第80話

文字数 6,029文字

 「…冬馬さん…一体、なにを?…」

 私は、冬馬に抱きすくめられたまま、文句を言った


 これは、誰だって、そうだろう…

 好きでもない男に、いきなり、抱きすくめられたら、文句の一つも、言いたくなる…

 しかも、

 しかも、だ…
 
 「…寿綾乃…アンタを伸明さんから、奪ってみせる…」

 と、伸明の名前まで、出された…

 つまり、伸明に対抗する意味で、私を抱きすくめた…

 そういうことだろう…

 別の見方をすれば、私が、伸明と交際していなければ、こんなことを、しなかったということだ…

 だから、私は、今、冬馬に抱き締められながら、

 「…冬馬さん…」

 と、声をかけた…

 「…なんですか?…」

 冬馬は、私を抱き締めながら、呟いた…

 「…失礼じゃ、ありませんか?…」

 「…失礼?…」

 「…そうです…冬馬さんの今の言い方では、まるで、私が、伸明さんの所有物のようじゃ…」

 私の言葉に、私を抱き締めた冬馬のカラダが、固まったというか…

 明らかに、動きが止まった…

 「…私は、伸明さんの所有物じゃ、ありません…」

 私は、強く、言った…

 「…誰かの所有物じゃ、ありません…」

 「…」

 「…私は、私です…誰のものでも、ありません…」

 さらに、強く、言い切った…

 すると、すぐに、冬馬が、私を抱き締めた腕を離した…

 私から、後ずさりして、距離を置いた…

 それから、私のカラダを、頭の上から、足の先まで、ぶしつけに見た…

 まるで、検査するように、無礼なまでに、ジロジロと、見た…

 それから、

 「…寿綾乃…」

 と、私の名前を呼んだ…

 「…いや、矢代綾子…」

 いきなり、私の本名を呼んだ…

 「…五井記念病院に運ばれてきた時、アンタは、虫の息だった…」

 冬馬が、突然、言った…

 「…だが、周囲の尽力もあり、奇跡的に、回復した…」

 一体、なにが、言いたいのだろう…

 私は、思った…

 いきなり、私が、五井記念病院に、運ばれてきたときの話を始めたから、驚いたが、この菊池冬馬は、当時、五井記念病院の理事長だった…

 だから、私が、五井記念病院に運ばれてきたときのことを、知っていて、おかしくはない…

 しかし、今、いきなり、私が、五井記念病院に、救急車で、運ばれてきたときのことを、語るとは、思わなかった…

 あまりにも、突然というか…

 一体、どうして、そんなことを、言い出すのだろう?

