第61話
文字数 7,425文字
それから、三日…
私は、寝込んだ…
微熱が続いていたのだ…
ナオキは、
「…鬼の霍乱(かくらん)だ…」
と、私を、冷やかした…
本当は、私が、癌で、体調が、悪く、無理をして、五井記念病院に菊池冬馬を見舞いに行った結果、こうなったのは、わかっているが、わざと、
「…鬼の霍乱(かくらん)…」
と、言って、冷やかしたのだ…
あくまで、私を、普通の体調の人間のように、扱う…
ナオキの優しさだった…
が、
ことによると、そんなナオキの行動は、他人に、誤解される…
私が、病人にも、かかわらず、なんてことを言うひと、と、誤解される…
デリカシーのかけらもない男と、非難されるかもしれない…
そして、その非難は、当然だが、それは、ナオキを知らないひとだから、そう思うのだ…
私のように、長年、ナオキと知り合っていれば、それは、ナオキの優しさだと気付く…
ナオキが、私を病人扱いしないことで、私から、病気を忘れさせる狙いだと、気付く…
だから、言葉は、凄く、難しいと思う…
いや、
言葉だけではない…
行動は、凄く難しいと、思う…
私とナオキだから、互いにわかりあえる言葉というものがある…
他人が聞けば、なんていうひと!と、眉をひそめる言動も、私とナオキの間では、別の意味に取れる…
そういうことだ…
そして、こんなことは、私とナオキの間だけではない…
長年、付き合っている、カップルや、夫婦の間でも、同じだろう…
第三者である、他人が聞けば、なんてことを! と、怒ることも、カップルや、夫婦の間では、別の意味に取る…
そういうことだ…
が、
それを、考えれば、私とナオキの間は、つくづく、熟年夫婦に近いものがあると、思う…
仮に、ナオキに、新しく、好きなひとができたと、聞けば、
「…私も応援する…」
と、私も、言い出しかねない(笑)…
それは、もはや、カップルではなく、家族になっているから…
好きなひとがいれば、応援するから、頑張りなさい、と、尻を押しかねない…
エールを送りかねない…
それは、すでに、恋人ではなく、家族になっているから…
自分の家族である、兄や妹が、恋をしていると、聞けば、家族として、応援する…
もはや、そんな感覚だ…
また、それは、すでに、ナオキと私が、セックスレスの関係になっていることも、大きいだろう…
私とナオキに限らず、十年以上、いっしょにいるカップルで、定期的に、セックスをするカップルは、もはや、日本には、いないのではないか?
ときどき、ネットで、パートナーとのセックスの頻度という調査を見ると、それを強く感じる…
誰もが、出会って、最初のうちは、そんなことを続けるが、じきに飽きる…
それは、ゲームでも、セックスでも同じだろう…
どんなことでも、同じことを、やり続けるのは、飽きる…
そして、ゲームでも、違うゲーム…
セックスでも、違う相手となれば、やり続けることはできる…
が、
それも、つかの間というか…
いずれ、飽きる…
それが、大多数の普通の人間だろう…
どんなことでも、同じことを続けるのは、飽きる…
私とナオキの関係でいえば、恋人でいる時間は、とうの昔に終わった…
今は、熟年夫婦…
家族として、寄り添っている…
だから、ナオキは、私が、諏訪野伸明と結婚するとしても、見守ってくれる…
姉や妹が、結婚するように、見守ってくれる…
そういうことだろう…
私は、微熱に悩まされ、ベッドの上で、うたた寝をしながら、つくづく、そんなことを、考えた…
いや、
過去に何度も、考え続けたことだ…
それが、今になって、微熱と共に、何度も蘇ったというか…
ことによると、それは、私が、ナオキに抱く罪悪感かもしれないと、気付いた…
藤原ナオキは、私の恩人…
間違いなく、恩人…
大恩人だった…
当初は、赤貧の私、寿綾乃が、まだ無名の藤原ナオキといっしょに、FK興産を立ち上げたときに、苦労をした仲間だった…
同志だった…
が、
それを恩着せがましく、ナオキに言うことはできない…
なぜなら、私は、十分に、ナオキから、報酬は、もらっているからだ…
