第96話
文字数 6,187文字
…たしかに、昭子の言うことは、わかる…
父親でも母親でも、一方が違えば、兄弟姉妹の能力が異なる場合が、多くなる…
いわば、ふり幅が、大きいというか…
同じ両親から、生まれるよりも、差があって、当たり前だ…
だから、五井の当主を選ぶ場合に有利になる…
しかし、
しかし、だ…
自分の火遊びを、そんなふうに正当化するとは…
どんなに、自分に都合よく考える人間のだろう…
その鋼(はがね)のメンタルを思った…
そして、それは、他の二人も、同じだったようだ…
「…要するに、自分のしでかしたことを、正当化しただけでしょ?…」
ユリコが、辛辣に言った…
「…自分に都合よく…」
ユリコが、続ける…
さすがに、ユリコも、この昭子の自己正当化に、我慢がならなかったようだ…
「…鼻持ちならない女…」
ユリコが、断言した…
が、
昭子は、微動だにしなかった…
まるっきり、動揺しなかった…
「…ピンチは、チャンス…どんなピンチも、チャンスだと思って、乗り越えなければ、なりません…」
昭子が、穏やかに、言った…
「…ここにいる皆さんは、女性だから、言いますが、主人の建造は、私の判断に、異を唱えることは、ありませんでした…」
「…ウソォ!…」
ユリコが、大声で、叫んだ…
「…ウソではありません…」
「…ウソじゃない? …だったら、どうして?…」
「…五井の繁栄のためです…」
「…繁栄のため?…」
「…父親が、違えば、兄弟の性格も、ルックスも、能力も、異なる子供が産まれる可能性が高い…建造は、それを知って、納得してくれました…」
「…」
「…すべては、五井のため…五井の永続した発展のためです…」
「…」
「…これは、大げさにいえば、皇室の発展と同じです…私たち今いる五井の人間たちは、次の世代に、五井を渡さなければ、なりません…そして、渡された世代の者たちは、また、同じ形で、その次の世代へ…未来永劫続かなければ、ならないのです…」
「…」
「…そのためには、少しでも、優れた人物が、当主になること…」
昭子が、鬼気迫る表情で、告げた…
「…無能な人間は、たとえ、自分の産んだ子供でも、切らねば、なりません…」
「…」
「…そして、無能な人物…秀樹は、私も主人の建造も、嫌ってました…だから、なんの問題もなかった…問題は、冬馬と伸明でした…」
「…どうして、伸明さんと、冬馬さんなの?…」
ユリコが、訊いた…
「…伸明は、人柄が、良すぎる…真逆に、冬馬は、決して、人柄が、悪いわけではないけれども、ひとから好かれない…」
「…」
「…だから、わざと風を吹かせたのです…」
「…風を吹かせた? …どういうこと?…」
「…わざと、冬馬を孤立させた…その冬馬に伸明が、どう接するのかも、見たかった…」
「…」
「…いずれにしても、すべては、五井の次期当主になるための試練です…」
「…試練?…」
「…ただの凡人では、五井家の当主は、務まりません…私も主人も、五井に生まれ、五井に、育ち、五井に人生のすべてを捧げて、生きてきました…」
「…」
「…本当ならば、こんな生き方は嫌だった…もっと、他のひとたちのように、自由に生きたかった…」
「…」
「…それが、本音です…」
昭子が、告げた…
誰も、なにも、言わなかった…
沈黙が辺りを支配した…
重い…
実に、重い、告白だった…
すべては、五井のため…
たとえ、自分の火遊びも、五井のために、活用する…
なんといっていいか、わからない…
正直、なんといっていいか、わからない告白だった…
重い…
重すぎる…
とりわけ、私とユリコは、重く受け止めた…
が、
佐藤ナナは、違った…
まだ、若い、佐藤ナナは、それほど、深刻に受け止めなかった…
人生経験が、浅いからだ…
「…つまり、冬馬さんを、父に預けたのも、冬馬さんを、鍛えるためだったってことですか?…」
佐藤ナナが、訊いた…
「…そうです…」
「…昭子さんが、認めてない父の重方(しげかた)に、冬馬さんを、預けるなんて…誰がどう見ても、体のいい厄介払いじゃないですか?…」
「…」
「…自分が、生んだ息子を、弟の子供にするなんて…」
「…それしかなかったんです…」
昭子が、ゆっくりと、言った…
