第1話
文字数 11,435文字
…生き残ってしまった…
そんな忸怩(じくじ)たる思いがある…
私、寿綾乃、32歳…
今さらだが、自分が生き残ったのが、理解できない…
交通事故で、ジュン君の運転するクルマに轢かれる…
それが、私の残っている記憶のすべてだった…
だが、
気が付くと、ベッドの上だった…
しかも、すでに、2か月経っているという…
それまでは、いわゆる、意識不明の状態だった…
白雪姫ではないが、ずっと眠り続けている状態…
目が覚めて、それを知らされると、真っ先に、羞恥の感情が、湧いた…
医師とはいえ、見ず知らずの人間に、自分の裸を見られた…
それが、恥ずかしいのではない…
むしろ、十代の頃に比べると、大胆になったというか、図々しくなった…
だから、裸が見られたのが、恥ずかしいのではなく、どうせ、見られるのなら、もっと、若くキレイなときの裸を見てもらいたかった…
それが、本音だった…
我ながら、複雑…
女心は、複雑だった(苦笑)…
いや、
三十路の女心は、と、付け足すべきか?
そんな意地悪な気持ちになる…
この年齢だ…
どうしても、年齢に敏感になる…
とにかく、目が覚めると、世界が一変したというと、大げさだが、明らかに変わっていた…
なにより、私は、末期がん…
余命いくばくもない状態だと、医師に告げられていた…
それで、半ば、自暴自棄になっていた…
それが…
「…癌(がん)…たしかに、見つかりましたが、末期というほどでは…」
長身のイケメンの医師が、言った…
こんなときにもかかわらず、つい、相手を値踏みする…
私が白雪姫ならば、この医師は、さしずめ、王子様か(笑)…
王子様のくちづけで、私は、目覚めた…
そう、考えると、面白い…
「…先生…ご結婚は? …今、付き合ってる、彼女はいるんですか?…」
と、まるで、女子高生や女子大生のように、聞きたくなる…
我ながら、図々しいと言うか…
自分の置かれた状況が、まるで、わかってない(苦笑)…
いや、
自分の置かれた状況は、十二分にわかっているのだが、つい、聞きたくなってしまうのだ…
それよりも、
「…癌(がん)…たしかに、見つかりましたが、末期というほどでは…」
の言葉の方が、重要だった…
なぜなら、それは、私は生きれること…
この先、何年も生きれることに、他ならないからだ…
「…それは、誤診ということですか?…」
遠慮なく聞いた…
歳のせいか、遠慮もなにも、あったものじゃない…
忖度(そんたく)もなにも、あったものじゃない…
いや、
そうではない…
なにより、自分の生死がかかっているのだ…
図々しくなっても、少しも恥ずかしいことじゃない…
私の質問に、
「…誤診というのは、ちょっと、私の立場からは…ただ、癌(がん)で、あることは、間違いないです…ただ、末期ではない…だから、こう言っては、語弊がありますが、今すぐ、死ぬとか、そういうのではない…そこまで、悪化していない…」
「…だったら、希望を持っていいのですね?…」
私は、確認した…
しかし、その返答は、
「…」
と、沈黙だった…
つまりは、今すぐ、どうのこうの命に別状はないが、あと何年生きれるか、わからない…
そういうことだろう…
この目の前のイケメンの医師の言外の言葉だった…
私は、それを悟った…
そんな私の気持ちを察したように、
「…今は、いい薬がありますから…」
と、精一杯、私を励ますように、呟いた…
ウソをつけない性格なのだろう…
私は、思った…
医師は、ウソをつけなければ、ならない職業…
死にたくない病人に、
「…アナタは大丈夫…」
と、励まさなければ、ならない職業だ…
ウソも方便…
しかし、目の前のこのイケメンの医師は、それができないのだろう…
イケメンで、誠実…
ウソがつけない…
人間としては、立派だが、医師としては、どうなのだろう?…
私は、思った…
だから、私は、
「…先生…セカンド・オピニオンって、大切ですね…」
と、言った…
私の言葉に、イケメンの医師は戸惑った…
辛うじて、
「…いろいろな人に、意見を聞くのは、良いことです…」
と、だけ言った…
私は、その焦った表情が、面白く、
「…いえ、先生のようなイケメンに出会えるのなら、もっと、早く先生に診てもらうべきでした…」
と、言った…
病院のベッドに寝ている病人が、言うセリフではない…
だが、この戸惑ったイケメンを見ると、つい、からかってみたくなった…
が、
このイケメンは、私の言葉に、反応しなかった…
「…藤原ナオキ氏が、寿さんが、意識を回復しない間にも、頻繁に、この病室にやって来られました…」
「…ナオキが?…」
つい、言ってしまった…
私が、
「…ナオキ…」
と、呼び捨てにしたことで、私とナオキの関係がバレた…
だから、これ以上、このイケメンの医師をからかうことはできない…
そう、肝に銘じた…
「…いえ、私も最初、藤原氏が、この病院にやって来られたときは、驚きました…なにしろ、著名な方ですし…おまけに、長身のイケメンです…」
「…」
「…藤原氏には、寿さんの、病状を説明しておきました…クルマにはねられたのは、軽傷ではありませんが、重症と呼ぶほどでも、ない…こういっては、なんですが、顔に傷は残りません…女のひとは、一番気になるところですが…特に、寿さんは、美人なので…」
私は、どう返答していいか、わからなかった…
だから、
「…」
と、返答しなかった…
「…クルマにはねられのだから、当然、カラダに傷は、残ります…しかし、失礼ながら、若い娘さんで、水着になるようなことが、ない限り、目立つものじゃ、ありません…」
私は、このイケメンの医師は、あらためて、患者に忖度(そんたく)は、できない性格な のだと、実感した…
たしかに、寿綾乃、32歳…
もはや、人前で、水着を着て、ビーチで楽しむ年齢ではない…
だが、あからさまに、それを指摘されると、誰もが、不機嫌になる…
そういうことだ(笑)…
たしかに、人前で、裸になるのは、夫や恋人や、子供か、はたまた、同性の友人ぐらいの間で、だろう…
しかし、夫や恋人は、異性…
しかも、まだ私は、独身…
結婚していない…
まだ、これから、初めて会った男の前で、裸になることもある…
でも、そのときに、カラダに大きな傷があるのでは、目も当てられない…
男のひとの気持ちも、一気に萎えるかもしれない…
一気に醒めて、現実に戻るかもしれない…
言葉は、悪いが、性欲は限定的なもの…
長期間、その状態を維持できない…
お互いに、気持ちを高めて、臨む…
ある意味、真剣勝負…
そんな状態は、日常生活では、極めて、少ない…
まして、私が、相手にするのは、おそらく30代以上の男…
セックス未体験の十代の男子なら、いざしらず、せっかく高めた気持ちも、私のカラダの傷を見て、一気に萎えるかもしれない…
ベッドに横になりながら、つい、そんなことを考えた…
我ながら、欲深い…
せっかく、命が助かったのだ…
この幸運に、感謝しなければ、ならない…
まして、末期がんと思われたものが、それほど、深刻な状態ではなかった…
今すぐ、どうこういう状態ではなかった…
これは、まるで、宝くじに当たったような、僥倖(ぎょうこう)だ…
奇跡といっていい…
しかし、その奇跡の力は、思ったよりも小さかった…
