第7話
文字数 9,074文字
入院して、二か月が経って、目が覚めた…
目が覚めた=意識が回復した…
意識は、回復せずとも、体力は、時間が経てば、回復する…
眠っている間にも、体力は、回復する…
私、寿綾乃が、ジュン君の運転するクルマにはねられて、意識を失った…
その間に、この五井記念病院に運ばれ、手術を受けた…
交通事故に遭ったのだから、当然だ…
手術は、成功…
ただし、意識は回復しなかった…
が、
その間にも、カラダは、少しずつだが、回復した…
交通事故でも、当たり方が、良かったのだ…
なにより、頭を打たなかったのが、良かった…
カラダも奇跡的に良かったのだろう…
ただし、癌はダメだった…
以前、指摘された末期がんではなかったが、完治には、ほど遠かったのだ…
しかし、生きることはできた…
生き延びることはできた…
これは、大きい…
あと、何年、生きれるか、わからないが、とりあえず、生きることはできた…
そう、考えれば、喜ばしいことだ…
が、
現実に、目が覚めれば、目の前に、五井家のゴタゴタがあった…
これでは、まるで、目が覚める前と、まったくいっしょ…
同じ状況だった…
なに一つ、変わっていない…
目が覚める前も、私は、五井家のゴタゴタに巻き込まれた…
諏訪野伸明と、諏訪野秀樹、兄弟の争い…
その他、諏訪野伸明の叔父、諏訪野義春、そして、諏訪野マミ…
彼らのゴタゴタに巻き込まれ、文字通り、疲弊した…
疲労困憊した…
ジュン君の運転するクルマにはねられたとき、
…やっと、世間のゴタゴタから解放される…
そんな気持ちが、私の脳裏をかすめた…
ほとんど、一瞬だが、そんな気持ちになった…
それほど、疲れていた…
むしろ、死は、私にとって、喜ばしいことだった…
死=安らぎに他ならなかった…
しかし、私は、生きていた…
目が覚めて、それが、わかった…
そして、藤原ナオキや、諏訪野伸明と、話すことで、やっぱり生きていて、良かったと、思った…
考えを、変えた…
なにより、自分が生きていたことで、藤原ナオキも、諏訪野伸明も、心の底から、喜んでくれた…
これは、嬉しい…
自分が生きていることで、こんなにも、他人から、喜ばれるとは、思わなかった…
誰もが、そうだが、家族以外の人間で、自分が生きていて、祝福されることは、あまりない…
それは、ある意味、当たり前…
家族は、身近な存在…
代わりが、きかない存在だからだ…
会社や友人は、変えられる…
しかしながら、家族は変えられない…
また、家族の関係は、会社の同僚や、友人とは、比べ物にならないくらい、人間関係が、濃密だからだ…
それゆえ、祝福される…
だから、祝福されるのは、ある意味、当たり前…
友人、知人の間柄で、家族並みに、祝福されるから、嬉しいのだ…
私は、思った…
私自身は、ジュン君の運転するクルマで、はねられたことで、むしろ、ホッとした気持ちもあった…
これで、今生とおさらばすることができる…
そんな気持ちだった…
だが、すでに言ったように、目が覚めて、藤原ナオキや、諏訪野伸明に、私が生きていたことを、喜ばれると、考えが、変わった…
…やっぱり、生きていて、良かった…
そう、思えるようになった…
しかしながら、その代償というか、ジュン君の運転するクルマに轢かれる以前と、似たようなゴタゴタが、今も変わらず、続いていて、自分が、またも、そのゴタゴタに巻き込まれることになった…
それを、思えば、果たして、目が覚めて、良かったのか、悪かったのか、わからない…
いや、
やはり、これが、寿綾乃を名乗った宿命かもしれない…
寿綾乃という女の宿命かもしれない…
常に戦いに巻き込まれる…
そこに、私の意思はない…
にもかかわらず、騒動に巻き込まれる…
だから、私は、戦わなければ、ならない…
戦わなければ、私は、どん底…
身ぐるみ剥がされて、路上に、放り出されるのが、オチだからだ…
所詮、なにもない女…
天涯孤独の身でもある…
にも、かかわらず、藤原ナオキと、知り会ったことで、成功…
誰もが羨む、藤原ナオキの秘書になり、人並み以上の給与をもらい、ジュン君といっしょに、億ションに住んだ…
そんな夢のような、生活をした…
その代償だろう…
金持ちの争いに巻き込まれた…
それは、ある意味、皮肉だった…
平凡な家庭の出身の私が、金持ちのようになり、本当なら、おそらく、知り会うことのない、お金持ちと、知り会う…
その代償として、金持ちの争いに、いつも、巻き込まれるのだ…
これ以上の皮肉はない…
そう、考えると、やはり、世の中は、うまくできてると、思う…
私のように、平凡人が、金持ちの仲間入りをする…
が、
当然、世の中、そんなうまい話はないというか…
その代償というか、いつも、金持ちの争いに、巻き込まれる…
人間関係のゴタゴタに巻き込まれる…
ある意味、人間関係のゴタゴタほど、嫌なものは、ない…
辛いものは、ない…
逃げ出せるのならば、さっさと、逃げ出したい…
誰もが、そう、思うに、違いない…
私は、傍らの佐藤ナナを見ながら、そんなことを考えた…
まだ、若い、佐藤ナナは、当然、金持ちを知らないだろう…
それゆえ、私のように、そんな金持ち同士の争いに、巻き込まれたり、間近に、見たり、聞いたり、したことは、ないに、違いない…
だからこそ、金持ちに憧れるのだ…
私は、考える…
そして、彼女を見ながら、ふと、思った…
彼女は、この五井記念病院の理事長、菊池冬馬を知っているのだろうか?
