第2話
文字数 11,539文字
ユリコが、訪ねてきたときは、ちょうど、私が、寝ている最中だった…
疲れて、熟睡していた…
病院のベッドの上で、爆睡していた…
当たり前だ…
交通事故で、ジュン君の運転するクルマにはねられたのだ…
カラダは、ガタガタ…
満身創痍だった…
だから、今、病院に入院しているのだ…
しかし、寝ていても、身近に、ひとの気配がすると、なんとなく、気付くものだ…
あるいは、重病人ならば、気付かないのかもしれない…
生きていることに、精一杯だからだ…
呼吸をすることに、精一杯だからだ…
しかし、私、寿綾乃は、そこまで、深刻な病状ではなかった…
すでに、二か月間、眠り続けていた…
眠り続けている間にも、肉体は、蘇生するというか…
少しずつ、復旧する…
復旧というと、電車が、事故かなにかで、止まり、それが、再び、動き出したイメージがあるが、まさに、今の私がそれ…
人間、生きていれば、意識はなくても、肉体は、自然と、治る…
治癒する…
もちろん、治癒すると、いうと、大げさだが、少しずつ良くなるというか…
とにかく、この二か月間、この病院のベッドで、眠り続けた後だから、この病院に担ぎ込まれた直後から、比べれば、飛躍的に、体力は、回復した…
だから、ユリコが、私の寝る、ベッドの横の椅子に座って、ジッと、私を見ている視線に、気付いて、目を開けることができたというべきか?…
ともかく、目を開けると、ユリコが、そこにいた…
これは、驚き以外の何物でもなかった…
私にとって、もっとも、忌み嫌うユリコが、無言で、私の傍らにいる…
このことが、私を当惑させた…
が、少しすると、冷静になった…
今、自分は、ユリコの息子のジュン君の運転するクルマにはねられて、この病院に入院しているのだ…
当たり前のことが、脳裏に浮かんだというか…
目を開けた瞬間に、ユリコの姿があったことが、私を当惑させた…
一瞬…
わずか、一瞬だが、自分が、今、どこにいて、どんな状況に置かれているか、わからなくなって、しまうのだ…
が、
ユリコの姿を見ているうちに、徐々に、自分の立場を思い出した…
ユリコは、そんな私を冷静に見ていた…
笑うこともなければ、怒ることもない…
完全な無表情…
なにを考えているか、わからない、無表情だった…
それは、まるで、能面のようだった…
ただ、黙って、私、寿綾乃の顔を見続けていた…
だから、私は、どう声をかけていいか、わからなかった…
まるで、これから、決闘でもするように、黙って、お互いの顔を見続けた…
が、
先に、声をかけたのは、ユリコの方だった…
「…寿さん…お久しぶり…」
私は、ユリコの言葉に、
「…ご無沙汰しています…」
と、返答した…
本当ならば、ユリコと、最後に会ったのは、二か月前…
事故に遭った直前だ…
だから、
「…ご無沙汰しています…」
という言葉は、おかしくはない…
それほど、時間が経っている…
だが、私、寿綾乃が、意識不明の状態から、脱したのは、数日前…
それを考えれば、わずか、数日前に、ユリコと会った印象だった…
二か月前なんて、とても、信じられない…
が、これは、事実…
まぎれもない、事実だ…
私は、そんなことを、考えながら、ユリコを見た…
病院のベッドに、横たわりながら、ユリコを見た…
これが、私が、野生動物ならば、すでに、食われている…
大胆にも、満身創痍で、満足に動けないカラダを、敵の前で、晒しているのだ…
ふと、そんなことを、思った…
が、
ユリコは、
「…」
と、無言のままだった…
普通ならば、
「…寿さん…しぶとい…」
とか、笑うところだ…
辛辣な言葉を投げるところだ…
しかしながら、それはできない…
なにしろ、自分の息子が、私をクルマで、はねたのだ…
そこには、明確な殺意が存在した…
私自身、ジュン君の立場からすれば、私を殺したくなったのは、わかるが、それでも、私は、殺されたら、困る…
ジュン君の思考が、理解できるからといって、私を殺すことを、受け入れることはできない…
私は、黙って、眼前のユリコが、なにか、話し出すのを、待った…
そして、これは、ユリコもまた同じ…
私、寿綾乃が、話し出すのを、待っている様子だった…
まるで、お見合い…
ボクシングや剣道で、互いに、相手の出方を窺っているのと、同じ…
同じだ…
仕方がない…
私から、声をかけるか?
なにか、当たり障りのない話題にしよう…
さて、なにを話すか?
そう、考えたときだった…
「…ジュンは、警察に出頭したわ…」
ユリコが、口を開いた…
私は、驚いたが、さもありなんという気持ちだった…
ジュン君の運転するクルマにはねられた、私が、今、この病院のベッドの上で寝ている…
普通に考えて、はねたジュン君は、警察のお世話になっているだろう…
それに、ジュン君の性格からいって、私をはねた後、逃げるとか、そんなことは、できない…
誰に言われるでもなく、自分から、警察に出頭したに決まっている…
ただ、ユリコの口から、その事実を知ったに過ぎない…
事実を確認したに過ぎない…
「…借りを作っちゃったわね…」
ユリコが続ける…
「…寿さん…アナタは、裁判でも、ジュンを擁護するでしょ? 自分をひき殺そうとした人間にもかかわらず…」
私は、ユリコの言葉に、
「…」
と、答えなかった…
どう、返答していいか、わからなかったからだ…
「…でも、これで、チャラ…」
ユリコが笑った…
「…チャラ? …ですか?…」
「…そう…チャラ…貸し借りなし…そして、すべて、終わり…」
「…終わりって?…」
「…私が、もう、これまでのように、寿さんの邪魔をすることもなければ、寿さんも、私には、関わらない…そういうこと…」
「…」
「…私は、もうこれ以上、寿さんに、関わらない…だから、寿さんも、私には、関わらないで…互いに、接点がなければ、これ以上、関わることはない…」
ユリコが説明する…
私は、ユリコの提案に唖然とした…
文字通り、心の中で、唖然として、ポカンと口を開けていた…
果たして、ユリコは、本心から、言っているのだろうか?
そんな疑念が、心をよぎった…
ユリコが、もし、本心から、そう言っていて、それを守ってくれるなら、これほど、ありがたいことはない…
私のエネルギーの大半は、いうなれば、ユリコとの戦いに燃焼した…
仕事でも、恋愛でもなく、ただユリコとの戦いの日々が、私のすべてだった…
だから、もし、本当ならば、これ以上、嬉しいことはない…
もろ手を挙げて、賛成する…
なにより、このカラダでは、生きているだけで、精一杯…
とてもじゃないが、全快しても、癌は治ったわけじゃない…
これ以上、ユリコとの心理戦は、私には、耐えられないであろう…
どんなことも、カラダが資本…
そのカラダが、しっかりしないのに、これ以上、ユリコと戦い続けることはできない…
「…わかりました…」
私は、ユリコに言った…
「…終わりにします…」
本当に、ユリコが、これからも、私にちょっかいを出すことは、ないのだろうか?
