第97話

文字数 6,442文字

 昭子の言葉に、仰天したユリコが、思わず、昭子に食ってかかった…

 「…ちょっと…昭子さん…」

 「…なんですか?…」

 「…すでに、五井家の当主は、伸明さんでしょ? …それが、よかったか、どうか、わからなかったって、どういうこと?…」

 「…どういう意味ですか?…」

 「…その言い方だと、まるで、よくなかったら、伸明さんを、当主から、引きずり降ろすような言い方ね…」

 ユリコが、遠慮なく言った…

 …伸明を当主から、引きずり降ろす?…

 実に、衝撃的な言葉だった…

 考えもしない言葉だった…

 なぜなら、すでに五井家の当主は、伸明と、決まっている…

 世間でも、そう知られている…

 それが、引きずり降ろすなんて…

 まして、伸明は、他ならぬ、この昭子が、産んだ息子だ…

 にもかかわらず、そんなことを、言うなんて…

 しかし、それを私以上に、感じたのは、他ならぬ、ユリコだった…

 「…アナタ…気は確か?…」

 ユリコが、呆れた口調で、訊いた…

 「…どういう意味ですか?…」

 「…だって、アンタの産んだ息子でしょ? …それを、引きずり降ろすって?…」

 「…能力がなければ、それも、ありです…」

 穏やかに、昭子が、告げた…

 「…能力がなければ、五井は、まとめられません…五井を、率いることは、できません…」

 「…」

 「…それでは、五井は、いずれ、消滅するでしょう…」

 「…だって、自分の産んだ息子だよ?…」

 ユリコが、食ってかかった…

 「…だからです…」

 「…どういうこと?…」

 「…能力がなければ、苦労するのは、伸明自身です…」

 「…」

 「…もし、それならば、別の生き方をすればいい…」

 「…」

 「…私も、亡くなった主人の建造も、たまたま、その適性があった…だから、五井家を支えてきた…それだけです…」

 「…」

 「…別に、生き方は一つじゃない…当主になれなくても、構わない…別にいい…ひとには、それぞれ、身の丈にあった生き方があります…」

 「…」

 「…私が、それを痛感したのは、冬馬の死です…」

 「…冬馬さんの?…」

 佐藤ナナが、声を上げた…

 「…結局、冬馬は、死を選んだ…行き場がなくなったからです…」

 「…それは、昭子さんが、冬馬さんの行き場をなくしたからではないんですか? …冬馬さんと、結婚するはずだった、菊池リンさんを、伸明さんと結婚させようとするから…五井東家に戻るはずだったのに、それがなくなったから…」

 「…その通りです…」

 あっさりと、昭子は、その事実を認めた…

 が、

 「…ですが、それが、どうしたというのです?…」

 昭子が、開き直った…

 「…だって、昭子さんが、道を塞いだんでしょ?…」

 佐藤ナナが、怒った…

 「…だったら、自分なりに、道を開けばいい…」

 顔色一つ、変えず、昭子が告げた…

 「…道?…」

 と、佐藤ナナ…

 「…そう…道です…自分の人生は、自分で切り開くものです…伸明が、五井家当主になっても、安泰なわけではない…五井の舵取りをしなければ、ならない…そして、それが、伸明ではできないと、判断されれば、五井家内で、伸明を当主から、引きずり降ろそうとする動きが、現れるでしょう…」

 昭子が、断言する…

 「…引きずり降ろすって…そんな…」

 「…その危険は、私にも、主人の建造にも、何度も、ありました…私と建造は、運よく、そうはならなかった…それだけです…」

 しんみりと、言った…

 誰もなにも、言わなかった…

 いや、

 言えなかった…

 …だからか?…

 あらためて、気付いた…

 この昭子が、秀樹は、論外として、冬馬と伸明を試したといっていた…

 それは、半端な才能では、五井家は背負えない…

 五井家を率いることはできないと、悟っていたからだろう…

 死んだ秀樹は、策士だったが、その策に溺れる人間だった…

 なにより、人並み以上に上昇志向が、強かった…

 それが、鼻に突いた…

 身の丈以上の生き方を求める人間だった…

 だから、実父の建造すら、嫌った…

 だから、血の繋がらない伸明を後継者とした…

 裏を返せば、それほど、伸明を気に入っていたのだろう…

 そして、それは、この昭子も同じだった…

 それゆえ、伸明は、五井家の当主に、就任した…

 が、

 それでも、今、この昭子は、伸明が、当主としての資質がなければ、当主の座から、引きずり降ろすと言っている…

 そして、それが、本当の愛情なのでは?

