第23話

文字数 9,337文字

 五井家の内紛の勃発…

 それに対して、メディアは、辛辣だった…

 いや、

 辛辣に仕向けたというか…

 すでに、大場小太郎が、メディアを、懐柔していた…

 私が、それに気付いたのは、メディアの誰もが、菊池重方(しげかた)に、批判的だったからだ…

 いかに、メディアでも、一様に、菊池重方(しげかた)に、批判的なのは、おかしい…

 メディアもまた、右も左もあるし、ある意味、それを売りにして、新聞や雑誌を発行する…

 わかりやすい例で言えば、右寄りは、産経新聞…

 左寄りは、朝日新聞という具合に、だ…

 つまりは、右寄りのひとは、産経新聞を購読するし、左寄りのひとは、朝日新聞を購読する…

 すると、当たり前だが、その新聞を購読する人間が、喜ぶ、主張をする…

 だから、産経新聞では、自衛隊を批判しないが、朝日新聞では、批判する…

 そういうことだ(笑)…

 にもかかわらず、菊池重方(しげかた)が、自民党で、菊池派を立ち上げると、宣言した途端、メディアが一斉に、菊池重方(しげかた)を攻撃した…

 これは、さすがにおかしい…

 普通ならば、自民党に、新星、現る、とか…

 五井家が、政界で、革命を起こすとか…

 重方(しげかた)をヨイショする記事が、少しぐらいあってもいい(笑)…

 だが、それは、一切なかった…

 皆無だった…

 だから、当然、それには、誰かの意図を感じる…

 誰かが、背後で、メディアを操っていると、考えるのが、普通だ…

 そして、考えられるのは、やはり、あの大場小太郎だった…

 自民党の大場小太郎代議士だった…

 すでに、菊池重方(しげかた)が、大場派から独立して、別の派閥を立ち上げると、宣言した途端に、メディアが一斉に、菊池重方(しげかた)を、攻撃する…

 あらかじめ、そういう手筈を整えていたのだろう…

 いや、

 大場小太郎だけではない…

 五井家もまた、同じ…

 大場小太郎に同調して、菊池重方(しげかた)を、批判するべく、手を打っていたに違いない…

 そうでなければ、これほど、菊池重方(しげかた)に、批判一色になるはずがない…

 私は、思った…

 そして、仮に、五井が動いたとしたら、その裏には、昭子がいるに違いない…

 すでに、昭子は、重方(しげかた)を見限っている…

 だから、当然、排除に動く…

 潰しにかかる…

 私は、そこまで、考えると、五井家の当主は、実質的には、昭子ではないか?

