第42話
文字数 8,340文字
「…佐藤ナナさん?…」
驚いた…
まさか、ここで、彼女の名前が出てくるとは、思わなかった…
文字通り、まさか? だった…
「…彼女が、五井家の人間?…」
仰天の事実だった…
そんなこと、考えもしなかった…
現に、佐藤ナナ自身、私が、藤原ナオキや、諏訪野伸明と、身近に接していることを、知って、私に、嫉妬していた…
いや、
羨望していたといっていい…
彼女のみならず、普通の人間ならば、嫉妬や羨望をするのは、当たり前…
当たり前だ…
私が、彼女の立場でも、同じ…
やはり、嫉妬や羨望するだろう…
日本中に名の知れた五井の御曹司と、結婚するかもしれない立ち位置にいて、さらには、テレビで、キャスターを務める、やり手の経営者、藤原ナオキと、親しい…
しかも、二人とも長身のイケメン(笑)…
まさに、私は、絵に描いたような、幸運の持ち主といえる…
まさに、私は、大昔の少女漫画のヒロインを地でいっている…
そんな私を間近に見て、嫉妬や羨望を抱かない人間は、いないに違いない…
しかしながら、私に羨望や嫉妬を抱いている、彼女を見る限りでは、とても、彼女が、五井家の人間とは、思えなかった…
あくまで、一般人…
五井家とは、まるで、縁のない一般人というスタンスだった…
それが、一体、どうして?
私は、思った…
「…実は、彼女自身、自分が、五井南家の人間だと、知らないと思う…」
菊池冬馬が、言った…
これは、仰天の事実だった…
佐藤ナナが、五井南家の人間であることが、わかったことも、驚きなのに、肝心の佐藤ナナが、その事実を知らないとは、一体、どういうことだろう?
だから、
「…どうして、佐藤さんは、知らないんですか?…」
と、聞いた…
すると、予想外の答えが返ってきた…
「…遊びだったんだ…」
冬馬が、言った…
「…遊び? …どういう意味ですか?…」
「…五井南家の男が、東南アジアに行って、現地の女のコと、仲良くなり、男女の関係になった…そして、女は、現地で、子供を産んだ…手短にいえば、そういうことだ…」
「…」
「…そして、生まれた娘は、やはり、父親の国を一度見てみたい…どういう経緯で、五井記念病院に看護師として、やって来たかは、わからないが、ボクは、昭子叔母様に頼まれて、佐藤さんを、寿さんの担当にした…」
「…」
「…だから、その時点で、昭子叔母様が、どこまで、佐藤ナナの素性について、知っていたのかは、ボクには、わからない…ただ、彼女が、五井南家に縁のある人間ということで、言葉は悪いが、彼女を利用しようとしたことは、間違いない…」
「…利用?…」
「…彼女は、五井南家の人間といっても、ハッキリいえば、血が繋がっているだけ…五井一族で、今、現在、彼女の存在は、公になっていない…」
「…」
「…ただ、佐藤さんが、五井南家に縁のある人間である以上、彼女が、諏訪野伸明さんと、結婚すれば、五井南家は、五井本家と、直接繋がることになる…これは、五井南家にとって、悪い話では、決してない…」
「…」
「…ハッキリ言って、今、五井本家は、実質的には、五井東家で、成り立っている…だから、他の分家の反発も大きい…それゆえ、五井南家から、伸明さんの花嫁を迎えることで、五井南家を、五井本家の味方にできる…五井は、本家を除けば、五井の東西南北の分家の力が大きい…五井東家と五井南家が、手を結んで、五井本家を補佐すれば、他の分家が、すべて、手を握って、本家に反乱を起こそうと、太刀打ちできる…」
菊池冬馬が、断言した…
実に、わかりやすい説明だった…
たしかに、さっき諏訪野マミが、言った、五井保存会の持ち株比率は、本家が、30%、東西南北の分家が、10%、合計で、70%、残りの30%を、残りの8家で、分割するといっていた…
つまりは、五井本家と、五井東家と、五井南家が、いっしょになれば、全体の50パーセントに達する…
そうなれば、普通に考えて、その他、すべての分家が、いっしょになって、反乱を起こすとは、考えにくい…
要するに、五井の東を除いた、西南北のうちのひとつの分家を抑えておけば、全体の半数を抑えたことになる…
実に合理的な判断だった…
佐藤ナナが、五井家を守る象徴のようなものだと、気付いた…
私自身、そんなことを、考えると、このまま、諏訪野伸明と結婚したいと、言えなくなった…
やはり、人間、誰しも、立場というものがある…
身の程というものがある…
やはり、ここは、私が身を引くべきだろう…
とっさに気付いた…
「…わかりました…」
私は、答えた…
「…身を引きます…」
私が、あっさり、言ったので、むしろ、目の前の二人は、拍子抜けした様子だった…
