第23話
文字数 9,337文字
五井家の内紛の勃発…
それに対して、メディアは、辛辣だった…
いや、
辛辣に仕向けたというか…
すでに、大場小太郎が、メディアを、懐柔していた…
私が、それに気付いたのは、メディアの誰もが、菊池重方(しげかた)に、批判的だったからだ…
いかに、メディアでも、一様に、菊池重方(しげかた)に、批判的なのは、おかしい…
メディアもまた、右も左もあるし、ある意味、それを売りにして、新聞や雑誌を発行する…
わかりやすい例で言えば、右寄りは、産経新聞…
左寄りは、朝日新聞という具合に、だ…
つまりは、右寄りのひとは、産経新聞を購読するし、左寄りのひとは、朝日新聞を購読する…
すると、当たり前だが、その新聞を購読する人間が、喜ぶ、主張をする…
だから、産経新聞では、自衛隊を批判しないが、朝日新聞では、批判する…
そういうことだ(笑)…
にもかかわらず、菊池重方(しげかた)が、自民党で、菊池派を立ち上げると、宣言した途端、メディアが一斉に、菊池重方(しげかた)を攻撃した…
これは、さすがにおかしい…
普通ならば、自民党に、新星、現る、とか…
五井家が、政界で、革命を起こすとか…
重方(しげかた)をヨイショする記事が、少しぐらいあってもいい(笑)…
だが、それは、一切なかった…
皆無だった…
だから、当然、それには、誰かの意図を感じる…
誰かが、背後で、メディアを操っていると、考えるのが、普通だ…
そして、考えられるのは、やはり、あの大場小太郎だった…
自民党の大場小太郎代議士だった…
すでに、菊池重方(しげかた)が、大場派から独立して、別の派閥を立ち上げると、宣言した途端に、メディアが一斉に、菊池重方(しげかた)を、攻撃する…
あらかじめ、そういう手筈を整えていたのだろう…
いや、
大場小太郎だけではない…
五井家もまた、同じ…
大場小太郎に同調して、菊池重方(しげかた)を、批判するべく、手を打っていたに違いない…
そうでなければ、これほど、菊池重方(しげかた)に、批判一色になるはずがない…
私は、思った…
そして、仮に、五井が動いたとしたら、その裏には、昭子がいるに違いない…
すでに、昭子は、重方(しげかた)を見限っている…
だから、当然、排除に動く…
潰しにかかる…
私は、そこまで、考えると、五井家の当主は、実質的には、昭子ではないか?
と、気付いた…
伸明は、当主には、違いないが、名目上の当主…
実権は、昭子にあるのではないか、と、気付いた…
なぜなら、伸明は、昭子に頭が上がらない…
昭子は、伸明の母親だから、なおさらだ…
…五井家の内紛の勃発…
タイトルは、衝撃的だったし、内容は、一貫して、重方(しげかた)に、批判的だった…
重方(しげかた)は、自分が、党内で、菊池派を立ち上げたいがために、甥の伸明を追い落として、自分が、五井家の当主に就きたい…
五井家の当主になり、これまで、分家出身ゆえに、動かせなかったお金を、動かせるようになり、その金で、菊池派を立ち上げるという内容だ…
それは、事実だったが、それを公にバラされては、まずかった…
これでは、菊池重方(しげかた)のイメージは最悪…
菊池派の立ち上げを宣言して、直後に、こんな記事を書かれては、自民党内で、支持が、広がるわけがなかった…
つまり、重方(しげかた)は、初っ端から、しくじったと言える…
誰もが、そうだが、なにかを、始めるときは、大義名分が必要になる…
この重方(しげかた)の場合は、従来の自民党では、できなかったから、自分がやるといった具合に、だ…
それが、憲法改正でも、生活保護を中心にしたセイフティーネットの拡充でも、なんでもいい…
錦の御旗といえば、おおげさだが、とにかく、大義名分を掲げて、同志を募り、また、同時に、世間一般に、自分たちの主義・主張を、知ってもらう…
理解してもらう…
その結果、周囲に賛同が広がり、自民党でも、菊池派に入りたいと思う人間が、現れるし、世間一般でも、菊池重方(しげかた)を、支持する人間が、現れるものだ…
しかし、今回のように、菊池重方(しげかた)が、菊池派を立ち上げると、世間に宣言した途端、重方(しげかた)に批判的な記事が、続出する事態では、これも無理…
ボクシングでいえば、ゴングが、鳴って、試合が始まった途端、雨あられと、対戦する相手のパンチが、自分に、降り注ぐようなものだからだ…
すると、どうだ?
自分は、防戦一方…
せめて、顔を、打たれまいと、グローブで、顔を覆っている状況だ…
顔を打たれれば、一気に、ダウンして、勝負が決するからだ…
ちょうど、今の菊池重方(しげかた)が、これと同じ状況だった…
対戦する相手から、雨あられと、パンチの嵐が、重方(しげかた)に、降り注ぐ状況…
重方(しげかた)は、亀が首をすくめるように、グローブで、顔を隠して、相手のパンチの嵐をしのいでいる…
もはや、なにもできない状況だ…
文字通り、手も足も出ない状況…
試合が始まったばかりなのに、このまま続けば、リングサイドから、タオルが投げ込まれるのでは? と、思えるほど、一方的に、やられていた…
この状況では、援軍は、期待できない…
いや、援軍どころか、自分といっしょに、菊池派を立ち上げるときに、馳せ参じると、約束した仲間が、次々と、離れてゆくのでは? と、思うほど、事態は悪化していた…
まさに、一方的な展開だった…
私は、テレビや、新聞、ネット、と、あらゆるメディアで、そんな状況を知った…
あまりに、一方的過ぎる…
その状況を知って、思わず、重方(しげかた)に、同情するほどだった…
私は、当たり前だが、重方(しげかた)に、面識はない…
にもかかわらず、思わず、同情するほど、一方的にやられていた…
ボクシングでいえば、試合が始まったばかりなのに、もはや、勝負が、ついたのでは?
