第28話
文字数 9,112文字
私は、窓際で、外の、マスコミ関係者と、思われる人間を、見ながら、ナオキに、呟いた…
「…ナオキ…あのひとたちを、呼んだのは、その米倉かしら?…」
「…どういう意味?…」
「…なんと言っていいか、わからないけれども、なんか、もっと裏があるような…」
「…裏?…」
「…そもそも、重方(しげかた)さんは、どうして、追放されたのかしら?…」
「…それは、重方(しげかた)氏が、自民党で、菊池派を立ち上げようとしたり、伸明さんを、追放して、自分が、五井家の当主になろうとするからだろ…」
「…でも、さっきも言ったように、なにか、きっかけがなければ、そんなこと、しようと、思わなかったでしょ?…」
「…それは、米倉兵造の口車に乗ったから…」
「…でも、その米倉兵造の背後に誰か、いても、いいんじゃないの?…」
「…どういう意味? 米倉兵造もまた、誰かに操られていたとでも、言うの?…」
「…菊池重方(しげかた)さん…実は、先日、会ったの?…」
「…重方(しげかた)氏に、綾乃さんが?…」
ナオキが、驚いた…
「…少なくとも、バカじゃないわ…」
「…どういうこと?…」
「…米倉兵造の口車に乗って、五井家の当主になりたいと、思ったかもしれないけれども、中身のない人間じゃない…」
「…」
「…少なくとも、私よりは上…優れている…」
「…どうして、綾乃さんに、そんなことがわかるの?…」
「…菊池リン…」
「…リンちゃん?…」
「…彼女が、私に差し向けた五井家のスパイだったことを、知っていた…」
「…」
「…そして、私の正体も…」
「…綾乃さんの正体?…」
「…私が、寿綾乃を名乗る女であり、本名は、矢代綾子だということ…そして、それを知らなかった建造さんが、私を血の繋がった自分の娘だと密かに疑っていたこと…それゆえ、菊池リンを使って、私の動静を見張っていたこと…その他諸々を知っていた…」
「…」
「…だから、少なくとも、無能な人間ではない…」
「…だったら、どうして、五井家は、重方(しげかた)氏を追放しようとしたんだ?…」
「…おそらくは、伸明さんの邪魔になるから…」
「…諏訪野さんの?…」
「…重方(しげかた)氏は、たぶん、無能ではないが、尻が軽いと言うか…」
「…どういう意味?…」
「…だって、簡単に、米倉平造の口車に乗って、五井家の当主になりたいと、思う人間でしょ? 女じゃないけれども、尻が軽すぎるというか…」
「…」
「…きっと、そんな人間を、五井家から、追い出したかったんじゃないのかな…」
私の発言に、
「…」
と、ナオキは、黙った…
それから、私同様、窓際から、外に集まったマスコミ関係者を眺めながら、言った…
「…ということは、まだまだ、これから、ひと騒動ありそうだな…」
「…ひと騒動どころか、いくつも、騒動があるに決まっている…」
私は、笑った…
「…どうして、綾乃さんに、それがわかるの?…」
「…重方(しげかた)氏が、無能じゃないからよ…」
「…」
「…当然、反撃してくる…」
「…」
「…さっき、ナオキが言った、五井家を追放されることを、裁判に訴えると言ったのは、序の口…まだまだ、なにをするか、わからない…」
「…」
と、ナオキは、黙った…
が、
それから、しばらくして、
「…怖いね…」
と、笑った…
「…怖い? …なにが、怖いの?…」
「…女の勘…綾乃さんの勘さ…」
「…私の勘?…」
「…これから、起こる騒動を予見している…」
「…私じゃなくても、誰でも、それぐらいは、わかる…」
私は、笑った…
「…たしかに、そうかもしれない…でも、重方(しげかた)氏が、無能か、どうか、短時間、接しただけで、見抜けるのは、綾乃さんの能力だと思う…」
「…」
「…少なくとも、このバトルは、すぐには、決着がつかないんじゃないかな…」
「…どういう意味?…」
「…重方(しげかた)氏が、無能じゃないとすれば、当然、反撃の手を打つはずさ…」
「…」
「…それに、重方(しげかた)氏の出身母体である、五井東家…これに、力を貸す、他の五井家の分家があっても、おかしくはない…」
「…」
「…五井の分家は、十三家…それぞれが、独立している…重方(しげかた)氏に加担して、五井本家を乗っ取ろうとする、他の分家がいても、おかしくはない…」
「…」
「…と、まあ、五井家のみ見ても、騒動は、終わらないかもしれない…さらには、政界…重方(しげかた)氏は、自民党で、大場派の幹部だった…人脈がまったくないとは、思えない…さらには、財界…米倉平造は、食わせ者だ…得体の知れない人物とまでは、いわないが、その力量は、侮れない…果たして、五井家は、その米倉平造と、どう折り合いをつけるのか…」
私は、ナオキの言葉に、唖然とした…
まさか、ナオキが、そこまで、言うとは、思わなかったからだ…
「…つまりは、もしかしたら、今回、重方(しげかた)氏を追放することで、五井家は、パンドラの箱を開けてしまったかもしれないということさ…」
「…パンドラの箱…」
「…重方(しげかた)氏を追放するのは、いい…でも、それをすることで、なにが、起こるのか、正確に見極められなかった可能性もある…」
「…」
「…ヤクザの親分でも、国家の指導者でも、同じさ…スナイパーというか、殺し屋を使って、殺すのはいい…でも、その後、どうなるか?…」
「…どういうこと?…」
「…ヤクザでいえば、トップを殺されれば、面子が立たないから、敵対する暴力団同士の血みどろの戦いになる…国家も同じ…下手をすれば、戦争になりかねかい…」
「…」
「…だから、重方(しげかた)氏を追放するにしても、五井家は、果たして、そこまで、考えて、手を打ったのか? 甚だ、疑問だ…」
「…ナオキ…アナタに、どうして、それが、わかるの?…」
「…今、この窓の下から見える、マスコミ関係者…彼らが、ここに集まってるのが、その証拠さ…」
「…」
「…仮に重方(しげかた)氏を追放するにしても、もっとうまくやれば、マスコミもここには、来なかっただろう…」
たしかに、言われてみれば、ナオキの言う通りだった…
これは、見方を変えれば、昭子の焦りの表れかもしれない…
私は、とっさに、気付いた…
もっと、時間をかけて、うまくやる方法が、あっただろうに、失敗した可能性が高い…
それとも、これは、織り込み済みなのだろうか?