諏訪野マミが、驚いた表情で、
「…ホントにいいの…寿さん…」
と、聞いてきた…
「…自分の立場は、わきまえているつもりです…」
「…立場?…」
「…私は、本来、黒子です…藤原ナオキの秘書です…表舞台に立つ、人間ではありません…」
「…」
「…ひとは、誰でも、与えられた役割があります…私の役割は、しいて言えば、一般人です…」
「…一般人?…」
と、諏訪野マミ…
「…生涯、芸能人や政治家のように、表舞台に立つこともなければ、お金持ちとも無縁です…それが、たまたま、藤原ナオキと知り合い、豪華マンションを買い与えられ、人並み以上の生活をしています…だから、本当は、それ以上を望んではダメです…」
「…」
「…だから、これを契機に身を引きます…」
私は、断言した…
私の言葉に、諏訪野マミと、菊池冬馬が、互いに、顔を見合わせた…
「…寿さん…ゴメンね…」
諏訪野マミが、言った…
「…寿さんが、そういうのは、わかってた…」
「…わかってた? どうして、わかってたんですか?…」
「…寿さんの性格…寿さんは、決して、他人様を押しのけて、前に出る性格じゃない…だから、話せば、身を引いてくれると思った…」
諏訪野マミが、語る…
泣き出しそうな表情だった…
「…ホントに、ゴメンね…」
私は、
「…」
と、なんと言っていいか、わからなかった…
本当は、私自身の身の振り方なんだが、どこか、他人事だった…
これは、正直、笑えた…
自分のことなんだが、どこか、自分のことではない…
他人事…
そんな感じだった…
思えば、私、寿綾乃ではなく、矢代綾子は、昔から、そんな感じだった…
自分のことだが、どこか、他人事というか…
遠くから、自分を見ている、もうひとりの自分がいる…
そんな感じだった…
だから、寿綾乃になれたのだと、思う…
自分を常日頃から、客観視できるから、寿綾乃になりきることができたのだと、思う…
そして、それが、私の強みでもあり、同時に、弱みでもあった…
強みは、場を読む力というか…
己のできることを、わきまえること…
だから、無理をしない…
真逆にいえば、わきまえるからこそ、突出することができない…
これが、弱み…
常に場を読み、自分の力をわきまえるからこそ、他人様から、信頼もされるのだが、それ以上のことはできない…
たとえば、芸能人にならないかと、若き日にスカウトされたとしても、どうせ、自分には、ムリと、断る…
それでは、夢は掴めない…
そういうことだ…
私のわきまえるという行為は、他人様から、信頼される反面、飛躍はできない…
私は、今、諏訪野マミと、菊池冬馬と、話しながら、そんなことを、思った…
同時に、やはり、これは、昭子の差し金なんだろうと、漠然と思った…
五井家の女帝、昭子の差し金なんだろうと、思った…
だから、
「…やはり、今日は、昭子さんに頼まれて…」
と、二人に聞いた…
二人とも、無言だった…
代わりに、互いの顔を見合わせた…
だから、それ以上は、私も聞かなかった…
いや、
もはや、私には、なんの関係もない…
だから、二人が、誰に頼まれて、ここへ、来ようと、そもそも、私が、尋ねることでも、なかった…
終わったのだ…
私が、諏訪野伸明と、結婚するかもしれない、未来は、絶たれたのだ…
自分でも、ずっと、漠然と、違和感を感じていた…
まったくの平凡な、寿綾乃=矢代綾子が、大金持ちの御曹司と結婚する…
そんな絵に描いたような、夢のような話が、ホントにあるのか、自分でも、不思議だった…
いや、
納得できなかったと、いっていい…
どこか、夢心地と言うか…
まるで、夢の中で、自分が、アイドルになって、舞台で、歌を歌っているような、そんな違和感があった…
だから、舞台に立って、歌を歌っていても、妙な違和感があった…
ホントに、私が、アイドルになれたのだろうか?
歌いながらも、頭の隅に、そんな思いが、常にあった…
それが、実は、夢で、ふと、目が覚めたら、やはり、それは、夢だったと気付く…
それと、似ていた…
だから、今、この諏訪野マミと、菊池冬馬に、
「…伸明さんと、別れて…」
と、言われ、夢から、醒めたと、思った…
醒めたと、思った反面、ホッとしたというか…
大げさに、言えば、肩の荷が下りたというか…
すべては、夢だった…
そう、納得する、自分自身がいた…
だから、驚きはなかった…
むしろ、変な話、爽快感すら、あった…
なにか、言葉は悪いが、ありもしない、儲け話…
詐欺に引っかかっているような感じすら、あった…
だって、そうだろう?
まったくの平凡な32歳の女が、日本中に名の知れた五井の御曹司と結婚できるはずがない…
そんなわけはない!