「…なかった? …どうして?…」
佐藤ナナが、叫んだ…
「…五井東家…」
「…五井東家?…」
「…跡取りが、いなければ、なくなってしまうでしょ?…」
昭子が笑った…
その発言で、気付いた…
すべては、五井のためという、さっき言った昭子の言葉の意味に、気付いた…
言葉は、悪いが、冬馬の有効活用というか…
自分の産んだ子供を、重方(しげかた)の息子とした…
そうすれば、五井東家に跡取りができるからだ…
跡取りがいない五井東家は、消滅の危機が、生じかねない…
だから、自らの産んだ息子を、重方(しげかた)の息子とすることで、消滅の危機を回避したといえる…
「…そういうこと…」
佐藤ナナも、納得したようだ…
「…つまり、弟の重方(しげかた)は、嫌いだけれども、五井東家は、潰せなかったってこと?…」
「…その通りです…」
昭子が告げた…
「…五井は、ひとつ…五井は十三家…どれも、五井です…ひとつもかけては、なりません…」
昭子が、続けた…
それは、昭子の五井に対する思いの深さが、見て取れた…
「…すべては、五井のためなのです…五井に生まれたものは、五井に尽くし、五井のために生きる…それが、宿命です…が、重方(しげかた)は、それができなかった…」
「…どういう意味ですか?…」
「…選挙に出て、五井から離れた…五井のために生きるのではなく、自分のしたいことを、しようとした…」
「…」
「…それが、許せなかった…また、それを許せば、五井が、滅びる…」
「…どうして、滅びるんですか?…」
「…それぞれが、五井ではなく、自分の欲望が、中心になる…すると、瓦解する…」
「…」
「…だから、重方(しげかた)を許すわけには、いかなかった…それを、許せば、五井は、大げさに、いえば、崩壊するからです…」
「…」
「…どんな大きなダムも、蟻の一穴で、崩壊するものなのです…だから、どんなほころびも、許すわけにはいかない…」
「…」
「…すべては、五井のため…それが、すべて…私も建造も、それが、すべてでした…」
昭子が、涙声で、言った…
感極まったのだろう…
たしかに、自分の人生を五井のために、生きるのは、大変だろう…
そのために、すべてを、犠牲にすることになる…
皇室を例に取れば、わかるが、皇族として、生まれれば、生活は、安定するが、自由がない…
自分勝手に、自由に振る舞うことはできず、恋愛も、結婚も、自由ではない…
勉強は、したくなくても、しなければ、ならない…
最低でも、英語を流ちょうに、喋ることぐらいは、できなければ、ならない…
その一方、生活は、安定する…
失業する危険もなければ、受験で、悩む必要もない…
会社の昇進も関係ない…
ただし、自由がない…
要するに、生活の安定がない、自由か、生活は一生何不自由なく安定するが、自由がない生活か、その違いだ…
どちらがいいかは、わからない…
ただし、皇族として、生まれるか否かを、選ぶことはできない…
それと、似ている…
五井の人間として、生まれれば、嫌でも、五井の人間として、生きなければ、ならない…
そして、五井の人間として、生きることは、皇室よりは、はるかに、自由があることは、確かだが、皇室のように、未来永劫あり続けるのは、難しい…
いかに、400年の歴史があろうとも、一企業…
単なる民間の企業だ…
だから、生き残るのが、大変となる…
それゆえ、この昭子が、言うように、五井家の当主は、優秀でなければ、ならない…
優秀でなければ、五井は、生き残れないからだ…
どんな時代も、生きるのは、大変…
生き残るのは、大変だ…
私は、それを思った…
そして、そんな私以上に、その大変さを、痛感しているのが、この昭子なのだろう…
すでに70代…
まだ32歳の私に比べれば、はるかに、長く生きている…
その間の企業の栄枯盛衰を、目の当たりにしている…
バブル経済の発生と、崩壊も、見ている…
経験している…
バブルもそうだが、どんなことでも、見るのと、聞くのでは、大違い…
バブル当時、日本は、どんなに景気が良かったか、本を読んだり、ネットで、検索したり、はたまた、佐藤ナナのように、若ければ、バブルを経験した父親や母親に聞けば、わかるが、それでも、自分が、経験したことではない…
