第20話
文字数 9,494文字
…私が、人質?…
…そんなバカな?…
あらためて、思った…
あの理事長の菊池冬馬が、私を人質に取りたいのは、わかる…
しかし、いくらなんでも、担当医が、退院してもいい、と、言ってるのなら、それに反対はできないのではないか?
そう思った…
なにより、そんなことをすれば、噂になる…
噂?
それを言えば、今現在、菊池冬馬自身が、この病院の理事長を解任されるかもしれないと、いう噂が、病院内で、流れていると、この佐藤ナナが言っていた…
もし、それが事実ならば、私の退院を阻止するような真似をすれば、余計に、あの、ゴッドマザー、諏訪野伸明の母、昭子を怒らせることになるのではないか?
私は、思った…
そう、思ったときだった…
長谷川センセイが、
「…それは、ブラフだと思う…」
と、いいづらそうに言った…
「…ブラフ?…」
私は、訊いた…
「…つまり、はったり?…」
「…はったりって、寿さんを人質に取るのが、はったりってことですか?…」
今度は、佐藤ナナが、訊いた…
「…その通り…」
長谷川センセイが、答える…
「…ボクも、この病院に勤務する、勤務医だ…冬馬が、五井家から、追放されるかもしれないという噂は、聞いた…」
「…」
「…でも、だから、だろう…寿さんを、人質に取るという、噂を、流したのかもしれない…いわば、そうすることで、五井家を牽制したともいえる…」
「…」
「…冬馬もバカじゃない…五井家あっての、菊池冬馬だということは、わかっているだろう…五井家を出れば、ただの一般人だ…」
長谷川センセイが、断言する…
私は、その言葉を聞きながら、その通りだろうと、思った…
菊池冬馬もバカじゃない…
自分の力は、わかっているに違いない…
現に今、長谷川センセイが、言ったことと、同じことを、この病室で、あの昭子の前で、言ったではないか?
私は、それを思い出した…
「…だから、冬馬は、五井家を追放されたくないから、わざと、今、寿さんは、自分の手のひらの上にいると、言いたいんじゃないかな…かといって、どうこうすることもできない…変な話、核兵器を持っていても、使えないのと同じ…あくまで、ボクは、核兵器を持っていると、脅しているに過ぎない…実際に使うことはできない…核兵器を使えば、下手をすれば、人類が滅ぶ…それと同じで、寿さんに、実際に、理事長の権限で、なにかすれば、すぐに、五井家から、理事長を解任される…それが、わかっているから、あくまで、ブラウ…脅し…寿さんが、自分が理事長を務める病院に入院していることを、忘れるな、とでも、言いたいに過ぎないと、思う…」
長谷川センセイが、考えながら、言った…
私は、その言葉に共感した…
たしかに、長谷川センセイの言う通りだろう…
下手に私に手を出すことはできない…
だが、今現在は、自分の支配下にあるとでも、言いたいのかもしれない…
それが、先日、偶然、廊下で、会った際のあの表情に、すべてが、凝縮されているのかもしれない…
あの憎々しげに、私を見ていた表情に、凝縮していたのかもしれない…
私は、あらためて、思った…
そして、気付いた…
このまま、いけば、私は、もしかしたら、諏訪野伸明と結婚して、五井家に入るかもしれない…
かたや、冬馬は、五井家を追放されるかもしれない…
そんな危機感が、あの、廊下で出会ったときに、現れていたのではないか?
自分が劣勢に立たされているがゆえに、余計に私を見下したのかも?
弱い人間が、ことさら、自分を強く見せようとするのと、同じで、わざと、私を見下して見ることで、自分の優位性を示したかったのではないか?
私は、その事実に気付いた…
いずれにしろ、真相は、わからない…
単純に、冬馬の性格が、悪いだけということもあるかもしれない(笑)…
あくまで、私が、思ったのは、可能性に過ぎない…
私が、考えていると、
「…冬馬は…」
と、長谷川センセイが、口を挟んだ…
「…アイツは、プライドが高い…でも、そのプライドの源泉は、自分が、五井家の人間であること…それが、すべてだ…」
「…すべて?…」
「…誰だって、そうだが、ある程度の年齢になれば、自分の能力は、わかる…たとえば、自分が、女にモテるとか、モテないかは、中学生にでもなれば、大抵は、わかるが、勉強の方は、そうじゃない…」
「…どういう意味ですか?…」
「…中学生じゃ、あまりにも、世界が狭いというか…高校に入って、全国模試をして、その中で、何番ぐらいの位置にいるか…そして、その後、実際、どんな大学に入ったのかで、自分の立ち位置がわかるというか…」
「…」
「…ボクも、冬馬も、いわゆる一流大学を出たけれども、上には上がいるというか…別に、東大や京大に入ったわけでもないけれど、大学に行けば、当たり前だが、自分より、頭のいい人間は、ごまんといる…」
「…」
「…ボクも、そうだが、冬馬も同じく、そんな現実を思い知ったというか…すると、冬馬には、五井家しか、なくなる…金持ちのお坊ちゃまという肩書しか、なくなる…それが、唯一のよりどころというか…」
「…」
「…誰にも、誇れるもので、実際、誰もが、その位置に遠く及ばない…それが、五井家…そして、五井家の人間で、いることが、冬馬のプライドのよりどころとなる…だから、今、その五井家から、追い出されるかもしれないことが、冬馬にとって、何物にも代えがたいショックに違いない…」
「…」
「…冬馬もまた凡人だ…自分が、凡人であることがわかっているからこそ、五井家にしがみつく…自分の能力をわかっているからこそ、五井家のブランドを失いたくないんだろう…」
長谷川センセイが、冬馬の胸の内を代弁した…
私には、長谷川センセイの言うことが、よくわかった…
菊池冬馬は、私、寿綾乃と同じく32歳…
32歳にでもなれば、大抵は、自分の能力がわかる…
社会での立ち位置がわかる…
普通の人間ならば、どんな高校を出て、どんな大学を出て、どんな会社に就職するかで、その後の人生が、なんとなく、想像がつく…
今現在、リストラなどの不安要素を考えれば、きりがないが、それでも、会社に入って、数年すれば、自分が、社内で、出世コースに乗っているかどうかぐらいは、わかる…
わからない人間がいるとすれば、それは、よほど、間抜けな人間だろう…