いや、
十分どころではなく、もらっているからだ…
だから、大恩人だった…
月々の給与も秘書として、異例だったし、なにより、この億ションに、ただで、住まわせてもらっている…
つまりは、藤原ナオキと出会わければ、今の私はない…
すでに、何度も説明したことだが、私は、無名時代の藤原ナオキと知り合い、男女の関係になり、ほどなく、妻のユリコが、家を出て行った…
結果、私は、ユリコと入れ替わりに、ナオキの家に入った…
が、
それは、ユリコの息子、ジュン君の面倒をみることも、含まれていた…
仕事で、忙しいナオキに子育ては無理…
できない…
私は、ユリコの代わりに、公私に渡って、藤原ナオキの面倒を見た…
公とは、会社で、ナオキを助け、私とは、家庭で、ナオキや、ジュン君の面倒をみたということだ…
最初は、貧しかったナオキだが、まるで、階段を駆け上がるように、瞬く間に、出世した…
会社が、飛躍的に、大きくなったからだ…
それにつれて、住む家が、格段に向上した…
安アパートから、洒落たマンションになり、最後は、今の億ションとなった…
まるで、絵に描いたような成功物語…
私は絵に描いたような藤原ナオキの成功物語に、寄り添ったわけだ…
その間、ナオキは、プライベートで、あっちの女、こっちの女と、渡り歩き、そのたびに、食い物にされてきた…
ナオキ自身、女好きであり、あっちの女、こっちの女と、さまざまな女と関係したし、それをまた、女たちに見抜かれ、食い物にされた…
ある意味、どっちもどっちの結末だった(笑)…
ただ、その間に、ナオキは、家を出て行き、私は、ジュン君と二人だけで、暮らす羽目になった…
だから、今、ナオキと二人だけで、暮らすのは、初めての経験だった…
知り合って、十数年、初めて、ナオキと二人だけで、暮らした…
ジュン君が、拘置所にいるからだ…
しかしながら、もはや、トキメキはない(苦笑)…
実態は、まるで、熟年夫婦…
酸いも甘いも嚙み分けた、熟年夫婦に近かった…
だから、私は、ナオキが、他に女を作っても、納得できるし、ナオキも、私が、諏訪野伸明と結婚しても納得できる…
私は、心の底から、そう思っているし、それは、ナオキもまた、同じだと思っていた…
が、
もしかしたら、それは、違うかもしれない…
私の一方的な思い込み…
願望に過ぎないのかもしれない…
それに、気付いた…
自分でも無意識のうちに、そう信じ込んでいただけなのかもしれない…
それは、ある意味、罪悪感…
藤原ナオキに、こんなにまで、世話になっているにも、かかわらず、ナオキを裏切るのか?
そんな罪悪感が、心のどこかにあり、それを無意識のうちに、回避するために、自分でも、知らず、知らず、
…私とナオキは、熟年夫婦と、同じ…
と、自分自身に信じ込ませようとしていたのかもしれない…
それが、この三日、微熱が、続いて、ベッドの上で、うたた寝していて、もしかしたら、それは、一方的な私の思い込み…
私が無意識のうちに、ナオキを裏切っている…
そう思いたくない心が、無意識のうちに、自分を守るように、ナオキと、私は、熟年夫婦と、信じ込んでいたのかもしれない…
本当に、私と同じように、ナオキが、考えているかどうかは、わからない…
ナオキに直接聞いても、わからないだろう…
なぜなら、ナオキが、本当のことを言うか、どうかは、わからないからだ…
私に気を使って、ウソを言うかもしれないし、またナオキ自身、私が、諏訪野伸明と結婚して、気付くこともある…
ナオキもまた、私と同じように、熟年夫婦と思い込んでいたが、私がナオキの元を去り、いなくなって、初めて、私の存在の大きさに気付くこともある…
そういうことだ…
自己評価が、大きすぎると思うかもしれないが、そういった例は、世間にありふれている…
結婚はしないで、恋人同士のまま、数年過ぎ、男女とも、別の異性と結婚する…
そうなって、初めて、
…こんなはずじゃなかった…
…あっちの方が、良かった…
と、悔やむ人間は、あまたいるだろう…
