第87話

文字数 6,842文字

 「…では、よろしくお願いします…」

 そう言って、私は、諏訪野昭子からの電話を切った…

 五井家当主、諏訪野伸明の母からの、電話を切った…

 そして、あらためて、考えた…

 今あった、昭子からの電話…

 この電話は、私にとって、喜ぶべきことだろうか?

 それとも…

 それとも、罠?

 なにか、罠がある?

 ふと、思った…

 伸明の母、昭子…

 紛れもなく、五井の女帝だ…

 悪い人間とは、思わない…

 しかしながら、ただの善人では、五井を仕切れない…

 ただの善人では、五井を支えられない…

 そういうことだ…

 考え過ぎ?

 それとも、

 裏を読みすぎ?…

 我ながら、バカげているというか、歳をとって、猜疑心が、強くなった(笑)…

 ついさっきまでは、歳をとって、大胆になった…

 恐れが、なくなったと言いながら、今度は、まるで、真逆のことを言う…

 自分でも、自分の考えに笑ってしまう…

 しかし、それが、真実だった…

 なにしろ、相手は、あの昭子だ…

 要するに、電話があった人物の正体を知って、考えを変えたというか(笑)…

 一気に、慎重になった…

 たしかに、昭子から電話があり、伸明の家に招かれるのは、悪いことではない…

 むしろ、渡りに船というか、好都合…

 たとえ、伸明に会えずとも、昭子に会えることができる…

 だから、そこで、ナオキのことを、昭子に頼めば、いい…

 もちろん、昭子に頼んだところで、どうなるかはわからない…

 なにもないかもしれない…

 が、

 なにもしないよりもいい…

 現実問題、私は、すでに、伸明とは、切れている…

 すでに、なんの関係もない…

 だから、今後二度と、五井家の人間と会う可能性は低い…

 だから、もしかしたら、これが、ラスト・チャンスかもしれない…

 私は、思った…

 そんなことは、考えたくないが、ひとは、基本、職場や、学校など、同じ場所や集団にいるから、交流する…

 コミュニケーションを取る…

 だから、会社でも、学校でも、やめてしまえば、基本、交流が途絶える…

 すでに、同じ場所の集団ではなくなってしまったので、無理に、交流しようとは、思わないからだ…

 あくまで、同じ集団にいるから、交流しようとする…

 だから、それがなくなれば、交流が途絶える…

 それを思えば、諏訪野マミもまた同じかもしれない…

 すでに、私は今、伸明との縁は切れた…
 
 だから、言葉は悪いが、私に利用価値はない…

 あくまで、伸明と交際していたから、諏訪野マミもまた、私と交流した…

 それが、なくなった今、すでに、マミにとって、私は、用済み…

 だから、今さら、マミに連絡して、諏訪野伸明と会いたいといっても、マミは、私を相手にしないかもしれない…

 私は、マミと仲が良かった…

 ウマが合った…

 が、

 それでも、それが、真実かもしれない…

 残念ながら、現実かもしれない…

 いや、

 それを、いえば、伸明もまた同じ可能性がある…

 すでに、なんの利用価値のない、私、寿綾乃に会ったところで、用はない…

 だから、そんな私が、伸明にあって、ナオキのことを、頼むといっても、相手にしない可能性の方が、高い…

 これは、なにも、諏訪野マミや、諏訪野伸明のことを、悪く言っているわけではない…

 世の大半のひとが、そうだからだ…

 かくいう私も例外ではない…

 以前は、世話になった人間でも、今は、なんの関係もない…

 そんな人間から、突然、連絡が来て、今度会えない? と、言われても、拒否することは、多い…

 そもそも、相手の気持ちがわからないからだ…

 何年も、連絡がなかった人間から、いきなり、連絡が来て、今度会えない? と、言われても、なにか下心があるのでは? と、感じてしまう…

 例えば、お金を貸してとか?

 ありきたりだが、そう言った場合が、多いのではないか?

 つい、そう考えてしまう…

 私が、歳をとったせいで、余計に警戒心が強くなったせいもあるかもしれない…

 また歳を取れば、誰でも、若い時に比べて、少しは、頭が良くなる…

 若い時に、考えなかったことを、少しは、考えるようになる…

 そういうことだ(笑)…

 そして、この場合は、警戒心が、強くなる…

 ずっと、何年も会わなかった人間から、連絡がきて、

 …なんで、今さら?…

 と、首をひねるからだ…

 いささか、話がはずれたが、とにかく、今の私になんの利用価値もない…

 それが、現実だった…

 今さらながら、そんな現実に気付いた…

 が、

 だとしたら、なぜ、昭子は、私に会いたいのだろうか?

