第81話

文字数 5,670文字

 「…寿綾乃…」

 いきなり、私の名前を呼んだ…

 「…いや、矢代綾子…」

 今度は、いきなり、私の本名を呼んだ…

 「…アンタの人生は、どうだ? 楽しいか?…」

 思いもよらないことを、いきなり、言い出した…

 私は、どう答えていいか、わからなかった…

 私は、子供ではない…

 32歳にもなった女が、正面切って、同い年の男から、
 
 「…アンタの人生は、どうだ? 楽しいか?…」

 と、問われ、

 「…楽しいです…」

 と、答えるのも、バカバカしい…

 人生は、楽しいものではない…

 かといって、どうしようもなく、辛いものではない…

 決して、平坦ではなく、上り道があり、下り道もある…

 そして、率直にいって、上り道が多い…

 決して、急坂ではないが、上るのは、楽ではない道が多い…

 そういうことだろう…

 だが、それを、この冬馬にいまさら、説明する必要があるだろうか?

 この冬馬は、お坊ちゃま…

 五井東家出身のお坊ちゃまだ…

 しかし、周囲から、嫌われている…

 好かれていない…

 金持ちの家に、生まれ、長身のイケメン…

 いわば、すべてを持って、生まれた男だ…

 にもかかわらず、少しも幸せそうではなかった…

 さもありなん…

 周囲の人間から、嫌われて、幸せな人生を送れるわけがない…

 私は、この冬馬と、接したのは、必ずしも、多くの時間ではないが、決して、嫌な感じは、しなかった…

 以前にも言ったが、好きではないが、嫌いでもない…

 性格も良くはないが、どうしようもなく、悪いわけでもない…

 ただ、なんとなく、好きになれない…

 それが、正直な気持ちだったのかもしれない…

 と、私は、この菊池冬馬のことを、考えたが、冬馬を、昔から、知る人間は、どうだったのだろうか?

 ふと、思った…

 いわゆる、ひがみや、やっかみが、含まれていたのでは?

 と、ふと、気付いた…

 これは、以前、この冬馬の実の兄である、伸明も言っていた…

 いわゆる、お金持ちの集まる学校でも、目立って、お金持ちの家に生まれたゆえに、周囲の人間と、うまくいかなかった、と…

 そう、嘆いていた…

 そして、それは、この冬馬もまた同じに違いない…

 そして、また、この冬馬と伸明を見た場合、感じるのは、二人とも、不器用だということだった…

 二人とも、決して、器用な人間ではないということだった…

 器用、不器用というと、抽象的すぎて、わかりづらいが、例えば、集団があり、その集団に、すぐになじめるか、否か…

 これを、考えると、わかりやすい…

 例えば、毛色の変わった十の集団があり、その十の集団に馴染める人間は、普通いない…

 会社の職場に例えれば、十の職場があり、そのすべてに馴染める人間は、普通いない…

 真逆に、十の職場、どこでも、うまくいかない人間も、普通いない…

 この場合、器用な人間は、例えば、8つの職場は、うまく馴染める…

 真逆に、不器用な人間は、例えば、3つの職場しかなじめない…

 そういうことだ…

 そして、それは、学校の成績とかは、関係ない…

 はっきり言えば、持って生まれた能力…

 そして、8つの職場に馴染める人間は、生きるのに楽だ…

 真逆に、3つの職場にしか、適応できない人間は、生きるのが、大変…

 そういうことだ…

 私は、それを思った…

 「…答えないのか?…」

 冬馬が、苛立った声で、聞いた…

 「…生きるのは、決して楽ではないです…」

 私は、答えた…

 「…かといって、どうしようもなく、辛いものでもない…」

 私が、躊躇いがちに答えると、冬馬が、ニヤリとした…

 「…うまい…」

 と、評した…

 「…実に、うまい…模範解答…」

 冬馬が、笑った…

 「…伸明さんが、アンタを好きになるのは、わかる…」

 「…」

 「…惚れるのは、わかる…」

 「…」

 「…アンタは、伸明さんや、オレが、持ってない能力を持っている…」

 「…」

 「…たやすく、周囲に馴染み、集団の中で、たやすくポジションを得る…オレや伸明さんには、ありえない能力だ…」

 「…」

 「…決して、人間は、生まれや学歴ではないことがわかる…」

 「…」

 「…だから、アンタに、憧れる反面、アンタが憎らしい…」

 「…憎らしい?…」

 「…オレや伸明さんが、手を伸ばしても、決して、手が届かない才能を、持っている…だから、羨ましい反面、憎らしい…」

 「…」

 「…アンタが、あのユリコという女に、憎まれているのも、たぶん同じ…」

 「…」

 「…アンタが、美人に生まれたのも、憎たらしいかもしれないが、それよりも、おそらく、あのユリコという女から、見れば、きっと、アンタが、楽に生きているように、見えるんだろう…」

