第6話
文字数 10,943文字
私と、諏訪野伸明は、気が合う…
そんなことを、考えていたときだった…
「…実は…」
と、諏訪野伸明が、切り出した…
「…実は、さっき、寿さんが、おっしゃった、この五井記念病院ですが…」
「…この病院がなにか?…」
「…実は、言いにくいのですが、五井家の内紛が続いていて…」
「…内紛? …五井家で、ですか?…」
「…ハイ…」
沈痛な面持ちだった…
「…要するに、五井十三家です…」
「…五井十三家?…」
「…五井は400年の歴史があります…つまり、創業から、400年経っているわけです…当然のことながら、一族といっても、血の繋がりは、他人に近い…だから、一族の結婚は、一族の中で、探せと言われていました…」
「…」
「…それで、今回、ボクが、父の後を継いで、五井家当主になったんですが、それが、気に入らないというか…」
後は、言葉を飲み込んだ…
「…要するに、ボクが、父、建造の血を引く、息子ではないと、一族で、知った人間がいて、それで、余計に、ボクは、リン…菊池リンちゃんと、結婚するしかない状況に追い込まれたわけです…そして、それを嫌った、リンちゃんが、海外に逃げ出した…それが、真相です…」
諏訪野伸明が、説明する…
たしかに、諏訪野伸明は、諏訪野建造の実子ではない…
諏訪野建造の実子は、次男の秀樹だった…
にもかかわらず、建造は、秀樹を嫌っていた…
評価していなかった…
それは、純粋に憎くて、しているのではない…
五井家の当主として、秀樹は、ふさわしくないと、判断したからだった…
次期当主は、この伸明と、決めていた…
そして、それが、この伸明は嬉しく、私、寿綾乃と、建造の墓の前で、キスをした…
私と結ばれると、オヤジの前で、報告したかった…
そんな子供じみた、告白を、以前した…
つまりは、それほど、建造を慕っていたということだ…
これは、伸明の立場でいえば、当たり前だった…
建造は、自分の血が繋がった次男の秀樹ではなく、血が繋がってない長男の伸明を後継者に指名した…
秀樹と伸明の力量を正確に見極めて、判断したのだ…
これは、当たり前のことだが、現実にできる人間は、ほとんどいない…
誰もが、自分と血が繋がった人間を優先する…
にもかかわらず、建造は、伸明を優先した…
伸明としては、恩義を感じないわけはなかった…
だが、その五井家当主に決まった伸明に、逆らう勢力があるというか…
その現実に驚いた…
それでは、まるで、ちゃぶ台返しではないか?
いったん、決まった物事を最初から、やり直す…
バカなことを、と、考えてしまう…
と、そこまで、考えて、ふと、菊池リンの祖母、和子を思い出した…
一度会っただけだが、和子を思い出した…
あの女傑を思い出した…
あの女傑が、敵に回ったら、手ごわい…
一度会っただけだが、それは、わかる…
だから、
「…菊池さんのおばあさまは…」
と、わざと言った…
諏訪野伸明が、すぐに、反応した…
「…和子叔母さんですか?…」
「…ハイ…」
「…叔母さんは、ボクの味方です…」
「…味方?…」
「…ハイ…叔母さんは、ボクのことを、わかっていて、くれます…リンちゃんのことも…」
「…菊池さんのことも? ですか?…」
「…ハイ…それは、やはりリンちゃんの祖母ですから…リンちゃんの幸せも考えるし、当たり前のことです…」
「…それは、諏訪野さんとの結婚のことを言っているんですか?…」
「…ハイ…叔母さんは、ボクが、リンちゃんと結婚してもいいし、しなくてもいいと、言ってくれてます…それぞれの人生なんだから、悔いのない人生を生きてほしいと、言ってくれてます…」
「…だったら、一体、どなたが、諏訪野さんに反対しているんでしょうか?…」
「…和子叔母さん…そして、うちの母の出身母体、五井十三家のひとつ、五井東家です…」
「…五井東家?…」
「…皮肉なものですよ…まさか、ボクの母の出身母体が、ボクの当主就任に難癖をつけるとは、思わなかった…」
「…」
「…そして、その五井東家の御曹司が、この五井記念病院の理事長…菊池冬馬です…」
諏訪野伸明が、仰天の告白をした…
この五井記念病院の理事長が、諏訪野伸明の敵?
一体、それは、どういうことだ?
菊池冬馬?
菊池?
そうか…
菊池リン?
同じ菊池姓だ…
そうか?
だから、菊池リンは、真っ先に、この五井記念病院に連絡したんだ…
この五井記念病院の理事長、菊池冬馬と、菊池リンは、親しい間柄に違いない…
私は、思った…
「…それにしても、寿さんが、和子叔母さんを知っていたなんて…」
諏訪野伸明が、あまりにも、意外だというようだった…
「…以前、菊池さんに、おうちに、遊びに来ないか? と、誘われて…」
私は、曖昧に言った…
その実、和子は、菊池リンに命じて、私、寿綾乃を自宅に招いたに違いない…
どんな女か、自分の目で、確かめたかったに違いない…
私は、それを思い出した…
「…あの菊池さんのおばあさまは、肝の据わった方ですね…」
私は、言った…
言いながらも、言い過ぎかなと思った…
言葉選びを間違えたかな、とも思った…
だが、諏訪野伸明は、そんなことは、まったく、気にしていなかった…
「…たしかに、和子叔母さんは、胆力がある…」
と、頷いた…
「…叔母さんは、肝が据わっている…その叔母さんが、ボクの味方をしてくれるから、ボクの当主就任も、何事もないと、思っていた…」
「…」
「…だけど、冬馬が…」
「…さっき、おっしゃった、この病院の理事長ですか?…」
「…そうです…」
「…」
「…まあ、冬馬自体は、そんなに、悪いヤツじゃない…」
「…どういうことですか?…」
「…さっき、やってきた、リンちゃんと似た、看護師の方が言ったように、ボクと冬馬と、まだ寿さんの意識が回復していないときに、この病室にやって来ました…」
「…」
「…彼女は、それを見て、ボクと冬馬が、仲がいいと思ったのでしょう…」
「…だったら、どうして?…」
「…敵は、冬馬じゃない…冬馬を前に出して、五井家をかき回そうとする輩(やから)です…」
「…輩(やから)?…」
「…ハイ…」
諏訪野伸明は、それ以上は言わなかった…
だから、私も聞けなかった…
しかし、
しかし、だ…
まさか、諏訪野伸明の五井家当主就任に、いちゃもんをつける輩(やから)が、存在するとは、思わなかった…
いや、
そうではない…
いちゃもんをつけるのが、当然なのかもしれない…
諏訪野伸明は、何度も言うように、先代、当主、諏訪野建造と血が繋がっていない…
諏訪野建造の妻であり、伸明の母の昭子は、伸明を身ごもったまま、建造と結婚した…
だから、名目上は、当主の建造の息子であっても、納得しない輩(やから)がいても、おかしくはない…
やはり、当主には、当主の血が繋がった人間が、一番と、考えるからだ…
ただ、伸明の母は、同じ、五井一族…
だから、問題はないと、考えたのかもしれない…
そして、誰が、それを考えたといえば、亡くなった諏訪野建造だ…
自らの血を引く、次男の秀樹を排して、長男の伸明を、次期当主とする…
それが、できるか、どうか、まず考えたに違いない…
そして、それが、できると、判断したからこそ、建造は、伸明を推した…
自分の後継者に推した…