 と、気付いた…

 伸明は、当主には、違いないが、名目上の当主…

 実権は、昭子にあるのではないか、と、気付いた…

 なぜなら、伸明は、昭子に頭が上がらない…

 昭子は、伸明の母親だから、なおさらだ…

 …五井家の内紛の勃発…

 タイトルは、衝撃的だったし、内容は、一貫して、重方(しげかた)に、批判的だった…

 重方(しげかた)は、自分が、党内で、菊池派を立ち上げたいがために、甥の伸明を追い落として、自分が、五井家の当主に就きたい…

 五井家の当主になり、これまで、分家出身ゆえに、動かせなかったお金を、動かせるようになり、その金で、菊池派を立ち上げるという内容だ…

 それは、事実だったが、それを公にバラされては、まずかった…

 これでは、菊池重方(しげかた)のイメージは最悪…

 菊池派の立ち上げを宣言して、直後に、こんな記事を書かれては、自民党内で、支持が、広がるわけがなかった…

 つまり、重方(しげかた)は、初っ端から、しくじったと言える…

 誰もが、そうだが、なにかを、始めるときは、大義名分が必要になる…

 この重方(しげかた)の場合は、従来の自民党では、できなかったから、自分がやるといった具合に、だ…

 それが、憲法改正でも、生活保護を中心にしたセイフティーネットの拡充でも、なんでもいい…

 錦の御旗といえば、おおげさだが、とにかく、大義名分を掲げて、同志を募り、また、同時に、世間一般に、自分たちの主義・主張を、知ってもらう…

 理解してもらう…

 その結果、周囲に賛同が広がり、自民党でも、菊池派に入りたいと思う人間が、現れるし、世間一般でも、菊池重方(しげかた)を、支持する人間が、現れるものだ…

 しかし、今回のように、菊池重方(しげかた)が、菊池派を立ち上げると、世間に宣言した途端、重方(しげかた)に批判的な記事が、続出する事態では、これも無理…

 ボクシングでいえば、ゴングが、鳴って、試合が始まった途端、雨あられと、対戦する相手のパンチが、自分に、降り注ぐようなものだからだ…

 すると、どうだ?

 自分は、防戦一方…

 せめて、顔を、打たれまいと、グローブで、顔を覆っている状況だ…

 顔を打たれれば、一気に、ダウンして、勝負が決するからだ…

 ちょうど、今の菊池重方(しげかた)が、これと同じ状況だった…

 対戦する相手から、雨あられと、パンチの嵐が、重方(しげかた)に、降り注ぐ状況…

 重方(しげかた)は、亀が首をすくめるように、グローブで、顔を隠して、相手のパンチの嵐をしのいでいる…

 もはや、なにもできない状況だ…

 文字通り、手も足も出ない状況…

 試合が始まったばかりなのに、このまま続けば、リングサイドから、タオルが投げ込まれるのでは? と、思えるほど、一方的に、やられていた…

 この状況では、援軍は、期待できない…

 いや、援軍どころか、自分といっしょに、菊池派を立ち上げるときに、馳せ参じると、約束した仲間が、次々と、離れてゆくのでは? と、思うほど、事態は悪化していた…

 まさに、一方的な展開だった…

 私は、テレビや、新聞、ネット、と、あらゆるメディアで、そんな状況を知った…

 あまりに、一方的過ぎる…

 その状況を知って、思わず、重方(しげかた)に、同情するほどだった…

 私は、当たり前だが、重方(しげかた)に、面識はない…

 にもかかわらず、思わず、同情するほど、一方的にやられていた…

 ボクシングでいえば、試合が始まったばかりなのに、もはや、勝負が、ついたのでは?

 そう思えるほどだった…

 そんなときだった…

 諏訪野マミが、病室に私を訪ねてきたのだ…


 諏訪野マミが、この病室にやって来たのは、二度目だった…

 私個人は、諏訪野マミが好き…

 ハッキリ言って、諏訪野伸明と知り合って、さまざまな五井家の人間と知り合った…

 その中で、唯一、心を許したというか…

 肝胆相照らす仲になったのは、諏訪野マミだけだった…

 彼女が、一体、なぜ、この病室に、私を訪ねて、やってきたのか、わからないが、私は、彼女の来訪を歓迎した…

 「…寿さん…元気?…」

 「…ハイ…おかげさまで…」

 私は、言った…

 「…たしかに、元気そうね…」

 諏訪野マミが、呟く。

 「…なにより、寿さんの顔色がいい…」

 「…ありがとうございます…」

 私は、答える…

 「…今日は、一体、どういう用件で…」

 と、聞きたかったが、止めた…

 あえて、その言葉を、口にしなかった…

 これが、学生時代の友人のように、昔から、知っていれば、口にできる…

 相手が、

 「…用事なんか、あるわけないじゃん…綾乃の顔を見たくなっただけ…」

 と、でも言うだろう…

 しかし、さすがに、それはできない…

 私は、諏訪野マミが、好きだが、やはり壁があるというか…

 諏訪野マミの方から、

 「…用事なんか、あるわけないじゃん…綾乃の顔を見たくなっただけ…」

 と、いうのは、できるが、私が、
 
 「…今日は、一体、どういう用件で…」

 と、口にするのは、できない…

 それでは、言葉を変えれば、

 用事がなければ、来るな!