一億円の宝くじではなく、100万円の宝くじに当たったような感覚とでも、いえば、いいのかもしれない…
とりあえず、今すぐ死ぬことはないのかもしれないが、あと何年持つか、わからない…
そういうことだろう…
私は、思った…
と、そのときだった…
「…カラダの傷は…」
と、イケメンの医師が、いきなり言った…
「…もちろん、残りますが、決して、大きなものでは、ありません…無論、捉え方は、ひとそれぞれなので、なんともいえません…ボクは、女性ではないので、これをどう思うのか、難しい面はありますが…」
イケメンの医師が、必死になって、弁明する…
私は、イケメンの医師の必死な弁明に、思わず、
「…プッ!…」
と、吹き出した…
私の反応に、当然のことながら、
「…な、なにか、ボクが、おかしなことを、言いましたか?…」
イケメンの医師が、慌てた…
「…先生…そんなにムキになって、説明しなくても…クルマにはねられて、この病院に、運ばれたんです…無傷でいられるはずが、ないじゃないですか?…」
私の言葉に、
「…」
と、イケメンの医師は沈黙した…
「…カラダに傷は残って、当然…仕方がありません…」
私の言葉に、今度は、イケメンの医師が、
「…プッ!…」
と、吹き出した…
今度は、私が、慌てる番だった…
「…先生、私、なにか、おかしなことを言いました?…」
「…いえ、藤原さんが、おっしゃった通りだな、と…」
「…どういうことですか?…」
「…失礼ながら、寿さんは、強い女性だから、目が覚めれば、どんな困難にも、打ち勝てると…」
「…そんな…ひとを、怪獣か、なにかのように…」
呆れた…
さすがに、呆れた…
まさか、ナオキが、ひとのことを、そんなふうに、見ていたなんて…
「…でも、藤原さんが、そうおっしゃったのも、わかります…寿さんが、目が覚めて、意識が戻ってからの言動を見ると、わかります…」
「…どんなふうに、わかるんですか?…」
「…美人で、強い…こうして、少し会話をしても、それは、わかる…だから、ボクも遠慮なく、本当のことを、言って…」
そこまで、言って、話を止めた…
さすがに、言い過ぎだと思ったのかもしれない…
「…それに、美しい…」
付け足した…
「…そんな、先生、誉め言葉を並べても、なにも出てきませんよ…」
「…いえ、すでに、寿さんのカラダを見ました…これは、医師の役得かな…」
イケメンの医師が言う…
「…そんなこと…」
私は、呆気に取られた…
まさか、この誠実そうな、若き、イケメンの医師が、あからさまに、そんなことを、言うとは、思わなかった…
「…先生…おいくつですか?…」
つい、聞いてしまった…
「…32歳です…」
イケメンの医師が答える…
「…寿さんと、同い年ですね…」
私は、この言葉に、なんて、答えていいか、わからなかった…
ただ、同い年の男に、自分の裸を見られた…
果たして、このイケメンの医師は、私のカラダを見て、どう思ったのだろう?
年の割に、
若い?
それとも、
オバサン?
つい、考えてしまう…
女として、生まれると、ある時期から、誰もが、年齢にこだわる…
これは、女に生まれたもので、なければ、わからない…
自分もそうだが、会社の中で、男のひととの雑談で、例えば、
「…加藤さんは…」
と、言っただけで、
「…加藤さんは、私たちより、2歳、若いんですよ…」
と、会社の同僚の女性が、言ったのを、聞いたことがある…
それまで、雑談した男は、目を丸くしていた…
…誰も、そんなこと、聞いちゃいない!…
おそらく、そう言いたいのだろう…
だが、それが、女…
それこそが、女だ…
女の証明だ(笑)…
先天的に、年齢が気になる…
おそらくDNAに、刻まれているのだろう…
男は、誰もが、若い女を好む…
そう、DNAに刻まれているのだろう…
それは、おそらく、間違っては、いない…
だが、100%、正しくもない…
好みは、ひと、それぞれだからだ…
ただ、やはり、たとえば、10歳も違えば、大抵は、話が変わる…
でも、本当は、相手次第…
33歳の石原さとみと、平凡なルックスの二十歳の一般の女のコの、どっちを選べと、言われれば、ルックスだけなら、誰もが、石原さとみを選ぶ…
仮に、石原さとみが、無名の一般人としても、だ…
ただ、あくまで、ルックスだけ…
人柄や学歴を考慮すると、話は変わる(笑)…
話は若干逸れたが、誰もが、年齢が気になるという実例だ…
しかも、間が悪いというか…
このイケメンの医師が、私と、同年齢と、わかった…
だから、余計に、気になる…
同い年の女の裸を見て、どう感じたのか、気になる…
が、それを聞くことはできない…
たとえ、聞いても、誰もが、本当のことを、言うはずがないからだ…
だから、私は、黙った…
私、寿綾乃…
32歳…
つい、二か月前まで、FK興産という名前の、新興のIT企業で、社長秘書をしていた…
FK興産のFは、社長の藤原ナオキのF…
FK興産のKは、寿綾乃のK…
つまり、二人は、そういう関係だった…
結婚はしていないが、男女の関係…
社長の藤原ナオキは、やり手のIT企業の社長…しかも、テレビのキャスターを兼業していて、世間に知られている…
だから、さきほどの医師も藤原ナオキを知っていた…
だが、藤原ナオキは、離婚経験者…
40代前半の知的で、爽やかないメージの裏で、二十歳の息子のジュン君がいた…
そして、私は、ジュン君とも、何度か、男女の関係だった…
が、
問題は、そこではない…
ジュン君の母であり、藤原ナオキの別れた妻である、藤原ユリコ…
彼女の存在こそ、私の最大の脅威だった…
夫の藤原ナオキは、性に奔放と言うか、あっちの女、こっちの女に、手を出し、家庭を崩壊させた…
だが、藤原ユリコからすれば、家庭が崩壊した最大の原因は、私、寿綾乃との関係だと、見抜いている…
しかも、最愛の息子である、ジュン君も、私と、男女の関係だった…
憎んでも、憎み切れない、相手として、私は、彼女の標的にされた…
復讐の相手として、認知された…
その結果、私の正体が、彼女に暴かれ、私は、すべてを捨てて、FK興産を辞めることしか、選択肢がなくなった…
そして、FK興産を退職した帰り道に、ジュン君が、ハンドルを握る、クルマに私は、はねられた…
それが、これまでの経緯…
そして、末期がん…
ジュン君の運転するクルマにはねられて、すべてが、終わったと思った…
私、寿綾乃の虚飾にまみれた人生が、終わったと思った…
が、
そうでは、なかった…
まだ、続いていた…
ちょうど、クラシック音楽でいえば、
「…ジャジャ、ジャーン…」
という大音響と共に、音楽が終了したと思った…
芝居で言えば、カーテンが閉まり、終了…
誰もが、そう思っていた…
なにより、自分自身が、そう思っていた…
しかし、違った…
終わりではなかった…
続きがあった…
そういうことだ…
カーテンコールが鳴りやまず、再び、舞台の幕が上がった…
そういうことだろう…
癌では、あるが、まだ数年は、生きれる…
それは、ちょうど、カーテンコールで、役者が、再び舞台に立つようなもの…
歌手で言えば、アンコールで、数曲歌うようなもの…
あくまで、付け足し、だ…
サービスに他ならない…
つまり、それと同じように、寿綾乃の人生は、終わっていない…
まだ、続いている…
しかし、残りは、数年…
果たして、これは、笑っていいのか?