一族で、不満の声が出ないと、思っていたに違いない…
が、建造の誤算は、自分の死だった…
後継者を決めない間に、自分が、死んでしまった…
これは、建造の最大の誤算だったに違いない…
自分が生きている間に、伸明を当主にすれば、ゴタゴタは、起きなかった可能性が高いからだ…
また、おそらくは、伸明の出自…
伸明が、建造と血が繋がった実の父子でないことが、バレたことも、誤算だったかもしれない…
計算外だったかもしれない…
おそらく、それを知っているのは、五井家内部でも、ごく一部の人間だけに違いない…
人の口に戸は立てられない…
秘密を知っている人間の数が多ければ、多いほど、その秘密は、外に漏れる可能性が高い…
言っては、ダメだ…
しゃべっては、ダメだ…
と、言われるほど、ひとは、誰かにしゃべりたいものだ…
誰もが知らない秘密を、自分は知っている…
それが、その人間の優越感に直結する…
そんな誰もが、知らない秘密を知っている自分は、特別な存在…
秘密を共有する存在だからだ…
そして、当たり前だが、その秘密を漏らす…
「…誰にも、言っちゃダメだ…アンタだから、言うんだよ…」
と、でも言い、うまく相手を持ち上げて、秘密を漏らす…
そして、その秘密を知った人間は、また、
「…誰にも、言っちゃダメだ…アンタだから、言うんだよ…」
と、別の人間に言う…
まるで、チェーンメール、あるいは、昔の不幸の手紙のように、その秘密が、不特定多数の人間に拡散されてゆく(笑)…
と、ここまで、考えて、
いや、違うかもしれない…
と、気付いた…
なぜなら、五井家の反逆者は、他でもない、伸明の母、昭子と、菊池リンの祖母、和子、姉妹の出身母体…
五井東家だと言ったからだ…
伸明の母の出身母体ならば、当然、昭子が、建造と結婚するときに、すでに昭子が、建造以外の男性との間に子供を身ごもっていた事実を知っていたに違いない…
だから、諏訪野伸明が、建造の実子でないことを、他の五井家の人間が、知らずとも、知っていた可能性が高い…
が、
これは、想定外…
これは、すでに他界した建造のみならず、伸明の母、昭子、そして、菊池リンの祖母、和子姉妹にとっても、想定外の出来事だったに違いない…
まさか、自分たちの出身母体から、裏切者が出てくるとは、夢にも思わなかったに違いない…
私は、思った…
「…五井家の歴史は、闘争の歴史でもあります…」
諏訪野伸明が、苦々しげに言った…
「…闘争の歴史?…」
「…要するに金ですよ…」
伸明が、ぶっちゃけた…
「…五井は、昔から金がある…金を持っている…だから、金持ちの集まり…」
「…」
「…そして、一般人より、むしろ、金のある人間の方が、余計に金に執着する…より、金が欲しくなる…権力が欲しくなる…」
「…」
「…だから、五井家の歴史は、闘争の歴史…五井家内部の争いの歴史でもあります…」
諏訪野伸明が説明する…
そう言われれば、伸明の言うことは、よくわかった…
なまじ、一般の金のない人間は、意外に、金に執着しないものだ…
真逆に、金のある人間の方が、金に執着すると言われている…
評論家の森永卓郎が以前、どこかで、書いていたが、100億円以上の資産がある、お金持ちを知っているが、そのお金持ちは、銀行残高が、1円でも、少なくなると、パニックになると言っていた…
100億円以上の資産を持っていても、1円でも、残高が減ると、パニックになる…
冗談だか、本気だか、わからないが、本気なのだろう…
誰もが、資産、100億円を超えることは、通常ありえないが、それほどの資産を持つと、常人と、精神が、異なるというか…
正常ではいられないのかもしれない…
そう、考えると、納得できる…
金持ちは、金持ちに憧れる…
自分以上の金持ちに憧れる…
おそらく、誰よりも、金の力を知り尽くしているからだ…
だから、五井家でも、同じことが起きる…
五井東家というのが、五井家内部で、どのような立ち位置であるかは、わからないが、当然のことながら、五井家当主ではない…
五井家代表ではない…
五井家の傍流の分家に過ぎない…
当主ではないから、当主になりたいに違いない…
ひどく当たり前のことだった…
そして、今、諏訪野伸明が言った、
「…そして、一般人より、むしろ、金のある人間の方が、余計に金に執着する…より、金が欲しくなる…権力が欲しくなる…」
この言葉が、諏訪野建造が、実子でない伸明を、後継者に指名した理由だと、気付いた…
伸明は、
権力に執着しない…
金に執着しない…
真逆に、建造の実子である、秀樹は、
権力に執着する…
金に執着する…
人間だった…
そして、当たり前だが、権力=金に執着する人間は、無用に敵を作る…
自分自身が、権力や金に執着するあまり、少しでも、自分の権力や金を侵そうとする者が、現れた場合は、積極的に排除しようと思うからだ…
ケンカではないが、相手が、自分に、敵意がなくても、一方的に、ケンカを売る…
ケンカを売られた相手はわけがわからない…
自分に、ケンカを仕掛けてきた相手に、自分が、なにかしたわけではないからだ…
なにもしていないのに、一方的にケンカを売る…
理由はただ一つ…
今、ケンカを仕掛けておかなければ、いずれ自分が、そいつに、ケンカを仕掛けられて、やられてしまうかもしれないからだ…
やられる前にやる…
その理屈だ…
おそらく、諏訪野建造は、実子の秀樹が、そのような人間だと見抜いていたに違いない…
だから、血が繋がってない、長男の伸明を後継者にしようとした…
伸明は、欲がない…
それは、おそらく、自分が、建造と血が繋がってない負い目から、きているのかもしれない…
本来、あり得ない立場に自分がいる…
その負い目かもしれない…
が、
本当のことはわからない…
欲望は、ひとそれぞれ…
容姿が平凡で、能力が平凡でも、上昇志向だけ強い人間は、世の中に、ごまんといるからだ…
だから、本当は、伸明の生まれた環境もなにも関係ないのかもしれない…
よく世間では、環境が人間を作るという…
それは、否定しないが、さりとて、全員に、それが当てはまるわけではない…
同じ環境で、育てば、同じような、性格になるわけではない…
同じ環境で、育った兄弟姉妹が、皆、性格が似ているわけではないことを、考えれば、誰もが納得がいく…
仮に、子供時代から、身近に、美人や、イケメンの幼馴染(おさななじみ)や、従妹が、いたとしても、それに、憧れる人間と、憧れない人間がいる…
それと、同じだ…
いかに、身近にいても、好みは、ひとそれぞれ…
単純に、美人やイケメンでも、コイツは、嫌いとか、タイプじゃないとかは、誰でもある…
つまり、いかに、同じ環境に育とうと、兄弟でも、性格が違う…
だから、必ずしも、環境が、人間を作るわけではない…
ただ、貧乏だったり、真逆に、金持ちだったりした場合は、どうしても、金銭感覚が、周囲の者と、異なるだろう…
千円、一万円の感覚が、異なるのだろう…
極端な話、千円を、一万円の価値ぐらいに、考えるか、真逆に、一万円を、千円の価値ぐらいに考えるか、だ…
また、ルックスも同じ…
美人やイケメンに生まれれば、それだけで、周囲から、ちやほやされる…
その反動で、周囲の同性から、妬まれる可能性が高い…
そういったとき、どうすれば、よいか?