 やはり、私を利用したことに、一言、詫びたいのだろうか?

 私に、お礼を言いたいのだろうか?

 考えた…


 その夜、マンションに帰って来たナオキに、聞いた…

 ナオキの意見を聞きたかったのだ…

 「…実は、今日、諏訪野伸明さんの母の昭子さんから電話があったの?…」

 私は、ナオキに言った…

 が、

 ナオキは、どこか、上の空というか…

 なにか、別のことを考えている…

 なにか、別のことに、心を奪われている様子だった…

 だから、

 「…どうしたの? …ナオキ?…」

 と、聞いた…

 ナオキの意見を聞きたかったが、逆になってしまった…

 いつものことだった(笑)…

 ナオキは、私の顔を見ると、一瞬、躊躇ったが、観念したように、

 「…ユリコ…ユリコのことだ…」

 と、苦しそうに呟いた…

 見るからに、しんどそうだった…

 「…ユリコさんが、どうかしたの?…」

 「…五井造船…」

 いきなり、言った…

 「…五井造船?…」

 ナオキの言葉を繰り返しながら、以前、冬馬が言っていたことを、思い出した…

 冬馬は、ユリコが、今、五井造船の株を買い占めたと、言っていた…

 その上で、五井にその購入価格の3倍で、買い取れと、要求していると、言っていた…

 そして、それができなければ、中国の企業に、その株を売り渡すと脅したと言っていた…

 私は、今、それを思い出した…

 「…今日、諏訪野さんから、電話があった…」

 「…諏訪野さんから?…」

 「…なんとかしてほしいって、電話口で、頼み込まれた…諏訪野さんが、言うには、ユリコが、五井造船の株を買い占めて、市場価格の3倍で、買い取れと、五井に要求しているそうじゃないか? …諏訪野さんも、誰から聞いたか、知らないが、ユリコが、ボクと以前、結婚していたのを、知ったらしい…」

