第9話

文字数 9,791文字

 …菊池冬馬…

 やはり、この病院の理事長、菊池冬馬が、キーパーソン…

 今、私の入院する、五井記念病院の理事長、菊池冬馬が、五井家の内紛の主役の一人に、違いない…

 私は、考える…

 同時に、

 会ってみたい…

 見てみたい…

 と、思った…

 どんな人間か、この目で、確かめてみたい…
 
 そう、思った…

 五井家当主の、諏訪野伸明さんと、まだ意識の回復していない、私、寿綾乃を見舞いに来たぐらいなのだから、いずれ、この病室にやって来ることで、あろうことは、容易に、想像できる…

 ただ、やはり、早い方が、いい…

 どんな人間か、この目で、見てみたい、と思った…

 そう、考えていると、

 「…実は、ボクも、この菊池冬馬氏に、会ってるかもしれないんだ…」

 と、傍らの藤原ナオキが、意外なことを、言った…

 「…会ってる? 菊池冬馬さんに?…」

 言いながら、それは、

 「…それって、やはり、この病院で、まだ意識を回復していない、私の見舞いにやって来たとき?…」

 と、聞いた…

 「…それもある…」

 ナオキが、即答する…

 「…でも、それ以前に、どこかで、会った気がするんだ…」

 ナオキが、考え込みながら、言う…

 「…どこ? …どこで?…」

 「…わからない…」

 ナオキは、首を横に振った…

 「…たぶん、確信はないが、経営者同士の集いというか、若手経営者の集まりか、なにか、パーティーの席だったと、思う…」

 ナオキが、告白する…

 「…綾乃さんも、知ってるように、ああいう集まりでは、とにかくいろんなひとと、出会う…ボクも最初の頃は、もらった名刺を大切に保管したり、自分でも、いろんな人間に、名刺を配った…でも、じきに、そんなことはしなくなった…変な話、パーティーで、知り会った人間は、パーティーで知り合ったに過ぎない…」

 「…どういうこと?…」

 「…要するに、顔見世というか、名刺を交換するだけだ…大抵が、仕事に繋がらないし、そもそも、一度会っただけで、互いに、どんな人間かもわからない…だから、その後、仕事に繋がらない…どんなひとなのって、ひとに聞かれても、答えることができない…だから、ひとに紹介することができない…」