生まれつきの美人や、イケメンは、経験から、学んでゆく…
つまりは、経験値を積んでゆくことに他ならない…
好きでもない異性から、告白された場合、どうすれば、相手に恨まれないで、すむか?
そんな経験を積んでゆく…
それが、環境が、人間を作るということだ…
たとえば、小説や漫画でよくあるのが、美人と、平凡な容姿の女が、中身が入れ替わる設定…
事実、これがあった場合、困るのは、文字通り、環境が変わること…
美人が、平凡な容姿の女に入れ替わった場合は、周囲の人間に、ちやほやされなくなる…
変な話、美人であることで、周囲から、優遇されていた特権がなくなる…
特権といえば、おおげさだが、周囲の男たちから、優しくされたり、ちやほやされたりされなくなる…
これが、本人には、痛いに違いない…
真逆に、平凡な容姿の女が美人になった場合は、周囲の扱いが、特別になったことで、戸惑うに違いない…
突然、周囲の男たちが、自分をちやほやし出す…
突然、大勢の男たちから、
「…ボクと付き合って、下さい…」
と、告白される…
すると、どうしていいか、わからない…
今まで、そんな経験がないからだ…
経験を積んでないからだ…
漫画、小説では、そのときの対応が、面白く、はっきりいって、笑える…
ゆえに、昔から多くの題材に使われてるのだ…
つまり、それが、環境が人間を作るという、誰もが身近に知っている実例だ…
ただし、美人もイケメンも、ことルックスに至っては、ある程度の年齢と共に、その神通力は、消える…
若さがなくなると共に、きれいに、消え去る…
それは、まるで、魔法…
魔法使いが、魔法が使えなくなるのと、同じく、若さという魔法が、消えると、美人や、イケメンといった魔法も消える…
美人もイケメンも、若さがあってのものだからだ…
一般人なら、せいぜい、四十歳ぐらいまでが、限度だろう…
その年齢を超えて、ちやほやされることは、まずない…
私に限っていえば、まだ32歳だから、ちやほやされる…
が、どんなに頑張っても、せいぜい十年程度だろう…
だが、私の場合は、病気で、その前に命が尽きる…
それが、いいのか、悪いのか、わからないが、それが現実だ…
私は、思った…
結局、諏訪野伸明は、その後、まもなく帰った…
さすがに、病人相手に、長々と身の上話をしてはいられないということだ…
誰もが、常識のある人間ならば、同じ対応をするだろう…
ただ、諏訪野伸明の帰った後、私は、当たり前だが、この病院の理事長、菊池冬馬に興味を持った…
…一体、どんな、ルックスを持った男なのだろう?…
…一体、どんな、性格を持った男なのだろう?
考えた…
が、
以外にも、ルックスは、すぐにわかった…
病室に、当病院の理事長の言葉と、写真が貼ってあった(笑)…
五井記念病院、理事長、菊池冬馬…
さっきまで、この病室にいた、諏訪野伸明と、なんとなく似たルックスの長身のイケメンだった…
ただ、諏訪野伸明もよりも、十歳ぐらい、若い…
ちょうど、私の担当の長谷川センセイと同じくらいの年齢…
しかし、諏訪野伸明と決定的に違うのは、目だった…
目に険があるといえば、言い過ぎかもしれないが、目がきつい…
穏やかな諏訪野伸明とは、真逆…
相容れない…
これは、諏訪野伸明が、この菊池冬馬が、五井家で反乱を企てていると、言ったから、だけではない…
…さもありなん…
そう思えるほど、目力が強い…
これは、別に褒めているわけではない…
目力=野心が強い…
負けん気が強いと、思うのだ…
目は口程に物を言うというが、目を見れば、その人間が、どんな人間がわかる場合が、大半といえば、おおげさだが、多くは、当てはまる…
この写真を見て、この菊池冬馬と呼ぶ人間が、気が弱いとは、誰もが、思うまい…
むしろ、真逆の負けず嫌い…
諏訪野伸明は、冬馬は、悪いヤツではないと、言っていたが、この写真を見る限り、眉唾ものだ…
この写真を見る限り、上昇志向の塊に見える…
いかにも、五井分家の出身ながら、本家を超えたい…
あるいは、本家を乗っ取りたいと考える、野心家に見える…
これは、私が、諏訪野伸明から、菊池冬馬の野心を聞いたからだけでは、あるまい…
いずれにしろ、この写真の菊池冬馬の実物と会うのは、遠い先ではあるまい…
私は、思った…
なにしろ、この病院の理事長なのだ…
今、私が、この写真を見ている、この時点で、同じ病院にいる可能性が高い…
同じ建物にいる可能性が高い…
私が、歩ければ、歩いて、理事長室にいけば、会える可能性が高い…
が、
ということは、どうだ?
私、寿綾乃の命は、その菊池冬馬に握られてる可能性がある?
