第80話
文字数 6,029文字
「…冬馬さん…一体、なにを?…」
私は、冬馬に抱きすくめられたまま、文句を言った
…
これは、誰だって、そうだろう…
好きでもない男に、いきなり、抱きすくめられたら、文句の一つも、言いたくなる…
しかも、
しかも、だ…
「…寿綾乃…アンタを伸明さんから、奪ってみせる…」
と、伸明の名前まで、出された…
つまり、伸明に対抗する意味で、私を抱きすくめた…
そういうことだろう…
別の見方をすれば、私が、伸明と交際していなければ、こんなことを、しなかったということだ…
だから、私は、今、冬馬に抱き締められながら、
「…冬馬さん…」
と、声をかけた…
「…なんですか?…」
冬馬は、私を抱き締めながら、呟いた…
「…失礼じゃ、ありませんか?…」
「…失礼?…」
「…そうです…冬馬さんの今の言い方では、まるで、私が、伸明さんの所有物のようじゃ…」
私の言葉に、私を抱き締めた冬馬のカラダが、固まったというか…
明らかに、動きが止まった…
「…私は、伸明さんの所有物じゃ、ありません…」
私は、強く、言った…
「…誰かの所有物じゃ、ありません…」
「…」
「…私は、私です…誰のものでも、ありません…」
さらに、強く、言い切った…
すると、すぐに、冬馬が、私を抱き締めた腕を離した…
私から、後ずさりして、距離を置いた…
それから、私のカラダを、頭の上から、足の先まで、ぶしつけに見た…
まるで、検査するように、無礼なまでに、ジロジロと、見た…
それから、
「…寿綾乃…」
と、私の名前を呼んだ…
「…いや、矢代綾子…」
いきなり、私の本名を呼んだ…
「…五井記念病院に運ばれてきた時、アンタは、虫の息だった…」
冬馬が、突然、言った…
「…だが、周囲の尽力もあり、奇跡的に、回復した…」
一体、なにが、言いたいのだろう…
私は、思った…
いきなり、私が、五井記念病院に、運ばれてきたときの話を始めたから、驚いたが、この菊池冬馬は、当時、五井記念病院の理事長だった…
だから、私が、五井記念病院に運ばれてきたときのことを、知っていて、おかしくはない…
しかし、今、いきなり、私が、五井記念病院に、救急車で、運ばれてきたときのことを、語るとは、思わなかった…
あまりにも、突然というか…
一体、どうして、そんなことを、言い出すのだろう?
疑問だった…
が、
聞かなかった…
あえて、なにも、言わなかった…
なにも、言わずとも、待っていれば、この冬馬が、わけを話し出す…
そう、思っていたからだ…
「…菊池リン…彼女からの連絡があったから、慌てて、オレは、アンタのために、手術の用意をした…」
「…」
「…オレは、運ばれて来た、アンタを一目見て、手遅れだと思った…」
「…」
「…カラダ中から、出血があるとか、そんなことは、なかったが、すでに、意識がなく、なにより、顔に死相が出ていた…」
「…」
「…これまで、いろんな患者を診てきたが、顔に死相が出て、生き返ったのは、ごくわずか…数えるほどだ…」
「…」
「…あくまで、結果論だが、あのとき、アンタは、癌が原因で、死相が出ていた…事故が原因じゃ、なかった…」
「…」
「…だから、事故の後遺症もなかった…長谷川が言うには、たまたま、運が良かったに過ぎない…」
「…」
「…五井の…この国の最先端の医療技術で、アンタは、なんとか、生き返った…少しは、それに、感謝してもらいたいな…」
冬馬が言って、笑った…
私は、黙って、そんな冬馬を見た…
だが、
問題は、そこではない…
冬馬ではない…
一体、なぜ、冬馬が、突然、そんなことを、言い出したか、否か、だ…
まさか…
まさか…
私は、考え込んだ…
考えたくないことだが、ひょっとして、この冬馬は…
と、
そこまで、考えて、考えることを止めた…
いくら、考えても、答えが出ないからだ…
「…伸明さんは、アンタを利用した…」
「…」
「…アンタと結婚するフリをして、それに反発する一族を粛清しようとした…その最たる標的が、菊池重方(しげかた)だった…」
「…」
「…重方(しげかた)は、バカではないが、軽いというか、思慮が足りないところがある…米倉平造に、うまく、五井情報を売り渡して、そのお礼に、キックバックした金を、受け取って、自分の派閥を作ろうとした…いかにも、わかりやす過ぎる…」
「…」
