第89話

文字数 5,379文字

 …なぜ、ここにユリコが?…

 …どうして、ここに、ユリコがいるのか?…

 思いながら、部屋の入口に立ち尽くした…

 同時に、

 …やられた!…

 と、思った…

 やはり、ユリコだ…

 ひとの裏をかく…

 私の裏をかく…

 まさか…

 まさか、ここにユリコがいるなんて、考えもしなかった…

 まったく、想定していなかった…

 だが、

 それが、ユリコだった…

 藤原ユリコという女だった…

 私が、もっとも、苦手な女…

 それが、ユリコだった…

 まさに、天敵といって、よかった…

 神様が、私の敵として、この世に送り込んだ女といって、よかった…

 私は、このユリコが苦手…

 できれば、争いたくなかった…

 なぜなら、私に勝ち目は、薄いからだ…

 だから、極力、距離を取るというか…

 できれば、生涯、二度と会いたくなかった…

 それが、本音だった…

 私が、そんなことを、考えて、部屋の入口に立ちすくんだままで、いると、

 「…寿さん…お久しぶり…」

 と、声がした…

 私は、声の主を見た…

 当然ながら、昭子だった…

 諏訪野昭子だった…

 「…どうしたの? …寿さん…さあ、遠慮せずに、中に入って…」

 諏訪野昭子の声に、導かれ、私は、軽く、昭子に挨拶して、昭子の元に向かった…

 そして、昭子と、ユリコが、並ぶテーブルの席に着いた…

 「…こちら、藤原ユリコさん…」

 「…ご無沙汰しています…」

 私は、軽く、ユリコに頭を下げた…

 「…お久しぶり…五井記念病院に入院している寿さんに、お見舞いに伺って以来かしら…」

 ユリコが、告げる…

 そして、ユリコは、私の隣に、座った、佐藤ナナを見て、

 「…アナタが、五井家の人間とは、思わなかったわ…」

 と、皮肉を言った…

 佐藤ナナは、苦笑いを浮かべただけで、なにも、言わなかった…

 私は、これこそが、ユリコ…

 ユリコの真骨頂だと、思った…

 この皮肉こそ、まさにユリコだ…

 が、

 この皮肉の裏には、自分が、騙された屈辱がある…

 あるいは、

 自分が、気付かなかった屈辱があると、思った…

 ユリコは、有能…

 能力が、ずば抜けている…

 それが、五井記念病院の、私の担当看護師が、実は、五井家の人間だったと、気付かなかった…

 それが、ユリコにとって、大きな屈辱なのだろう…

 頭が悪く、プライドだけ、高い人間ならばいい…

 学歴が、低く、プライドだけ、高い人間ならば、まだいい…

 だが、このユリコは、違う…

 頭も良く、学歴も高い…

 そして、社会的地位もある…

 そんなユリコが、佐藤ナナの正体に、気付けなかったことが、許せないのだろう…

 そんなことすら、気付けなかった自分自身を許せないのだろう…

 私は、そう思った…

 私は、そう睨んだ…

 そして、ユリコの言動に、この場の空気が、凍てついた…

 寒々とした空気になった…

 それを憂慮した、昭子が、

 「…あら…皆さん…お知合いでしょ? 今さら、自己紹介などしなくていいから、手間がかからないで、よかった…」

 と、喜んだ…

 もちろん、ユリコ同様、皮肉もあるが、この場の凍てついた空気を、和ませようとしたことも、大きかった…

 私と、ユリコ、佐藤ナナの三人は、無言で、昭子を見た…

 誰が、どう見ても、この家の女主人の昭子に招かれて、私たちは、やって来た…

 そういうことだったからだ…

 その昭子はというと、私たち三人に臆することなく、堂々と、テーブルの上座に座っていた…

 やはり、五井家の女傑…

 五井家の女帝にふさわしい…

 私は、ともかく、ユリコと互角に戦える人間は少ない…

 そのユリコもまた、明らかに、昭子に、遠慮していたというか…

 昭子が、どう出るか、一教主一等足を、見ていた…

 観察していた…

 すると、そんな私の視線に気づいたのか、

 「…寿さん…」

 と、昭子が、私の名を呼んだ…

 「…ハイ…」

 「…今日、佐藤さんを呼んだのは、アナタのためよ…」

 「…私のため?…」

 「…なにか、あったら、困るでしょ? 元の担当看護師ならば、なにか、アナタにあっても、すぐに対処できるでしょ?…」

 …なるほど、そういうことか?…

 私は、思った…

 ということは?

 ということは、どうだ?

 この佐藤ナナは、この屋敷に、昭子たちといっしょに住んでいるわけではないのか?