実は、大いに疑問だ…
だが、ユリコが、こう言っている以上、ユリコの提案は、渡りに船…
私にとっては、願ってもない提案だった…
「…これ以上、私に関わらないで、下さい…」
そう言った…
「…わかったわ…心配しないで…」
ユリコが笑った…
ただ、普通に、ユリコが笑うだけだったが、私には、どうしても、それが、ユリコの本心だとは、思えなかった…
ユリコという人間を知っていれば、誰もが、そう思う…
食わせ者という言葉があるが、それは、ユリコには、当てはまらない…
そもそも、一癖ある…
誰が見ても、一癖ある…
だから、誰もが、最初から、用心する…
だから、落とし穴にはまったように、いきなり、ユリコの策略に陥れられることはないが、それがわかっていても、ユリコに太刀打ちできない…
刃が立たない…
が、
ユリコにも、弱点がある…
私は、それを、ようやく知った…
あのジュン君の運転するクルマにはねられる直前に、知った…
他ならぬユリコの口から聞いたのだ…
…無類のイケメン好き…
それが、ユリコの弱点だった(笑)…
頭脳明晰で、腹黒い…
それでいて、有能…
弱点はない…
物語でいえば、最強の悪役…
その悪役の弱点が、イケメンとは?
笑える…
実に笑える…
ユリコのルックスは、平凡…
平凡の極み…
だから、イケメンに憧れる…
容姿の優れた異性に憧れる…
天は二物を与えず…
藤原ユリコは、頭脳明晰で、極めて、有能な女…
どこにいても、どんな職場でも、使える女だ…
にもかかわらず、イケメン好き…
あのジュン君が、ナオキの血の分けた、実の息子でないことが、わかったときは、驚愕した…
あのとき、私は、わざと、
「…ジュン君は、誰の子供ですか?…」
と、ユリコに尋ねた…
確信があったわけではない…
かまをかけたのだ…
騙したのだ…
それに、ユリコが、うまく引っかかった…
だが、本当に、ジュン君が、ナオキの息子じゃないなんて、思わなかった…
まさか、いくらなんでも、他人の子供を、自分の夫に育てさせたなんて、信じられなかった…
ユリコが告白するには、藤原ナオキと付き合う前に、ナオキによく似たルックスの男と、付き合って、振られた…
いや、捨てられた…
その直後に、藤原ナオキと知り合って、妊娠を知ったが、ナオキと、その前に、ユリコを捨てた男と、ルックスが似ている…
それを利用した…
生まれた子供が、ナオキに似ていれば、当然、ナオキの子供だと、周囲は思う…
それを利用した…
なんというか…
大胆というか…
ちょっと、信じられない(苦笑)…
だが、実際、世間では、昔から、よくあることと言われている…
昔は、今のように、DNA鑑定など、なかったから、本当に、血の繋がった親子かどうかは、わからない…
女は、自分が、子供を産むから、自分の子供であることは、わかるが、男には、わからない…
男は、精子を提供するだけだからだ…
だから、騙せる…
女の立場でいえば、騙せるし、男の立場でいえば、騙される…
それを知ったジュン君は、いたたまれず、半狂乱になり、私、寿綾乃を、轢き殺そうとした…
だから、冷静に考えれば、ジュン君が、私を轢き殺そうとした原因は、ユリコにある…
だが、当然、私にも、落ち度がある…
だから、チャラ…
ユリコの言葉ではないが、チャラだ…
チャラ=差し引きゼロだ…
だから、これでいい…
ユリコが言ったチャラでいい…
そう思ったときだった…
ユリコが、
「…寿さんの主治医のセンセイだけど…」
と、いきなり、口にした…
「…なんて、名前?…」
「…たしか…長谷川センセイだと思いますが…」
私が、記憶を探りながら、ゆっくりと、答えると、すかさず、ユリコが、
「…イケメンね…」
と、続けた…
…イケメン?…
こんなときに、そんなことを言う?
思わず、プッと、吹き出すところだった…
「…歳は、いくつなのかな?…」
私は、ユリコの質問に、内心、笑いながら、
「…私と、同じ、32歳と言ってました…」
「…寿さんと同じ?…」
「…ハイ…私の年齢を知って、ボクと同い年だと、おっしゃっていたんで…」
「…そう…」
短く言った…
すでに、ユリコは、40歳を過ぎている…
食品で言えば、はっきり言って、賞味期限を大幅に過ぎている…
いや、昨今、賞味期限と言う言葉は、不適切なのかもしれない…
だが、普通に考えて、40歳の女をきれいだ、可愛いだ、と、持ち上げる男は、50歳は、過ぎている…
ことによると、60歳を過ぎている可能性もある…
だから、40歳の女をきれいだ、可愛いだと褒めるのだ…
自分より、十歳、二十歳と若い女だからだから、褒めるのだ…
そうでなければ、40歳の女を、きれいだ、可愛いだと、持ち上げはしない…
だが、これも、失礼ながら、明らかな誉め言葉を除けば、女が美人の場合…
そもそも、ユリコは、美人ではない…
だから、ユリコが、何歳であろうと、当てはまらない…
それが、ユリコの現実だ…
だが、ユリコの立場に立ってみれば、だからこそ、イケメンに憧れるのだろう…
自分にないものだからだ…
ユリコは、優れた像脳の持ち主だが、優れたルックスの持ち主ではない…
だからこそ、憧れるのだ…
ちょうど、貧乏人が、お金持ちに憧れるが如く、学歴の低い人間が、学歴の高い人間に憧れるが、如く、だ…
ひとは、誰でも、自分にないものを欲する…
ユリコの場合は、それが、ルックスなのだろう…
しかし、有能が、ユリコが、ルックスに憧れるのは、正直、笑える…
沈着冷静、頭脳明晰なユリコが憧れるのは、同じような、像脳明晰な切れ者だと、普通は、考える…
それが、ジャニーズ・アイドルではないが、ただルックスのいい男に憧れるのは、失笑を禁じ得ない…
…アンタ、そんなキャラだったの?…
と、驚きを禁じ得ないからだ…
心なしか、ユリコの表情が、変わった気がした…
いや、心なしかではない…
明らかに変わった…
「…で、寿さんは、どうなの?…」
ユリコが、聞いた…
「…どうって?…」
「…いい男でしょう?…」
ねっとりとした口調で言った…
探るような感じだった…
…寿…アンタもあの男を狙っているの?…
と、言った感じだった…
私は、唖然としたが、つい、目の前のユリコをからかってみたくなった…
「…裸を見られました…」
私は言った…
「…裸を?…」
ユリコが驚愕する…
「…スッポンポンの…全裸を見られました…」
「…全裸?…」
ユリコが、唖然とした…
唖然とした表情で、私を見た…
が、
すぐに、ユリコも、私の言う意味に気付いた…
「…そんなこと…医者ならば、当たり前よね…裸を見なきゃ、手術はできない…」
自分を納得させるように言った…
私は、そんなユリコがおかしく、つい、
「…プッ…」
と、吹き出してしまった…
有能な、ユリコだが、こと恋愛になると、まるで、子供…
自分の感情を隠せない…
それが、面白かった…
「…寿さん、なにが、おかしいの?…」
ユリコが、怒って言った…
自分の感情が、丸裸に読まれてるのが、恥ずかしいのだろう…
わざと怒ったフリをした…
「…でも、ユリコさん…あの、長谷川センセイは、独身かどうかは、知りませんよ…」
「…そう…」
ユリコは、わざとつっけんどんな感じで、答えた…
「…なにしろ、私は、目が覚めて、一週間も経ってないんですから…」
私の言葉に、ユリコが、驚くと同時に、
…そうだった…
と、今さらながら、思い出した様子だった…
私は、あの事故で、意識不明の状態だった…
具体的には、植物人間だった…
死んではいないが、目が覚めない状態…
そこから、目が覚めたのは、ここ数日のことだ…
ユリコもまた、夫であった、藤原ナオキから、聞いて、今日、ここへ、私の見舞いにやって来たのだろう…
そういえば、ナオキはどうしたのだろう?