 疑問だった…

 が、

 聞かなかった…

 あえて、なにも、言わなかった…

 なにも、言わずとも、待っていれば、この冬馬が、わけを話し出す…

 そう、思っていたからだ…

 「…菊池リン…彼女からの連絡があったから、慌てて、オレは、アンタのために、手術の用意をした…」

 「…」

 「…オレは、運ばれて来た、アンタを一目見て、手遅れだと思った…」

 「…」

 「…カラダ中から、出血があるとか、そんなことは、なかったが、すでに、意識がなく、なにより、顔に死相が出ていた…」

 「…」

 「…これまで、いろんな患者を診てきたが、顔に死相が出て、生き返ったのは、ごくわずか…数えるほどだ…」

 「…」

 「…あくまで、結果論だが、あのとき、アンタは、癌が原因で、死相が出ていた…事故が原因じゃ、なかった…」

 「…」

 「…だから、事故の後遺症もなかった…長谷川が言うには、たまたま、運が良かったに過ぎない…」

 「…」

 「…五井の…この国の最先端の医療技術で、アンタは、なんとか、生き返った…少しは、それに、感謝してもらいたいな…」

 冬馬が言って、笑った…

 私は、黙って、そんな冬馬を見た…

 だが、

 問題は、そこではない…

 冬馬ではない…

 一体、なぜ、冬馬が、突然、そんなことを、言い出したか、否か、だ…

 まさか…

 まさか…

 私は、考え込んだ…

 考えたくないことだが、ひょっとして、この冬馬は…

 と、

 そこまで、考えて、考えることを止めた…

 いくら、考えても、答えが出ないからだ…

 「…伸明さんは、アンタを利用した…」

 「…」

 「…アンタと結婚するフリをして、それに反発する一族を粛清しようとした…その最たる標的が、菊池重方(しげかた)だった…」

 「…」

 「…重方(しげかた)は、バカではないが、軽いというか、思慮が足りないところがある…米倉平造に、うまく、五井情報を売り渡して、そのお礼に、キックバックした金を、受け取って、自分の派閥を作ろうとした…いかにも、わかりやす過ぎる…」

