第7話

文字数 9,074文字

 入院して、二か月が経って、目が覚めた…

 目が覚めた=意識が回復した…

 意識は、回復せずとも、体力は、時間が経てば、回復する…

 眠っている間にも、体力は、回復する…

 私、寿綾乃が、ジュン君の運転するクルマにはねられて、意識を失った…

 その間に、この五井記念病院に運ばれ、手術を受けた…

 交通事故に遭ったのだから、当然だ…

 手術は、成功…

 ただし、意識は回復しなかった…

 が、

 その間にも、カラダは、少しずつだが、回復した…

 交通事故でも、当たり方が、良かったのだ…

 なにより、頭を打たなかったのが、良かった…

 カラダも奇跡的に良かったのだろう…

 ただし、癌はダメだった…

 以前、指摘された末期がんではなかったが、完治には、ほど遠かったのだ…

 しかし、生きることはできた…

 生き延びることはできた…

 これは、大きい…

 あと、何年、生きれるか、わからないが、とりあえず、生きることはできた…

 そう、考えれば、喜ばしいことだ…

 が、

 現実に、目が覚めれば、目の前に、五井家のゴタゴタがあった…

 これでは、まるで、目が覚める前と、まったくいっしょ…

 同じ状況だった…

 なに一つ、変わっていない…

 目が覚める前も、私は、五井家のゴタゴタに巻き込まれた…

 諏訪野伸明と、諏訪野秀樹、兄弟の争い…

 その他、諏訪野伸明の叔父、諏訪野義春、そして、諏訪野マミ…

 彼らのゴタゴタに巻き込まれ、文字通り、疲弊した…

 疲労困憊した…

 ジュン君の運転するクルマにはねられたとき、

 …やっと、世間のゴタゴタから解放される…

 そんな気持ちが、私の脳裏をかすめた…

 ほとんど、一瞬だが、そんな気持ちになった…

 それほど、疲れていた…

 むしろ、死は、私にとって、喜ばしいことだった…

 死=安らぎに他ならなかった…

 しかし、私は、生きていた…

 目が覚めて、それが、わかった…

 そして、藤原ナオキや、諏訪野伸明と、話すことで、やっぱり生きていて、良かったと、思った…

 考えを、変えた…

 なにより、自分が生きていたことで、藤原ナオキも、諏訪野伸明も、心の底から、喜んでくれた…

 これは、嬉しい…

 自分が生きていることで、こんなにも、他人から、喜ばれるとは、思わなかった…

 誰もが、そうだが、家族以外の人間で、自分が生きていて、祝福されることは、あまりない…

 それは、ある意味、当たり前…

 家族は、身近な存在…

 代わりが、きかない存在だからだ…

 会社や友人は、変えられる…

 しかしながら、家族は変えられない…

 また、家族の関係は、会社の同僚や、友人とは、比べ物にならないくらい、人間関係が、濃密だからだ…

 それゆえ、祝福される…

 だから、祝福されるのは、ある意味、当たり前…

 友人、知人の間柄で、家族並みに、祝福されるから、嬉しいのだ…

 私は、思った…

 私自身は、ジュン君の運転するクルマで、はねられたことで、むしろ、ホッとした気持ちもあった…

 これで、今生とおさらばすることができる…

 そんな気持ちだった…

 だが、すでに言ったように、目が覚めて、藤原ナオキや、諏訪野伸明に、私が生きていたことを、喜ばれると、考えが、変わった…

 …やっぱり、生きていて、良かった…

 そう、思えるようになった…

 しかしながら、その代償というか、ジュン君の運転するクルマに轢かれる以前と、似たようなゴタゴタが、今も変わらず、続いていて、自分が、またも、そのゴタゴタに巻き込まれることになった…