「…アンタも同じだ…」
…同じ?…
…どういうことだろう?…
「…ユリコ…藤原ユリコ…アンタの同居人、藤原ナオキの妻だった女だ…」
「…ユリコさんが、どうかしたんですか?…」
「…伸明さんが、今、アンタとの結婚を隠れ蓑にして、五井家の中で、自分の当主としての地位を確立しようとして、あくせくしている最中に、五井の株を買い漁っているよ…」
「…五井の株を買い漁っている?…」
思いもよらない言葉だった…
いや、
そもそも、私は、ユリコの存在すら、忘れていた…
ユリコは、言うまでもなく、ジュン君の母親…
そのジュン君は、私をクルマで、轢いて、その罪で、今、拘置所の中…
ユリコは、ずっと、私を目の敵にしていた…
それは、私が、ユリコから、ナオキを奪ったから…
私としては、その気はなかったが、結果的に、私は、ユリコから、ナオキを奪った…
それは、確かだ…
だから、ユリコが、私を恨むのは、わかる…
ジュン君が、私をクルマで、轢いた事故…
あの事故は、まさに、私にとって、僥倖(ぎょうこう)だった…
なぜなら、あの事故を境に一転して、ユリコは、私に敵対しなくなった…
私を目の敵にするのを、止めた…
理由は、ただ一つ…
ジュン君の減刑…
被害者である、私が、裁判で、一言、
「…宥恕(ゆうじょ)する…」
と、言ってもらいたかったからだ…
宥恕(ゆうじょ)=許すと言ってもらいたかったからだ…
被害者のその一言があれば、ジュン君の刑が、減刑される可能性が高い…
それを、狙って、ユリコは、私に敵対するのは、止めた…
宥恕(ゆうじょ)というのは、許すの裁判用語…
一般に、馴染みがある言葉ではない…
だから、私を目の敵にするのは、止めた…
だが、それは、私にとっては、まさに、僥倖(ぎょうこう)…
僥倖(ぎょうこう)=思いがけない幸運だった…
まさに、災い転じて、福となす結果だった…
ユリコは、それを狙って、何度も、私が入院中の五井記念病院にやって来た…
私が、ジュン君を一言、
「…宥恕(ゆうじょ)する…」
と、言ってもらいたかったからだ…
しかしながら、あのユリコのことだ…
転んでも、ただでは、起きない…
五井記念病院に出入りする過程で、五井の内情を掴んだのかもしれなかった…
内情を掴んで、金になると、思ったのだろう…
そう、考えれば、極めて、わかりやすい…
まさに、ユリコの本領発揮だった(笑)…
なにより、以前、ユリコは、投資ファンドの代表だった…
株の売買には、慣れている…
っていうか、株の売買が、ユリコの仕事だった(笑)…
抜け目ないというか…
実に、したたかな女…
私は、それを、思うと、ため息をついた…
「…それで、ユリコさんは、一体?…」
「…五井に揺さぶりをかけてきた…」
「…揺さぶり?…」
「…あのユリコという女は、投資ファンドの代表だったんだろ?…」
「…」
「…あの女の経歴は、確かめた…五井の株を買い集めて、会社の経営権を、握るべく、五井に乗り込んでくる気はないだろう…」
「…」
「…だが、集めた株にモノを言わせて、色々と、五井を揺さぶることはできる…」
「…」
「…例えば…」
「…例えば、なんですか?…」
「…五井の再編…」
「…再編?…」
「…五井は連合体だ…」
「…どういう意味ですか?…」
「…五井は、本家と東西南北の分家とその下の8家の十三家で、成り立っている…それゆえ、五井十三家と、世間で、言われている…」
「…」
「…でも、内実は、バラバラなところがある…五井情報、五井金属、五井造船など、世間に知られた五井の会社は、皆、本家の直轄ではない…」
「…どういうことですか?…」
「…東西南北、それぞれの分家が、筆頭株主だ…」
「…」
「…要するに、明治時代に、日本が近代化したときに、五井のそれぞれの分家が、それぞれの力で、金属やら、造船、鉱山など、事業を拡げた…そして、そのまま、その会社の筆頭株主になった…」
冬馬の言葉で、思い出した…
たしか、以前、それと同じ内容の話を聞いたことがある…
五井は連合体…
五井本家は、東西南北の分家よりも上にあるが、それとは、別に、それぞれ、独自の会社を持っている…
つまりは、五井の本家、分家各自で、会社を保有しているということだ…
通常は、誰もが、五井家で、すべての会社の株を管理していると思うが、さにあらず…