ふと、聞いてみたくなった…
「…ナオキは?…」
と、言いかけて、
「…社長は?…」
と、言い直した…
やはり、いくらなんでも、名前で、呼ぶのは、マズい…
私は、藤原ナオキを、眼前のユリコから、奪った女…
ナオキとユリコの離婚のきっかけを作った女だった…
それが、やはり、ナオキと呼び捨てにするのは、マズいと、思った…
古傷ではないが、あえて、触れることになる…
嫌な思い出を呼び起こすことになるかもしれない…
だが、そんな気遣いは、無用だった…
「…ナオキでいいわよ…」
ユリコが、あっさりと言った…
「…社長はいいづらいでしょ? …なにより、ここは、会社じゃない…寿さん、アナタは、もう社長秘書でも、なんでもないのよ…」
ユリコが言う…
私は、ユリコの言葉を、どう捉えていいか、わからなかった…
…ナオキで、いいわよ…
と、言うのは、私とナオキの関係をあっさりと、認めたこと…
にもかかわらず、
…寿さん、アナタは、もう社長秘書でも、なんでもないのよ…
と、言うのは、どういうことだ?
これは、もう、私が、ナオキと、なにも、関係がないと、言っている?…
つまり、私とナオキの関係が、終わったことを言っている?…
そういうことなのだろうか?
ユリコは、軽く、言っただけかもしれないが、私には、引っかかる…
やはり、それを口にしたのは、ユリコだから、引っかかる…
ユリコは、一筋縄ではいかない…
だから、休戦協定ではないが、
…お互いが、お互いを干渉しない…
と、取り決めても、やはり、信じられない…
相手が、約束を守るのか、どうか、信用できないからだ…
私が、そんなことを考えていると、
「…ナオキは、グロッキーよ…」
と、ユリコが答えた…
「…グロッキー…ですか?…」
思いもかけない言葉だった…
「…だって、それは、そうでしょ? …長年、自分の血の繋がった息子だと、信じていた、ジュンが、自分とは、他人で、しかも、そのジュンが、寿さんを、クルマで、轢いて、警察に出頭した…ナオキでなくとも、ナオキと同じ立場ならば、誰もが、頭を抱える事態ね…」
と、笑う…
私は、これこそが、ユリコだ…
ユリコの真骨頂だ…
と、思った…
なにしろ、その原因を作ったのが、ユリコ自身に他ならない…
その原因を作ったユリコが、まったくの他人事のように言う…
罪悪感がまるでない…
良心の呵責が、まるでない…
普通ならば、できない…
しかし、それこそが、ユリコなのだろう…
私は、思った…
いい、悪いではない…
それこそが、ユリコなのだ…
だからこそ、私は、ユリコを恐れる…
そもそも、感覚が違うからだ…
「…まあ、それも元はといえば、私が、原因だけれど…」
ユリコが照れ隠しのように、笑った…
私は、それを見て、ユリコも少しは、罪悪感を持っているのかと、思って、少し、安心した…
凶悪犯ではないが、殺人への禁忌をまるで、持たない人間と、話し合っても、埒が明かないからだ…
そもそも、考えていることが、まるで、違う…
だから、いくら話し合っても、話がかみ合わない…
私が、まだ、若い十数年前の高校時代に、同じようなことがあった…
ちょうど、バイトで、ある会社で、働いていたときだ…
工業高校を出たばかりの男のコが、
「…オレは、仕事ができる…」
と、周囲に吹聴していた…
「…だから、出世するんだ…」
と、いう態度だった…
だが、できるのは、末端の簡単な仕事だから…
難しい仕事は、できない…
末端の仕事といえば、聞こえは、悪いが、要するに、飲み込みが、早く、手が早ければ、仕事ができる…
そう、評価される…
そういうことだ…
それは、否定しない…
例えば、パソコンの入力作業が早くできれば、仕事ができる…
そう前述の男のコは、解釈していた…
そう、信じていた…
しかし、いつまでも、そのままでは、いかない…
簡単に言えば、命令されている立場から、命令する立場に、いずれは、なってもらわないと、いかない…
会社で、言えば、平社員、主任、課長、部長と、昇っていかなければ、ならない…
それが、出世するということだからだ…
だが、前述の男のコには、それが、無理だった…
できなかった…
だから、5年、10年と経っても、末端で、仕事をしていただろう…
一言で、言えば、その男のコでは、マネジメントができないからだ…
なにより、自分の能力は、もとより、他人の能力が、まるで、わからなかった…
例えば、あのひとは、大卒で、偏差値は、60ぐらい…
自分が、直接話さずとも、その人間が、誰かと話しているのを見て、なんとなく、わかることが、最後まで、わからなかった…
その男のコにとっては、言われたことができるか否か…
それが、すべてだった…
他に評価の基準は、なにもない…
だから、自分は、できる人間だった…
出世する人間だった…
それを、思い出した…
そんな人間といくら話し合っても、話は、噛み合わない…
ユリコと話し合っても、それは、同じ…
価値観が合わなければ、いくら話しても、水と油…
交わることが、まるでない…
だから、結局のところ、お互いに時間の無駄になる…
だから、本当のことをいえば、お互いに関わらないのが、ベスト…
下手をすれば、その人間に、足を引っ張られるからだ…
だが、関わらなければ、ならなくなったとき、どうすれば、よいか?
誰もが、永遠の課題になる…
いくら、話しても、話が嚙み合わない人間といっしょに仕事をする…
そのとき、どうすれば、よいか?