もちろん、自分の勤務する、病院の理事長なのだから、顔は知っているだろう…
だが、菊池冬馬と面識があるか、どうかは、話が別だ…
いくら大病院とはいえ、勤務する看護士や、医者は皆、理事長の菊池冬馬を知っているだろう…
しかしながら、理事長の菊池冬馬が、自分の病院に勤務する、看護師や、医者を、全員、知っているかと、いえば、話は、別だ…
普通に考えて、知らない可能性の方が、高い…
だからこそ、この佐藤ナナに、理事長の菊池冬馬と、面識があるか、どうか、聞いて、みたくなった…
「…佐藤さん…」
「…ハイ…なんでしょうか?…」
「…佐藤さんは、この病院の理事長の菊池冬馬さんを、知っているの?…」
「…エッ?…」
「…いえ、さっき、この病院の理事長と、諏訪野伸明さんが、まだ意識が回復しない、私を、見舞いに来たと言っていらしたから…」
私の質問に、佐藤ナナは、当惑した…
その肌は黒いが、愛くるしい顔を、悩ませた…
「…ご挨拶は、何度かしました…」
佐藤ナナが、考えながら、答えた…
「…諏訪野さんと理事長が、連れ立って、やって来たときに、よろしくお願いしますと、頭を下げられました…ただ、理事長が、私を覚えていらっしゃるかといえば、難しいです…」
「…どうして?…」
「…やっぱり、雲の上のひとですから、たくさんのひとに会うでしょう…だから、一度や二度、私に会ったからって、私を覚えているか、どうかは、わからないです…現に、諏訪野伸明さんは、寿さんが、まだ意識を回復していないときに、一度、お会いしましたが、私のことは、覚えていませんでした…」
やはり、この娘は、頭の回転が、速い…
あらためて、思った…
言っていることが、理路整然としている…
聞いていて、誰もが、納得することを言う…
これが、頭の悪い人間は、ひとが、納得できないことを、平然と言う…
例えば、容姿が人並みでも、この菊池冬馬と知り会えば、自分に夢中にさせてみせると、うそぶく…
誰もが、唖然とすることを、平気で言う…
できないことを、自分なら、できると、平然と言う…
冗談ではなく、本気で言う…
そのような人間が、稀にいる…
当たり前だが、佐藤ナナは、そのような人間ではない…
むしろ、その愛くるしい容姿を、武器にして、
「…知り会えば、私に夢中にさせて見せる…」
と、言ってもいい…
それぐらい、容姿が優れている…
にもかかわらず、それを口にしないのは、肌の色が浅黒いのが、コンプレックスだから…
傍から、思うよりも、彼女にとっては、コンプレッククスなのだろう…
東南アジア系のハーフ美女…
純粋な日本人にはない、華やかさがある…
それが、彼女の抜きん出た武器でもある…
「…だから、なにも気にすることはないよ…」
と、言ってやりたかったが、それは、余計なお世話だろう…
そんなことを言えば、かえって、彼女のコンプレックスを刺激する危険の方が強い…
だから、なにも言わなかった…
が、やはりというか、彼女は、気付いていた…
「…私は、この通り、肌の色が、黒い…だから、一度会えば、覚えていてくれると思っていたけど…」
と、悔しげに言った…
私は、なぜ、悔しげな口調なのだろうと、訝った…
自分を、覚えていてくれないことが、そんなに悔しいことなのかと、思った…
が、
それは、彼女が、
「…要するに、軽く見られているからです…」
と、いう言葉で、わかった…
「…たかが、看護師ぐらいにしか、見てくれないんです…」
と、嘆いた…
たしかに、そう言われれば、わかる…
本当に大切な人間ならば、覚えていてくれる…
これが、著名な芸能人や、有名な経営者や、政治家ならば、覚えていてくれる…
これは、間違いない…
佐藤ナナは、ただの美人ではない…
肌の色が浅黒い、東南アジア系のハーフ美女…
一目で、目立つ…
にもかかわらず、一度会った相手が、佐藤ナナを覚えていてくれないのは、彼女が、たいした人間ではないと思われたから…
彼女の言う通りに、他ならない…
そう考えれば、彼女の悔しさもわかる…
そして、彼女の悔しさの原因がわかったと同時に、
「…今度、諏訪野さんや藤原さんが、見舞いに来たら、佐藤さんを覚えてなかったことを、きつく叱っておきますから、許してくださいね…」
と、いう言葉が、自然と口から出た…
私の言葉に、彼女は、心底、驚いたようだ…
「…叱る?…」
目をまん丸くして、驚いた…
「…諏訪野さんや、藤原さんを叱るなんて…」
と、驚いた表情で、私を見た…
私は、
「…しまった…」
と、思った…
これでは、まるで、いかに、私が、藤原ナオキや諏訪野伸明と親しいと言わんばかり…
見方によっては、まるで、私が、いかに、この二人と、親しい間柄だと自慢しているようだ…
私は、今さらながら、自分の愚かさに気付いた…
自分の能力のなさに気付いたと言っていい…
が、
かといって、今さら、撤回することはできない…
言葉を変えることはできない…
だから、佐藤ナナが、この後、なにを言ってくるか、戦々恐々とした…
なにを言ってくるか、文字通り、怯えた…
しかし、意外なことに、佐藤ナナは、なにも言わなかった…
ただ、
「…理事長に、覚えていて、もらわれなかったのは、悔しいです…やっぱり、私は、この病院に勤める看護師なので…」
当たり障りのないことを言った…
私は、その言葉を訝った…
果たして、それは、本心から、だろうか?