そんなことを、経験して、誰もが、なんとなく自分の実力がわかってくる…
そういうものだ…
ただ、やはり、運、不運というものは、誰もがある…
わかりやすい例でいえば、一流の大学を出ても、いい会社に入社できず、社会で、くすぶっている者もいれば、たいした大学を出ずとも、思いがけず出世する者も、稀にいる…
そういった場合、共通するのは、仕事が自分に合うこと…
そして、職場の雰囲気が、自分に合うことに他ならない…
うまく、自分に合うことで、自分の能力を生かすことができる…
自分の能力を引き出すことができる…
仕事が、勉強と違う最大の要因は、環境にある…
勉強は、基本、家で、自分一人が、やれば、いいが、仕事は、職場で、大勢の人間と、いっしょにやるのが、大半だ…
そして、職場の人間を束ね、リーダーになる…
いくら、勉強ができても、人を束ねられない人間は、いるし、それができない人間に、その役割を求められたら、それは、その人間にとって、悲劇に他ならない…
要するに、適材適所…
うまく自分に合う職場と、巡り会い、自分の能力を生かす、仕事に就けるか、否か…
それは、運に過ぎない…
誰もが、凡人…
天才はいない…
出世する人間は、頭の良さもさることながら、運もまたいい…
自分の能力を最大限、生かせる、職場、そして、仕事に巡り合ったともいえる…
そして、そんな幸運な人間は、一握りに、過ぎない…
だから、出世できる…
社会で、活躍できるということだ…
私、寿綾乃は、32歳で、決して、多くの会社を渡り歩いたわけでもない…
だが、
そんな私でも、その程度のことは、わかる…
ただ、出世も、運…
運に過ぎない…
途中で、リストラされ、それまでいた会社では、偉くなっても、他社では、使えないと、烙印を押される人間もまた、枚挙にいとまがない…
要するに、それまで、自分のいた、部署や、仕事、そして、職場が、その人間にうまくあっていたから、能力を発揮できただけで、リストラされ、他社に鞍替えしたときに、仕事や、職場の雰囲気が、どうしても、自分に、なじめない場合が、多々ある…
要するに、運が尽きたのだ…
そうなれば、当然、他社で、その人間が、評価されるはずもない…
結局、転職した会社を、自分から、辞めるか、お払い箱=リストラされるか、あるいは、その会社で、埋もれた会社生活を送るかの、いずれかだろう…
私は、思った…
そして、菊池冬馬もまた、その現実を知っているのだろう…
冬馬自身は、お金持ちのボンボンに過ぎないが、友人、知人から、色々な話を聞いているだろう…
32歳にもなった男が、そんなことも、わからないとは、思えない…
また、それが、わからないほど、愚かとは、思えない…
もし、それが、わからないのであれば、この病院の理事長など、任せられないに違いない…
ひとの口に戸は立てられない…
菊池冬馬が、無能ならば、無能であることが、噂になり、五井家の耳に入るに違いない…
そうなれば、やはり、理事長を解任するしか、なくなるだろう…
五井記念病院という、世に知られた病院の理事長が、無能では、五井の名前に、傷が付くというものだからだ…
そんなことを、考えていると、
「…冬馬にとって、寿さんの存在は、特別なんだと思う…」
と、長谷川センセイが言った…
「…特別?…」
「…今も言ったように、冬馬は、今、首筋が寒い…いつ、自分が、五井家から、追い出されるのか、わからない…かといって、冬馬の力では、どうすることもできない…その中で、唯一といっていいことが、寿さんの入院する、病院の理事長だということ…この理事長という立場を使って、寿さんを人質に取ることが、アイツができる、ただひとつのことだと思う…」
長谷川センセイが、説明した…
たしかに、長谷川センセイのいうことは、わかった…
だが、やはりというか…
私が、あの菊池冬馬の切り札が、私ということが、気に入らなかった…
いや、
許せなかった…
あの菊池冬馬は、なにが、あっても、好きになれる人間ではなかった…
そんな菊池冬馬の切り札が、私では、納得できない…
よりによって、大嫌いな人間の切り札に自分が、なっているのだ…
この現実が、許せなかった…
しかし、どうして、この長谷川センセイは、菊池冬馬と親しいのだろう…
謎だった…
長谷川センセイは、長身のイケメンで、人柄もいい…
それが、どう見ても、一癖も二癖もある、冬馬と親しいのは、文字通り、謎だった…
だから、
「…長谷川センセイは、冬馬理事長と、学生時代から、親しかったんですか?…」
と、聞いた…
聞かずには、いられなかった…
「…いや、冬馬とは、学生時代は、それほど、親しい間柄じゃなかった…」
長谷川センセイが、意外な事実を口にした…
「…親しくなったのは、ここ数年だ…」
「…ここ数年? …ですか?…」
「…おそらく、冬馬が、人づてに、ボクの噂を聞いたからだろう…」
「…どういうことですか?…」
「…ボクは、自分で言うのも、なんだが、ちょっとばかり、腕がいいと、評判なんだ…きっと、それを聞きつけた、大学時代の友人が、冬馬に頼まれて、ボクと冬馬を会わせ、冬馬は、ボクを、この病院にスカウトした…おそらく、冬馬は、自分の実績を作りたかったに違いない…」
「…実績?…」
「…この病院の理事長を任された以上、なにか、しなければ、ならない…なにか、目に見える形で、実績を残さなければ、ならない…それが、一番、簡単で、誰の目にも、わかりやすいのは、世間に名の知れた、優秀な医者をスカウトすること…あの病院は、名医ばかり揃えていると、業界で、話題になる…冬馬は、それを狙ったんだと思う…現に、ボク以外にも、冬馬にスカウトされて、この病院に勤めた勤務医は何人もいる…」
長谷川センセイは、言った…
その説明で、冬馬の必死さが、わかった…
やはり、というか、ただの帽子ではない…
帽子=神輿(みこし)ではない…
仮に、帽子であれ、ただの帽子であることに、強い反発があるのだろう…
五井一族ゆえに、この病院の理事長になれた…
それは、わかっているが、やはり、それだけでは、嫌なのだろう…
だから、スカウトに力を入れる…
それが、もっとも、簡単で、しかも、目に見える実績作りができるからだろう…
私は、思った…
と、なると、どうだ?
