第2話

文字数 11,539文字

 ユリコが、訪ねてきたときは、ちょうど、私が、寝ている最中だった…

 疲れて、熟睡していた…

 病院のベッドの上で、爆睡していた…

 当たり前だ…

 交通事故で、ジュン君の運転するクルマにはねられたのだ…

 カラダは、ガタガタ…

 満身創痍だった…

 だから、今、病院に入院しているのだ…

 しかし、寝ていても、身近に、ひとの気配がすると、なんとなく、気付くものだ…

 あるいは、重病人ならば、気付かないのかもしれない…

 生きていることに、精一杯だからだ…

 呼吸をすることに、精一杯だからだ…

 しかし、私、寿綾乃は、そこまで、深刻な病状ではなかった…

 すでに、二か月間、眠り続けていた…

 眠り続けている間にも、肉体は、蘇生するというか…

 少しずつ、復旧する…

 復旧というと、電車が、事故かなにかで、止まり、それが、再び、動き出したイメージがあるが、まさに、今の私がそれ…

 人間、生きていれば、意識はなくても、肉体は、自然と、治る…

 治癒する…

 もちろん、治癒すると、いうと、大げさだが、少しずつ良くなるというか…

 とにかく、この二か月間、この病院のベッドで、眠り続けた後だから、この病院に担ぎ込まれた直後から、比べれば、飛躍的に、体力は、回復した…

 だから、ユリコが、私の寝る、ベッドの横の椅子に座って、ジッと、私を見ている視線に、気付いて、目を開けることができたというべきか?…

 ともかく、目を開けると、ユリコが、そこにいた…

 これは、驚き以外の何物でもなかった…

 私にとって、もっとも、忌み嫌うユリコが、無言で、私の傍らにいる…

 このことが、私を当惑させた…

 が、少しすると、冷静になった…

 今、自分は、ユリコの息子のジュン君の運転するクルマにはねられて、この病院に入院しているのだ…

 当たり前のことが、脳裏に浮かんだというか…

 目を開けた瞬間に、ユリコの姿があったことが、私を当惑させた…

 一瞬…

 わずか、一瞬だが、自分が、今、どこにいて、どんな状況に置かれているか、わからなくなって、しまうのだ…

 が、

 ユリコの姿を見ているうちに、徐々に、自分の立場を思い出した…

 ユリコは、そんな私を冷静に見ていた…

 笑うこともなければ、怒ることもない…

 完全な無表情…

 なにを考えているか、わからない、無表情だった…

 それは、まるで、能面のようだった…

 ただ、黙って、私、寿綾乃の顔を見続けていた…

 だから、私は、どう声をかけていいか、わからなかった…

 まるで、これから、決闘でもするように、黙って、お互いの顔を見続けた…

 が、

 先に、声をかけたのは、ユリコの方だった…

 「…寿さん…お久しぶり…」

 私は、ユリコの言葉に、

 「…ご無沙汰しています…」

 と、返答した…

 本当ならば、ユリコと、最後に会ったのは、二か月前…

 事故に遭った直前だ…

 だから、

 「…ご無沙汰しています…」

 という言葉は、おかしくはない…

 それほど、時間が経っている…

 だが、私、寿綾乃が、意識不明の状態から、脱したのは、数日前…

 それを考えれば、わずか、数日前に、ユリコと会った印象だった…

 二か月前なんて、とても、信じられない…

 が、これは、事実…

 まぎれもない、事実だ…

 私は、そんなことを、考えながら、ユリコを見た…

 病院のベッドに、横たわりながら、ユリコを見た…

 これが、私が、野生動物ならば、すでに、食われている…

 大胆にも、満身創痍で、満足に動けないカラダを、敵の前で、晒しているのだ…

 ふと、そんなことを、思った…

 が、

 ユリコは、

 「…」

 と、無言のままだった…

 普通ならば、

 「…寿さん…しぶとい…」

 とか、笑うところだ…

 辛辣な言葉を投げるところだ…

 しかしながら、それはできない…

 なにしろ、自分の息子が、私をクルマで、はねたのだ…

 そこには、明確な殺意が存在した…

 私自身、ジュン君の立場からすれば、私を殺したくなったのは、わかるが、それでも、私は、殺されたら、困る…

 ジュン君の思考が、理解できるからといって、私を殺すことを、受け入れることはできない…

 私は、黙って、眼前のユリコが、なにか、話し出すのを、待った…

 そして、これは、ユリコもまた同じ…

 私、寿綾乃が、話し出すのを、待っている様子だった…

 まるで、お見合い…

 ボクシングや剣道で、互いに、相手の出方を窺っているのと、同じ…

 同じだ…

 仕方がない…

 私から、声をかけるか?