それと似ている…
要するに、いなくなって、初めて、その価値に気付くということだ…
誰でも、なくなって、初めて、気付くことがある…
子供の頃で、いえば、学校を、転校や、進学をして、友達が変わることで、以前の友達に会えなくなり、その価値に気付くことがある…
学校が変わって、以前のように、親しい友達が、できなければ、当たり前だが、以前が、懐かしくなる…
そういうことだ…
大切なおもちゃでも、本でも、フィギュアでも同じ…
なくして、初めて、その価値に気付く…
二度と手に入らないからだ…
容易に手に入るようならば、金さえあれば、買える…
金で、買えないから、困るのだ…
金で、買えないから、価値があるのだ…
私は、そんなことを、考えた…
諏訪野和子から、連絡があったのは、それから、まもなくだった…
私が、ようやく、体調が、回復して、なんとか、なってきた…
そう自覚したときに、連絡があった…
私のスマホのベルが鳴り、私が、出ると、
高齢の女性の落ち着いた声が、聞こえてきた…
「…寿さんですか?…」
「…ハイ…そうですが…」
「…諏訪野…諏訪野和子と申します…菊池リンの祖母の…お久しぶりです…」
私は、驚いた…
まさか、諏訪野和子から、連絡が来るとは、思わなかった…
諏訪野和子は、五井家当主、伸明の母、昭子の一卵性双生児の妹…
一度、菊池リンの家で、以前、会っただけだが、まさに、女丈夫というか…
肝の据わった女だった…
外見は、伸明の母、昭子と同じ…
そっくりだ…
一卵性双生児だから、無理もない…
ただ、昭子と比べたときは、昭子の方が、和子よりも、もっと、しっかりしている印象だった…
和子も、初めて、会ったときは、堂々とした、女丈夫だと、思ったが、昭子の方が、上だった…
やはり、これも、姉妹だから、姉の方が、上なのかもしれない…
私は、そんなことを、思いながら、
「…こちらこそ、ご無沙汰しています…」
と、返事をした…
そして、
…一体、なんの用だろう?…
と、思った…
失礼ながら、和子が、私に電話をかけてくる意図が、読めなかった…
いや、
意図は、一つだけ、あったのかもしれない…
孫のリン…
菊池リンのことだ…
私は、今、菊池リンと、伸明さんを巡って争っている…
だから、私に連絡をして、私から、伸明さんのことは、諦めて欲しい…
そんな頼み事をするのではないか?
私は、ふと、気付いた…
そして、そんなことを、考えていると、
「…ホント…随分、久しぶりですね…」
と、和子が言った…
「…でも、私のような年寄りだと、寿さんに会ったのが、つい昨日のことのように、感じるわ…」
たしかに、私は、菊池リンの家で、この和子と会った…
それは、大げさに、言えば、恐怖だった…
物腰は、柔らかく、丁寧で、いかにも、お金持ちの婦人…
だが、底知れない迫力というか…
私など、及びもしない、能力の持ち主だと思った…
人間の器というか…
持って生まれた能力が、違うと、一目見て、わかった…
後で、伸明の母である、昭子と会ってみたときは、昭子が、和子以上に、堂々としていて、驚いたが、それは、和子と比べたから…
初めて、和子と会ったときは、その存在感に圧倒された…
そして、大げさに言えば、それこそが、五井なのかもしれなかった…
五井、400年の歴史を体現しているのかも、しれなかった…
私は、今、和子と電話で話しながら、それを思い出した…
すると、
「…当然の電話で、戸惑っているようね…」
と、声がした…
私は、
「…いえ…」
と、短く答えたが、その通りだったので、それ以上は、言わなかった…
「…一度、寿さんにお会いしたいんですが…」
と、和子が言った…
予想通りの言葉だった…
まさか、電話がかかってきて、
「…寿さん…元気?…」
で、終わるはずがない(笑)…
当然、会いたいと、言ってくるのは、わかっていた…
だから、驚かなかった…
ただ、やはり、今は、マズい…
体調が、回復したばかり…
例えば、今日や明日は、マズい…
一週間とは、言わないが、三日、四日は、待って欲しい…