 それを、思えば、果たして、目が覚めて、良かったのか、悪かったのか、わからない…

 いや、

 やはり、これが、寿綾乃を名乗った宿命かもしれない…

 寿綾乃という女の宿命かもしれない…

 常に戦いに巻き込まれる…

 そこに、私の意思はない…

 にもかかわらず、騒動に巻き込まれる…

 だから、私は、戦わなければ、ならない…

 戦わなければ、私は、どん底…

 身ぐるみ剥がされて、路上に、放り出されるのが、オチだからだ…

 所詮、なにもない女…

 天涯孤独の身でもある…

 にも、かかわらず、藤原ナオキと、知り会ったことで、成功…

 誰もが羨む、藤原ナオキの秘書になり、人並み以上の給与をもらい、ジュン君といっしょに、億ションに住んだ…

 そんな夢のような、生活をした…

 その代償だろう…

金持ちの争いに巻き込まれた…

 それは、ある意味、皮肉だった…

 平凡な家庭の出身の私が、金持ちのようになり、本当なら、おそらく、知り会うことのない、お金持ちと、知り会う…

 その代償として、金持ちの争いに、いつも、巻き込まれるのだ…

 これ以上の皮肉はない…

 そう、考えると、やはり、世の中は、うまくできてると、思う…

 私のように、平凡人が、金持ちの仲間入りをする…

 が、

 当然、世の中、そんなうまい話はないというか…

 その代償というか、いつも、金持ちの争いに、巻き込まれる…

 人間関係のゴタゴタに巻き込まれる…

 ある意味、人間関係のゴタゴタほど、嫌なものは、ない…

 辛いものは、ない…

 逃げ出せるのならば、さっさと、逃げ出したい…

 誰もが、そう、思うに、違いない…

 私は、傍らの佐藤ナナを見ながら、そんなことを考えた…

 まだ、若い、佐藤ナナは、当然、金持ちを知らないだろう…

 それゆえ、私のように、そんな金持ち同士の争いに、巻き込まれたり、間近に、見たり、聞いたり、したことは、ないに、違いない…

 だからこそ、金持ちに憧れるのだ…

 私は、考える…

 そして、彼女を見ながら、ふと、思った…

 彼女は、この五井記念病院の理事長、菊池冬馬を知っているのだろうか?

 もちろん、自分の勤務する、病院の理事長なのだから、顔は知っているだろう…

 だが、菊池冬馬と面識があるか、どうかは、話が別だ…

 いくら大病院とはいえ、勤務する看護士や、医者は皆、理事長の菊池冬馬を知っているだろう…

 しかしながら、理事長の菊池冬馬が、自分の病院に勤務する、看護師や、医者を、全員、知っているかと、いえば、話は、別だ…

 普通に考えて、知らない可能性の方が、高い…

 だからこそ、この佐藤ナナに、理事長の菊池冬馬と、面識があるか、どうか、聞いて、みたくなった…

 「…佐藤さん…」

 「…ハイ…なんでしょうか?…」

 「…佐藤さんは、この病院の理事長の菊池冬馬さんを、知っているの?…」

 「…エッ?…」

 「…いえ、さっき、この病院の理事長と、諏訪野伸明さんが、まだ意識が回復しない、私を、見舞いに来たと言っていらしたから…」

 私の質問に、佐藤ナナは、当惑した…

 その肌は黒いが、愛くるしい顔を、悩ませた…

 「…ご挨拶は、何度かしました…」

 佐藤ナナが、考えながら、答えた…

 「…諏訪野さんと理事長が、連れ立って、やって来たときに、よろしくお願いしますと、頭を下げられました…ただ、理事長が、私を覚えていらっしゃるかといえば、難しいです…」

 「…どうして?…」

 「…やっぱり、雲の上のひとですから、たくさんのひとに会うでしょう…だから、一度や二度、私に会ったからって、私を覚えているか、どうかは、わからないです…現に、諏訪野伸明さんは、寿さんが、まだ意識を回復していないときに、一度、お会いしましたが、私のことは、覚えていませんでした…」