はたまた、泣いていいのか?
さっぱり、わからない…
ただ、わかるのは、私は、まだ、死んでいない…
生きているという事実だけだ…
私は、まだ、生きている…
それが、いいのか、悪いのか、わからない…
虚飾にまみれた、私、寿綾乃の人生が、終わったと思ったとき…
つまりは、ジュン君がハンドルを握る、クルマに轢かれると、わかったとき、一方で、安堵した自分が、いた…
これで、ようやく、終わる…
そう思った…
生きることに、疲れたわけではない…
ただ、寿綾乃という偽りの人生を生きることに、疲れた…
そういうのが、正しい…
癌を告知されたときには、驚いたが、同時に、心のどこかで、
…さもありなん…
と、考える自分がいたのも、事実…
藤原ナオキを、妻のユリコから、奪うつもりは、なかったが、結果的に、そうなった…
その報いに他ならない…
だが、ユリコからすれば、奪うつもりはなかったと言っても、信じてはくれないだろう…
ひとは、話せば、わかるものではない…
誠心誠意尽くせば、どうにか、なるものではない…
私は、ユリコに、すまない気持ちはあったが、さりとて、ユリコに誠心誠意、謝っても、どうにか、なるものではないことも、また、わかっていた…
一言でいえば、お互いがお互いを、気に入らないのだ…
すべては、それに尽きる…
私が、誠心誠意、謝っても、
「…どうせ、あの女はくちだけ…」
と、冷笑する…
それが、わかっている…
要するに、私が、どんな態度を取ろうと、気に入らない…
それに、尽きる…
そして、それは、自分の夫や、息子を私に獲られたとか、そんなことではない…
もはや、先天的に、私が気に入らないのだ…
DNAレベルで、私が、気に入らないのだ…
一目見て、気に入らない…
そういうレベルで、気に入らないのだ…
もはや、言葉はいらない…
一目見て、コイツは敵と感じるのだ…
そこに、言葉はいらない…
たとえ、謝ろうが、土下座しようが、ユリコは、決して、容赦しない…
だから、こちらとしても、戦うのみ…
それ以外の選択肢はない…
そして、それは、ユリコも、わかっている…
なぜなら、ユリコもまた、私、寿綾乃を、同じように見ているに違いないからだ…
まさに、不俱戴天の敵…
共に天をいただかず、だ…
私は、考える…
そして、そんなことを、考えてると、当然、ユリコの今を考えた…
藤原ナオキが、この病院に、私を見舞いにやって来ている以上、当たり前だが、私が、まだ生きていることを掴んでいる…
果たして、ユリコは、私が生きていることを知って、どう出るのだろう?
再び、私に戦いを挑むか?
それとも?
私は、思った…
なぜなら、私、寿綾乃が、この病院のベッドに寝ているのは、他でもない、ユリコの息子である、ジュン君の運転する、クルマにはねられたから…
ユリコが腹を痛めて産んだ、ジュン君が、私をクルマで、はねたからだ…
そして、それは、故意…
偶然でも、なんでもない…
私が、それまで、子供の頃から、面倒を見た、事実の裏の事情を、ジュン君が、知ってしまったからに、他ならない…
自暴自棄になったジュン君は、私をクルマで轢くという暴挙に出たのだ…
果たして、今、ジュン君は、どうしているのだろう?
おそらく、逮捕されて、警察に捕まっているのだろう…
それを、考えると、我ながら、胸が痛んだ…
そして、それを、考えると、藤原ナオキが、頻繁に、私の見舞いに訪れた理由も納得する…
かつて、男女の関係にあった私の身が心配ということもあるけれど、ジュン君の裁判で、私が、ジュン君を許すという言質(げんち)を得たいのだろう…
ジュン君が、私をクルマで、轢いたのは、誰の目にも、明らかに故意だが、私がジュン君を許すと一言、言うことで、裁判の量刑を軽くする狙いもあるに違いない…
私は、思った…
要するに、下心があるということだ…
だが、その下心のせいで、おそらく、私の入院費は、ナオキが出してくれるだろうと、邪推した…
これもまた下心…
私の下心だ…
私にとって、入院費は、大金…
私の貯金で、払える金額かどうか、見当もつかない…
ただ、IT長者の藤原ナオキにとっては、微々たる金額…
私にとっての一万円が、一円とか、十円の感覚だ…
だから、例え、私の入院費用が一千万かかろうと、一億かかろうと、悩むことはない…
ナオキにとっては、百円払うようなものだからだ…
私は、考える…
それよりも、今、考えるのは、私が生き残ったこと…
それが、一体、どういう波紋を呼ぶだろうか?