いや、命を握られてるといえば、大げさだは、私の病状が、手に取るように、わかるに違いない…
これは、大きい…
私にとっては、ハンディ…
大きなハンディだ…
仮に、対立した場合は、自分の病状を手に取るようにわかる立場の人間と、戦うことは、できない…
これは、考えれば、誰でもわかることだ…
私は、自分の部屋に貼ってある、五井記念病院理事長、菊池冬馬と書かれた写真を見て、思った…
しかし、わざわざ、理事長の写真を病室に飾ってあるなんて…
私は、考える…
たしかに、長身のイケメンだから、写真うつりがいい…
まるで、モデルのようだ…
なにより、若い…
この五井記念病院という、世間に知られた立派な歴史がある、病院と、真逆…
五井という権威のある名前と真逆だ…
それゆえ、わざと、この写真を病室に飾ってあるのかと、訝(いぶか)しむ…
ゲスの勘繰りではないが、裏読みしてしまう…
著名で歴史がある…
裏を返せば、ほこり臭く、古めかしい…
そんなイメージがある…
それを払しょくするため、わざと、若く、長身のイケメンの菊池冬馬の写真を載せている…
そう、邪推してしまう…
モデルのような菊池冬馬の写真を、部屋に飾ることで、イメージ一新できるからだ…
それを考えると、今さらながら、ルックスの力は大きいと、思ってしまう…
どんな人間か、さっぱりわからないが、長身のイケメンが、大病院の理事長をしているだけで、大きな宣伝になるからだ…
男女ともに、ルックスがいいだけで、大きな力になる…
今さらながら、そんな世間の現実を思った…
それから、まもなくだった…
私の担当の佐藤ナナが、病室に検診にやって来たときに、漏らした…
「…寿さんのこと…今、この病院で、噂になってるんですよ…」
「…噂? どういう?…」
思いがけないことだった…
「…だって、五井記念病院で、五井家の諏訪野伸明さんが、見舞いにやって来たでしょ? …それに、あの藤原ナオキさんも…二人とも、有名人だし…」
「…有名人?…」
「…世間一般では、諏訪野伸明さんは、有名人じゃないかもしれませんが、この病院では別です…」
「…別?…」
「…だって、五井記念病院じゃないですか? 諏訪野さんは、その本家の方ですし…」
佐藤ナナが、屈託なく笑う…
「…なにより、寿さんが、入院して、諏訪野さんと、この病院の理事長が、二人して、この病室にやって来たことは、この病院中で、話題になりました…」
…なるほど…
…そういうことか?…
私は、納得した…
たしかに、この佐藤ナナの言う通り、病院の理事長と、あの五井家当主である、諏訪野伸明が、連れ立って、この病室にやって来れば、この病院で、話題になるに決まっている…
…一体、この病室には、どんな人間が、入院しているのか?…
話題になるに決まっている…
一体、どんな大物が?
政界の大物か?
あるいは、
財界の大物か?
話題になるに、決まっている…
しかしながら、その正体が、私では?
寿綾乃では、些か、興ざめするというか…
ガッカリするに違いない(笑)…
なにしろ、平凡人だ…
平凡の極み…
それを思うと、
「…それは、この病院の方たちに、ガッカリさせて、申し訳ない…」
と、自然と、言葉が口を突いて出た…
が、
即座に、佐藤ナナが、反論した…
「…申し訳ないなんて、とんでもない!…」
佐藤ナナが、声のトーンを上げて、反論した…
「…その前には、テレビで、キャスターも務める、藤原ナオキさんの見舞いにやって来たでしょ? それもあって、今や、この五井記念病院では、寿さんは、ダントツの有名人ですよ…」
「…有名人って?…」
あまりにも、意外な言葉だった…
「…だって、理事長自ら、病室にやって来て、病人の見舞いをすることなんて、滅多にありませんよ…さらに、五井家の諏訪野さんや、キャスターで、経営者の藤原さんが、やって来るなんて…有名にならないわけ、ないじゃないですか?…」
言われてみれば、その通り…
まさに、その通りだった…
「…だから、私なんて、プレッシャーが、半端なくて…」
佐藤ナナが、愚痴る…
「…プレッシャー?…」
「…だって、そんな、病院中で、注目される、寿さんの担当なんですよ…」
佐藤ナナが、声のトーンを一段と上げた…
「…プレッシャーは、半端ないですよ…誰が、その病室の担当だって、まずは、聞きますからね…」
言われてみれば、その通り…
佐藤ナナの言う通り、だった…
「…そう…そんなにプレッシャーを、かけて、ごめんなさい…でも、もし、辛いようなら、諏訪野伸明さんに言って、担当を替えてもらっても、構いませんよ…」
私が、言うと、佐藤ナナの顔色が変わった…
「…とんでもない!…」
「…エッ?…」
「…替えてもらっちゃ、困ります…」
「…困る? …でも、プレッシャーがあるって?…」
「…それはあります…でも、こんなチャンス、滅多にありません…」
「…チャンス?…」
「…だって、五井家の諏訪野伸明さんや、キャスターの藤原ナオキさんと、知り会うチャンスが、できたんですよ…もしかしたら、すごいお金持ちを紹介してもらえるかもしれないじゃないですか?…」
「…お金持ちって?…」
私は、彼女の言い分に、呆れた…
まさか、そんな可愛い顔をしていて、こんなことを口にするなんて、思わなかった…
「…佐藤さん?…」
「…ハイ? なんですか?…」
「…佐藤さん…そんなに美人で、可愛らしいのに、凄いことを言うのね…」
「…当たり前じゃないですか?…」
佐藤ナナが、今度は、怒った…
「…こんなチャンス、滅多にないですよ…きっと、私の生涯で、もしかしたら、これ以上のチャンスはないかも…」
私は、彼女の言い分に、目を丸くした…
しかし、これこそが、若さかもしれない…
私は、思った…
たしかに、もしかしたら、この佐藤ナナの言うように、諏訪野伸明や、藤原ナオキを介して、誰か、お金持ちの友人を紹介してもらえる可能性はゼロではない…
だが、それを口にするのは、若さ…
そして、おそらく、百万に一つもない、可能性を信じるのも、また、若さだった…
ちょうど、それは、宝くじで、一億円を当てるようなもの…
つまりは、奇跡のようなものだからだ…
私は、彼女の若さを羨ましく思うと共に、愚かだとも、思った…
そんなこと、あるわけないからだ…
しかし、絶対にないわけではない…
なぜなら、彼女の美貌と、性格は、標準以上…
仮に、そんなお金持ちと知り会えば、もしかしたら、彼女を気に入る人間が、出てくるかもしれない…
その可能性は、ゼロではない…
それは、頭が悪く、ルックスも、人並みで、性格が悪い人間が、妄想を口にしているのとは、わけが違う…
それは、妄想…
間違いなく、妄想だからだ…
妄想=可能性は、ゼロだからだ…
平凡な社会にいても、そのような人間は、誰もが伴侶に恵まれない…
あるいは、巡り会っても、似た者同士…
社会で、陰口を叩かれるもの同士だからだ…
それを、思えば、佐藤ナナの夢は、実現可能な夢だった…
あるいは、手が届くかもしれない夢だった…
私は、この佐藤ナナを見ながら、そんなことを、思った…
菊池リンに似た、彼女を見ながら、そんなことを考えた…
そんなことを、考えていたときだった…
「…実は…」