おそらくは、各分家に金でも与えて、やりたいように、やらせたのだろう…
ヤクザではないが、その方が、力が出る…
各分家が、それぞれの力で、この先有望と、思われる分野に、投資する…
それが、鉱山だったり、海運だったり、金属だったりする…
そして、それぞれの会社は、各分家に、所属する…
例えば、五井鉱山の筆頭株主は、五井家だが、内実は、五井西家とか…
五井では、あるが、五井本家ではない…
各分家の所属というか…
所有…
この場合、五井本家は、あくまで、サポート役というか…
本家は、分家に金を貸して、分家は、本家の力というよりも、各分家の力で、会社を興した…
そして、その会社は、各分家の所有…
つまり、各分家のモノ…
五井家のモノではない…
ちょうど、ヤクザの二次団体、三次団体が、抗争で、他のヤクザの団体と戦って、領土を広げるようなもの…
戦って、広げた領土は、自分のモノになる…
だから、当然、やる気も出る…
いくら、頑張っても、報酬が、少なければ、誰もが、やる気が出ない…
そういうことだろう…
が、
その代わり、どうしても、欠点が出る…
それは、いわゆる、団結心だ…
五井が、一体となって、勝ち取った領土ではない…
あくまで、分家の所有…
だから、五井が、一致団結しにくい…
それが、五井の弱点だった…
五井は、あくまで、連合体…
本家は、各分家よりも、上だが、各分家は、それぞれ、独自に子会社を経営しているということだ…
これは、たしか、以前、諏訪野マミか、誰かに聞いた…
それを思い出した…
「…藤原ユリコ…あの女は、その弱点を突いた…」
「…どういうことですか?…」
「…五井は連合体…五井傘下の企業は、五井家所属の企業もあれば、各分家の所有の企業もあり、内実は、バラバラだ…」
「…」
「…だから、それを突いた…」
「…」
「…具体的には、五井情報が、米倉平造に、格安で、売却された、その裏で、あのユリコという女が、五井造船の株を買い漁っていた…」
「…五井造船の株?…」
「…今、日本は、造船が、不況だ…昔の勢いはない…以前は、韓国が世界一だったが、今は、中国…」
「…中国?…」
「…あのユリコという女は、いくつかの名義で、五井造船の株を買い漁った…米倉平造が、五井に揺さぶりをかけている最中だったから、こちらも、気付かなかった…」
さもありなん…
いかにも、ユリコらしい…
思わず、苦笑した…
「…だが、五井造船の株の大半を買い占めると、一転、株の名義人を変えた…一つに、統一したんだ…それで、わかった…」
「…」
「…あの女は、五井造船にTОBを仕掛けてくるかと思ったが、違った…」
「…違った?…」
「…揺さぶりというか、脅しをかけてきた…」
「…脅し? …どういうことですか?…」
「…五井に、五井造船の株を今の株価の3倍で、買い取れと…」
「…3倍…」
「…そして、それができなければ、中国の企業に株式を売ると、言ったんだ…」
「…中国に?…」
「…さっきも、言ったが、今は、造船世界一は、中国だ…その中国に、五井造船の株を売るとなると、当然、大騒ぎになる…日本政府もまた絡んでくるだろう…」
「…」
「…もはや、ことは、五井家だけの問題では、なくなってくる…」
「…」
「…それを、見越して、あのユリコという女は、仕掛けてきたんだ…実に、したたかな女だ…」
「…一体、どうするつもりですか?…」
「…わからない…」
冬馬が、首を横に振った…
「…政府にどうするか、聞けば、3倍の値段でも、買い取れと、言うだろう…まさか、日本中誰もが知っている五井造船を中国に売るわけには、いかないからな…」
冬馬が、説明する…
私も冬馬の意見に賛成だった…
「…かといって、政府は、口は出すけれども、金は出さないだろう…」
冬馬が、苦笑した…
「…いわば、口先き番長だ…口は出すが、金は出さない…」
冬馬の言葉に、思わず、私も失笑した…
「…だから、困った…実に困った…」
私は、冬馬の言葉を聞きながら、一体、なぜ、冬馬は、私をここへ、誘ったのか、考えていた…
当たり前だが、私をここへ、誘った理由があるに違いないからだ…
「…一体、なぜ、冬馬さんは、ここへ、私を?…」
言いながら、ふと、気付いた…
今、冬馬は、ずっと、ユリコの話をしている…
ナオキの妻だった、ユリコの話をしている…
ということは、どうだ?