 「…」

 「…だから、それがわかって、ボクは、パーティーに出席するのは、止めた…」

 ナオキが説明する…

 たしかに、ナオキが言うことは、わかる…

 私は、藤原ナオキがFK興産を創業する前から、知っている…

 藤原ナオキが、FK興産を創業したときは、ITバブル全盛期…

 ちょうど、あのホリエモンが、ライブドアで、世の中を席捲した時期だ…

 誰もが、ITを使って、会社を立ち上げて、一儲けしようとした時代…

 多くの人間が、会社を創業した…

 そして、勉強会と称して、さまざまな飲み会が発生したのも、この時代の真実…

 酒を飲むことで、見知らぬ者同士が、仲良くなれる…

 その意味で、酒は、人間関係の構築に欠かせないものだった…

 酔って、くだらない話をすることで、仲良くなれる…

 だが、所詮は、酒を介して、知り会っただけ…

 本当は、相手のことがよくわからない…

 だから、信用できない…

 そんなことがわかって、藤原ナオキは、いわゆる、同業者の集まりに、顔を出すことは、止めた…

 当時、そう、私に、告白した…

 私は、それを思い出した…

 が、

 おかしいというか…

 その時代の話では、年齢が合わない…

 菊池冬馬は、三十代前半…

 藤原ナオキよりも、十歳は若い…

 だから、今言った、パーティーで、知り会ったのならば、創業当時のパーティーではない…

 むしろ、最近…

 どこかのパーティーで、知り会ったのだろう…

 藤原ナオキは、FK興産という会社の創業社長であり、従業員は、千人を超える…

 同時に、テレビのキャスターを務める…

 その爽やかなルックスから、起用されたのだ…

 だから、世間に顔が知られている…

 そして、今は、創業当時とは、違う意味で、パーティーに顔を出さなければ、ならない立場になった…

 要するに、売れないタレントのギャラ飲みと、同じ…

 売れないタレントが、パーティーに出席することで、ギャラを得る…

 つまりは、パーティーに出席することが、仕事…

 たとえ、売れないタレントでも、若く、きれいな女のコが、パーティーに出席すれば、そのパーティーが華やかになる…

 それと、同じで、世間に名の知れた、ルックスのいい、藤原ナオキが、パーティーに顔を出すことで、おおげさにいえば、パーティーの格が上がるというか…

 目玉になる…

 だから、藤原ナオキに、パーティーに出席の依頼が、引きも切らなかった…

 が、

 ナオキ自身に、パーティーに興味はなかった…

 だから、厳選した…

 どうしても、断れない人間からの依頼以外は、滅多にパーティーに顔を出さなくなった…

 だから、最近のパーティーで、菊池冬馬に知り会ったに決まっている…

 また、ナオキが、世間的な知名度も得て、出席するパーティーは、当然のことながら、他の出席者も、立派な経歴の持ち主だった…

 これを、考えれば、最近というか、ここ数年のパーティーで、菊池冬馬に出会ってるに決まっている…

 私は、あらためて、そんなことに、気付いた…

 そして、同時に、気付いた…

 ならば、菊池冬馬は、どうなのか?

 ということだ…

 藤原ナオキと会ったときに、以前、会ったことに、菊池冬馬は、気付いたか、否か…

 謎があるというか…

 興味がある…

 私が、そんなことを、考えていると、

 「…パーティーというのは、所詮、顔見世に過ぎない…」

 と、藤原ナオキが、自嘲気味に笑った…

 「…菊池冬馬氏のことは、わからないが、諏訪野さんのように、生まれながらの金持ちと、ボクとでは、育った環境が、違い過ぎる…」

 「…」

 「…パーティーで、知り会った程度の間柄で、ビジネスは展開できない…それをいえば、できれば、学生時代に知り合った人間が、一番信用できるというか…つまるところ、仲良くできる…」

 「…どういうこと?…」

 「…ほら、ひとは誰でも、子供の頃に知り合った人間と、一番打ち解けることができる…大人になって、会社や仕事の関係で、知り会った人間よりも、信頼できるというか…たとえ、性格が悪い人間でも、アイツは、ああいう人間だから、の一言で、納得する場合が、多々あるというか…」

 「…ナオキ、アナタ、なにが言いたいの?…」

 「…つまりは、生まれ…」

 「…生まれ?…」

 「…金持ちは、金持ちの集まる名門の学校に進学する…周りは、みんな金持ち…そこで、横の繋がりができる…だから、大人になって、なにか、困ったときや、仕事の関係で、悩んだときも、その金持ちのネットワークが生きるというか…いわゆる有力者同士繋がっている…」

 ナオキが、呟く…

 私は、藤原ナオキが、そのような発言をすることを、初めて、見た…

 やはり、コンプレックスというか…

 一般人が成功しただけに、生まれつきの金持ちとの差をまざまざと見せられたことが、何度もあるのだろう…

 埋めがたい差があるのだろう…

 会社を経営することで、知った現実を、口にしたに過ぎないかもしれないが、やはり、それは、痛かった…

 藤原ナオキが、自らの限界を口にしたのと、同じだからだ…

 私も、藤原ナオキも、元は、一般人…

 金持ちでも、なんでもない…

 詰まるところ、生まれが違うことで、出てくる限界もある…

 いかに金を得ようと、所詮は、成り上がり…

 生まれながらの金持ちとは、違う…

 生まれながらの金持ちとは、政界の麻生太郎元首相のように、金持ちのネットワークを持っている…

 金持ちの家に生まれ、金持ちが集まる学校に進学する…

 そうすることで、エスタブリッシュメントというか、階層が確立する…

 いわゆる、金持ち=上級国民が出来上がる…

 世界の富の44%を、わずか、1%の金持ちが、持っている(トマ・ピケティ)…

 それが、現実だ…

 残念ながら、その現実を否定することは、できない…

 「…ボクは、金持ちになりたかったわけじゃない…」

 ナオキが、突然、言った…

 「…ただ、ビジネスをしたかっただけだ…」

 ナオキが、続ける…

 「…自分で、事業をしたかった…それで、創業当時は、ユリコがいて、彼女が、有能だった…ボクの右腕として、ボクが、思っていたというか、期待していたよりも、はるかに、優秀だった…ユリコ以外にも、綾乃さんや、その他のスタッフのおかげで、成功した…でも、成功うんぬんを別にすれば、ボクは、ただ事業をしたかっただけで、成功うんぬんは、考えてなかったというか…とにかく、好きなことをしたかっただけだ…」