つまりは、菊池冬馬は、それほど、この五井記念病院の理事長という職に、こだわっている…
力を入れている…
執着しているといえる…
だとすれば、そんな冬馬が、簡単に、理事長の座を手放すとは、思えない…
私は、気付いた…
「…冬馬は、簡単には、この病院の理事長の座から、降りないと思う…」
私が、思っていることと、同じことを、長谷川センセイが、言った…
私は、黙って、長谷川センセイを見た…
そして、
「…やはり、センセイは、そう思いますか?…」
と、長谷川センセイに聞いた…
「…残念ながら…」
長谷川センセイは、短く、答える。
「…冬馬にとって、五井家の人間であること…そして、なにより、この五井記念病院の理事長であるということが、自分のすべてなんだと思う…世間に知られた大病院の理事長であること…それが、自分のプライドをなによりも、満足させることなんだと思う…」
「…」
「…だから、簡単には、この病院の理事長の座を、誰にも明け渡さないと、思う…寿さんを、自分のテリトリーである、五井記念病院から、退院させないと思う…」
長谷川センセイは、断言した…
私は、その長谷川センセイの意見に激しく同意した…
私は、長谷川センセイを、黙って見た…
すると、なぜか、同じように、長谷川先生を、佐藤ナナが、無言で、見ていることに、気付いた…
しかも、
しかも、だ…
その視線は、愛情とは、違う…
かといって、憎しみというのでもない…
ただ、見ていたと、言ってもいいのかもしれない…
ただ、鑑賞している感じだった…
いわゆる、感情が、こもった感じではなかった…
その佐藤ナナの表情を見て、私は、ふと、疑問を感じた…
佐藤ナナは、それまで、純粋に、長谷川センセイを好きだと思っていた…
が、
今の表情を見る限り、それも怪しい…
一体、なぜ?
私は、思った…
が、当たり前だが、それを、佐藤ナナに聞くわけには、いかなかった…
いずれにしろ、遠からず、そのわけもわかるかもしれない…
私は、思った…
結局、その日は、それだけで、終わった…
「…とにかく、寿さんの回復ぶりには、驚かされる…ボクも、毎日、ここへ、やって来ることはできませんが、この佐藤さんと、リハビリをして、一刻も早く、退院できるように頑張ってください…」
と、長谷川センセイが、言った…
そして、そう言った後に、
「…これでは、さっきの発言と、矛盾しますね…」
と、笑った…
これには、私も苦笑せざるを得なかった…
「…まあ、とにかく、リハビリは、頑張ってください…寿さんが、退院できるか、どうかは、関係なく、リハビリは、大切です…ベッドの上で、寝ているだけでは、体力は、回復しませんから…」
長谷川センセイの言葉に、
「…それは、わかってます…」
と、返答した…
私の言葉に、
「…ですよね…」
と、長谷川センセイは、相槌を打った…
それから、安心したように、病室を出て行った…
その長谷川センセイの後に、佐藤ナナが、続いた…
政界では、大場小太郎が、騒がれていた…
今秋には、大きな選挙がある…
その選挙の焦点が、大場小太郎だった…
だから、今、テレビに映っていた…
私は、病室で、ひとり、テレビを見ていた…
これまでは、ベッドの上で、ひとりで、起き上がることもできなかったから、テレビも見れなかった…
しかし、今は、違う…
ひとりでも、松葉杖を使えば、歩くことができる…
そこまで、回復した…
大場小太郎は、長らく、自民党のプリンスと呼ばれ、いずれは、総理になる器の人物と、見られていた…
ただ、統率力が、弱い…
いわゆる、ひ弱なエリートの典型だった…
頭も良く、ルックスもいい…
背も高く、いわゆる、すべてを持って生まれた人間だった…
にもかかわらず、金持ち特有というか、エリート特有のひ弱さがあった…
それを思えば、すべてを持って生まれた人間はいない…
今さらながら、考える…
大場小太郎は、長らく、自民党のプリンスと、言われながら、世間的な知名度は、今一つだった…
いわゆる、イケメンだが、華がない…
政界は、芸能界に似ている…
どちらも、人気商売…
大衆に支持されて、ナンボの世界だ…
大場小太郎は、その中にあって、華がない=存在感がなかった…
言葉は悪いが、周囲に埋もれてしまう人物だった…
しかしながら、そんな大場小太郎を見ると、安心するというか…
大場小太郎を見ると、つくづく、すべてを持って、生まれた人間はいないと、安心する…
これは、私のひがみだろうか?
庶民である、私のひがみだろうか?