当たり前だが、この冬馬は、ユリコのことは、調べている…
いや、
調べ尽くしているに違いない…
ということは、どうだ?
当然、ジュン君のことも知っているに違いない…
私が、ジュン君の運転するクルマに轢かれて、五井記念病院に入院したことを、知っているに違いない…
そして、ジュン君が、ユリコの息子であること…
そのユリコが、ジュン君のせいで、私に頭が上がらなくなっていることも、知っているに違いない…
だとすれば、どうだ?
これから、この冬馬が、私に話すことは、どうだ?
ひょっとしたら?
ひょっとしたら、この私に、ユリコを説得させようようとしているのではないか?
いわば、ユリコの弱みを握る、私に、ユリコを説得させたいのではないか?
そう、思った…
それならば、私を、ここへ誘った理由が、納得できる…
が、
だとすれば、どうだ?
ここに、私を呼び出したのは、冬馬の一存だろうか?
この目の前の菊池冬馬の一存だろうか?
それとも…
それとも、他に誰か、いるのだろうか?
誰か、いるとすれば、それは、一体?
私は、考えた…
思い浮かぶのは、五井家の面々…
諏訪野伸明…
諏訪野マミ…
諏訪野昭子…
諏訪野和子…
菊池リン…
菊池冬馬…
菊池重方(しげかた)…
佐藤ナナ…
だ…
それとも、もしや、五井家以外の人間…
大場小太郎とか…
米倉平造とか…
高雄組組長とか…
私の頭の中を様々な名前が、浮かんでは、消えた…
私は、冬馬に抱きすくめられたまま、文句を言った
…
これは、誰だって、そうだろう…
好きでもない男に、いきなり、抱きすくめられたら、文句の一つも、言いたくなる…
しかも、
しかも、だ…
「…寿綾乃…アンタを伸明さんから、奪ってみせる…」
と、伸明の名前まで、出された…
つまり、伸明に対抗する意味で、私を抱きすくめた…
そういうことだろう…
別の見方をすれば、私が、伸明と交際していなければ、こんなことを、しなかったということだ…
だから、私は、今、冬馬に抱き締められながら、
「…冬馬さん…」
と、声をかけた…
「…なんですか?…」
冬馬は、私を抱き締めながら、呟いた…
「…失礼じゃ、ありませんか?…」
「…失礼?…」
「…そうです…冬馬さんの今の言い方では、まるで、私が、伸明さんの所有物のようじゃ…」
私の言葉に、私を抱き締めた冬馬のカラダが、固まったというか…
明らかに、動きが止まった…
「…私は、伸明さんの所有物じゃ、ありません…」
私は、強く、言った…
「…誰かの所有物じゃ、ありません…」
「…」
「…私は、私です…誰のものでも、ありません…」
さらに、強く、言い切った…
すると、すぐに、冬馬が、私を抱き締めた腕を離した…
私から、後ずさりして、距離を置いた…
それから、私のカラダを、頭の上から、足の先まで、ぶしつけに見た…
まるで、検査するように、無礼なまでに、ジロジロと、見た…
それから、
「…寿綾乃…」
と、私の名前を呼んだ…
「…いや、矢代綾子…」
いきなり、私の本名を呼んだ…
「…五井記念病院に運ばれてきた時、アンタは、虫の息だった…」
冬馬が、突然、言った…
「…だが、周囲の尽力もあり、奇跡的に、回復した…」
一体、なにが、言いたいのだろう…
私は、思った…
いきなり、私が、五井記念病院に、運ばれてきたときの話を始めたから、驚いたが、この菊池冬馬は、当時、五井記念病院の理事長だった…
だから、私が、五井記念病院に運ばれてきたときのことを、知っていて、おかしくはない…
しかし、今、いきなり、私が、五井記念病院に、救急車で、運ばれてきたときのことを、語るとは、思わなかった…
あまりにも、突然というか…
一体、どうして、そんなことを、言い出すのだろう?