それを思った…
すでに、最大にして、最強の脅威…
五井家…
ユリコをはるかに超える脅威だ…
五井家の当主となった諏訪野伸明は、取り込んだというか、私の味方になってくれると、思うが、五井家が、どう私に対処するか、現段階では、なにも見えない…
まるっきり、見通しが立たない…
五井家を実質的に支える女傑たち…
あの菊池リンの祖母たちが、私にどう接するか、皆目見当がつかない…
そして、これもまた、ユリコと同じ…
私が、泣こうが喚(わめ)こうが、どうこうなるものではない…
相手は、決して、容赦はしない…
私ができるのは、逃げるのか、戦うのか、二つに一つ…
他に選択肢はない…
戦うというのは、ユリコと戦うのと同じく、力ではない…
肉体的な暴力でない…
いわば、知的なゲームだ…
だが、どんなゲームも体力があって、なんぼ…
自由になる、カラダがあって、なんぼ…
今、ベッドに寝たきりになっている、このカラダでは、誰とも戦うことはできない…
自分を守ることができない…
そういうことだ…
まるで、野生の獣ではないが、今の自分は、傷つき、動けない…
こんなときに、敵が、私を襲えば、私は、
堪ったものではない…
対処できない…
傷が治るまでは、動くことはできない…
だから、どんなことがあっても、このカラダで、敵と遭遇するわけにはいかない…
今、戦えば、容易に、私を打ちのめすだろう…
容赦なく、私を叩きのめすだろう…
そして、傷ついた私は、ベッドに横になったまま、悲観の涙にくれるだけ…
傷つき、反撃のはの字も、反撃できず、悲観の涙にくれるだけ…
それが、目下、最大の不安だった…
だが、それでは、寿綾乃ではない…
一方的に、サンドバッグのように、叩かれ続けるのは、寿綾乃ではない…
私は、これまで、どんな状況でも、戦い続けてきた…
高校時代、
いや、
もっと、子供の頃から、一人で、生きてきた…
高校時代、偶然、出会った、若き藤原ナオキと、男女の関係になったのは、まさに、僥倖(ぎょうこう)だった…
後に、IT長者として、名を馳せることになった藤原ナオキと出会うことで、私は、生活に不安がなくなった…
日々の暮らしを案ずる必要が、なくなった…
だが、それは、結果的に、あのユリコを敵に回すことになった…
あの、したたかで、有能なユリコを敵に回すことになった…
当然だ、
ユリコは、藤原ナオキの妻…
そして、ジュン君の母親だった…
結果的に、私は、ユリコを追い出し、事実上の正妻の座を、ユリコから、奪った…
私は、ユリコの代わりに、藤原家に入った…
事実上、そういう形になった…
藤原ナオキの妻として、そして、ジュン君の母として、過ごした…
それゆえ、生活の不安がなくなった…
しかしながら、藤原ナオキの女遊びが、止むことはなかった…
いつしか、私と、ナオキ、ジュン君の生活から、ナオキ一人が、抜けることになった…
ただ、生活の不安はなかった…
ITバブルで、数多くの新興のIT企業が、世に溢れ出した…
当初は、その多くが、ITバブルの恩恵にあずかったが、その大半は、ITバブルがはじけると共に、消えた…
が、
藤原ナオキの会社、FK興産は、違った…
生き残った…
それゆえ、生活に困るどころか、人並み以上の生活を送ることに苦はなかった…
軽く、億は、優に超える、マンションに、ジュン君と、私が住む…
住み続ける…
ジュン君の父親である、藤原ナオキは、あっちの女、こっちの女と、渡り歩く…
その一方、会社では、社長と、社長秘書の関係であり、公の面では、繋がりが、切れることはなかった…
ただ、プライベートの面では、切れた…
しかし、生活の支援は、受けているので、生活に困ることもなかった…
つまりは、ナオキと別れても、まだ未成年のジュン君の世話は、私が見ていた…
事実上のジュン君の、母親代わりだった…
それゆえ、事実上は、別れたナオキに、いつまでも、生活の援助をしてもらったのだ…
これは、ある意味、異常…
冷静に考えれば、魔訶不思議な関係だった…
愛人ならば、お手当というか…
報酬が、もらえる…
しかしながら、男女の関係が終わっても、男の息子の面倒を愛人が、見続けているというのは、聞いたことがない…
あまり、世間で、前例がない出来事に違いない…
ただ、ナオキにとっては、好都合だった…
なぜなら、幼いジュン君の面倒を見ることなく、プライベートは、女遊びに没頭できるからだ…
しかし、言いたくはないが、ナオキの女遊びは、女にたかられるだけだった(笑)…
イケメンの大金持ち…
それを見抜かれ、女にたかられ続けた…
だが、懲りない…
勉強はでき、仕事も成功したが、いわゆる、世間に疎い男の典型だった…
金に群がる女を見抜く力がない男の典型だった…
だが、本人は懲りない…
女が好きだからだ(笑)…
食い物にされてる現状に、気付かないわけは、ありえないが、要するに、懲りないのだ…
藤原ナオキのプライベートは、そんな感じだった…
そして、私はといえば…
子供から、大人になろうとする、ジュン君が、いつのまにか、私に憧れることになった…
二十歳と、三十二歳…
十二歳も差がある…
しかも、昨日今日、出会った関係ではない…
にもかかわらずだ…
だが、冷静に考えると、これも、世間では、案外どこにでもある話なのかもしれない…
最初に恋をするのは、身近な男女…
たとえば、近所の幼馴染(おさななじみ)だったり、従妹(いとこ)だったり…
普通だったら、恋しないかもしれないが、それが、男女とも美形となると、話は変わる…
容姿に目を奪われるのだ(笑)…
どんな子供も、ある程度の年齢になれば、容姿の美醜はわかる…
美しい男女が身近にいれば、子供でも、好きになる…
そういうことだ…
いささか、自慢になるが、私、寿綾乃は、美人…
だから、ジュン君が好きになった…
そういうことだろう…
十二歳の歳の差があるにも、かかわらず、好きになったのは、そういう理由だろう…
だが、仮に、ジュン君と結婚しても、いずれは別れるのは、目に見えてる…
ジュン君が、私を好きなのは、まだ、若いから…
まだ若いから、夢中になれる…
一人の女に夢中になれる…
これが、あと十年も経てば、自分に余裕が出てくるというか…
もう少し、冷静に、周囲を見る力を誰もが、持つ…
すると、どうなるのか?
あんなオバサンを好きだったなんて、オレは、どうかしていた!
と、嘆くことになる…
誰もが、こう思う…
誰もが、こう考える…
残念ながら、それが、真実…
残酷な真実に他ならない…
男女の年齢差の恋や結婚の結末は、大抵そんなものだ…
人里離れた山の中で、二人だけで、暮らすのならば、周りは、見えないが、普通に生活すれば、周囲の人間が気になってくる…
それで、気付く…
そんな当たり前のことに、気付く…
だが、そんなことは、誰もが気付く…
今、思えば、ユリコは、そんなことも気付かなかったのか?
不思議になる…
ジュン君の恋は、時間の経過と共に冷める…
それが、わかっていながら、ユリコが我慢できなかったのは、なぜか?
ひとつには、自分の息子だから、だろう…
冷静に対処できない…
それと、もう一つは、相手が、私、寿綾乃だからだろう…
大嫌いな寿綾乃が、自分の息子と付き合うのは、許せたものではない…
それゆえに、また冷静になれない…
時間が経てば、恋も冷める…
それが、わかっていながら、介入してくる…
別れさせようとしてくる…
それが、若いジュン君には、逆効果であることは、有能なユリコには、わかっている…
にもかかわらず、介入してしまう…
これが、母親なのかもしれないが、正直、笑える…
自分の行動が、どういう反応を呼ぶのか、わからないユリコでもないにもかかわらず、こういう行動を取る…
パニックになったわけでもあるまい…
ただ、感情的になってしまうに違いない…
普段、誰よりも、沈着冷静なユリコが、感情を優先させるのは、笑える…
とにかく、我慢ができないに違いない…
私、寿綾乃が、許せないに違いない…
ユリコのことを考えると、切りがなくなる…
おそらく、寿綾乃、最大の敵…
終生の敵に相違ない…
だから、考えてしまう…
ユリコのことで、頭の中が、いっぱいになってしまうほど、考えてしまう…
これでは、まるで、恋…
ユリコに恋をしているようだ…
そんなユリコが、入院中の私を訪ねてきた…
そんな忸怩(じくじ)たる思いがある…
私、寿綾乃、32歳…
今さらだが、自分が生き残ったのが、理解できない…
交通事故で、ジュン君の運転するクルマに轢かれる…
それが、私の残っている記憶のすべてだった…
だが、
気が付くと、ベッドの上だった…
しかも、すでに、2か月経っているという…
それまでは、いわゆる、意識不明の状態だった…
白雪姫ではないが、ずっと眠り続けている状態…
目が覚めて、それを知らされると、真っ先に、羞恥の感情が、湧いた…
医師とはいえ、見ず知らずの人間に、自分の裸を見られた…
それが、恥ずかしいのではない…
むしろ、十代の頃に比べると、大胆になったというか、図々しくなった…
だから、裸が見られたのが、恥ずかしいのではなく、どうせ、見られるのなら、もっと、若くキレイなときの裸を見てもらいたかった…
それが、本音だった…
我ながら、複雑…
女心は、複雑だった(苦笑)…
いや、
三十路の女心は、と、付け足すべきか?