 「…それで…」

 言いながら、昭子の目的がわかった…

 きっと、私にユリコを説得させるつもりだ…

 そう、気付いた…

 「…まさか…ユリコが…」

 そう言って、ナオキがため息をついた…

 「…五井造船の株を買い占めているとは…」

 私は、ナオキの言葉を聞きながら、まだ、この件が、世間に公表されてない事実に、気付いた…

 私自身、冬馬にこの件を教えられたときは、絶句して、驚いたが、その冬馬自身の自殺もあり、すっかり、忘れていた…

 冬馬の自殺のショックが、大き過ぎた…

 まさか、あの後、冬馬が、自殺するとは、思わなかったから、すっかり、その件に対して、忘れていた…

 もちろん、私が、その件を知っても、私自身が、どうにか、できることは、ありえない…

 だが、諏訪野伸明は、ともかく、ナオキには、知らせなければ、ならなかった…

 ユリコは、ナオキの前妻…

 元の妻だ…

 だから、戸籍上は、他人だが、ナオキと同じビジネスの世界に生きている…

 ユリコは、投資ファンドの代表だった…

 だから、どうしても、関りができるというか…

 ナオキは、独立系の会社の創業社長…

 ユリコは、投資ファンドの代表だった…

 一見、なんのつながりもないように見えるが、やはりというか、互いに事業を続ける上で、知った方が良い情報を手にすることができる…

 だから、会社は、別でも、互いにお互いの情勢を語るというか、意見交換をするのは、有益だった…

 だから、私が、冬馬から、ユリコが、五井造船の株を買い占めた情報を得た時点で、ナオキに教えるのが、本当だった…

 が、

 すっかり、忘れていた…

 これは、私のミス…

 普段なら、ありえない私のミスだった…

 悔やんでも、悔やみきれない…

 と、同時に、今さらながら、自分の体調を思った…

 自分自身の体調を思った…

 癌のせいか、自分の感覚が、鈍っている…

 明らかに、鈍感になっている…

 普段は、できたことができない…

 おそらく、それどころではないからだ…

 カラダの激痛はないが、なんとなく、体調が、悪い…

 だから、それに気を取られて、普段、考えつくことを、考えつくことが、できない…

 普段、思いつくことを、思いつくことができない…

 これが、野生の獣か、なにか、だったら、例えば、嗅覚が、鈍くなったようなもの…

 病気のせいで、嗅覚が鈍くなり、近くに潜んだ敵の匂いに気付かない…

 その結果、簡単に敵に襲われてしまうだろう…

 その結果、あっけなく死んでしまうだろう…

 私は、思った…

 そして、それは、恐怖だった…

 これまで、感じたことのない恐怖だった…

 私は、これまで、大げさに、いえば、自分だけを頼りに生きてきた…

 周囲の人間は、私をどう見るか、わからないが、私自身は、私自身の才覚で、人生を生きてきた…

 そのつもりだ…

 思えば、野生の動物に例えれば、自分だけの力で、獲物を狩って、生きてきた…

 が、

 今さらでは、あるが、それが、今できないことがわかった…

 その能力が、自分自身、気付かないまま、衰えていることがわかった…

 これは、恐怖…

 恐怖以外の何物でもない…

 自分自身が、つい最近まで、出来ていたことが、できなくなった…

 しかも、

 しかも、自分自身が、その現実に気付かなかった…

 これでは、困る…

 自分の能力の衰えに、自分が、気付かない…

 これでは、困る…

 これでは、最悪、自分が、どうなってしまうのか、わからない…

 これでは、まるで、歳をとって、若干痴呆症になったようなもの…

 周囲の者は、気付いていても、自分自身が、痴呆症になりかかっている現状に、気付かないようなものだからだ…

 そう、考えると、顔面が、蒼白になった…

 自分でも、自分の顔から血の気が、引くのがわかった…

 そして、その様子を目の当たりにした、ナオキが、驚いた…

 「…どうしたの? …綾乃さん?…」

 私は、ナオキの問いに、すぐに、答えることが、できなかった…

 ワナワナと、唇が震えた…

 唇が、震えるだけで、うまく言葉を口にすることができなかった…

 それほど、ショックだった…

 「…どうしたの?…」

 ナオキが、私の様子を間近に見て、心配そうに、聞いた…

 「…ナオキ…私…」

 うまく、言葉にできなかった…

 「…私…なに?…」

 「…衰えてきている…」

 「…衰えて? …どういう意味?…」

 「…ユリコさんのこと?…」

 「…ユリコのこと?…」

 「…今、ナオキが、私に言った、ユリコさんが、五井造船の株を買い占めた件…それは、すでに、私、知っていた…」

 「…知っていた? …綾乃さんが?…どうして、知ってたの?…」

 「…冬馬…先日、自殺した菊池冬馬から、最近聞いて知っていた…」

 「…」

 「…でも、それを、ナオキ…アナタに教えなかった…」

 「…別に、ボクに教えなくても…」

 「…いいえ、そうじゃない…」

 「…そうじゃない…なにが、そうじゃないの?…」

 「…いつもの私なら、ナオキに教えていた…」

 「…」

 「…例え、ナオキに直接関係のないことでも、ナオキに、伝えた方が、いいと、判断したことなら、伝えていた…なにしろ、ユリコさんのことだから、当然、伝えていた…」

 「…」

 「…だから、自分でも知らず知らずの間に、衰えてきている…」

 「…衰えてきている?…なにが、衰えてきているの?…」

 「…記憶力ももちろんだけど、勘よ…」