 なにか、当たり障りのない話題にしよう…

 さて、なにを話すか?

 そう、考えたときだった…

 「…ジュンは、警察に出頭したわ…」

 ユリコが、口を開いた…

 私は、驚いたが、さもありなんという気持ちだった…

 ジュン君の運転するクルマにはねられた、私が、今、この病院のベッドの上で寝ている…

 普通に考えて、はねたジュン君は、警察のお世話になっているだろう…

 それに、ジュン君の性格からいって、私をはねた後、逃げるとか、そんなことは、できない…

 誰に言われるでもなく、自分から、警察に出頭したに決まっている…

 ただ、ユリコの口から、その事実を知ったに過ぎない…

 事実を確認したに過ぎない…

 「…借りを作っちゃったわね…」

 ユリコが続ける…

 「…寿さん…アナタは、裁判でも、ジュンを擁護するでしょ? 自分をひき殺そうとした人間にもかかわらず…」

 私は、ユリコの言葉に、

 「…」

 と、答えなかった…

 どう、返答していいか、わからなかったからだ…

 「…でも、これで、チャラ…」

 ユリコが笑った…

 「…チャラ? …ですか?…」

 「…そう…チャラ…貸し借りなし…そして、すべて、終わり…」

 「…終わりって?…」

 「…私が、もう、これまでのように、寿さんの邪魔をすることもなければ、寿さんも、私には、関わらない…そういうこと…」

 「…」

 「…私は、もうこれ以上、寿さんに、関わらない…だから、寿さんも、私には、関わらないで…互いに、接点がなければ、これ以上、関わることはない…」

 ユリコが説明する…

 私は、ユリコの提案に唖然とした…

 文字通り、心の中で、唖然として、ポカンと口を開けていた…

 果たして、ユリコは、本心から、言っているのだろうか?

 そんな疑念が、心をよぎった…

 ユリコが、もし、本心から、そう言っていて、それを守ってくれるなら、これほど、ありがたいことはない…

 私のエネルギーの大半は、いうなれば、ユリコとの戦いに燃焼した…

 仕事でも、恋愛でもなく、ただユリコとの戦いの日々が、私のすべてだった…

 だから、もし、本当ならば、これ以上、嬉しいことはない…

 もろ手を挙げて、賛成する…

 なにより、このカラダでは、生きているだけで、精一杯…

 とてもじゃないが、全快しても、癌は治ったわけじゃない…

 これ以上、ユリコとの心理戦は、私には、耐えられないであろう…

 どんなことも、カラダが資本…

 そのカラダが、しっかりしないのに、これ以上、ユリコと戦い続けることはできない…

 「…わかりました…」

 私は、ユリコに言った…

 「…終わりにします…」

 本当に、ユリコが、これからも、私にちょっかいを出すことは、ないのだろうか?

 実は、大いに疑問だ…

 だが、ユリコが、こう言っている以上、ユリコの提案は、渡りに船…

 私にとっては、願ってもない提案だった…

 「…これ以上、私に関わらないで、下さい…」

 そう言った…

 「…わかったわ…心配しないで…」

 ユリコが笑った…

 ただ、普通に、ユリコが笑うだけだったが、私には、どうしても、それが、ユリコの本心だとは、思えなかった…

 ユリコという人間を知っていれば、誰もが、そう思う…

 食わせ者という言葉があるが、それは、ユリコには、当てはまらない…

 そもそも、一癖ある…

 誰が見ても、一癖ある…

 だから、誰もが、最初から、用心する…

 だから、落とし穴にはまったように、いきなり、ユリコの策略に陥れられることはないが、それがわかっていても、ユリコに太刀打ちできない…

 刃が立たない…

 が、

 ユリコにも、弱点がある…

 私は、それを、ようやく知った…

 あのジュン君の運転するクルマにはねられる直前に、知った…

 他ならぬユリコの口から聞いたのだ…

 …無類のイケメン好き…

 それが、ユリコの弱点だった(笑)…

 頭脳明晰で、腹黒い…

 それでいて、有能…

 弱点はない…

 物語でいえば、最強の悪役…

 その悪役の弱点が、イケメンとは?