 やはり、この娘は、頭の回転が、速い…

 あらためて、思った…

 言っていることが、理路整然としている…

 聞いていて、誰もが、納得することを言う…

 これが、頭の悪い人間は、ひとが、納得できないことを、平然と言う…

 例えば、容姿が人並みでも、この菊池冬馬と知り会えば、自分に夢中にさせてみせると、うそぶく…

 誰もが、唖然とすることを、平気で言う…

 できないことを、自分なら、できると、平然と言う…

 冗談ではなく、本気で言う…

 そのような人間が、稀にいる…

 当たり前だが、佐藤ナナは、そのような人間ではない…

 むしろ、その愛くるしい容姿を、武器にして、

 「…知り会えば、私に夢中にさせて見せる…」

 と、言ってもいい…

 それぐらい、容姿が優れている…

 にもかかわらず、それを口にしないのは、肌の色が浅黒いのが、コンプレックスだから…

 傍から、思うよりも、彼女にとっては、コンプレッククスなのだろう…

 東南アジア系のハーフ美女…

 純粋な日本人にはない、華やかさがある…

 それが、彼女の抜きん出た武器でもある…

 「…だから、なにも気にすることはないよ…」

 と、言ってやりたかったが、それは、余計なお世話だろう…

 そんなことを言えば、かえって、彼女のコンプレックスを刺激する危険の方が強い…

 だから、なにも言わなかった…

 が、やはりというか、彼女は、気付いていた…

 「…私は、この通り、肌の色が、黒い…だから、一度会えば、覚えていてくれると思っていたけど…」

 と、悔しげに言った…

 私は、なぜ、悔しげな口調なのだろうと、訝った…

 自分を、覚えていてくれないことが、そんなに悔しいことなのかと、思った…

 が、

 それは、彼女が、

 「…要するに、軽く見られているからです…」

 と、いう言葉で、わかった…

 「…たかが、看護師ぐらいにしか、見てくれないんです…」

 と、嘆いた…

 たしかに、そう言われれば、わかる…

 本当に大切な人間ならば、覚えていてくれる…

 これが、著名な芸能人や、有名な経営者や、政治家ならば、覚えていてくれる…

 これは、間違いない…

 佐藤ナナは、ただの美人ではない…

 肌の色が浅黒い、東南アジア系のハーフ美女…

 一目で、目立つ…

 にもかかわらず、一度会った相手が、佐藤ナナを覚えていてくれないのは、彼女が、たいした人間ではないと思われたから…

 彼女の言う通りに、他ならない…

 そう考えれば、彼女の悔しさもわかる…

 そして、彼女の悔しさの原因がわかったと同時に、

 「…今度、諏訪野さんや藤原さんが、見舞いに来たら、佐藤さんを覚えてなかったことを、きつく叱っておきますから、許してくださいね…」

 と、いう言葉が、自然と口から出た…

 私の言葉に、彼女は、心底、驚いたようだ…

 「…叱る?…」

 目をまん丸くして、驚いた…

 「…諏訪野さんや、藤原さんを叱るなんて…」

 と、驚いた表情で、私を見た…

 私は、

 「…しまった…」

 と、思った…

 これでは、まるで、いかに、私が、藤原ナオキや諏訪野伸明と親しいと言わんばかり…

 見方によっては、まるで、私が、いかに、この二人と、親しい間柄だと自慢しているようだ…

 私は、今さらながら、自分の愚かさに気付いた…

 自分の能力のなさに気付いたと言っていい…

 が、

 かといって、今さら、撤回することはできない…

 言葉を変えることはできない…

 だから、佐藤ナナが、この後、なにを言ってくるか、戦々恐々とした…

 なにを言ってくるか、文字通り、怯えた…

 しかし、意外なことに、佐藤ナナは、なにも言わなかった…

 ただ、

 「…理事長に、覚えていて、もらわれなかったのは、悔しいです…やっぱり、私は、この病院に勤める看護師なので…」

 当たり障りのないことを言った…

 私は、その言葉を訝った…

 果たして、それは、本心から、だろうか? 