ふと、思った…
仮に、重方(しげかた)が、それほど、無能でないことを、知っているのならば、重方(しげかた)氏を追放するような真似をすれば、下手をすれば、返り血を浴びかねない…
それほどの危険がある…
にもかかわらず、もしや、それがわかっていても、重方(しげかた)氏を追放するとすれば、このまま、放っておけば、伸明の今後に影を落とすと見るのが、普通…
ならば、今のうちに、重方(しげかた)を、排除しようとしたのかもしれない…
私は、思った…
結局、その日は、そのままで、ナオキは、帰った…
私は、ナオキが帰ったあとも、五井家の騒動のことを、考え続けていた…
たしかに、おかしい…
重方(しげかた)は、無能なようなことを、昭子も、そして、重方(しげかた)の息子の、冬馬も言っていたが、決して、無能な人物とは、思えなかった…
そして、それを考えれば、謎がある…
一体、どうして、重方(しげかた)を、無能呼ばわりするのか?
その謎だ…
私は、考える…
そして、そこから導き出される答えのヒントは、無能であると思わせることで、どんなメリットがあるか、どうかということかもしれない…
…それを考えた…
つまりは、相手を過小評価することで、どんなメリットがあるか、否かだ…
そのメリットは、おそらく、相手にケンカを仕掛けやすいということなのではないか?
要するに、相手が弱いと思えるから、
オレなら、勝てる…
アタシなら、勝てる…
と、考える…
そして、その結果、ケンカになっても、簡単に勝てないか、下手をすれば、負ける…
そういうことだ…
つまりは、昭子は、重方(しげかた)の能力を見誤ったわけではない…
もしかしたら、重方(しげかた)の能力は低いと、周囲に吹聴することで、真逆に、重方(しげかた)を、追放する協力者を得ようとしたのではないか?
ふと、気付いた…
誰もが、アイツは、強い、
手ごわいと、わかっている相手にケンカを売るバカはいない…
自分より、弱い…
あるいは、
自分ならば、ケンカをしても勝てると、思うから、ケンカをするのだ…
最初から、勝てない相手にケンカは、売らない…
つまり、アイツは、弱いと周囲に吹聴することで、容易に、仲間を集めやすくなるということだ…
この際の仲間というのは、いっしょに、重方(しげかた)を、追放することに、協力する仲間…
真逆にいえば、仲間を得なければ、重方(しげかた)に、対抗できないということだ…
私は、思った…
結局、病院の外に集まったマスコミ関係者も、いつのまにか、いなくなった…
当たり前だが、冬馬は、コメントは、一切しなかった…
代わりに、といえば、いいのか、警察がやって来た(笑)…
なにより、ここは、五井記念病院…
緊急時の救急車等が出入りする、病院だ…
マスコミ関係者が、集まっては、迷惑この上ない…
下手をすれば、救急車で、運ばれてくる、病人の生死に関わるかもしれない…
だから、警察のひとたちに、説得されて、マスコミ関係者は、渋々、引き下がった…
が、
この様子は、当然、テレビのワイドショーで、放送された…
この放送を見た、一般の視聴者の中には、警察が言うように、病院にマスコミ関係者が集まることに、批判をしたものもいた…
緊急車両の搬送に邪魔になるかもしれないからだ…
しかしながら、それ以上に話題になったというか、最大の功績は、テレビに、五井記念病院が、映ったことだった…
五井記念病院の、圧倒的に巨大な建物が、テレビに映った…
そして、その五井記念病院の理事長の父親が、五井家から、追放されることが、発表された…
五井記念病院の巨大な建物が、五井の力を表していた…
五井家の力を表していた…
いかに、お金を持っているか?…
いかに、権力を持っているか?…
それを表していた…
といっても、普通は、なにか、目に映るものが、なければ、わかりづらい…
真逆に言えば、目に映るものがあれば、誰にもわかりやすい…
目に映るもの=それが、この五井記念病院だった…
この病院の建物が、テレビに映ることで、それまで、五井を知るものが、なかったものでも、否が応でも、五井の力を知ることになった…
その結果、世間の耳目を集めることになった…
あんな巨大な病院の理事長をしている一族の内紛ということで、誰もが、注目することになった…
それが、今回の一番の功績だった(笑)…
その日は、そんなことを、考えて、終わったが、次の日に、担当の看護師の佐藤ナナと、
連れ立って、リハビリルームに向かうときに、偶然、病院の廊下で、理事長の菊池冬馬と会った…
私は、軽く、会釈して、その場をやり過ごそうとした…
だが、思いがけず、冬馬が、私を呼び止めた…
「…寿さん…」
「…ハイ…」
まさか、冬馬が、私に声をかけてくるとは、思わなかった…
私は、身構えた…
一体、菊池冬馬は、なにを、私に話しかけてくるのだろうか?