 笑える…

 実に笑える…

 ユリコのルックスは、平凡…

 平凡の極み…

 だから、イケメンに憧れる…

 容姿の優れた異性に憧れる…

 天は二物を与えず…

 藤原ユリコは、頭脳明晰で、極めて、有能な女…

 どこにいても、どんな職場でも、使える女だ…

 にもかかわらず、イケメン好き…

 あのジュン君が、ナオキの血の分けた、実の息子でないことが、わかったときは、驚愕した…

 あのとき、私は、わざと、

 「…ジュン君は、誰の子供ですか?…」

 と、ユリコに尋ねた…

 確信があったわけではない…

 かまをかけたのだ…

 騙したのだ…

 それに、ユリコが、うまく引っかかった…

 だが、本当に、ジュン君が、ナオキの息子じゃないなんて、思わなかった…

 まさか、いくらなんでも、他人の子供を、自分の夫に育てさせたなんて、信じられなかった…

 ユリコが告白するには、藤原ナオキと付き合う前に、ナオキによく似たルックスの男と、付き合って、振られた…

 いや、捨てられた…

 その直後に、藤原ナオキと知り合って、妊娠を知ったが、ナオキと、その前に、ユリコを捨てた男と、ルックスが似ている…

 それを利用した…

 生まれた子供が、ナオキに似ていれば、当然、ナオキの子供だと、周囲は思う…

 それを利用した…

 なんというか…

 大胆というか…

 ちょっと、信じられない(苦笑)…

 だが、実際、世間では、昔から、よくあることと言われている…

 昔は、今のように、DNA鑑定など、なかったから、本当に、血の繋がった親子かどうかは、わからない…

 女は、自分が、子供を産むから、自分の子供であることは、わかるが、男には、わからない…

 男は、精子を提供するだけだからだ…

 だから、騙せる…

 女の立場でいえば、騙せるし、男の立場でいえば、騙される…

 それを知ったジュン君は、いたたまれず、半狂乱になり、私、寿綾乃を、轢き殺そうとした…

 だから、冷静に考えれば、ジュン君が、私を轢き殺そうとした原因は、ユリコにある…

 だが、当然、私にも、落ち度がある…

 だから、チャラ…

 ユリコの言葉ではないが、チャラだ…

 チャラ=差し引きゼロだ…

 だから、これでいい…

 ユリコが言ったチャラでいい…

 そう思ったときだった…

 ユリコが、

 「…寿さんの主治医のセンセイだけど…」

 と、いきなり、口にした…

 「…なんて、名前?…」

 「…たしか…長谷川センセイだと思いますが…」

 私が、記憶を探りながら、ゆっくりと、答えると、すかさず、ユリコが、

 「…イケメンね…」

 と、続けた…

 …イケメン?…

 こんなときに、そんなことを言う?