 と、言っているようなものだからだ…

 やはり、これは、生まれの差に他ならないと、思う…

 諏訪野マミは、伸明の父、建造の愛人の子供…

 だから、五井一族としては、言葉は悪いが中途半端だが、それでも、私のように、一般人ではない…

 だから、ポジティブというか…

 もちろん、諏訪野マミの生まれ持った性格もまた、関係するだろう…

 いずれにしろ、諏訪野マミが、私にしたように、ポジティブ=積極的に、

 「…寿さん…元気?…」

 と、あっけらかんと、挨拶はできない(笑)…

 また、それをできる人間も、世の中に、あまりいない…

 それを考えれば、やはり、この諏訪野マミも、金持ちのお嬢様といったところだろうか?

 私は、考える…

 「…寿さん…歩けるようになったんだって…」

 「…誰に聞いたんですか?…」

 驚いた…

 まさか、諏訪野マミが、私が歩けるようになったのを、知ってるとは、思わなかった…

 「…冬馬よ…冬馬…」

 「…理事長からですか?…」

 「…寿さん…私が、五井一族だってこと、忘れてたんじゃないでしょうね…」

 諏訪野マミが、笑う…

 たしかに、諏訪野マミの言う通り…

 うっかり、諏訪野マミが、五井一族であることを忘れるところだった…

 「…ですが、マミさんが、理事長と仲がいいとは、知りませんでした…」

 諏訪野マミは私の言葉に、意味深に笑った…

 「…寿さん…私が、五井一族から一人だけ浮いていると、思っていたでしょ?…」

 「…そんなこと…」

 「…いえ、一族から浮いてるのは、事実だけど、全員とうまくいかないわけじゃない…」

 「…」

 「…まあ、それほど、仲良くないけど、一部には、連絡のやりとりをする人間もいるってこと…冬馬は、その一人…」

 「…理事長が…」

 「…アイツ、変わってるでしょ? 正直、周囲から浮きがちだし、なんか、そんな面で、波長が合うっていうか…」

 「…」

 「…正直、いつでも自信たっぷりで、嫌みなヤツだけど、アタシにとっては、それほどでもないっていうか…やはり、それは、父の影響もあると思う…」

 「…お父様の?…」

 「…私は、父の愛人の子だけれど、五井家当主の娘であることに、代わりはない…それで、冬馬も一目置くというか…」

 「…」

 「…やはり、同じ五井一族だからかな…」

 そう言って、諏訪野マミは笑った…

 しかし、それは怪しい…

 私は、思った…

 諏訪野マミを疑うわけではないが、そう言えば、一番納得する…

 だから、怪しいというか…

 疑いたくなる…

 諏訪野マミは、決して、他人をバカにしたり、貶(おとし)めたりする人間ではない…

 なぜなら、自分が、五井一族でありながらも、先代当主の愛人の娘だから…

 その出自ゆえに、五井一族の間で、煙たがられているというか…

 下に見られている…

 だから、例え、冬馬と、ウマが合うとしても、冬馬を好きなはずはない…

 おそらく、いえ、確実に、諏訪野マミは、冬馬のように、他人を見下す人間を毛嫌いしている…

 自分が、五井家で、下に見られている諏訪野マミは、他人を見下す人間が大嫌いだからだ…

 にも、かかわらず、冬馬と親しいとは?

 謎がある…

 私は、思った…

 「…まあ、つまりは、寿さんが、歩けたと聞いたから、今日は、やって来たというところね…」

 諏訪野マミは、告白した…

 「…ありがとうございます…でも、歩けるといっても、松葉杖をついて、やっとですよ…それも、この病院のリハビリルームに行くのが限界…」

 「…それでも、歩けるように、なっただけで、良かったじゃない…ラッキーじゃない…」

 諏訪野マミが、喜ぶ…

 私は、この諏訪野マミを見て、つくづく、楽観的というか、ポジティブ…

 それを思った…

 そして、それは、生まれ持った性格なのか?

 それとも、金持ちのお嬢様ゆえの、ポジティブさなのか?