と、諏訪野伸明が、切り出した…
「…実は、さっき、寿さんが、おっしゃった、この五井記念病院ですが…」
「…この病院がなにか?…」
「…実は、言いにくいのですが、五井家の内紛が続いていて…」
「…内紛? …五井家で、ですか?…」
「…ハイ…」
沈痛な面持ちだった…
「…要するに、五井十三家です…」
「…五井十三家?…」
「…五井は400年の歴史があります…つまり、創業から、400年経っているわけです…当然のことながら、一族といっても、血の繋がりは、他人に近い…だから、一族の結婚は、一族の中で、探せと言われていました…」
「…」
「…それで、今回、ボクが、父の後を継いで、五井家当主になったんですが、それが、気に入らないというか…」
後は、言葉を飲み込んだ…
「…要するに、ボクが、父、建造の血を引く、息子ではないと、一族で、知った人間がいて、それで、余計に、ボクは、リン…菊池リンちゃんと、結婚するしかない状況に追い込まれたわけです…そして、それを嫌った、リンちゃんが、海外に逃げ出した…それが、真相です…」
諏訪野伸明が、説明する…
たしかに、諏訪野伸明は、諏訪野建造の実子ではない…
諏訪野建造の実子は、次男の秀樹だった…
にもかかわらず、建造は、秀樹を嫌っていた…
評価していなかった…
それは、純粋に憎くて、しているのではない…
五井家の当主として、秀樹は、ふさわしくないと、判断したからだった…
次期当主は、この伸明と、決めていた…
そして、それが、この伸明は嬉しく、私、寿綾乃と、建造の墓の前で、キスをした…
私と結ばれると、オヤジの前で、報告したかった…
そんな子供じみた、告白を、以前した…
つまりは、それほど、建造を慕っていたということだ…
これは、伸明の立場でいえば、当たり前だった…
建造は、自分の血が繋がった次男の秀樹ではなく、血が繋がってない長男の伸明を後継者に指名した…
秀樹と伸明の力量を正確に見極めて、判断したのだ…
これは、当たり前のことだが、現実にできる人間は、ほとんどいない…
誰もが、自分と血が繋がった人間を優先する…
にもかかわらず、建造は、伸明を優先した…
伸明としては、恩義を感じないわけはなかった…
だが、その五井家当主に決まった伸明に、逆らう勢力があるというか…
その現実に驚いた…
それでは、まるで、ちゃぶ台返しではないか?
いったん、決まった物事を最初から、やり直す…
バカなことを、と、考えてしまう…
と、そこまで、考えて、ふと、菊池リンの祖母、和子を思い出した…
一度会っただけだが、和子を思い出した…
あの女傑を思い出した…
あの女傑が、敵に回ったら、手ごわい…
一度会っただけだが、それは、わかる…
だから、
「…菊池さんのおばあさまは…」
と、わざと言った…
諏訪野伸明が、すぐに、反応した…
「…和子叔母さんですか?…」
「…ハイ…」
「…叔母さんは、ボクの味方です…」
「…味方?…」
「…ハイ…叔母さんは、ボクのことを、わかっていて、くれます…リンちゃんのことも…」
「…菊池さんのことも? ですか?…」
「…ハイ…それは、やはりリンちゃんの祖母ですから…リンちゃんの幸せも考えるし、当たり前のことです…」
「…それは、諏訪野さんとの結婚のことを言っているんですか?…」
「…ハイ…叔母さんは、ボクが、リンちゃんと結婚してもいいし、しなくてもいいと、言ってくれてます…それぞれの人生なんだから、悔いのない人生を生きてほしいと、言ってくれてます…」
「…だったら、一体、どなたが、諏訪野さんに反対しているんでしょうか?…」
「…和子叔母さん…そして、うちの母の出身母体、五井十三家のひとつ、五井東家です…」
「…五井東家?…」
「…皮肉なものですよ…まさか、ボクの母の出身母体が、ボクの当主就任に難癖をつけるとは、思わなかった…」
「…」
「…そして、その五井東家の御曹司が、この五井記念病院の理事長…菊池冬馬です…」
諏訪野伸明が、仰天の告白をした…
この五井記念病院の理事長が、諏訪野伸明の敵?
一体、それは、どういうことだ?
菊池冬馬?
菊池?
そうか…
菊池リン?
同じ菊池姓だ…
そうか?
だから、菊池リンは、真っ先に、この五井記念病院に連絡したんだ…
この五井記念病院の理事長、菊池冬馬と、菊池リンは、親しい間柄に違いない…
私は、思った…
「…それにしても、寿さんが、和子叔母さんを知っていたなんて…」
諏訪野伸明が、あまりにも、意外だというようだった…
「…以前、菊池さんに、おうちに、遊びに来ないか? と、誘われて…」
私は、曖昧に言った…
その実、和子は、菊池リンに命じて、私、寿綾乃を自宅に招いたに違いない…
どんな女か、自分の目で、確かめたかったに違いない…
私は、それを思い出した…
「…あの菊池さんのおばあさまは、肝の据わった方ですね…」
私は、言った…
言いながらも、言い過ぎかなと思った…
言葉選びを間違えたかな、とも思った…
だが、諏訪野伸明は、そんなことは、まったく、気にしていなかった…
「…たしかに、和子叔母さんは、胆力がある…」
と、頷いた…
「…叔母さんは、肝が据わっている…その叔母さんが、ボクの味方をしてくれるから、ボクの当主就任も、何事もないと、思っていた…」
「…」
「…だけど、冬馬が…」
「…さっき、おっしゃった、この病院の理事長ですか?…」
「…そうです…」
「…」
「…まあ、冬馬自体は、そんなに、悪いヤツじゃない…」
「…どういうことですか?…」
「…さっき、やってきた、リンちゃんと似た、看護師の方が言ったように、ボクと冬馬と、まだ寿さんの意識が回復していないときに、この病室にやって来ました…」
「…」
「…彼女は、それを見て、ボクと冬馬が、仲がいいと思ったのでしょう…」
「…だったら、どうして?…」
「…敵は、冬馬じゃない…冬馬を前に出して、五井家をかき回そうとする輩(やから)です…」
「…輩(やから)?…」
「…ハイ…」
諏訪野伸明は、それ以上は言わなかった…
だから、私も聞けなかった…
しかし、
しかし、だ…
まさか、諏訪野伸明の五井家当主就任に、いちゃもんをつける輩(やから)が、存在するとは、思わなかった…
いや、
そうではない…
いちゃもんをつけるのが、当然なのかもしれない…
諏訪野伸明は、何度も言うように、先代、当主、諏訪野建造と血が繋がっていない…
諏訪野建造の妻であり、伸明の母の昭子は、伸明を身ごもったまま、建造と結婚した…
だから、名目上は、当主の建造の息子であっても、納得しない輩(やから)がいても、おかしくはない…
やはり、当主には、当主の血が繋がった人間が、一番と、考えるからだ…
ただ、伸明の母は、同じ、五井一族…
だから、問題はないと、考えたのかもしれない…
そして、誰が、それを考えたといえば、亡くなった諏訪野建造だ…
自らの血を引く、次男の秀樹を排して、長男の伸明を、次期当主とする…
それが、できるか、どうか、まず考えたに違いない…
そして、それが、できると、判断したからこそ、建造は、伸明を推した…
自分の後継者に推した…
一族で、不満の声が出ないと、思っていたに違いない…
が、建造の誤算は、自分の死だった…
