとのセックスはありえない…
そんなことをすれば、諏訪野伸明を裏切ることになるからだ…
そして、それを、ナオキもまた、わかっているに違いない…
なにしろ、ナオキと私は、十数年の付き合い…
だから、互いがなにを考えているか、わかっている…
そして、わかっていることもあるし、ナオキが、また、そんな状況で、私を求めて来ないことも、またわかっている…
他の男と、結婚するかもしれない私と関係することは、ありえない…
そんなことをすれば、信義違反…
私は、その男を裏切ることになる…
そして、その男=諏訪野伸明と、ナオキは、仲がいい…
ウマが合う…
だから、伸明との関係からも、ナオキは、私を求めてくることは、ありえない…
そんなことを、漠然と考えていると、いつしか、眠りについた…
私が、朝、目覚めると、すでに、ナオキの姿はなかった…
会社に出社した後だった…
リモート出社では、まだ、会社は、回せない…
どうしても、社長である、ナオキが、社長室に出向くしかないのであろう…
私は、思った…
私は、ひとりで、サイフォンで、コーヒーを入れて、飲んだ…
昔から、コーヒーは好きだった…
ずっと、以前、まだ学生の頃、ひとりで、喫茶店に入ったが、出されたコーヒーが、でがらしのコーヒーだった…
でがらし=すでに、一度、客に出したコーヒー豆で、抽出したコーヒーだった…
だから、まるで、薄い紅茶のようだった…
私は、ひどいと、憤ったが、なにも言えなかった…
まだ、二十歳前の学生だったからだ…
正確には、高校生だったからだ…
だが、今の年齢では、躊躇うことなく、文句を言える…
オバサンになったからだ(笑)…
若い頃は、口に出せなかったことも、口に出せるようになった…
思えば、その喫茶店の主も、こちらが、女子高生だから、文句も言えないと、思って、でがらしのコーヒーを出したのだろう…
ある程度の年齢なら、客に叱られる…
それを見越して、したのだろう…
個人経営の喫茶店だったが、おそらく、もうないに違いない…
そんな商売をしていたら、客を失う…
信用を失う…
どこの市で、飲んだのは、わかるが、具体的に、どこの店だったかは、忘れている…
覚えていない…
今では、ネットで検索すれば、たとえ、その店が独自にホームページを持っていなくても、地図等でわかるが、そもそも、どの店だったか、忘れているので、調べることができない…
私は、そんなこと、思い出した…
苦い思い出だが、今となっては、懐かしい思い出…
そして、それが、私の商売に対する原点になっていたのかもしれない…
商売というか、人間関係における原点というか…
商売に対する原点は、信用であるということ…
それが、大事だと痛感した…
一度いっただけの店だが、もう二度と訪れることはないと思った…
文句は言わないが、態度に出す…
そういうことだ…
その喫茶店の主と話した記憶はないが、信用できない人間と、思った…
それが、その喫茶店の主の評価だった…
そして、私だけでなく、きっと他の客にも、似たようなことを、何度もしていたに違いない…
今となっては、そう思える…
そのたびに、信用を失っていったに違いない…
そして、廃業…
終着点は、そこだったろう…
人間性が、商売に出た典型だった…
私は、それを思い出すと、結局は、ひとは、信用できるか、否かが、究極の評価というか、分かれ目になると、思った…
美人もブスも、関係ない…
イケメンもブザイクも、関係ない…
ルックスも、頭の良さも、生まれの良さも、なにも、関係ない…
つまり、能力の善し悪しも、なにも関係ないということだ…
その人間を信用できるか、否か、それが、すべてだった…
その人間を信用できなければ、その人間が、どんな報告をしようと、まったく、信用することができない…
なにを言っても、なにも言わないのと同じになる…
なにを言っても、信用できないからだ…
それが、私の対人関係の基本と言うか、その喫茶店での出来事が、その後の私の人格形成に大きな影響を与えた…
それを、思えば、その喫茶店の主は、恩人だった(爆笑)…
最強の半面教師だった(爆笑)…