「…先日は、父が、お世話になりました…」
いきなり、冬馬が言った…
まさに、ボクシングでいえば、いきなりジャブを繰り出されたようなもの…
思いもかけない攻撃だった…
この前の、私と、冬馬の父の重方(しげかた)との密会? を目撃したと、報告したも同然だったからだ…
やはり、あの場で、見ていたのは、冬馬だったのか?
あらためて、思った…
と、同時に、私は、一瞬、どう言えば、いいか、悩んだ…
が、
「…いえ…」
と、軽く頭を下げるだけにした…
それが、一番、無難と言うか…
ありきたりだが、無難な対応と、思えたからだ…
当然、冬馬もまた、なにか、無難な対応を見せるかと、思った…
が、
違った…
「…寿綾乃…」
いきなり、私の名前を呼び捨てにした…
「…アンタには、つくづくイライラさせられる…」
…イライラ?…
どういう意味?
私は、驚いた…
まさか、菊池冬馬の口から、イライラさせられると、いう言葉が、出てくるとは、思わなかったからだ…
が、
言葉は、悪いが、その言葉が、私の闘志に火をつけたというか…
カッと、頭に血が上った…
「…イライラ? …なにに、イライラするんですか?…」
私は松葉杖を付きながら、冬馬に食ってかかった…
まさに、傍から見れば、コメディ…
コメディ=喜劇だ…
松葉杖を付いた女が、長身の白衣を着た、男と、やりあってるのだ…
普通に考えれば、とても、私に、勝ち目がないに決まっている…
自分でも、それが、わかっているが、自分でも、自分を止めることができなかった(苦笑)…
傍から見れば、見世物…
まるで、見世物扱いされるに、決まっている…
それが、自分でも、十分わかっているにも、かかわらず、自分を止めることができなかった(笑)…
「…答えてください…」
私が、怒って、長身の冬馬に、食ってかかると、
「…ちょっと、寿さん…止めて…」
と、傍らの佐藤ナナが、私の服を引っ張った…
が、
私は、それを無視した…
自分でも、呆れるぐらい、冬馬の言葉に頭にきていた…
「…一体、私のどこが、イライラするんですか?…」
「…寿綾乃…アンタの存在そのものが、イライラするんだ…」
冬馬が、ぶちまけた…
「…存在そのもの?…」
私は、頭に来たが、
…さもありなん…
と、納得するものが、あった…
それを言えば、私自身も、この菊池冬馬の存在に、イライラさせられていた…
要するに、お互いが、お互いを気に入らないのだ…
「…寿綾乃…アンタのおかげで、伸明さんは、リンちゃんと、結婚できなかった…」
意外なことを、口にした…
「…父も、アンタのせいで…」
「…私のせい?…」
「…そう…アンタのせいで、五井家から、追い出された…」
「…」
「…アンタは、つくづく疫病神だ…」
冬馬が、昂った感情のまま、一気に、私に、吐き出した…
「…そして、その疫病神が、ボクが、理事長を務める病院に入院してる…正直、顔も見たくない…」
「…顔も見たくない?…」
それは、こっちのセリフだった…
「…だったら、この病院の理事長をお辞めになればいい…」
思わず、私は、言った…
「…五井家の昭子さんに言って、辞めれば、いい…」
私が、言うと、
「…やはり、それを持ち出したな…」
と、冬馬が、我が意を得たと、ばかりに、言った…
「…寿綾乃…アンタの目論見は、わかっている…」
「…なにが、わかってるんですか?…」
「…アンタは、ボクをこの病院から、追い出すのが、役割だ…」
「…この病院から、追い出す?…」
「…昨日、この病院が、テレビに映った…」
「…それが、どうしたんですか?…」
「…アレで、ボクが、この五井記念病院で、身の置き所がなくなった…」
「…どうして、ですか?…」
「…父の追放が、ここまで、騒がれて、ボクが、のうのうと、この病院の理事長の座に居続けられるとは、思わない…」
…それでか?…
私は、気付いた…
ここで、私とやりあえば、当たり前だが、この騒動が、伸明なり昭子なりの耳に入るに決まっている…
それを承知で、冬馬は、私を相手にケンカを売っているのだ…
いや、
やけのやんぱちというか、自暴自棄になっているのだ…
どうせ、自分は、近々、五井家を追放されるに決まっている…
あのテレビの放送で、それが、わかったから、一言、この病院を去る前に、私に、文句を言いたかったに違いない…
が、
それに気付くと、なんだか、冬馬が哀れに思えてきた…
私の怒りも急激にトーンダウンした…
それまでは、まるで、やる気まんまんで、リングに上がっていたのが、急速に、やる気がなくなった…
それと、似ていた…
「…どうした、寿綾乃?…」
冬馬が訊いた…
「…なぜ、黙ってる?…」
「…敗者にかける言葉はありません…」
私は言った…
「…敗者?…」
「…だって、そうでしょ? 冬馬さん…アナタは、五井を追い出されるかもしれないと、わかったから、この衆人環視の中で、私にケンカを売った…少しでも、世間の耳目を引くためです…」
私の言葉通り、この病院の廊下で、少なからぬ人数の人間が、足を止めて、私と冬馬のやりとりを見ていた…
「…どうせ、五井家を追放されるなら、少しでも話題になりたい…そのために、今、ここで、わざと、私にケンカを売った…これが、マスコミに知れれば、五井記念病院の理事長、菊池冬馬が、病院の廊下で、ケンカを売った相手は、誰かということになる…」
「…」
「…そして、その相手は、五井家当主、諏訪野伸明と結婚するかもしれない女…これ以上、話題作りとしては、最適な相手はいない…」
私の言葉に、冬馬は、
「…」
と、沈黙した…