考える…
私が、そんな思いで、病室で、ひとり、テレビを見ていると、突然、
「…失礼します…」
という声がして、長身の男が、部屋に入って来た…
私は、その人物を見て、驚いた…
部屋に入って来たのは、諏訪野伸明だった…
まさか、諏訪野伸明が、前触れもなく、いきなり、私の病室にやって来るとは、思いもよらなかった…
驚きだった…
「…こんにちは…」
少し照れ臭そうに、諏訪野伸明が言った…
「…いきなり、やって来て、スイマセン…」
頭を下げて、私に詫びた…
「…とんでも、ありません…」
私は、言いながら、テレビを消そうとした…
が、
諏訪野伸明は、そのテレビに映った大場小太郎を見て、
「…大場先生ですか…」
と、言った…
だから、テレビを消すのを止めた…
「…ご存知なんですか?…」
「…ハイ…叔父が、大場さんの派閥の代議士で…」
「…菊池重方(しげかた)さん、ですよね?…」
「…ご存知だったんですか?…」
今度は、諏訪野伸明が、同じことを言った…
だから、私も、諏訪野伸明同様、
「…ハイ…」
と、答えた…
「…そうですか?…」
私の返事に、諏訪野伸明は、意味深だった…
「…でしたら、この病院の理事長、菊池冬馬が、その菊池重方(しげかた)の息子であることは、知ってますね…」
「…お母様から伺いました…」
「…母から?…」
「…一度、病室に来て頂いて、そのときに、理事長も…」
「…冬馬が?…」
驚いた様子だった…
「…伸明さんは、お母様から、お聞きにならなかったんですか?…」
「…ハイ…」
意気消沈した様子だった…
「…最近、母とは、あまり…」
私は、その言葉で、今日、私に会いに来た理由がわかった気がした…
おそらく、諏訪野伸明の周辺の様子がキナ臭くなってきたに違いない…
それゆえ、居心地が悪く、リフレッシュする意味で、私の元へやって来たに違いなかった…
私、寿綾乃と会うことが、諏訪野伸明にとって、なによりの息抜きになるに違いなかった…
私は、テレビ画面に映った、大場小太郎を見て、
「…大場先生が、なにやら関わって来るみたいですね…」
と、曖昧に告げた…
私の言葉に、
「…そこまで、ご存知だったんですか?…」
と、諏訪野伸明が、絶句した…
そして、私同様、テレビの中の大場小太郎に視線を向けた…
「…叔父の菊池重方(しげかた)は、大場先生から、大場派を奪おうとしている…」
諏訪野伸明が、ゆっくりと、言った…
「…ですが、大場先生は、バカじゃない…」
「…どういう意味ですか?…」
「…すでに、母に、叔父の…重方(しげかた)の処遇を相談している…」
「…相談?…」
「…要するに、五井家が、叔父の重方(しげかた)を、どうするか、見ているんです…」
「…それは、どういう?…」
「…五井家が、重方(しげかた)を支えるのか、それとも、五井家から、重方(しげかた)を追放するのか? …どっちにするか、大場先生は、母に問うたのだと思います…」
…そうか?…
…そういうことか?…
私は、今さらながら、気付いた…
それゆえ、伸明の母、昭子は、私の元へやって来たときに、
「…重方(しげかた)は、追放するしかない…」
と、言ったに違いない…
彼女の中で、すべて、決定したあとだったに違いない…
すべてを決めて、やって来た…
だから、私に会いに来たに違いない…
ということは、どうだ?
それだけ、手ごわい?
それだけ、重方(しげかた)が、手ごわいのではないだろうか?
簡単に、重方(しげかた)を、追放できるのならば、悩みはしないのではないか?
私は、思った…
追放するのに、躊躇するのは、可愛いか、手ごわいか、だ…
だが、あのときの昭子の態度から察するに、重方(しげかた)に、愛情を注いでいるようには、思えない…
となると、手ごわいと、見るのが、普通…
そう、考えるのが、妥当だ…
菊池重方(しげかた)は、手ごわい…
まあ、もっとも、大場派を奪うか、大場派から、独立して、菊池派を立ち上げようと、画策しているぐらいだ…
菊池重方(しげかた)が、弱いはずはない…
もし、そんなに菊池重方(しげかた)が、弱いのならば、自分の派閥を立ち上げようとは、思わない…
自分の派閥を、作ろうとは、思わない…
なぜなら、そんなことをしても、誰も、自分にひとがついてこないからだ…
自分にひとがついてくる…
そんな自信が、自分にあるから、派閥を作ろうとしているに違いない…
また、その自信が、過信ではなく、事実に違いない…
真実に違いない…
まさか、六十を過ぎた男が、そこまで、自分の力を誤解しているとは、思えない…
そこまで、愚かとは、到底、思えない…
私が、そんなことを、考えていると、
「…母は、すでに、叔父を見捨てました…」
と、伸明は、言った…
私は、その言葉に、驚かなかった…
「…リン…菊池リンちゃんを…海外にいた、彼女を帰国させたことで、母を激怒させました…」
伸明が言う。
そして、私の顔を見て、
「…寿さん…驚かないんですね?…」
と、意外そうに、言った…
「…諏訪野マミさんから、聞きました…」
私は、答える…
「…マミから?…」
伸明は、絶句した…
「…そうですか…」
伸明は、心底、参った様子だった…
「…やはり、それは、菊池重方(しげかた)さんが、糸を引いているんですか?…」
私の言葉に、伸明が、驚いた…
「…寿さんは、なにもかも、知ってるんですね…」
が、
私は、その言葉に、
「…」
と、なにも言わなかった…
「…ただ、その一件で、母と、和子叔母様の仲が怪しくなって…」
と、驚きの展開を語った…
五井家の内紛の正体が、おぼろげながら、見えてきた…
いや、
おぼろげではない…
すでに、わかっていた内紛の状態が、さらに悪化して、広まってゆく、感じだった…
…そんなバカな?…
あらためて、思った…
あの理事長の菊池冬馬が、私を人質に取りたいのは、わかる…
しかし、いくらなんでも、担当医が、退院してもいい、と、言ってるのなら、それに反対はできないのではないか?
