第34話
文字数 9,780文字
「…菊池冬馬さんと、菊池リンさんの婚約ですが…」
私は、話を元に戻した…
伸明は、即座に反応した…
「…リンちゃんが、いきなり、冬馬と結婚したいと言って、五井はもうてんやわんやの大騒ぎです…」
と、言って、伸明は、深いため息をついた…
「…いきなり結婚…ですか? では、まだ、婚約はしていない?…」
「…婚約もなにも、冬馬と結婚したいと、聞いたのは、寝耳に水です…まさか、五井家を追放されたばかりの冬馬に向かって、リンちゃんが、結婚したいと言い出すなんて…」
伸明は、文字通り、頭を抱えた…
「…一体、なにを言い出すんだか?…」
目の前の伸明は、文字通り、憔悴していた…
これは、やはり、当時者だからだろう…
私も、菊池冬馬と、菊池リンの婚約に、驚いたが、こういってなんだが、所詮は、他人事に過ぎない…
が、伸明は、五井家当主…
菊池リンは、その五井家の一族だ…
他人事ではない…
なにより、追放した一族を、自分と結婚することで、一族に復帰させようとする、菊池リンの行動に、
「…なにを考えてるのか、わからない…」
と、諏訪野伸明が、嘆くことは、ひどく当然だった…
五井家を追放されたのは、当たり前だが、追放される理由がある…
それが、わかっていて、その追放された人間と結婚すると、言い出せば、どうなるかは、誰の目にも、わかる…
伸明が、嘆くのは、当たり前だ…
「…冬馬さんと、菊池リンさんは、以前から、仲が良かったんですか?…」
私は、聞いた…
同じ五井一族だから、子供の頃からの顔なじみに違いない…
「…それはない…」
伸明が、即答した…
「…そんな話は聞いたことがなかった…なにより、二人が、結婚したいなんて…」
そう言って、伸明は、頭を抱えた…
「…寿さんが言うように、昔から、顔なじみだから、仲が良ければ、いきなり、結婚といっても、驚かない…が、二人が、付き合ってるどころか、まともに、会話をしたのも、ボクは、見たことがなかった…」
伸明が、告白する…
「…では、冬馬さんは、誰と親しかったんですか?…」
「…子供の頃は、ボクか…あるいは、マミさんかな…」
「…諏訪野マミさんですか?…」
やはりというか、彼女の名前が出た…
彼女自身、冬馬と親しいと、私に告げていた…
「…他には?…」
「…他と言っても、他には…」
伸明が、悩んだ…
「…冬馬は以前も言ったように、五井家内で、立ち位置が、微妙だった…これは、冬馬の性格もあるが、重方(しげかた)叔父が、母の昭子と、決定的に、仲が悪かったことも一因だった…」
「…」
「…とにかく、重方(しげかた)叔父は、母の言うことを聞かない…だから、本家のコントロールが効かない…」
「…」
「…だから、母は、重方(しげかた)叔父を、いつしか、見切った…相手にしなくなった…それが、今回、自民党の大場派を出て、自分の派閥を立ち上げると聞いたときは、文字通り、激怒した…だから、結果的に、五井家から、冬馬ともども、追放した…そんな、経緯を、誰よりも、知っている、リンちゃんが、どうして、冬馬と、結婚したいと、言いだしたのか?…」
伸明が、嘆く…
文字通り、頭を抱えた…
「…誰か、背後に…」
私は、言った…
「…背後にいるのでは?…」
私の言葉に、諏訪野伸明は、頭を上げた…
「…その可能性は、考えた…しかし、その背後にいる人間が、誰だか…」
諏訪野伸明が苦悩する…
「…そういえば、重方(しげかた)さん…」
私は、話を変えた…
「…冬馬さんの父、菊池重方(しげかた)さんは、どうしたんですか?…」
「…どうって?…」
「…自民党で、菊池派を立ち上げると、宣言して、呆気なく、断念したと、聞きました…だから、今、どうしているのかと…」
「…ボクも詳しくは知りません…」
諏訪野伸明が、憮然とした表情で、言った…
「…重方(しげかた)叔父は、五井家を出ていった人間です…」
ひどく当たり前のことだった…
「…だから、今、交流がありません…噂では、大場先生の温情で、大場派に復帰するとか、しないとか、聞きましたが、本当のところは、よくわかりません…」
「…」
「…ただ、やはりというか、今回の騒動…」
「…騒動?…」
「…冬馬と、リンちゃんの結婚です…これは、やはりというか、冬馬の父、重方(しげかた)叔父抜きには、考えられない…」
「…」
「…どうしても、重方(しげかた)、冬馬と、父子で、セットでしか、考えられない…」
伸明が、繰り返す…
「…冬馬は、まだ、子供と言うか…まだ、それほどの駆け引きができるとは、思えない…」
伸明が、吐露した…
「…子供?…」
私は、伸明の言葉に、敏感に反応した…
「…いえ、冬馬は、ボクよりも十歳下…だから、以前も言いましたが、子供の頃は、よく遊んでやりました…だからかな…三十歳を過ぎても、冬馬を一人前の大人とは、思えない…」
「…」
「…なんていうか、ボクの中では、まだ小学校の低学年のままでいるような…」
「…」
「…だから、冬馬が、五井の会社で、うまくいかず、いくつか、会社をたらい回しされても、ボクは、納得というか…」
「…納得? ですか?…」
「…冬馬らしいというか…やんちゃな小学生のままだと、妙に納得してしまう…」
「…」
「…もちろん、それじゃまずいとは、思いますが、一方で、納得する自分がいるのも、事実です…」
「…」
「…でも、これでは、困る…五井家の当主としては、容認できない…とりわけ、母が…」
「…お母様?…」
「…母が、冬馬を嫌っていて…」
「…」
「…息子のボクの目から見ても、一言で、いえば、虫が好かないというか…とにかく、冬馬が、気に入らない…」
「…」
「…これは、たぶん、冬馬が、父の重方(しげかた)叔父に、似ているからだと、思う…」
「…」
「…二人とも、目以外は、そっくり…顔つきも、身長も、そっくり…ただ、目だけが、違う…」
「…」
「…だから、二人は、一見、似ていない…血が繋がった父子には、見えない…だけど、目を見なければ、そっくり…それに、気付けば、父子だと、誰にも、わかる…」
「…どうして、お母様は、冬馬さんを嫌ってるんですか? 重方(しげかた)さんに、似ているから…つまり、それほど、お母様は、重方(しげかた)さんが、嫌いなんですか?…」