そう思った…
だから、
「…お会いするのは、構いませんが、数日、待って頂けないでしょうか?…」
と、言った…
「…数日? …ですか?…」
「…ハイ…実は、ここ数日、微熱が続いて、寝込んでまして…」
私が、説明すると、
「…それは、申し訳ありません…マミが、寿さんを、無理に病院に誘って、体調が悪化したとか…」
知っていた…
とっさに、思った…
当たり前だが、私に電話をかける前に、事前に、諏訪野マミから、私を、冬馬に会わせるために、一芝居打って、五井記念病院に、行かせたことを、聞いたのであろう…
また、諏訪野マミは、同居するナオキから、電話を受けて、私が、あの後、体調が悪化したのを知った…
だから、マミ経由で、知っていた…
そういうことだろう…
だからこそ、このタイミングで、電話をしてきた…
そう、気付いた…
私が、体調を崩して、数日が過ぎ、体調が、それなりに回復したと、判断したのだろう…
だから、今日、電話をしてきた…
そう、気付いた…
すると、
「…寿さんの都合のよい日で、構いませんので、一度お会いできませんか?…」
と、再び、声が聞こえてきた…
私は、断る理由がなかった…
また、
断ることもできなかった…
だから、
「…わかりました…では、来週にでも…こちらから、必ず、ご連絡しますので…」
と、答えると、
「…わかりました…寿さんの都合の良い日で、お願いします…」
と、言って、電話が切れた…
私は、電話が、終わると、しばし、ボーッとした…
放心状態だったといっていい…
…まさか?…
…まさか、あの和子から、電話があるとは、思っても、みなかった…
あの菊池リンの祖母の和子から、電話があるとは、夢にも、思って見なかった…
が、
そうではない…
来るべきものが、来た…
そう、考えを変えた…
なぜなら、菊池リン、菊池冬馬…この二人の関係に、もっとも、縁の深い人間が、ほかならぬ和子なのだ…
なにより、菊池リンの祖母…
伸明と結婚するかもしれない、菊池リンの祖母…
そして、菊池冬馬いわく、冬馬を溺愛する、叔母だった…
姉の昭子が、冬馬を毛嫌いするのと、対照的に、冬馬を、可愛がっていた…
なにより、五井家を追放された冬馬を、孫の菊池リンと結婚させて、五井家に復帰させるという離れ業をやってのけた人物だ…
通常、誰もが考え付かないことを、発案する人物…
その人物が、私に会いたいという…
なにか、ないわけがなかった…
おそらく、五井家の根幹に関わるものではないか?
私は、直観した…
結局、数日後、近くのファミレスで、和子と、会った…
本当は、もっと、ちゃんとした場所…
例えば、格式の高い日本料理店や、料亭などで、会わなければ、失礼…
礼を欠くと、考えた…
しかしながら、自分の体調を考えると、それは、無理…
できなかった…
先週、諏訪野マミに呼び出され、五井記念病院に行っただけで、グタッとして、体力を消耗してしまった…
まだ、退院したばかり…
とてもではないが、以前のように、普通の生活はできない…
だから、本当は、和子を自宅に招くか、あるいは、今回のように、自宅近くのどこかの店で、会うしかなかった…
それゆえ、近所のファミレスで会った…
ここが、自宅近くで、誰とでも、気軽に会える場所だったからだ…
「…このような場所に、わざわざ、お越し頂き、申し訳ありません…」
私は、開口一番、和子に詫びた…
和子は、一人で、来ていた…
大方、店の駐車場に、運転手付きの、高級車が、停まっているのだろう…
私は、考えた…
まさか、七十代と、高齢の五井家の人間が、ひとりで、やって来たとは、思えないからだ…
「…いえ、こちらこそ、カラダがまだ、回復していないにも、かかわらず、お会いしたいなんて、無理を言って、すいません…」
和子が、丁寧に詫びた…
私は、
「…とんでもありません…」
と、言うしかなかった…
それ以外に、言葉が見つからなかった…
「…私風情のために、わざわざ…」
私が言うと、
「…それを言えば、私も同じです…」
「…同じ? …なにが、同じなんですか?…」