 考えた…

 何度もいうが、お金持ちは、どうしても、物事を軽く考えがちだ…

 それは、生きてゆく上で、生活の苦労をしていないから…

 たやすく、一般のひとが、買えないクルマに乗ることや、目の玉が飛び出るほどの高級店に足繫く通うことができる…

 つまり、生まれつき、財力が半端ない…

 それゆえ、他人ができないことも、軽くできるから、その結果、物事を容易に考える…

 容易に考える=ポジティブに考える…

 これは、頭の悪い人間が、物事を楽観的に考えることと、一見似ているが、完全に非なるもの…

 頭の悪い人間が、物事を、簡単に考えるのは、ただ、それが、いかに難しいかを知らないから…

 たとえば、東大に入ることが、どれほど、難しいか、わからないから、真剣に勉強すれば、仮に、東大は無理でも、早稲田や慶応は、簡単に入れると、思う…

 勉強したことがないから、その難しさが、わからないからだ…

 そして、実際に、東大を出た人間を目の当たりにしても、その人間が、頼りなかったり、リーダーシップがなかったりすると、どうして、こんなひとが、東大を出れたのか、不思議に思う…

 彼らは、東大を出た学力=リーダーシップと、考えているからだ…

 東大を出れば、常に、集団の先頭に立ち、率先して、ひとを率いるリーダーになる…

 そう考えるからだ…

 つまり、極めて、単純に考える…

 そして、それは、なぜかと、考えると、自分の周囲に、東大を出るような人間は、誰もいないから…

 見たことがないから、あまりにも、単純に、物事を考える(笑)…

 それと、金持ちが、似ているのは、物事を同じように簡単に考えるからで、違うのは、金持ちは、例えば、お金の力で、一般のひとが、乗れないクルマに乗ったり、有名政治家と、子供の頃から知り会ったりする…

 普通のひとができないことが、できるからで、それゆえ、オレなら、できる…

 私なら、できる、と、考える…

 つまり、普通のひとができないことが、できるから、その他のことも、簡単にできると、考えるので、あって、頭の悪い人間が、なにもできないのに、できると、考えるのとは、雲泥の差だ…

 私は、考える…

 詰まるところは、経験…

 金の力にしろ、普通のひとが、できない経験をたやすくできた上で、オレにも、できると、豪語するのか?