そんな大金持ちの御曹司ならば、やはり、どこかの大金持ちの娘と結婚するものだ…
私に出番があるはずがない…
そういうことだ…
たとえ、一瞬たりとも、夢を見させて、もらった…
そう考えれば、いいのかもしれない…
そう、考えれば、怒りも湧かない…
いや、
そもそも…
そこで、考えるのは、止めた…
考え続ければ、エンドレス…
終わりがない…
永遠に、ループするように、終わりがない…
とにかく、二人と、別れて、終わりにすることだ…
私は、思った…
「…今日は、どうも、ありがとうございました…」
私は、深々と、二人に頭を下げた。
「…これまで、私にお付き合い頂き、ありがとうございました…」
私は、言って、そのまま、数十秒、頭を下げ続けた…
「…寿さん…頭を上げて…」
諏訪野マミが、言ったが、私は、頭を上げなかった…
変な話、ここで、頭を上げたら、私の負けだと思った…
自分でも、わからない変な感情だった…
自分でも、わけが、わからなかった…
だが、自分でも、意外だが、涙は、一滴も出なかった…
これは、やはり、夢…
自分でも、最初からあり得ない夢と、思っていたせいかもしれない…
だから、涙も出なかったのかもしれない…
私は、頭を上げると、
「…さようなら…」
と、小さな声で、二人に、告げて、店を出た…
もはや、諏訪野マミも、菊池冬馬も、私に声をかけなかった…
いや、
私に、なにを言っていいのか、わからなかったのかもしれない…
私は、ただ、夢遊病者のように、ふらふらと、歩きながら、自分の暮らすマンションに戻った…
自分では、この婚約破棄が、ある意味、予想通りと思いつつも、やはり、ショックは大きかった…
マンションに向かって歩きながらも、正直、足が地につかなかったというか…
これは、病み上がりというだけでは、説明がつかなかった…
やはり、精神的なショックが大きかったのだ…
それは、ちょうど、ダメだとわかっていたものが、やはり、ダメだったということに、似ていた…
たとえば、大学を受験する…
自分の実力では、この大学は、受からないだろうと、思う…
が、
思いながらも、一方で、もしかしたら? と、希望を抱く…
しかしながら、結果は、不合格…
やはり、ダメだったと思いながらも、ショックは、大きい…
それと、似ている…
私は、思った…
私は、自宅のマンションに戻り、ベッドに横になった…
なんだか、一気に疲れが出た…
そんな感じだった…
やはり、病は気から…
気力が充実していれば、どんなことにも、前向きになれる…
しかしながら、今の私は、その気力がなかった…
気力がなくなったから、一気に疲れが出た…
元々、癌は、治っていない…
さらには、ジュン君の運転するクルマで、轢かれた後遺症もある…
振り返ってみれば、まさに、満身創痍の状況だった…
それを、気にしなかったのは、私というキャラクター…
おおげさにいえば、私だから、克服できたというか…
気にせずにきたということだ…
自画自賛だが、それが、正直なところだった…
そして、いつのまにか、そのまま、ベッドで、眠りについた…
目が覚めたのは、それから、だいぶ、時間が経ってからだった…
スマホのベルが鳴る音で、目覚めた…
近くで、音がしていた…
が、
私が、電話に出る前に、音が止んだ…
代わりに、留守番メッセージが、入っていた…
「…綾乃さん…大丈夫?…」
藤原ナオキの声だった…
「…今日、諏訪野マミさんから、電話があって、綾乃さんが、諏訪野伸明さんと、別れるかもと、告げられたんだ…それで、一刻も早く、綾乃さんに連絡を入れたかったんだが、仕事で遅くなって…」
ナオキが、メッセージを入れている…
私は、それを聞きながら、またも、ウトウトと、意識がまどろんで、いつのまにか、再び、寝入ってしまった…
そして、目覚めると、すでに夜だった…
窓の外が暗くなっていた…
私は、外が真っ暗になっていたから、すぐにでも、ベッドから、起き上がって、なにかしなければ、ならないのだが、一向に、そんな気分には、なれなかった…
ちょうど、夜中に目が覚めて、トイレに行きたいと思っても、面倒くさいからと、我慢しているのと、同じ…
目は覚めたが、一向に、起きる気にはなれなかった…
けだるく、だるいというか…
面倒くさい…
なにも、やる気が起きなかった…
と、そのときだった…
どこかで、音がした…
ふと、気付くと、近くの部屋から、光が漏れていた…
なに?
誰かいるの?
私は、驚くと、同時に、確かめなければ?