と、訝った…
やはり、どうしても、素直に受け取れない…
今、佐藤ナナが言ったことは、真実であることは、わかる…
ウソではないだろう…
しかしながら、私と、藤原ナオキ、そして、諏訪野伸明の関係に、気付いたのかもしれないというのも、事実…
藤原ナオキとは、ただの秘書と、社長という関係ではないというのも、事実…
そして、諏訪野伸明とは、恋人同士とも、思っているのだろうか?
要するに、三角関係…
男女の肉体関係を持った、関係だと、気付いているだろう…
しかし、あえて、それに触れない…
そのことで、真逆に、佐藤ナナの頭の良さを感じる…
そして、私はといえば、あえて触れないことで、佐藤ナナが、
…一体、本当は、どう思っているのだろう? …
と、邪推した…
かえって、佐藤ナナが、触れないことで、深読みする…
ある意味、これ以上、バカバカしいことはない…
私は、考える…
ちょうど、そのときだった…
検診に、私の担当の、長谷川センセイが、突然、やって来た…
これには、私も、驚いた…
いや、
私だけではない…
佐藤ナナも目を丸くして、驚いた…
佐藤ナナの愛くるしい瞳が、驚きに大きく、見開かれた…
「…センセイ…今日、この時間に、いらっしゃるとは?…」
佐藤ナナの言葉に、長谷川センセイは、
「…いや、病室の前を通ったから…つい…」
と、言い訳した…
今日のこの時間は、長谷川センセイが、やってくる時間ではない…
どうした、風の吹き回しか、わからないが、とにかく、長谷川センセイが、やって来た…
これには、驚いた…
が、
これは、私以上に、佐藤ナナが、驚いた…
通常、担当医が、決められた時刻以外に、病室にやって来ることはありえないからだ…
患者が、自分から、呼ばない限り、やって来ないだろう…
しかも、ここは、五井記念病院…
日本中に名の知れた大病院だ…
そんな大病院で、ある意味、ルールを無視した行為に、佐藤ナナは、驚いたに違いない…
そして、それは、長谷川センセイも、わかっているのだろう…
「…ホント、つい、偶然…この病室の前を通って…」
と、繰り返した…
そして、繰り返すことで、より一層、その言い訳が、ウソ臭くなった…
あるいは、本当のことかもしれないが、より、繰り返すことで、余計に、言い訳臭く感じた…
ちょうど、この佐藤ナナと、真逆…
この佐藤ナナが、私、寿綾乃と、藤原ナオキ、諏訪野伸明の関係に、なんとなく気付きながらも、一切、そのことに、言及しないのとは、真逆だ…
かえって、言い訳することで、余計に、その言い訳が、ウソ臭くなる…
たとえ、その言い訳が、ホントだとしても、ウソ臭くなる…
この言動で、この長谷川センセイの子供っぽい言動が、剝き出しになった…
子供っぽい嗜好が、剥き出しになった…
が、そのことで、案外、この長谷川センセイは、信用できるかも、とも、思った…
子供っぽい言動を、目の当たりにすることで、ウソがつけない、正直な人間であるかもと、考えた…
そして、それをからかうように、
「…寿さんは、美人ですからね…」
と、佐藤ナナが、長谷川センセイに、言った…
長谷川センセイは、
「…それは…」
と、言ったきり、顔を赤くして、俯いた…
それでは、佐藤ナナの指摘が、まる当たり…
私もこの指摘で、どうして、いいか、わからなくなった…
まさか、私目当てにやって来たとは、思えないが、佐藤ナナに指摘されて、顔を真っ赤にするとは、思わなかったからだ…
そして、長谷川センセイは、
「…理事長に頼まれたから…」
と、ポツリと、漏らした…
「…理事長に?…」
私と、佐藤ナナが、同時に、声を上げた…
まったく、同時に、同じ言葉を言ったので、驚いて、互いの顔を見た…
顔を見合わせた…
が、
次に声を出したのは、私だった…
「…一体、どういうことでしょうか?…」
「…理事長に、寿さんのことを、くれぐれもよろしくと、頼まれていて…」
言いにくそうに、長谷川センセイが、口を開いた…
「…それは、諏訪野伸明さんから、頼まれて…」
私の質問に、
「…」
と、無言だった…
しかしながら、それ以外に、理事長に依頼する相手は、思い至らない…
「…いや、ボクも、この病院に勤務する勤務医だから…」
と、言い訳がましく言った…
上の命令には、逆らえないと言いたいのだろう…
上=理事長の命令には、逆らえないと言いたいのだろう…
しかし、それを口にすることで、興ざめしたというか…
私目当てに、やって来たわけではないと、知って、落胆した…
女心は、複雑…
私目当てにやって来ては、困ると言いながら、実は、そうではないと知って、落胆する…
我ながら、複雑…
女心は、複雑…
だったら、どうすれば、いいのか、と、相手は、言いたくなるに、違いない(笑)…
「…それで、寿さん、具合は?…」
担当医らしく、テキパキした口調で、聞いた…
それまでとは、一転して、優秀な医師に戻った…
本来、この長谷川センセイは、この病院でも、指折りの優秀な医師に違いない…
なぜなら、五井家当主の諏訪野伸明と、この病院の理事長が、見舞いに来るような、患者だ…
いい加減な医師を担当にする、わけがない…
もっとも、優秀な医師の一人を、担当にするに決まっている…
そんなことを、考えながら、
「…だいぶ、いいです…」
と、答えた…
私の返答に、長谷川センセイは、自信を持った様子だった…
「…寿さんは、運がいい…」
「…運ですか?…」
「…クルマにはねられても、重体には、ならなかった…意識は、回復しなかったが、頭は打たなかった…これが、良かった…」