「…今、寿さんが、おっしゃった、私風情という言葉…私もまた、五井家の人間に、生まれなければ、大した人間じゃなかった…ただ、お金持ちの家に生まれただけ…」
「…」
「…ただ、運がいい…その運の良さで、ここまで、生きてきただけです…」
そう言って、和子が笑った…
そして、それは、ウソだった…
言葉通りでは、なかった…
金持ちの家に生まれたのは、運がいいことなのかもしれなかった…
が、
金持ちに家に生まれれば、生まれるで、当然、苦労する…
例えば、金持ちは、頭がいいのが、大半…
両親だけでなく、周囲の親戚も、頭がいいのが、多い…
先祖が、頭がいいから、社会で、成功したからだ…
その先祖の血を受け継いできたから、当然、大半が、頭がいい…
皆、東大を始め、有名大学を卒業している…
だから、自分も、有名大学に進学できなければ、周囲の人間に笑われる…
つまりは、学業で、まずは、苦労する…
生まれつき、頭が、良ければいいが、稀にそうでない者もいる…
そういった人間が、金持ちの家に生まれれば、大変だ…
下手をすれば、自分だけ、除け者にされかねない…
私は、以前、そんな話を聞いたことがある…
つまりは、金持ちに生まれれば、金持ちの苦労がある…
私は、和子の話を聞いて、今、それを思い出した…
が、
さすがに、それを、ここで言うことは、できない…
私は、ただ頭を下げて、席に着いた…
すると、
「…寿さん…」
と、和子が声をかけた…
「…なんでしょうか?…」
「…アナタ…五井家の人間になりたいの?…」
単刀直入な質問だった…
私は、寝込んだ…
微熱が続いていたのだ…
ナオキは、
「…鬼の霍乱(かくらん)だ…」
と、私を、冷やかした…
本当は、私が、癌で、体調が、悪く、無理をして、五井記念病院に菊池冬馬を見舞いに行った結果、こうなったのは、わかっているが、わざと、
「…鬼の霍乱(かくらん)…」
と、言って、冷やかしたのだ…
あくまで、私を、普通の体調の人間のように、扱う…
ナオキの優しさだった…
が、
ことによると、そんなナオキの行動は、他人に、誤解される…
私が、病人にも、かかわらず、なんてことを言うひと、と、誤解される…
デリカシーのかけらもない男と、非難されるかもしれない…
そして、その非難は、当然だが、それは、ナオキを知らないひとだから、そう思うのだ…
私のように、長年、ナオキと知り合っていれば、それは、ナオキの優しさだと気付く…
ナオキが、私を病人扱いしないことで、私から、病気を忘れさせる狙いだと、気付く…
だから、言葉は、凄く、難しいと思う…
いや、
言葉だけではない…
行動は、凄く難しいと、思う…
私とナオキだから、互いにわかりあえる言葉というものがある…
他人が聞けば、なんていうひと!と、眉をひそめる言動も、私とナオキの間では、別の意味に取れる…
そういうことだ…
そして、こんなことは、私とナオキの間だけではない…
長年、付き合っている、カップルや、夫婦の間でも、同じだろう…
第三者である、他人が聞けば、なんてことを! と、怒ることも、カップルや、夫婦の間では、別の意味に取る…
そういうことだ…
が、
それを、考えれば、私とナオキの間は、つくづく、熟年夫婦に近いものがあると、思う…
仮に、ナオキに、新しく、好きなひとができたと、聞けば、
「…私も応援する…」
と、私も、言い出しかねない(笑)…
それは、もはや、カップルではなく、家族になっているから…
好きなひとがいれば、応援するから、頑張りなさい、と、尻を押しかねない…
エールを送りかねない…
それは、すでに、恋人ではなく、家族になっているから…
自分の家族である、兄や妹が、恋をしていると、聞けば、家族として、応援する…
もはや、そんな感覚だ…
また、それは、すでに、ナオキと私が、セックスレスの関係になっていることも、大きいだろう…
私とナオキに限らず、十年以上、いっしょにいるカップルで、定期的に、セックスをするカップルは、もはや、日本には、いないのではないか?