 「…」

 「…アンタも同じだ…」

 …同じ?…

 …どういうことだろう?…

 「…ユリコ…藤原ユリコ…アンタの同居人、藤原ナオキの妻だった女だ…」

 「…ユリコさんが、どうかしたんですか?…」

 「…伸明さんが、今、アンタとの結婚を隠れ蓑にして、五井家の中で、自分の当主としての地位を確立しようとして、あくせくしている最中に、五井の株を買い漁っているよ…」

 「…五井の株を買い漁っている?…」

 思いもよらない言葉だった…

 いや、

 そもそも、私は、ユリコの存在すら、忘れていた…

 ユリコは、言うまでもなく、ジュン君の母親…

 そのジュン君は、私をクルマで、轢いて、その罪で、今、拘置所の中…

 ユリコは、ずっと、私を目の敵にしていた…

 それは、私が、ユリコから、ナオキを奪ったから…

 私としては、その気はなかったが、結果的に、私は、ユリコから、ナオキを奪った…

 それは、確かだ…

 だから、ユリコが、私を恨むのは、わかる…

 ジュン君が、私をクルマで、轢いた事故…

 あの事故は、まさに、私にとって、僥倖(ぎょうこう)だった…

 なぜなら、あの事故を境に一転して、ユリコは、私に敵対しなくなった…

 私を目の敵にするのを、止めた…

 理由は、ただ一つ…

 ジュン君の減刑…

 被害者である、私が、裁判で、一言、

 「…宥恕(ゆうじょ)する…」

 と、言ってもらいたかったからだ…

 宥恕(ゆうじょ)=許すと言ってもらいたかったからだ…

 被害者のその一言があれば、ジュン君の刑が、減刑される可能性が高い…

 それを、狙って、ユリコは、私に敵対するのは、止めた…

 宥恕(ゆうじょ)というのは、許すの裁判用語…

 一般に、馴染みがある言葉ではない…

 だから、私を目の敵にするのは、止めた…

 だが、それは、私にとっては、まさに、僥倖(ぎょうこう)…

 僥倖(ぎょうこう)=思いがけない幸運だった…

 まさに、災い転じて、福となす結果だった…

 ユリコは、それを狙って、何度も、私が入院中の五井記念病院にやって来た…

 私が、ジュン君を一言、

 「…宥恕(ゆうじょ)する…」
 
 と、言ってもらいたかったからだ…

 しかしながら、あのユリコのことだ…

 転んでも、ただでは、起きない…

 五井記念病院に出入りする過程で、五井の内情を掴んだのかもしれなかった…

 内情を掴んで、金になると、思ったのだろう…

 そう、考えれば、極めて、わかりやすい…

 まさに、ユリコの本領発揮だった(笑)…

 なにより、以前、ユリコは、投資ファンドの代表だった…

 株の売買には、慣れている…

 っていうか、株の売買が、ユリコの仕事だった(笑)…

 抜け目ないというか…

 実に、したたかな女…

 私は、それを、思うと、ため息をついた…

 「…それで、ユリコさんは、一体?…」

 「…五井に揺さぶりをかけてきた…」

 「…揺さぶり?…」

 「…あのユリコという女は、投資ファンドの代表だったんだろ?…」

 「…」

 「…あの女の経歴は、確かめた…五井の株を買い集めて、会社の経営権を、握るべく、五井に乗り込んでくる気はないだろう…」

 「…」

 「…だが、集めた株にモノを言わせて、色々と、五井を揺さぶることはできる…」

 「…」

 「…例えば…」

 「…例えば、なんですか?…」

 「…五井の再編…」

 「…再編?…」

 「…五井は連合体だ…」

 「…どういう意味ですか?…」

 「…五井は、本家と東西南北の分家とその下の8家の十三家で、成り立っている…それゆえ、五井十三家と、世間で、言われている…」

 「…」

 「…でも、内実は、バラバラなところがある…五井情報、五井金属、五井造船など、世間に知られた五井の会社は、皆、本家の直轄ではない…」

 「…どういうことですか?…」

 「…東西南北、それぞれの分家が、筆頭株主だ…」

 「…」

 「…要するに、明治時代に、日本が近代化したときに、五井のそれぞれの分家が、それぞれの力で、金属やら、造船、鉱山など、事業を拡げた…そして、そのまま、その会社の筆頭株主になった…」