長谷川センセイが、説明する…
「…クルマにはねられるのは、ある意味、ビルの屋上から、卵を落とすのと、いっしょだ…」
思いがけない例え話を、言いだした…
「…どういうことですか?…」
「…たとえば、六階建てのビルの屋上から、生卵を落とすとします…」
「…」
「…仮に、100個、落とすとします…普通は、全部、割れると、思うでしょう?…」
「…ハイ…」
「…さにあらず…割れない卵もあります…」
「…それは、どうして?…」
「…要するに、地上に、落ちたときに、卵のどの部分が、ぶつかるかです…硬い部分なら、割れない…そういうことです…」
「…」
「…つまり、交通事故も、それと同じです…交通事故だから、同じように、クルマにはねられたと思うかもしれませんが、皆、内容は違います…クルマの大きさも違うし、どのようにはねられたかも、違う…要するに、千差万別です…だから、今、言った、卵のように、無傷とは言えませんが、卵が割れないように、ケガが、軽いこともある…寿さんは、それに当てはまります…」
うまいことを言う…
私は、思った…
そう言われれば、わかる…
そう言われれば、納得する…
卵のたとえが、納得する…
そう思ったときだった…
「…プッ!…」
と、誰かが、吹き出す声がした…
私と、長谷川センセイは、その音のする方を見た…
声の主は、当然のことながら、佐藤ナナだった…
なにしろ、この病室には、三人しかいないのだ…
私でも、長谷川センセイでも、なければ、佐藤ナナしか、いなかった…
「…センセイ、それ、この前も、別の患者さんに言ってましたよ…」
私は、その言葉で、佐藤ナナから、視線を、長谷川センセイに戻した…
「…センセイ…そんな言葉じゃ、寿さんを口説けませんよ…」
その言葉に、
「…」
と、長谷川センセイは、絶句した…
文字通り、言葉が出なかった…
「…いや、ボクは、そんなつもりじゃ…」
と、顔を、真っ赤にして、俯いてしまった…
私は、どうして、いいか、わからなかった…
こうした場合、長谷川センセイに、なにか、言うことはできない…
だから、佐藤ナナに向かって、
「…患者さんを、励ますときは、医者は、どうしても似たような言葉を口にするものなんじゃ…」
と、うまく、言った…
これが、一番だと思ったのだ…
しかしながら、佐藤ナナは容赦なかった…
「…好きな女を口説くのに、他の患者さんと同じ説明をしていたんじゃダメです…」
と、ダメ出しした…
長谷川センセイは、
「…」
と、なにも言わなかった…
いや、
言えなかったのかもしれない…
が、私はというと、この佐藤ナナを見て、彼女が、長谷川センセイを好きなんだと、気付いた…
それゆえ、わざと、長谷川センセイをからかっていることに、気付いた…
ちょうど、小学生の子供が、好きな女のコに、わざと、ちょっかいを出して、いじめたりするのと、同じだ…
しかしながら、それは、男のコが、女のコにすること…
今、目の前で、起こっているのは、それとは、真逆…
女が、男をいじめてる(笑)…
女が、男にちょっかいを出している(笑)…
しかも、男は、女より、10歳は、年上…
にもかかわらず、からかわれてる…
そう、考えると、複雑というか、面白かった…
それは、佐藤ナナが、意地の悪い人間では、ないからだ…
おそらく、佐藤ナナから、長谷川センセイに、ちょっかいを出している…
にもかかわらず、長谷川センセイは、全然、佐藤ナナの気持ちに気付いていない…
そう考えると、実に、面白かった…
自分より、若い十歳も年下の美女に、誘われてる…
にもかかわらず、誘われた当事者は、まったく、相手の意図に気付いていない…
そう考えると、実に、面白かった…
痛快だった…
この光景を見て、つくづく、自分は、女なんだ、と、思った…
どういうことかというと、女は、いつも、恋愛が好き…
自分が、男に恋することも、そうだが、他の男女が、恋をするのを見るのも、好き…
女はいくつになっても、変わらない…
学校でも、会社でも、誰が、誰を好きとか、誰と誰が、付き合っているという噂は、まるで、人生の最重要事項のような扱いになる…
それほど、女にとっては、大切なことなのだ…
私自身も、それは、同じ…
変わらない…
やはりというか、つい、気になってしまう…
誰が、誰を、好きなのか、つい、気になってしまう…
自分とは、なんの関係もないと、思いつつ、つい、気にしてしまう…
私は、目の前の、長谷川センセイと、佐藤ナナのやりとりを見て、そう思った…
そして、この二人がうまくいけばと、思った…
結ばれれば、と、思った…
佐藤ナナは、悪いコではない…
ルックスも良く、華やか…
なにより、性格がいい…
これは、長谷川センセイも、また同じ…
この病院に入院して、意識が回復してから、まだ何度も会っていないが、いいひとか、悪いひとか、聞かれれば、間違いなく、いいひとと、答えるからだ…
性格の良い人間同士のやりとりは、傍から見ていても、微笑ましい…
見ていて、気持ちのいいものだ…
私自身は、なにも関係がないが、つい、佐藤ナナに、
「…頑張って…」
と、応援したくなる…
私は、ベッドに、横になりながら、そんなことを、考えた…
同時に、つくづく、ベッドに横たわる病人が、考えることじゃないな、と、思った…
自分の担当の医者のセンセイと、担当の看護師の女性が、うまくいけばいい、と、願う患者が、どこの世界にいるのだろうか?