そう思った…
なにより、そんなことをすれば、噂になる…
噂?
それを言えば、今現在、菊池冬馬自身が、この病院の理事長を解任されるかもしれないと、いう噂が、病院内で、流れていると、この佐藤ナナが言っていた…
もし、それが事実ならば、私の退院を阻止するような真似をすれば、余計に、あの、ゴッドマザー、諏訪野伸明の母、昭子を怒らせることになるのではないか?
私は、思った…
そう、思ったときだった…
長谷川センセイが、
「…それは、ブラフだと思う…」
と、いいづらそうに言った…
「…ブラフ?…」
私は、訊いた…
「…つまり、はったり?…」
「…はったりって、寿さんを人質に取るのが、はったりってことですか?…」
今度は、佐藤ナナが、訊いた…
「…その通り…」
長谷川センセイが、答える…
「…ボクも、この病院に勤務する、勤務医だ…冬馬が、五井家から、追放されるかもしれないという噂は、聞いた…」
「…」
「…でも、だから、だろう…寿さんを、人質に取るという、噂を、流したのかもしれない…いわば、そうすることで、五井家を牽制したともいえる…」
「…」
「…冬馬もバカじゃない…五井家あっての、菊池冬馬だということは、わかっているだろう…五井家を出れば、ただの一般人だ…」
長谷川センセイが、断言する…
私は、その言葉を聞きながら、その通りだろうと、思った…
菊池冬馬もバカじゃない…
自分の力は、わかっているに違いない…
現に今、長谷川センセイが、言ったことと、同じことを、この病室で、あの昭子の前で、言ったではないか?
私は、それを思い出した…
「…だから、冬馬は、五井家を追放されたくないから、わざと、今、寿さんは、自分の手のひらの上にいると、言いたいんじゃないかな…かといって、どうこうすることもできない…変な話、核兵器を持っていても、使えないのと同じ…あくまで、ボクは、核兵器を持っていると、脅しているに過ぎない…実際に使うことはできない…核兵器を使えば、下手をすれば、人類が滅ぶ…それと同じで、寿さんに、実際に、理事長の権限で、なにかすれば、すぐに、五井家から、理事長を解任される…それが、わかっているから、あくまで、ブラウ…脅し…寿さんが、自分が理事長を務める病院に入院していることを、忘れるな、とでも、言いたいに過ぎないと、思う…」
長谷川センセイが、考えながら、言った…
私は、その言葉に共感した…
たしかに、長谷川センセイの言う通りだろう…
下手に私に手を出すことはできない…
だが、今現在は、自分の支配下にあるとでも、言いたいのかもしれない…
それが、先日、偶然、廊下で、会った際のあの表情に、すべてが、凝縮されているのかもしれない…
あの憎々しげに、私を見ていた表情に、凝縮していたのかもしれない…
私は、あらためて、思った…
そして、気付いた…
このまま、いけば、私は、もしかしたら、諏訪野伸明と結婚して、五井家に入るかもしれない…
かたや、冬馬は、五井家を追放されるかもしれない…
そんな危機感が、あの、廊下で出会ったときに、現れていたのではないか?
自分が劣勢に立たされているがゆえに、余計に私を見下したのかも?
弱い人間が、ことさら、自分を強く見せようとするのと、同じで、わざと、私を見下して見ることで、自分の優位性を示したかったのではないか?
私は、その事実に気付いた…
いずれにしろ、真相は、わからない…
単純に、冬馬の性格が、悪いだけということもあるかもしれない(笑)…
あくまで、私が、思ったのは、可能性に過ぎない…
私が、考えていると、
「…冬馬は…」
と、長谷川センセイが、口を挟んだ…
「…アイツは、プライドが高い…でも、そのプライドの源泉は、自分が、五井家の人間であること…それが、すべてだ…」
「…すべて?…」
「…誰だって、そうだが、ある程度の年齢になれば、自分の能力は、わかる…たとえば、自分が、女にモテるとか、モテないかは、中学生にでもなれば、大抵は、わかるが、勉強の方は、そうじゃない…」
「…どういう意味ですか?…」
「…中学生じゃ、あまりにも、世界が狭いというか…高校に入って、全国模試をして、その中で、何番ぐらいの位置にいるか…そして、その後、実際、どんな大学に入ったのかで、自分の立ち位置がわかるというか…」
「…」
「…ボクも、冬馬も、いわゆる一流大学を出たけれども、上には上がいるというか…別に、東大や京大に入ったわけでもないけれど、大学に行けば、当たり前だが、自分より、頭のいい人間は、ごまんといる…」
「…」
「…ボクも、そうだが、冬馬も同じく、そんな現実を思い知ったというか…すると、冬馬には、五井家しか、なくなる…金持ちのお坊ちゃまという肩書しか、なくなる…それが、唯一のよりどころというか…」
「…」
「…誰にも、誇れるもので、実際、誰もが、その位置に遠く及ばない…それが、五井家…そして、五井家の人間で、いることが、冬馬のプライドのよりどころとなる…だから、今、その五井家から、追い出されるかもしれないことが、冬馬にとって、何物にも代えがたいショックに違いない…」
「…」
「…冬馬もまた凡人だ…自分が、凡人であることがわかっているからこそ、五井家にしがみつく…自分の能力をわかっているからこそ、五井家のブランドを失いたくないんだろう…」
長谷川センセイが、冬馬の胸の内を代弁した…
私には、長谷川センセイの言うことが、よくわかった…
菊池冬馬は、私、寿綾乃と同じく32歳…
32歳にでもなれば、大抵は、自分の能力がわかる…
社会での立ち位置がわかる…
普通の人間ならば、どんな高校を出て、どんな大学を出て、どんな会社に就職するかで、その後の人生が、なんとなく、想像がつく…
今現在、リストラなどの不安要素を考えれば、きりがないが、それでも、会社に入って、数年すれば、自分が、社内で、出世コースに乗っているかどうかぐらいは、わかる…
わからない人間がいるとすれば、それは、よほど、間抜けな人間だろう…
そんなことを、経験して、誰もが、なんとなく自分の実力がわかってくる…
そういうものだ…
ただ、やはり、運、不運というものは、誰もがある…