ふと、そんなことを、思い出した…
「…ナオキには、悪いことしたわ…」
ユリコが、ポツリと、漏らした…
私は、ユリコが、謝罪するのは、初めて、聞いたので、驚いた…
耳を疑った…
無論、これまで、ユリコの謝罪を聞いたことがないわけではない…
だが、これは、本音…
心の底からの、謝罪だった…
少なくとも、私は、そう思った…
「…でも、本当は、ナオキが、お金持ちじゃなければ、そうはしなかった…そして、ナオキが、お金持ちになるには、私の協力が、必要不可欠だった…藤原ナオキひとりでは、会社の成功は、無理…私が、いたから、会社は軌道に乗った…」
ユリコが、一言、一言、自分に言い聞かせるように、言った…
そして、それは、事実だった…
藤原ナオキの成功は、ユリコの内助があって、こそだった…
私、寿綾乃では、藤原ユリコの足元にも、及ばない…
能力の差が、大きすぎた…
会社を立ち上げ、軌道に乗せる…
誰もが、そこまでが一番大切なのだ…
たこを揚げるのではないが、いったん、たこを空中に揚げれば、すぐに、地上には、落ちない…
それと同じで、会社も軌道に乗せるまでが、大変…
別の言い方をすれば、いったん、軌道に乗せれば、会社を立ち上げたときほどの苦労はしなくて、済む…
だから、ユリコは、自分が、ジュン君をナオキの血の繋がった実の息子と騙していても、罪悪感は、それほどなかったのだろう…
藤原ナオキの莫大な資産は、元はといえば、ユリコの協力なしでは、できなかったから…
そう考えれば、ユリコの考えも納得できる…
が、
やはり、気持ちのいいものではない…
別の男との間にできた子供を、ナオキの息子と、騙し続けたことに、理解を示すことはできない…
共感を得ることはできない…
やはり、人間性…
ユリコの人間性に、疑問を生じる…
藤原ユリコという人間を、心底信用することができないからだ…
「…ジュンは…」
と、ユリコが言った…
「…出来損ないだった…」
断言した…
「…我が息子ながら、ルックスはいい…性格も悪くない…基本的に善人…でも、ただ、それだけ…ルックスを除けば、極めて、平凡な男…箸にも棒にもかからない…我が息子ながら、実に、凡庸な男…」
ユリコが、続ける…
「…そんな…」
そんなこと…
思わず、口を挟んだ…
たしかに、ユリコの言う、ジュン君の評価は、間違っていない…
正しい…
しかし、なんといっても、自分の息子だ…
自分のお腹を痛めて、産んだ子供だ…
それを、冷酷なまでに、極めて、冷静に、評価する…
…このユリコという女は?…
あらためて、思った…
と、同時に、自分の産んだ子供でも、極めて、冷静に評価する、能力にあらためて、舌を巻いた…
「…でも、不思議ね…」
と、ユリコが、私に語り掛けた…
「…なにが、不思議なんですか?…」
「…ジュンよ…」
「…ジュン君?…」
「…今、振り返って考えてみると、ジュンは、私の理想だったの…」
「…どういう意味ですか?…」
「…寿さんも、知ってるように、私は、イケメン好き…異常なまでに…」
「…」
「…そのイケメンを、自分のお腹を使って、産んだの…要するに、私は、自分で、イケメンを作った…」
「…」
「…これは、凄いことね…今、冷静になって、考えると、凄いこと…私のようなイケメンに憧れる平凡のルックスの女が、イケメンの息子を産んだ…」
「…」
「…つまり、イケメンを自分の手で作ったわけ…でも、全然、満足していない…」
「…どういう意味ですか?…」
「…イケメンは、自分で作れても、自分のものにはならない…ジュンと私は、別人格…当たり前よね…」
「…だったら、やっぱり他人…さっき会った、寿さんの主治医…長谷川センセイって、言ったっけ…ああいうイケメンを手に入れたい…」
ユリコが言う…
私はユリコの言葉に、呆気に取られた…
それは、まるで、これから、恋をすると宣言するようなもの…
こういっては、失礼だが、歳も40歳を超え、平凡なルックスのユリコが、再び、若きイケメンを手に入れるべく、行動に移ると、宣言するようなもの…
思わず、頭は大丈夫か? と、思った…
これが、バカな女ならば、相変わらず、バカなことを言っているな、と、考える…
しかし、その言葉を発したのは、ユリコ…
頭脳明晰、沈着冷静なユリコだ…
開いた口が塞がらなかった…
「…寿さん…おかしい?…」
私の心を見透かすように、ユリコが言った…
私が、なんと答えていいか、わからず、
「…」
と、黙っていると、
「…自分でも、おかしいと思う…」
と、ユリコが、言った…
「…でも、自分でも、自分を抑えられない…イケメン好きを抑えられない…これは、ちょうど、例えば、お酒を好きなのといっしょ…医者に、酒は、ほどほどにしなさいよと、言われて、自分でも、わかっているけど、つい飲み過ぎてしまうのといっしょ…わかっちゃいるけど、やめられないってことね…」
ユリコが笑う…
「…自分でも、おかしいと思う…バカだと思う…でも、でも、勉強が出来て、東大に入った人間が、皆、勉強が好きかというと、違うと思う…」
「…どういうことですか?…」
「…ただ、勉強が出来ただけ…好きでも嫌いでもない…本当は、アイドルの追っかけがやりたかったり、漫画家になりたかったり、する人間は、ごまんといると思う…でも、勉強が出来るから、官僚になったり、一流会社に入って偉くなるんだろうと、漠然と周囲の人間は考える…それと同じ…」
「…」
「…本人の能力や適性と、好き、嫌いは、まったく別…繋がらない…」
「…本当は、自分に、そんな能力は、まるでないと、わかっていても、つい、そっちの道に行きたくなる…バカよね…」
「…」
「…私のイケメン好きは、それと同じ…最近、つくづく、そう思うようになった…」
ユリコが、そう、のたまった…
至極、真っ当な意見だった…
好きと、できるは、違う…
好きなことでも、できないこと…
嫌いなことでも、できることは、
世の中に溢れてる…
自分で、自分のルックスをネタにするのは、自慢になるが、私のルックスでは、ルックスだけ見れば、女優やアイドルになれる…
でも、そんなことは、仮に出来ても、やりたくはない…
人前で、自分のルックスを、お笑いではないが、持ちネタにするような真似は、絶対したくない…
真逆に、自分がやりたいのは、自宅にこもって、小説や、漫画、イラストを描くような仕事…
しかし、そんな仕事ができる人間は、ごく少数…
普通はできない…
つまり、できることと、やりたいことは、一致しない…
その好例だ…
蛇足になるが、ルックスのいい女は、家の中に引きこもって、生活するのが、理想と考える女が、案外多い…
ルックスの良さが、無用な争いを呼ぶというか…
学校、会社、どこにいっても、そのルックスの良さが、人目に付き、周囲から、羨望される…
その結果、数多(あまた)の男に告白され、それを断ると、あの女は、淫乱=ヤリマンだと、ありもしない悪口を言いふらされたりする例をよく聞く…
そこまでいかなくても、美人を職場に配置したおかげで、その職場の男たちが、その美人を取り合いになって、人間関係が、ギクシャクしてきた…
そんな話は、よく聞く…
その結果、一部の美人は、家に引きこもって、誰とも会わない仕事をするのが、夢となる…
ルックスの良さが、仇(あだ)となるのだ…
それを、考えると、なまじルックスが、良く生まれて、苦労するのは、可哀そうだと、思う…