 とも、思った…

 この場にいる、ユリコは、ジュン君の母親だが、ジュン君には、百歩譲っても、ユリコのような才能はない…

 それを、ユリコ自身が、気付いている…

 理解している…

 だから、ユリコが、将来、ジュン君を手元に置いて、投資ファンドの運営に当たらせることはできないし、また、それをさせようとも、思わないだろう…

 それと、同じだ…

 私は、思った…

 が、

 佐藤ナナは、違った…

 「…なんだか、冷たいんですね?…」

 と、言った…

 「…どういう意味?…」

 と、ユリコ…

 「…だって、そうでしょ? …冬馬さんを、なにか、助けることができたはずです…」

 「…」

 「…仮に五井にいれなくとも、金銭的援助とか…」

 「…」

 「…それをしないのは、やっぱり昭子さんの冷たさじゃ…」

 「…」

 …たしかに、佐藤ナナの言うことは、わかる…

 五井は、金持ち…

 大金持ちだ…

 冬馬一人ぐらいの一生の面倒をみることは、できるはずだ…

 それが、なぜ?

 たしかに、言われてみれば、疑問だった…

 「…佐藤さん…」

 昭子が、ゆっくりと、語りかける…

 「…やっぱり、アナタ、若いわ…」

 「…若い? …どういう意味ですか?…」

 「…例外は、作れないの…」

 「…例外?…」

 「…そう…」

 「…」

 「…五井家を離れた者の面倒を見る…それをすれば、他の五井の分家もまた、それを真似るでしょう…すると、事実上、五井の名前と、関係のない人間にも、五井の財産が、流れる…」

 「…」

 「…つまりは、究極的には、五井が、面倒を見る人間が、多くなるということね…」

 「…」

 「…だから、それをしては、ならない…」

 「…」

 「…それをすれば、収拾がつかなくなる…五井は、あくまで、五井の本家と分家に所属しているから、五井一族…元々、苗字も異なり、血も薄い…だから、団結心が薄い…」

 「…」

 「…だから、それを認めれば、ますます、五井が、バラバラになりかねない…だから、それを認めるわけには、いかない…」

 昭子が、熱心に説明した…

 「…つまりは、蟻の一穴…さっきも言った蟻の一穴…どんな小さなことも、例外を作れば、そこから、崩壊する可能性が、できる…」

 「…」

 「…だから、しない…させない…」

 昭子が、断言した…

 私と、ユリコは、それを聞きながら、それも、仕方がないことだと、思った…

 たしかに、昭子の言うことは、わかる…

 冬馬を、五井家から追放しても、面倒をみることは、簡単だろう…

 しかしながら、それをすれば、他の分家もまた、同じことをする…

 すると、どうだ?

 結果的に、一族が、膨張することになる…

 いわゆる正規の五井家の人間だけではなく、非正規の人間まで、養うことになる…

 非正規=五井家を辞めた人間まで、面倒を見ることになる…

 つまりは、生活の面倒を見る人間が、増える…

 そして、もし、その一度、五井を追放した人間の、子供や、孫の面倒まで、見ることになったとしたら、どうだろう?

 ネズミ算ではないが、爆発的に、数が増えて、もはや、収拾がつかなくなるに、決まっている…

 だから、それをさせないために、一度、五井家を追放した人間の面倒は、一切みないことにしたのだろう…

 それを、考えると、一度、追放した冬馬を、菊池リンの夫として、五井東家に復帰させるのは、まさに、妙案だと思った…

 いわゆる、正規=正社員として、いた冬馬を、辞めさせたが、再び、正社員として、同じ会社で、雇うようなものだからだ…

 普通、会社を辞めれば、元には、戻れない…

 それと、同じだ…

 が、

 さすがに、今まで、通りというわけにはいかない…

 だから、菊池リンの夫として、戻らせようとした…

 菊池リンを、五井東家の当主として、その夫という形で、五井家に復帰させようとした…

 そして、それを、思うと、本当は、この昭子が、冬馬を溺愛していたのではないか?