と、思った…
まさかだが、誰か、泥棒でもいたら、困る…
私は、そう考えると、だるいカラダを無理やり動かして、そっと部屋から出た…
そして、光がある部屋に向かった…
私は、音がしないように、気をつけて、歩きながら、光のある部屋に向かう…
すると、そこは、キッチンだった…
そっと覗くと、ナオキが、ひとりで、一生懸命、料理を作っていた…
私が、驚いて、その姿を見ていると、ナオキもまた、私が見ていることに、気付いた…
「…おはよう、綾乃さん…調子は、どう?…」
私に笑いかけた…
「…なに? …ナオキ? …アナタ、なにをやってるの?…」
「…なにって、見れば、わかるだろ?…」
笑いながら、答えた…
「…ナオキ…アナタ、料理なんて、した?…」
「…いや、全然…」
ナオキが笑った…
「…じゃ、どうして?…」
「…ナンパのためさ…」
「…ナンパ?…」
「…近頃の若い女のコの間じゃ、料理のできる男が、ポイントが高いらしい…これでも、まだ40歳…若い女のコにモテるためなら、なんでもするさ…」
ナオキが答える…
しかし、それが、ウソであることは、一目瞭然だった…
なにしろ、そんな話は聞いたことがない…
おそらく、諏訪野マミから、事情を聞いて、仕事が終わってから、私を慰めるために、会社から、直行したのだろう…
そして、私が、眠っているのを見て、私が、起きたときに、なにか、食べさせようと、考えたのだろう…
それが、すぐにわかった…
「…それじゃ、ダメよ…」
私は、いつのまにか、ナオキのそばに歩いて行った…
「…そんな包丁の握り方じゃダメ…」
私は、ナオキから、包丁を取り上げた…
「…いい、包丁は、こう持つの…」
私は、ナオキに言った…
言ってから、ナオキに見本を見せた…
と、言いたいところだが、まだ寝起きだったので、危うく、自分の指を切りそうになった…
自分でも、これは、驚いた…
まさか、自分でも、こんな単純なミスはした覚えがなかった…
思わず、ナオキを振り返った…
「…綾乃さん…無理はいけないよ…」
ナオキが、そっと囁いた…
「…綾乃さんは、今、心もカラダも傷付いている…無理は、しちゃだめだ…」
そう言って、私の手から、包丁を取り上げ、そっと抱きしめた…
「…疲れたときは、休めばいい…」
ナオキが、囁く…
「…それが、人間だ…疲れたときは、休み、疲れが、取れれば、また、動けばいい…」
私は、なんといっていいか、わからなかった…
だから、
「…ナオキ…アナタ、いいひとね…」
と、だけ、言った…
私の言葉に、ナオキは、ニヤッと笑った…
「…綾乃さん…遅い…今頃、気付いたの?…」
ナオキが、わざと、口を尖らせて、抗議した…
「…この藤原ナオキは、40歳の独身のイケメン…おまけに、FK興産の社長で、テレビのキャスターも務めている…世間の女から、モテモテさ…」
「…言うわね…ナオキ…だったら、一度でも、女が抱かれたい男のランキングに入ったことは、あるの…」
私に質問に、ナオキは、ションボリと、
「…ない…」
と、即答した…
「…だったら、ダメね…男としては、圏外…もっと、頑張りなさい…」
私の言葉に、ナオキが、ニヤッと笑った…
実に、楽しそうだった…
「…ナオキ…なにが、おかしいの?…」
「…良かった…綾乃さんが、元に戻った…いつもの綾乃さんだ…」
「…いつもの…どういう意味?…」
「…美人で、性格がきつくて、いつも上から目線…」
「…性格がきついは、いらない…」
「…どうして?…」
「…性格がきつくては、男のひとにモテない…」
「…だったら、これまでよりも、もっといい男を探そう…」
ナオキが言った…
もっと、いい男…
つまり、諏訪野伸明よりも、いい男を探せと、言いたいのだろう…
が、
諏訪野伸明の名前を口に出すと、私が、傷付くと、思って、あえて、その名前を出さないに違いない…
だから、
「…ナオキ…アナタ…いいひとね…」
と、もう一度、言った…
すると、
「…綾乃さん…男にとって、女から、いいひとって言われるのは、誉め言葉でも、なんでもないよ…」
「…どういうこと?…」
「…いいひとっていうのは、人間的には、素晴らしいけど、男としては、魅力がないと言っているのと、同じ…」
「…だったら、どう言えば、いいの?…」
「…藤原ナオキは、いい男…日本で、一番のモテ男だとでも、言われたいね…」
「…なにを、バカなことを言っているの…」
思わず、爆笑した…
と、同時に、涙が出た…
あまりにも、おかしかったからだ…
さっきの、諏訪野伸明との別れ話では出なかった涙が、今は、こぼれた…
これは、自分でも、驚きだった…
その涙を見て、ナオキが、
「…綾乃さん…悲しいときや、つらいときは、涙を流した方がいい…そのほうが、スッキリする…」
と、告げた…
「…スッキリって?…」
「…昔、好きだった女に、金だけ、たかられて、逃げられたときは、どれほど、泣いたことか…でも、涙を、出し尽くしたとき、スッキリしたことを、覚えている…」
「…経験者、語るね…」
「…その通り…ボクの方が、綾乃さんよりも、年上…だから、失恋の数も多い…」
その言葉で、ナオキが、昔、さんざ、女に食い物にされた過去を思い出した…
女好きなナオキは、女にたかられ、騙された…
イケメンだが、本質的には、真面目で、オタクの素顔を、見透かされ、利用されたのだ…
そして、その経験を、わざと持ち出し、笑いに変えて、私を元気づけようとしている…
あらためて、この藤原ナオキは、私にとって、得がたい男だと、気付いた…
「…ナオキ…アナタ…いいひとね…」
私は、繰り返した…
「…綾乃さん…いい男って、言ってもらいたいな…」
「…それは、ナオキが、作った料理が、おいしかったら、言ってあげる…」
私の言葉に、ナオキは、意気消沈した…
「…それは、ムリ…」
「…でしょうね…」
相槌を打った…
ホントは、ドラマや映画なら、ここで、二人は、キスをするのだが、そんなことは、もはや、やり尽くした…
今さら、という気もする…
だから、そんなことは、もはや、どうでもいい…
それより、夫婦漫才ではないが、二人で、バカを言い合っている…
こんな時間が、なにより、楽しかった…
驚いた…
まさか、ここで、彼女の名前が出てくるとは、思わなかった…
文字通り、まさか? だった…
「…彼女が、五井家の人間?…」
仰天の事実だった…
そんなこと、考えもしなかった…
現に、佐藤ナナ自身、私が、藤原ナオキや、諏訪野伸明と、身近に接していることを、知って、私に、嫉妬していた…
いや、
羨望していたといっていい…
彼女のみならず、普通の人間ならば、嫉妬や羨望をするのは、当たり前…
当たり前だ…
私が、彼女の立場でも、同じ…
やはり、嫉妬や羨望するだろう…
日本中に名の知れた五井の御曹司と、結婚するかもしれない立ち位置にいて、さらには、テレビで、キャスターを務める、やり手の経営者、藤原ナオキと、親しい…
しかも、二人とも長身のイケメン(笑)…
まさに、私は、絵に描いたような、幸運の持ち主といえる…
まさに、私は、大昔の少女漫画のヒロインを地でいっている…
そんな私を間近に見て、嫉妬や羨望を抱かない人間は、いないに違いない…
しかしながら、私に羨望や嫉妬を抱いている、彼女を見る限りでは、とても、彼女が、五井家の人間とは、思えなかった…
あくまで、一般人…
五井家とは、まるで、縁のない一般人というスタンスだった…
それが、一体、どうして?