私の質問に、伸明が、考え込んだ…
「…好き、嫌いでは、ないと思います…」
「…冬馬は、ともかく、母が、重方(しげかた)叔父を嫌ってるんです…」
「…どうして、嫌うんですか?…」
「…母の言うことを、聞かないからでしょう…」
伸明が、即答した…
「…国会議員になるなと、言っても、選挙に出て、議員になったのが、その好例です…誰もが、自分の言うことを聞かない人間を好きになるはずがありません…」
当たり前のことだった…
「…重方(しげかた)叔父は、母の十歳下の弟…だから、子供の頃は、可愛がったといいます…ちょうど、ボクと、冬馬の関係と同じです…」
「…同じ…それは、どう同じなんですか?…」
「…要するに、歳が離れすぎてるから、対等に見ない…あくまで、歳の離れた、弟…それは、一生変わらない…」
「…」
「…別の見方をすれば、いつまでも、母にとっては、歳の離れた弟…だから、重方(しげかた)叔父は、いくつになっても、母の言うことを聞かなければ、ならない…それが、大人になって、母の忠告を聞かなくなって、二人の関係が悪化したともいえます…」
「…」
「…これは、母と重方(しげかた)叔父の関係を見ても、以前は、実感が湧かなかったんですが、この歳になって、ボクと冬馬の関係を見て、実感したというか…」
「…どういう意味ですか?…」
「…さっきも言ったように、冬馬は、ボクにとって、小学校の低学年のままなんです…」
伸明が、苦笑する…
「…やはり、子供の時分に、十歳離れているのが、大きい…ボクが、十五歳のときに、冬馬は、五歳…このときの差は、大きい…これが、今のように、ボクが、42歳で、冬馬が、32歳とは、全然、違う…仮に、ボクが、冬馬と同じ年齢の女性と結婚しても、今では、全然おかしくないが、十五歳のときに、五歳の女のコと、将来結婚すると言われても、どうしても、実感が湧かない…それと同じです…」
伸明の言葉に、私が、冬馬と同じ、32歳だと言いたかったが、止めた(笑)…
「…だから、ボクは、どうしても、冬馬を心の底から憎めない…一族の鼻つまみ者と、冬馬が、陰で、罵られていてもです…それと、同じで、母も本音では、重方(しげかた)叔父を嫌ってない可能性が高いです…ただ、やはり、母の立場として、前五井家当主の妻の立場として、自分の命令を聞かない重方(しげかた)叔父を許すわけには、いかないんだと思います…重方(しげかた)叔父を許せば、五井一族の規律が緩む…母は、それを恐れたんだと思います…」
諏訪野伸明が、激白する…
私にとって、伸明の話は新鮮だった…
言われてみれば、当たり前のことだが、私には、兄弟がいないので、わからないことだった…
私は天涯孤独の身…
親も兄弟もいない…
だから、言われてみれば、歳の離れた姉弟ゆえに、子供の頃は、可愛がったが、大人になって、姉のいうことを、弟が聞かなくなって、姉弟の仲が悪化したが、本当は、今でも、好きだと言われれば、そうなのかと思う…
納得する…
その一方で、本当にそうか? とも思う…
他人は、当然だが、親兄弟等、自分と血が繋がった人間でも、一度、人間関係が、こじれるとうまくいかないものだ…
覆水盆に返らずの言葉通り、修復は不可能なものだ…
これは、私が単に天の邪鬼だからだろうか?
伸明の言葉に、素直に納得できなかった…
真逆に、一度うまくいかなくなった人間関係は、厄介だ…
ベクトルは変換したが、絶対値は変わらなかったという法則が、数学にあるが、その言葉通り、なまじ、好きだった人間が嫌いになったときは、その振り幅が激しいというか…
大好きだったものが、大嫌いになる…
そういうことだ(笑)…
男でも女でも、これは同じ…
とりわけ、恋愛関係で、うまくいかなくなると、厄介だ…
どうして、オレがあんな女と…
なぜ、アタシが、あんな男と…
と、なって、余計に憎み合う可能性が高い…
それまで、恋愛関係にあっただけに、非常に厄介だ…
私は、考える…
考えながら、失礼ながら、やはり、この諏訪野伸明は、お坊ちゃま、だと思った…
おそらく、そんな人間関係を目の当たりにしたことがないに違いない…
学生時代、人間関係がうまくいかず、悩んだと、以前、私に告白したが、それは、お金持ちのお坊ちゃま、お嬢様の学校だから、イジメといっても、軽いものだったのだろう…
だから、どうしても、物事を楽観的に考える…
軽く、考える…
この諏訪野伸明と、知り会って、思うのは、育ちの良さ…
それゆえ、性格も基本的に良い…
性格は、生まれに直結する…
生まれが良い人間は、大抵が性格も良い…
真逆に、生まれも育ちも悪い人間は、性格も悪い場合が多い…
残念ながら、それが現実だ…
生きてゆくのに、苦労がないから、性格が良くなり、生きてゆくのが、大変だから、その結果、性格が歪んでくるのだろう…
いわゆる、温室育ちの人間に、他人の悪事を指摘してもダメ…
なぜなら、そんな悪い人間を、テレビやドラマ、漫画など、フィクションの中でしか、見たことがないからだ…
だから、現実に存在することが、理解できない…
いや、
頭では、理解しても、見たことがないから、実感しないのだ…
それが、本当のところだろう…
私は、思った…
そして、そんな伸明に危うさを感じた…
こんな甘ったるい、人間の見方しかできない、伸明に危うさを感じた…
伸明は、人間としては、立派…
優れている…
しかしながら、温室育ちというか、お金持ちに生まれたゆえの、甘さを感じる…
人間としては、立派だが、そんな甘い性格で、世の中を渡ってゆけるのか、心配になる…
そういうことだ…
かつて、昭和天皇が、島津家に嫁いだ娘の貴子様に、
「…民間には、泥棒というものが、あるそうだから、気をつけるように…」
と、言ったことなど、その好例だろう…
いかに、世間知らずなのか、示す好例だろう…
天皇家の娘として生まれ、お金持ちの家に、嫁いで、なに不自由のない一生をおくる…
それができれば、いいが、もし、できなかったら、大変になる…
そういうことだ…