そんな意地悪な気持ちになる…
この年齢だ…
どうしても、年齢に敏感になる…
とにかく、目が覚めると、世界が一変したというと、大げさだが、明らかに変わっていた…
なにより、私は、末期がん…
余命いくばくもない状態だと、医師に告げられていた…
それで、半ば、自暴自棄になっていた…
それが…
「…癌(がん)…たしかに、見つかりましたが、末期というほどでは…」
長身のイケメンの医師が、言った…
こんなときにもかかわらず、つい、相手を値踏みする…
私が白雪姫ならば、この医師は、さしずめ、王子様か(笑)…
王子様のくちづけで、私は、目覚めた…
そう、考えると、面白い…
「…先生…ご結婚は? …今、付き合ってる、彼女はいるんですか?…」
と、まるで、女子高生や女子大生のように、聞きたくなる…
我ながら、図々しいと言うか…
自分の置かれた状況が、まるで、わかってない(苦笑)…
いや、
自分の置かれた状況は、十二分にわかっているのだが、つい、聞きたくなってしまうのだ…
それよりも、
「…癌(がん)…たしかに、見つかりましたが、末期というほどでは…」
の言葉の方が、重要だった…
なぜなら、それは、私は生きれること…
この先、何年も生きれることに、他ならないからだ…
「…それは、誤診ということですか?…」
遠慮なく聞いた…
歳のせいか、遠慮もなにも、あったものじゃない…
忖度(そんたく)もなにも、あったものじゃない…
いや、
そうではない…
なにより、自分の生死がかかっているのだ…
図々しくなっても、少しも恥ずかしいことじゃない…
私の質問に、
「…誤診というのは、ちょっと、私の立場からは…ただ、癌(がん)で、あることは、間違いないです…ただ、末期ではない…だから、こう言っては、語弊がありますが、今すぐ、死ぬとか、そういうのではない…そこまで、悪化していない…」
「…だったら、希望を持っていいのですね?…」
私は、確認した…
しかし、その返答は、
「…」
と、沈黙だった…
つまりは、今すぐ、どうのこうの命に別状はないが、あと何年生きれるか、わからない…
そういうことだろう…
この目の前のイケメンの医師の言外の言葉だった…
私は、それを悟った…
そんな私の気持ちを察したように、
「…今は、いい薬がありますから…」
と、精一杯、私を励ますように、呟いた…
ウソをつけない性格なのだろう…
私は、思った…
医師は、ウソをつけなければ、ならない職業…
死にたくない病人に、
「…アナタは大丈夫…」
と、励まさなければ、ならない職業だ…
ウソも方便…
しかし、目の前のこのイケメンの医師は、それができないのだろう…
イケメンで、誠実…
ウソがつけない…
人間としては、立派だが、医師としては、どうなのだろう?…
私は、思った…
だから、私は、
「…先生…セカンド・オピニオンって、大切ですね…」
と、言った…
私の言葉に、イケメンの医師は戸惑った…
辛うじて、
「…いろいろな人に、意見を聞くのは、良いことです…」
と、だけ言った…
私は、その焦った表情が、面白く、
「…いえ、先生のようなイケメンに出会えるのなら、もっと、早く先生に診てもらうべきでした…」
と、言った…
病院のベッドに寝ている病人が、言うセリフではない…
だが、この戸惑ったイケメンを見ると、つい、からかってみたくなった…
が、
このイケメンは、私の言葉に、反応しなかった…
「…藤原ナオキ氏が、寿さんが、意識を回復しない間にも、頻繁に、この病室にやって来られました…」
「…ナオキが?…」
つい、言ってしまった…
私が、
「…ナオキ…」
と、呼び捨てにしたことで、私とナオキの関係がバレた…
だから、これ以上、このイケメンの医師をからかうことはできない…
そう、肝に銘じた…
「…いえ、私も最初、藤原氏が、この病院にやって来られたときは、驚きました…なにしろ、著名な方ですし…おまけに、長身のイケメンです…」
「…」
「…藤原氏には、寿さんの、病状を説明しておきました…クルマにはねられたのは、軽傷ではありませんが、重症と呼ぶほどでも、ない…こういっては、なんですが、顔に傷は残りません…女のひとは、一番気になるところですが…特に、寿さんは、美人なので…」
私は、どう返答していいか、わからなかった…
だから、
「…」
と、返答しなかった…
「…クルマにはねられのだから、当然、カラダに傷は、残ります…しかし、失礼ながら、若い娘さんで、水着になるようなことが、ない限り、目立つものじゃ、ありません…」
私は、このイケメンの医師は、あらためて、患者に忖度(そんたく)は、できない性格な のだと、実感した…
たしかに、寿綾乃、32歳…
もはや、人前で、水着を着て、ビーチで楽しむ年齢ではない…
だが、あからさまに、それを指摘されると、誰もが、不機嫌になる…
そういうことだ(笑)…
たしかに、人前で、裸になるのは、夫や恋人や、子供か、はたまた、同性の友人ぐらいの間で、だろう…
しかし、夫や恋人は、異性…
しかも、まだ私は、独身…
結婚していない…
まだ、これから、初めて会った男の前で、裸になることもある…
でも、そのときに、カラダに大きな傷があるのでは、目も当てられない…
男のひとの気持ちも、一気に萎えるかもしれない…
一気に醒めて、現実に戻るかもしれない…
言葉は、悪いが、性欲は限定的なもの…
長期間、その状態を維持できない…
お互いに、気持ちを高めて、臨む…
ある意味、真剣勝負…
そんな状態は、日常生活では、極めて、少ない…
まして、私が、相手にするのは、おそらく30代以上の男…
セックス未体験の十代の男子なら、いざしらず、せっかく高めた気持ちも、私のカラダの傷を見て、一気に萎えるかもしれない…
ベッドに横になりながら、つい、そんなことを考えた…
我ながら、欲深い…
せっかく、命が助かったのだ…
この幸運に、感謝しなければ、ならない…
まして、末期がんと思われたものが、それほど、深刻な状態ではなかった…
今すぐ、どうこういう状態ではなかった…
これは、まるで、宝くじに当たったような、僥倖(ぎょうこう)だ…
奇跡といっていい…
しかし、その奇跡の力は、思ったよりも小さかった…
一億円の宝くじではなく、100万円の宝くじに当たったような感覚とでも、いえば、いいのかもしれない…
とりあえず、今すぐ死ぬことはないのかもしれないが、あと何年持つか、わからない…
そういうことだろう…
私は、思った…
と、そのときだった…
「…カラダの傷は…」
と、イケメンの医師が、いきなり言った…
「…もちろん、残りますが、決して、大きなものでは、ありません…無論、捉え方は、ひとそれぞれなので、なんともいえません…ボクは、女性ではないので、これをどう思うのか、難しい面はありますが…」