 思わず、プッと、吹き出すところだった…

 「…歳は、いくつなのかな?…」

 私は、ユリコの質問に、内心、笑いながら、

 「…私と、同じ、32歳と言ってました…」

 「…寿さんと同じ?…」

 「…ハイ…私の年齢を知って、ボクと同い年だと、おっしゃっていたんで…」

 「…そう…」

 短く言った…

 すでに、ユリコは、40歳を過ぎている…

 食品で言えば、はっきり言って、賞味期限を大幅に過ぎている…

 いや、昨今、賞味期限と言う言葉は、不適切なのかもしれない…

 だが、普通に考えて、40歳の女をきれいだ、可愛いだ、と、持ち上げる男は、50歳は、過ぎている…

 ことによると、60歳を過ぎている可能性もある…

 だから、40歳の女をきれいだ、可愛いだと褒めるのだ…

 自分より、十歳、二十歳と若い女だからだから、褒めるのだ…

 そうでなければ、40歳の女を、きれいだ、可愛いだと、持ち上げはしない…

 だが、これも、失礼ながら、明らかな誉め言葉を除けば、女が美人の場合…

 そもそも、ユリコは、美人ではない…

 だから、ユリコが、何歳であろうと、当てはまらない…

 それが、ユリコの現実だ…

 だが、ユリコの立場に立ってみれば、だからこそ、イケメンに憧れるのだろう…

 自分にないものだからだ…

 ユリコは、優れた像脳の持ち主だが、優れたルックスの持ち主ではない…

 だからこそ、憧れるのだ…

 ちょうど、貧乏人が、お金持ちに憧れるが如く、学歴の低い人間が、学歴の高い人間に憧れるが、如く、だ…

 ひとは、誰でも、自分にないものを欲する…

 ユリコの場合は、それが、ルックスなのだろう…

 しかし、有能が、ユリコが、ルックスに憧れるのは、正直、笑える…

 沈着冷静、頭脳明晰なユリコが憧れるのは、同じような、像脳明晰な切れ者だと、普通は、考える…

 それが、ジャニーズ・アイドルではないが、ただルックスのいい男に憧れるのは、失笑を禁じ得ない…

 …アンタ、そんなキャラだったの?…

 と、驚きを禁じ得ないからだ…

 心なしか、ユリコの表情が、変わった気がした…

 いや、心なしかではない…

 明らかに変わった…

 「…で、寿さんは、どうなの?…」

 ユリコが、聞いた…

 「…どうって?…」

 「…いい男でしょう?…」

 ねっとりとした口調で言った…

 探るような感じだった…

 …寿…アンタもあの男を狙っているの?…

 と、言った感じだった…

 私は、唖然としたが、つい、目の前のユリコをからかってみたくなった…

 「…裸を見られました…」

 私は言った…

 「…裸を?…」

 ユリコが驚愕する…

 「…スッポンポンの…全裸を見られました…」

 「…全裸?…」

 ユリコが、唖然とした…

 唖然とした表情で、私を見た…

 が、

 すぐに、ユリコも、私の言う意味に気付いた…

 「…そんなこと…医者ならば、当たり前よね…裸を見なきゃ、手術はできない…」

 自分を納得させるように言った…

 私は、そんなユリコがおかしく、つい、

 「…プッ…」

 と、吹き出してしまった…

 有能な、ユリコだが、こと恋愛になると、まるで、子供…

 自分の感情を隠せない…

 それが、面白かった…

 「…寿さん、なにが、おかしいの?…」

 ユリコが、怒って言った…

 自分の感情が、丸裸に読まれてるのが、恥ずかしいのだろう…

 わざと怒ったフリをした…

 「…でも、ユリコさん…あの、長谷川センセイは、独身かどうかは、知りませんよ…」

 「…そう…」

 ユリコは、わざとつっけんどんな感じで、答えた…

 「…なにしろ、私は、目が覚めて、一週間も経ってないんですから…」

 私の言葉に、ユリコが、驚くと同時に、

 …そうだった…

 と、今さらながら、思い出した様子だった…

 私は、あの事故で、意識不明の状態だった…

 具体的には、植物人間だった…

 死んではいないが、目が覚めない状態…

 そこから、目が覚めたのは、ここ数日のことだ…

 ユリコもまた、夫であった、藤原ナオキから、聞いて、今日、ここへ、私の見舞いにやって来たのだろう…

 そういえば、ナオキはどうしたのだろう?

 ふと、聞いてみたくなった…

 「…ナオキは?…」

 と、言いかけて、

 「…社長は?…」

 と、言い直した…

 やはり、いくらなんでも、名前で、呼ぶのは、マズい…

 私は、藤原ナオキを、眼前のユリコから、奪った女…

 ナオキとユリコの離婚のきっかけを作った女だった…

 それが、やはり、ナオキと呼び捨てにするのは、マズいと、思った…

 古傷ではないが、あえて、触れることになる…

 嫌な思い出を呼び起こすことになるかもしれない…

 だが、そんな気遣いは、無用だった…

 「…ナオキでいいわよ…」

 ユリコが、あっさりと言った…

 「…社長はいいづらいでしょ? …なにより、ここは、会社じゃない…寿さん、アナタは、もう社長秘書でも、なんでもないのよ…」

 ユリコが言う…

 私は、ユリコの言葉を、どう捉えていいか、わからなかった…

 …ナオキで、いいわよ…

 と、言うのは、私とナオキの関係をあっさりと、認めたこと…

 にもかかわらず、

 …寿さん、アナタは、もう社長秘書でも、なんでもないのよ…

 と、言うのは、どういうことだ?