 なにもやったこともないのに、オレにも、できると、周囲に吹聴するのかの違いだ…

 同じように、ポジティブに考えても、その差は、実に大きい(笑)…

 つまりは、生まれつき、持っている人間と、持っていない人間の差…

 この場合は、お金を持っているか、否かの差だが、その差は、実に大きい…

 私は、目の前の、諏訪野マミを見ながら、つくづく、そんなことを考えた…

 そんなことを、考えていると、

 「…だったら、寿さん…ここで、歩いてみて…」

 と、いきなり、諏訪野マミが言った…

 驚きだった…

 「…私の前で、歩いてみて…」

 諏訪野マミが、繰り返す…

 私は、驚きで、一瞬、どうしていいか、わからなかった…

 「…マミさんの前で…ですか?…」

 「…だって、寿さん…歩けるんでしょ?…」

 それから、病室の隅にある、松葉杖を見つけて、私の前に持ってきた…

 私は、一瞬、悩んだが、

 「…わかりました…」

 と、言って、ベッドの上から、起き上がり、松葉杖で、歩こうとした…

 「…ちょっと、一人では、難しいので、マミさん…フォローして下さい…」

 「…わかった…」

 諏訪野マミが、言って、ベッドから、なんとか、起き上がり、ゆっくりと、松葉杖を突いて、歩こうとした…

 「…寿さん…しっかり…落ち着いて…」

 小柄な諏訪野マミが、私のカラダを支えながら、言う…

 私は、身長が、160㎝…

 対する、諏訪野マミは、155㎝…

 5㎝、低い…

 だから、率直に言って、不安だった…

 いつもは、看護師の佐藤ナナが支えてくれる…

 佐藤ナナは、私と同じく、身長が、160㎝ぐらい…

 やはり、どうしても、自分より、身長が低いものが、支えるというのは、不安だ…

 しかも、諏訪野マミは、太っていない…

 年齢も32歳の私より、三歳上の35歳…

 22歳の佐藤ナナに比べると、一回り以上、歳を取っている…

 つまり、若くもなく、自分より、小柄な女性が、支えていてくれるといっても、本当に、自分を支えられるのか、不安だった…

 だが、それでも、諏訪野マミの声に促されて、歩こうとしたのは、いつまでも、歩けなくては、困ると、思ったからだ…

 一刻でも、早く、この病院から、退院するためにも、誰の力も借りず、一人で、歩けるようにならないと、困ると、思ったからだ…

 諏訪野マミに支えられながら、私は、松葉杖を両手に突いて、立った…

 もちろん、想像以上の時間がかかった…

 それは、サポートするのが、看護師の佐藤ナナではなく、諏訪野マミであることが大きい…

 看護師の佐藤ナナは、職業柄、手慣れているので、どこで、どうサポートすれば、いいのか、経験で、わかる…

 しかし、諏訪野マミに、それはできない…

 マミは、ただの素人だからだ…

 が、

 それでも、いないよりは、マシだった…

 やはり、今の私のカラダでは、一人で、歩くのは、難しい…

 松葉杖で、病室で、立ち上がるだけで、精一杯とは、言わないが、だいぶ体力を消耗した…

 それが、見ていて、わかった、諏訪野マミは、

 「…」

 と、なにも、言わなかった…

 むしろ、困惑した感じだった…

 顔つきが、緊張していた…

 自分が、軽く、歩いてみて、と言ったのが、こんなにも、私が、大変だとは、思ってもみなかったのだろう…

 「…ゴメン…」

 と、小さく呟く声が聞こえた…

 「…寿さん…ゴメン…こんなにも、寿さんが、大変だとは、思わなかった…」

 「…マミさん…そんな顔しないで…」

 私が、諏訪野マミを見ると、涙を流しているのが、わかった…

 「…本当に、ごめんなさい…」

 諏訪野マミが、泣きながら、言う…

 私は、率直に言って、松葉杖をついて、立っているのも、大変だったが、それでも、立つことができるまでに比べれば、楽だった…

 「…少し、廊下を歩きましょう…」

 私の言葉に、

 「…寿さん…大丈夫? 無理はしないで…」

 「…大丈夫です…別に無理はしていません…それに、マミさんが、しっかり支えてくれさえすれば、大丈夫です…」

 私は言って、病室のドアに向かって、ゆっくりと、歩き出した…

 諏訪野マミが、慌てて、私の横についた…

 「…寿さん…大丈夫?…」

 「…大丈夫です…」

 「…ゴメン…本当に、ごめんなさい…」

 諏訪野マミが、繰り返す。

 「…マミさん…そんなに、何度も詫びる必要は、ありませんよ…これも、リハビリです…毎日、松葉杖をついて、歩いています…ただ、いつもは、この病院の看護師の方が、付き添ってくれるのが、今日は、マミさんに、変わっただけです…」