 と、訝った…

 やはり、どうしても、素直に受け取れない…

 今、佐藤ナナが言ったことは、真実であることは、わかる…

 ウソではないだろう…

 しかしながら、私と、藤原ナオキ、そして、諏訪野伸明の関係に、気付いたのかもしれないというのも、事実…

 藤原ナオキとは、ただの秘書と、社長という関係ではないというのも、事実…

 そして、諏訪野伸明とは、恋人同士とも、思っているのだろうか?

 要するに、三角関係…

 男女の肉体関係を持った、関係だと、気付いているだろう…

 しかし、あえて、それに触れない…

 そのことで、真逆に、佐藤ナナの頭の良さを感じる…

 そして、私はといえば、あえて触れないことで、佐藤ナナが、

…一体、本当は、どう思っているのだろう? …

と、邪推した…

かえって、佐藤ナナが、触れないことで、深読みする…

ある意味、これ以上、バカバカしいことはない…

私は、考える…

ちょうど、そのときだった…

検診に、私の担当の、長谷川センセイが、突然、やって来た…

これには、私も、驚いた…

いや、

私だけではない…

佐藤ナナも目を丸くして、驚いた…

佐藤ナナの愛くるしい瞳が、驚きに大きく、見開かれた…

「…センセイ…今日、この時間に、いらっしゃるとは?…」

佐藤ナナの言葉に、長谷川センセイは、

「…いや、病室の前を通ったから…つい…」

と、言い訳した…

今日のこの時間は、長谷川センセイが、やってくる時間ではない…

どうした、風の吹き回しか、わからないが、とにかく、長谷川センセイが、やって来た…

これには、驚いた…

が、

これは、私以上に、佐藤ナナが、驚いた…

通常、担当医が、決められた時刻以外に、病室にやって来ることはありえないからだ…

患者が、自分から、呼ばない限り、やって来ないだろう…

しかも、ここは、五井記念病院…

日本中に名の知れた大病院だ…

そんな大病院で、ある意味、ルールを無視した行為に、佐藤ナナは、驚いたに違いない…

そして、それは、長谷川センセイも、わかっているのだろう…

「…ホント、つい、偶然…この病室の前を通って…」

と、繰り返した…

そして、繰り返すことで、より一層、その言い訳が、ウソ臭くなった…

あるいは、本当のことかもしれないが、より、繰り返すことで、余計に、言い訳臭く感じた…

ちょうど、この佐藤ナナと、真逆…

この佐藤ナナが、私、寿綾乃と、藤原ナオキ、諏訪野伸明の関係に、なんとなく気付きながらも、一切、そのことに、言及しないのとは、真逆だ…

かえって、言い訳することで、余計に、その言い訳が、ウソ臭くなる…

たとえ、その言い訳が、ホントだとしても、ウソ臭くなる…

この言動で、この長谷川センセイの子供っぽい言動が、剝き出しになった…

子供っぽい嗜好が、剥き出しになった…

が、そのことで、案外、この長谷川センセイは、信用できるかも、とも、思った…

子供っぽい言動を、目の当たりにすることで、ウソがつけない、正直な人間であるかもと、考えた…

そして、それをからかうように、

「…寿さんは、美人ですからね…」

と、佐藤ナナが、長谷川センセイに、言った…

長谷川センセイは、

「…それは…」

と、言ったきり、顔を赤くして、俯いた…

それでは、佐藤ナナの指摘が、まる当たり…

私もこの指摘で、どうして、いいか、わからなくなった…