だから、どうしても、実感が湧かない…
当たり前のことだ…
ひとは、誰もが、経験して、初めて、実感する…
その違いだ…
そして、なにより、昭子の年齢…
若ければ、あまり、考えないが、歳を取ると、誰もが、多少は、思慮深くなる…
簡単な例でいえば、モノを捨てられなくなる…
もしかしたら、取っておけば、なにかの役に立つかもしれないと、考える…
また、用心深くなる…
若いときは、深夜、平気で、一人で歩いていても、気にしなかったが、歳を取れば、もしや男に襲われでもしたら、困ると、考えるようになる(笑)…
まあ、これは、あくまで、私の場合だが(笑)…
つまり、歳を取れば、どんな人間も、大抵は、少しは、思慮深くなり、用心深くなるということだ…
私は、それを思った…
が、
佐藤ナナは、そうは、思わなかったようだ…
「…詭弁(きべん)ですね…」
と、断言した…
「…詭弁(きべん)?…」
昭子が、敏感に反応した…
「…どうして、詭弁(きべん)なの?…」
「…簡単です…」
「…簡単?…」
「…昭子さんが、冬馬さんを、父に押し付けたのは、単純に、冬馬さんを嫌いだからですよね…」
佐藤ナナの言葉に、
「…」
と、昭子は、沈黙した…
「…冬馬さんの、あの険のある目が嫌いだったんでしょ?…」
「…」
「…父から、聞きました…」
「…重方(しげかた)から…」
「…ハイ…」
佐藤ナナの言葉に、
「…」
と、昭子は、無言だった…
「…自分と、別れた男と、同じ目を持つ、息子が、いれば、嫌でも、別れた男のことを、思い出す…それが、嫌だったのでしょ?…」
「…」
「…五井の女帝といわれ、権力を持てば、誰もが、いいなりになる…」
「…」
「…たとえ、心の中で、変だと思っていても、誰もが、口に出せない…口に出せば、どんな報復をされるか、わからないから…」
「…」
「…違いますか?…」
佐藤ナナが、直球で、訊いた…
まさに、直球…
ストレートの質問だった…
昭子の表情が、険しくなった…
それから、ホッと、ため息をついた…
「…ほんと、重方(しげかた)の娘ね…血は争えない…」
昭子が、苦笑いを浮かべながら、ゆっくりと、口を開いた…
「…ズケズケと、ストレートに、言ってくる…」
「…でも、間違っていませんよね?…」
佐藤ナナが、ダメ出しした…
が、
それには、昭子は、答えなかった…
ただ、
「…ホント、癪(しゃく)に障る…」
と、苦笑した…
「…嫌いな者は、嫌い…ただ、それだけ…」
昭子が、サバサバした調子で、言った…
「…嫌いな者は、どうしても、好きになれない…」
昭子が、続けた…
「…そして、私が、嫌いな者で、成功した人間は、誰もいない…ただの一人もいない…」
昭子が、力を込めた…
「…若い頃は、気付かなかったけれども、それが、もしかしたら、私の能力かもしれない…」
「…能力? …そんな、ただの好き嫌いで、選んだ人間が?…」
「…そう…」
短く、答えた…
昭子の返答に、佐藤ナナは、絶句して、それから、
「…そんなバカみたい…」
と、ケラケラ笑った…
そして、
「…ねっ? 寿さんも、ユリコさんも、そう思うでしょ?…」
と、私たち二人に、同意を求めた…
が、
二人とも、笑わなかった…
むしろ、昭子の言葉の方が、真実味があった…
つまり、直観…
バカげていると、思うかもしれないが、この直観は、バカにならない…
歳を取ってみれば、この直観が、案外正しいことが、わかる…
出会って、すぐに、狡猾な男と、判断すれば、それは、狡猾な男で、間違いはない…
そういうことだ(笑)…
そして、そんな経験が重なり、自分の直感の重要性に気付く…
少なくとも、私は、そうだった…
そして、それは、ユリコもまた同じだったに違いない…
だから、佐藤ナナの問いかけに、私同様、なにも言わなかった…
なにも、答えなかった…
が、
若い佐藤ナナは、それに気付かなかった…
「…やだ…二人とも、昭子さんに、気を使ってるんですか?…」
と、屈託なく言った…
それに対して、私もユリコも、
「…」
と、無言だった…
能面のように、無表情のまま、口を開かなかった…
「…やだ…二人とも、そんな難しい顔をして…」
佐藤ナナが、必死になって、その場の雰囲気を変えようとした…