そして、天皇家の人間が、民間人になっても、お金の苦労をする生活をするとは、ありえないと思うが、一般のお金持ちは、違う…
まさかということが、あり得る…
まさか、破産して、一般人になってしまったという例は、枚挙にいとまがない…
そして、そのときに、これまで通りの、甘ったるい性格で、生きてゆけるのか、他人事ながら、不安になる…
その世間知らずの性格で、他人を疑いもせず、大した苦労もしないで、生きてゆけるのか、心配になる…
そういうことだ…
それまで、苦労知らずゆえに、他人に容易く騙されて、財産を失ったり、知らない間に、悪事に加担したり、しないか、心配になる…
そういうことだ…
私は、伸明を見て、そんなことを、思った…
苦労知らずの伸明を見て、そんなことを、考えた…
そして、その直感は、当たったと言うか…
今度は、五井の分裂が、囁かれる事態になった…
要するに、五井十三家が、分裂したのだ…
その原因というか、発端は、やはりというか、当たり前だが、菊池冬馬と、菊池リンの婚約だった…
この婚約が、本当か、どうかは、わからない…
しかしながら、この婚約の是非を巡って、五井一族の内紛が生じたのだ…
要するに、その婚約を認める者と、認めない者に、別れたのだ…
そして、当たり前だが、その婚約自体は、隠れ蓑というか…
本来、どうでも、いいことだった…
だってそうだろう…
一度、五井一族から、追い出した者を、他の一族の娘と、結婚させるから、もう一度、一族として、復帰することを認めるなど、できるはずがない…
そんなデタラメが、通るはずもない…
要するに、それは、婚約を隠れ蓑にした反乱に他ならなかった…
菊池リンと菊池冬馬の婚約は、隠れ蓑…
議題と言うか、問題は、どうあれ、五井本家の方針に逆らいたいのだ…
反逆したいのだ…
反逆して、あわよくば、五井本家を乗っ取るか、
あるいは、五井本家から、主導権を、他の一族に、取り返したいのだ…
それが、狙いだった…
私は、それを聞いて、以前、伸明の母、昭子の一卵性双生児の妹である和子が言った話を思い出していた…
それは、先代当主、建造と、その弟の義春の話だった…
建造、義春、兄弟もまた、本家と分家の関係に苦慮していた…
悩んでいた…
通常ならば、本家に権力があり、分家が、それに従うと考えるが、さにあらず…
本家の力が弱く、建造も、義春も、自分で、結婚相手を決められなかった…
本人たちの意思を半ば無視して、結婚が決まった…
そして、そのことが、建造、義春兄弟が、いかに本家が、分家に対して、力を行使するか…
いかに分家の力を削ぐか…
それが課題になった…
つまりは、本当は、建造も、義春も、自分たちが結婚したい女が、それぞれ、いて、その女と結婚したかったが、それが、できなかった…
それが、根底にあった…
結果的に、建造、義春兄弟は、同じ五井一族の分家である、五井東家から、昭子、和子の姉妹を妻として迎える…
それ以外の選択肢は、なかった…
その経験が、根底にあり、いかに本家の力を強めるか、それが、根底にあった…
歴史は繰り返される…
今、諏訪野伸明が、直面した課題は、先代、建造が、直面した課題でもあった…
そして、私は、それを聞き、つくづく人生は、思い通りにならないものだと、考えた…
五井家の本家に生まれ、何一つ不自由のない生活をしてきたに違いない、伸明もまた、まったく、思い通りに、人生がならない…
おそらく本音では、菊池リンと、菊池冬馬の結婚に対して、異を唱えるつもりは、ないに違いない…
結婚は、当人同士が、合意すればいいこと…
基本的に、当人同士以外が、とやかく口を出すことではない…
伸明もまた、そういう意見に違いない…
だが、立場上、そういうわけには、いかない…
どうしても、反対する以外ない…
私は、そんな伸明の心中を思いはかった…
そんな内紛で揺れる、五井家をよそに、いよいよ、私の退院は近付いた…
体調もだいぶ回復した…
松葉杖も、部屋の中くらいなら、付かずとも、歩けるようになった…
これまら、一人暮らしもできる…
私は、内心、そう考えた…
が、
もちろん、そういうわけには、いかなかった…
藤原ナオキが、病室に見舞いに来たときに、
さりげなく、
「…綾乃さんが、退院しても、ボクが面倒を見るよ…」
と、言った…
これは、文字通り、お世辞と言うか、退院して、いずれ、働き出したら、これまで通り、ナオキの会社、FK興産で、雇ってくれるものと、思った…
だから、
「…ありがとうございます、社長…」
と、言った…
ナオキと名前で呼ぶのは、おかしい…
この場合、私、寿綾乃は、社長秘書、そして、藤原ナオキは、FK興産社長だ…
ゆえに、
「…ありがとうございます、社長…」
と、言ったのだ…
しかしながら、ナオキの返答は違った…
「…綾乃さん、社長じゃないよ…」
「…社長じゃない? …どういうこと?…」
「…このボク、藤原ナオキが、綾乃さんのプライベートの面倒を見ると言ってるのさ…」
「…面倒を見る?…」
「…鈍いな…綾乃さん…この後、綾乃さんが、退院して、ジュンと住んでたマンションに戻るよね…そのマンションにボクも同居するということさ…」
ナオキが、宣言する…
私は、その提案に、言葉を失った…
「…正気…ナオキ?…」
「…正気も正気さ…」
「…でも、ナオキ…私は、これから、諏訪野伸明さんと結婚するかもしれないのよ…」
「…それと、これとは、話が別…この病院を退院しても、綾乃さんは、すぐに働きにゆくどころか、一人で、生活することも、できないだろう…」
「…それは…」
言葉に詰まった…
たしかに、ナオキの言う通り…
この病室は、松葉杖なしでも、動けるようになったが、外に出るとなると、話は別…
まして、マンションで、一人暮らしを続けられるのか、どうかと、問われれば、返答に詰まる…
マンションの中で、一人でいることはできる…
これは、病室にいるのと、変わらない…
だが、ちょっと、買い物に出たり、いわゆる日常生活を、一人で送れるかどうか、問われれば、返答に困る…
そういうことだ…
だが、ナオキには、仕事がある…
FK興産社長としての仕事がある…
それは、一体どうするつもりなのか?