「…自分の理事長からの退任と軌を一にして、私をわざとケンカを売って、伸明さんや、昭子さんに、傷をつけようとするのは、あまり賢明な手段とは、思えませんね…」
私の言葉に、冬馬は、
「…」
と、沈黙したままだった…
「…冬馬さん…」
私は、沈黙を続ける冬馬に、声をかけた…
「…負けを認めるのは、簡単です…」
「…」
「…だから、簡単じゃない道を選ぶのが、冬馬さんらしいんじゃないんですか?…」
私の言葉に、冬馬が、苦笑した…
「…なにもかも、お見通しということか…」
私は、答案の言葉に、
「…」
と、なにも、答えなかった…
「…たしかに、あの昭子さんに気に入られるだけのことはある…」
「…」
「…あの策士のばばあに…」
そう言うと、踵を返して、歩きだした…
思わず、
「…エッ?…」
と、言いたいほど、呆気なく、この場を去った…
私が、松葉杖をついてなければ、
「…なにか、言いたいことはないの?…」
と、走って、冬馬に追いついて、聞きたいほどだった…
が、
それは、できなかった…
そして、なにより、ぐるりと、周囲を見渡すと、この廊下で、私と、冬馬のやりとりを見ていた人間の多さに、驚いた…
あらためて、思った…
優に、二十人は、超えてる…
いや、
三十人は、超えてるかもしれない…
これでは、まるで、テレビや映画のロケ現場のようだ…
よくぞ、これだけのギャラリーに気付かず、冬馬と言い争いになったものだ…
我ながら、驚いたというか…
つくづく自分は、周囲の状況を見る力がないと実感した…
これだけのギャラリーに見られてることに、気付けば、さすがに、いかに、私とて、公然と、この場で、冬馬にケンカを売らなかった(苦笑)…
つくづく自分の思慮のなさに、唖然とする(苦笑)…
自分のバカさ加減に、唖然とした…
そして、それは、佐藤ナナも同じだったようだ…
「…寿さん…驚きました…」
佐藤ナナが言った…
「…まさか、廊下で、理事長にケンカを売るなんて、思いませんでした…」
私は、佐藤ナナの言葉に、どう言っていいか、わからなかった…
だから、
「…」
と、沈黙した…
「…寿さんって、落ち着いた見かけによらず、案外、ケンカっぱやいんですね…」
「…ケンカっぱやい?…」
「…だって、そうでしょう…こんな病院の廊下で、理事長とやり合うなんて…」
言われて見れば、まさにその通り…
言葉もなかった…
「…まさか、こんな場所で、寿さんが、理事長とケンカするなんて、思いませんでした…」
佐藤ナナが、繰り返す…
私は、返す返すも、言葉もなかった…
「…ひとは、見かけによらないものです…」
佐藤ナナが、ダメ出しをした…
私は、苦笑するしかなかった…
「…でも、そんな寿さんが、好きです…」
「…私が好き?…」
思いもよらない言葉だった…
「…今まで、寿さんは、完璧な人間と思ってました…」
「…完璧な人間?…」
「…だって、一般人にもかかわらず、あの藤原ナオキ氏の秘書で、五井家当主の諏訪野伸明さんの、お嫁さん候補…」
「…」
「…しかも、クルマに轢かれて、意識不明で、この病院に運び込まれたにも、かかわらず、三か月もすると、松葉杖をついて、歩いている…」
「…」
「…まさに、スーパーウーマンです…」
佐藤ナナが、感嘆した…
私は、一瞬、佐藤ナナが、私をからかっているのかと、思った…
皮肉っているのかと、思った…
だが、
そうでは、なかった…
真剣だった…
「…そんな、スーパーウーマンの寿さんでも、こんな一面があるのかと思うと、なんだか、安心して…」
佐藤ナナが、苦笑する…
私は、
「…」
と、言葉もなかった…
私が、つい、頭にきて、本能の赴くまま、菊池冬馬とやりあったことを、この佐藤ナナが、そんなふうに、感じたとは、思わなかった…
そして、次に、佐藤ナナが、もっと、意外なことを言った…
「…寿さん…」
「…なに?…」
「…理事長は、案外、寿さんを好きなのかもしれないですよ…」
「…私を好き?…」
…そんなバカな?…
私は、内心、吹き出す寸前だった…
「…佐藤さん…好きな女に、公然とケンカを売る男が、どこの世界にいるの?…」
「…それですよ…」
「…それって?…」
「…好きの反対は、なにか、知ってますか?…」
「…嫌いじゃないの?…」
「…違います…」
「…違う?…」
「…好きの反対は、無関心です…」
「…無関心?…」
「…つまり、興味がないってことです…」
佐藤ナナが、断言した…
「…じゃ、嫌いは、なんなの?…」
「…好きの次に、興味があるってことです…」
「…興味がある?…」
「…心底、嫌いな人間には、誰も、興味を持ちませんよ…」
言われてみれば、その通りだった…
「…好きでなくとも、理事長は、寿さんに、興味は持ってる証拠です…」
「…興味は、持ってる?…」
「…だって、五井家当主夫人になるかもしれない、女じゃないですか? 寿さんは…どんな女か、興味を持つのが、普通です…」
佐藤ナナが、笑った…
言われてみれば、これも、その通り…
その通りだった…
そして、気が付くと、いつのまにか、周囲のギャラリーは、いなくなっていた…
これも当たり前だった…
「…ナオキ…あのひとたちを、呼んだのは、その米倉かしら?…」
「…どういう意味?…」
「…なんと言っていいか、わからないけれども、なんか、もっと裏があるような…」
「…裏?…」
「…そもそも、重方(しげかた)さんは、どうして、追放されたのかしら?…」
「…それは、重方(しげかた)氏が、自民党で、菊池派を立ち上げようとしたり、伸明さんを、追放して、自分が、五井家の当主になろうとするからだろ…」
「…でも、さっきも言ったように、なにか、きっかけがなければ、そんなこと、しようと、思わなかったでしょ?…」