が、
変わらなかった…
むしろ、佐藤ナナの言葉だけが、空回りした…
「…アナタ…若いのよ…」
昭子が、声を上げた…
「…この二人は、私が、言った意味がわかる…」
昭子が、重々しく言った…
「…佐藤さん…アナタは、頭がいいのだけれども、ただの頭でっかちになってる…」
「…頭でっかち?…」
「…東大を出れば、自分は、どんな会社にでも、受かり、そこで、出世すると、単純に思っているのと、同じ…」
「…」
「…ダメな人間はダメ…東大を出ても、どんなにイケメンに生まれようと、ダメ…ルックスも能力も秀でていても、周囲の者が、納得しない…」
「…」
「…重方(しげかた)は、最後まで、その事実に、気付かなかった…」
「…」
「…だから、大場派をやめて、菊池派を立ち上げても、五井が、重方(しげかた)を支持しないと、明言すれば、櫛の歯が欠けるように、菊池派を、いっしょに立ち上げようとした同志が、次々と、やめた…」
「…」
「…私は、それが、わかっているから、最初から、重方(しげかた)が、国会議員になるのは、反対だった…皆、重方(しげかた)ではなく、五井の金目当てに、ひとが、寄って来る…そして、その結末は、わかっていた…」
「…わかっていた? …どうして?…」
「…ひとに好かれない人間は、どこに、行っても、好かれない…」
「…」
「…重方(しげかた)は、そこまで、ひどくはないけれども、人間としての、魅力に乏しい…ひとを束ねるには、ひととして、魅力がなければ、ダメ…重方(しげかた)には、それが、根本的に欠けている…」
「…」
「…重方(しげかた)は、最後まで、その事実に、気付かなかった…」
昭子が、笑った…
佐藤ナナが、無言に、なった…
「…」
と、黙り込んだ…
重苦しい沈黙が、辺りを包んだ…
「…だったら…」
と、突然、佐藤ナナが、言った…
「…だったら、五井家の当主は、伸明さんでよかったんですか?…」
仰天する質問だった…
私と、ユリコは、思わず、顔を見合わせた…
「…それは、まだ、わかりません…」
昭子が、即答した…
私と、ユリコは、またも、顔を見合わせた…
それほどの衝撃的な言葉だった…
父親でも母親でも、一方が違えば、兄弟姉妹の能力が異なる場合が、多くなる…
いわば、ふり幅が、大きいというか…
同じ両親から、生まれるよりも、差があって、当たり前だ…
だから、五井の当主を選ぶ場合に有利になる…
しかし、
しかし、だ…
自分の火遊びを、そんなふうに正当化するとは…
どんなに、自分に都合よく考える人間のだろう…
その鋼(はがね)のメンタルを思った…
そして、それは、他の二人も、同じだったようだ…
「…要するに、自分のしでかしたことを、正当化しただけでしょ?…」
ユリコが、辛辣に言った…
「…自分に都合よく…」
ユリコが、続ける…
さすがに、ユリコも、この昭子の自己正当化に、我慢がならなかったようだ…
「…鼻持ちならない女…」
ユリコが、断言した…
が、
昭子は、微動だにしなかった…
まるっきり、動揺しなかった…
「…ピンチは、チャンス…どんなピンチも、チャンスだと思って、乗り越えなければ、なりません…」
昭子が、穏やかに、言った…
「…ここにいる皆さんは、女性だから、言いますが、主人の建造は、私の判断に、異を唱えることは、ありませんでした…」
「…ウソォ!…」
ユリコが、大声で、叫んだ…
「…ウソではありません…」
「…ウソじゃない? …だったら、どうして?…」
「…五井の繁栄のためです…」
「…繁栄のため?…」
「…父親が、違えば、兄弟の性格も、ルックスも、能力も、異なる子供が産まれる可能性が高い…建造は、それを知って、納得してくれました…」
「…」
「…すべては、五井のため…五井の永続した発展のためです…」
「…」
「…これは、大げさにいえば、皇室の発展と同じです…私たち今いる五井の人間たちは、次の世代に、五井を渡さなければ、なりません…そして、渡された世代の者たちは、また、同じ形で、その次の世代へ…未来永劫続かなければ、ならないのです…」
「…」
「…そのためには、少しでも、優れた人物が、当主になること…」
昭子が、鬼気迫る表情で、告げた…