 ナオキが、激白する…

 ナオキの言うことは、いわゆる、世間で、成功した人間は、誰もが、言っていることだ…

 私は、思った…

 成功が目的ではない…

 結果的に、成功した…

 これが、答え…

 好きなことに、一生懸命、没頭していたら、成功した…

 誰もが、口にするセリフ…

 好きなことだから、一生懸命になれる…

 好きなことだから、人一倍、夢中になれる…

 好きなことだから、より力を発揮できる…

 つまり、これが、成功する基本条件だろう…

 好きなことだから、より力を発揮できる…

 これが、なにより前提にある…

 そして、だからといって、成功できる人間は、ごく少数…

 成功は、極端にいえば、偶然…

 神様に選ばれた人間に過ぎない…

 大部分は、華やかな成功とは、無縁だからだ…


 「…ただ、その限界も知った…」

 ナオキが続ける…

 「…諏訪野さんのような昔からの金持ちを知ると、自分の置かれた状況が、まるで、違うことがわかる…」

 「…」

 「…ボクのように、テレビに出て、そこそこ世間的な知名度を得ても、人脈がまるで、違う…生まれながらの金持ちには、彼らしか知らないネットワークといおうか…」

 「…」

 「…だが、それを妬んでも仕方がない…彼らは、極端にいえば、この国の貴族だ…生まれながらの上級国民だ…ボク程度の人間が、そこそこ成功しても、相手にもされない…」

 ナオキが、苦笑する…

 「…ただ…」

 ナオキが、言葉に、力を込めた…

 「…そんな上級国民の諏訪野さんに出会ったのは、綾乃さんにとって、この上ない僥倖(ぎょうこう)だ…なぜなら、諏訪野さんは、ボクにはない、金持ちのネットワークを持っている…」

 「…」

 「…この病院に入院出来て、腕のいい医者を担当につけることができたのは、諏訪野さんのおかげだ…ボクの力では、この五井記念病院に、綾乃さんを入院させることは、できるかもしれないが、腕のいい医者を、綾乃さんの担当にすることは、たぶん、できない…」

 「…」

 「…そして、綾乃さんには、なにより、その僥倖(ぎょうこう)を、生かして欲しい…」

 「…生かす? …どういうこと?…」

 「…長生きをして欲しい…」

 「…長生きって? なにを?…私は、癌なのよ…」

 「…それでも、だ…綾乃さんが、一日でも、一分、一秒でも、長く生きることが、その僥倖(ぎょうこう)を生かすことに繋がる…この病院に入院して、名医に見て、もらうことで、少しでも、命を繋ぐことができる…」