 ふと、考えた…

 だから、

 「…それでは、佐藤さんは、この家にごいっしょに、住んでいるわけでは、ないのですか?…」

 と、聞いた…

 昭子は、私の質問にニッコリと、微笑んで、

 「それは、ありません…」

 と、返答した…

 それから、

 「…まあ、この屋敷では、いっしょに住んでいると、考えても、おかしくは、ないわ…お互い、嫌なら、一日中、顔を合わせないでも、すむわけだし…」

 私は、昭子の物言いに、毒を感じた…

 私は、その物言いに、昭子が、この佐藤ナナを認めてないと、思った…

 菊池重方(しげかた)の娘であるにも、かかわらず、佐藤ナナを認めてないことが、わかった…

 だから、私は、すぐに、佐藤ナナを見た…

 佐藤ナナが、どんな表情をしているのか、知りたかったからだ…

 当たり前といえば、当たり前だが、明らかに、仏頂面だった…

 が、

 すぐに、その表情を引っ込めた…

 そして、いつも通り、ニコニコとした表情になった…

 私は、さもありなんと思った…

 まさか、この席で、仏頂面はできないからだ…

 そして、その佐藤ナナを見て、

 「…まったく…」

 と、わざとユリコが、声を出した…

 それを聞いた、昭子が、

 「…なにが、まったくなんですか?…」

 と、ユリコを問い詰めた…

 「…一族といっても、血が繋がっただけじゃ、結束力もなにもあったものが、じゃないわ…」

 ユリコが笑う…

 ユリコの言葉に、今度は、昭子が、

 「…」

 と、黙った…

 反論しなかった…

 が、

 すぐに、

 「…誰の子供かわからない子供を、前のご主人に、押し付けるような方がいうセリフとは…」

 と、皮肉を言った…

 むろん、ユリコのことだ…

 その事実を呆気なく、暴露した昭子に、ユリコは、まるで、猫が気を逆立てて、威嚇するように、睨んだ…

 と、同時に、気付いた…

 昭子の目的を、だ…

 なにも、この場で、昭子は、ユリコにケンカを売っているわけではない…

 むしろ、ユリコを脅しているのだ…

 「…私は、ユリコさん…アナタのことは、なんでも、知ってますよ…」

 と、脅しているのだ…

 当然、ユリコは、それが、わかっている…

 わかっているからこそ、昭子を睨んだのだろう…

 そして、頭には、きたが、なにも、いわなかった…

 おそらく、ユリコは、昭子の動きを見守っているのだろう…

 昭子が、どう出るか、考えているに違いない…

 私は、考えた…

 昭子が、ユリコのことを、調べ尽くしているのと、同じように、ユリコも、また昭子のことを、調べ尽くしているに違いない…

 だから、迂闊に動けない…

 不用意になにか、言えば、揚げ足を取られるどころか、致命傷になりかねない…

 それが、互いに、わかっているからだ…

 私が、そう考えていると、昭子が、

 「…寿さん…」

 と、私の名前を呼んだ…

 「…ハイ…」

 「…冬馬のこと、ありがとう…」

 …冬馬のことを、ありがとうって?…

 …一体、どういう意味なのか?…

 意味がわからなかった…

 たしかに、冬馬は、自殺したが、私は、冬馬の葬式にも、行かなかった…

 私風情が、冬馬の葬式に顔を出すのは、おかしいと思ったからだ…

 冬馬は、追放されたとはいえ、五井一族…

 おそらく、父の菊池重方(しげかた)とは、本当の父子ではないだろうが、世間の人間は、それを知らない…

 だから、葬儀は、盛大だった…

 多くの政界、財界の著名人が、訪れた…

 そんな大層な場に、私風情が、顔を出せるわけがなかった…

 まさに、場違い…

 私は、そんな場に顔を出しては、ならない人間だと思ったからだ…

 それが、一体、どうして、ありがとうと、礼を言われるのか、さっぱり、わからなかった…

 だから、

 「…どうして、ありがとうなんですか?…」

 と、昭子に聞いた…

 私自身、どうしても、納得できなかったからだ…

 すると、昭子は、ゆっくりと、

 「…マミさんから、聞きました…」

 と、私に告げた…

 「…なにを、ですか?…」

 「…冬馬が、亡くなる前に、寿さんは、デートしてあげたそうね…」

 「…」

 「…冬馬は、寿さんが、好き…ずっと、憧れていた…だから、最期に、寿さんと、二人きりで、デートできたことが、なにより、嬉しかったと、思う…」

 昭子が告げる…

 その場の空気が、凍てついた…

 まさか…

 まさか、昭子がいきなり、冬馬の話題を出すとは、思わなかったからだ…

 しかも、冬馬は、自殺した…

 普通、自殺した人間の話題をすることは、避けるものだ…

 いや、

 私と昭子と、二人だけの場なら、いい…

 が、

 違う…

 佐藤ナナと、ユリコが、同席している…

 まして、ユリコが同席している…

 勘の鋭いユリコのことだ…

 なにか、気付いても、おかしくはない…

 いや、

 もしかしたら、その危険を冒しても、昭子は、私に礼を言いたかったのかもしれない…

 ということは?