これは、東大や京大卒の男女も同じ…
職場に配置されて、その頭の良さを妬まれて、周囲に敵を作った話は、枚挙にいとまがないほど、聞く…
要するに、優れたものが許せない…
凡庸な人間は、優れた人間は妬ましい…
全体ではないが、一部にそんな人間は、学校や職場、どこにいても、必ず存在する…
つくづく、人間は、嫉妬の生き物だと、考える…
ユリコの話を聞きながら、そんなことを、考えた…
疲れて、熟睡していた…
病院のベッドの上で、爆睡していた…
当たり前だ…
交通事故で、ジュン君の運転するクルマにはねられたのだ…
カラダは、ガタガタ…
満身創痍だった…
だから、今、病院に入院しているのだ…
しかし、寝ていても、身近に、ひとの気配がすると、なんとなく、気付くものだ…
あるいは、重病人ならば、気付かないのかもしれない…
生きていることに、精一杯だからだ…
呼吸をすることに、精一杯だからだ…
しかし、私、寿綾乃は、そこまで、深刻な病状ではなかった…
すでに、二か月間、眠り続けていた…
眠り続けている間にも、肉体は、蘇生するというか…
少しずつ、復旧する…
復旧というと、電車が、事故かなにかで、止まり、それが、再び、動き出したイメージがあるが、まさに、今の私がそれ…
人間、生きていれば、意識はなくても、肉体は、自然と、治る…
治癒する…
もちろん、治癒すると、いうと、大げさだが、少しずつ良くなるというか…
とにかく、この二か月間、この病院のベッドで、眠り続けた後だから、この病院に担ぎ込まれた直後から、比べれば、飛躍的に、体力は、回復した…
だから、ユリコが、私の寝る、ベッドの横の椅子に座って、ジッと、私を見ている視線に、気付いて、目を開けることができたというべきか?…
ともかく、目を開けると、ユリコが、そこにいた…
これは、驚き以外の何物でもなかった…
私にとって、もっとも、忌み嫌うユリコが、無言で、私の傍らにいる…
このことが、私を当惑させた…
が、少しすると、冷静になった…
今、自分は、ユリコの息子のジュン君の運転するクルマにはねられて、この病院に入院しているのだ…
当たり前のことが、脳裏に浮かんだというか…
目を開けた瞬間に、ユリコの姿があったことが、私を当惑させた…
一瞬…
わずか、一瞬だが、自分が、今、どこにいて、どんな状況に置かれているか、わからなくなって、しまうのだ…
が、
ユリコの姿を見ているうちに、徐々に、自分の立場を思い出した…
ユリコは、そんな私を冷静に見ていた…
笑うこともなければ、怒ることもない…
完全な無表情…
なにを考えているか、わからない、無表情だった…
それは、まるで、能面のようだった…
ただ、黙って、私、寿綾乃の顔を見続けていた…
だから、私は、どう声をかけていいか、わからなかった…
まるで、これから、決闘でもするように、黙って、お互いの顔を見続けた…
が、
先に、声をかけたのは、ユリコの方だった…
「…寿さん…お久しぶり…」
私は、ユリコの言葉に、
「…ご無沙汰しています…」
と、返答した…
本当ならば、ユリコと、最後に会ったのは、二か月前…
事故に遭った直前だ…
だから、
「…ご無沙汰しています…」
という言葉は、おかしくはない…
それほど、時間が経っている…
だが、私、寿綾乃が、意識不明の状態から、脱したのは、数日前…
それを考えれば、わずか、数日前に、ユリコと会った印象だった…
二か月前なんて、とても、信じられない…
が、これは、事実…
まぎれもない、事実だ…
私は、そんなことを、考えながら、ユリコを見た…
病院のベッドに、横たわりながら、ユリコを見た…
これが、私が、野生動物ならば、すでに、食われている…
大胆にも、満身創痍で、満足に動けないカラダを、敵の前で、晒しているのだ…
ふと、そんなことを、思った…
が、
ユリコは、
「…」
と、無言のままだった…
普通ならば、
「…寿さん…しぶとい…」
とか、笑うところだ…
辛辣な言葉を投げるところだ…
しかしながら、それはできない…
なにしろ、自分の息子が、私をクルマで、はねたのだ…
そこには、明確な殺意が存在した…
私自身、ジュン君の立場からすれば、私を殺したくなったのは、わかるが、それでも、私は、殺されたら、困る…
ジュン君の思考が、理解できるからといって、私を殺すことを、受け入れることはできない…
私は、黙って、眼前のユリコが、なにか、話し出すのを、待った…
そして、これは、ユリコもまた同じ…
私、寿綾乃が、話し出すのを、待っている様子だった…
まるで、お見合い…
ボクシングや剣道で、互いに、相手の出方を窺っているのと、同じ…
同じだ…
仕方がない…
私から、声をかけるか?
なにか、当たり障りのない話題にしよう…
さて、なにを話すか?
そう、考えたときだった…
「…ジュンは、警察に出頭したわ…」
ユリコが、口を開いた…
私は、驚いたが、さもありなんという気持ちだった…
ジュン君の運転するクルマにはねられた、私が、今、この病院のベッドの上で寝ている…
普通に考えて、はねたジュン君は、警察のお世話になっているだろう…
それに、ジュン君の性格からいって、私をはねた後、逃げるとか、そんなことは、できない…
誰に言われるでもなく、自分から、警察に出頭したに決まっている…
ただ、ユリコの口から、その事実を知ったに過ぎない…
事実を確認したに過ぎない…
「…借りを作っちゃったわね…」
ユリコが続ける…
「…寿さん…アナタは、裁判でも、ジュンを擁護するでしょ? 自分をひき殺そうとした人間にもかかわらず…」
私は、ユリコの言葉に、
「…」
と、答えなかった…
どう、返答していいか、わからなかったからだ…
「…でも、これで、チャラ…」
ユリコが笑った…
「…チャラ? …ですか?…」
「…そう…チャラ…貸し借りなし…そして、すべて、終わり…」
「…終わりって?…」
「…私が、もう、これまでのように、寿さんの邪魔をすることもなければ、寿さんも、私には、関わらない…そういうこと…」
「…」
「…私は、もうこれ以上、寿さんに、関わらない…だから、寿さんも、私には、関わらないで…互いに、接点がなければ、これ以上、関わることはない…」
ユリコが説明する…
私は、ユリコの提案に唖然とした…
文字通り、心の中で、唖然として、ポカンと口を開けていた…
果たして、ユリコは、本心から、言っているのだろうか?
そんな疑念が、心をよぎった…
ユリコが、もし、本心から、そう言っていて、それを守ってくれるなら、これほど、ありがたいことはない…
私のエネルギーの大半は、いうなれば、ユリコとの戦いに燃焼した…
仕事でも、恋愛でもなく、ただユリコとの戦いの日々が、私のすべてだった…
だから、もし、本当ならば、これ以上、嬉しいことはない…
もろ手を挙げて、賛成する…
なにより、このカラダでは、生きているだけで、精一杯…
とてもじゃないが、全快しても、癌は治ったわけじゃない…
これ以上、ユリコとの心理戦は、私には、耐えられないであろう…
どんなことも、カラダが資本…
そのカラダが、しっかりしないのに、これ以上、ユリコと戦い続けることはできない…
「…わかりました…」
私は、ユリコに言った…
「…終わりにします…」
本当に、ユリコが、これからも、私にちょっかいを出すことは、ないのだろうか?