 今さらながら、気付いた…

 溺愛しているからこそ、あえて、冬馬を憎むフリをして、自分から、遠ざけ、その実、なんとか、冬馬を守ろうとした…

 一見、この昭子の言動を見ると、冬馬を心底、毛嫌いしているように、見えるが、その実、やっていることは、真逆だった…

 なんとか、冬馬を救おうとした…

 その事実に、今さらながら、気付いた…

 と、そのときだった…

 いきなり、バタンと、扉が開いた…

 私たち、部屋の中にいる4人は、何事かと、扉を見た…

 すると、そこには、なんと、昭子の姿があった…

 もうひとりの昭子の姿があった…

 昭子そっくりの姿があった…

 「…これって、一体?…」

 思わず、驚いたユリコが、感想を漏らした…

 なにしろ、昭子そっくりの人物が、突然、現れたのだ…

 ユリコが、驚くのも当然だった…

 が、

 私が、驚かなかった…

 すでに、面識があったからだ…

 その正体は、昭子の一卵性姉妹の妹、和子だった…

 「…なにごとです?…」

 昭子が、和子に訊いた…

 自分の分身に、訊いた…

 が、

 和子は、それには、答えず、ツカツカと、部屋に入って来ると、昭子の近くに歩いてきた…

 そして、昭子の前で、立ち止まった…

 それから、あろうことか、昭子の頬を、平手で、殴った…

 …バーン…

と、大きな音がした…

 ありえない光景だった…

 決して、ありえない光景だった…

 私たち3人とも、絶句した…

 固唾を飲んで、その光景を、目撃するのみだった…

 「…なにを、なさるの?…」

 昭子が、激高した…

 「…なにを、なさる? …それは、こっちのセリフです…」

 和子が、言った…

 「…今、伸明に言って、昭子姉さんを、五井家から、追放することを、決めました…」

 和子が、断言した…

 …追放?…

 私が、思わず、大声で、叫び出すところだったが、ユリコが、

 「…ちょっと…待って…追放って…」
 
 と、先に、声を上げた…

 「…さっぱり、話が見えないんだけど…」

 ユリコが、戸惑う…

 これは、私も、佐藤ナナもいっしょだった…

 さっぱり、話が見えなかった…

 なにより、たった今の今まで、すべては、五井のためと、力説していた、昭子だ…

 その五井のためと、力説していた当人が、どうして、五井家から、追放されるのか?

 さっぱり、わからなかった…

 「…このひとは、陰(かげ)…」

 昭子が、言った…

 「…陰(かげ)…どういう意味?…」

 と、ユリコ…

 「…つまりは、本来、表に出ていっては、いけない存在…」

 「…表に出ていっては、いけない存在って?…」

 「…なんで…表に出てはいけないの?…」

 「…そういう約束だからです…」

 「…約束…なにそれ?…」

 ユリコが、不満げに聞いた…

 が、

 和子は、それには、答えず、私の方を、振り向くと、

 「…寿さん…お久しぶり…」

 と、私に挨拶した…

 「…ご無沙汰しています…」

 私は、思わず、席から立ち上がって、挨拶した…

 「…以前、一度、お会いして以来ね…」

 「…ハイ…」

 「…さあ、座って…カラダがまだ万全では、ないのでしょ?…」

 私は、その言葉に、無言で、頷くと、席に座った…

 「…アナタは、一体、誰?…」

 ユリコが、舌鋒鋭く、訊いた…

 すると、

 「…申し遅れました…この昭子の一卵性姉妹の妹の和子です…」

 と、和子が、挨拶した…

 「…この通り、外見は、姉と瓜二つです…」

 たしかに、その通り…

 二人とも、瓜二つだ…

 そして、この二人を見ながら、気付いた…

 この二人を、並んで見るのが、今、初めてだという事実に、だ…

 いや、

 それ以前に、昭子の夫である、五井家の先代当主、建造の葬儀で、昭子を、見たはずなのに、記憶がなかった…

 それを、思い出した…

 すると、私の中に、急速に、違和感が広がった…

 もしかしたら?…

 ふと、思った…

 もしかしたら、あの建造の葬儀のときにも、この昭子が、いなかったのかも?