まさか、私目当てにやって来たとは、思えないが、佐藤ナナに指摘されて、顔を真っ赤にするとは、思わなかったからだ…

そして、長谷川センセイは、

「…理事長に頼まれたから…」

と、ポツリと、漏らした…

「…理事長に?…」

私と、佐藤ナナが、同時に、声を上げた…

まったく、同時に、同じ言葉を言ったので、驚いて、互いの顔を見た…

顔を見合わせた…

が、

次に声を出したのは、私だった…

「…一体、どういうことでしょうか?…」

「…理事長に、寿さんのことを、くれぐれもよろしくと、頼まれていて…」

言いにくそうに、長谷川センセイが、口を開いた…

「…それは、諏訪野伸明さんから、頼まれて…」

私の質問に、

「…」

と、無言だった…

しかしながら、それ以外に、理事長に依頼する相手は、思い至らない…

「…いや、ボクも、この病院に勤務する勤務医だから…」

と、言い訳がましく言った…

上の命令には、逆らえないと言いたいのだろう…

上=理事長の命令には、逆らえないと言いたいのだろう…

しかし、それを口にすることで、興ざめしたというか…

私目当てに、やって来たわけではないと、知って、落胆した…

女心は、複雑…

私目当てにやって来ては、困ると言いながら、実は、そうではないと知って、落胆する…

我ながら、複雑…

女心は、複雑…

だったら、どうすれば、いいのか、と、相手は、言いたくなるに、違いない(笑)…

「…それで、寿さん、具合は?…」

担当医らしく、テキパキした口調で、聞いた…

それまでとは、一転して、優秀な医師に戻った…

本来、この長谷川センセイは、この病院でも、指折りの優秀な医師に違いない…

なぜなら、五井家当主の諏訪野伸明と、この病院の理事長が、見舞いに来るような、患者だ…

いい加減な医師を担当にする、わけがない…

もっとも、優秀な医師の一人を、担当にするに決まっている…

そんなことを、考えながら、

「…だいぶ、いいです…」

と、答えた…

私の返答に、長谷川センセイは、自信を持った様子だった…

「…寿さんは、運がいい…」

「…運ですか?…」

「…クルマにはねられても、重体には、ならなかった…意識は、回復しなかったが、頭は打たなかった…これが、良かった…」

長谷川センセイが、説明する…

「…クルマにはねられるのは、ある意味、ビルの屋上から、卵を落とすのと、いっしょだ…」

思いがけない例え話を、言いだした…

「…どういうことですか?…」

「…たとえば、六階建てのビルの屋上から、生卵を落とすとします…」

「…」

「…仮に、100個、落とすとします…普通は、全部、割れると、思うでしょう?…」

「…ハイ…」

「…さにあらず…割れない卵もあります…」

「…それは、どうして?…」

「…要するに、地上に、落ちたときに、卵のどの部分が、ぶつかるかです…硬い部分なら、割れない…そういうことです…」

「…」

「…つまり、交通事故も、それと同じです…交通事故だから、同じように、クルマにはねられたと思うかもしれませんが、皆、内容は違います…クルマの大きさも違うし、どのようにはねられたかも、違う…要するに、千差万別です…だから、今、言った、卵のように、無傷とは言えませんが、卵が割れないように、ケガが、軽いこともある…寿さんは、それに当てはまります…」