「…ナオキ…仕事…仕事はどうするの?…」
「…それは、もちろんする…ただできるだけ、会社にいる時間を減らして、極力、綾乃さんの近くにいるようにする…最近はテレワークも一般的になった…社長のボクが率先して、テレワークに取り組むことで、社員の在宅率を高める狙いも実践できて、一石二鳥だ…」
ナオキが笑った…
私は、文字通り、言葉もなかった…
絶句した…
同時に、ナオキが、こんなにも、私の心配をしてくれるのが、嬉しかった…
心の底から、私の心配をしてくれる人間が、身近にいてくれるのが、嬉しかった…
そう思うと、自然に涙がこぼれた…
「…ありがとう…ナオキ…」
自然と、口を開いた…
感謝の言葉が、出た…
「…どういたしまして…」
ナオキが、おどける…
「…鬼の目にも涙ってやつかな…」
ナオキが、私をからかった…
私は、ナオキの言葉で、自分の頬に伝わった涙を、手で拭った…
自分でも、意外なほど、不器用だった…
うまく、手で、涙を拭けなかった…
が、
考えてみれば、当然…
当たり前だ…
私は、滅多に涙を流すキャラではなかった…
元々、人間が冷たいのだろう…
他人にも、自分にも、冷たいのだろう…
誰かに、同情して、涙を流すことは、なかった…
自分に同情して、涙を流すこともなかった…
涙は、私には、無縁の存在だった…
寿綾乃には、無縁の存在だった…
そういうことだ…
私が、不器用に、頬に伝わった、自分の涙を拭っていると、ナオキが、自分の指で、私の頬に伝わった涙を拭いた…
「…意外だな…器用な綾乃さんでも、できないことがあるんだ…」
と、ナオキが笑った…
「…傍から見ても、綾乃さんが、自分の涙を拭うのに、慣れてないのが、わかる…」
「…」
「…これまで、生きてきて、涙を流したことのない証しだ…」
私は、ナオキの言葉に、反論できなかった…
その通りだったからだ…
だから、なにを言おうか、戸惑っていると、いきなり、ナオキが、私に顔を近づけてきて、私の唇を奪った…
これまで、藤原ナオキが、そんなことを、私にしたことは、一度もなかった…
だから、戸惑った…
唇を奪われながら、つい、
「…やめて…」
と、ナオキの顔を、手で、どけた…
「…これは、失礼…」
ナオキが、薄笑いを浮かべながら、私から、離れた…
「…これは、ボクからの退院祝いだと思って…」
「…退院祝い? …今のキスが?…」
「…そう…お金がかからない退院祝い…」
藤原ナオキが、笑う…
「…どうして、お金のかからない退院祝いなの?…」
「…綾乃さんの、この五井記念病院の入院費用…誰が、出していると、思っているの?…」
「…入院費用?…」
考えてもみなかった…
たしかに、こんな大病院に入院していれば、目の玉の飛び出すぐらいのお金がかかるに違いない…
「…ナオキ…その入院費用は、アナタが…」
ナオキは、ニヤニヤするだけで、なにも答えなかった…
「…金をかけた女には、その見返りを、もらわなくちゃ…」
「…その見返りが、今のキス…随分、安上がりね…」
「…いや、これから、いっしょに、綾乃さんと暮らせば、綾乃さんの下着だって、ボクが洗うことになる…十分な見返りさ…」
「…変態…」
私は、言った…
「…変態で、大いに結構…これから、綾乃さんと、二人きりで、暮らせるのだから…」
言いながら、ナオキが、嬉しそうに、再び、私とキスをした…
私は、今度は、ナオキのキスを、受け入れた…
そして、私は、この藤原ナオキが、本気で、私の身を心配してくれているのを、身を持って知ったと言うか…
正直、ここまで、私の身を心配してくれるとは、思わなかった…
私が、こんなカラダで、一人暮らしをするのが、心配なのだろう…
だから、どうしても、私を一人にできないに違いない…
だから、いっしょに住むと言ってくれたのだ…
そう思うと、ナオキとキスをしながら、再び、涙が目から、溢れ出た…
そして、諏訪野伸明を思った…
藤原ナオキとキスをしながら、諏訪野伸明を思った…
私は、本当に、これから、諏訪野伸明と結婚するのだろうか?
率直にいって、よくわからなかった…
だが、わかるのは、結婚相手がいるにも、かかわらず、たった今、別の男とキスをしていること…
これもまた事実だった…
諏訪野伸明と、藤原ナオキ…
一体、私は、どっちが、一番好きなのだろう?