わかりやすい例でいえば、一流の大学を出ても、いい会社に入社できず、社会で、くすぶっている者もいれば、たいした大学を出ずとも、思いがけず出世する者も、稀にいる…
そういった場合、共通するのは、仕事が自分に合うこと…
そして、職場の雰囲気が、自分に合うことに他ならない…
うまく、自分に合うことで、自分の能力を生かすことができる…
自分の能力を引き出すことができる…
仕事が、勉強と違う最大の要因は、環境にある…
勉強は、基本、家で、自分一人が、やれば、いいが、仕事は、職場で、大勢の人間と、いっしょにやるのが、大半だ…
そして、職場の人間を束ね、リーダーになる…
いくら、勉強ができても、人を束ねられない人間は、いるし、それができない人間に、その役割を求められたら、それは、その人間にとって、悲劇に他ならない…
要するに、適材適所…
うまく自分に合う職場と、巡り会い、自分の能力を生かす、仕事に就けるか、否か…
それは、運に過ぎない…
誰もが、凡人…
天才はいない…
出世する人間は、頭の良さもさることながら、運もまたいい…
自分の能力を最大限、生かせる、職場、そして、仕事に巡り合ったともいえる…
そして、そんな幸運な人間は、一握りに、過ぎない…
だから、出世できる…
社会で、活躍できるということだ…
私、寿綾乃は、32歳で、決して、多くの会社を渡り歩いたわけでもない…
だが、
そんな私でも、その程度のことは、わかる…
ただ、出世も、運…
運に過ぎない…
途中で、リストラされ、それまでいた会社では、偉くなっても、他社では、使えないと、烙印を押される人間もまた、枚挙にいとまがない…
要するに、それまで、自分のいた、部署や、仕事、そして、職場が、その人間にうまくあっていたから、能力を発揮できただけで、リストラされ、他社に鞍替えしたときに、仕事や、職場の雰囲気が、どうしても、自分に、なじめない場合が、多々ある…
要するに、運が尽きたのだ…
そうなれば、当然、他社で、その人間が、評価されるはずもない…
結局、転職した会社を、自分から、辞めるか、お払い箱=リストラされるか、あるいは、その会社で、埋もれた会社生活を送るかの、いずれかだろう…
私は、思った…
そして、菊池冬馬もまた、その現実を知っているのだろう…
冬馬自身は、お金持ちのボンボンに過ぎないが、友人、知人から、色々な話を聞いているだろう…
32歳にもなった男が、そんなことも、わからないとは、思えない…
また、それが、わからないほど、愚かとは、思えない…
もし、それが、わからないのであれば、この病院の理事長など、任せられないに違いない…
ひとの口に戸は立てられない…
菊池冬馬が、無能ならば、無能であることが、噂になり、五井家の耳に入るに違いない…
そうなれば、やはり、理事長を解任するしか、なくなるだろう…
五井記念病院という、世に知られた病院の理事長が、無能では、五井の名前に、傷が付くというものだからだ…
そんなことを、考えていると、
「…冬馬にとって、寿さんの存在は、特別なんだと思う…」
と、長谷川センセイが言った…
「…特別?…」
「…今も言ったように、冬馬は、今、首筋が寒い…いつ、自分が、五井家から、追い出されるのか、わからない…かといって、冬馬の力では、どうすることもできない…その中で、唯一といっていいことが、寿さんの入院する、病院の理事長だということ…この理事長という立場を使って、寿さんを人質に取ることが、アイツができる、ただひとつのことだと思う…」
長谷川センセイが、説明した…
たしかに、長谷川センセイのいうことは、わかった…
だが、やはりというか…
私が、あの菊池冬馬の切り札が、私ということが、気に入らなかった…
いや、
許せなかった…
あの菊池冬馬は、なにが、あっても、好きになれる人間ではなかった…
そんな菊池冬馬の切り札が、私では、納得できない…
よりによって、大嫌いな人間の切り札に自分が、なっているのだ…
この現実が、許せなかった…
しかし、どうして、この長谷川センセイは、菊池冬馬と親しいのだろう…
謎だった…
長谷川センセイは、長身のイケメンで、人柄もいい…
それが、どう見ても、一癖も二癖もある、冬馬と親しいのは、文字通り、謎だった…
だから、
「…長谷川センセイは、冬馬理事長と、学生時代から、親しかったんですか?…」
と、聞いた…
聞かずには、いられなかった…
「…いや、冬馬とは、学生時代は、それほど、親しい間柄じゃなかった…」
長谷川センセイが、意外な事実を口にした…
「…親しくなったのは、ここ数年だ…」
「…ここ数年? …ですか?…」
「…おそらく、冬馬が、人づてに、ボクの噂を聞いたからだろう…」
「…どういうことですか?…」
「…ボクは、自分で言うのも、なんだが、ちょっとばかり、腕がいいと、評判なんだ…きっと、それを聞きつけた、大学時代の友人が、冬馬に頼まれて、ボクと冬馬を会わせ、冬馬は、ボクを、この病院にスカウトした…おそらく、冬馬は、自分の実績を作りたかったに違いない…」
「…実績?…」
「…この病院の理事長を任された以上、なにか、しなければ、ならない…なにか、目に見える形で、実績を残さなければ、ならない…それが、一番、簡単で、誰の目にも、わかりやすいのは、世間に名の知れた、優秀な医者をスカウトすること…あの病院は、名医ばかり揃えていると、業界で、話題になる…冬馬は、それを狙ったんだと思う…現に、ボク以外にも、冬馬にスカウトされて、この病院に勤めた勤務医は何人もいる…」
長谷川センセイは、言った…
その説明で、冬馬の必死さが、わかった…
やはり、というか、ただの帽子ではない…
帽子=神輿(みこし)ではない…
仮に、帽子であれ、ただの帽子であることに、強い反発があるのだろう…
五井一族ゆえに、この病院の理事長になれた…
それは、わかっているが、やはり、それだけでは、嫌なのだろう…
だから、スカウトに力を入れる…
それが、もっとも、簡単で、しかも、目に見える実績作りができるからだろう…
私は、思った…
と、なると、どうだ?