そう思えるほどだった…
そんなときだった…
諏訪野マミが、病室に私を訪ねてきたのだ…
諏訪野マミが、この病室にやって来たのは、二度目だった…
私個人は、諏訪野マミが好き…
ハッキリ言って、諏訪野伸明と知り合って、さまざまな五井家の人間と知り合った…
その中で、唯一、心を許したというか…
肝胆相照らす仲になったのは、諏訪野マミだけだった…
彼女が、一体、なぜ、この病室に、私を訪ねて、やってきたのか、わからないが、私は、彼女の来訪を歓迎した…
「…寿さん…元気?…」
「…ハイ…おかげさまで…」
私は、言った…
「…たしかに、元気そうね…」
諏訪野マミが、呟く。
「…なにより、寿さんの顔色がいい…」
「…ありがとうございます…」
私は、答える…
「…今日は、一体、どういう用件で…」
と、聞きたかったが、止めた…
あえて、その言葉を、口にしなかった…
これが、学生時代の友人のように、昔から、知っていれば、口にできる…
相手が、
「…用事なんか、あるわけないじゃん…綾乃の顔を見たくなっただけ…」
と、でも言うだろう…
しかし、さすがに、それはできない…
私は、諏訪野マミが、好きだが、やはり壁があるというか…
諏訪野マミの方から、
「…用事なんか、あるわけないじゃん…綾乃の顔を見たくなっただけ…」
と、いうのは、できるが、私が、
「…今日は、一体、どういう用件で…」
と、口にするのは、できない…
それでは、言葉を変えれば、
用事がなければ、来るな!
と、言っているようなものだからだ…
やはり、これは、生まれの差に他ならないと、思う…
諏訪野マミは、伸明の父、建造の愛人の子供…
だから、五井一族としては、言葉は悪いが中途半端だが、それでも、私のように、一般人ではない…
だから、ポジティブというか…
もちろん、諏訪野マミの生まれ持った性格もまた、関係するだろう…
いずれにしろ、諏訪野マミが、私にしたように、ポジティブ=積極的に、
「…寿さん…元気?…」
と、あっけらかんと、挨拶はできない(笑)…
また、それをできる人間も、世の中に、あまりいない…
それを考えれば、やはり、この諏訪野マミも、金持ちのお嬢様といったところだろうか?
私は、考える…
「…寿さん…歩けるようになったんだって…」
「…誰に聞いたんですか?…」
驚いた…
まさか、諏訪野マミが、私が歩けるようになったのを、知ってるとは、思わなかった…
「…冬馬よ…冬馬…」
「…理事長からですか?…」
「…寿さん…私が、五井一族だってこと、忘れてたんじゃないでしょうね…」
諏訪野マミが、笑う…
たしかに、諏訪野マミの言う通り…
うっかり、諏訪野マミが、五井一族であることを忘れるところだった…
「…ですが、マミさんが、理事長と仲がいいとは、知りませんでした…」
諏訪野マミは私の言葉に、意味深に笑った…
「…寿さん…私が、五井一族から一人だけ浮いていると、思っていたでしょ?…」
「…そんなこと…」
「…いえ、一族から浮いてるのは、事実だけど、全員とうまくいかないわけじゃない…」
「…」
「…まあ、それほど、仲良くないけど、一部には、連絡のやりとりをする人間もいるってこと…冬馬は、その一人…」
「…理事長が…」
「…アイツ、変わってるでしょ? 正直、周囲から浮きがちだし、なんか、そんな面で、波長が合うっていうか…」
「…」
「…正直、いつでも自信たっぷりで、嫌みなヤツだけど、アタシにとっては、それほどでもないっていうか…やはり、それは、父の影響もあると思う…」
「…お父様の?…」
「…私は、父の愛人の子だけれど、五井家当主の娘であることに、代わりはない…それで、冬馬も一目置くというか…」
「…」
「…やはり、同じ五井一族だからかな…」
そう言って、諏訪野マミは笑った…
しかし、それは怪しい…
私は、思った…
諏訪野マミを疑うわけではないが、そう言えば、一番納得する…
だから、怪しいというか…
疑いたくなる…
諏訪野マミは、決して、他人をバカにしたり、貶(おとし)めたりする人間ではない…
なぜなら、自分が、五井一族でありながらも、先代当主の愛人の娘だから…
その出自ゆえに、五井一族の間で、煙たがられているというか…
下に見られている…
だから、例え、冬馬と、ウマが合うとしても、冬馬を好きなはずはない…
おそらく、いえ、確実に、諏訪野マミは、冬馬のように、他人を見下す人間を毛嫌いしている…
自分が、五井家で、下に見られている諏訪野マミは、他人を見下す人間が大嫌いだからだ…
にも、かかわらず、冬馬と親しいとは?
謎がある…
私は、思った…
「…まあ、つまりは、寿さんが、歩けたと聞いたから、今日は、やって来たというところね…」
諏訪野マミは、告白した…
「…ありがとうございます…でも、歩けるといっても、松葉杖をついて、やっとですよ…それも、この病院のリハビリルームに行くのが限界…」
「…それでも、歩けるように、なっただけで、良かったじゃない…ラッキーじゃない…」
諏訪野マミが、喜ぶ…
私は、この諏訪野マミを見て、つくづく、楽観的というか、ポジティブ…
それを思った…
そして、それは、生まれ持った性格なのか?
それとも、金持ちのお嬢様ゆえの、ポジティブさなのか?