 「…勘?…」

 「…誰になにを伝えたら、いいか、瞬時に判断できたし、それが、私の武器だった…それが、なくなった…」

 私の言葉に、ナオキは、

 「…考え過ぎだよ…」

 と、笑った…

 「…いいえ、考え過ぎじゃない!…」

 私は、語気を強めた…

 「…病気のせいよ…」

 「…病気のせい?…」

 「…自分でも、知らず知らずの間に、鈍くなってきている…」

 「…」

 「…以前なら、とっさに、思いついたことが、思いつかない…」

 「…」

 「…カラダの痛みは、あまりない…けど…」

 「…けど? …なに?…」

 「…だから、余計に、自分の衰えが、気付かなかった…」

 「…」

 「…今日、昼間、昭子さんから、電話があったの…」

 「…昭子さん?…」

 「…伸明さん…諏訪野伸明さんの母親よ…」

 「…」

 「…きっと、以前の私なら、昭子さんの電話が、あった時点で、ユリコさんのことだと、察しがついた…」

 「…」

 「…でも、わからなかった…ナオキ、アナタが、帰って来て、今日の昼間、昭子さんから、電話があって、これをどう思う? って、アナタに聞きたかった…」

 「…」

 「…それが、アナタが、ユリコさんの話をするから、なぜ、昭子さんが、私に、電話をかけてきたのか、今さらながら、気付いた…」

 私の言葉を聞いた後、少し間を置いて、

 「…考え過ぎだよ…」

 と、ナオキが、私を慰めた…

 「…たまたま、言い忘れただけだろ? …誰にでも、あることさ…」

 「…それは、違う!…」

 私は、ムキになって、反論した…

 「…病気のせいよ…」

 私は、ムキになって、反論を続けた…

 「…病気のせい…」

 言いながら、涙が、頬を伝うのが、わかった…

 「…どうしたの? …綾乃さん?…」

 ナオキが、心配して、私に声をかけた…

 「…ナオキ…私、アナタの役に立てない…」

 言いながら、涙が溢れ出た…

 「…このままじゃ、アナタの役に立てない…」

 「…なにを言ってるの? …綾乃さん…十分役に立っている…」

 「…ううん…役に立ってない!…」

 「…そんなことはないよ…」

 「…いえ、そんなことはある…現に…」

 「…現になに?…」

 「…今日、昭子さんから、電話があった後、私がなにを考えたか、わかる?…」

 「…わからない…」

 「…ナオキ…アナタのことを、頼みたかったの…」

 「…ボクのこと?…」

 ナオキが、驚いた…

 「…なに、それ?…」

 「…五井にアナタの後ろ盾になってもらいたかったの?…」

 「…どういう意味?…」

 「…五井グループが、ナオキの後ろ盾につけば、鬼に金棒…」

 「…」

 「…FK興産は、たかだか、従業員は、千人程度…今は、いいけど、将来的には、厳しいかもしれない…とりわけ、資金繰り…」

 「…」

 「…でも、五井が、バックにつけば、それも安心…だから、今日、昭子さんに、自宅に遊びに来ないかと誘われたとき、チャンスだと思った…」

 「…チャンス?…」

 「…五井にナオキの後ろ盾になって、もらうよう、頼むチャンス…」

 私の言葉を聞くと、ナオキが、絶句した…

 それから、いきなり、私に頭を下げた…

 「…申し訳ない…綾乃さんに、そんな心配をさせて…」

 「…なにを言っているの? …ナオキ…アナタがいたから、私は、今、こんな億ションに住めた…アナタがいなければ、私は、今頃、どこかで、派遣社員でもして、食いつないでいた…」

 「…」

 「…アナタは、私の恩人…その恩人のために、なにができるか、考えるのは、当たり前…」

 「…」

 「…そして、たぶん、これが、私にできる最後のこと…」

 「…どういう意味?…」

 「…時間…もう、時間があまり残されてないような気がするの…」

 「…」

 「…いえ、まだ今すぐ、どうのこうの言っているわけじゃないの…ただ、今回の一件で、わかったように、私の能力が、だいぶ衰えてきている…だから、この先、私が、ナオキ…アナタの力になれることがなくなる気がして…」

 「…バカな…考え過ぎだよ…」

 「…いえ、考え過ぎじゃない!…」

 私は、強く言った…

 「…事実よ…」

 私が、言葉に力を込めると、ナオキが、動揺した…

 明らかに、当惑した…

 「…綾乃さん…そんなことを、言っちゃ困る…」

 ナオキが、力なく、呟いた…

 「…綾乃さん、あってのボクだ…綾乃さんが、いたから、ボクは成功した…」

 「…」

 「…それが、突然、そんなことを…」

 「…」

 「…いきなり、綾乃さんが、いなくなったら、ボクは、どうすればいいの?…」

 ナオキが、落ち込んだ…

 これは、予想外…

 まったくの予想外だった…

 まさか、ナオキが、ここまで、落ち込むとは、思えなかった…

 まったく、今泣いているのは、私なのに…

 大の男がここまで、落ち込むなんて…

 そんなナオキの姿を見たら、いつのまにか、涙が止まった…

 …バカな男…

 そして、なにより、愛すべき男…

 私は、この頼りない、藤原ナオキの姿を目の前にして、あらためて、自分が生きている間に、やることを、考えた…

 生きている間に、ナオキになにが、できるか、考えた…

 それが、寿綾乃の人生であり、おそらく、それが、自分にしか、できないことだった…

                

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