 これは、もう、私が、ナオキと、なにも、関係がないと、言っている?…

 つまり、私とナオキの関係が、終わったことを言っている?…

 そういうことなのだろうか?

 ユリコは、軽く、言っただけかもしれないが、私には、引っかかる…

 やはり、それを口にしたのは、ユリコだから、引っかかる…

 ユリコは、一筋縄ではいかない…

 だから、休戦協定ではないが、

 …お互いが、お互いを干渉しない…

 と、取り決めても、やはり、信じられない…

 相手が、約束を守るのか、どうか、信用できないからだ…

 私が、そんなことを考えていると、

 「…ナオキは、グロッキーよ…」

 と、ユリコが答えた…

 「…グロッキー…ですか?…」

 思いもかけない言葉だった…

 「…だって、それは、そうでしょ? …長年、自分の血の繋がった息子だと、信じていた、ジュンが、自分とは、他人で、しかも、そのジュンが、寿さんを、クルマで、轢いて、警察に出頭した…ナオキでなくとも、ナオキと同じ立場ならば、誰もが、頭を抱える事態ね…」

 と、笑う…

 私は、これこそが、ユリコだ…

 ユリコの真骨頂だ…

 と、思った…

 なにしろ、その原因を作ったのが、ユリコ自身に他ならない…

 その原因を作ったユリコが、まったくの他人事のように言う…

 罪悪感がまるでない…

 良心の呵責が、まるでない…

 普通ならば、できない…

 しかし、それこそが、ユリコなのだろう…

 私は、思った…

 いい、悪いではない…

 それこそが、ユリコなのだ…

 だからこそ、私は、ユリコを恐れる…

 そもそも、感覚が違うからだ…

 「…まあ、それも元はといえば、私が、原因だけれど…」

 ユリコが照れ隠しのように、笑った…

 私は、それを見て、ユリコも少しは、罪悪感を持っているのかと、思って、少し、安心した…

 凶悪犯ではないが、殺人への禁忌をまるで、持たない人間と、話し合っても、埒が明かないからだ…

 そもそも、考えていることが、まるで、違う…

 だから、いくら話し合っても、話がかみ合わない…

 私が、まだ、若い十数年前の高校時代に、同じようなことがあった…

 ちょうど、バイトで、ある会社で、働いていたときだ…

 工業高校を出たばかりの男のコが、

 「…オレは、仕事ができる…」

 と、周囲に吹聴していた…

 「…だから、出世するんだ…」

 と、いう態度だった…

 だが、できるのは、末端の簡単な仕事だから…

 難しい仕事は、できない…

 末端の仕事といえば、聞こえは、悪いが、要するに、飲み込みが、早く、手が早ければ、仕事ができる…

 そう、評価される…

 そういうことだ…

 それは、否定しない…

 例えば、パソコンの入力作業が早くできれば、仕事ができる…

 そう前述の男のコは、解釈していた…

 そう、信じていた…

 しかし、いつまでも、そのままでは、いかない…

 簡単に言えば、命令されている立場から、命令する立場に、いずれは、なってもらわないと、いかない…

 会社で、言えば、平社員、主任、課長、部長と、昇っていかなければ、ならない…

 それが、出世するということだからだ…
 
だが、前述の男のコには、それが、無理だった…
 
できなかった…

だから、5年、10年と経っても、末端で、仕事をしていただろう…

一言で、言えば、その男のコでは、マネジメントができないからだ…

なにより、自分の能力は、もとより、他人の能力が、まるで、わからなかった…

例えば、あのひとは、大卒で、偏差値は、60ぐらい…

自分が、直接話さずとも、その人間が、誰かと話しているのを見て、なんとなく、わかることが、最後まで、わからなかった…

その男のコにとっては、言われたことができるか否か…

それが、すべてだった…

他に評価の基準は、なにもない…

だから、自分は、できる人間だった…

出世する人間だった…

それを、思い出した…

そんな人間といくら話し合っても、話は、噛み合わない…

ユリコと話し合っても、それは、同じ…

価値観が合わなければ、いくら話しても、水と油…

交わることが、まるでない…

だから、結局のところ、お互いに時間の無駄になる…

だから、本当のことをいえば、お互いに関わらないのが、ベスト…

下手をすれば、その人間に、足を引っ張られるからだ…

だが、関わらなければ、ならなくなったとき、どうすれば、よいか?