イケメンの医師が、必死になって、弁明する…
私は、イケメンの医師の必死な弁明に、思わず、
「…プッ!…」
と、吹き出した…
私の反応に、当然のことながら、
「…な、なにか、ボクが、おかしなことを、言いましたか?…」
イケメンの医師が、慌てた…
「…先生…そんなにムキになって、説明しなくても…クルマにはねられて、この病院に、運ばれたんです…無傷でいられるはずが、ないじゃないですか?…」
私の言葉に、
「…」
と、イケメンの医師は沈黙した…
「…カラダに傷は残って、当然…仕方がありません…」
私の言葉に、今度は、イケメンの医師が、
「…プッ!…」
と、吹き出した…
今度は、私が、慌てる番だった…
「…先生、私、なにか、おかしなことを言いました?…」
「…いえ、藤原さんが、おっしゃった通りだな、と…」
「…どういうことですか?…」
「…失礼ながら、寿さんは、強い女性だから、目が覚めれば、どんな困難にも、打ち勝てると…」
「…そんな…ひとを、怪獣か、なにかのように…」
呆れた…
さすがに、呆れた…
まさか、ナオキが、ひとのことを、そんなふうに、見ていたなんて…
「…でも、藤原さんが、そうおっしゃったのも、わかります…寿さんが、目が覚めて、意識が戻ってからの言動を見ると、わかります…」
「…どんなふうに、わかるんですか?…」
「…美人で、強い…こうして、少し会話をしても、それは、わかる…だから、ボクも遠慮なく、本当のことを、言って…」
そこまで、言って、話を止めた…
さすがに、言い過ぎだと思ったのかもしれない…
「…それに、美しい…」
付け足した…
「…そんな、先生、誉め言葉を並べても、なにも出てきませんよ…」
「…いえ、すでに、寿さんのカラダを見ました…これは、医師の役得かな…」
イケメンの医師が言う…
「…そんなこと…」
私は、呆気に取られた…
まさか、この誠実そうな、若き、イケメンの医師が、あからさまに、そんなことを、言うとは、思わなかった…
「…先生…おいくつですか?…」
つい、聞いてしまった…
「…32歳です…」
イケメンの医師が答える…
「…寿さんと、同い年ですね…」
私は、この言葉に、なんて、答えていいか、わからなかった…
ただ、同い年の男に、自分の裸を見られた…
果たして、このイケメンの医師は、私のカラダを見て、どう思ったのだろう?
年の割に、
若い?
それとも、
オバサン?
つい、考えてしまう…
女として、生まれると、ある時期から、誰もが、年齢にこだわる…
これは、女に生まれたもので、なければ、わからない…
自分もそうだが、会社の中で、男のひととの雑談で、例えば、
「…加藤さんは…」
と、言っただけで、
「…加藤さんは、私たちより、2歳、若いんですよ…」
と、会社の同僚の女性が、言ったのを、聞いたことがある…
それまで、雑談した男は、目を丸くしていた…
…誰も、そんなこと、聞いちゃいない!…
おそらく、そう言いたいのだろう…
だが、それが、女…
それこそが、女だ…
女の証明だ(笑)…
先天的に、年齢が気になる…
おそらくDNAに、刻まれているのだろう…
男は、誰もが、若い女を好む…
そう、DNAに刻まれているのだろう…
それは、おそらく、間違っては、いない…
だが、100%、正しくもない…
好みは、ひと、それぞれだからだ…
ただ、やはり、たとえば、10歳も違えば、大抵は、話が変わる…
でも、本当は、相手次第…
33歳の石原さとみと、平凡なルックスの二十歳の一般の女のコの、どっちを選べと、言われれば、ルックスだけなら、誰もが、石原さとみを選ぶ…
仮に、石原さとみが、無名の一般人としても、だ…
ただ、あくまで、ルックスだけ…
人柄や学歴を考慮すると、話は変わる(笑)…
話は若干逸れたが、誰もが、年齢が気になるという実例だ…
しかも、間が悪いというか…
このイケメンの医師が、私と、同年齢と、わかった…
だから、余計に、気になる…
同い年の女の裸を見て、どう感じたのか、気になる…
が、それを聞くことはできない…
たとえ、聞いても、誰もが、本当のことを、言うはずがないからだ…
だから、私は、黙った…
私、寿綾乃…
32歳…
つい、二か月前まで、FK興産という名前の、新興のIT企業で、社長秘書をしていた…
FK興産のFは、社長の藤原ナオキのF…
FK興産のKは、寿綾乃のK…
つまり、二人は、そういう関係だった…
結婚はしていないが、男女の関係…
社長の藤原ナオキは、やり手のIT企業の社長…しかも、テレビのキャスターを兼業していて、世間に知られている…
だから、さきほどの医師も藤原ナオキを知っていた…
だが、藤原ナオキは、離婚経験者…
40代前半の知的で、爽やかないメージの裏で、二十歳の息子のジュン君がいた…
そして、私は、ジュン君とも、何度か、男女の関係だった…
が、
問題は、そこではない…
ジュン君の母であり、藤原ナオキの別れた妻である、藤原ユリコ…
彼女の存在こそ、私の最大の脅威だった…
夫の藤原ナオキは、性に奔放と言うか、あっちの女、こっちの女に、手を出し、家庭を崩壊させた…
だが、藤原ユリコからすれば、家庭が崩壊した最大の原因は、私、寿綾乃との関係だと、見抜いている…
しかも、最愛の息子である、ジュン君も、私と、男女の関係だった…
憎んでも、憎み切れない、相手として、私は、彼女の標的にされた…
復讐の相手として、認知された…
その結果、私の正体が、彼女に暴かれ、私は、すべてを捨てて、FK興産を辞めることしか、選択肢がなくなった…
そして、FK興産を退職した帰り道に、ジュン君が、ハンドルを握る、クルマに私は、はねられた…
それが、これまでの経緯…
そして、末期がん…
ジュン君の運転するクルマにはねられて、すべてが、終わったと思った…
私、寿綾乃の虚飾にまみれた人生が、終わったと思った…
が、
そうでは、なかった…
まだ、続いていた…
ちょうど、クラシック音楽でいえば、
「…ジャジャ、ジャーン…」
という大音響と共に、音楽が終了したと思った…
芝居で言えば、カーテンが閉まり、終了…
誰もが、そう思っていた…
なにより、自分自身が、そう思っていた…
しかし、違った…
終わりではなかった…
続きがあった…
そういうことだ…
カーテンコールが鳴りやまず、再び、舞台の幕が上がった…
そういうことだろう…
癌では、あるが、まだ数年は、生きれる…
それは、ちょうど、カーテンコールで、役者が、再び舞台に立つようなもの…
歌手で言えば、アンコールで、数曲歌うようなもの…
あくまで、付け足し、だ…
サービスに他ならない…
つまり、それと同じように、寿綾乃の人生は、終わっていない…
まだ、続いている…
しかし、残りは、数年…
果たして、これは、笑っていいのか?