「…無能な人間は、たとえ、自分の産んだ子供でも、切らねば、なりません…」
「…」
「…そして、無能な人物…秀樹は、私も主人の建造も、嫌ってました…だから、なんの問題もなかった…問題は、冬馬と伸明でした…」
「…どうして、伸明さんと、冬馬さんなの?…」
ユリコが、訊いた…
「…伸明は、人柄が、良すぎる…真逆に、冬馬は、決して、人柄が、悪いわけではないけれども、ひとから好かれない…」
「…」
「…だから、わざと風を吹かせたのです…」
「…風を吹かせた? …どういうこと?…」
「…わざと、冬馬を孤立させた…その冬馬に伸明が、どう接するのかも、見たかった…」
「…」
「…いずれにしても、すべては、五井の次期当主になるための試練です…」
「…試練?…」
「…ただの凡人では、五井家の当主は、務まりません…私も主人も、五井に生まれ、五井に、育ち、五井に人生のすべてを捧げて、生きてきました…」
「…」
「…本当ならば、こんな生き方は嫌だった…もっと、他のひとたちのように、自由に生きたかった…」
「…」
「…それが、本音です…」
昭子が、告げた…
誰も、なにも、言わなかった…
沈黙が辺りを支配した…
重い…
実に、重い、告白だった…
すべては、五井のため…
たとえ、自分の火遊びも、五井のために、活用する…
なんといっていいか、わからない…
正直、なんといっていいか、わからない告白だった…
重い…
重すぎる…
とりわけ、私とユリコは、重く受け止めた…
が、
佐藤ナナは、違った…
まだ、若い、佐藤ナナは、それほど、深刻に受け止めなかった…
人生経験が、浅いからだ…
「…つまり、冬馬さんを、父に預けたのも、冬馬さんを、鍛えるためだったってことですか?…」
佐藤ナナが、訊いた…
「…そうです…」
「…昭子さんが、認めてない父の重方(しげかた)に、冬馬さんを、預けるなんて…誰がどう見ても、体のいい厄介払いじゃないですか?…」
「…」
「…自分が、生んだ息子を、弟の子供にするなんて…」
「…それしかなかったんです…」
昭子が、ゆっくりと、言った…
「…なかった? …どうして?…」
佐藤ナナが、叫んだ…
「…五井東家…」
「…五井東家?…」
「…跡取りが、いなければ、なくなってしまうでしょ?…」
昭子が笑った…
その発言で、気付いた…
すべては、五井のためという、さっき言った昭子の言葉の意味に、気付いた…
言葉は、悪いが、冬馬の有効活用というか…
自分の産んだ子供を、重方(しげかた)の息子とした…
そうすれば、五井東家に跡取りができるからだ…
跡取りがいない五井東家は、消滅の危機が、生じかねない…
だから、自らの産んだ息子を、重方(しげかた)の息子とすることで、消滅の危機を回避したといえる…
「…そういうこと…」
佐藤ナナも、納得したようだ…
「…つまり、弟の重方(しげかた)は、嫌いだけれども、五井東家は、潰せなかったってこと?…」
「…その通りです…」
昭子が告げた…
「…五井は、ひとつ…五井は十三家…どれも、五井です…ひとつもかけては、なりません…」
昭子が、続けた…
それは、昭子の五井に対する思いの深さが、見て取れた…
「…すべては、五井のためなのです…五井に生まれたものは、五井に尽くし、五井のために生きる…それが、宿命です…が、重方(しげかた)は、それができなかった…」
「…どういう意味ですか?…」
「…選挙に出て、五井から離れた…五井のために生きるのではなく、自分のしたいことを、しようとした…」
「…」
「…それが、許せなかった…また、それを許せば、五井が、滅びる…」
「…どうして、滅びるんですか?…」
「…それぞれが、五井ではなく、自分の欲望が、中心になる…すると、瓦解する…」
「…」
「…だから、重方(しげかた)を許すわけには、いかなかった…それを、許せば、五井は、大げさに、いえば、崩壊するからです…」
「…」
「…どんな大きなダムも、蟻の一穴で、崩壊するものなのです…だから、どんなほころびも、許すわけにはいかない…」
「…」
「…すべては、五井のため…それが、すべて…私も建造も、それが、すべてでした…」
昭子が、涙声で、言った…
感極まったのだろう…
たしかに、自分の人生を五井のために、生きるのは、大変だろう…