疑問だった…
が、
聞かなかった…
あえて、なにも、言わなかった…
なにも、言わずとも、待っていれば、この冬馬が、わけを話し出す…
そう、思っていたからだ…
「…菊池リン…彼女からの連絡があったから、慌てて、オレは、アンタのために、手術の用意をした…」
「…」
「…オレは、運ばれて来た、アンタを一目見て、手遅れだと思った…」
「…」
「…カラダ中から、出血があるとか、そんなことは、なかったが、すでに、意識がなく、なにより、顔に死相が出ていた…」
「…」
「…これまで、いろんな患者を診てきたが、顔に死相が出て、生き返ったのは、ごくわずか…数えるほどだ…」
「…」
「…あくまで、結果論だが、あのとき、アンタは、癌が原因で、死相が出ていた…事故が原因じゃ、なかった…」
「…」
「…だから、事故の後遺症もなかった…長谷川が言うには、たまたま、運が良かったに過ぎない…」
「…」
「…五井の…この国の最先端の医療技術で、アンタは、なんとか、生き返った…少しは、それに、感謝してもらいたいな…」
冬馬が言って、笑った…
私は、黙って、そんな冬馬を見た…
だが、
問題は、そこではない…
冬馬ではない…
一体、なぜ、冬馬が、突然、そんなことを、言い出したか、否か、だ…
まさか…
まさか…
私は、考え込んだ…
考えたくないことだが、ひょっとして、この冬馬は…
と、
そこまで、考えて、考えることを止めた…
いくら、考えても、答えが出ないからだ…
「…伸明さんは、アンタを利用した…」
「…」
「…アンタと結婚するフリをして、それに反発する一族を粛清しようとした…その最たる標的が、菊池重方(しげかた)だった…」
「…」
「…重方(しげかた)は、バカではないが、軽いというか、思慮が足りないところがある…米倉平造に、うまく、五井情報を売り渡して、そのお礼に、キックバックした金を、受け取って、自分の派閥を作ろうとした…いかにも、わかりやす過ぎる…」
「…」
「…アンタも同じだ…」
…同じ?…
…どういうことだろう?…
「…ユリコ…藤原ユリコ…アンタの同居人、藤原ナオキの妻だった女だ…」
「…ユリコさんが、どうかしたんですか?…」
「…伸明さんが、今、アンタとの結婚を隠れ蓑にして、五井家の中で、自分の当主としての地位を確立しようとして、あくせくしている最中に、五井の株を買い漁っているよ…」
「…五井の株を買い漁っている?…」
思いもよらない言葉だった…
いや、
そもそも、私は、ユリコの存在すら、忘れていた…
ユリコは、言うまでもなく、ジュン君の母親…
そのジュン君は、私をクルマで、轢いて、その罪で、今、拘置所の中…
ユリコは、ずっと、私を目の敵にしていた…
それは、私が、ユリコから、ナオキを奪ったから…
私としては、その気はなかったが、結果的に、私は、ユリコから、ナオキを奪った…
それは、確かだ…
だから、ユリコが、私を恨むのは、わかる…
ジュン君が、私をクルマで、轢いた事故…
あの事故は、まさに、私にとって、僥倖(ぎょうこう)だった…
なぜなら、あの事故を境に一転して、ユリコは、私に敵対しなくなった…
私を目の敵にするのを、止めた…
理由は、ただ一つ…
ジュン君の減刑…
被害者である、私が、裁判で、一言、
「…宥恕(ゆうじょ)する…」
と、言ってもらいたかったからだ…
宥恕(ゆうじょ)=許すと言ってもらいたかったからだ…
被害者のその一言があれば、ジュン君の刑が、減刑される可能性が高い…
それを、狙って、ユリコは、私に敵対するのは、止めた…
宥恕(ゆうじょ)というのは、許すの裁判用語…
一般に、馴染みがある言葉ではない…
だから、私を目の敵にするのは、止めた…
だが、それは、私にとっては、まさに、僥倖(ぎょうこう)…
僥倖(ぎょうこう)=思いがけない幸運だった…
まさに、災い転じて、福となす結果だった…
ユリコは、それを狙って、何度も、私が入院中の五井記念病院にやって来た…
私が、ジュン君を一言、
「…宥恕(ゆうじょ)する…」