 と、いう事実に、だ…

 あのとき、会った覚えがなかった…

 すると、今、この和子が、言った、

 …陰(かげ)…

 という言葉の意味が、なんとなく、わかってきたように、思えた…

 「…約束って、なに?…」

 ユリコが、繰り返した…

 「…表に出ない約束です…」

 と、和子…

 「…表に出ないって? …どうして、表に出ちゃ、いけないの?…」

 「…姉は、伸明を身籠ったまま、五井家の先代当主、建造と結婚しました…いわば、建造を騙したのです…」

 「…騙した?…」

 呆気に取られた…

 「…建造は、五井が、丸く納まるならば、と、耐えました…事実、建造の立場では、結婚を抗うことができませんでした…本家の力が、弱かったからです…」

 「…」

 「…だから、後継者となった伸明は、本家の力を強めることに、奔走した…建造さんの夢を叶えようと奔走した…」

 「…ちょっと、それと、この昭子さんが、表に出ちゃいけないことと、なんの関係があるの?…」

 「…約束です…」

 「…約束って?…」

 「…五井東家から出て、五井本家の当主の妻となった女が、すでに、他の男の子供を身籠っていたとあっては、それが、知れれば、世間の物笑いの種です…」

 「…」

 「…だから、建造と結婚しても、極力、姉は、公の席には、出ない…そういう約束でした…」

 …だからか?…

 私は、思った…

 やはり、あの建造の葬式のときにも、この昭子は、葬儀に、顔を見せなかったのかもしれない…

 あるいは、葬儀に顔を見せても、人知れず、こっそりと、顔を出しただけで、帰ったのかもしれない…

 そう、気付いた…

 「…私は、建造の弟、義春と結婚しました…つまり、姉妹で、同じ兄弟と結婚したのです…同じ五井本家の兄弟と結婚したのです…だから、口さがない人間は、五井東家が、本家を乗っ取るんじゃないかと、噂しました…が、事実は、真逆です…」

 「…真逆? …どういうこと?…」

 と、ユリコ…

 「…五井東家は、子供を身籠った姉を本家に嫁がせた負い目があり、妹の私を、建造の弟の義春に、嫁がせることで、本家を、全力で、補佐することにしました…そして、なにより、姉の身近に、私を置くことで、姉の暴走を止めようとしました…」

 「…暴走って?…」

 「…姉は、やり手です…だから、本家に、嫁いで、妊娠していたことがわかったときに、表に出るなと、約束したのです…」

 「…約束?…」

 「…当主である建造を立て、自分は、陰(かげ)に徹しろと…そう、両親と約束しました…しかし、両親は、それだけでは、不安だったのでしょう…私を建造の弟の義春に嫁がせ、姉の身近に置き、姉を監視させようとしました…」

 「…」

 「…そして、重しであった建造が、なくなると、この通り、動き出した…元々、能力は、秀でている…だから、余計に動き出したくて、うずうずしていたのでしょう…」

 和子が、説明する…

 すると、私もユリコも、佐藤ナナも、誰もが、和子の説明に納得した…

 この昭子は、無双…

 とてつもなく、強い…

 夫とである、五井家当主、建造がいなくなれば、表に出てきても、おかしくはなかった…

 建造という重しが、なくなれば、出てきても、おかしくはなかった…

 なにしろ、能力が桁外れ…

 優れている…

 だから、五井の女帝と呼ばれていた…

 …エッ?…

 …五井の女帝?…

 …いや、ホントに、五井の女帝と呼ばれていれば、陰(かげ)に徹していた、この昭子が、そう呼ばれて、いたとは、考えにくい…

 むしろ、それは、この…

 そう、考えたときだった…

 「…和子…さすがに、五井の女帝ね…」

 昭子が、ゆっくりと、言った…

                  
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