実は、大いに疑問だ…
だが、ユリコが、こう言っている以上、ユリコの提案は、渡りに船…
私にとっては、願ってもない提案だった…
「…これ以上、私に関わらないで、下さい…」
そう言った…
「…わかったわ…心配しないで…」
ユリコが笑った…
ただ、普通に、ユリコが笑うだけだったが、私には、どうしても、それが、ユリコの本心だとは、思えなかった…
ユリコという人間を知っていれば、誰もが、そう思う…
食わせ者という言葉があるが、それは、ユリコには、当てはまらない…
そもそも、一癖ある…
誰が見ても、一癖ある…
だから、誰もが、最初から、用心する…
だから、落とし穴にはまったように、いきなり、ユリコの策略に陥れられることはないが、それがわかっていても、ユリコに太刀打ちできない…
刃が立たない…
が、
ユリコにも、弱点がある…
私は、それを、ようやく知った…
あのジュン君の運転するクルマにはねられる直前に、知った…
他ならぬユリコの口から聞いたのだ…
…無類のイケメン好き…
それが、ユリコの弱点だった(笑)…
頭脳明晰で、腹黒い…
それでいて、有能…
弱点はない…
物語でいえば、最強の悪役…
その悪役の弱点が、イケメンとは?
笑える…
実に笑える…
ユリコのルックスは、平凡…
平凡の極み…
だから、イケメンに憧れる…
容姿の優れた異性に憧れる…
天は二物を与えず…
藤原ユリコは、頭脳明晰で、極めて、有能な女…
どこにいても、どんな職場でも、使える女だ…
にもかかわらず、イケメン好き…
あのジュン君が、ナオキの血の分けた、実の息子でないことが、わかったときは、驚愕した…
あのとき、私は、わざと、
「…ジュン君は、誰の子供ですか?…」
と、ユリコに尋ねた…
確信があったわけではない…
かまをかけたのだ…
騙したのだ…
それに、ユリコが、うまく引っかかった…
だが、本当に、ジュン君が、ナオキの息子じゃないなんて、思わなかった…
まさか、いくらなんでも、他人の子供を、自分の夫に育てさせたなんて、信じられなかった…
ユリコが告白するには、藤原ナオキと付き合う前に、ナオキによく似たルックスの男と、付き合って、振られた…
いや、捨てられた…
その直後に、藤原ナオキと知り合って、妊娠を知ったが、ナオキと、その前に、ユリコを捨てた男と、ルックスが似ている…
それを利用した…
生まれた子供が、ナオキに似ていれば、当然、ナオキの子供だと、周囲は思う…
それを利用した…
なんというか…
大胆というか…
ちょっと、信じられない(苦笑)…
だが、実際、世間では、昔から、よくあることと言われている…
昔は、今のように、DNA鑑定など、なかったから、本当に、血の繋がった親子かどうかは、わからない…
女は、自分が、子供を産むから、自分の子供であることは、わかるが、男には、わからない…
男は、精子を提供するだけだからだ…
だから、騙せる…
女の立場でいえば、騙せるし、男の立場でいえば、騙される…
それを知ったジュン君は、いたたまれず、半狂乱になり、私、寿綾乃を、轢き殺そうとした…
だから、冷静に考えれば、ジュン君が、私を轢き殺そうとした原因は、ユリコにある…
だが、当然、私にも、落ち度がある…
だから、チャラ…
ユリコの言葉ではないが、チャラだ…
チャラ=差し引きゼロだ…
だから、これでいい…
ユリコが言ったチャラでいい…
そう思ったときだった…
ユリコが、
「…寿さんの主治医のセンセイだけど…」
と、いきなり、口にした…
「…なんて、名前?…」
「…たしか…長谷川センセイだと思いますが…」
私が、記憶を探りながら、ゆっくりと、答えると、すかさず、ユリコが、
「…イケメンね…」
と、続けた…
…イケメン?…
こんなときに、そんなことを言う?
思わず、プッと、吹き出すところだった…
「…歳は、いくつなのかな?…」
私は、ユリコの質問に、内心、笑いながら、
「…私と、同じ、32歳と言ってました…」
「…寿さんと同じ?…」
「…ハイ…私の年齢を知って、ボクと同い年だと、おっしゃっていたんで…」
「…そう…」
短く言った…
すでに、ユリコは、40歳を過ぎている…
食品で言えば、はっきり言って、賞味期限を大幅に過ぎている…
いや、昨今、賞味期限と言う言葉は、不適切なのかもしれない…
だが、普通に考えて、40歳の女をきれいだ、可愛いだ、と、持ち上げる男は、50歳は、過ぎている…
ことによると、60歳を過ぎている可能性もある…
だから、40歳の女をきれいだ、可愛いだと褒めるのだ…
自分より、十歳、二十歳と若い女だからだから、褒めるのだ…
そうでなければ、40歳の女を、きれいだ、可愛いだと、持ち上げはしない…
だが、これも、失礼ながら、明らかな誉め言葉を除けば、女が美人の場合…
そもそも、ユリコは、美人ではない…
だから、ユリコが、何歳であろうと、当てはまらない…
それが、ユリコの現実だ…
だが、ユリコの立場に立ってみれば、だからこそ、イケメンに憧れるのだろう…
自分にないものだからだ…
ユリコは、優れた像脳の持ち主だが、優れたルックスの持ち主ではない…
だからこそ、憧れるのだ…
ちょうど、貧乏人が、お金持ちに憧れるが如く、学歴の低い人間が、学歴の高い人間に憧れるが、如く、だ…
ひとは、誰でも、自分にないものを欲する…
ユリコの場合は、それが、ルックスなのだろう…
しかし、有能が、ユリコが、ルックスに憧れるのは、正直、笑える…
沈着冷静、頭脳明晰なユリコが憧れるのは、同じような、像脳明晰な切れ者だと、普通は、考える…
それが、ジャニーズ・アイドルではないが、ただルックスのいい男に憧れるのは、失笑を禁じ得ない…
…アンタ、そんなキャラだったの?…
と、驚きを禁じ得ないからだ…
心なしか、ユリコの表情が、変わった気がした…
いや、心なしかではない…
明らかに変わった…
「…で、寿さんは、どうなの?…」
ユリコが、聞いた…
「…どうって?…」
「…いい男でしょう?…」
ねっとりとした口調で言った…
探るような感じだった…
…寿…アンタもあの男を狙っているの?…
と、言った感じだった…
私は、唖然としたが、つい、目の前のユリコをからかってみたくなった…
「…裸を見られました…」
私は言った…
「…裸を?…」
ユリコが驚愕する…
「…スッポンポンの…全裸を見られました…」
「…全裸?…」
ユリコが、唖然とした…
唖然とした表情で、私を見た…
が、
すぐに、ユリコも、私の言う意味に気付いた…
「…そんなこと…医者ならば、当たり前よね…裸を見なきゃ、手術はできない…」
自分を納得させるように言った…
私は、そんなユリコがおかしく、つい、
「…プッ…」
と、吹き出してしまった…
有能な、ユリコだが、こと恋愛になると、まるで、子供…
自分の感情を隠せない…
それが、面白かった…
「…寿さん、なにが、おかしいの?…」
ユリコが、怒って言った…
自分の感情が、丸裸に読まれてるのが、恥ずかしいのだろう…
わざと怒ったフリをした…
「…でも、ユリコさん…あの、長谷川センセイは、独身かどうかは、知りませんよ…」
「…そう…」
ユリコは、わざとつっけんどんな感じで、答えた…
「…なにしろ、私は、目が覚めて、一週間も経ってないんですから…」
私の言葉に、ユリコが、驚くと同時に、
…そうだった…
と、今さらながら、思い出した様子だった…
私は、あの事故で、意識不明の状態だった…
具体的には、植物人間だった…
死んではいないが、目が覚めない状態…
そこから、目が覚めたのは、ここ数日のことだ…
ユリコもまた、夫であった、藤原ナオキから、聞いて、今日、ここへ、私の見舞いにやって来たのだろう…
そういえば、ナオキはどうしたのだろう?