後継者を決めない間に、自分が、死んでしまった…
これは、建造の最大の誤算だったに違いない…
自分が生きている間に、伸明を当主にすれば、ゴタゴタは、起きなかった可能性が高いからだ…
また、おそらくは、伸明の出自…
伸明が、建造と血が繋がった実の父子でないことが、バレたことも、誤算だったかもしれない…
計算外だったかもしれない…
おそらく、それを知っているのは、五井家内部でも、ごく一部の人間だけに違いない…
人の口に戸は立てられない…
秘密を知っている人間の数が多ければ、多いほど、その秘密は、外に漏れる可能性が高い…
言っては、ダメだ…
しゃべっては、ダメだ…
と、言われるほど、ひとは、誰かにしゃべりたいものだ…
誰もが知らない秘密を、自分は知っている…
それが、その人間の優越感に直結する…
そんな誰もが、知らない秘密を知っている自分は、特別な存在…
秘密を共有する存在だからだ…
そして、当たり前だが、その秘密を漏らす…
「…誰にも、言っちゃダメだ…アンタだから、言うんだよ…」
と、でも言い、うまく相手を持ち上げて、秘密を漏らす…
そして、その秘密を知った人間は、また、
「…誰にも、言っちゃダメだ…アンタだから、言うんだよ…」
と、別の人間に言う…
まるで、チェーンメール、あるいは、昔の不幸の手紙のように、その秘密が、不特定多数の人間に拡散されてゆく(笑)…
と、ここまで、考えて、
いや、違うかもしれない…
と、気付いた…
なぜなら、五井家の反逆者は、他でもない、伸明の母、昭子と、菊池リンの祖母、和子、姉妹の出身母体…
五井東家だと言ったからだ…
伸明の母の出身母体ならば、当然、昭子が、建造と結婚するときに、すでに昭子が、建造以外の男性との間に子供を身ごもっていた事実を知っていたに違いない…
だから、諏訪野伸明が、建造の実子でないことを、他の五井家の人間が、知らずとも、知っていた可能性が高い…
が、
これは、想定外…
これは、すでに他界した建造のみならず、伸明の母、昭子、そして、菊池リンの祖母、和子姉妹にとっても、想定外の出来事だったに違いない…
まさか、自分たちの出身母体から、裏切者が出てくるとは、夢にも思わなかったに違いない…
私は、思った…
「…五井家の歴史は、闘争の歴史でもあります…」
諏訪野伸明が、苦々しげに言った…
「…闘争の歴史?…」
「…要するに金ですよ…」
伸明が、ぶっちゃけた…
「…五井は、昔から金がある…金を持っている…だから、金持ちの集まり…」
「…」
「…そして、一般人より、むしろ、金のある人間の方が、余計に金に執着する…より、金が欲しくなる…権力が欲しくなる…」
「…」
「…だから、五井家の歴史は、闘争の歴史…五井家内部の争いの歴史でもあります…」
諏訪野伸明が説明する…
そう言われれば、伸明の言うことは、よくわかった…
なまじ、一般の金のない人間は、意外に、金に執着しないものだ…
真逆に、金のある人間の方が、金に執着すると言われている…
評論家の森永卓郎が以前、どこかで、書いていたが、100億円以上の資産がある、お金持ちを知っているが、そのお金持ちは、銀行残高が、1円でも、少なくなると、パニックになると言っていた…
100億円以上の資産を持っていても、1円でも、残高が減ると、パニックになる…
冗談だか、本気だか、わからないが、本気なのだろう…
誰もが、資産、100億円を超えることは、通常ありえないが、それほどの資産を持つと、常人と、精神が、異なるというか…
正常ではいられないのかもしれない…
そう、考えると、納得できる…
金持ちは、金持ちに憧れる…
自分以上の金持ちに憧れる…
おそらく、誰よりも、金の力を知り尽くしているからだ…
だから、五井家でも、同じことが起きる…
五井東家というのが、五井家内部で、どのような立ち位置であるかは、わからないが、当然のことながら、五井家当主ではない…
五井家代表ではない…
五井家の傍流の分家に過ぎない…
当主ではないから、当主になりたいに違いない…
ひどく当たり前のことだった…
そして、今、諏訪野伸明が言った、
「…そして、一般人より、むしろ、金のある人間の方が、余計に金に執着する…より、金が欲しくなる…権力が欲しくなる…」
この言葉が、諏訪野建造が、実子でない伸明を、後継者に指名した理由だと、気付いた…
伸明は、
権力に執着しない…
金に執着しない…
真逆に、建造の実子である、秀樹は、
権力に執着する…
金に執着する…
人間だった…
そして、当たり前だが、権力=金に執着する人間は、無用に敵を作る…
自分自身が、権力や金に執着するあまり、少しでも、自分の権力や金を侵そうとする者が、現れた場合は、積極的に排除しようと思うからだ…
ケンカではないが、相手が、自分に、敵意がなくても、一方的に、ケンカを売る…
ケンカを売られた相手はわけがわからない…
自分に、ケンカを仕掛けてきた相手に、自分が、なにかしたわけではないからだ…
なにもしていないのに、一方的にケンカを売る…
理由はただ一つ…
今、ケンカを仕掛けておかなければ、いずれ自分が、そいつに、ケンカを仕掛けられて、やられてしまうかもしれないからだ…
やられる前にやる…
その理屈だ…
おそらく、諏訪野建造は、実子の秀樹が、そのような人間だと見抜いていたに違いない…
だから、血が繋がってない、長男の伸明を後継者にしようとした…
伸明は、欲がない…
それは、おそらく、自分が、建造と血が繋がってない負い目から、きているのかもしれない…
本来、あり得ない立場に自分がいる…
その負い目かもしれない…
が、
本当のことはわからない…
欲望は、ひとそれぞれ…
容姿が平凡で、能力が平凡でも、上昇志向だけ強い人間は、世の中に、ごまんといるからだ…
だから、本当は、伸明の生まれた環境もなにも関係ないのかもしれない…
よく世間では、環境が人間を作るという…
それは、否定しないが、さりとて、全員に、それが当てはまるわけではない…
同じ環境で、育てば、同じような、性格になるわけではない…
同じ環境で、育った兄弟姉妹が、皆、性格が似ているわけではないことを、考えれば、誰もが納得がいく…
仮に、子供時代から、身近に、美人や、イケメンの幼馴染(おさななじみ)や、従妹が、いたとしても、それに、憧れる人間と、憧れない人間がいる…
それと、同じだ…
いかに、身近にいても、好みは、ひとそれぞれ…
単純に、美人やイケメンでも、コイツは、嫌いとか、タイプじゃないとかは、誰でもある…
つまり、いかに、同じ環境に育とうと、兄弟でも、性格が違う…
だから、必ずしも、環境が、人間を作るわけではない…
ただ、貧乏だったり、真逆に、金持ちだったりした場合は、どうしても、金銭感覚が、周囲の者と、異なるだろう…
千円、一万円の感覚が、異なるのだろう…
極端な話、千円を、一万円の価値ぐらいに、考えるか、真逆に、一万円を、千円の価値ぐらいに考えるか、だ…
また、ルックスも同じ…
美人やイケメンに生まれれば、それだけで、周囲から、ちやほやされる…
その反動で、周囲の同性から、妬まれる可能性が高い…
そういったとき、どうすれば、よいか?