考えた…
何度もいうが、お金持ちは、どうしても、物事を軽く考えがちだ…
それは、生きてゆく上で、生活の苦労をしていないから…
たやすく、一般のひとが、買えないクルマに乗ることや、目の玉が飛び出るほどの高級店に足繫く通うことができる…
つまり、生まれつき、財力が半端ない…
それゆえ、他人ができないことも、軽くできるから、その結果、物事を容易に考える…
容易に考える=ポジティブに考える…
これは、頭の悪い人間が、物事を楽観的に考えることと、一見似ているが、完全に非なるもの…
頭の悪い人間が、物事を、簡単に考えるのは、ただ、それが、いかに難しいかを知らないから…
たとえば、東大に入ることが、どれほど、難しいか、わからないから、真剣に勉強すれば、仮に、東大は無理でも、早稲田や慶応は、簡単に入れると、思う…
勉強したことがないから、その難しさが、わからないからだ…
そして、実際に、東大を出た人間を目の当たりにしても、その人間が、頼りなかったり、リーダーシップがなかったりすると、どうして、こんなひとが、東大を出れたのか、不思議に思う…
彼らは、東大を出た学力=リーダーシップと、考えているからだ…
東大を出れば、常に、集団の先頭に立ち、率先して、ひとを率いるリーダーになる…
そう考えるからだ…
つまり、極めて、単純に考える…
そして、それは、なぜかと、考えると、自分の周囲に、東大を出るような人間は、誰もいないから…
見たことがないから、あまりにも、単純に、物事を考える(笑)…
それと、金持ちが、似ているのは、物事を同じように簡単に考えるからで、違うのは、金持ちは、例えば、お金の力で、一般のひとが、乗れないクルマに乗ったり、有名政治家と、子供の頃から知り会ったりする…
普通のひとができないことが、できるからで、それゆえ、オレなら、できる…
私なら、できる、と、考える…
つまり、普通のひとができないことが、できるから、その他のことも、簡単にできると、考えるので、あって、頭の悪い人間が、なにもできないのに、できると、考えるのとは、雲泥の差だ…
私は、考える…
詰まるところは、経験…
金の力にしろ、普通のひとが、できない経験をたやすくできた上で、オレにも、できると、豪語するのか?
なにもやったこともないのに、オレにも、できると、周囲に吹聴するのかの違いだ…
同じように、ポジティブに考えても、その差は、実に大きい(笑)…
つまりは、生まれつき、持っている人間と、持っていない人間の差…
この場合は、お金を持っているか、否かの差だが、その差は、実に大きい…
私は、目の前の、諏訪野マミを見ながら、つくづく、そんなことを考えた…
そんなことを、考えていると、
「…だったら、寿さん…ここで、歩いてみて…」
と、いきなり、諏訪野マミが言った…
驚きだった…
「…私の前で、歩いてみて…」
諏訪野マミが、繰り返す…
私は、驚きで、一瞬、どうしていいか、わからなかった…
「…マミさんの前で…ですか?…」
「…だって、寿さん…歩けるんでしょ?…」
それから、病室の隅にある、松葉杖を見つけて、私の前に持ってきた…
私は、一瞬、悩んだが、
「…わかりました…」
と、言って、ベッドの上から、起き上がり、松葉杖で、歩こうとした…
「…ちょっと、一人では、難しいので、マミさん…フォローして下さい…」
「…わかった…」
諏訪野マミが、言って、ベッドから、なんとか、起き上がり、ゆっくりと、松葉杖を突いて、歩こうとした…
「…寿さん…しっかり…落ち着いて…」
小柄な諏訪野マミが、私のカラダを支えながら、言う…
私は、身長が、160㎝…
対する、諏訪野マミは、155㎝…
5㎝、低い…
だから、率直に言って、不安だった…
いつもは、看護師の佐藤ナナが支えてくれる…
佐藤ナナは、私と同じく、身長が、160㎝ぐらい…
やはり、どうしても、自分より、身長が低いものが、支えるというのは、不安だ…
しかも、諏訪野マミは、太っていない…
年齢も32歳の私より、三歳上の35歳…
22歳の佐藤ナナに比べると、一回り以上、歳を取っている…
つまり、若くもなく、自分より、小柄な女性が、支えていてくれるといっても、本当に、自分を支えられるのか、不安だった…
だが、それでも、諏訪野マミの声に促されて、歩こうとしたのは、いつまでも、歩けなくては、困ると、思ったからだ…
一刻でも、早く、この病院から、退院するためにも、誰の力も借りず、一人で、歩けるようにならないと、困ると、思ったからだ…
諏訪野マミに支えられながら、私は、松葉杖を両手に突いて、立った…
もちろん、想像以上の時間がかかった…
それは、サポートするのが、看護師の佐藤ナナではなく、諏訪野マミであることが大きい…
看護師の佐藤ナナは、職業柄、手慣れているので、どこで、どうサポートすれば、いいのか、経験で、わかる…
しかし、諏訪野マミに、それはできない…
マミは、ただの素人だからだ…
が、