 「…なにをバカな…」

 と、私が、言いかけると、傍らのナオキが、泣いていることに気付いた…

 「…お願いだ…綾乃さん…この僥倖(ぎょうこう)を生かしてくれ…」

 ナオキが、絞り出すような声で、言った…

 私は、どう言っていいか、わからなかった…

 と、同時に、

 …自分は、こんなに大事にされてるんだ…

 と、今さらながら、思った…

 傍らの藤原ナオキに、こんなに大事に思われてる…

 それを思うと、悪い気はしなかった…

 自分のために、泣いてくれる…

 自分のために、涙を流してくれる…

 そんな人間が、一人でもいることに、あらためて、感謝した…

 そして、

 「…私にとっての僥倖(ぎょうこう)は、ナオキ、アナタと知り合ったことなの…」

 と、言ってやりたかった…

 お金もなにもない、天涯孤独、ひとりぼっちの、私、寿綾乃が、これまで、生きてこれたのは、藤原ナオキ、アナタと知り会うことができたから…

 そう言ってやりたかった…

 しかし、それを口にすることはできなかった…

 それを口にするのは、私も恥ずかしいし、なにより、ナオキ自身が、それを嫌がる…

 そして、それを嫌がる藤原ナオキだからこそ、かえって、信頼できた…

 自分自身が称賛されることを、なにより嫌う人間こそ、当たり前だが、信頼できた…

 そんな人間と、知り会うことができたことが、私、寿綾乃の僥倖(ぎょうこう)だと、あらためて、思った…

 
 「…寿さん…具合はどうですか?…」

 ナオキが、帰った後に、ほどなく、担当の長谷川センセイが、あの看護師の佐藤ナナといっしょに、やって来た…

 「…大丈夫です…」

 私は、ベッドに横たわりながら、答えた…

 長谷川センセイは、幾分、緊張した面持ちだった…

 やはり、背後に、佐藤ナナを従えているからかもしれない…

 前回、佐藤ナナから、

「…センセイ…寿さんが、好きなんでしょう?…」

と、からかわれた…

それで、余計に、私を意識したのかもしれない…

長谷川センセイが、私を好きなのか、どうかは、わからないが、たとえば、それまで、あまり意識しなくても、周囲の人間から、

「…好きなんでしょ?…」

と、思われてることを知れば、やはり、意識してしまう…

真相は、そんなところじゃないかなとも、思う…

ただ、私にとって、この長谷川センセイは、特別…

別格だ…

なぜなら、私の裸を見られている…

全裸を見られている…

男女関係がなくて、私の全裸を見られた男性は、たぶん、この長谷川センセイが、初めて…

子供時代のジュン君とは、よくいっしょに、お風呂に入ったが、ジュン君は、男とはいえ、子供…

れっきとした成人男子で、男女関係がないにもかかわらず、裸を見られたのは、この長谷川センセイが初めてだ…

かといって、恥ずかしいとか、なにかは、なにもない…

これは、やはり、相手が医者だから、だろう…

医者に裸を見られたから、恥ずかしいとは、思わない…

それは、相手が年下であれ、年上であっても、同じ…

医者という立場の人間が、患者の裸を見るのは、当たり前だからだ…

しかし、それは、患者としての立場…

医者としての立場から、見れば、また違うかもしれない…

ただ、やはり、医者としての立場ならば、どんな美人の裸を見ても、ときめかないのではないか?