私は、思った…
「…実は、彼女自身、自分が、五井南家の人間だと、知らないと思う…」
菊池冬馬が、言った…
これは、仰天の事実だった…
佐藤ナナが、五井南家の人間であることが、わかったことも、驚きなのに、肝心の佐藤ナナが、その事実を知らないとは、一体、どういうことだろう?
だから、
「…どうして、佐藤さんは、知らないんですか?…」
と、聞いた…
すると、予想外の答えが返ってきた…
「…遊びだったんだ…」
冬馬が、言った…
「…遊び? …どういう意味ですか?…」
「…五井南家の男が、東南アジアに行って、現地の女のコと、仲良くなり、男女の関係になった…そして、女は、現地で、子供を産んだ…手短にいえば、そういうことだ…」
「…」
「…そして、生まれた娘は、やはり、父親の国を一度見てみたい…どういう経緯で、五井記念病院に看護師として、やって来たかは、わからないが、ボクは、昭子叔母様に頼まれて、佐藤さんを、寿さんの担当にした…」
「…」
「…だから、その時点で、昭子叔母様が、どこまで、佐藤ナナの素性について、知っていたのかは、ボクには、わからない…ただ、彼女が、五井南家に縁のある人間ということで、言葉は悪いが、彼女を利用しようとしたことは、間違いない…」
「…利用?…」
「…彼女は、五井南家の人間といっても、ハッキリいえば、血が繋がっているだけ…五井一族で、今、現在、彼女の存在は、公になっていない…」
「…」
「…ただ、佐藤さんが、五井南家に縁のある人間である以上、彼女が、諏訪野伸明さんと、結婚すれば、五井南家は、五井本家と、直接繋がることになる…これは、五井南家にとって、悪い話では、決してない…」
「…」
「…ハッキリ言って、今、五井本家は、実質的には、五井東家で、成り立っている…だから、他の分家の反発も大きい…それゆえ、五井南家から、伸明さんの花嫁を迎えることで、五井南家を、五井本家の味方にできる…五井は、本家を除けば、五井の東西南北の分家の力が大きい…五井東家と五井南家が、手を結んで、五井本家を補佐すれば、他の分家が、すべて、手を握って、本家に反乱を起こそうと、太刀打ちできる…」
菊池冬馬が、断言した…
実に、わかりやすい説明だった…
たしかに、さっき諏訪野マミが、言った、五井保存会の持ち株比率は、本家が、30%、東西南北の分家が、10%、合計で、70%、残りの30%を、残りの8家で、分割するといっていた…
つまりは、五井本家と、五井東家と、五井南家が、いっしょになれば、全体の50パーセントに達する…
そうなれば、普通に考えて、その他、すべての分家が、いっしょになって、反乱を起こすとは、考えにくい…
要するに、五井の東を除いた、西南北のうちのひとつの分家を抑えておけば、全体の半数を抑えたことになる…
実に合理的な判断だった…
佐藤ナナが、五井家を守る象徴のようなものだと、気付いた…
私自身、そんなことを、考えると、このまま、諏訪野伸明と結婚したいと、言えなくなった…
やはり、人間、誰しも、立場というものがある…
身の程というものがある…
やはり、ここは、私が身を引くべきだろう…
とっさに気付いた…
「…わかりました…」
私は、答えた…
「…身を引きます…」
私が、あっさり、言ったので、むしろ、目の前の二人は、拍子抜けした様子だった…
諏訪野マミが、驚いた表情で、
「…ホントにいいの…寿さん…」
と、聞いてきた…
「…自分の立場は、わきまえているつもりです…」
「…立場?…」
「…私は、本来、黒子です…藤原ナオキの秘書です…表舞台に立つ、人間ではありません…」
「…」
「…ひとは、誰でも、与えられた役割があります…私の役割は、しいて言えば、一般人です…」
「…一般人?…」
と、諏訪野マミ…
「…生涯、芸能人や政治家のように、表舞台に立つこともなければ、お金持ちとも無縁です…それが、たまたま、藤原ナオキと知り合い、豪華マンションを買い与えられ、人並み以上の生活をしています…だから、本当は、それ以上を望んではダメです…」