それでも、いないよりは、マシだった…
やはり、今の私のカラダでは、一人で、歩くのは、難しい…
松葉杖で、病室で、立ち上がるだけで、精一杯とは、言わないが、だいぶ体力を消耗した…
それが、見ていて、わかった、諏訪野マミは、
「…」
と、なにも、言わなかった…
むしろ、困惑した感じだった…
顔つきが、緊張していた…
自分が、軽く、歩いてみて、と言ったのが、こんなにも、私が、大変だとは、思ってもみなかったのだろう…
「…ゴメン…」
と、小さく呟く声が聞こえた…
「…寿さん…ゴメン…こんなにも、寿さんが、大変だとは、思わなかった…」
「…マミさん…そんな顔しないで…」
私が、諏訪野マミを見ると、涙を流しているのが、わかった…
「…本当に、ごめんなさい…」
諏訪野マミが、泣きながら、言う…
私は、率直に言って、松葉杖をついて、立っているのも、大変だったが、それでも、立つことができるまでに比べれば、楽だった…
「…少し、廊下を歩きましょう…」
私の言葉に、
「…寿さん…大丈夫? 無理はしないで…」
「…大丈夫です…別に無理はしていません…それに、マミさんが、しっかり支えてくれさえすれば、大丈夫です…」
私は言って、病室のドアに向かって、ゆっくりと、歩き出した…
諏訪野マミが、慌てて、私の横についた…
「…寿さん…大丈夫?…」
「…大丈夫です…」
「…ゴメン…本当に、ごめんなさい…」
諏訪野マミが、繰り返す。
「…マミさん…そんなに、何度も詫びる必要は、ありませんよ…これも、リハビリです…毎日、松葉杖をついて、歩いています…ただ、いつもは、この病院の看護師の方が、付き添ってくれるのが、今日は、マミさんに、変わっただけです…」
「…寿さん…」
「…大丈夫です…」
私は、諏訪野マミに、そして、自分自身に、言った…
「…大丈夫…」
言いながら、ゆっくりと、松葉杖をついて、歩く…
すると、当たり前だが、少しは、楽になった…
私にとっては、ベッドの上から、降りて、松葉杖をついて、床に立つまでが、大仕事…
だが、いざ、立ってしまうと、それほどでもなかったというか…
とにかく、ベッドから降りて、床に立つのが、難事業だった(笑)…
だから、床に立ってしまえば、それほどでもない…
最初は、床に立つまでの苦労で、ハァハァと、息も荒かったが、じきに、それも、なくなった…
あとは、ただ、松葉杖をついて、歩くだけ…
それは、正直、楽ではなかったが、ベッドから、床に降りる苦労を考えれば、楽だった…
たいしたことはなかった…
私は、一歩、一歩、松葉杖をついて、歩く…
ただ、歩きながらも、正直、不安だった…
なにが、不安かといえば、付添人が、諏訪野マミであるということ…
いつもの看護師の佐藤ナナではない…
だから、私が、仮に、倒れたりしたら、諏訪野マミの小柄なカラダで、私を、起こせるのか、不安だった…
正直、まだ、歩くことに、それほど、慣れてなかった…
だから、看護師の佐藤ナナに見守られて、この病院の廊下を歩いても、倒れたことは、一度や、二度ではなかった…
そして、そのたびに、佐藤ナナの力を借りて、床から、起き上がった…
しかし、小柄な諏訪野マミに、佐藤ナナの代わりが、できるのか、それが、不安だった…
だが、それを口にすることはできない…
なにより、自分の意思で、私は、今、松葉杖をついて、歩き出した…
諏訪野マミに勧められて、歩き出したのは、事実だったが、それは、強制ではない…
あくまで、自分の意思で、歩き出したのだ…
私は、そんなことを、考えながら、ゆっくりと、歩き出した…
「…寿さん…頑張って…」
諏訪野マミが、隣で、遠慮がちに、声をかけるが、私は、諏訪野マミの姿を見なかった…
そんな余裕がなかったからだ…
私は、歩くのに、一生懸命…
生きるのに、一生懸命だった…
病室のドアを諏訪野マミが、開け、私は、病室から出た…
やはり、いつもより、大変だった…
佐藤ナナが、隣にいないからだと、私は、思った…
隣に佐藤ナナが、いることが、なにより、私に安心感を生む…
今さらながら、その重要性に気付いた…
だが、今さら、そんなことを、愚痴っても仕方がない…
とりあえず、病院の廊下を歩くことにした…
そして、ある程度、歩いた後、Uターンして、元の病室に戻ればいいと、考えた…
私は、額に大粒の汗を流しながら、歩いた…
隣に、諏訪野マミがいるのは、わかっていたが、彼女の姿を見る余裕は、私には、なかった…
自分が、松葉杖をついて、歩くだけで、精一杯だったからだ…
生きてゆくだけで、精一杯だったからだ…
私は、ただ、額に大粒の汗を浮かべながら、背一杯の力で、松葉杖をついて、歩いた…
それは、私にとって、思いのほか、重労働だった…
もしかしたら、単純に、今日は、いつもより、体調が、悪いのかもしれない…
ふと、そんな気持ちが、脳裏をよぎった…
誰でも、そうだが、体調のいい日や、悪い日がある…
今日は、私にとって、体調が、悪い日では?