誰もが、永遠の課題になる…

いくら、話しても、話が嚙み合わない人間といっしょに仕事をする…

そのとき、どうすれば、よいか?

ふと、そんなことを、思い出した…

「…ナオキには、悪いことしたわ…」

ユリコが、ポツリと、漏らした…

私は、ユリコが、謝罪するのは、初めて、聞いたので、驚いた…

耳を疑った…

無論、これまで、ユリコの謝罪を聞いたことがないわけではない…

だが、これは、本音…

心の底からの、謝罪だった…

少なくとも、私は、そう思った…

「…でも、本当は、ナオキが、お金持ちじゃなければ、そうはしなかった…そして、ナオキが、お金持ちになるには、私の協力が、必要不可欠だった…藤原ナオキひとりでは、会社の成功は、無理…私が、いたから、会社は軌道に乗った…」

ユリコが、一言、一言、自分に言い聞かせるように、言った…

そして、それは、事実だった…

藤原ナオキの成功は、ユリコの内助があって、こそだった…

私、寿綾乃では、藤原ユリコの足元にも、及ばない…

能力の差が、大きすぎた…

会社を立ち上げ、軌道に乗せる…

誰もが、そこまでが一番大切なのだ…

たこを揚げるのではないが、いったん、たこを空中に揚げれば、すぐに、地上には、落ちない…

それと同じで、会社も軌道に乗せるまでが、大変…

別の言い方をすれば、いったん、軌道に乗せれば、会社を立ち上げたときほどの苦労はしなくて、済む…

だから、ユリコは、自分が、ジュン君をナオキの血の繋がった実の息子と騙していても、罪悪感は、それほどなかったのだろう…

藤原ナオキの莫大な資産は、元はといえば、ユリコの協力なしでは、できなかったから…

そう考えれば、ユリコの考えも納得できる…
が、

やはり、気持ちのいいものではない…

別の男との間にできた子供を、ナオキの息子と、騙し続けたことに、理解を示すことはできない…

共感を得ることはできない…

やはり、人間性…

ユリコの人間性に、疑問を生じる…

藤原ユリコという人間を、心底信用することができないからだ…

「…ジュンは…」

と、ユリコが言った…

「…出来損ないだった…」

断言した…

「…我が息子ながら、ルックスはいい…性格も悪くない…基本的に善人…でも、ただ、それだけ…ルックスを除けば、極めて、平凡な男…箸にも棒にもかからない…我が息子ながら、実に、凡庸な男…」