ふと、聞いてみたくなった…
「…ナオキは?…」
と、言いかけて、
「…社長は?…」
と、言い直した…
やはり、いくらなんでも、名前で、呼ぶのは、マズい…
私は、藤原ナオキを、眼前のユリコから、奪った女…
ナオキとユリコの離婚のきっかけを作った女だった…
それが、やはり、ナオキと呼び捨てにするのは、マズいと、思った…
古傷ではないが、あえて、触れることになる…
嫌な思い出を呼び起こすことになるかもしれない…
だが、そんな気遣いは、無用だった…
「…ナオキでいいわよ…」
ユリコが、あっさりと言った…
「…社長はいいづらいでしょ? …なにより、ここは、会社じゃない…寿さん、アナタは、もう社長秘書でも、なんでもないのよ…」
ユリコが言う…
私は、ユリコの言葉を、どう捉えていいか、わからなかった…
…ナオキで、いいわよ…
と、言うのは、私とナオキの関係をあっさりと、認めたこと…
にもかかわらず、
…寿さん、アナタは、もう社長秘書でも、なんでもないのよ…
と、言うのは、どういうことだ?
これは、もう、私が、ナオキと、なにも、関係がないと、言っている?…
つまり、私とナオキの関係が、終わったことを言っている?…
そういうことなのだろうか?
ユリコは、軽く、言っただけかもしれないが、私には、引っかかる…
やはり、それを口にしたのは、ユリコだから、引っかかる…
ユリコは、一筋縄ではいかない…
だから、休戦協定ではないが、
…お互いが、お互いを干渉しない…
と、取り決めても、やはり、信じられない…
相手が、約束を守るのか、どうか、信用できないからだ…
私が、そんなことを考えていると、
「…ナオキは、グロッキーよ…」
と、ユリコが答えた…
「…グロッキー…ですか?…」
思いもかけない言葉だった…
「…だって、それは、そうでしょ? …長年、自分の血の繋がった息子だと、信じていた、ジュンが、自分とは、他人で、しかも、そのジュンが、寿さんを、クルマで、轢いて、警察に出頭した…ナオキでなくとも、ナオキと同じ立場ならば、誰もが、頭を抱える事態ね…」
と、笑う…
私は、これこそが、ユリコだ…
ユリコの真骨頂だ…
と、思った…
なにしろ、その原因を作ったのが、ユリコ自身に他ならない…
その原因を作ったユリコが、まったくの他人事のように言う…
罪悪感がまるでない…
良心の呵責が、まるでない…
普通ならば、できない…
しかし、それこそが、ユリコなのだろう…
私は、思った…
いい、悪いではない…
それこそが、ユリコなのだ…
だからこそ、私は、ユリコを恐れる…
そもそも、感覚が違うからだ…
「…まあ、それも元はといえば、私が、原因だけれど…」
ユリコが照れ隠しのように、笑った…
私は、それを見て、ユリコも少しは、罪悪感を持っているのかと、思って、少し、安心した…
凶悪犯ではないが、殺人への禁忌をまるで、持たない人間と、話し合っても、埒が明かないからだ…
そもそも、考えていることが、まるで、違う…
だから、いくら話し合っても、話がかみ合わない…
私が、まだ、若い十数年前の高校時代に、同じようなことがあった…
ちょうど、バイトで、ある会社で、働いていたときだ…
工業高校を出たばかりの男のコが、
「…オレは、仕事ができる…」
と、周囲に吹聴していた…
「…だから、出世するんだ…」
と、いう態度だった…
だが、できるのは、末端の簡単な仕事だから…
難しい仕事は、できない…
末端の仕事といえば、聞こえは、悪いが、要するに、飲み込みが、早く、手が早ければ、仕事ができる…
そう、評価される…
そういうことだ…
それは、否定しない…
例えば、パソコンの入力作業が早くできれば、仕事ができる…
そう前述の男のコは、解釈していた…
そう、信じていた…
しかし、いつまでも、そのままでは、いかない…
簡単に言えば、命令されている立場から、命令する立場に、いずれは、なってもらわないと、いかない…
会社で、言えば、平社員、主任、課長、部長と、昇っていかなければ、ならない…
それが、出世するということだからだ…
だが、前述の男のコには、それが、無理だった…
できなかった…
だから、5年、10年と経っても、末端で、仕事をしていただろう…
一言で、言えば、その男のコでは、マネジメントができないからだ…
なにより、自分の能力は、もとより、他人の能力が、まるで、わからなかった…
例えば、あのひとは、大卒で、偏差値は、60ぐらい…
自分が、直接話さずとも、その人間が、誰かと話しているのを見て、なんとなく、わかることが、最後まで、わからなかった…
その男のコにとっては、言われたことができるか否か…
それが、すべてだった…
他に評価の基準は、なにもない…
だから、自分は、できる人間だった…
出世する人間だった…
それを、思い出した…
そんな人間といくら話し合っても、話は、噛み合わない…
ユリコと話し合っても、それは、同じ…
価値観が合わなければ、いくら話しても、水と油…
交わることが、まるでない…
だから、結局のところ、お互いに時間の無駄になる…
だから、本当のことをいえば、お互いに関わらないのが、ベスト…
下手をすれば、その人間に、足を引っ張られるからだ…
だが、関わらなければ、ならなくなったとき、どうすれば、よいか?
誰もが、永遠の課題になる…
いくら、話しても、話が嚙み合わない人間といっしょに仕事をする…
そのとき、どうすれば、よいか?