 ということは、どうだ?

 やはり、この昭子が、冬馬の産みの母親に違いない…

 あらためて、思った…

 私が、そう思ったときだった…

 ユリコが、

 「…冬馬さんって、この間、亡くなった?…」

 と、声を上げた…

 もちろん、わざと、だ…

 「…なんか、自殺って聞いたけど…」

 ユリコが、苦笑いを浮かべながら、わざと、続けた…

 私は、ユリコを、咎めた…

 「…ユリコさん…そういうお話は…」

 私が、婉曲に、抗議すると、

 「…あら、寿さん…だって、私、不思議なの?…」

 「…なにが、不思議なんですか?…」

 「…だって、寿さん…考えてみて…」

 「…なにを、ですか?…」

 「…だって、自殺した冬馬さんって、五井一族を追放された人間でしょ? それが、どうして、五井家の当主の母親が、わざわざ、寿さんに、デートしてくれて、ありがとうなんて、言うのかしら?…」

 私は、ユリコの指摘に、言葉もなかった…

 たしかに、ユリコの言う通り…

 ユリコの言う通りだからだ…

 私が、黙っていると、

 「…それとも…」

 と、ユリコが、意味ありげに続けた…

 「…それとも、もしかして、その自殺した冬馬さんって、五井家の当主の実の弟だったりして…」

 笑いながら、言った…

 気付いている…

 私は、とっさに、思った…

 ユリコは、私同様、冬馬が、伸明の実弟であることに、気付いている…

 そして、今、このテーブルの上座に座る昭子の産んだ息子だということに、気付いている…

 どこから、情報を得たのか、わからないが、その事実を掴んだに違いない…

 相変わらず、有能というか、油断のおけない女…

 あらためて、そう、思った…

 本当なら、さっさと、裸足で、この場から、逃げ去りたいぐらいだ…

 私が、考えていると、

 「…ユリコさん…」

 と、昭子が、ユリコに声をかけた…

 「…なんでしょうか?…」

 「…五井は、一つです…」

 「…一つ?…」

 「…大切なのは、血の繋がりです…だって、他人よりも、身内の血が繋がった人間の方が、信用できるでしょ?…」

 「…」

 「…たしかに、冬馬は、自殺しました…でも、血の繋がりは、消えません…だから、五井家の一員として、盛大に葬儀を行いました…」

 「…」

 「…ユリコさんも、今、ご自分のお腹を痛めた子供が、拘置所にいるそうですね…ですから、子供を持つ母親の気持ちも、わかるでしょ?…」

 昭子が、ユリコに優しく問いかける…

 それは、優しい口調だったが、明らかに脅しだった…

 ユリコの息子、ジュン君が、私を轢き殺そうとして、今、警察に捕まり、拘置所にいて、裁判を待っている…

 その事実を、ユリコに突き付けたというわけだ…

 つまり、ユリコ同様、昭子もまた、

 「…オマエのことは、なんでも知っているよ…」

 と、暗に仄めかしたわけだ…

 お互いが、お互いの動きを牽制したわけだ…

 ボクシングで、いえば、ジャブ…

 互いに、ジャブを繰り出して、互いの動きを牽制したわけだ…

 同時に、互いの、能力を見極めたわけだ…

 私は、不本意ながら、その様子を見て、ワクワクした…

 血が沸いた…

 不謹慎ながら、面白くなった…

 ユリコVS昭子…

 この対決が、面白かった…

 何度も言うように、私はユリコが苦手…

 嫌いではない…

 苦手なのだ…

 ただし、同時に、ユリコの能力には、敬意を払っている…

 私など、足元にも及ばない能力を持っていると、思っている…

 だから、その能力のある、ユリコが、どう出るか、楽しみだ…

 この五井の女帝、昭子にどう挑むのか、楽しみだ…

 そう、思うと、ワクワクした…

 血がたぎった…

 こんなことを、言うと、なんだが、私の性格は、本当は、男に近い…

 ボクシングに限らず、格闘技の試合を見ると、ワクワクする…

 男同士、戦うのを、見るのが好き…

 だから、今、このユリコと昭子の対決を見るのが、好きだった…

 ただのバカな女同士の対決ならば、見る必要もない…

 有能な女同士の対決だから、見たいのだ…

 有能な女同士の戦いだから、見たいのだ…

 さあ、次は、どうでる?

 どうなる?

 私は、昭子と、ユリコの戦いを、固唾を飲んで、見守った…

                
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