と、言ってもらいたかったからだ…
しかしながら、あのユリコのことだ…
転んでも、ただでは、起きない…
五井記念病院に出入りする過程で、五井の内情を掴んだのかもしれなかった…
内情を掴んで、金になると、思ったのだろう…
そう、考えれば、極めて、わかりやすい…
まさに、ユリコの本領発揮だった(笑)…
なにより、以前、ユリコは、投資ファンドの代表だった…
株の売買には、慣れている…
っていうか、株の売買が、ユリコの仕事だった(笑)…
抜け目ないというか…
実に、したたかな女…
私は、それを、思うと、ため息をついた…
「…それで、ユリコさんは、一体?…」
「…五井に揺さぶりをかけてきた…」
「…揺さぶり?…」
「…あのユリコという女は、投資ファンドの代表だったんだろ?…」
「…」
「…あの女の経歴は、確かめた…五井の株を買い集めて、会社の経営権を、握るべく、五井に乗り込んでくる気はないだろう…」
「…」
「…だが、集めた株にモノを言わせて、色々と、五井を揺さぶることはできる…」
「…」
「…例えば…」
「…例えば、なんですか?…」
「…五井の再編…」
「…再編?…」
「…五井は連合体だ…」
「…どういう意味ですか?…」
「…五井は、本家と東西南北の分家とその下の8家の十三家で、成り立っている…それゆえ、五井十三家と、世間で、言われている…」
「…」
「…でも、内実は、バラバラなところがある…五井情報、五井金属、五井造船など、世間に知られた五井の会社は、皆、本家の直轄ではない…」
「…どういうことですか?…」
「…東西南北、それぞれの分家が、筆頭株主だ…」
「…」
「…要するに、明治時代に、日本が近代化したときに、五井のそれぞれの分家が、それぞれの力で、金属やら、造船、鉱山など、事業を拡げた…そして、そのまま、その会社の筆頭株主になった…」
冬馬の言葉で、思い出した…
たしか、以前、それと同じ内容の話を聞いたことがある…
五井は連合体…
五井本家は、東西南北の分家よりも上にあるが、それとは、別に、それぞれ、独自の会社を持っている…
つまりは、五井の本家、分家各自で、会社を保有しているということだ…
通常は、誰もが、五井家で、すべての会社の株を管理していると思うが、さにあらず…
おそらくは、各分家に金でも与えて、やりたいように、やらせたのだろう…
ヤクザではないが、その方が、力が出る…
各分家が、それぞれの力で、この先有望と、思われる分野に、投資する…
それが、鉱山だったり、海運だったり、金属だったりする…
そして、それぞれの会社は、各分家に、所属する…
例えば、五井鉱山の筆頭株主は、五井家だが、内実は、五井西家とか…
五井では、あるが、五井本家ではない…
各分家の所属というか…
所有…
この場合、五井本家は、あくまで、サポート役というか…
本家は、分家に金を貸して、分家は、本家の力というよりも、各分家の力で、会社を興した…
そして、その会社は、各分家の所有…
つまり、各分家のモノ…
五井家のモノではない…
ちょうど、ヤクザの二次団体、三次団体が、抗争で、他のヤクザの団体と戦って、領土を広げるようなもの…
戦って、広げた領土は、自分のモノになる…
だから、当然、やる気も出る…
いくら、頑張っても、報酬が、少なければ、誰もが、やる気が出ない…
そういうことだろう…
が、
その代わり、どうしても、欠点が出る…
それは、いわゆる、団結心だ…
五井が、一体となって、勝ち取った領土ではない…
あくまで、分家の所有…
だから、五井が、一致団結しにくい…
それが、五井の弱点だった…
五井は、あくまで、連合体…
本家は、各分家よりも、上だが、各分家は、それぞれ、独自に子会社を経営しているということだ…
これは、たしか、以前、諏訪野マミか、誰かに聞いた…
それを思い出した…
「…藤原ユリコ…あの女は、その弱点を突いた…」
「…どういうことですか?…」
「…五井は連合体…五井傘下の企業は、五井家所属の企業もあれば、各分家の所有の企業もあり、内実は、バラバラだ…」