 冬馬の言葉で、思い出した…

 たしか、以前、それと同じ内容の話を聞いたことがある…

 五井は連合体…

 五井本家は、東西南北の分家よりも上にあるが、それとは、別に、それぞれ、独自の会社を持っている…

 つまりは、五井の本家、分家各自で、会社を保有しているということだ…

 通常は、誰もが、五井家で、すべての会社の株を管理していると思うが、さにあらず…

 おそらくは、各分家に金でも与えて、やりたいように、やらせたのだろう…

 ヤクザではないが、その方が、力が出る…

 各分家が、それぞれの力で、この先有望と、思われる分野に、投資する…

 それが、鉱山だったり、海運だったり、金属だったりする…

 そして、それぞれの会社は、各分家に、所属する…

 例えば、五井鉱山の筆頭株主は、五井家だが、内実は、五井西家とか…

 五井では、あるが、五井本家ではない…

 各分家の所属というか…

 所有…

 この場合、五井本家は、あくまで、サポート役というか…

 本家は、分家に金を貸して、分家は、本家の力というよりも、各分家の力で、会社を興した…

 そして、その会社は、各分家の所有…

 つまり、各分家のモノ…

 五井家のモノではない…

 ちょうど、ヤクザの二次団体、三次団体が、抗争で、他のヤクザの団体と戦って、領土を広げるようなもの…

 戦って、広げた領土は、自分のモノになる…

 だから、当然、やる気も出る…

 いくら、頑張っても、報酬が、少なければ、誰もが、やる気が出ない…

 そういうことだろう…

 が、

 その代わり、どうしても、欠点が出る…

 それは、いわゆる、団結心だ…

 五井が、一体となって、勝ち取った領土ではない…

 あくまで、分家の所有…

 だから、五井が、一致団結しにくい…

 それが、五井の弱点だった…

 五井は、あくまで、連合体…

 本家は、各分家よりも、上だが、各分家は、それぞれ、独自に子会社を経営しているということだ…

 これは、たしか、以前、諏訪野マミか、誰かに聞いた…

 それを思い出した…

 「…藤原ユリコ…あの女は、その弱点を突いた…」

 「…どういうことですか?…」

 「…五井は連合体…五井傘下の企業は、五井家所属の企業もあれば、各分家の所有の企業もあり、内実は、バラバラだ…」

 「…」

 「…だから、それを突いた…」

 「…」

 「…具体的には、五井情報が、米倉平造に、格安で、売却された、その裏で、あのユリコという女が、五井造船の株を買い漁っていた…」

 「…五井造船の株?…」

 「…今、日本は、造船が、不況だ…昔の勢いはない…以前は、韓国が世界一だったが、今は、中国…」

 「…中国?…」

 「…あのユリコという女は、いくつかの名義で、五井造船の株を買い漁った…米倉平造が、五井に揺さぶりをかけている最中だったから、こちらも、気付かなかった…」

 さもありなん…

 いかにも、ユリコらしい…

 思わず、苦笑した…

 「…だが、五井造船の株の大半を買い占めると、一転、株の名義人を変えた…一つに、統一したんだ…それで、わかった…」

 「…」

 「…あの女は、五井造船にTОBを仕掛けてくるかと思ったが、違った…」

 「…違った?…」

 「…揺さぶりというか、脅しをかけてきた…」

 「…脅し? …どういうことですか?…」

 「…五井に、五井造船の株を今の株価の3倍で、買い取れと…」

 「…3倍…」

 「…そして、それができなければ、中国の企業に株式を売ると、言ったんだ…」

 「…中国に?…」

 「…さっきも、言ったが、今は、造船世界一は、中国だ…その中国に、五井造船の株を売るとなると、当然、大騒ぎになる…日本政府もまた絡んでくるだろう…」

 「…」

 「…もはや、ことは、五井家だけの問題では、なくなってくる…」

 「…」

 「…それを、見越して、あのユリコという女は、仕掛けてきたんだ…実に、したたかな女だ…」

 「…一体、どうするつもりですか?…」

 「…わからない…」

 冬馬が、首を横に振った…

 「…政府にどうするか、聞けば、3倍の値段でも、買い取れと、言うだろう…まさか、日本中誰もが知っている五井造船を中国に売るわけには、いかないからな…」

 冬馬が、説明する…

 私も冬馬の意見に賛成だった…

 「…かといって、政府は、口は出すけれども、金は出さないだろう…」

 冬馬が、苦笑した…

 「…いわば、口先き番長だ…口は出すが、金は出さない…」

 冬馬の言葉に、思わず、私も失笑した…

 「…だから、困った…実に困った…」

 私は、冬馬の言葉を聞きながら、一体、なぜ、冬馬は、私をここへ、誘ったのか、考えていた…

 当たり前だが、私をここへ、誘った理由があるに違いないからだ…

 「…一体、なぜ、冬馬さんは、ここへ、私を?…」

 言いながら、ふと、気付いた…

 今、冬馬は、ずっと、ユリコの話をしている…

 ナオキの妻だった、ユリコの話をしている…

 ということは、どうだ?

 当たり前だが、この冬馬は、ユリコのことは、調べている…

 いや、

 調べ尽くしているに違いない…

 ということは、どうだ?

 当然、ジュン君のことも知っているに違いない…

 私が、ジュン君の運転するクルマに轢かれて、五井記念病院に入院したことを、知っているに違いない…

 そして、ジュン君が、ユリコの息子であること…

 そのユリコが、ジュン君のせいで、私に頭が上がらなくなっていることも、知っているに違いない…

 だとすれば、どうだ?

 これから、この冬馬が、私に話すことは、どうだ?

 ひょっとしたら?

 ひょっとしたら、この私に、ユリコを説得させようようとしているのではないか?

 いわば、ユリコの弱みを握る、私に、ユリコを説得させたいのではないか?

 そう、思った…

 それならば、私を、ここへ誘った理由が、納得できる…

 が、

 だとすれば、どうだ?

 ここに、私を呼び出したのは、冬馬の一存だろうか?

 この目の前の菊池冬馬の一存だろうか?

 それとも…

 それとも、他に誰か、いるのだろうか?

 誰か、いるとすれば、それは、一体?

 私は、考えた…

 思い浮かぶのは、五井家の面々…

 諏訪野伸明…

 諏訪野マミ…

 諏訪野昭子…

 諏訪野和子…

 菊池リン…

 菊池冬馬…

 菊池重方(しげかた)…

 佐藤ナナ…

 だ…

 それとも、もしや、五井家以外の人間…

 大場小太郎とか…

 米倉平造とか…

 高雄組組長とか…

 私の頭の中を様々な名前が、浮かんでは、消えた…

                
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