自分でも、よくわからなかった…
いくら、考えても、答えの出ない難問だった…
誰もが、私と同じ立場に立てば、答えが出ないに違いない…
諏訪野伸明も、藤原ナオキも、甲乙つけがたいイケメンで、お金持ちだ…
二人とも、私を心の底から、愛してくれている…
ただ、二人の違いは、私と肉体関係があるか否か…
この藤原ナオキは、若い頃は、飽きるほど、カラダを重ねた…
が、
今はない…
それに比べ、諏訪野伸明とは、キスをしただけ…
それ以上の関係になったことは、一度もない…
私は、藤原ナオキと、長いキスを重ねながら、そんなことを、考えた…
我ながら、女心は、複雑…
実に、複雑だった(苦笑)…
私は、話を元に戻した…
伸明は、即座に反応した…
「…リンちゃんが、いきなり、冬馬と結婚したいと言って、五井はもうてんやわんやの大騒ぎです…」
と、言って、伸明は、深いため息をついた…
「…いきなり結婚…ですか? では、まだ、婚約はしていない?…」
「…婚約もなにも、冬馬と結婚したいと、聞いたのは、寝耳に水です…まさか、五井家を追放されたばかりの冬馬に向かって、リンちゃんが、結婚したいと言い出すなんて…」
伸明は、文字通り、頭を抱えた…
「…一体、なにを言い出すんだか?…」
目の前の伸明は、文字通り、憔悴していた…
これは、やはり、当時者だからだろう…
私も、菊池冬馬と、菊池リンの婚約に、驚いたが、こういってなんだが、所詮は、他人事に過ぎない…
が、伸明は、五井家当主…
菊池リンは、その五井家の一族だ…
他人事ではない…
なにより、追放した一族を、自分と結婚することで、一族に復帰させようとする、菊池リンの行動に、
「…なにを考えてるのか、わからない…」
と、諏訪野伸明が、嘆くことは、ひどく当然だった…
五井家を追放されたのは、当たり前だが、追放される理由がある…
それが、わかっていて、その追放された人間と結婚すると、言い出せば、どうなるかは、誰の目にも、わかる…
伸明が、嘆くのは、当たり前だ…
「…冬馬さんと、菊池リンさんは、以前から、仲が良かったんですか?…」
私は、聞いた…
同じ五井一族だから、子供の頃からの顔なじみに違いない…
「…それはない…」
伸明が、即答した…
「…そんな話は聞いたことがなかった…なにより、二人が、結婚したいなんて…」
そう言って、伸明は、頭を抱えた…
「…寿さんが言うように、昔から、顔なじみだから、仲が良ければ、いきなり、結婚といっても、驚かない…が、二人が、付き合ってるどころか、まともに、会話をしたのも、ボクは、見たことがなかった…」
伸明が、告白する…
「…では、冬馬さんは、誰と親しかったんですか?…」
「…子供の頃は、ボクか…あるいは、マミさんかな…」
「…諏訪野マミさんですか?…」
やはりというか、彼女の名前が出た…
彼女自身、冬馬と親しいと、私に告げていた…
「…他には?…」
「…他と言っても、他には…」
伸明が、悩んだ…
「…冬馬は以前も言ったように、五井家内で、立ち位置が、微妙だった…これは、冬馬の性格もあるが、重方(しげかた)叔父が、母の昭子と、決定的に、仲が悪かったことも一因だった…」
「…」
「…とにかく、重方(しげかた)叔父は、母の言うことを聞かない…だから、本家のコントロールが効かない…」
「…」
「…だから、母は、重方(しげかた)叔父を、いつしか、見切った…相手にしなくなった…それが、今回、自民党の大場派を出て、自分の派閥を立ち上げると聞いたときは、文字通り、激怒した…だから、結果的に、五井家から、冬馬ともども、追放した…そんな、経緯を、誰よりも、知っている、リンちゃんが、どうして、冬馬と、結婚したいと、言いだしたのか?…」
伸明が、嘆く…
文字通り、頭を抱えた…
「…誰か、背後に…」
私は、言った…
「…背後にいるのでは?…」
私の言葉に、諏訪野伸明は、頭を上げた…
「…その可能性は、考えた…しかし、その背後にいる人間が、誰だか…」
諏訪野伸明が苦悩する…
「…そういえば、重方(しげかた)さん…」
私は、話を変えた…
「…冬馬さんの父、菊池重方(しげかた)さんは、どうしたんですか?…」
「…どうって?…」
「…自民党で、菊池派を立ち上げると、宣言して、呆気なく、断念したと、聞きました…だから、今、どうしているのかと…」
「…ボクも詳しくは知りません…」
諏訪野伸明が、憮然とした表情で、言った…
「…重方(しげかた)叔父は、五井家を出ていった人間です…」
ひどく当たり前のことだった…
「…だから、今、交流がありません…噂では、大場先生の温情で、大場派に復帰するとか、しないとか、聞きましたが、本当のところは、よくわかりません…」
「…」
「…ただ、やはりというか、今回の騒動…」
「…騒動?…」
「…冬馬と、リンちゃんの結婚です…これは、やはりというか、冬馬の父、重方(しげかた)叔父抜きには、考えられない…」
「…」
「…どうしても、重方(しげかた)、冬馬と、父子で、セットでしか、考えられない…」
伸明が、繰り返す…
「…冬馬は、まだ、子供と言うか…まだ、それほどの駆け引きができるとは、思えない…」
伸明が、吐露した…
「…子供?…」
私は、伸明の言葉に、敏感に反応した…
「…いえ、冬馬は、ボクよりも十歳下…だから、以前も言いましたが、子供の頃は、よく遊んでやりました…だからかな…三十歳を過ぎても、冬馬を一人前の大人とは、思えない…」
「…」
「…なんていうか、ボクの中では、まだ小学校の低学年のままでいるような…」
「…」
「…だから、冬馬が、五井の会社で、うまくいかず、いくつか、会社をたらい回しされても、ボクは、納得というか…」
「…納得? ですか?…」
「…冬馬らしいというか…やんちゃな小学生のままだと、妙に納得してしまう…」
「…」
「…もちろん、それじゃまずいとは、思いますが、一方で、納得する自分がいるのも、事実です…」
「…」
「…でも、これでは、困る…五井家の当主としては、容認できない…とりわけ、母が…」
「…お母様?…」
「…母が、冬馬を嫌っていて…」
「…」
「…息子のボクの目から見ても、一言で、いえば、虫が好かないというか…とにかく、冬馬が、気に入らない…」
「…」
「…これは、たぶん、冬馬が、父の重方(しげかた)叔父に、似ているからだと、思う…」
「…」