「…それは、米倉兵造の口車に乗ったから…」
「…でも、その米倉兵造の背後に誰か、いても、いいんじゃないの?…」
「…どういう意味? 米倉兵造もまた、誰かに操られていたとでも、言うの?…」
「…菊池重方(しげかた)さん…実は、先日、会ったの?…」
「…重方(しげかた)氏に、綾乃さんが?…」
ナオキが、驚いた…
「…少なくとも、バカじゃないわ…」
「…どういうこと?…」
「…米倉兵造の口車に乗って、五井家の当主になりたいと、思ったかもしれないけれども、中身のない人間じゃない…」
「…」
「…少なくとも、私よりは上…優れている…」
「…どうして、綾乃さんに、そんなことがわかるの?…」
「…菊池リン…」
「…リンちゃん?…」
「…彼女が、私に差し向けた五井家のスパイだったことを、知っていた…」
「…」
「…そして、私の正体も…」
「…綾乃さんの正体?…」
「…私が、寿綾乃を名乗る女であり、本名は、矢代綾子だということ…そして、それを知らなかった建造さんが、私を血の繋がった自分の娘だと密かに疑っていたこと…それゆえ、菊池リンを使って、私の動静を見張っていたこと…その他諸々を知っていた…」
「…」
「…だから、少なくとも、無能な人間ではない…」
「…だったら、どうして、五井家は、重方(しげかた)氏を追放しようとしたんだ?…」
「…おそらくは、伸明さんの邪魔になるから…」
「…諏訪野さんの?…」
「…重方(しげかた)氏は、たぶん、無能ではないが、尻が軽いと言うか…」
「…どういう意味?…」
「…だって、簡単に、米倉平造の口車に乗って、五井家の当主になりたいと、思う人間でしょ? 女じゃないけれども、尻が軽すぎるというか…」
「…」
「…きっと、そんな人間を、五井家から、追い出したかったんじゃないのかな…」
私の発言に、
「…」
と、ナオキは、黙った…
それから、私同様、窓際から、外に集まったマスコミ関係者を眺めながら、言った…
「…ということは、まだまだ、これから、ひと騒動ありそうだな…」
「…ひと騒動どころか、いくつも、騒動があるに決まっている…」
私は、笑った…
「…どうして、綾乃さんに、それがわかるの?…」
「…重方(しげかた)氏が、無能じゃないからよ…」
「…」
「…当然、反撃してくる…」
「…」
「…さっき、ナオキが言った、五井家を追放されることを、裁判に訴えると言ったのは、序の口…まだまだ、なにをするか、わからない…」
「…」
と、ナオキは、黙った…
が、
それから、しばらくして、
「…怖いね…」
と、笑った…
「…怖い? …なにが、怖いの?…」
「…女の勘…綾乃さんの勘さ…」
「…私の勘?…」
「…これから、起こる騒動を予見している…」
「…私じゃなくても、誰でも、それぐらいは、わかる…」
私は、笑った…
「…たしかに、そうかもしれない…でも、重方(しげかた)氏が、無能か、どうか、短時間、接しただけで、見抜けるのは、綾乃さんの能力だと思う…」
「…」
「…少なくとも、このバトルは、すぐには、決着がつかないんじゃないかな…」
「…どういう意味?…」
「…重方(しげかた)氏が、無能じゃないとすれば、当然、反撃の手を打つはずさ…」
「…」
「…それに、重方(しげかた)氏の出身母体である、五井東家…これに、力を貸す、他の五井家の分家があっても、おかしくはない…」
「…」
「…五井の分家は、十三家…それぞれが、独立している…重方(しげかた)氏に加担して、五井本家を乗っ取ろうとする、他の分家がいても、おかしくはない…」
「…」
「…と、まあ、五井家のみ見ても、騒動は、終わらないかもしれない…さらには、政界…重方(しげかた)氏は、自民党で、大場派の幹部だった…人脈がまったくないとは、思えない…さらには、財界…米倉平造は、食わせ者だ…得体の知れない人物とまでは、いわないが、その力量は、侮れない…果たして、五井家は、その米倉平造と、どう折り合いをつけるのか…」
私は、ナオキの言葉に、唖然とした…
まさか、ナオキが、そこまで、言うとは、思わなかったからだ…
「…つまりは、もしかしたら、今回、重方(しげかた)氏を追放することで、五井家は、パンドラの箱を開けてしまったかもしれないということさ…」
「…パンドラの箱…」
「…重方(しげかた)氏を追放するのは、いい…でも、それをすることで、なにが、起こるのか、正確に見極められなかった可能性もある…」
「…」
「…ヤクザの親分でも、国家の指導者でも、同じさ…スナイパーというか、殺し屋を使って、殺すのはいい…でも、その後、どうなるか?…」
「…どういうこと?…」
「…ヤクザでいえば、トップを殺されれば、面子が立たないから、敵対する暴力団同士の血みどろの戦いになる…国家も同じ…下手をすれば、戦争になりかねかい…」
「…」
「…だから、重方(しげかた)氏を追放するにしても、五井家は、果たして、そこまで、考えて、手を打ったのか? 甚だ、疑問だ…」
「…ナオキ…アナタに、どうして、それが、わかるの?…」
「…今、この窓の下から見える、マスコミ関係者…彼らが、ここに集まってるのが、その証拠さ…」
「…」
「…仮に重方(しげかた)氏を追放するにしても、もっとうまくやれば、マスコミもここには、来なかっただろう…」
たしかに、言われてみれば、ナオキの言う通りだった…
これは、見方を変えれば、昭子の焦りの表れかもしれない…
私は、とっさに、気付いた…
もっと、時間をかけて、うまくやる方法が、あっただろうに、失敗した可能性が高い…
それとも、これは、織り込み済みなのだろうか?