「…」
「…だから、これを契機に身を引きます…」
私は、断言した…
私の言葉に、諏訪野マミと、菊池冬馬が、互いに、顔を見合わせた…
「…寿さん…ゴメンね…」
諏訪野マミが、言った…
「…寿さんが、そういうのは、わかってた…」
「…わかってた? どうして、わかってたんですか?…」
「…寿さんの性格…寿さんは、決して、他人様を押しのけて、前に出る性格じゃない…だから、話せば、身を引いてくれると思った…」
諏訪野マミが、語る…
泣き出しそうな表情だった…
「…ホントに、ゴメンね…」
私は、
「…」
と、なんと言っていいか、わからなかった…
本当は、私自身の身の振り方なんだが、どこか、他人事だった…
これは、正直、笑えた…
自分のことなんだが、どこか、自分のことではない…
他人事…
そんな感じだった…
思えば、私、寿綾乃ではなく、矢代綾子は、昔から、そんな感じだった…
自分のことだが、どこか、他人事というか…
遠くから、自分を見ている、もうひとりの自分がいる…
そんな感じだった…
だから、寿綾乃になれたのだと、思う…
自分を常日頃から、客観視できるから、寿綾乃になりきることができたのだと、思う…
そして、それが、私の強みでもあり、同時に、弱みでもあった…
強みは、場を読む力というか…
己のできることを、わきまえること…
だから、無理をしない…
真逆にいえば、わきまえるからこそ、突出することができない…
これが、弱み…
常に場を読み、自分の力をわきまえるからこそ、他人様から、信頼もされるのだが、それ以上のことはできない…
たとえば、芸能人にならないかと、若き日にスカウトされたとしても、どうせ、自分には、ムリと、断る…
それでは、夢は掴めない…
そういうことだ…
私のわきまえるという行為は、他人様から、信頼される反面、飛躍はできない…
私は、今、諏訪野マミと、菊池冬馬と、話しながら、そんなことを、思った…
同時に、やはり、これは、昭子の差し金なんだろうと、漠然と思った…
五井家の女帝、昭子の差し金なんだろうと、思った…
だから、
「…やはり、今日は、昭子さんに頼まれて…」
と、二人に聞いた…
二人とも、無言だった…
代わりに、互いの顔を見合わせた…
だから、それ以上は、私も聞かなかった…
いや、
もはや、私には、なんの関係もない…
だから、二人が、誰に頼まれて、ここへ、来ようと、そもそも、私が、尋ねることでも、なかった…
終わったのだ…
私が、諏訪野伸明と、結婚するかもしれない、未来は、絶たれたのだ…
自分でも、ずっと、漠然と、違和感を感じていた…
まったくの平凡な、寿綾乃=矢代綾子が、大金持ちの御曹司と結婚する…
そんな絵に描いたような、夢のような話が、ホントにあるのか、自分でも、不思議だった…
いや、
納得できなかったと、いっていい…
どこか、夢心地と言うか…
まるで、夢の中で、自分が、アイドルになって、舞台で、歌を歌っているような、そんな違和感があった…
だから、舞台に立って、歌を歌っていても、妙な違和感があった…
ホントに、私が、アイドルになれたのだろうか?
歌いながらも、頭の隅に、そんな思いが、常にあった…
それが、実は、夢で、ふと、目が覚めたら、やはり、それは、夢だったと気付く…
それと、似ていた…
だから、今、この諏訪野マミと、菊池冬馬に、
「…伸明さんと、別れて…」
と、言われ、夢から、醒めたと、思った…
醒めたと、思った反面、ホッとしたというか…
大げさに、言えば、肩の荷が下りたというか…
すべては、夢だった…
そう、納得する、自分自身がいた…
だから、驚きはなかった…
むしろ、変な話、爽快感すら、あった…
なにか、言葉は悪いが、ありもしない、儲け話…
詐欺に引っかかっているような感じすら、あった…
だって、そうだろう?
まったくの平凡な32歳の女が、日本中に名の知れた五井の御曹司と結婚できるはずがない…
そんなわけはない!