生まれつきの美人や、イケメンは、経験から、学んでゆく…
つまりは、経験値を積んでゆくことに他ならない…
好きでもない異性から、告白された場合、どうすれば、相手に恨まれないで、すむか?
そんな経験を積んでゆく…
それが、環境が、人間を作るということだ…
たとえば、小説や漫画でよくあるのが、美人と、平凡な容姿の女が、中身が入れ替わる設定…
事実、これがあった場合、困るのは、文字通り、環境が変わること…
美人が、平凡な容姿の女に入れ替わった場合は、周囲の人間に、ちやほやされなくなる…
変な話、美人であることで、周囲から、優遇されていた特権がなくなる…
特権といえば、おおげさだが、周囲の男たちから、優しくされたり、ちやほやされたりされなくなる…
これが、本人には、痛いに違いない…
真逆に、平凡な容姿の女が美人になった場合は、周囲の扱いが、特別になったことで、戸惑うに違いない…
突然、周囲の男たちが、自分をちやほやし出す…
突然、大勢の男たちから、
「…ボクと付き合って、下さい…」
と、告白される…
すると、どうしていいか、わからない…
今まで、そんな経験がないからだ…
経験を積んでないからだ…
漫画、小説では、そのときの対応が、面白く、はっきりいって、笑える…
ゆえに、昔から多くの題材に使われてるのだ…
つまり、それが、環境が人間を作るという、誰もが身近に知っている実例だ…
ただし、美人もイケメンも、ことルックスに至っては、ある程度の年齢と共に、その神通力は、消える…
若さがなくなると共に、きれいに、消え去る…
それは、まるで、魔法…
魔法使いが、魔法が使えなくなるのと、同じく、若さという魔法が、消えると、美人や、イケメンといった魔法も消える…
美人もイケメンも、若さがあってのものだからだ…
一般人なら、せいぜい、四十歳ぐらいまでが、限度だろう…
その年齢を超えて、ちやほやされることは、まずない…
私に限っていえば、まだ32歳だから、ちやほやされる…
が、どんなに頑張っても、せいぜい十年程度だろう…
だが、私の場合は、病気で、その前に命が尽きる…
それが、いいのか、悪いのか、わからないが、それが現実だ…
私は、思った…
結局、諏訪野伸明は、その後、まもなく帰った…
さすがに、病人相手に、長々と身の上話をしてはいられないということだ…
誰もが、常識のある人間ならば、同じ対応をするだろう…
ただ、諏訪野伸明の帰った後、私は、当たり前だが、この病院の理事長、菊池冬馬に興味を持った…
…一体、どんな、ルックスを持った男なのだろう?…
…一体、どんな、性格を持った男なのだろう?
考えた…
が、
以外にも、ルックスは、すぐにわかった…
病室に、当病院の理事長の言葉と、写真が貼ってあった(笑)…
五井記念病院、理事長、菊池冬馬…
さっきまで、この病室にいた、諏訪野伸明と、なんとなく似たルックスの長身のイケメンだった…
ただ、諏訪野伸明もよりも、十歳ぐらい、若い…
ちょうど、私の担当の長谷川センセイと同じくらいの年齢…
しかし、諏訪野伸明と決定的に違うのは、目だった…
目に険があるといえば、言い過ぎかもしれないが、目がきつい…
穏やかな諏訪野伸明とは、真逆…
相容れない…
これは、諏訪野伸明が、この菊池冬馬が、五井家で反乱を企てていると、言ったから、だけではない…
…さもありなん…
そう思えるほど、目力が強い…
これは、別に褒めているわけではない…
目力=野心が強い…
負けん気が強いと、思うのだ…
目は口程に物を言うというが、目を見れば、その人間が、どんな人間がわかる場合が、大半といえば、おおげさだが、多くは、当てはまる…
この写真を見て、この菊池冬馬と呼ぶ人間が、気が弱いとは、誰もが、思うまい…
むしろ、真逆の負けず嫌い…
諏訪野伸明は、冬馬は、悪いヤツではないと、言っていたが、この写真を見る限り、眉唾ものだ…
この写真を見る限り、上昇志向の塊に見える…
いかにも、五井分家の出身ながら、本家を超えたい…
あるいは、本家を乗っ取りたいと考える、野心家に見える…
これは、私が、諏訪野伸明から、菊池冬馬の野心を聞いたからだけでは、あるまい…
いずれにしろ、この写真の菊池冬馬の実物と会うのは、遠い先ではあるまい…
私は、思った…
なにしろ、この病院の理事長なのだ…
今、私が、この写真を見ている、この時点で、同じ病院にいる可能性が高い…
同じ建物にいる可能性が高い…
私が、歩ければ、歩いて、理事長室にいけば、会える可能性が高い…
が、
ということは、どうだ?
私、寿綾乃の命は、その菊池冬馬に握られてる可能性がある?