病人は、自分の病気のことだけを、考えれば、いい…
誰もが、そう思うはずだ…
そう考えると、実に、面白かった(笑)…
なにが、面白いかといえば、自分自身が、面白いのだ…
これが、寿綾乃という女…
自分自身を客観的に見て、そう感じた…
第三者の視点で、見て、思った…
寿綾乃は、タフで、どんなときも、音を上げない…
そんな周囲の評価通りの思考形態だった…
目が覚めた=意識が回復した…
意識は、回復せずとも、体力は、時間が経てば、回復する…
眠っている間にも、体力は、回復する…
私、寿綾乃が、ジュン君の運転するクルマにはねられて、意識を失った…
その間に、この五井記念病院に運ばれ、手術を受けた…
交通事故に遭ったのだから、当然だ…
手術は、成功…
ただし、意識は回復しなかった…
が、
その間にも、カラダは、少しずつだが、回復した…
交通事故でも、当たり方が、良かったのだ…
なにより、頭を打たなかったのが、良かった…
カラダも奇跡的に良かったのだろう…
ただし、癌はダメだった…
以前、指摘された末期がんではなかったが、完治には、ほど遠かったのだ…
しかし、生きることはできた…
生き延びることはできた…
これは、大きい…
あと、何年、生きれるか、わからないが、とりあえず、生きることはできた…
そう、考えれば、喜ばしいことだ…
が、
現実に、目が覚めれば、目の前に、五井家のゴタゴタがあった…
これでは、まるで、目が覚める前と、まったくいっしょ…
同じ状況だった…
なに一つ、変わっていない…
目が覚める前も、私は、五井家のゴタゴタに巻き込まれた…
諏訪野伸明と、諏訪野秀樹、兄弟の争い…
その他、諏訪野伸明の叔父、諏訪野義春、そして、諏訪野マミ…
彼らのゴタゴタに巻き込まれ、文字通り、疲弊した…
疲労困憊した…
ジュン君の運転するクルマにはねられたとき、
…やっと、世間のゴタゴタから解放される…
そんな気持ちが、私の脳裏をかすめた…
ほとんど、一瞬だが、そんな気持ちになった…
それほど、疲れていた…
むしろ、死は、私にとって、喜ばしいことだった…
死=安らぎに他ならなかった…
しかし、私は、生きていた…
目が覚めて、それが、わかった…
そして、藤原ナオキや、諏訪野伸明と、話すことで、やっぱり生きていて、良かったと、思った…
考えを、変えた…
なにより、自分が生きていたことで、藤原ナオキも、諏訪野伸明も、心の底から、喜んでくれた…
これは、嬉しい…
自分が生きていることで、こんなにも、他人から、喜ばれるとは、思わなかった…
誰もが、そうだが、家族以外の人間で、自分が生きていて、祝福されることは、あまりない…
それは、ある意味、当たり前…
家族は、身近な存在…
代わりが、きかない存在だからだ…
会社や友人は、変えられる…
しかしながら、家族は変えられない…
また、家族の関係は、会社の同僚や、友人とは、比べ物にならないくらい、人間関係が、濃密だからだ…
それゆえ、祝福される…
だから、祝福されるのは、ある意味、当たり前…
友人、知人の間柄で、家族並みに、祝福されるから、嬉しいのだ…
私は、思った…
私自身は、ジュン君の運転するクルマで、はねられたことで、むしろ、ホッとした気持ちもあった…
これで、今生とおさらばすることができる…
そんな気持ちだった…
だが、すでに言ったように、目が覚めて、藤原ナオキや、諏訪野伸明に、私が生きていたことを、喜ばれると、考えが、変わった…
…やっぱり、生きていて、良かった…
そう、思えるようになった…
しかしながら、その代償というか、ジュン君の運転するクルマに轢かれる以前と、似たようなゴタゴタが、今も変わらず、続いていて、自分が、またも、そのゴタゴタに巻き込まれることになった…
それを、思えば、果たして、目が覚めて、良かったのか、悪かったのか、わからない…
いや、
やはり、これが、寿綾乃を名乗った宿命かもしれない…
寿綾乃という女の宿命かもしれない…
常に戦いに巻き込まれる…
そこに、私の意思はない…
にもかかわらず、騒動に巻き込まれる…
だから、私は、戦わなければ、ならない…
戦わなければ、私は、どん底…
身ぐるみ剥がされて、路上に、放り出されるのが、オチだからだ…
所詮、なにもない女…
天涯孤独の身でもある…
にも、かかわらず、藤原ナオキと、知り会ったことで、成功…
誰もが羨む、藤原ナオキの秘書になり、人並み以上の給与をもらい、ジュン君といっしょに、億ションに住んだ…
そんな夢のような、生活をした…
その代償だろう…
金持ちの争いに巻き込まれた…
それは、ある意味、皮肉だった…
平凡な家庭の出身の私が、金持ちのようになり、本当なら、おそらく、知り会うことのない、お金持ちと、知り会う…
その代償として、金持ちの争いに、いつも、巻き込まれるのだ…
これ以上の皮肉はない…
そう、考えると、やはり、世の中は、うまくできてると、思う…
私のように、平凡人が、金持ちの仲間入りをする…
が、
当然、世の中、そんなうまい話はないというか…
その代償というか、いつも、金持ちの争いに、巻き込まれる…
人間関係のゴタゴタに巻き込まれる…
ある意味、人間関係のゴタゴタほど、嫌なものは、ない…
辛いものは、ない…
逃げ出せるのならば、さっさと、逃げ出したい…
誰もが、そう、思うに、違いない…
私は、傍らの佐藤ナナを見ながら、そんなことを考えた…
まだ、若い、佐藤ナナは、当然、金持ちを知らないだろう…
それゆえ、私のように、そんな金持ち同士の争いに、巻き込まれたり、間近に、見たり、聞いたり、したことは、ないに、違いない…
だからこそ、金持ちに憧れるのだ…
私は、考える…
そして、彼女を見ながら、ふと、思った…
彼女は、この五井記念病院の理事長、菊池冬馬を知っているのだろうか?