と、気付いた…
これは、今のように、入院する前は、あまり気にしたことがなかった…
誰でも、風邪を引いたり、お腹を痛くなったりすることはある…
もっとも、体調の善し悪しがわかる、出来事としては、お酒を飲んだとき…
体調の良いときは、難なく飲める量のアルコールが、体調の悪いときは、すぐに酔っぱらってしまう…
入院するまでは、体調の善し悪しは、その程度でしか、判断しなかったが、今は、違う…
この松葉杖で、歩くことが、こんなにも、大変だとは、思わなかった…
諏訪野マミに言われて、つい、歩いてみたが、今日は、やるべきではなかった…
今さらながら、思う…
思いながらも、一方で、やってしまったことは、仕方がないとも思った…
とにかく、歩くこと…
それだけに集中しようとした…
余計な雑念が入ると、わけがわからなくなる(苦笑)…
私は、まるで、登山家が、山を登るように、全身全霊をかけて、歩いた…
もはや、私の目には、なにも映らなかったというか…
歩くだけで、精一杯だった…
だから、目の前の人物に当たったときも、最初は、なんだか、わからなかった…
しまった…
誰かにぶつかった…
そんな感じだった…
が、
ぶつかったことに、気付いた私は、慌てて、
「…スイマセン…」
と、謝った…
そして、ぶつかった人物を見た…
目の前にいたのは、冬馬…
この病院の理事長、菊池冬馬だった…
それに対して、メディアは、辛辣だった…
いや、
辛辣に仕向けたというか…
すでに、大場小太郎が、メディアを、懐柔していた…
私が、それに気付いたのは、メディアの誰もが、菊池重方(しげかた)に、批判的だったからだ…
いかに、メディアでも、一様に、菊池重方(しげかた)に、批判的なのは、おかしい…
メディアもまた、右も左もあるし、ある意味、それを売りにして、新聞や雑誌を発行する…
わかりやすい例で言えば、右寄りは、産経新聞…
左寄りは、朝日新聞という具合に、だ…
つまりは、右寄りのひとは、産経新聞を購読するし、左寄りのひとは、朝日新聞を購読する…
すると、当たり前だが、その新聞を購読する人間が、喜ぶ、主張をする…
だから、産経新聞では、自衛隊を批判しないが、朝日新聞では、批判する…
そういうことだ(笑)…
にもかかわらず、菊池重方(しげかた)が、自民党で、菊池派を立ち上げると、宣言した途端、メディアが一斉に、菊池重方(しげかた)を攻撃した…
これは、さすがにおかしい…
普通ならば、自民党に、新星、現る、とか…
五井家が、政界で、革命を起こすとか…
重方(しげかた)をヨイショする記事が、少しぐらいあってもいい(笑)…
だが、それは、一切なかった…
皆無だった…
だから、当然、それには、誰かの意図を感じる…
誰かが、背後で、メディアを操っていると、考えるのが、普通だ…
そして、考えられるのは、やはり、あの大場小太郎だった…
自民党の大場小太郎代議士だった…
すでに、菊池重方(しげかた)が、大場派から独立して、別の派閥を立ち上げると、宣言した途端に、メディアが一斉に、菊池重方(しげかた)を、攻撃する…
あらかじめ、そういう手筈を整えていたのだろう…
いや、
大場小太郎だけではない…
五井家もまた、同じ…
大場小太郎に同調して、菊池重方(しげかた)を、批判するべく、手を打っていたに違いない…
そうでなければ、これほど、菊池重方(しげかた)に、批判一色になるはずがない…
私は、思った…
そして、仮に、五井が動いたとしたら、その裏には、昭子がいるに違いない…
すでに、昭子は、重方(しげかた)を見限っている…
だから、当然、排除に動く…
潰しにかかる…
私は、そこまで、考えると、五井家の当主は、実質的には、昭子ではないか?
と、気付いた…
伸明は、当主には、違いないが、名目上の当主…
実権は、昭子にあるのではないか、と、気付いた…
なぜなら、伸明は、昭子に頭が上がらない…
昭子は、伸明の母親だから、なおさらだ…
…五井家の内紛の勃発…
タイトルは、衝撃的だったし、内容は、一貫して、重方(しげかた)に、批判的だった…
重方(しげかた)は、自分が、党内で、菊池派を立ち上げたいがために、甥の伸明を追い落として、自分が、五井家の当主に就きたい…
五井家の当主になり、これまで、分家出身ゆえに、動かせなかったお金を、動かせるようになり、その金で、菊池派を立ち上げるという内容だ…
それは、事実だったが、それを公にバラされては、まずかった…
これでは、菊池重方(しげかた)のイメージは最悪…
菊池派の立ち上げを宣言して、直後に、こんな記事を書かれては、自民党内で、支持が、広がるわけがなかった…
つまり、重方(しげかた)は、初っ端から、しくじったと言える…
誰もが、そうだが、なにかを、始めるときは、大義名分が必要になる…
この重方(しげかた)の場合は、従来の自民党では、できなかったから、自分がやるといった具合に、だ…
それが、憲法改正でも、生活保護を中心にしたセイフティーネットの拡充でも、なんでもいい…
錦の御旗といえば、おおげさだが、とにかく、大義名分を掲げて、同志を募り、また、同時に、世間一般に、自分たちの主義・主張を、知ってもらう…
理解してもらう…
その結果、周囲に賛同が広がり、自民党でも、菊池派に入りたいと思う人間が、現れるし、世間一般でも、菊池重方(しげかた)を、支持する人間が、現れるものだ…
しかし、今回のように、菊池重方(しげかた)が、菊池派を立ち上げると、世間に宣言した途端、重方(しげかた)に批判的な記事が、続出する事態では、これも無理…
ボクシングでいえば、ゴングが、鳴って、試合が始まった途端、雨あられと、対戦する相手のパンチが、自分に、降り注ぐようなものだからだ…
すると、どうだ?
自分は、防戦一方…
せめて、顔を、打たれまいと、グローブで、顔を覆っている状況だ…
顔を打たれれば、一気に、ダウンして、勝負が決するからだ…
ちょうど、今の菊池重方(しげかた)が、これと同じ状況だった…
対戦する相手から、雨あられと、パンチの嵐が、重方(しげかた)に、降り注ぐ状況…
重方(しげかた)は、亀が首をすくめるように、グローブで、顔を隠して、相手のパンチの嵐をしのいでいる…
もはや、なにもできない状況だ…
文字通り、手も足も出ない状況…
試合が始まったばかりなのに、このまま続けば、リングサイドから、タオルが投げ込まれるのでは? と、思えるほど、一方的に、やられていた…
この状況では、援軍は、期待できない…
いや、援軍どころか、自分といっしょに、菊池派を立ち上げるときに、馳せ参じると、約束した仲間が、次々と、離れてゆくのでは? と、思うほど、事態は悪化していた…
まさに、一方的な展開だった…
私は、テレビや、新聞、ネット、と、あらゆるメディアで、そんな状況を知った…
あまりに、一方的過ぎる…
その状況を知って、思わず、重方(しげかた)に、同情するほどだった…
私は、当たり前だが、重方(しげかた)に、面識はない…
にもかかわらず、思わず、同情するほど、一方的にやられていた…
ボクシングでいえば、試合が始まったばかりなのに、もはや、勝負が、ついたのでは?