諏訪野伸明から、連絡があったのは、そんなことを、考えている最中だった…
早朝だから、連絡をするのに、打ってつけと、思ったのかもしれない…
スマホの呼び出し音が鳴っているのに、気付いた私は、急いで、電話に出た…
ナオキだと、思ったからだ…
なにか、私に言いそびれたことがあるのだろうと思った…
だから、どこから電話があったのか、表示された電話番号を見なかった…
だから、
「…もしもし、なに?…」
と、高圧的な言い方をした…
電話の相手は、ナオキ以外に考えられないからだ…
が、
相手は、ナオキではなかった…
だから、相手は、面食らったというか…
戸惑ったらしい…
「…諏訪野ですが、おはようございます…」
と、申し訳ないような小声で、声が聞こえてきた…
…エッ?…
…諏訪野さん?…
私は、内心、慌てた…
と、同時に、今、ナオキの名前を出していないことに、安堵した…
ナオキの名前をいえば、ナオキと同居していたことが、バレる…
あるいは、すでに知っているかもしれないが、自分が結婚するかもしれない女が、自分とは、別の男と、同居していると、知って、少なくとも、気分がいい男は、この世の中に、いないだろう…
私は、一瞬、言葉に詰まったが、
「…おはようございます…」
と、返した…
すると、相手も、
「…」
と、無言だった…
どう返していいか、わからなかったのかもしれない…
少し間を置いて、
「…誰かと、間違えたようですね…」
と、声が聞こえてきた…
今度は、私が、黙る番だった…
私は、内心ビクビクだった…
諏訪野伸明の口から、藤原ナオキの名前が、いつ出てくるか、焦っていた…
が、
伸明は、なにも言わなかった…
それ以上、言及しなかった…
あるいは、知っていて、黙っていた可能性もある…
問い詰めれば、私が、困るし、真実を知れば、自分もまた、いい気はしない…
だから、これ以上、この話題を続けないのが、賢明だった…
私にしても、今現在、ナオキと同居はしているが、やましい関係でもなんでもない…
だが、それを主張しても、信じない人間は、なにを言っても信じない…
だから、あえて、なにも言わないのが、お互いに、賢明だった…
そこまで、考えたとき、
「…ご無沙汰しています…」
という声が聞こえてきた…
そして、その声が、なにより、遠慮がちで、はにかむような感じだった…
だから、その声を聞くと、私自身、ホッとしたというか…
こんなときに、横柄な上から目線の声で、
「…誰と間違えたんだ!…」
と、怒鳴られでもしたら、目も当てられないからだ…
が、
諏訪野伸明は、そんな人間ではなかった…
また、そんな人間ではないと、信じていたから、私は、結婚を前提に付き合った…
そういうことだ…
「…昨日、藤原さんと、電話で話したんですが、藤原さんから、聞いてますか?…」
「…ハイ…」
即答した…
「…私と会いたいと…」
「…そうです…」
諏訪野伸明が、応じた…
「…最近、全然、会ってない…」
「…そうですね…」
「…だから、やはり、直接会って、話したい…」
「…いつですか?…」
「…今日は、どうでしょう?…」
「…今日? …私は、構いません…ご承知の通り、病み上がりですし…いつでも、家にいますから…」
「…わかりました…でしたら、今日の午前中にでも、そちらに伺います…家は、藤原さんに聞いて、わかってますから、近くまで、行ったら、また、電話します…近くの店で、昼食でも食べながら、話しましょう…」
そう言うと、一方的に、伸明は、電話を切った…
私は、唖然とした…
伸明から、電話が来るのは、藤原ナオキから聞いて、わかっていたが、こんなに早くとは、思ってなかった…
朝一番…
まるで、昔の牛乳配達…
新聞配達だ…
一方で、そんなにも、早く伝えたかったんだろうか?
とも、思った…
朝、何時に、電話をすればいいのか、常識は、わからないが、まだ、7時にも、なっていない…
普通に考えれば、他人の家に電話をするには、早すぎる時間帯だ…
にも、かかわらず、電話をかけてくるとは?
それほど、重要なことなのだろうか?…
だとしたら、それは、別れ話かも?