うまいことを言う…

私は、思った…

そう言われれば、わかる…

そう言われれば、納得する…

卵のたとえが、納得する…

そう思ったときだった…

「…プッ!…」

と、誰かが、吹き出す声がした…

私と、長谷川センセイは、その音のする方を見た…

声の主は、当然のことながら、佐藤ナナだった…

なにしろ、この病室には、三人しかいないのだ…

私でも、長谷川センセイでも、なければ、佐藤ナナしか、いなかった…

「…センセイ、それ、この前も、別の患者さんに言ってましたよ…」

私は、その言葉で、佐藤ナナから、視線を、長谷川センセイに戻した…

「…センセイ…そんな言葉じゃ、寿さんを口説けませんよ…」

その言葉に、

「…」

と、長谷川センセイは、絶句した…

文字通り、言葉が出なかった…

「…いや、ボクは、そんなつもりじゃ…」

と、顔を、真っ赤にして、俯いてしまった…

私は、どうして、いいか、わからなかった…

こうした場合、長谷川センセイに、なにか、言うことはできない…

だから、佐藤ナナに向かって、

「…患者さんを、励ますときは、医者は、どうしても似たような言葉を口にするものなんじゃ…」

と、うまく、言った…

これが、一番だと思ったのだ…

しかしながら、佐藤ナナは容赦なかった…

「…好きな女を口説くのに、他の患者さんと同じ説明をしていたんじゃダメです…」

と、ダメ出しした…

長谷川センセイは、

「…」

と、なにも言わなかった…

いや、

言えなかったのかもしれない…

が、私はというと、この佐藤ナナを見て、彼女が、長谷川センセイを好きなんだと、気付いた…

それゆえ、わざと、長谷川センセイをからかっていることに、気付いた…

ちょうど、小学生の子供が、好きな女のコに、わざと、ちょっかいを出して、いじめたりするのと、同じだ…

しかしながら、それは、男のコが、女のコにすること…

今、目の前で、起こっているのは、それとは、真逆…

女が、男をいじめてる(笑)…

女が、男にちょっかいを出している(笑)…

しかも、男は、女より、10歳は、年上…

にもかかわらず、からかわれてる…

そう、考えると、複雑というか、面白かった…

それは、佐藤ナナが、意地の悪い人間では、ないからだ…

おそらく、佐藤ナナから、長谷川センセイに、ちょっかいを出している…

にもかかわらず、長谷川センセイは、全然、佐藤ナナの気持ちに気付いていない…

そう考えると、実に、面白かった…

自分より、若い十歳も年下の美女に、誘われてる…

にもかかわらず、誘われた当事者は、まったく、相手の意図に気付いていない…

そう考えると、実に、面白かった…

痛快だった…

この光景を見て、つくづく、自分は、女なんだ、と、思った…

どういうことかというと、女は、いつも、恋愛が好き…

自分が、男に恋することも、そうだが、他の男女が、恋をするのを見るのも、好き…

女はいくつになっても、変わらない…

学校でも、会社でも、誰が、誰を好きとか、誰と誰が、付き合っているという噂は、まるで、人生の最重要事項のような扱いになる…

それほど、女にとっては、大切なことなのだ…

私自身も、それは、同じ…

変わらない…

やはりというか、つい、気になってしまう…

誰が、誰を、好きなのか、つい、気になってしまう…

自分とは、なんの関係もないと、思いつつ、つい、気にしてしまう…

私は、目の前の、長谷川センセイと、佐藤ナナのやりとりを見て、そう思った…

そして、この二人がうまくいけばと、思った…

結ばれれば、と、思った…

佐藤ナナは、悪いコではない…

ルックスも良く、華やか…

なにより、性格がいい…

これは、長谷川センセイも、また同じ…

この病院に入院して、意識が回復してから、まだ何度も会っていないが、いいひとか、悪いひとか、聞かれれば、間違いなく、いいひとと、答えるからだ…

性格の良い人間同士のやりとりは、傍から見ていても、微笑ましい…

見ていて、気持ちのいいものだ…

私自身は、なにも関係がないが、つい、佐藤ナナに、

「…頑張って…」

と、応援したくなる…

私は、ベッドに、横になりながら、そんなことを、考えた…

同時に、つくづく、ベッドに横たわる病人が、考えることじゃないな、と、思った…

自分の担当の医者のセンセイと、担当の看護師の女性が、うまくいけばいい、と、願う患者が、どこの世界にいるのだろうか?

病人は、自分の病気のことだけを、考えれば、いい…

誰もが、そう思うはずだ…

そう考えると、実に、面白かった(笑)…

なにが、面白いかといえば、自分自身が、面白いのだ…

これが、寿綾乃という女…

自分自身を客観的に見て、そう感じた…

第三者の視点で、見て、思った…

寿綾乃は、タフで、どんなときも、音を上げない…

そんな周囲の評価通りの思考形態だった…

              
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み