職業上、老若男女を問わず、患者の裸を見ることは、見慣れている…

そう思った…

そして、そう思ったとき、あのユリコに、

「…裸を見られました…スッポンポンの裸を見られました…」

と、言って、からかったことを、思い出した…

ユリコが、この長谷川センセイを、気になっていることを、知って、からかってみたくなった…

ユリコは、イケメン好き…

もちろん、イケメン好きとはいえ、イケメンならば、誰でもいいわけではないだろう…

男でも女でも、ルックスが良い人間を好きな男でも女でも、ルックスが良ければ、誰でも、好きだということは、ありえない…

通常、会ったことのない有名人…

テレビで見る芸能人の、ルックスが良い男女でも、やはり、好きではない人間がいる…

 当たり前のことだ…

 単純に、この長谷川センセイが、ユリコのタイプなんだろう…

 そう思うと、ついニヤリとした…

 口元がほころんだ…

 が、それを見て、看護師の佐藤ナナが、

 「…センセイ…寿さんが、笑ってますよ…」

 と、いきなり、言った…

 すると、長谷川センセイが、困惑した…

 それまで、いささか、緊張した面持ちで、私のカラダを調べていた長谷川センセイの顔が、真っ赤になった…

 まるで、電気が付いたように、紅潮した…

 「…きっと、長谷川センセイが、寿さんを、好きだから、からかってるんですよ…」

 佐藤ナナが、長谷川センセイをからかう…

 しかし、今度は、顔を紅潮させた長谷川センセイが反撃した…

 「…いや、ボクが、寿さんを、人一倍熱心に診察するのは、冬馬に頼まれて…」

 思いがけない名前が出た…

 「…冬馬って、この病院の理事長の菊池冬馬さん?…」

 私は、聞いた…

 まさか、この長谷川センセイから、菊池冬馬の名前が出るとは、思わなかったからだ…

 「…冬馬は、学生時代からの友人で…アイツに頼まれて…」

 「…学生時代の友人?…」

 唖然とした…

 まさか、この長谷川センセイと、菊池冬馬が、そんな関係だとは、思わなかった…

 同時に、当たり前かも、とも思った…

 菊池冬馬は、五井一族…

 当たり前だが、お金持ち…

 そして、それは、この長谷川センセイも同じに違いない…

 当たり前だが、医者になるには、お金がかかる…

 頭がよいことは、もちろんだが、お金が、必要になる…

 そのお金をたやすく用意できるのは、やはり、実家が裕福な証拠…

 お金持ちの証拠だからだ…

 そして、お金持ちだから、お金持ちの子息が集う有名校に進学する…

 だから、菊池冬馬と、知り会ったのだろう…

 私は、思った…

 「…冬馬に頼まれたから…」

 長谷川センセイは、繰り返す…

 私は、驚きで、絶句のあまり、言葉も出ず、黙って、長谷川センセイを見たが、それは、看護師の佐藤ナナも同じだった…

 「…長谷川センセイが、理事長の友達だったなんて…」

 驚きに、目を見張った…

 佐藤ナナの浅黒いが、愛くるしい顔が、驚きに満ち溢れていた…

 「…そんな…すごい…」

 佐藤ナナが、口走った…

 が、

 長谷川センセイは、冷静だった…

 「…そんな…すごくも、なにも、ないよ…佐藤さん…」

 長谷川センセイが、言う。

 「…佐藤さんは、冬馬が、この病院の理事長だから、すごいと思ってるんだろうけど…」

 佐藤ナナは、長谷川センセイの問いかけに、

 「…」

 と、無言だった…

 「…でも、ボクにとっては、学生時代の友人に過ぎない…」

 「…」

 「…だから、偉くとも、なんともない…」

 長谷川センセイが笑った…

 たしかに、長谷川センセイの言う通りだろう…

 学生時代に知り合った人間が、どれほど、偉かろうと、あまり、偉い人間とは、思わない…

 たとえば、学生時代の友人が、キムタクや、小泉進次郎のように、有名になっても、それ以前の無名時代の姿を知ってるからだ…

 それと、同じだろう…

 「…アイツに頼まれたから、寿さんの担当になった…それだけです…」

 長谷川センセイが、私のカラダを診断しながら、言った…

 私は、その言葉に、ちょっと落胆した…

 やはり、私を好きだとか? 