とっさに、思った…
諏訪野伸明の口から、直接、これまでのことは、なかったことにしたいと、言いたいのかもしれない…
私は、思った…
これまでの話の流れから、考えるに、それが、一番当てはまる…
これは、私が、諏訪野伸明と結婚したいとか、したくないとかとは、別の話…
別次元の話だ…
すでに、諏訪野伸明には、五井家当主としての立場がある…
以前は、確かに、伸明のみならず、伸明の母の昭子も、私の入院する、五井記念病院の病室にやって来て、私と伸明の結婚を許すようなことを、言っていたが、あのときとは、状況が違う…
あのときは、まだ、五井は、内紛状態には、なかった…
が、
それをいえば、今も五井は内紛状態には、ない…
五井南家が、五井本家側に立ったことで、内紛が、終了したからだ…
しかし、
そこには、米倉平造の存在があり、あの佐藤ナナもいる…
つまりは、内紛が、終了したが、内紛以前と、内紛以後は、五井本家を巡る状況が、変わった…
そういうことだ…
それを、考えると、あらためて、ここは、私から、身を引くべきだと、思った…
これ以上、伸明の心を悩ませるのは、気が引ける…
さらにいえば、私と伸明は、付き合っているといっても、どれほどの付き合いでもない…
冷静に考えれば、結婚を前提として、付き合っているにしては、驚くほど、付き合いが浅かった…
それは、私が、ジュン君の運転するクルマで、はねられて、病院に入院したこともあるし、諏訪野伸明が、仕事で忙しいこともある…
だから、まるで、多忙な芸能人かなにかが、交際するように、実質的に会う時間がなかった…
実質的に会う機会がなかった…
それを考えると、それほど会う機会が、少なかったにも、かかわらず、互いが、結婚を意識したのが、不思議…
おかしい(笑)…
互いが、互いのことを、知らなすぎるのだ(笑)…
これでは、仮に結婚すれば、どうなるのか、わからない…
これでは、まるで、お見合いだ…
一度か二度、会って、結婚を決める…
それと同じだ…
大昔、母の若い頃には、冗談で、
…一回目のデートで、手を握り、二回目のデートで、キスをして、三回目のデートで結婚の約束をする…
そんなことを、女の友人同士で、言い合ったそうだ(笑)…
それと、似ている…
だが、まあ、見合いが、悪いというわけではない…
なまじ、会社の同僚や、学校の友人と結婚をして、いっしょに生活を送り、
…こんな人とは、思わなかった…
というのは、よく聞く話だ…
公私というと、おおげさだが、会社や学校で見せる顔と、家で見せる顔がまるで、違うのだろう…
学校や会社では、いつもニコニコと、いい人を演じていて、そのくせ、家では、他人の悪口ばかり…
よく聞く話だ(笑)…
要するに、裏表が激し過ぎるのだ…
これは、極端すぎる例だが、皆、似たようなものだ(笑)…
むしろ、見合いで結婚して、よくわからないまま、いっしょになった方が、幸せかもしれない…
…このひとは、こんなひと!…
そんな予備知識がないままに結婚するから、
…あれ、なんか、思ってたのと、違う!…
が、ない…
だから、ゼロ…
予備知識ゼロだから、相手が、どんなひとか、わからない…
せいぜいが、学歴や職歴やルックス…
どんな学校を出て、どんな会社に勤めているかしか、知らない…
そして、わかるのが、初対面での互いの印象ぐらいだ…
それで、結婚する方が、会社の同僚や、学校の友人と結婚するよりもいいかもしれない…
予備知識がないから、裏切られることがない…
互いに、どんなひとか、わからないからだ…
私は、そんなことを、思った…
いつのまにか、伸明の話から、見合いの話に、意識が飛んだ(笑)…
それから、今日、これから、諏訪野伸明と、どんな話をするのだろう?
と、あらためて、思った…
やはり、別れ話だろうか?
それを思うと、身を切られるように辛かったが、やはり、覚悟はしなければ、ならない…
いや、
覚悟さえ、しておけば、思ったよりも、衝撃は浅い…
ダメージは少ない…
あらかじめ、誰かに殴られるとわかっていて、殴られるのと、いきなり殴られるのでは、痛みが、違う…
そういうことだ…
それを、思えば、覚悟ができた…
別れる決意ができた…
そういうことだった…