 意外なことを、言った…

 この冬馬が、今、ユリコのことを、言ったのは、驚かない…

 すでに、冬馬は、ユリコのことを、調べ尽くしているに、違いないからだ…

 が、

 ユリコが、私が、楽に生きているから、許せない、という言葉には、驚いた…

 私は、決して、この歳まで、楽に生きてきた覚えはない…

 実家は、お金持ちには、ほど遠かったし、私は、生きるのに、必死だった…

 が、

 ユリコは、そうは見なかったのだろう…

 私は、ユリコが、私を憎む理由は、ただ一つ…

 ユリコから、ナオキを奪ったことだと、思っていた…

 いや、

 今、ユリコが、私が楽に生きているのが、許せないと言ったのは、ただの冬馬の意見…

 ユリコの意見ではない…

 冬馬の意見だ…

 しかしながら、冬馬は、私をそう見ているということだ…

 「…冬馬さん…」

 私は、聞いた…

 「…冬馬さんは、そんなに、私が楽に生きていると、思いますか?…」

 「…思う…」

 即答した…

 「…どうしてですか?…」

 「…どうしてって?…」

 「…どうして、そう思うんですか?…」

 「…アンタは、嫌われない…」

 「…嫌われない?…」

 「…集団の中に、するりと入ることができる…」

 「…」

 「…オレや、伸明さんには、ない能力だ…」

 意外な言葉だった…

 「…だから、伸明さんは、アンタに憧れると同時に憎む…」

 「…憎む?…」

 「…アンタを隠れ蓑にして、五井家で、自分の当主としての力を、伸ばそうとした理由もそれだ…」

 「…どういうことですか?…」

 「…アンタを隠れ蓑にすることは、アンタを利用することだ…当然、アンタは、傷つく…」

 「…」

 「…でも、構わない…それがわかっていて、アンタを利用した…」

 「…」

 「…伸明さんは、アンタが好きだ…憧れている…その一方で、アンタが憎い…憎くて、堪らない…そして、それは、アンタが、母の昭子叔母様に似ているから…」

 「…」

 「…五井の女帝…昭子叔母様に似ているから…そして、伸明さんは、昭子叔母様には、到底及ばない…」

 「…」

 「…だから、憎い…同時に、憧れる…なんとも矛盾した感情が、存在する…」

 冬馬が説明する…

 そして、それは、あの重方(しげかた)が、以前、言ったことでもあった…

 伸明が、私を好きなのは、実母の昭子に似ているから…

 おそらく、伸明は、自身が気付かずとも、周囲の人間は、伸明が、昭子をどう見ているか、気付いているのだろう…

 いわば、伸明にとって、昭子は決して、超えられない壁…

 だから、憧れるし、同時に、憎い…

 そういうことだろう…

 しかし、伸明が、そんなふうに、私を見ていたことは、驚いた…

 いや、

 伸明は、言っていない…

 そう言っているのは、冬馬…

 この菊池冬馬だ…

 しかし、冬馬が言うことに、ウソがあるとは、思えない…

 なにより、冬馬は、子供の頃から、伸明を知っている…

 その人となりを知っている…

 だから、間違いはないだろう…

 私は、思った…

 「…寿綾乃…」

 「…」

 「…いや、矢代綾子…」

 冬馬が、私の名前を呼んだ…

 「…オレが、どうして、ここへ、アンタを連れてきたか、わかるか?…」

 その質問に、黙って、私は、冬馬を睨んだ…

 冬馬も、また私の視線を、真正面から、受け止めた…

 「…わからないか?…」

 「…」

 「…いや、不用意に、答えて、はずすより、黙って、オレが、答えを言うのを、待つ方が賢明と思ったか…」

 「…」

 「…まあ、相変わらず、計算高いというか、食えない女だ…」

 冬馬は、苦笑する…

 「…だが、そんな食えない女だからこそ、伸明さんは、憧れる…」

 「…」

 「…そして、オレも…」

 「…オレも?…」

 なんとも、思いがけない、言葉だった…

 「…意外そうな顔だな…」

 「…」

 「…オレも、アンタには、惹かれる…寿綾乃…矢代綾子に…」

 「…」

 「…たぶん、オレも、伸明さんと、同じ血が流れているからだろう…」

 …知っていた?…

 …気付いていた?…

 とっさに、思った…

 自分が、伸明の実の弟だと、気付いていた?