ふと、思った…
仮に、重方(しげかた)が、それほど、無能でないことを、知っているのならば、重方(しげかた)氏を追放するような真似をすれば、下手をすれば、返り血を浴びかねない…
それほどの危険がある…
にもかかわらず、もしや、それがわかっていても、重方(しげかた)氏を追放するとすれば、このまま、放っておけば、伸明の今後に影を落とすと見るのが、普通…
ならば、今のうちに、重方(しげかた)を、排除しようとしたのかもしれない…
私は、思った…
結局、その日は、そのままで、ナオキは、帰った…
私は、ナオキが帰ったあとも、五井家の騒動のことを、考え続けていた…
たしかに、おかしい…
重方(しげかた)は、無能なようなことを、昭子も、そして、重方(しげかた)の息子の、冬馬も言っていたが、決して、無能な人物とは、思えなかった…
そして、それを考えれば、謎がある…
一体、どうして、重方(しげかた)を、無能呼ばわりするのか?
その謎だ…
私は、考える…
そして、そこから導き出される答えのヒントは、無能であると思わせることで、どんなメリットがあるか、どうかということかもしれない…
…それを考えた…
つまりは、相手を過小評価することで、どんなメリットがあるか、否かだ…
そのメリットは、おそらく、相手にケンカを仕掛けやすいということなのではないか?
要するに、相手が弱いと思えるから、
オレなら、勝てる…
アタシなら、勝てる…
と、考える…
そして、その結果、ケンカになっても、簡単に勝てないか、下手をすれば、負ける…
そういうことだ…
つまりは、昭子は、重方(しげかた)の能力を見誤ったわけではない…
もしかしたら、重方(しげかた)の能力は低いと、周囲に吹聴することで、真逆に、重方(しげかた)を、追放する協力者を得ようとしたのではないか?
ふと、気付いた…
誰もが、アイツは、強い、
手ごわいと、わかっている相手にケンカを売るバカはいない…
自分より、弱い…
あるいは、
自分ならば、ケンカをしても勝てると、思うから、ケンカをするのだ…
最初から、勝てない相手にケンカは、売らない…
つまり、アイツは、弱いと周囲に吹聴することで、容易に、仲間を集めやすくなるということだ…
この際の仲間というのは、いっしょに、重方(しげかた)を、追放することに、協力する仲間…
真逆にいえば、仲間を得なければ、重方(しげかた)に、対抗できないということだ…
私は、思った…
結局、病院の外に集まったマスコミ関係者も、いつのまにか、いなくなった…
当たり前だが、冬馬は、コメントは、一切しなかった…
代わりに、といえば、いいのか、警察がやって来た(笑)…
なにより、ここは、五井記念病院…
緊急時の救急車等が出入りする、病院だ…
マスコミ関係者が、集まっては、迷惑この上ない…
下手をすれば、救急車で、運ばれてくる、病人の生死に関わるかもしれない…
だから、警察のひとたちに、説得されて、マスコミ関係者は、渋々、引き下がった…
が、
この様子は、当然、テレビのワイドショーで、放送された…
この放送を見た、一般の視聴者の中には、警察が言うように、病院にマスコミ関係者が集まることに、批判をしたものもいた…
緊急車両の搬送に邪魔になるかもしれないからだ…
しかしながら、それ以上に話題になったというか、最大の功績は、テレビに、五井記念病院が、映ったことだった…
五井記念病院の、圧倒的に巨大な建物が、テレビに映った…
そして、その五井記念病院の理事長の父親が、五井家から、追放されることが、発表された…
五井記念病院の巨大な建物が、五井の力を表していた…
五井家の力を表していた…
いかに、お金を持っているか?…
いかに、権力を持っているか?…
それを表していた…
といっても、普通は、なにか、目に映るものが、なければ、わかりづらい…
真逆に言えば、目に映るものがあれば、誰にもわかりやすい…
目に映るもの=それが、この五井記念病院だった…
この病院の建物が、テレビに映ることで、それまで、五井を知るものが、なかったものでも、否が応でも、五井の力を知ることになった…
その結果、世間の耳目を集めることになった…
あんな巨大な病院の理事長をしている一族の内紛ということで、誰もが、注目することになった…
それが、今回の一番の功績だった(笑)…
その日は、そんなことを、考えて、終わったが、次の日に、担当の看護師の佐藤ナナと、
連れ立って、リハビリルームに向かうときに、偶然、病院の廊下で、理事長の菊池冬馬と会った…
私は、軽く、会釈して、その場をやり過ごそうとした…
だが、思いがけず、冬馬が、私を呼び止めた…
「…寿さん…」
「…ハイ…」
まさか、冬馬が、私に声をかけてくるとは、思わなかった…
私は、身構えた…
一体、菊池冬馬は、なにを、私に話しかけてくるのだろうか?