 「…寿さん…」

 「…大丈夫です…」

 私は、諏訪野マミに、そして、自分自身に、言った…

 「…大丈夫…」

 言いながら、ゆっくりと、松葉杖をついて、歩く…

 すると、当たり前だが、少しは、楽になった…

 私にとっては、ベッドの上から、降りて、松葉杖をついて、床に立つまでが、大仕事…

 だが、いざ、立ってしまうと、それほどでもなかったというか…

 とにかく、ベッドから降りて、床に立つのが、難事業だった(笑)…

 だから、床に立ってしまえば、それほどでもない…

 最初は、床に立つまでの苦労で、ハァハァと、息も荒かったが、じきに、それも、なくなった…

 あとは、ただ、松葉杖をついて、歩くだけ…

 それは、正直、楽ではなかったが、ベッドから、床に降りる苦労を考えれば、楽だった…

 たいしたことはなかった…

 私は、一歩、一歩、松葉杖をついて、歩く…

 ただ、歩きながらも、正直、不安だった…

 なにが、不安かといえば、付添人が、諏訪野マミであるということ…

 いつもの看護師の佐藤ナナではない…

 だから、私が、仮に、倒れたりしたら、諏訪野マミの小柄なカラダで、私を、起こせるのか、不安だった…

 正直、まだ、歩くことに、それほど、慣れてなかった…

 だから、看護師の佐藤ナナに見守られて、この病院の廊下を歩いても、倒れたことは、一度や、二度ではなかった…

 そして、そのたびに、佐藤ナナの力を借りて、床から、起き上がった…

 しかし、小柄な諏訪野マミに、佐藤ナナの代わりが、できるのか、それが、不安だった…

 だが、それを口にすることはできない…

 なにより、自分の意思で、私は、今、松葉杖をついて、歩き出した…

 諏訪野マミに勧められて、歩き出したのは、事実だったが、それは、強制ではない…

 あくまで、自分の意思で、歩き出したのだ…

 私は、そんなことを、考えながら、ゆっくりと、歩き出した…

 「…寿さん…頑張って…」

 諏訪野マミが、隣で、遠慮がちに、声をかけるが、私は、諏訪野マミの姿を見なかった…

 そんな余裕がなかったからだ…

 私は、歩くのに、一生懸命…

 生きるのに、一生懸命だった…

 病室のドアを諏訪野マミが、開け、私は、病室から出た…

 やはり、いつもより、大変だった…

 佐藤ナナが、隣にいないからだと、私は、思った…

 隣に佐藤ナナが、いることが、なにより、私に安心感を生む…

 今さらながら、その重要性に気付いた…

 だが、今さら、そんなことを、愚痴っても仕方がない…

 とりあえず、病院の廊下を歩くことにした…

 そして、ある程度、歩いた後、Uターンして、元の病室に戻ればいいと、考えた…

 私は、額に大粒の汗を流しながら、歩いた…

 隣に、諏訪野マミがいるのは、わかっていたが、彼女の姿を見る余裕は、私には、なかった…

 自分が、松葉杖をついて、歩くだけで、精一杯だったからだ…

 生きてゆくだけで、精一杯だったからだ…

 私は、ただ、額に大粒の汗を浮かべながら、背一杯の力で、松葉杖をついて、歩いた…

 それは、私にとって、思いのほか、重労働だった…

 もしかしたら、単純に、今日は、いつもより、体調が、悪いのかもしれない…

 ふと、そんな気持ちが、脳裏をよぎった…

 誰でも、そうだが、体調のいい日や、悪い日がある…

 今日は、私にとって、体調が、悪い日では?

 と、気付いた…

 これは、今のように、入院する前は、あまり気にしたことがなかった…

 誰でも、風邪を引いたり、お腹を痛くなったりすることはある…

 もっとも、体調の善し悪しがわかる、出来事としては、お酒を飲んだとき…

 体調の良いときは、難なく飲める量のアルコールが、体調の悪いときは、すぐに酔っぱらってしまう…

 入院するまでは、体調の善し悪しは、その程度でしか、判断しなかったが、今は、違う…

 この松葉杖で、歩くことが、こんなにも、大変だとは、思わなかった…

 諏訪野マミに言われて、つい、歩いてみたが、今日は、やるべきではなかった…

 今さらながら、思う…

 思いながらも、一方で、やってしまったことは、仕方がないとも思った…

 とにかく、歩くこと…

 それだけに集中しようとした…

 余計な雑念が入ると、わけがわからなくなる(苦笑)…

 私は、まるで、登山家が、山を登るように、全身全霊をかけて、歩いた…

 もはや、私の目には、なにも映らなかったというか…

 歩くだけで、精一杯だった…

 だから、目の前の人物に当たったときも、最初は、なんだか、わからなかった…

 しまった…

 誰かにぶつかった…

 そんな感じだった…

 が、

 ぶつかったことに、気付いた私は、慌てて、

 「…スイマセン…」

 と、謝った…

 そして、ぶつかった人物を見た…

 目の前にいたのは、冬馬…

 この病院の理事長、菊池冬馬だった…

                
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