そのために、すべてを、犠牲にすることになる…
皇室を例に取れば、わかるが、皇族として、生まれれば、生活は、安定するが、自由がない…
自分勝手に、自由に振る舞うことはできず、恋愛も、結婚も、自由ではない…
勉強は、したくなくても、しなければ、ならない…
最低でも、英語を流ちょうに、喋ることぐらいは、できなければ、ならない…
その一方、生活は、安定する…
失業する危険もなければ、受験で、悩む必要もない…
会社の昇進も関係ない…
ただし、自由がない…
要するに、生活の安定がない、自由か、生活は一生何不自由なく安定するが、自由がない生活か、その違いだ…
どちらがいいかは、わからない…
ただし、皇族として、生まれるか否かを、選ぶことはできない…
それと、似ている…
五井の人間として、生まれれば、嫌でも、五井の人間として、生きなければ、ならない…
そして、五井の人間として、生きることは、皇室よりは、はるかに、自由があることは、確かだが、皇室のように、未来永劫あり続けるのは、難しい…
いかに、400年の歴史があろうとも、一企業…
単なる民間の企業だ…
だから、生き残るのが、大変となる…
それゆえ、この昭子が、言うように、五井家の当主は、優秀でなければ、ならない…
優秀でなければ、五井は、生き残れないからだ…
どんな時代も、生きるのは、大変…
生き残るのは、大変だ…
私は、それを思った…
そして、そんな私以上に、その大変さを、痛感しているのが、この昭子なのだろう…
すでに70代…
まだ32歳の私に比べれば、はるかに、長く生きている…
その間の企業の栄枯盛衰を、目の当たりにしている…
バブル経済の発生と、崩壊も、見ている…
経験している…
バブルもそうだが、どんなことでも、見るのと、聞くのでは、大違い…
バブル当時、日本は、どんなに景気が良かったか、本を読んだり、ネットで、検索したり、はたまた、佐藤ナナのように、若ければ、バブルを経験した父親や母親に聞けば、わかるが、それでも、自分が、経験したことではない…
だから、どうしても、実感が湧かない…
当たり前のことだ…
ひとは、誰もが、経験して、初めて、実感する…
その違いだ…
そして、なにより、昭子の年齢…
若ければ、あまり、考えないが、歳を取ると、誰もが、多少は、思慮深くなる…
簡単な例でいえば、モノを捨てられなくなる…
もしかしたら、取っておけば、なにかの役に立つかもしれないと、考える…
また、用心深くなる…
若いときは、深夜、平気で、一人で歩いていても、気にしなかったが、歳を取れば、もしや男に襲われでもしたら、困ると、考えるようになる(笑)…
まあ、これは、あくまで、私の場合だが(笑)…
つまり、歳を取れば、どんな人間も、大抵は、少しは、思慮深くなり、用心深くなるということだ…
私は、それを思った…
が、
佐藤ナナは、そうは、思わなかったようだ…
「…詭弁(きべん)ですね…」
と、断言した…
「…詭弁(きべん)?…」
昭子が、敏感に反応した…
「…どうして、詭弁(きべん)なの?…」
「…簡単です…」
「…簡単?…」
「…昭子さんが、冬馬さんを、父に押し付けたのは、単純に、冬馬さんを嫌いだからですよね…」
佐藤ナナの言葉に、
「…」
と、昭子は、沈黙した…
「…冬馬さんの、あの険のある目が嫌いだったんでしょ?…」
「…」
「…父から、聞きました…」
「…重方(しげかた)から…」
「…ハイ…」
佐藤ナナの言葉に、
「…」
と、昭子は、無言だった…
「…自分と、別れた男と、同じ目を持つ、息子が、いれば、嫌でも、別れた男のことを、思い出す…それが、嫌だったのでしょ?…」
「…」
「…五井の女帝といわれ、権力を持てば、誰もが、いいなりになる…」
「…」
「…たとえ、心の中で、変だと思っていても、誰もが、口に出せない…口に出せば、どんな報復をされるか、わからないから…」
「…」
「…違いますか?…」
佐藤ナナが、直球で、訊いた…
まさに、直球…
ストレートの質問だった…
昭子の表情が、険しくなった…
それから、ホッと、ため息をついた…
「…ほんと、重方(しげかた)の娘ね…血は争えない…」
昭子が、苦笑いを浮かべながら、ゆっくりと、口を開いた…