そんな大金持ちの御曹司ならば、やはり、どこかの大金持ちの娘と結婚するものだ…
私に出番があるはずがない…
そういうことだ…
たとえ、一瞬たりとも、夢を見させて、もらった…
そう考えれば、いいのかもしれない…
そう、考えれば、怒りも湧かない…
いや、
そもそも…
そこで、考えるのは、止めた…
考え続ければ、エンドレス…
終わりがない…
永遠に、ループするように、終わりがない…
とにかく、二人と、別れて、終わりにすることだ…
私は、思った…
「…今日は、どうも、ありがとうございました…」
私は、深々と、二人に頭を下げた。
「…これまで、私にお付き合い頂き、ありがとうございました…」
私は、言って、そのまま、数十秒、頭を下げ続けた…
「…寿さん…頭を上げて…」
諏訪野マミが、言ったが、私は、頭を上げなかった…
変な話、ここで、頭を上げたら、私の負けだと思った…
自分でも、わからない変な感情だった…
自分でも、わけが、わからなかった…
だが、自分でも、意外だが、涙は、一滴も出なかった…
これは、やはり、夢…
自分でも、最初からあり得ない夢と、思っていたせいかもしれない…
だから、涙も出なかったのかもしれない…
私は、頭を上げると、
「…さようなら…」
と、小さな声で、二人に、告げて、店を出た…
もはや、諏訪野マミも、菊池冬馬も、私に声をかけなかった…
いや、
私に、なにを言っていいのか、わからなかったのかもしれない…
私は、ただ、夢遊病者のように、ふらふらと、歩きながら、自分の暮らすマンションに戻った…
自分では、この婚約破棄が、ある意味、予想通りと思いつつも、やはり、ショックは大きかった…
マンションに向かって歩きながらも、正直、足が地につかなかったというか…
これは、病み上がりというだけでは、説明がつかなかった…
やはり、精神的なショックが大きかったのだ…
それは、ちょうど、ダメだとわかっていたものが、やはり、ダメだったということに、似ていた…
たとえば、大学を受験する…
自分の実力では、この大学は、受からないだろうと、思う…
が、
思いながらも、一方で、もしかしたら? と、希望を抱く…
しかしながら、結果は、不合格…
やはり、ダメだったと思いながらも、ショックは、大きい…
それと、似ている…
私は、思った…
私は、自宅のマンションに戻り、ベッドに横になった…
なんだか、一気に疲れが出た…
そんな感じだった…
やはり、病は気から…
気力が充実していれば、どんなことにも、前向きになれる…
しかしながら、今の私は、その気力がなかった…
気力がなくなったから、一気に疲れが出た…
元々、癌は、治っていない…
さらには、ジュン君の運転するクルマで、轢かれた後遺症もある…
振り返ってみれば、まさに、満身創痍の状況だった…
それを、気にしなかったのは、私というキャラクター…
おおげさにいえば、私だから、克服できたというか…
気にせずにきたということだ…
自画自賛だが、それが、正直なところだった…
そして、いつのまにか、そのまま、ベッドで、眠りについた…
目が覚めたのは、それから、だいぶ、時間が経ってからだった…
スマホのベルが鳴る音で、目覚めた…
近くで、音がしていた…
が、
私が、電話に出る前に、音が止んだ…
代わりに、留守番メッセージが、入っていた…
「…綾乃さん…大丈夫?…」
藤原ナオキの声だった…
「…今日、諏訪野マミさんから、電話があって、綾乃さんが、諏訪野伸明さんと、別れるかもと、告げられたんだ…それで、一刻も早く、綾乃さんに連絡を入れたかったんだが、仕事で遅くなって…」
ナオキが、メッセージを入れている…
私は、それを聞きながら、またも、ウトウトと、意識がまどろんで、いつのまにか、再び、寝入ってしまった…
そして、目覚めると、すでに夜だった…
窓の外が暗くなっていた…
私は、外が真っ暗になっていたから、すぐにでも、ベッドから、起き上がって、なにかしなければ、ならないのだが、一向に、そんな気分には、なれなかった…
ちょうど、夜中に目が覚めて、トイレに行きたいと思っても、面倒くさいからと、我慢しているのと、同じ…
目は覚めたが、一向に、起きる気にはなれなかった…
けだるく、だるいというか…
面倒くさい…
なにも、やる気が起きなかった…
と、そのときだった…
どこかで、音がした…
ふと、気付くと、近くの部屋から、光が漏れていた…
なに?
誰かいるの?
私は、驚くと、同時に、確かめなければ?