ユリコが、続ける…

「…そんな…」

そんなこと…

思わず、口を挟んだ…

たしかに、ユリコの言う、ジュン君の評価は、間違っていない…

正しい…

しかし、なんといっても、自分の息子だ…

自分のお腹を痛めて、産んだ子供だ…

それを、冷酷なまでに、極めて、冷静に、評価する…

…このユリコという女は?…

あらためて、思った…

と、同時に、自分の産んだ子供でも、極めて、冷静に評価する、能力にあらためて、舌を巻いた…

「…でも、不思議ね…」

と、ユリコが、私に語り掛けた…

「…なにが、不思議なんですか?…」

「…ジュンよ…」

「…ジュン君?…」

「…今、振り返って考えてみると、ジュンは、私の理想だったの…」

「…どういう意味ですか?…」

「…寿さんも、知ってるように、私は、イケメン好き…異常なまでに…」

「…」

「…そのイケメンを、自分のお腹を使って、産んだの…要するに、私は、自分で、イケメンを作った…」

「…」

「…これは、凄いことね…今、冷静になって、考えると、凄いこと…私のようなイケメンに憧れる平凡のルックスの女が、イケメンの息子を産んだ…」

「…」

「…つまり、イケメンを自分の手で作ったわけ…でも、全然、満足していない…」

「…どういう意味ですか?…」

「…イケメンは、自分で作れても、自分のものにはならない…ジュンと私は、別人格…当たり前よね…」

「…だったら、やっぱり他人…さっき会った、寿さんの主治医…長谷川センセイって、言ったっけ…ああいうイケメンを手に入れたい…」

ユリコが言う…

私はユリコの言葉に、呆気に取られた…

それは、まるで、これから、恋をすると宣言するようなもの…

こういっては、失礼だが、歳も40歳を超え、平凡なルックスのユリコが、再び、若きイケメンを手に入れるべく、行動に移ると、宣言するようなもの…

思わず、頭は大丈夫か? と、思った…

これが、バカな女ならば、相変わらず、バカなことを言っているな、と、考える…

しかし、その言葉を発したのは、ユリコ…

頭脳明晰、沈着冷静なユリコだ…

開いた口が塞がらなかった…

「…寿さん…おかしい?…」

私の心を見透かすように、ユリコが言った…

私が、なんと答えていいか、わからず、

「…」

と、黙っていると、

「…自分でも、おかしいと思う…」

と、ユリコが、言った…

「…でも、自分でも、自分を抑えられない…イケメン好きを抑えられない…これは、ちょうど、例えば、お酒を好きなのといっしょ…医者に、酒は、ほどほどにしなさいよと、言われて、自分でも、わかっているけど、つい飲み過ぎてしまうのといっしょ…わかっちゃいるけど、やめられないってことね…」

ユリコが笑う…

「…自分でも、おかしいと思う…バカだと思う…でも、でも、勉強が出来て、東大に入った人間が、皆、勉強が好きかというと、違うと思う…」

「…どういうことですか?…」

「…ただ、勉強が出来ただけ…好きでも嫌いでもない…本当は、アイドルの追っかけがやりたかったり、漫画家になりたかったり、する人間は、ごまんといると思う…でも、勉強が出来るから、官僚になったり、一流会社に入って偉くなるんだろうと、漠然と周囲の人間は考える…それと同じ…」

「…」

「…本人の能力や適性と、好き、嫌いは、まったく別…繋がらない…」

「…本当は、自分に、そんな能力は、まるでないと、わかっていても、つい、そっちの道に行きたくなる…バカよね…」

「…」

「…私のイケメン好きは、それと同じ…最近、つくづく、そう思うようになった…」

ユリコが、そう、のたまった…

至極、真っ当な意見だった…

好きと、できるは、違う…

好きなことでも、できないこと…

嫌いなことでも、できることは、

世の中に溢れてる…

自分で、自分のルックスをネタにするのは、自慢になるが、私のルックスでは、ルックスだけ見れば、女優やアイドルになれる…

でも、そんなことは、仮に出来ても、やりたくはない…

人前で、自分のルックスを、お笑いではないが、持ちネタにするような真似は、絶対したくない…

真逆に、自分がやりたいのは、自宅にこもって、小説や、漫画、イラストを描くような仕事…

しかし、そんな仕事ができる人間は、ごく少数…

普通はできない…

つまり、できることと、やりたいことは、一致しない…

その好例だ…

蛇足になるが、ルックスのいい女は、家の中に引きこもって、生活するのが、理想と考える女が、案外多い…

ルックスの良さが、無用な争いを呼ぶというか…

学校、会社、どこにいっても、そのルックスの良さが、人目に付き、周囲から、羨望される…

その結果、数多(あまた)の男に告白され、それを断ると、あの女は、淫乱=ヤリマンだと、ありもしない悪口を言いふらされたりする例をよく聞く…

そこまでいかなくても、美人を職場に配置したおかげで、その職場の男たちが、その美人を取り合いになって、人間関係が、ギクシャクしてきた…

そんな話は、よく聞く…

その結果、一部の美人は、家に引きこもって、誰とも会わない仕事をするのが、夢となる…

ルックスの良さが、仇(あだ)となるのだ…

それを、考えると、なまじルックスが、良く生まれて、苦労するのは、可哀そうだと、思う…

これは、東大や京大卒の男女も同じ…

職場に配置されて、その頭の良さを妬まれて、周囲に敵を作った話は、枚挙にいとまがないほど、聞く…

要するに、優れたものが許せない…

凡庸な人間は、優れた人間は妬ましい…

全体ではないが、一部にそんな人間は、学校や職場、どこにいても、必ず存在する…

つくづく、人間は、嫉妬の生き物だと、考える…

ユリコの話を聞きながら、そんなことを、考えた…

               

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