「…」
「…だから、それを突いた…」
「…」
「…具体的には、五井情報が、米倉平造に、格安で、売却された、その裏で、あのユリコという女が、五井造船の株を買い漁っていた…」
「…五井造船の株?…」
「…今、日本は、造船が、不況だ…昔の勢いはない…以前は、韓国が世界一だったが、今は、中国…」
「…中国?…」
「…あのユリコという女は、いくつかの名義で、五井造船の株を買い漁った…米倉平造が、五井に揺さぶりをかけている最中だったから、こちらも、気付かなかった…」
さもありなん…
いかにも、ユリコらしい…
思わず、苦笑した…
「…だが、五井造船の株の大半を買い占めると、一転、株の名義人を変えた…一つに、統一したんだ…それで、わかった…」
「…」
「…あの女は、五井造船にTОBを仕掛けてくるかと思ったが、違った…」
「…違った?…」
「…揺さぶりというか、脅しをかけてきた…」
「…脅し? …どういうことですか?…」
「…五井に、五井造船の株を今の株価の3倍で、買い取れと…」
「…3倍…」
「…そして、それができなければ、中国の企業に株式を売ると、言ったんだ…」
「…中国に?…」
「…さっきも、言ったが、今は、造船世界一は、中国だ…その中国に、五井造船の株を売るとなると、当然、大騒ぎになる…日本政府もまた絡んでくるだろう…」
「…」
「…もはや、ことは、五井家だけの問題では、なくなってくる…」
「…」
「…それを、見越して、あのユリコという女は、仕掛けてきたんだ…実に、したたかな女だ…」
「…一体、どうするつもりですか?…」
「…わからない…」
冬馬が、首を横に振った…
「…政府にどうするか、聞けば、3倍の値段でも、買い取れと、言うだろう…まさか、日本中誰もが知っている五井造船を中国に売るわけには、いかないからな…」
冬馬が、説明する…
私も冬馬の意見に賛成だった…
「…かといって、政府は、口は出すけれども、金は出さないだろう…」
冬馬が、苦笑した…
「…いわば、口先き番長だ…口は出すが、金は出さない…」
冬馬の言葉に、思わず、私も失笑した…
「…だから、困った…実に困った…」
私は、冬馬の言葉を聞きながら、一体、なぜ、冬馬は、私をここへ、誘ったのか、考えていた…
当たり前だが、私をここへ、誘った理由があるに違いないからだ…
「…一体、なぜ、冬馬さんは、ここへ、私を?…」
言いながら、ふと、気付いた…
今、冬馬は、ずっと、ユリコの話をしている…
ナオキの妻だった、ユリコの話をしている…
ということは、どうだ?
当たり前だが、この冬馬は、ユリコのことは、調べている…
いや、
調べ尽くしているに違いない…
ということは、どうだ?
当然、ジュン君のことも知っているに違いない…
私が、ジュン君の運転するクルマに轢かれて、五井記念病院に入院したことを、知っているに違いない…
そして、ジュン君が、ユリコの息子であること…
そのユリコが、ジュン君のせいで、私に頭が上がらなくなっていることも、知っているに違いない…
だとすれば、どうだ?
これから、この冬馬が、私に話すことは、どうだ?
ひょっとしたら?
ひょっとしたら、この私に、ユリコを説得させようようとしているのではないか?
いわば、ユリコの弱みを握る、私に、ユリコを説得させたいのではないか?
そう、思った…
それならば、私を、ここへ誘った理由が、納得できる…
が、
だとすれば、どうだ?
ここに、私を呼び出したのは、冬馬の一存だろうか?
この目の前の菊池冬馬の一存だろうか?
それとも…
それとも、他に誰か、いるのだろうか?
誰か、いるとすれば、それは、一体?
私は、考えた…
思い浮かぶのは、五井家の面々…
諏訪野伸明…
諏訪野マミ…
諏訪野昭子…
諏訪野和子…
菊池リン…
菊池冬馬…
菊池重方(しげかた)…
佐藤ナナ…
だ…
それとも、もしや、五井家以外の人間…
大場小太郎とか…
米倉平造とか…
高雄組組長とか…
私の頭の中を様々な名前が、浮かんでは、消えた…