そう思えるほどだった…
そんなときだった…
諏訪野マミが、病室に私を訪ねてきたのだ…
諏訪野マミが、この病室にやって来たのは、二度目だった…
私個人は、諏訪野マミが好き…
ハッキリ言って、諏訪野伸明と知り合って、さまざまな五井家の人間と知り合った…
その中で、唯一、心を許したというか…
肝胆相照らす仲になったのは、諏訪野マミだけだった…
彼女が、一体、なぜ、この病室に、私を訪ねて、やってきたのか、わからないが、私は、彼女の来訪を歓迎した…
「…寿さん…元気?…」
「…ハイ…おかげさまで…」
私は、言った…
「…たしかに、元気そうね…」
諏訪野マミが、呟く。
「…なにより、寿さんの顔色がいい…」
「…ありがとうございます…」
私は、答える…
「…今日は、一体、どういう用件で…」
と、聞きたかったが、止めた…
あえて、その言葉を、口にしなかった…
これが、学生時代の友人のように、昔から、知っていれば、口にできる…
相手が、
「…用事なんか、あるわけないじゃん…綾乃の顔を見たくなっただけ…」
と、でも言うだろう…
しかし、さすがに、それはできない…
私は、諏訪野マミが、好きだが、やはり壁があるというか…
諏訪野マミの方から、
「…用事なんか、あるわけないじゃん…綾乃の顔を見たくなっただけ…」
と、いうのは、できるが、私が、
「…今日は、一体、どういう用件で…」
と、口にするのは、できない…
それでは、言葉を変えれば、
用事がなければ、来るな!
と、言っているようなものだからだ…
やはり、これは、生まれの差に他ならないと、思う…
諏訪野マミは、伸明の父、建造の愛人の子供…
だから、五井一族としては、言葉は悪いが中途半端だが、それでも、私のように、一般人ではない…
だから、ポジティブというか…
もちろん、諏訪野マミの生まれ持った性格もまた、関係するだろう…
いずれにしろ、諏訪野マミが、私にしたように、ポジティブ=積極的に、
「…寿さん…元気?…」
と、あっけらかんと、挨拶はできない(笑)…
また、それをできる人間も、世の中に、あまりいない…
それを考えれば、やはり、この諏訪野マミも、金持ちのお嬢様といったところだろうか?
私は、考える…
「…寿さん…歩けるようになったんだって…」
「…誰に聞いたんですか?…」
驚いた…
まさか、諏訪野マミが、私が歩けるようになったのを、知ってるとは、思わなかった…
「…冬馬よ…冬馬…」
「…理事長からですか?…」
「…寿さん…私が、五井一族だってこと、忘れてたんじゃないでしょうね…」
諏訪野マミが、笑う…
たしかに、諏訪野マミの言う通り…
うっかり、諏訪野マミが、五井一族であることを忘れるところだった…
「…ですが、マミさんが、理事長と仲がいいとは、知りませんでした…」
諏訪野マミは私の言葉に、意味深に笑った…
「…寿さん…私が、五井一族から一人だけ浮いていると、思っていたでしょ?…」
「…そんなこと…」
「…いえ、一族から浮いてるのは、事実だけど、全員とうまくいかないわけじゃない…」
「…」
「…まあ、それほど、仲良くないけど、一部には、連絡のやりとりをする人間もいるってこと…冬馬は、その一人…」
「…理事長が…」
「…アイツ、変わってるでしょ? 正直、周囲から浮きがちだし、なんか、そんな面で、波長が合うっていうか…」
「…」
「…正直、いつでも自信たっぷりで、嫌みなヤツだけど、アタシにとっては、それほどでもないっていうか…やはり、それは、父の影響もあると思う…」
「…お父様の?…」
「…私は、父の愛人の子だけれど、五井家当主の娘であることに、代わりはない…それで、冬馬も一目置くというか…」
「…」
「…やはり、同じ五井一族だからかな…」
そう言って、諏訪野マミは笑った…
しかし、それは怪しい…
私は、思った…
諏訪野マミを疑うわけではないが、そう言えば、一番納得する…
だから、怪しいというか…
疑いたくなる…
諏訪野マミは、決して、他人をバカにしたり、貶(おとし)めたりする人間ではない…
なぜなら、自分が、五井一族でありながらも、先代当主の愛人の娘だから…
その出自ゆえに、五井一族の間で、煙たがられているというか…
下に見られている…
だから、例え、冬馬と、ウマが合うとしても、冬馬を好きなはずはない…
おそらく、いえ、確実に、諏訪野マミは、冬馬のように、他人を見下す人間を毛嫌いしている…
自分が、五井家で、下に見られている諏訪野マミは、他人を見下す人間が大嫌いだからだ…
にも、かかわらず、冬馬と親しいとは?
謎がある…
私は、思った…
「…まあ、つまりは、寿さんが、歩けたと聞いたから、今日は、やって来たというところね…」
諏訪野マミは、告白した…
「…ありがとうございます…でも、歩けるといっても、松葉杖をついて、やっとですよ…それも、この病院のリハビリルームに行くのが限界…」
「…それでも、歩けるように、なっただけで、良かったじゃない…ラッキーじゃない…」
諏訪野マミが、喜ぶ…
私は、この諏訪野マミを見て、つくづく、楽観的というか、ポジティブ…
それを思った…
そして、それは、生まれ持った性格なのか?
それとも、金持ちのお嬢様ゆえの、ポジティブさなのか?