ふと、そんなことを、思い出した…
「…ナオキには、悪いことしたわ…」
ユリコが、ポツリと、漏らした…
私は、ユリコが、謝罪するのは、初めて、聞いたので、驚いた…
耳を疑った…
無論、これまで、ユリコの謝罪を聞いたことがないわけではない…
だが、これは、本音…
心の底からの、謝罪だった…
少なくとも、私は、そう思った…
「…でも、本当は、ナオキが、お金持ちじゃなければ、そうはしなかった…そして、ナオキが、お金持ちになるには、私の協力が、必要不可欠だった…藤原ナオキひとりでは、会社の成功は、無理…私が、いたから、会社は軌道に乗った…」
ユリコが、一言、一言、自分に言い聞かせるように、言った…
そして、それは、事実だった…
藤原ナオキの成功は、ユリコの内助があって、こそだった…
私、寿綾乃では、藤原ユリコの足元にも、及ばない…
能力の差が、大きすぎた…
会社を立ち上げ、軌道に乗せる…
誰もが、そこまでが一番大切なのだ…
たこを揚げるのではないが、いったん、たこを空中に揚げれば、すぐに、地上には、落ちない…
それと同じで、会社も軌道に乗せるまでが、大変…
別の言い方をすれば、いったん、軌道に乗せれば、会社を立ち上げたときほどの苦労はしなくて、済む…
だから、ユリコは、自分が、ジュン君をナオキの血の繋がった実の息子と騙していても、罪悪感は、それほどなかったのだろう…
藤原ナオキの莫大な資産は、元はといえば、ユリコの協力なしでは、できなかったから…
そう考えれば、ユリコの考えも納得できる…
が、
やはり、気持ちのいいものではない…
別の男との間にできた子供を、ナオキの息子と、騙し続けたことに、理解を示すことはできない…
共感を得ることはできない…
やはり、人間性…
ユリコの人間性に、疑問を生じる…
藤原ユリコという人間を、心底信用することができないからだ…
「…ジュンは…」
と、ユリコが言った…
「…出来損ないだった…」
断言した…
「…我が息子ながら、ルックスはいい…性格も悪くない…基本的に善人…でも、ただ、それだけ…ルックスを除けば、極めて、平凡な男…箸にも棒にもかからない…我が息子ながら、実に、凡庸な男…」
ユリコが、続ける…
「…そんな…」
そんなこと…
思わず、口を挟んだ…
たしかに、ユリコの言う、ジュン君の評価は、間違っていない…
正しい…
しかし、なんといっても、自分の息子だ…
自分のお腹を痛めて、産んだ子供だ…
それを、冷酷なまでに、極めて、冷静に、評価する…
…このユリコという女は?…
あらためて、思った…
と、同時に、自分の産んだ子供でも、極めて、冷静に評価する、能力にあらためて、舌を巻いた…
「…でも、不思議ね…」
と、ユリコが、私に語り掛けた…
「…なにが、不思議なんですか?…」
「…ジュンよ…」
「…ジュン君?…」
「…今、振り返って考えてみると、ジュンは、私の理想だったの…」
「…どういう意味ですか?…」
「…寿さんも、知ってるように、私は、イケメン好き…異常なまでに…」
「…」
「…そのイケメンを、自分のお腹を使って、産んだの…要するに、私は、自分で、イケメンを作った…」
「…」
「…これは、凄いことね…今、冷静になって、考えると、凄いこと…私のようなイケメンに憧れる平凡のルックスの女が、イケメンの息子を産んだ…」
「…」
「…つまり、イケメンを自分の手で作ったわけ…でも、全然、満足していない…」
「…どういう意味ですか?…」
「…イケメンは、自分で作れても、自分のものにはならない…ジュンと私は、別人格…当たり前よね…」
「…だったら、やっぱり他人…さっき会った、寿さんの主治医…長谷川センセイって、言ったっけ…ああいうイケメンを手に入れたい…」
ユリコが言う…
私はユリコの言葉に、呆気に取られた…
それは、まるで、これから、恋をすると宣言するようなもの…
こういっては、失礼だが、歳も40歳を超え、平凡なルックスのユリコが、再び、若きイケメンを手に入れるべく、行動に移ると、宣言するようなもの…
思わず、頭は大丈夫か? と、思った…
これが、バカな女ならば、相変わらず、バカなことを言っているな、と、考える…
しかし、その言葉を発したのは、ユリコ…
頭脳明晰、沈着冷静なユリコだ…
開いた口が塞がらなかった…
「…寿さん…おかしい?…」
私の心を見透かすように、ユリコが言った…
私が、なんと答えていいか、わからず、
「…」
と、黙っていると、
「…自分でも、おかしいと思う…」
と、ユリコが、言った…
「…でも、自分でも、自分を抑えられない…イケメン好きを抑えられない…これは、ちょうど、例えば、お酒を好きなのといっしょ…医者に、酒は、ほどほどにしなさいよと、言われて、自分でも、わかっているけど、つい飲み過ぎてしまうのといっしょ…わかっちゃいるけど、やめられないってことね…」
ユリコが笑う…
「…自分でも、おかしいと思う…バカだと思う…でも、でも、勉強が出来て、東大に入った人間が、皆、勉強が好きかというと、違うと思う…」
「…どういうことですか?…」
「…ただ、勉強が出来ただけ…好きでも嫌いでもない…本当は、アイドルの追っかけがやりたかったり、漫画家になりたかったり、する人間は、ごまんといると思う…でも、勉強が出来るから、官僚になったり、一流会社に入って偉くなるんだろうと、漠然と周囲の人間は考える…それと同じ…」
「…」
「…本人の能力や適性と、好き、嫌いは、まったく別…繋がらない…」
「…本当は、自分に、そんな能力は、まるでないと、わかっていても、つい、そっちの道に行きたくなる…バカよね…」
「…」
「…私のイケメン好きは、それと同じ…最近、つくづく、そう思うようになった…」
ユリコが、そう、のたまった…
至極、真っ当な意見だった…
好きと、できるは、違う…
好きなことでも、できないこと…
嫌いなことでも、できることは、
世の中に溢れてる…
自分で、自分のルックスをネタにするのは、自慢になるが、私のルックスでは、ルックスだけ見れば、女優やアイドルになれる…
でも、そんなことは、仮に出来ても、やりたくはない…
人前で、自分のルックスを、お笑いではないが、持ちネタにするような真似は、絶対したくない…
真逆に、自分がやりたいのは、自宅にこもって、小説や、漫画、イラストを描くような仕事…
しかし、そんな仕事ができる人間は、ごく少数…
普通はできない…
つまり、できることと、やりたいことは、一致しない…
その好例だ…
蛇足になるが、ルックスのいい女は、家の中に引きこもって、生活するのが、理想と考える女が、案外多い…
ルックスの良さが、無用な争いを呼ぶというか…
学校、会社、どこにいっても、そのルックスの良さが、人目に付き、周囲から、羨望される…
その結果、数多(あまた)の男に告白され、それを断ると、あの女は、淫乱=ヤリマンだと、ありもしない悪口を言いふらされたりする例をよく聞く…
そこまでいかなくても、美人を職場に配置したおかげで、その職場の男たちが、その美人を取り合いになって、人間関係が、ギクシャクしてきた…
そんな話は、よく聞く…
その結果、一部の美人は、家に引きこもって、誰とも会わない仕事をするのが、夢となる…
ルックスの良さが、仇(あだ)となるのだ…
それを、考えると、なまじルックスが、良く生まれて、苦労するのは、可哀そうだと、思う…
これは、東大や京大卒の男女も同じ…
職場に配置されて、その頭の良さを妬まれて、周囲に敵を作った話は、枚挙にいとまがないほど、聞く…
要するに、優れたものが許せない…
凡庸な人間は、優れた人間は妬ましい…
全体ではないが、一部にそんな人間は、学校や職場、どこにいても、必ず存在する…
つくづく、人間は、嫉妬の生き物だと、考える…
ユリコの話を聞きながら、そんなことを、考えた…