つまりは、菊池冬馬は、それほど、この五井記念病院の理事長という職に、こだわっている…
力を入れている…
執着しているといえる…
だとすれば、そんな冬馬が、簡単に、理事長の座を手放すとは、思えない…
私は、気付いた…
「…冬馬は、簡単には、この病院の理事長の座から、降りないと思う…」
私が、思っていることと、同じことを、長谷川センセイが、言った…
私は、黙って、長谷川センセイを見た…
そして、
「…やはり、センセイは、そう思いますか?…」
と、長谷川センセイに聞いた…
「…残念ながら…」
長谷川センセイは、短く、答える。
「…冬馬にとって、五井家の人間であること…そして、なにより、この五井記念病院の理事長であるということが、自分のすべてなんだと思う…世間に知られた大病院の理事長であること…それが、自分のプライドをなによりも、満足させることなんだと思う…」
「…」
「…だから、簡単には、この病院の理事長の座を、誰にも明け渡さないと、思う…寿さんを、自分のテリトリーである、五井記念病院から、退院させないと思う…」
長谷川センセイは、断言した…
私は、その長谷川センセイの意見に激しく同意した…
私は、長谷川センセイを、黙って見た…
すると、なぜか、同じように、長谷川先生を、佐藤ナナが、無言で、見ていることに、気付いた…
しかも、
しかも、だ…
その視線は、愛情とは、違う…
かといって、憎しみというのでもない…
ただ、見ていたと、言ってもいいのかもしれない…
ただ、鑑賞している感じだった…
いわゆる、感情が、こもった感じではなかった…
その佐藤ナナの表情を見て、私は、ふと、疑問を感じた…
佐藤ナナは、それまで、純粋に、長谷川センセイを好きだと思っていた…
が、
今の表情を見る限り、それも怪しい…
一体、なぜ?
私は、思った…
が、当たり前だが、それを、佐藤ナナに聞くわけには、いかなかった…
いずれにしろ、遠からず、そのわけもわかるかもしれない…
私は、思った…
結局、その日は、それだけで、終わった…
「…とにかく、寿さんの回復ぶりには、驚かされる…ボクも、毎日、ここへ、やって来ることはできませんが、この佐藤さんと、リハビリをして、一刻も早く、退院できるように頑張ってください…」
と、長谷川センセイが、言った…
そして、そう言った後に、
「…これでは、さっきの発言と、矛盾しますね…」
と、笑った…
これには、私も苦笑せざるを得なかった…
「…まあ、とにかく、リハビリは、頑張ってください…寿さんが、退院できるか、どうかは、関係なく、リハビリは、大切です…ベッドの上で、寝ているだけでは、体力は、回復しませんから…」
長谷川センセイの言葉に、
「…それは、わかってます…」
と、返答した…
私の言葉に、
「…ですよね…」
と、長谷川センセイは、相槌を打った…
それから、安心したように、病室を出て行った…
その長谷川センセイの後に、佐藤ナナが、続いた…
政界では、大場小太郎が、騒がれていた…
今秋には、大きな選挙がある…
その選挙の焦点が、大場小太郎だった…
だから、今、テレビに映っていた…
私は、病室で、ひとり、テレビを見ていた…
これまでは、ベッドの上で、ひとりで、起き上がることもできなかったから、テレビも見れなかった…
しかし、今は、違う…
ひとりでも、松葉杖を使えば、歩くことができる…
そこまで、回復した…
大場小太郎は、長らく、自民党のプリンスと呼ばれ、いずれは、総理になる器の人物と、見られていた…
ただ、統率力が、弱い…
いわゆる、ひ弱なエリートの典型だった…
頭も良く、ルックスもいい…
背も高く、いわゆる、すべてを持って生まれた人間だった…
にもかかわらず、金持ち特有というか、エリート特有のひ弱さがあった…
それを思えば、すべてを持って生まれた人間はいない…
今さらながら、考える…
大場小太郎は、長らく、自民党のプリンスと、言われながら、世間的な知名度は、今一つだった…
いわゆる、イケメンだが、華がない…
政界は、芸能界に似ている…
どちらも、人気商売…
大衆に支持されて、ナンボの世界だ…
大場小太郎は、その中にあって、華がない=存在感がなかった…
言葉は悪いが、周囲に埋もれてしまう人物だった…
しかしながら、そんな大場小太郎を見ると、安心するというか…
大場小太郎を見ると、つくづく、すべてを持って、生まれた人間はいないと、安心する…
これは、私のひがみだろうか?
庶民である、私のひがみだろうか?