「…二人とも、目以外は、そっくり…顔つきも、身長も、そっくり…ただ、目だけが、違う…」
「…」
「…だから、二人は、一見、似ていない…血が繋がった父子には、見えない…だけど、目を見なければ、そっくり…それに、気付けば、父子だと、誰にも、わかる…」
「…どうして、お母様は、冬馬さんを嫌ってるんですか? 重方(しげかた)さんに、似ているから…つまり、それほど、お母様は、重方(しげかた)さんが、嫌いなんですか?…」
私の質問に、伸明が、考え込んだ…
「…好き、嫌いでは、ないと思います…」
「…冬馬は、ともかく、母が、重方(しげかた)叔父を嫌ってるんです…」
「…どうして、嫌うんですか?…」
「…母の言うことを、聞かないからでしょう…」
伸明が、即答した…
「…国会議員になるなと、言っても、選挙に出て、議員になったのが、その好例です…誰もが、自分の言うことを聞かない人間を好きになるはずがありません…」
当たり前のことだった…
「…重方(しげかた)叔父は、母の十歳下の弟…だから、子供の頃は、可愛がったといいます…ちょうど、ボクと、冬馬の関係と同じです…」
「…同じ…それは、どう同じなんですか?…」
「…要するに、歳が離れすぎてるから、対等に見ない…あくまで、歳の離れた、弟…それは、一生変わらない…」
「…」
「…別の見方をすれば、いつまでも、母にとっては、歳の離れた弟…だから、重方(しげかた)叔父は、いくつになっても、母の言うことを聞かなければ、ならない…それが、大人になって、母の忠告を聞かなくなって、二人の関係が悪化したともいえます…」
「…」
「…これは、母と重方(しげかた)叔父の関係を見ても、以前は、実感が湧かなかったんですが、この歳になって、ボクと冬馬の関係を見て、実感したというか…」
「…どういう意味ですか?…」
「…さっきも言ったように、冬馬は、ボクにとって、小学校の低学年のままなんです…」
伸明が、苦笑する…
「…やはり、子供の時分に、十歳離れているのが、大きい…ボクが、十五歳のときに、冬馬は、五歳…このときの差は、大きい…これが、今のように、ボクが、42歳で、冬馬が、32歳とは、全然、違う…仮に、ボクが、冬馬と同じ年齢の女性と結婚しても、今では、全然おかしくないが、十五歳のときに、五歳の女のコと、将来結婚すると言われても、どうしても、実感が湧かない…それと同じです…」
伸明の言葉に、私が、冬馬と同じ、32歳だと言いたかったが、止めた(笑)…
「…だから、ボクは、どうしても、冬馬を心の底から憎めない…一族の鼻つまみ者と、冬馬が、陰で、罵られていてもです…それと、同じで、母も本音では、重方(しげかた)叔父を嫌ってない可能性が高いです…ただ、やはり、母の立場として、前五井家当主の妻の立場として、自分の命令を聞かない重方(しげかた)叔父を許すわけには、いかないんだと思います…重方(しげかた)叔父を許せば、五井一族の規律が緩む…母は、それを恐れたんだと思います…」
諏訪野伸明が、激白する…
私にとって、伸明の話は新鮮だった…
言われてみれば、当たり前のことだが、私には、兄弟がいないので、わからないことだった…
私は天涯孤独の身…
親も兄弟もいない…
だから、言われてみれば、歳の離れた姉弟ゆえに、子供の頃は、可愛がったが、大人になって、姉のいうことを、弟が聞かなくなって、姉弟の仲が悪化したが、本当は、今でも、好きだと言われれば、そうなのかと思う…
納得する…
その一方で、本当にそうか? とも思う…
他人は、当然だが、親兄弟等、自分と血が繋がった人間でも、一度、人間関係が、こじれるとうまくいかないものだ…
覆水盆に返らずの言葉通り、修復は不可能なものだ…
これは、私が単に天の邪鬼だからだろうか?
伸明の言葉に、素直に納得できなかった…
真逆に、一度うまくいかなくなった人間関係は、厄介だ…
ベクトルは変換したが、絶対値は変わらなかったという法則が、数学にあるが、その言葉通り、なまじ、好きだった人間が嫌いになったときは、その振り幅が激しいというか…
大好きだったものが、大嫌いになる…
そういうことだ(笑)…
男でも女でも、これは同じ…
とりわけ、恋愛関係で、うまくいかなくなると、厄介だ…
どうして、オレがあんな女と…
なぜ、アタシが、あんな男と…
と、なって、余計に憎み合う可能性が高い…
それまで、恋愛関係にあっただけに、非常に厄介だ…
私は、考える…
考えながら、失礼ながら、やはり、この諏訪野伸明は、お坊ちゃま、だと思った…
おそらく、そんな人間関係を目の当たりにしたことがないに違いない…
学生時代、人間関係がうまくいかず、悩んだと、以前、私に告白したが、それは、お金持ちのお坊ちゃま、お嬢様の学校だから、イジメといっても、軽いものだったのだろう…
だから、どうしても、物事を楽観的に考える…
軽く、考える…
この諏訪野伸明と、知り会って、思うのは、育ちの良さ…
それゆえ、性格も基本的に良い…
性格は、生まれに直結する…
生まれが良い人間は、大抵が性格も良い…
真逆に、生まれも育ちも悪い人間は、性格も悪い場合が多い…
残念ながら、それが現実だ…
生きてゆくのに、苦労がないから、性格が良くなり、生きてゆくのが、大変だから、その結果、性格が歪んでくるのだろう…
いわゆる、温室育ちの人間に、他人の悪事を指摘してもダメ…
なぜなら、そんな悪い人間を、テレビやドラマ、漫画など、フィクションの中でしか、見たことがないからだ…
だから、現実に存在することが、理解できない…
いや、
頭では、理解しても、見たことがないから、実感しないのだ…
それが、本当のところだろう…
私は、思った…
そして、そんな伸明に危うさを感じた…
こんな甘ったるい、人間の見方しかできない、伸明に危うさを感じた…
伸明は、人間としては、立派…
優れている…
しかしながら、温室育ちというか、お金持ちに生まれたゆえの、甘さを感じる…
人間としては、立派だが、そんな甘い性格で、世の中を渡ってゆけるのか、心配になる…
そういうことだ…
かつて、昭和天皇が、島津家に嫁いだ娘の貴子様に、
「…民間には、泥棒というものが、あるそうだから、気をつけるように…」
と、言ったことなど、その好例だろう…
いかに、世間知らずなのか、示す好例だろう…