考えた…
何度もいうが、お金持ちは、どうしても、物事を軽く考えがちだ…
それは、生きてゆく上で、生活の苦労をしていないから…
たやすく、一般のひとが、買えないクルマに乗ることや、目の玉が飛び出るほどの高級店に足繫く通うことができる…
つまり、生まれつき、財力が半端ない…
それゆえ、他人ができないことも、軽くできるから、その結果、物事を容易に考える…
容易に考える=ポジティブに考える…
これは、頭の悪い人間が、物事を楽観的に考えることと、一見似ているが、完全に非なるもの…
頭の悪い人間が、物事を、簡単に考えるのは、ただ、それが、いかに難しいかを知らないから…
たとえば、東大に入ることが、どれほど、難しいか、わからないから、真剣に勉強すれば、仮に、東大は無理でも、早稲田や慶応は、簡単に入れると、思う…
勉強したことがないから、その難しさが、わからないからだ…
そして、実際に、東大を出た人間を目の当たりにしても、その人間が、頼りなかったり、リーダーシップがなかったりすると、どうして、こんなひとが、東大を出れたのか、不思議に思う…
彼らは、東大を出た学力=リーダーシップと、考えているからだ…
東大を出れば、常に、集団の先頭に立ち、率先して、ひとを率いるリーダーになる…
そう考えるからだ…
つまり、極めて、単純に考える…
そして、それは、なぜかと、考えると、自分の周囲に、東大を出るような人間は、誰もいないから…
見たことがないから、あまりにも、単純に、物事を考える(笑)…
それと、金持ちが、似ているのは、物事を同じように簡単に考えるからで、違うのは、金持ちは、例えば、お金の力で、一般のひとが、乗れないクルマに乗ったり、有名政治家と、子供の頃から知り会ったりする…
普通のひとができないことが、できるからで、それゆえ、オレなら、できる…
私なら、できる、と、考える…
つまり、普通のひとができないことが、できるから、その他のことも、簡単にできると、考えるので、あって、頭の悪い人間が、なにもできないのに、できると、考えるのとは、雲泥の差だ…
私は、考える…
詰まるところは、経験…
金の力にしろ、普通のひとが、できない経験をたやすくできた上で、オレにも、できると、豪語するのか?
なにもやったこともないのに、オレにも、できると、周囲に吹聴するのかの違いだ…
同じように、ポジティブに考えても、その差は、実に大きい(笑)…
つまりは、生まれつき、持っている人間と、持っていない人間の差…
この場合は、お金を持っているか、否かの差だが、その差は、実に大きい…
私は、目の前の、諏訪野マミを見ながら、つくづく、そんなことを考えた…
そんなことを、考えていると、
「…だったら、寿さん…ここで、歩いてみて…」
と、いきなり、諏訪野マミが言った…
驚きだった…
「…私の前で、歩いてみて…」
諏訪野マミが、繰り返す…
私は、驚きで、一瞬、どうしていいか、わからなかった…
「…マミさんの前で…ですか?…」
「…だって、寿さん…歩けるんでしょ?…」
それから、病室の隅にある、松葉杖を見つけて、私の前に持ってきた…
私は、一瞬、悩んだが、
「…わかりました…」
と、言って、ベッドの上から、起き上がり、松葉杖で、歩こうとした…
「…ちょっと、一人では、難しいので、マミさん…フォローして下さい…」
「…わかった…」
諏訪野マミが、言って、ベッドから、なんとか、起き上がり、ゆっくりと、松葉杖を突いて、歩こうとした…
「…寿さん…しっかり…落ち着いて…」
小柄な諏訪野マミが、私のカラダを支えながら、言う…
私は、身長が、160㎝…
対する、諏訪野マミは、155㎝…
5㎝、低い…
だから、率直に言って、不安だった…
いつもは、看護師の佐藤ナナが支えてくれる…
佐藤ナナは、私と同じく、身長が、160㎝ぐらい…
やはり、どうしても、自分より、身長が低いものが、支えるというのは、不安だ…
しかも、諏訪野マミは、太っていない…
年齢も32歳の私より、三歳上の35歳…
22歳の佐藤ナナに比べると、一回り以上、歳を取っている…
つまり、若くもなく、自分より、小柄な女性が、支えていてくれるといっても、本当に、自分を支えられるのか、不安だった…
だが、それでも、諏訪野マミの声に促されて、歩こうとしたのは、いつまでも、歩けなくては、困ると、思ったからだ…
一刻でも、早く、この病院から、退院するためにも、誰の力も借りず、一人で、歩けるようにならないと、困ると、思ったからだ…
諏訪野マミに支えられながら、私は、松葉杖を両手に突いて、立った…
もちろん、想像以上の時間がかかった…
それは、サポートするのが、看護師の佐藤ナナではなく、諏訪野マミであることが大きい…
看護師の佐藤ナナは、職業柄、手慣れているので、どこで、どうサポートすれば、いいのか、経験で、わかる…
しかし、諏訪野マミに、それはできない…
マミは、ただの素人だからだ…
が、
それでも、いないよりは、マシだった…
やはり、今の私のカラダでは、一人で、歩くのは、難しい…
松葉杖で、病室で、立ち上がるだけで、精一杯とは、言わないが、だいぶ体力を消耗した…
それが、見ていて、わかった、諏訪野マミは、
「…」
と、なにも、言わなかった…
むしろ、困惑した感じだった…
顔つきが、緊張していた…
自分が、軽く、歩いてみて、と言ったのが、こんなにも、私が、大変だとは、思ってもみなかったのだろう…
「…ゴメン…」
と、小さく呟く声が聞こえた…
「…寿さん…ゴメン…こんなにも、寿さんが、大変だとは、思わなかった…」
「…マミさん…そんな顔しないで…」