考える…
私が、そんな思いで、病室で、ひとり、テレビを見ていると、突然、
「…失礼します…」
という声がして、長身の男が、部屋に入って来た…
私は、その人物を見て、驚いた…
部屋に入って来たのは、諏訪野伸明だった…
まさか、諏訪野伸明が、前触れもなく、いきなり、私の病室にやって来るとは、思いもよらなかった…
驚きだった…
「…こんにちは…」
少し照れ臭そうに、諏訪野伸明が言った…
「…いきなり、やって来て、スイマセン…」
頭を下げて、私に詫びた…
「…とんでも、ありません…」
私は、言いながら、テレビを消そうとした…
が、
諏訪野伸明は、そのテレビに映った大場小太郎を見て、
「…大場先生ですか…」
と、言った…
だから、テレビを消すのを止めた…
「…ご存知なんですか?…」
「…ハイ…叔父が、大場さんの派閥の代議士で…」
「…菊池重方(しげかた)さん、ですよね?…」
「…ご存知だったんですか?…」
今度は、諏訪野伸明が、同じことを言った…
だから、私も、諏訪野伸明同様、
「…ハイ…」
と、答えた…
「…そうですか?…」
私の返事に、諏訪野伸明は、意味深だった…
「…でしたら、この病院の理事長、菊池冬馬が、その菊池重方(しげかた)の息子であることは、知ってますね…」
「…お母様から伺いました…」
「…母から?…」
「…一度、病室に来て頂いて、そのときに、理事長も…」
「…冬馬が?…」
驚いた様子だった…
「…伸明さんは、お母様から、お聞きにならなかったんですか?…」
「…ハイ…」
意気消沈した様子だった…
「…最近、母とは、あまり…」
私は、その言葉で、今日、私に会いに来た理由がわかった気がした…
おそらく、諏訪野伸明の周辺の様子がキナ臭くなってきたに違いない…
それゆえ、居心地が悪く、リフレッシュする意味で、私の元へやって来たに違いなかった…
私、寿綾乃と会うことが、諏訪野伸明にとって、なによりの息抜きになるに違いなかった…
私は、テレビ画面に映った、大場小太郎を見て、
「…大場先生が、なにやら関わって来るみたいですね…」
と、曖昧に告げた…
私の言葉に、
「…そこまで、ご存知だったんですか?…」
と、諏訪野伸明が、絶句した…
そして、私同様、テレビの中の大場小太郎に視線を向けた…
「…叔父の菊池重方(しげかた)は、大場先生から、大場派を奪おうとしている…」
諏訪野伸明が、ゆっくりと、言った…
「…ですが、大場先生は、バカじゃない…」
「…どういう意味ですか?…」
「…すでに、母に、叔父の…重方(しげかた)の処遇を相談している…」
「…相談?…」
「…要するに、五井家が、叔父の重方(しげかた)を、どうするか、見ているんです…」
「…それは、どういう?…」
「…五井家が、重方(しげかた)を支えるのか、それとも、五井家から、重方(しげかた)を追放するのか? …どっちにするか、大場先生は、母に問うたのだと思います…」
…そうか?…
…そういうことか?…
私は、今さらながら、気付いた…
それゆえ、伸明の母、昭子は、私の元へやって来たときに、
「…重方(しげかた)は、追放するしかない…」
と、言ったに違いない…
彼女の中で、すべて、決定したあとだったに違いない…
すべてを決めて、やって来た…
だから、私に会いに来たに違いない…
ということは、どうだ?
それだけ、手ごわい?
それだけ、重方(しげかた)が、手ごわいのではないだろうか?
簡単に、重方(しげかた)を、追放できるのならば、悩みはしないのではないか?
私は、思った…
追放するのに、躊躇するのは、可愛いか、手ごわいか、だ…
だが、あのときの昭子の態度から察するに、重方(しげかた)に、愛情を注いでいるようには、思えない…
となると、手ごわいと、見るのが、普通…
そう、考えるのが、妥当だ…
菊池重方(しげかた)は、手ごわい…
まあ、もっとも、大場派を奪うか、大場派から、独立して、菊池派を立ち上げようと、画策しているぐらいだ…
菊池重方(しげかた)が、弱いはずはない…
もし、そんなに菊池重方(しげかた)が、弱いのならば、自分の派閥を立ち上げようとは、思わない…
自分の派閥を、作ろうとは、思わない…
なぜなら、そんなことをしても、誰も、自分にひとがついてこないからだ…
自分にひとがついてくる…
そんな自信が、自分にあるから、派閥を作ろうとしているに違いない…
また、その自信が、過信ではなく、事実に違いない…
真実に違いない…
まさか、六十を過ぎた男が、そこまで、自分の力を誤解しているとは、思えない…
そこまで、愚かとは、到底、思えない…
私が、そんなことを、考えていると、
「…母は、すでに、叔父を見捨てました…」
と、伸明は、言った…
私は、その言葉に、驚かなかった…
「…リン…菊池リンちゃんを…海外にいた、彼女を帰国させたことで、母を激怒させました…」
伸明が言う。
そして、私の顔を見て、
「…寿さん…驚かないんですね?…」
と、意外そうに、言った…
「…諏訪野マミさんから、聞きました…」
私は、答える…
「…マミから?…」
伸明は、絶句した…
「…そうですか…」
伸明は、心底、参った様子だった…
「…やはり、それは、菊池重方(しげかた)さんが、糸を引いているんですか?…」
私の言葉に、伸明が、驚いた…
「…寿さんは、なにもかも、知ってるんですね…」
が、
私は、その言葉に、
「…」
と、なにも言わなかった…
「…ただ、その一件で、母と、和子叔母様の仲が怪しくなって…」
と、驚きの展開を語った…
五井家の内紛の正体が、おぼろげながら、見えてきた…
いや、
おぼろげではない…
すでに、わかっていた内紛の状態が、さらに悪化して、広まってゆく、感じだった…