天皇家の娘として生まれ、お金持ちの家に、嫁いで、なに不自由のない一生をおくる…
それができれば、いいが、もし、できなかったら、大変になる…
そういうことだ…
そして、天皇家の人間が、民間人になっても、お金の苦労をする生活をするとは、ありえないと思うが、一般のお金持ちは、違う…
まさかということが、あり得る…
まさか、破産して、一般人になってしまったという例は、枚挙にいとまがない…
そして、そのときに、これまで通りの、甘ったるい性格で、生きてゆけるのか、他人事ながら、不安になる…
その世間知らずの性格で、他人を疑いもせず、大した苦労もしないで、生きてゆけるのか、心配になる…
そういうことだ…
それまで、苦労知らずゆえに、他人に容易く騙されて、財産を失ったり、知らない間に、悪事に加担したり、しないか、心配になる…
そういうことだ…
私は、伸明を見て、そんなことを、思った…
苦労知らずの伸明を見て、そんなことを、考えた…
そして、その直感は、当たったと言うか…
今度は、五井の分裂が、囁かれる事態になった…
要するに、五井十三家が、分裂したのだ…
その原因というか、発端は、やはりというか、当たり前だが、菊池冬馬と、菊池リンの婚約だった…
この婚約が、本当か、どうかは、わからない…
しかしながら、この婚約の是非を巡って、五井一族の内紛が生じたのだ…
要するに、その婚約を認める者と、認めない者に、別れたのだ…
そして、当たり前だが、その婚約自体は、隠れ蓑というか…
本来、どうでも、いいことだった…
だってそうだろう…
一度、五井一族から、追い出した者を、他の一族の娘と、結婚させるから、もう一度、一族として、復帰することを認めるなど、できるはずがない…
そんなデタラメが、通るはずもない…
要するに、それは、婚約を隠れ蓑にした反乱に他ならなかった…
菊池リンと菊池冬馬の婚約は、隠れ蓑…
議題と言うか、問題は、どうあれ、五井本家の方針に逆らいたいのだ…
反逆したいのだ…
反逆して、あわよくば、五井本家を乗っ取るか、
あるいは、五井本家から、主導権を、他の一族に、取り返したいのだ…
それが、狙いだった…
私は、それを聞いて、以前、伸明の母、昭子の一卵性双生児の妹である和子が言った話を思い出していた…
それは、先代当主、建造と、その弟の義春の話だった…
建造、義春、兄弟もまた、本家と分家の関係に苦慮していた…
悩んでいた…
通常ならば、本家に権力があり、分家が、それに従うと考えるが、さにあらず…
本家の力が弱く、建造も、義春も、自分で、結婚相手を決められなかった…
本人たちの意思を半ば無視して、結婚が決まった…
そして、そのことが、建造、義春兄弟が、いかに本家が、分家に対して、力を行使するか…
いかに分家の力を削ぐか…
それが課題になった…
つまりは、本当は、建造も、義春も、自分たちが結婚したい女が、それぞれ、いて、その女と結婚したかったが、それが、できなかった…
それが、根底にあった…
結果的に、建造、義春兄弟は、同じ五井一族の分家である、五井東家から、昭子、和子の姉妹を妻として迎える…
それ以外の選択肢は、なかった…
その経験が、根底にあり、いかに本家の力を強めるか、それが、根底にあった…
歴史は繰り返される…
今、諏訪野伸明が、直面した課題は、先代、建造が、直面した課題でもあった…
そして、私は、それを聞き、つくづく人生は、思い通りにならないものだと、考えた…
五井家の本家に生まれ、何一つ不自由のない生活をしてきたに違いない、伸明もまた、まったく、思い通りに、人生がならない…
おそらく本音では、菊池リンと、菊池冬馬の結婚に対して、異を唱えるつもりは、ないに違いない…
結婚は、当人同士が、合意すればいいこと…
基本的に、当人同士以外が、とやかく口を出すことではない…
伸明もまた、そういう意見に違いない…
だが、立場上、そういうわけには、いかない…
どうしても、反対する以外ない…
私は、そんな伸明の心中を思いはかった…
そんな内紛で揺れる、五井家をよそに、いよいよ、私の退院は近付いた…
体調もだいぶ回復した…
松葉杖も、部屋の中くらいなら、付かずとも、歩けるようになった…
これまら、一人暮らしもできる…
私は、内心、そう考えた…
が、
もちろん、そういうわけには、いかなかった…
藤原ナオキが、病室に見舞いに来たときに、
さりげなく、
「…綾乃さんが、退院しても、ボクが面倒を見るよ…」
と、言った…
これは、文字通り、お世辞と言うか、退院して、いずれ、働き出したら、これまで通り、ナオキの会社、FK興産で、雇ってくれるものと、思った…
だから、
「…ありがとうございます、社長…」
と、言った…
ナオキと名前で呼ぶのは、おかしい…
この場合、私、寿綾乃は、社長秘書、そして、藤原ナオキは、FK興産社長だ…
ゆえに、
「…ありがとうございます、社長…」
と、言ったのだ…
しかしながら、ナオキの返答は違った…
「…綾乃さん、社長じゃないよ…」
「…社長じゃない? …どういうこと?…」
「…このボク、藤原ナオキが、綾乃さんのプライベートの面倒を見ると言ってるのさ…」
「…面倒を見る?…」
「…鈍いな…綾乃さん…この後、綾乃さんが、退院して、ジュンと住んでたマンションに戻るよね…そのマンションにボクも同居するということさ…」
ナオキが、宣言する…
私は、その提案に、言葉を失った…
「…正気…ナオキ?…」
「…正気も正気さ…」
「…でも、ナオキ…私は、これから、諏訪野伸明さんと結婚するかもしれないのよ…」
「…それと、これとは、話が別…この病院を退院しても、綾乃さんは、すぐに働きにゆくどころか、一人で、生活することも、できないだろう…」
「…それは…」
言葉に詰まった…
たしかに、ナオキの言う通り…
この病室は、松葉杖なしでも、動けるようになったが、外に出るとなると、話は別…
まして、マンションで、一人暮らしを続けられるのか、どうかと、問われれば、返答に詰まる…
マンションの中で、一人でいることはできる…
これは、病室にいるのと、変わらない…
だが、ちょっと、買い物に出たり、いわゆる日常生活を、一人で送れるかどうか、問われれば、返答に困る…
そういうことだ…
だが、ナオキには、仕事がある…
FK興産社長としての仕事がある…
それは、一体どうするつもりなのか?