もちろん、自分の勤務する、病院の理事長なのだから、顔は知っているだろう…
だが、菊池冬馬と面識があるか、どうかは、話が別だ…
いくら大病院とはいえ、勤務する看護士や、医者は皆、理事長の菊池冬馬を知っているだろう…
しかしながら、理事長の菊池冬馬が、自分の病院に勤務する、看護師や、医者を、全員、知っているかと、いえば、話は、別だ…
普通に考えて、知らない可能性の方が、高い…
だからこそ、この佐藤ナナに、理事長の菊池冬馬と、面識があるか、どうか、聞いて、みたくなった…
「…佐藤さん…」
「…ハイ…なんでしょうか?…」
「…佐藤さんは、この病院の理事長の菊池冬馬さんを、知っているの?…」
「…エッ?…」
「…いえ、さっき、この病院の理事長と、諏訪野伸明さんが、まだ意識が回復しない、私を、見舞いに来たと言っていらしたから…」
私の質問に、佐藤ナナは、当惑した…
その肌は黒いが、愛くるしい顔を、悩ませた…
「…ご挨拶は、何度かしました…」
佐藤ナナが、考えながら、答えた…
「…諏訪野さんと理事長が、連れ立って、やって来たときに、よろしくお願いしますと、頭を下げられました…ただ、理事長が、私を覚えていらっしゃるかといえば、難しいです…」
「…どうして?…」
「…やっぱり、雲の上のひとですから、たくさんのひとに会うでしょう…だから、一度や二度、私に会ったからって、私を覚えているか、どうかは、わからないです…現に、諏訪野伸明さんは、寿さんが、まだ意識を回復していないときに、一度、お会いしましたが、私のことは、覚えていませんでした…」
やはり、この娘は、頭の回転が、速い…
あらためて、思った…
言っていることが、理路整然としている…
聞いていて、誰もが、納得することを言う…
これが、頭の悪い人間は、ひとが、納得できないことを、平然と言う…
例えば、容姿が人並みでも、この菊池冬馬と知り会えば、自分に夢中にさせてみせると、うそぶく…
誰もが、唖然とすることを、平気で言う…
できないことを、自分なら、できると、平然と言う…
冗談ではなく、本気で言う…
そのような人間が、稀にいる…
当たり前だが、佐藤ナナは、そのような人間ではない…
むしろ、その愛くるしい容姿を、武器にして、
「…知り会えば、私に夢中にさせて見せる…」
と、言ってもいい…
それぐらい、容姿が優れている…
にもかかわらず、それを口にしないのは、肌の色が浅黒いのが、コンプレックスだから…
傍から、思うよりも、彼女にとっては、コンプレッククスなのだろう…
東南アジア系のハーフ美女…
純粋な日本人にはない、華やかさがある…
それが、彼女の抜きん出た武器でもある…
「…だから、なにも気にすることはないよ…」
と、言ってやりたかったが、それは、余計なお世話だろう…
そんなことを言えば、かえって、彼女のコンプレックスを刺激する危険の方が強い…
だから、なにも言わなかった…
が、やはりというか、彼女は、気付いていた…
「…私は、この通り、肌の色が、黒い…だから、一度会えば、覚えていてくれると思っていたけど…」
と、悔しげに言った…
私は、なぜ、悔しげな口調なのだろうと、訝った…
自分を、覚えていてくれないことが、そんなに悔しいことなのかと、思った…
が、
それは、彼女が、
「…要するに、軽く見られているからです…」
と、いう言葉で、わかった…
「…たかが、看護師ぐらいにしか、見てくれないんです…」
と、嘆いた…
たしかに、そう言われれば、わかる…
本当に大切な人間ならば、覚えていてくれる…
これが、著名な芸能人や、有名な経営者や、政治家ならば、覚えていてくれる…
これは、間違いない…
佐藤ナナは、ただの美人ではない…
肌の色が浅黒い、東南アジア系のハーフ美女…
一目で、目立つ…
にもかかわらず、一度会った相手が、佐藤ナナを覚えていてくれないのは、彼女が、たいした人間ではないと思われたから…
彼女の言う通りに、他ならない…
そう考えれば、彼女の悔しさもわかる…
そして、彼女の悔しさの原因がわかったと同時に、
「…今度、諏訪野さんや藤原さんが、見舞いに来たら、佐藤さんを覚えてなかったことを、きつく叱っておきますから、許してくださいね…」
と、いう言葉が、自然と口から出た…
私の言葉に、彼女は、心底、驚いたようだ…
「…叱る?…」
目をまん丸くして、驚いた…
「…諏訪野さんや、藤原さんを叱るなんて…」
と、驚いた表情で、私を見た…
私は、
「…しまった…」
と、思った…
これでは、まるで、いかに、私が、藤原ナオキや諏訪野伸明と親しいと言わんばかり…
見方によっては、まるで、私が、いかに、この二人と、親しい間柄だと自慢しているようだ…
私は、今さらながら、自分の愚かさに気付いた…
自分の能力のなさに気付いたと言っていい…
が、
かといって、今さら、撤回することはできない…
言葉を変えることはできない…
だから、佐藤ナナが、この後、なにを言ってくるか、戦々恐々とした…
なにを言ってくるか、文字通り、怯えた…
しかし、意外なことに、佐藤ナナは、なにも言わなかった…
ただ、
「…理事長に、覚えていて、もらわれなかったのは、悔しいです…やっぱり、私は、この病院に勤める看護師なので…」
当たり障りのないことを言った…
私は、その言葉を訝った…
果たして、それは、本心から、だろうか?