はたまた、泣いていいのか?
さっぱり、わからない…
ただ、わかるのは、私は、まだ、死んでいない…
生きているという事実だけだ…
私は、まだ、生きている…
それが、いいのか、悪いのか、わからない…
虚飾にまみれた、私、寿綾乃の人生が、終わったと思ったとき…
つまりは、ジュン君がハンドルを握る、クルマに轢かれると、わかったとき、一方で、安堵した自分が、いた…
これで、ようやく、終わる…
そう思った…
生きることに、疲れたわけではない…
ただ、寿綾乃という偽りの人生を生きることに、疲れた…
そういうのが、正しい…
癌を告知されたときには、驚いたが、同時に、心のどこかで、
…さもありなん…
と、考える自分がいたのも、事実…
藤原ナオキを、妻のユリコから、奪うつもりは、なかったが、結果的に、そうなった…
その報いに他ならない…
だが、ユリコからすれば、奪うつもりはなかったと言っても、信じてはくれないだろう…
ひとは、話せば、わかるものではない…
誠心誠意尽くせば、どうにか、なるものではない…
私は、ユリコに、すまない気持ちはあったが、さりとて、ユリコに誠心誠意、謝っても、どうにか、なるものではないことも、また、わかっていた…
一言でいえば、お互いがお互いを、気に入らないのだ…
すべては、それに尽きる…
私が、誠心誠意、謝っても、
「…どうせ、あの女はくちだけ…」
と、冷笑する…
それが、わかっている…
要するに、私が、どんな態度を取ろうと、気に入らない…
それに、尽きる…
そして、それは、自分の夫や、息子を私に獲られたとか、そんなことではない…
もはや、先天的に、私が気に入らないのだ…
DNAレベルで、私が、気に入らないのだ…
一目見て、気に入らない…
そういうレベルで、気に入らないのだ…
もはや、言葉はいらない…
一目見て、コイツは敵と感じるのだ…
そこに、言葉はいらない…
たとえ、謝ろうが、土下座しようが、ユリコは、決して、容赦しない…
だから、こちらとしても、戦うのみ…
それ以外の選択肢はない…
そして、それは、ユリコも、わかっている…
なぜなら、ユリコもまた、私、寿綾乃を、同じように見ているに違いないからだ…
まさに、不俱戴天の敵…
共に天をいただかず、だ…
私は、考える…
そして、そんなことを、考えてると、当然、ユリコの今を考えた…
藤原ナオキが、この病院に、私を見舞いにやって来ている以上、当たり前だが、私が、まだ生きていることを掴んでいる…
果たして、ユリコは、私が生きていることを知って、どう出るのだろう?
再び、私に戦いを挑むか?
それとも?
私は、思った…
なぜなら、私、寿綾乃が、この病院のベッドに寝ているのは、他でもない、ユリコの息子である、ジュン君の運転する、クルマにはねられたから…
ユリコが腹を痛めて産んだ、ジュン君が、私をクルマで、はねたからだ…
そして、それは、故意…
偶然でも、なんでもない…
私が、それまで、子供の頃から、面倒を見た、事実の裏の事情を、ジュン君が、知ってしまったからに、他ならない…
自暴自棄になったジュン君は、私をクルマで轢くという暴挙に出たのだ…
果たして、今、ジュン君は、どうしているのだろう?
おそらく、逮捕されて、警察に捕まっているのだろう…
それを、考えると、我ながら、胸が痛んだ…
そして、それを、考えると、藤原ナオキが、頻繁に、私の見舞いに訪れた理由も納得する…
かつて、男女の関係にあった私の身が心配ということもあるけれど、ジュン君の裁判で、私が、ジュン君を許すという言質(げんち)を得たいのだろう…
ジュン君が、私をクルマで、轢いたのは、誰の目にも、明らかに故意だが、私がジュン君を許すと一言、言うことで、裁判の量刑を軽くする狙いもあるに違いない…
私は、思った…
要するに、下心があるということだ…
だが、その下心のせいで、おそらく、私の入院費は、ナオキが出してくれるだろうと、邪推した…
これもまた下心…
私の下心だ…
私にとって、入院費は、大金…
私の貯金で、払える金額かどうか、見当もつかない…
ただ、IT長者の藤原ナオキにとっては、微々たる金額…
私にとっての一万円が、一円とか、十円の感覚だ…
だから、例え、私の入院費用が一千万かかろうと、一億かかろうと、悩むことはない…
ナオキにとっては、百円払うようなものだからだ…
私は、考える…
それよりも、今、考えるのは、私が生き残ったこと…
それが、一体、どういう波紋を呼ぶだろうか?