「…ズケズケと、ストレートに、言ってくる…」
「…でも、間違っていませんよね?…」
佐藤ナナが、ダメ出しした…
が、
それには、昭子は、答えなかった…
ただ、
「…ホント、癪(しゃく)に障る…」
と、苦笑した…
「…嫌いな者は、嫌い…ただ、それだけ…」
昭子が、サバサバした調子で、言った…
「…嫌いな者は、どうしても、好きになれない…」
昭子が、続けた…
「…そして、私が、嫌いな者で、成功した人間は、誰もいない…ただの一人もいない…」
昭子が、力を込めた…
「…若い頃は、気付かなかったけれども、それが、もしかしたら、私の能力かもしれない…」
「…能力? …そんな、ただの好き嫌いで、選んだ人間が?…」
「…そう…」
短く、答えた…
昭子の返答に、佐藤ナナは、絶句して、それから、
「…そんなバカみたい…」
と、ケラケラ笑った…
そして、
「…ねっ? 寿さんも、ユリコさんも、そう思うでしょ?…」
と、私たち二人に、同意を求めた…
が、
二人とも、笑わなかった…
むしろ、昭子の言葉の方が、真実味があった…
つまり、直観…
バカげていると、思うかもしれないが、この直観は、バカにならない…
歳を取ってみれば、この直観が、案外正しいことが、わかる…
出会って、すぐに、狡猾な男と、判断すれば、それは、狡猾な男で、間違いはない…
そういうことだ(笑)…
そして、そんな経験が重なり、自分の直感の重要性に気付く…
少なくとも、私は、そうだった…
そして、それは、ユリコもまた同じだったに違いない…
だから、佐藤ナナの問いかけに、私同様、なにも言わなかった…
なにも、答えなかった…
が、
若い佐藤ナナは、それに気付かなかった…
「…やだ…二人とも、昭子さんに、気を使ってるんですか?…」
と、屈託なく言った…
それに対して、私もユリコも、
「…」
と、無言だった…
能面のように、無表情のまま、口を開かなかった…
「…やだ…二人とも、そんな難しい顔をして…」
佐藤ナナが、必死になって、その場の雰囲気を変えようとした…
が、
変わらなかった…
むしろ、佐藤ナナの言葉だけが、空回りした…
「…アナタ…若いのよ…」
昭子が、声を上げた…
「…この二人は、私が、言った意味がわかる…」
昭子が、重々しく言った…
「…佐藤さん…アナタは、頭がいいのだけれども、ただの頭でっかちになってる…」
「…頭でっかち?…」
「…東大を出れば、自分は、どんな会社にでも、受かり、そこで、出世すると、単純に思っているのと、同じ…」
「…」
「…ダメな人間はダメ…東大を出ても、どんなにイケメンに生まれようと、ダメ…ルックスも能力も秀でていても、周囲の者が、納得しない…」
「…」
「…重方(しげかた)は、最後まで、その事実に、気付かなかった…」
「…」
「…だから、大場派をやめて、菊池派を立ち上げても、五井が、重方(しげかた)を支持しないと、明言すれば、櫛の歯が欠けるように、菊池派を、いっしょに立ち上げようとした同志が、次々と、やめた…」
「…」
「…私は、それが、わかっているから、最初から、重方(しげかた)が、国会議員になるのは、反対だった…皆、重方(しげかた)ではなく、五井の金目当てに、ひとが、寄って来る…そして、その結末は、わかっていた…」
「…わかっていた? …どうして?…」
「…ひとに好かれない人間は、どこに、行っても、好かれない…」
「…」
「…重方(しげかた)は、そこまで、ひどくはないけれども、人間としての、魅力に乏しい…ひとを束ねるには、ひととして、魅力がなければ、ダメ…重方(しげかた)には、それが、根本的に欠けている…」
「…」
「…重方(しげかた)は、最後まで、その事実に、気付かなかった…」
昭子が、笑った…
佐藤ナナが、無言に、なった…
「…」
と、黙り込んだ…
重苦しい沈黙が、辺りを包んだ…
「…だったら…」
と、突然、佐藤ナナが、言った…
「…だったら、五井家の当主は、伸明さんでよかったんですか?…」
仰天する質問だった…
私と、ユリコは、思わず、顔を見合わせた…
「…それは、まだ、わかりません…」
昭子が、即答した…
私と、ユリコは、またも、顔を見合わせた…
それほどの衝撃的な言葉だった…