「…ナオキ…仕事…仕事はどうするの?…」
「…それは、もちろんする…ただできるだけ、会社にいる時間を減らして、極力、綾乃さんの近くにいるようにする…最近はテレワークも一般的になった…社長のボクが率先して、テレワークに取り組むことで、社員の在宅率を高める狙いも実践できて、一石二鳥だ…」
ナオキが笑った…
私は、文字通り、言葉もなかった…
絶句した…
同時に、ナオキが、こんなにも、私の心配をしてくれるのが、嬉しかった…
心の底から、私の心配をしてくれる人間が、身近にいてくれるのが、嬉しかった…
そう思うと、自然に涙がこぼれた…
「…ありがとう…ナオキ…」
自然と、口を開いた…
感謝の言葉が、出た…
「…どういたしまして…」
ナオキが、おどける…
「…鬼の目にも涙ってやつかな…」
ナオキが、私をからかった…
私は、ナオキの言葉で、自分の頬に伝わった涙を、手で拭った…
自分でも、意外なほど、不器用だった…
うまく、手で、涙を拭けなかった…
が、
考えてみれば、当然…
当たり前だ…
私は、滅多に涙を流すキャラではなかった…
元々、人間が冷たいのだろう…
他人にも、自分にも、冷たいのだろう…
誰かに、同情して、涙を流すことは、なかった…
自分に同情して、涙を流すこともなかった…
涙は、私には、無縁の存在だった…
寿綾乃には、無縁の存在だった…
そういうことだ…
私が、不器用に、頬に伝わった、自分の涙を拭っていると、ナオキが、自分の指で、私の頬に伝わった涙を拭いた…
「…意外だな…器用な綾乃さんでも、できないことがあるんだ…」
と、ナオキが笑った…
「…傍から見ても、綾乃さんが、自分の涙を拭うのに、慣れてないのが、わかる…」
「…」
「…これまで、生きてきて、涙を流したことのない証しだ…」
私は、ナオキの言葉に、反論できなかった…
その通りだったからだ…
だから、なにを言おうか、戸惑っていると、いきなり、ナオキが、私に顔を近づけてきて、私の唇を奪った…
これまで、藤原ナオキが、そんなことを、私にしたことは、一度もなかった…
だから、戸惑った…
唇を奪われながら、つい、
「…やめて…」
と、ナオキの顔を、手で、どけた…
「…これは、失礼…」
ナオキが、薄笑いを浮かべながら、私から、離れた…
「…これは、ボクからの退院祝いだと思って…」
「…退院祝い? …今のキスが?…」
「…そう…お金がかからない退院祝い…」
藤原ナオキが、笑う…
「…どうして、お金のかからない退院祝いなの?…」
「…綾乃さんの、この五井記念病院の入院費用…誰が、出していると、思っているの?…」
「…入院費用?…」
考えてもみなかった…
たしかに、こんな大病院に入院していれば、目の玉の飛び出すぐらいのお金がかかるに違いない…
「…ナオキ…その入院費用は、アナタが…」
ナオキは、ニヤニヤするだけで、なにも答えなかった…
「…金をかけた女には、その見返りを、もらわなくちゃ…」
「…その見返りが、今のキス…随分、安上がりね…」
「…いや、これから、いっしょに、綾乃さんと暮らせば、綾乃さんの下着だって、ボクが洗うことになる…十分な見返りさ…」
「…変態…」
私は、言った…
「…変態で、大いに結構…これから、綾乃さんと、二人きりで、暮らせるのだから…」
言いながら、ナオキが、嬉しそうに、再び、私とキスをした…
私は、今度は、ナオキのキスを、受け入れた…
そして、私は、この藤原ナオキが、本気で、私の身を心配してくれているのを、身を持って知ったと言うか…
正直、ここまで、私の身を心配してくれるとは、思わなかった…
私が、こんなカラダで、一人暮らしをするのが、心配なのだろう…
だから、どうしても、私を一人にできないに違いない…
だから、いっしょに住むと言ってくれたのだ…
そう思うと、ナオキとキスをしながら、再び、涙が目から、溢れ出た…
そして、諏訪野伸明を思った…
藤原ナオキとキスをしながら、諏訪野伸明を思った…
私は、本当に、これから、諏訪野伸明と結婚するのだろうか?
率直にいって、よくわからなかった…
だが、わかるのは、結婚相手がいるにも、かかわらず、たった今、別の男とキスをしていること…
これもまた事実だった…
諏訪野伸明と、藤原ナオキ…
一体、私は、どっちが、一番好きなのだろう?
自分でも、よくわからなかった…
いくら、考えても、答えの出ない難問だった…
誰もが、私と同じ立場に立てば、答えが出ないに違いない…
諏訪野伸明も、藤原ナオキも、甲乙つけがたいイケメンで、お金持ちだ…
二人とも、私を心の底から、愛してくれている…
ただ、二人の違いは、私と肉体関係があるか否か…
この藤原ナオキは、若い頃は、飽きるほど、カラダを重ねた…
が、
今はない…
それに比べ、諏訪野伸明とは、キスをしただけ…
それ以上の関係になったことは、一度もない…
私は、藤原ナオキと、長いキスを重ねながら、そんなことを、考えた…
我ながら、女心は、複雑…
実に、複雑だった(苦笑)…