私が、諏訪野マミを見ると、涙を流しているのが、わかった…
「…本当に、ごめんなさい…」
諏訪野マミが、泣きながら、言う…
私は、率直に言って、松葉杖をついて、立っているのも、大変だったが、それでも、立つことができるまでに比べれば、楽だった…
「…少し、廊下を歩きましょう…」
私の言葉に、
「…寿さん…大丈夫? 無理はしないで…」
「…大丈夫です…別に無理はしていません…それに、マミさんが、しっかり支えてくれさえすれば、大丈夫です…」
私は言って、病室のドアに向かって、ゆっくりと、歩き出した…
諏訪野マミが、慌てて、私の横についた…
「…寿さん…大丈夫?…」
「…大丈夫です…」
「…ゴメン…本当に、ごめんなさい…」
諏訪野マミが、繰り返す。
「…マミさん…そんなに、何度も詫びる必要は、ありませんよ…これも、リハビリです…毎日、松葉杖をついて、歩いています…ただ、いつもは、この病院の看護師の方が、付き添ってくれるのが、今日は、マミさんに、変わっただけです…」
「…寿さん…」
「…大丈夫です…」
私は、諏訪野マミに、そして、自分自身に、言った…
「…大丈夫…」
言いながら、ゆっくりと、松葉杖をついて、歩く…
すると、当たり前だが、少しは、楽になった…
私にとっては、ベッドの上から、降りて、松葉杖をついて、床に立つまでが、大仕事…
だが、いざ、立ってしまうと、それほどでもなかったというか…
とにかく、ベッドから降りて、床に立つのが、難事業だった(笑)…
だから、床に立ってしまえば、それほどでもない…
最初は、床に立つまでの苦労で、ハァハァと、息も荒かったが、じきに、それも、なくなった…
あとは、ただ、松葉杖をついて、歩くだけ…
それは、正直、楽ではなかったが、ベッドから、床に降りる苦労を考えれば、楽だった…
たいしたことはなかった…
私は、一歩、一歩、松葉杖をついて、歩く…
ただ、歩きながらも、正直、不安だった…
なにが、不安かといえば、付添人が、諏訪野マミであるということ…
いつもの看護師の佐藤ナナではない…
だから、私が、仮に、倒れたりしたら、諏訪野マミの小柄なカラダで、私を、起こせるのか、不安だった…
正直、まだ、歩くことに、それほど、慣れてなかった…
だから、看護師の佐藤ナナに見守られて、この病院の廊下を歩いても、倒れたことは、一度や、二度ではなかった…
そして、そのたびに、佐藤ナナの力を借りて、床から、起き上がった…
しかし、小柄な諏訪野マミに、佐藤ナナの代わりが、できるのか、それが、不安だった…
だが、それを口にすることはできない…
なにより、自分の意思で、私は、今、松葉杖をついて、歩き出した…
諏訪野マミに勧められて、歩き出したのは、事実だったが、それは、強制ではない…
あくまで、自分の意思で、歩き出したのだ…
私は、そんなことを、考えながら、ゆっくりと、歩き出した…
「…寿さん…頑張って…」
諏訪野マミが、隣で、遠慮がちに、声をかけるが、私は、諏訪野マミの姿を見なかった…
そんな余裕がなかったからだ…
私は、歩くのに、一生懸命…
生きるのに、一生懸命だった…
病室のドアを諏訪野マミが、開け、私は、病室から出た…
やはり、いつもより、大変だった…
佐藤ナナが、隣にいないからだと、私は、思った…
隣に佐藤ナナが、いることが、なにより、私に安心感を生む…
今さらながら、その重要性に気付いた…
だが、今さら、そんなことを、愚痴っても仕方がない…
とりあえず、病院の廊下を歩くことにした…
そして、ある程度、歩いた後、Uターンして、元の病室に戻ればいいと、考えた…
私は、額に大粒の汗を流しながら、歩いた…
隣に、諏訪野マミがいるのは、わかっていたが、彼女の姿を見る余裕は、私には、なかった…
自分が、松葉杖をついて、歩くだけで、精一杯だったからだ…
生きてゆくだけで、精一杯だったからだ…
私は、ただ、額に大粒の汗を浮かべながら、背一杯の力で、松葉杖をついて、歩いた…
それは、私にとって、思いのほか、重労働だった…
もしかしたら、単純に、今日は、いつもより、体調が、悪いのかもしれない…
ふと、そんな気持ちが、脳裏をよぎった…
誰でも、そうだが、体調のいい日や、悪い日がある…
今日は、私にとって、体調が、悪い日では?
と、気付いた…
これは、今のように、入院する前は、あまり気にしたことがなかった…
誰でも、風邪を引いたり、お腹を痛くなったりすることはある…
もっとも、体調の善し悪しがわかる、出来事としては、お酒を飲んだとき…
体調の良いときは、難なく飲める量のアルコールが、体調の悪いときは、すぐに酔っぱらってしまう…
入院するまでは、体調の善し悪しは、その程度でしか、判断しなかったが、今は、違う…
この松葉杖で、歩くことが、こんなにも、大変だとは、思わなかった…
諏訪野マミに言われて、つい、歩いてみたが、今日は、やるべきではなかった…
今さらながら、思う…
思いながらも、一方で、やってしまったことは、仕方がないとも思った…
とにかく、歩くこと…
それだけに集中しようとした…
余計な雑念が入ると、わけがわからなくなる(苦笑)…
私は、まるで、登山家が、山を登るように、全身全霊をかけて、歩いた…
もはや、私の目には、なにも映らなかったというか…
歩くだけで、精一杯だった…
だから、目の前の人物に当たったときも、最初は、なんだか、わからなかった…
しまった…
誰かにぶつかった…
そんな感じだった…
が、
ぶつかったことに、気付いた私は、慌てて、
「…スイマセン…」
と、謝った…
そして、ぶつかった人物を見た…
目の前にいたのは、冬馬…
この病院の理事長、菊池冬馬だった…