と、思った…
まさかだが、誰か、泥棒でもいたら、困る…
私は、そう考えると、だるいカラダを無理やり動かして、そっと部屋から出た…
そして、光がある部屋に向かった…
私は、音がしないように、気をつけて、歩きながら、光のある部屋に向かう…
すると、そこは、キッチンだった…
そっと覗くと、ナオキが、ひとりで、一生懸命、料理を作っていた…
私が、驚いて、その姿を見ていると、ナオキもまた、私が見ていることに、気付いた…
「…おはよう、綾乃さん…調子は、どう?…」
私に笑いかけた…
「…なに? …ナオキ? …アナタ、なにをやってるの?…」
「…なにって、見れば、わかるだろ?…」
笑いながら、答えた…
「…ナオキ…アナタ、料理なんて、した?…」
「…いや、全然…」
ナオキが笑った…
「…じゃ、どうして?…」
「…ナンパのためさ…」
「…ナンパ?…」
「…近頃の若い女のコの間じゃ、料理のできる男が、ポイントが高いらしい…これでも、まだ40歳…若い女のコにモテるためなら、なんでもするさ…」
ナオキが答える…
しかし、それが、ウソであることは、一目瞭然だった…
なにしろ、そんな話は聞いたことがない…
おそらく、諏訪野マミから、事情を聞いて、仕事が終わってから、私を慰めるために、会社から、直行したのだろう…
そして、私が、眠っているのを見て、私が、起きたときに、なにか、食べさせようと、考えたのだろう…
それが、すぐにわかった…
「…それじゃ、ダメよ…」
私は、いつのまにか、ナオキのそばに歩いて行った…
「…そんな包丁の握り方じゃダメ…」
私は、ナオキから、包丁を取り上げた…
「…いい、包丁は、こう持つの…」
私は、ナオキに言った…
言ってから、ナオキに見本を見せた…
と、言いたいところだが、まだ寝起きだったので、危うく、自分の指を切りそうになった…
自分でも、これは、驚いた…
まさか、自分でも、こんな単純なミスはした覚えがなかった…
思わず、ナオキを振り返った…
「…綾乃さん…無理はいけないよ…」
ナオキが、そっと囁いた…
「…綾乃さんは、今、心もカラダも傷付いている…無理は、しちゃだめだ…」
そう言って、私の手から、包丁を取り上げ、そっと抱きしめた…
「…疲れたときは、休めばいい…」
ナオキが、囁く…
「…それが、人間だ…疲れたときは、休み、疲れが、取れれば、また、動けばいい…」
私は、なんといっていいか、わからなかった…
だから、
「…ナオキ…アナタ、いいひとね…」
と、だけ、言った…
私の言葉に、ナオキは、ニヤッと笑った…
「…綾乃さん…遅い…今頃、気付いたの?…」
ナオキが、わざと、口を尖らせて、抗議した…
「…この藤原ナオキは、40歳の独身のイケメン…おまけに、FK興産の社長で、テレビのキャスターも務めている…世間の女から、モテモテさ…」
「…言うわね…ナオキ…だったら、一度でも、女が抱かれたい男のランキングに入ったことは、あるの…」
私に質問に、ナオキは、ションボリと、
「…ない…」
と、即答した…
「…だったら、ダメね…男としては、圏外…もっと、頑張りなさい…」
私の言葉に、ナオキが、ニヤッと笑った…
実に、楽しそうだった…
「…ナオキ…なにが、おかしいの?…」
「…良かった…綾乃さんが、元に戻った…いつもの綾乃さんだ…」
「…いつもの…どういう意味?…」
「…美人で、性格がきつくて、いつも上から目線…」
「…性格がきついは、いらない…」
「…どうして?…」
「…性格がきつくては、男のひとにモテない…」
「…だったら、これまでよりも、もっといい男を探そう…」
ナオキが言った…
もっと、いい男…
つまり、諏訪野伸明よりも、いい男を探せと、言いたいのだろう…
が、
諏訪野伸明の名前を口に出すと、私が、傷付くと、思って、あえて、その名前を出さないに違いない…
だから、
「…ナオキ…アナタ…いいひとね…」
と、もう一度、言った…
すると、
「…綾乃さん…男にとって、女から、いいひとって言われるのは、誉め言葉でも、なんでもないよ…」
「…どういうこと?…」
「…いいひとっていうのは、人間的には、素晴らしいけど、男としては、魅力がないと言っているのと、同じ…」
「…だったら、どう言えば、いいの?…」
「…藤原ナオキは、いい男…日本で、一番のモテ男だとでも、言われたいね…」
「…なにを、バカなことを言っているの…」
思わず、爆笑した…
と、同時に、涙が出た…
あまりにも、おかしかったからだ…
さっきの、諏訪野伸明との別れ話では出なかった涙が、今は、こぼれた…
これは、自分でも、驚きだった…
その涙を見て、ナオキが、
「…綾乃さん…悲しいときや、つらいときは、涙を流した方がいい…そのほうが、スッキリする…」
と、告げた…
「…スッキリって?…」
「…昔、好きだった女に、金だけ、たかられて、逃げられたときは、どれほど、泣いたことか…でも、涙を、出し尽くしたとき、スッキリしたことを、覚えている…」
「…経験者、語るね…」
「…その通り…ボクの方が、綾乃さんよりも、年上…だから、失恋の数も多い…」
その言葉で、ナオキが、昔、さんざ、女に食い物にされた過去を思い出した…
女好きなナオキは、女にたかられ、騙された…
イケメンだが、本質的には、真面目で、オタクの素顔を、見透かされ、利用されたのだ…
そして、その経験を、わざと持ち出し、笑いに変えて、私を元気づけようとしている…
あらためて、この藤原ナオキは、私にとって、得がたい男だと、気付いた…
「…ナオキ…アナタ…いいひとね…」
私は、繰り返した…
「…綾乃さん…いい男って、言ってもらいたいな…」
「…それは、ナオキが、作った料理が、おいしかったら、言ってあげる…」
私の言葉に、ナオキは、意気消沈した…
「…それは、ムリ…」
「…でしょうね…」
相槌を打った…
ホントは、ドラマや映画なら、ここで、二人は、キスをするのだが、そんなことは、もはや、やり尽くした…
今さら、という気もする…
だから、そんなことは、もはや、どうでもいい…
それより、夫婦漫才ではないが、二人で、バカを言い合っている…
こんな時間が、なにより、楽しかった…