それを思った…
すでに、最大にして、最強の脅威…
五井家…
ユリコをはるかに超える脅威だ…
五井家の当主となった諏訪野伸明は、取り込んだというか、私の味方になってくれると、思うが、五井家が、どう私に対処するか、現段階では、なにも見えない…
まるっきり、見通しが立たない…
五井家を実質的に支える女傑たち…
あの菊池リンの祖母たちが、私にどう接するか、皆目見当がつかない…
そして、これもまた、ユリコと同じ…
私が、泣こうが喚(わめ)こうが、どうこうなるものではない…
相手は、決して、容赦はしない…
私ができるのは、逃げるのか、戦うのか、二つに一つ…
他に選択肢はない…
戦うというのは、ユリコと戦うのと同じく、力ではない…
肉体的な暴力でない…
いわば、知的なゲームだ…
だが、どんなゲームも体力があって、なんぼ…
自由になる、カラダがあって、なんぼ…
今、ベッドに寝たきりになっている、このカラダでは、誰とも戦うことはできない…
自分を守ることができない…
そういうことだ…
まるで、野生の獣ではないが、今の自分は、傷つき、動けない…
こんなときに、敵が、私を襲えば、私は、
堪ったものではない…
対処できない…
傷が治るまでは、動くことはできない…
だから、どんなことがあっても、このカラダで、敵と遭遇するわけにはいかない…
今、戦えば、容易に、私を打ちのめすだろう…
容赦なく、私を叩きのめすだろう…
そして、傷ついた私は、ベッドに横になったまま、悲観の涙にくれるだけ…
傷つき、反撃のはの字も、反撃できず、悲観の涙にくれるだけ…
それが、目下、最大の不安だった…
だが、それでは、寿綾乃ではない…
一方的に、サンドバッグのように、叩かれ続けるのは、寿綾乃ではない…
私は、これまで、どんな状況でも、戦い続けてきた…
高校時代、
いや、
もっと、子供の頃から、一人で、生きてきた…
高校時代、偶然、出会った、若き藤原ナオキと、男女の関係になったのは、まさに、僥倖(ぎょうこう)だった…
後に、IT長者として、名を馳せることになった藤原ナオキと出会うことで、私は、生活に不安がなくなった…
日々の暮らしを案ずる必要が、なくなった…
だが、それは、結果的に、あのユリコを敵に回すことになった…
あの、したたかで、有能なユリコを敵に回すことになった…
当然だ、
ユリコは、藤原ナオキの妻…
そして、ジュン君の母親だった…
結果的に、私は、ユリコを追い出し、事実上の正妻の座を、ユリコから、奪った…
私は、ユリコの代わりに、藤原家に入った…
事実上、そういう形になった…
藤原ナオキの妻として、そして、ジュン君の母として、過ごした…
それゆえ、生活の不安がなくなった…
しかしながら、藤原ナオキの女遊びが、止むことはなかった…
いつしか、私と、ナオキ、ジュン君の生活から、ナオキ一人が、抜けることになった…
ただ、生活の不安はなかった…
ITバブルで、数多くの新興のIT企業が、世に溢れ出した…
当初は、その多くが、ITバブルの恩恵にあずかったが、その大半は、ITバブルがはじけると共に、消えた…
が、
藤原ナオキの会社、FK興産は、違った…
生き残った…
それゆえ、生活に困るどころか、人並み以上の生活を送ることに苦はなかった…
軽く、億は、優に超える、マンションに、ジュン君と、私が住む…
住み続ける…
ジュン君の父親である、藤原ナオキは、あっちの女、こっちの女と、渡り歩く…
その一方、会社では、社長と、社長秘書の関係であり、公の面では、繋がりが、切れることはなかった…
ただ、プライベートの面では、切れた…
しかし、生活の支援は、受けているので、生活に困ることもなかった…
つまりは、ナオキと別れても、まだ未成年のジュン君の世話は、私が見ていた…
事実上のジュン君の、母親代わりだった…
それゆえ、事実上は、別れたナオキに、いつまでも、生活の援助をしてもらったのだ…
これは、ある意味、異常…
冷静に考えれば、魔訶不思議な関係だった…
愛人ならば、お手当というか…
報酬が、もらえる…
しかしながら、男女の関係が終わっても、男の息子の面倒を愛人が、見続けているというのは、聞いたことがない…
あまり、世間で、前例がない出来事に違いない…
ただ、ナオキにとっては、好都合だった…
なぜなら、幼いジュン君の面倒を見ることなく、プライベートは、女遊びに没頭できるからだ…
しかし、言いたくはないが、ナオキの女遊びは、女にたかられるだけだった(笑)…
イケメンの大金持ち…
それを見抜かれ、女にたかられ続けた…
だが、懲りない…
勉強はでき、仕事も成功したが、いわゆる、世間に疎い男の典型だった…
金に群がる女を見抜く力がない男の典型だった…
だが、本人は懲りない…
女が好きだからだ(笑)…
食い物にされてる現状に、気付かないわけは、ありえないが、要するに、懲りないのだ…
藤原ナオキのプライベートは、そんな感じだった…
そして、私はといえば…
子供から、大人になろうとする、ジュン君が、いつのまにか、私に憧れることになった…
二十歳と、三十二歳…
十二歳も差がある…
しかも、昨日今日、出会った関係ではない…
にもかかわらずだ…
だが、冷静に考えると、これも、世間では、案外どこにでもある話なのかもしれない…
最初に恋をするのは、身近な男女…
たとえば、近所の幼馴染(おさななじみ)だったり、従妹(いとこ)だったり…
普通だったら、恋しないかもしれないが、それが、男女とも美形となると、話は変わる…
容姿に目を奪われるのだ(笑)…
どんな子供も、ある程度の年齢になれば、容姿の美醜はわかる…
美しい男女が身近にいれば、子供でも、好きになる…
そういうことだ…
いささか、自慢になるが、私、寿綾乃は、美人…
だから、ジュン君が好きになった…
そういうことだろう…
十二歳の歳の差があるにも、かかわらず、好きになったのは、そういう理由だろう…
だが、仮に、ジュン君と結婚しても、いずれは別れるのは、目に見えてる…
ジュン君が、私を好きなのは、まだ、若いから…
まだ若いから、夢中になれる…
一人の女に夢中になれる…
これが、あと十年も経てば、自分に余裕が出てくるというか…
もう少し、冷静に、周囲を見る力を誰もが、持つ…
すると、どうなるのか?
あんなオバサンを好きだったなんて、オレは、どうかしていた!
と、嘆くことになる…
誰もが、こう思う…
誰もが、こう考える…
残念ながら、それが、真実…
残酷な真実に他ならない…
男女の年齢差の恋や結婚の結末は、大抵そんなものだ…
人里離れた山の中で、二人だけで、暮らすのならば、周りは、見えないが、普通に生活すれば、周囲の人間が気になってくる…
それで、気付く…
そんな当たり前のことに、気付く…
だが、そんなことは、誰もが気付く…
今、思えば、ユリコは、そんなことも気付かなかったのか?
不思議になる…
ジュン君の恋は、時間の経過と共に冷める…
それが、わかっていながら、ユリコが我慢できなかったのは、なぜか?
ひとつには、自分の息子だから、だろう…
冷静に対処できない…
それと、もう一つは、相手が、私、寿綾乃だからだろう…
大嫌いな寿綾乃が、自分の息子と付き合うのは、許せたものではない…
それゆえに、また冷静になれない…
時間が経てば、恋も冷める…
それが、わかっていながら、介入してくる…
別れさせようとしてくる…
それが、若いジュン君には、逆効果であることは、有能なユリコには、わかっている…
にもかかわらず、介入してしまう…
これが、母親なのかもしれないが、正直、笑える…
自分の行動が、どういう反応を呼ぶのか、わからないユリコでもないにもかかわらず、こういう行動を取る…
パニックになったわけでもあるまい…
ただ、感情的になってしまうに違いない…
普段、誰よりも、沈着冷静なユリコが、感情を優先させるのは、笑える…
とにかく、我慢ができないに違いない…
私、寿綾乃が、許せないに違いない…
ユリコのことを考えると、切りがなくなる…
おそらく、寿綾乃、最大の敵…
終生の敵に相違ない…
だから、考えてしまう…
ユリコのことで、頭の中が、いっぱいになってしまうほど、考えてしまう…
これでは、まるで、恋…
ユリコに恋をしているようだ…
そんなユリコが、入院中の私を訪ねてきた…