 そんなことを、言ってもらいたかった(笑)…

 事務的に、淡々と、事実を告げられると、落胆するというか…

 気落ちする…

 だから、

 「…残念ですね…」

 私は、言った…

 「…残念? …なにが、残念なんですか?…」

 「…せっかく、私の担当になったのだから、私を好きになって欲しかったです…」

 と、わざと、言った…

 菊池冬馬から、頼まれたから、私の担当になった…

 と、淡々と語る、長谷川センセイに、皮肉を言ってやりたかった…

 やはり、自分を好きだと思っていた男が、実は、好きでも、なんでもないと、目の前で、宣言されると、誰もが、いい気はしない…

 極端な場合は、復讐したくなるというか…

 邪魔したくなる(笑)…

 事実、男でも女でも、好きな相手に告白して、けんもほろろに、断られて、以後、その相手の悪口を周囲に言いふらすようになったと、いう話は、よく聞く…

 好きが、嫌いになった好例だ(笑)…

 女の場合は、あの女は、男好きで、いろんな男とやりまくっているとか、根も葉もない噂を立てられる(苦笑)…

 そういう例が多い…

 そして、これが、仕事の関係者だと、さらに厄介になる…

 仕事上、どうしても、関わらざるを得ない人間が、相手では、困る…

 常に、仕事を邪魔される…

 あるいは、仕事で、自分だけ、重要な連絡がされないとか…

 とにかく、追い込まれる…

 そういう話は、よく聞く…

 だが、私の場合は、ちょっぴり、皮肉を言っただけ…

 だから、可愛いものだ…

 だが、私の言葉は、思いがけず、予想外の反応をもたらした…

 「…いえ…ボクは…その…寿さんを、嫌いだと、言ったわけでは…」

 長谷川センセイが、ちょっと、ドキマキした感じで、言った…

 しかも、顔を赤らめて、だ…

 これには、私も慌てた…

 まさに、想定外…

 想定外の反応だった…

 私を好きじゃないようなことを言ったので、あえて、私を好きだといってもらいたかったと、長谷川センセイをからかった…

 しかし、その結果、長谷川センセイが、実は、私を好きなようなことを、言いだした…

 今度は、私が慌てる番…

 どうして、いいか、わからなかった…

 長谷川センセイをからかったつもりが、しっぺ返しが来た…

 そんな感じだった…

 が、

 それを救ったのが、佐藤ナナだった…

 「…センセイ…ここは、病室です…女を口説く場所じゃありませんよ…」

 と、いきなり、怒り出した…

 「…女を口説く? …ボクは、そんなつもりじゃ…」

 長谷川センセイが、慌てた…

 「…ここは、病室…長谷川センセイは、医者…そして、寿さんは、患者です…お二人とも、自分の立場をわきまえて、行動して下さい…」

 佐藤ナナが、プンプンと怒った感じで、言った…

 「…そ…それは、わかっている…」

 長谷川センセイが、言い訳した…

 「…ボ、ボクは、医者で…寿さんは、患者…」

 「…わかってないから、言ったんです…」

 佐藤ナナが、怒った…

 明らかに、激怒していた…

 「…長谷川センセイ…女を口説くのなら、どこか、別の場所で、やってください…ここは、病院…病室です…女を口説く場所じゃ、ありません…」

 佐藤ナナが、血相を変えた…

 その佐藤ナナの言葉に、長谷川センセイは、明らかに、ひるんだ…

 怯えたといってもいい…

 「…わ…わかってる…ボ、ボクは、わかってるつもりだ…」

 しどろもどろの言葉で、返答した…

 「…わかってるつもりなら、病室で、患者相手に、口説くような言葉は、言わないんじゃないんですか?…」

 「…ボ、ボクが、いつ、寿さんを口説いた?…」

 今度は、長谷川センセイが、激怒した…

 「…ボ、ボクは、そ、そんなこと、した覚えはないぞ…」

 「…した覚えは、ないって?…たった今、寿さん、相手にしたじゃないですか? ウソを言わないで下さい…」

 「…いつ、寿さんを、ボクが、口説いた?…」

 「…今…たった今です…」

 佐藤ナナが、怒鳴った…

 「…ボクは、そんなことはしていない…」

 今度は、長谷川センセイが、怒鳴り返した…

 なんだか、痴話げんかの様相になってきた…

 だが、このままでは、両者とも、収まりがつかないに違いない…

 「…お二人とも、仲がいいんですね…」

 と、私が、二人に、声をかけた…

 二人は、口論を止めて、ビックリした顔で、私を見た…

 「…そんな恋人同士のお二人のお邪魔をして、申し訳ありません…でも、患者は、私ですし…」

 本当は、二人の争いの原因を作ったのは、私だが、そんなことは、おくびにも出さずに、口を出した…

 自分に都合の悪いことは、口に出さないに限る(笑)…

 さすがに、二人とも、私の顔を見て、バツが悪くなったのか、言い争いをしなくなった…

 「…センセイ…診察を続けてください…」

 私は、長谷川センセイに、お願いした…

 長谷川センセイは、これまでとは、一転して、真面目な表情で、診察を始めた…

 私は、ホッとした…

 これで、二人の騒動に終止符を打てると、思ったからだ…

 しかし、

 さにあらず…

 射るような視線を感じた…

 視線の主は、佐藤ナナ…

 私が、長谷川センセイをからかったのが、許せないに違いない…

 明らかに憎々しげに、私を睨んでいた…

 …面倒なことになった…

 私が仕掛けたにも、かかわらず、そう思った(苦笑)…

 もしかしたら、無用に、敵を作ったかもしれなかったからだ…

 私は、謝ろうとも、思ったが、長谷川センセイが、いっしょにいては、かえって、マズいと思った…

 かえって、話がややこしく、なりかねない…

 だから、今度、佐藤ナナが、検診にひとりで、やって来たときに、謝ろうと、心に決めた…

 佐藤ナナの射るような視線を感じながら、そう心に決めた…

              
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