「…先日は、父が、お世話になりました…」
いきなり、冬馬が言った…
まさに、ボクシングでいえば、いきなりジャブを繰り出されたようなもの…
思いもかけない攻撃だった…
この前の、私と、冬馬の父の重方(しげかた)との密会? を目撃したと、報告したも同然だったからだ…
やはり、あの場で、見ていたのは、冬馬だったのか?
あらためて、思った…
と、同時に、私は、一瞬、どう言えば、いいか、悩んだ…
が、
「…いえ…」
と、軽く頭を下げるだけにした…
それが、一番、無難と言うか…
ありきたりだが、無難な対応と、思えたからだ…
当然、冬馬もまた、なにか、無難な対応を見せるかと、思った…
が、
違った…
「…寿綾乃…」
いきなり、私の名前を呼び捨てにした…
「…アンタには、つくづくイライラさせられる…」
…イライラ?…
どういう意味?
私は、驚いた…
まさか、菊池冬馬の口から、イライラさせられると、いう言葉が、出てくるとは、思わなかったからだ…
が、
言葉は、悪いが、その言葉が、私の闘志に火をつけたというか…
カッと、頭に血が上った…
「…イライラ? …なにに、イライラするんですか?…」
私は松葉杖を付きながら、冬馬に食ってかかった…
まさに、傍から見れば、コメディ…
コメディ=喜劇だ…
松葉杖を付いた女が、長身の白衣を着た、男と、やりあってるのだ…
普通に考えれば、とても、私に、勝ち目がないに決まっている…
自分でも、それが、わかっているが、自分でも、自分を止めることができなかった(苦笑)…
傍から見れば、見世物…
まるで、見世物扱いされるに、決まっている…
それが、自分でも、十分わかっているにも、かかわらず、自分を止めることができなかった(笑)…
「…答えてください…」
私が、怒って、長身の冬馬に、食ってかかると、
「…ちょっと、寿さん…止めて…」
と、傍らの佐藤ナナが、私の服を引っ張った…
が、
私は、それを無視した…
自分でも、呆れるぐらい、冬馬の言葉に頭にきていた…
「…一体、私のどこが、イライラするんですか?…」
「…寿綾乃…アンタの存在そのものが、イライラするんだ…」
冬馬が、ぶちまけた…
「…存在そのもの?…」
私は、頭に来たが、
…さもありなん…
と、納得するものが、あった…
それを言えば、私自身も、この菊池冬馬の存在に、イライラさせられていた…
要するに、お互いが、お互いを気に入らないのだ…
「…寿綾乃…アンタのおかげで、伸明さんは、リンちゃんと、結婚できなかった…」
意外なことを、口にした…
「…父も、アンタのせいで…」
「…私のせい?…」
「…そう…アンタのせいで、五井家から、追い出された…」
「…」
「…アンタは、つくづく疫病神だ…」
冬馬が、昂った感情のまま、一気に、私に、吐き出した…
「…そして、その疫病神が、ボクが、理事長を務める病院に入院してる…正直、顔も見たくない…」
「…顔も見たくない?…」
それは、こっちのセリフだった…
「…だったら、この病院の理事長をお辞めになればいい…」
思わず、私は、言った…
「…五井家の昭子さんに言って、辞めれば、いい…」
私が、言うと、
「…やはり、それを持ち出したな…」
と、冬馬が、我が意を得たと、ばかりに、言った…
「…寿綾乃…アンタの目論見は、わかっている…」
「…なにが、わかってるんですか?…」
「…アンタは、ボクをこの病院から、追い出すのが、役割だ…」
「…この病院から、追い出す?…」
「…昨日、この病院が、テレビに映った…」
「…それが、どうしたんですか?…」
「…アレで、ボクが、この五井記念病院で、身の置き所がなくなった…」
「…どうして、ですか?…」
「…父の追放が、ここまで、騒がれて、ボクが、のうのうと、この病院の理事長の座に居続けられるとは、思わない…」
…それでか?…
私は、気付いた…
ここで、私とやりあえば、当たり前だが、この騒動が、伸明なり昭子なりの耳に入るに決まっている…
それを承知で、冬馬は、私を相手にケンカを売っているのだ…
いや、
やけのやんぱちというか、自暴自棄になっているのだ…
どうせ、自分は、近々、五井家を追放されるに決まっている…
あのテレビの放送で、それが、わかったから、一言、この病院を去る前に、私に、文句を言いたかったに違いない…
が、
それに気付くと、なんだか、冬馬が哀れに思えてきた…
私の怒りも急激にトーンダウンした…
それまでは、まるで、やる気まんまんで、リングに上がっていたのが、急速に、やる気がなくなった…
それと、似ていた…
「…どうした、寿綾乃?…」
冬馬が訊いた…
「…なぜ、黙ってる?…」
「…敗者にかける言葉はありません…」
私は言った…
「…敗者?…」
「…だって、そうでしょ? 冬馬さん…アナタは、五井を追い出されるかもしれないと、わかったから、この衆人環視の中で、私にケンカを売った…少しでも、世間の耳目を引くためです…」
私の言葉通り、この病院の廊下で、少なからぬ人数の人間が、足を止めて、私と冬馬のやりとりを見ていた…
「…どうせ、五井家を追放されるなら、少しでも話題になりたい…そのために、今、ここで、わざと、私にケンカを売った…これが、マスコミに知れれば、五井記念病院の理事長、菊池冬馬が、病院の廊下で、ケンカを売った相手は、誰かということになる…」