いや、命を握られてるといえば、大げさだは、私の病状が、手に取るように、わかるに違いない…
これは、大きい…
私にとっては、ハンディ…
大きなハンディだ…
仮に、対立した場合は、自分の病状を手に取るようにわかる立場の人間と、戦うことは、できない…
これは、考えれば、誰でもわかることだ…
私は、自分の部屋に貼ってある、五井記念病院理事長、菊池冬馬と書かれた写真を見て、思った…
しかし、わざわざ、理事長の写真を病室に飾ってあるなんて…
私は、考える…
たしかに、長身のイケメンだから、写真うつりがいい…
まるで、モデルのようだ…
なにより、若い…
この五井記念病院という、世間に知られた立派な歴史がある、病院と、真逆…
五井という権威のある名前と真逆だ…
それゆえ、わざと、この写真を病室に飾ってあるのかと、訝(いぶか)しむ…
ゲスの勘繰りではないが、裏読みしてしまう…
著名で歴史がある…
裏を返せば、ほこり臭く、古めかしい…
そんなイメージがある…
それを払しょくするため、わざと、若く、長身のイケメンの菊池冬馬の写真を載せている…
そう、邪推してしまう…
モデルのような菊池冬馬の写真を、部屋に飾ることで、イメージ一新できるからだ…
それを考えると、今さらながら、ルックスの力は大きいと、思ってしまう…
どんな人間か、さっぱりわからないが、長身のイケメンが、大病院の理事長をしているだけで、大きな宣伝になるからだ…
男女ともに、ルックスがいいだけで、大きな力になる…
今さらながら、そんな世間の現実を思った…
それから、まもなくだった…
私の担当の佐藤ナナが、病室に検診にやって来たときに、漏らした…
「…寿さんのこと…今、この病院で、噂になってるんですよ…」
「…噂? どういう?…」
思いがけないことだった…
「…だって、五井記念病院で、五井家の諏訪野伸明さんが、見舞いにやって来たでしょ? …それに、あの藤原ナオキさんも…二人とも、有名人だし…」
「…有名人?…」
「…世間一般では、諏訪野伸明さんは、有名人じゃないかもしれませんが、この病院では別です…」
「…別?…」
「…だって、五井記念病院じゃないですか? 諏訪野さんは、その本家の方ですし…」
佐藤ナナが、屈託なく笑う…
「…なにより、寿さんが、入院して、諏訪野さんと、この病院の理事長が、二人して、この病室にやって来たことは、この病院中で、話題になりました…」
…なるほど…
…そういうことか?…
私は、納得した…
たしかに、この佐藤ナナの言う通り、病院の理事長と、あの五井家当主である、諏訪野伸明が、連れ立って、この病室にやって来れば、この病院で、話題になるに決まっている…
…一体、この病室には、どんな人間が、入院しているのか?…
話題になるに決まっている…
一体、どんな大物が?
政界の大物か?
あるいは、
財界の大物か?
話題になるに、決まっている…
しかしながら、その正体が、私では?
寿綾乃では、些か、興ざめするというか…
ガッカリするに違いない(笑)…
なにしろ、平凡人だ…
平凡の極み…
それを思うと、
「…それは、この病院の方たちに、ガッカリさせて、申し訳ない…」
と、自然と、言葉が口を突いて出た…
が、
即座に、佐藤ナナが、反論した…
「…申し訳ないなんて、とんでもない!…」
佐藤ナナが、声のトーンを上げて、反論した…
「…その前には、テレビで、キャスターも務める、藤原ナオキさんの見舞いにやって来たでしょ? それもあって、今や、この五井記念病院では、寿さんは、ダントツの有名人ですよ…」
「…有名人って?…」
あまりにも、意外な言葉だった…
「…だって、理事長自ら、病室にやって来て、病人の見舞いをすることなんて、滅多にありませんよ…さらに、五井家の諏訪野さんや、キャスターで、経営者の藤原さんが、やって来るなんて…有名にならないわけ、ないじゃないですか?…」
言われてみれば、その通り…
まさに、その通りだった…
「…だから、私なんて、プレッシャーが、半端なくて…」
佐藤ナナが、愚痴る…
「…プレッシャー?…」
「…だって、そんな、病院中で、注目される、寿さんの担当なんですよ…」
佐藤ナナが、声のトーンを一段と上げた…
「…プレッシャーは、半端ないですよ…誰が、その病室の担当だって、まずは、聞きますからね…」
言われてみれば、その通り…
佐藤ナナの言う通り、だった…
「…そう…そんなにプレッシャーを、かけて、ごめんなさい…でも、もし、辛いようなら、諏訪野伸明さんに言って、担当を替えてもらっても、構いませんよ…」
私が、言うと、佐藤ナナの顔色が変わった…
「…とんでもない!…」
「…エッ?…」
「…替えてもらっちゃ、困ります…」
「…困る? …でも、プレッシャーがあるって?…」
「…それはあります…でも、こんなチャンス、滅多にありません…」
「…チャンス?…」
「…だって、五井家の諏訪野伸明さんや、キャスターの藤原ナオキさんと、知り会うチャンスが、できたんですよ…もしかしたら、すごいお金持ちを紹介してもらえるかもしれないじゃないですか?…」
「…お金持ちって?…」
私は、彼女の言い分に、呆れた…
まさか、そんな可愛い顔をしていて、こんなことを口にするなんて、思わなかった…
「…佐藤さん?…」
「…ハイ? なんですか?…」
「…佐藤さん…そんなに美人で、可愛らしいのに、凄いことを言うのね…」
「…当たり前じゃないですか?…」
佐藤ナナが、今度は、怒った…
「…こんなチャンス、滅多にないですよ…きっと、私の生涯で、もしかしたら、これ以上のチャンスはないかも…」
私は、彼女の言い分に、目を丸くした…
しかし、これこそが、若さかもしれない…
私は、思った…
たしかに、もしかしたら、この佐藤ナナの言うように、諏訪野伸明や、藤原ナオキを介して、誰か、お金持ちの友人を紹介してもらえる可能性はゼロではない…
だが、それを口にするのは、若さ…
そして、おそらく、百万に一つもない、可能性を信じるのも、また、若さだった…
ちょうど、それは、宝くじで、一億円を当てるようなもの…
つまりは、奇跡のようなものだからだ…
私は、彼女の若さを羨ましく思うと共に、愚かだとも、思った…
そんなこと、あるわけないからだ…
しかし、絶対にないわけではない…
なぜなら、彼女の美貌と、性格は、標準以上…
仮に、そんなお金持ちと知り会えば、もしかしたら、彼女を気に入る人間が、出てくるかもしれない…
その可能性は、ゼロではない…
それは、頭が悪く、ルックスも、人並みで、性格が悪い人間が、妄想を口にしているのとは、わけが違う…
それは、妄想…
間違いなく、妄想だからだ…
妄想=可能性は、ゼロだからだ…
平凡な社会にいても、そのような人間は、誰もが伴侶に恵まれない…
あるいは、巡り会っても、似た者同士…
社会で、陰口を叩かれるもの同士だからだ…
それを、思えば、佐藤ナナの夢は、実現可能な夢だった…
あるいは、手が届くかもしれない夢だった…
私は、この佐藤ナナを見ながら、そんなことを、思った…
菊池リンに似た、彼女を見ながら、そんなことを考えた…