と、訝った…
やはり、どうしても、素直に受け取れない…
今、佐藤ナナが言ったことは、真実であることは、わかる…
ウソではないだろう…
しかしながら、私と、藤原ナオキ、そして、諏訪野伸明の関係に、気付いたのかもしれないというのも、事実…
藤原ナオキとは、ただの秘書と、社長という関係ではないというのも、事実…
そして、諏訪野伸明とは、恋人同士とも、思っているのだろうか?
要するに、三角関係…
男女の肉体関係を持った、関係だと、気付いているだろう…
しかし、あえて、それに触れない…
そのことで、真逆に、佐藤ナナの頭の良さを感じる…
そして、私はといえば、あえて触れないことで、佐藤ナナが、
…一体、本当は、どう思っているのだろう? …
と、邪推した…
かえって、佐藤ナナが、触れないことで、深読みする…
ある意味、これ以上、バカバカしいことはない…
私は、考える…
ちょうど、そのときだった…
検診に、私の担当の、長谷川センセイが、突然、やって来た…
これには、私も、驚いた…
いや、
私だけではない…
佐藤ナナも目を丸くして、驚いた…
佐藤ナナの愛くるしい瞳が、驚きに大きく、見開かれた…
「…センセイ…今日、この時間に、いらっしゃるとは?…」
佐藤ナナの言葉に、長谷川センセイは、
「…いや、病室の前を通ったから…つい…」
と、言い訳した…
今日のこの時間は、長谷川センセイが、やってくる時間ではない…
どうした、風の吹き回しか、わからないが、とにかく、長谷川センセイが、やって来た…
これには、驚いた…
が、
これは、私以上に、佐藤ナナが、驚いた…
通常、担当医が、決められた時刻以外に、病室にやって来ることはありえないからだ…
患者が、自分から、呼ばない限り、やって来ないだろう…
しかも、ここは、五井記念病院…
日本中に名の知れた大病院だ…
そんな大病院で、ある意味、ルールを無視した行為に、佐藤ナナは、驚いたに違いない…
そして、それは、長谷川センセイも、わかっているのだろう…
「…ホント、つい、偶然…この病室の前を通って…」
と、繰り返した…
そして、繰り返すことで、より一層、その言い訳が、ウソ臭くなった…
あるいは、本当のことかもしれないが、より、繰り返すことで、余計に、言い訳臭く感じた…
ちょうど、この佐藤ナナと、真逆…
この佐藤ナナが、私、寿綾乃と、藤原ナオキ、諏訪野伸明の関係に、なんとなく気付きながらも、一切、そのことに、言及しないのとは、真逆だ…
かえって、言い訳することで、余計に、その言い訳が、ウソ臭くなる…
たとえ、その言い訳が、ホントだとしても、ウソ臭くなる…
この言動で、この長谷川センセイの子供っぽい言動が、剝き出しになった…
子供っぽい嗜好が、剥き出しになった…
が、そのことで、案外、この長谷川センセイは、信用できるかも、とも、思った…
子供っぽい言動を、目の当たりにすることで、ウソがつけない、正直な人間であるかもと、考えた…
そして、それをからかうように、
「…寿さんは、美人ですからね…」
と、佐藤ナナが、長谷川センセイに、言った…
長谷川センセイは、
「…それは…」
と、言ったきり、顔を赤くして、俯いた…
それでは、佐藤ナナの指摘が、まる当たり…
私もこの指摘で、どうして、いいか、わからなくなった…
まさか、私目当てにやって来たとは、思えないが、佐藤ナナに指摘されて、顔を真っ赤にするとは、思わなかったからだ…
そして、長谷川センセイは、
「…理事長に頼まれたから…」
と、ポツリと、漏らした…
「…理事長に?…」
私と、佐藤ナナが、同時に、声を上げた…
まったく、同時に、同じ言葉を言ったので、驚いて、互いの顔を見た…
顔を見合わせた…
が、
次に声を出したのは、私だった…
「…一体、どういうことでしょうか?…」
「…理事長に、寿さんのことを、くれぐれもよろしくと、頼まれていて…」
言いにくそうに、長谷川センセイが、口を開いた…
「…それは、諏訪野伸明さんから、頼まれて…」
私の質問に、
「…」
と、無言だった…
しかしながら、それ以外に、理事長に依頼する相手は、思い至らない…
「…いや、ボクも、この病院に勤務する勤務医だから…」
と、言い訳がましく言った…
上の命令には、逆らえないと言いたいのだろう…
上=理事長の命令には、逆らえないと言いたいのだろう…
しかし、それを口にすることで、興ざめしたというか…
私目当てに、やって来たわけではないと、知って、落胆した…
女心は、複雑…
私目当てにやって来ては、困ると言いながら、実は、そうではないと知って、落胆する…
我ながら、複雑…
女心は、複雑…
だったら、どうすれば、いいのか、と、相手は、言いたくなるに、違いない(笑)…
「…それで、寿さん、具合は?…」
担当医らしく、テキパキした口調で、聞いた…
それまでとは、一転して、優秀な医師に戻った…
本来、この長谷川センセイは、この病院でも、指折りの優秀な医師に違いない…
なぜなら、五井家当主の諏訪野伸明と、この病院の理事長が、見舞いに来るような、患者だ…
いい加減な医師を担当にする、わけがない…
もっとも、優秀な医師の一人を、担当にするに決まっている…
そんなことを、考えながら、
「…だいぶ、いいです…」
と、答えた…
私の返答に、長谷川センセイは、自信を持った様子だった…
「…寿さんは、運がいい…」
「…運ですか?…」
「…クルマにはねられても、重体には、ならなかった…意識は、回復しなかったが、頭は打たなかった…これが、良かった…」
長谷川センセイが、説明する…
「…クルマにはねられるのは、ある意味、ビルの屋上から、卵を落とすのと、いっしょだ…」