「…」
「…そして、その相手は、五井家当主、諏訪野伸明と結婚するかもしれない女…これ以上、話題作りとしては、最適な相手はいない…」
私の言葉に、冬馬は、
「…」
と、沈黙した…
「…自分の理事長からの退任と軌を一にして、私をわざとケンカを売って、伸明さんや、昭子さんに、傷をつけようとするのは、あまり賢明な手段とは、思えませんね…」
私の言葉に、冬馬は、
「…」
と、沈黙したままだった…
「…冬馬さん…」
私は、沈黙を続ける冬馬に、声をかけた…
「…負けを認めるのは、簡単です…」
「…」
「…だから、簡単じゃない道を選ぶのが、冬馬さんらしいんじゃないんですか?…」
私の言葉に、冬馬が、苦笑した…
「…なにもかも、お見通しということか…」
私は、答案の言葉に、
「…」
と、なにも、答えなかった…
「…たしかに、あの昭子さんに気に入られるだけのことはある…」
「…」
「…あの策士のばばあに…」
そう言うと、踵を返して、歩きだした…
思わず、
「…エッ?…」
と、言いたいほど、呆気なく、この場を去った…
私が、松葉杖をついてなければ、
「…なにか、言いたいことはないの?…」
と、走って、冬馬に追いついて、聞きたいほどだった…
が、
それは、できなかった…
そして、なにより、ぐるりと、周囲を見渡すと、この廊下で、私と、冬馬のやりとりを見ていた人間の多さに、驚いた…
あらためて、思った…
優に、二十人は、超えてる…
いや、
三十人は、超えてるかもしれない…
これでは、まるで、テレビや映画のロケ現場のようだ…
よくぞ、これだけのギャラリーに気付かず、冬馬と言い争いになったものだ…
我ながら、驚いたというか…
つくづく自分は、周囲の状況を見る力がないと実感した…
これだけのギャラリーに見られてることに、気付けば、さすがに、いかに、私とて、公然と、この場で、冬馬にケンカを売らなかった(苦笑)…
つくづく自分の思慮のなさに、唖然とする(苦笑)…
自分のバカさ加減に、唖然とした…
そして、それは、佐藤ナナも同じだったようだ…
「…寿さん…驚きました…」
佐藤ナナが言った…
「…まさか、廊下で、理事長にケンカを売るなんて、思いませんでした…」
私は、佐藤ナナの言葉に、どう言っていいか、わからなかった…
だから、
「…」
と、沈黙した…
「…寿さんって、落ち着いた見かけによらず、案外、ケンカっぱやいんですね…」
「…ケンカっぱやい?…」
「…だって、そうでしょう…こんな病院の廊下で、理事長とやり合うなんて…」
言われて見れば、まさにその通り…
言葉もなかった…
「…まさか、こんな場所で、寿さんが、理事長とケンカするなんて、思いませんでした…」
佐藤ナナが、繰り返す…
私は、返す返すも、言葉もなかった…
「…ひとは、見かけによらないものです…」
佐藤ナナが、ダメ出しをした…
私は、苦笑するしかなかった…
「…でも、そんな寿さんが、好きです…」
「…私が好き?…」
思いもよらない言葉だった…
「…今まで、寿さんは、完璧な人間と思ってました…」
「…完璧な人間?…」
「…だって、一般人にもかかわらず、あの藤原ナオキ氏の秘書で、五井家当主の諏訪野伸明さんの、お嫁さん候補…」
「…」
「…しかも、クルマに轢かれて、意識不明で、この病院に運び込まれたにも、かかわらず、三か月もすると、松葉杖をついて、歩いている…」
「…」
「…まさに、スーパーウーマンです…」
佐藤ナナが、感嘆した…
私は、一瞬、佐藤ナナが、私をからかっているのかと、思った…
皮肉っているのかと、思った…
だが、
そうでは、なかった…
真剣だった…
「…そんな、スーパーウーマンの寿さんでも、こんな一面があるのかと思うと、なんだか、安心して…」
佐藤ナナが、苦笑する…
私は、
「…」
と、言葉もなかった…
私が、つい、頭にきて、本能の赴くまま、菊池冬馬とやりあったことを、この佐藤ナナが、そんなふうに、感じたとは、思わなかった…
そして、次に、佐藤ナナが、もっと、意外なことを言った…
「…寿さん…」
「…なに?…」
「…理事長は、案外、寿さんを好きなのかもしれないですよ…」
「…私を好き?…」
…そんなバカな?…
私は、内心、吹き出す寸前だった…
「…佐藤さん…好きな女に、公然とケンカを売る男が、どこの世界にいるの?…」
「…それですよ…」
「…それって?…」
「…好きの反対は、なにか、知ってますか?…」
「…嫌いじゃないの?…」
「…違います…」
「…違う?…」
「…好きの反対は、無関心です…」
「…無関心?…」
「…つまり、興味がないってことです…」
佐藤ナナが、断言した…
「…じゃ、嫌いは、なんなの?…」
「…好きの次に、興味があるってことです…」
「…興味がある?…」
「…心底、嫌いな人間には、誰も、興味を持ちませんよ…」
言われてみれば、その通りだった…
「…好きでなくとも、理事長は、寿さんに、興味は持ってる証拠です…」
「…興味は、持ってる?…」
「…だって、五井家当主夫人になるかもしれない、女じゃないですか? 寿さんは…どんな女か、興味を持つのが、普通です…」
佐藤ナナが、笑った…
言われてみれば、これも、その通り…
その通りだった…
そして、気が付くと、いつのまにか、周囲のギャラリーは、いなくなっていた…
これも当たり前だった…