 私は、思ったが、質問するのは、止めた…

 なにも、言わず、冬馬が、自分から、語るのを、待った…

 「…寿綾乃…」

 「…」

 「…アンタは、強い…そして、美しい…」

 「…」

 「…いわば、完璧だ…強さも、美しさも兼ね備えて、生まれた…」

 「…」

 「…だが、神様は、そんなアンタの存在を許さない…」

 …許さない?…

 …どういう意味だろう?…

 「…病気だ…」

 「…病気?…」

 「…美人薄命…美しく生まれれば、早く死ぬ…」

 「…」

 「…神様は、すべてを持って生まれた人間を許さない…」

 「…」

 「…オレや伸明さんを、見れば、わかる…」

 「…どういう意味ですか?…」

 「…自分で言うのも、おかしいが、ルックスも、生まれも、頭脳も、人並み以上に、生まれた…だが、人望がない…人に好かれない…」

 「…」

 「…つまり、傍から見れば、すべてを持って生まれたように見えて、その実、人間関係が、苦手…だから、生きるのが、しんどい…」

 「…」

 「…でも、考えてみれば、バランスが取れてる…神様は、オレや伸明さんには、すべてを持って生まれたように、見せて、その実、不器用な人間にさせた…だから、バランスが取れてる…」

 「…」

 「…その点、アンタは人間関係も器用…美人で、人間関係も器用…だから、今度は、病気になる…癌になる…神様は、それで、バランスを取っている…」

 なるほど、言いたいことが、わかった…

 たしかに、言われてみれば、その通り…

 自分でも、冬馬の言うことは、わかる…

 でも、その冬馬の言うバランスは不公平…

 冬馬も伸明も、ルックスも頭もよく、しかも、お金持ち…

 だが、人間関係が苦手…

 片や、私は、美人に生まれて、少々、人間関係が、うまいだけ…

 お金持ちでもなんでもないし、おまけに、病気持ち…

 どう、比べても、対等ではない…

 バランスが、対等ではない…

 しかし、それを言っても、仕方がない…

 それを、この冬馬に言っても、仕方がない…

 「…アンタをここへ連れてきたのは、伸明さんの指示だ…」

 やっぱり…

 内心、思っていた通りだった…

 「…伸明さんは、アンタとここで、キスをしたそうだな…」

 「…」

 「…だが、本当の目的は、アンタと、結婚することを、先代当主、建造さんに報告することだった…」

 「…」

 「…アンタが、建造さんが、外に作った子供だと、勘違いしていたからだ…」

 「…」

 「…だから、それが、違っていたから、アンタと別れれば、良かったが、そのまま、アンタと結婚するフリをして、それに反対する五井の反乱勢力をあぶり出して、一掃する計画を練った…」

 「…」

 「…が、さっきも言ったように、本心では、アンタが好きだったんだろう…離れたくない気持ちも強かった…」

 「…」

 「…その隙をあのユリコが突いた…」

 「…」

 「…本来、猜疑心が強く、周囲のささいな動きを、伸明さんは、見逃さない…だが、アンタに心を奪われるあまり、その猜疑心というか、警戒心が鈍ったというか…怠ったというか…」

 …私のせい?…

 …私のせいで、伸明の警戒心が、おろそかになり、その隙を、ユリコが突いた?…

 …なんとも、嬉しいような…

 …バカバカしいような(苦笑)…

 それでは、まるで、言いがかり…

 言いがかりに等しい…

 勝手に私に夢中になり、その隙をユリコに突かれただけではないか?

 すべて、自分のせいではないか?

 私は、思った…

 思いながらも、悪い気持ちはしなかった…

 誰でも、自分を好きだと言われて、悪い気持ちのする人間はいない…

 私も例外ではなかった…

 「…寿綾乃…伸明さんのために、一肌脱いでくれないか?…」

 「…」

 「…ユリコと話してくれないか?…」

 冬馬が、言った…

 思っていた通りだった…

 予想した通りの展開だった…

 なんだが、ガッカリした…

 これではない…

 この言葉ではない!

 私が、欲したのは、この言葉ではなかった…

 ユリコを説得して欲しい…

 そんな言葉ではなかった…

 私が、欲していたのは…

 私が、望んでいたのは…

 私の思いが、表情に出たのだろう…

 「…なんだ? なんだか、ガッカリしたようだな…」

 冬馬が、言った…

 「…まさか、ここで、伸明さんと同じく、オレが、ここで、アンタとキスをして、アンタが欲しいとでも、呼べば、良かったのかな…」

 冬馬が、からかう…

 が、

 その通りだった…

 冬馬の言う通りだった…

 私が、望んだのは…

 寿綾乃…

 いや、

 矢代綾子が、望んだのは、

 「…オマエが欲しい…」

 と、言う言葉だった…

 ぶっちゃけ、ユリコが、どうのこうの、伸明が、どうのこうの、五井が、どうのこうの、なんの関係もなかった…

 私を利用して、なにか、別の目的を果たすために、近付かれるのは、ゴメンだった…

 私が、欲しいのではなく、私を利用する目的で、私に近付く男は、ゴメンだった…

 純粋に、アンタが、欲しいと言って、もらいたかった…

 中学や高校生のように、ぶっちゃけ、カラダ目当てでも、なんでもいい…

 ただ、純粋に、アンタが、欲しいと言ってもらいたかった…

 私は、ただ、ひとに利用されるのが、嫌だった…

 これ以上、誰かに、なにかを、求められるのが、嫌だった…

 それが、偽らざる本心だった…

                
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