思いがけない例え話を、言いだした…
「…どういうことですか?…」
「…たとえば、六階建てのビルの屋上から、生卵を落とすとします…」
「…」
「…仮に、100個、落とすとします…普通は、全部、割れると、思うでしょう?…」
「…ハイ…」
「…さにあらず…割れない卵もあります…」
「…それは、どうして?…」
「…要するに、地上に、落ちたときに、卵のどの部分が、ぶつかるかです…硬い部分なら、割れない…そういうことです…」
「…」
「…つまり、交通事故も、それと同じです…交通事故だから、同じように、クルマにはねられたと思うかもしれませんが、皆、内容は違います…クルマの大きさも違うし、どのようにはねられたかも、違う…要するに、千差万別です…だから、今、言った、卵のように、無傷とは言えませんが、卵が割れないように、ケガが、軽いこともある…寿さんは、それに当てはまります…」
うまいことを言う…
私は、思った…
そう言われれば、わかる…
そう言われれば、納得する…
卵のたとえが、納得する…
そう思ったときだった…
「…プッ!…」
と、誰かが、吹き出す声がした…
私と、長谷川センセイは、その音のする方を見た…
声の主は、当然のことながら、佐藤ナナだった…
なにしろ、この病室には、三人しかいないのだ…
私でも、長谷川センセイでも、なければ、佐藤ナナしか、いなかった…
「…センセイ、それ、この前も、別の患者さんに言ってましたよ…」
私は、その言葉で、佐藤ナナから、視線を、長谷川センセイに戻した…
「…センセイ…そんな言葉じゃ、寿さんを口説けませんよ…」
その言葉に、
「…」
と、長谷川センセイは、絶句した…
文字通り、言葉が出なかった…
「…いや、ボクは、そんなつもりじゃ…」
と、顔を、真っ赤にして、俯いてしまった…
私は、どうして、いいか、わからなかった…
こうした場合、長谷川センセイに、なにか、言うことはできない…
だから、佐藤ナナに向かって、
「…患者さんを、励ますときは、医者は、どうしても似たような言葉を口にするものなんじゃ…」
と、うまく、言った…
これが、一番だと思ったのだ…
しかしながら、佐藤ナナは容赦なかった…
「…好きな女を口説くのに、他の患者さんと同じ説明をしていたんじゃダメです…」
と、ダメ出しした…
長谷川センセイは、
「…」
と、なにも言わなかった…
いや、
言えなかったのかもしれない…
が、私はというと、この佐藤ナナを見て、彼女が、長谷川センセイを好きなんだと、気付いた…
それゆえ、わざと、長谷川センセイをからかっていることに、気付いた…
ちょうど、小学生の子供が、好きな女のコに、わざと、ちょっかいを出して、いじめたりするのと、同じだ…
しかしながら、それは、男のコが、女のコにすること…
今、目の前で、起こっているのは、それとは、真逆…
女が、男をいじめてる(笑)…
女が、男にちょっかいを出している(笑)…
しかも、男は、女より、10歳は、年上…
にもかかわらず、からかわれてる…
そう、考えると、複雑というか、面白かった…
それは、佐藤ナナが、意地の悪い人間では、ないからだ…
おそらく、佐藤ナナから、長谷川センセイに、ちょっかいを出している…
にもかかわらず、長谷川センセイは、全然、佐藤ナナの気持ちに気付いていない…
そう考えると、実に、面白かった…
自分より、若い十歳も年下の美女に、誘われてる…
にもかかわらず、誘われた当事者は、まったく、相手の意図に気付いていない…
そう考えると、実に、面白かった…
痛快だった…
この光景を見て、つくづく、自分は、女なんだ、と、思った…
どういうことかというと、女は、いつも、恋愛が好き…
自分が、男に恋することも、そうだが、他の男女が、恋をするのを見るのも、好き…
女はいくつになっても、変わらない…
学校でも、会社でも、誰が、誰を好きとか、誰と誰が、付き合っているという噂は、まるで、人生の最重要事項のような扱いになる…
それほど、女にとっては、大切なことなのだ…
私自身も、それは、同じ…
変わらない…
やはりというか、つい、気になってしまう…
誰が、誰を、好きなのか、つい、気になってしまう…
自分とは、なんの関係もないと、思いつつ、つい、気にしてしまう…
私は、目の前の、長谷川センセイと、佐藤ナナのやりとりを見て、そう思った…
そして、この二人がうまくいけばと、思った…
結ばれれば、と、思った…
佐藤ナナは、悪いコではない…
ルックスも良く、華やか…
なにより、性格がいい…
これは、長谷川センセイも、また同じ…
この病院に入院して、意識が回復してから、まだ何度も会っていないが、いいひとか、悪いひとか、聞かれれば、間違いなく、いいひとと、答えるからだ…
性格の良い人間同士のやりとりは、傍から見ていても、微笑ましい…
見ていて、気持ちのいいものだ…
私自身は、なにも関係がないが、つい、佐藤ナナに、
「…頑張って…」
と、応援したくなる…
私は、ベッドに、横になりながら、そんなことを、考えた…
同時に、つくづく、ベッドに横たわる病人が、考えることじゃないな、と、思った…
自分の担当の医者のセンセイと、担当の看護師の女性が、うまくいけばいい、と、願う患者が、どこの世界にいるのだろうか?
病人は、自分の病気のことだけを、考えれば、いい…
誰もが、そう思うはずだ…
そう考えると、実に、面白かった(笑)…
なにが、面白いかといえば、自分自身が、面白いのだ…
これが、寿綾乃という女…
自分自身を客観的に見て、そう感じた…
第三者の視点で、見て、思った…
寿綾乃は、タフで、どんなときも、音を上げない…
そんな周囲の評価通りの思考形態だった…