ときどき、ネットで、パートナーとのセックスの頻度という調査を見ると、それを強く感じる…
誰もが、出会って、最初のうちは、そんなことを続けるが、じきに飽きる…
それは、ゲームでも、セックスでも同じだろう…
どんなことでも、同じことを、やり続けるのは、飽きる…
そして、ゲームでも、違うゲーム…
セックスでも、違う相手となれば、やり続けることはできる…
が、
それも、つかの間というか…
いずれ、飽きる…
それが、大多数の普通の人間だろう…
どんなことでも、同じことを続けるのは、飽きる…
私とナオキの関係でいえば、恋人でいる時間は、とうの昔に終わった…
今は、熟年夫婦…
家族として、寄り添っている…
だから、ナオキは、私が、諏訪野伸明と結婚するとしても、見守ってくれる…
姉や妹が、結婚するように、見守ってくれる…
そういうことだろう…
私は、微熱に悩まされ、ベッドの上で、うたた寝をしながら、つくづく、そんなことを、考えた…
いや、
過去に何度も、考え続けたことだ…
それが、今になって、微熱と共に、何度も蘇ったというか…
ことによると、それは、私が、ナオキに抱く罪悪感かもしれないと、気付いた…
藤原ナオキは、私の恩人…
間違いなく、恩人…
大恩人だった…
当初は、赤貧の私、寿綾乃が、まだ無名の藤原ナオキといっしょに、FK興産を立ち上げたときに、苦労をした仲間だった…
同志だった…
が、
それを恩着せがましく、ナオキに言うことはできない…
なぜなら、私は、十分に、ナオキから、報酬は、もらっているからだ…
いや、
十分どころではなく、もらっているからだ…
だから、大恩人だった…
月々の給与も秘書として、異例だったし、なにより、この億ションに、ただで、住まわせてもらっている…
つまりは、藤原ナオキと出会わければ、今の私はない…
すでに、何度も説明したことだが、私は、無名時代の藤原ナオキと知り合い、男女の関係になり、ほどなく、妻のユリコが、家を出て行った…
結果、私は、ユリコと入れ替わりに、ナオキの家に入った…
が、
それは、ユリコの息子、ジュン君の面倒をみることも、含まれていた…
仕事で、忙しいナオキに子育ては無理…
できない…
私は、ユリコの代わりに、公私に渡って、藤原ナオキの面倒を見た…
公とは、会社で、ナオキを助け、私とは、家庭で、ナオキや、ジュン君の面倒をみたということだ…
最初は、貧しかったナオキだが、まるで、階段を駆け上がるように、瞬く間に、出世した…
会社が、飛躍的に、大きくなったからだ…
それにつれて、住む家が、格段に向上した…
安アパートから、洒落たマンションになり、最後は、今の億ションとなった…
まるで、絵に描いたような成功物語…
私は絵に描いたような藤原ナオキの成功物語に、寄り添ったわけだ…
その間、ナオキは、プライベートで、あっちの女、こっちの女と、渡り歩き、そのたびに、食い物にされてきた…
ナオキ自身、女好きであり、あっちの女、こっちの女と、さまざまな女と関係したし、それをまた、女たちに見抜かれ、食い物にされた…
ある意味、どっちもどっちの結末だった(笑)…
ただ、その間に、ナオキは、家を出て行き、私は、ジュン君と二人だけで、暮らす羽目になった…
だから、今、ナオキと二人だけで、暮らすのは、初めての経験だった…
知り合って、十数年、初めて、ナオキと二人だけで、暮らした…
ジュン君が、拘置所にいるからだ…
しかしながら、もはや、トキメキはない(苦笑)…
実態は、まるで、熟年夫婦…
酸いも甘いも嚙み分けた、熟年夫婦に近かった…
だから、私は、ナオキが、他に女を作っても、納得できるし、ナオキも、私が、諏訪野伸明と結婚しても納得できる…
私は、心の底から、そう思っているし、それは、ナオキもまた、同じだと思っていた…
が、
もしかしたら、それは、違うかもしれない…
私の一方的な思い込み…
願望に過ぎないのかもしれない…
それに、気付いた…
自分でも無意識のうちに、そう信じ込んでいただけなのかもしれない…
それは、ある意味、罪悪感…
藤原ナオキに、こんなにまで、世話になっているにも、かかわらず、ナオキを裏切るのか?
そんな罪悪感が、心のどこかにあり、それを無意識のうちに、回避するために、自分でも、知らず、知らず、
…私とナオキは、熟年夫婦と、同じ…
と、自分自身に信じ込ませようとしていたのかもしれない…
それが、この三日、微熱が、続いて、ベッドの上で、うたた寝していて、もしかしたら、それは、一方的な私の思い込み…
私が無意識のうちに、ナオキを裏切っている…
そう思いたくない心が、無意識のうちに、自分を守るように、ナオキと、私は、熟年夫婦と、信じ込んでいたのかもしれない…
本当に、私と同じように、ナオキが、考えているかどうかは、わからない…
ナオキに直接聞いても、わからないだろう…
なぜなら、ナオキが、本当のことを言うか、どうかは、わからないからだ…
私に気を使って、ウソを言うかもしれないし、またナオキ自身、私が、諏訪野伸明と結婚して、気付くこともある…
ナオキもまた、私と同じように、熟年夫婦と思い込んでいたが、私がナオキの元を去り、いなくなって、初めて、私の存在の大きさに気付くこともある…
そういうことだ…
自己評価が、大きすぎると思うかもしれないが、そういった例は、世間にありふれている…
結婚はしないで、恋人同士のまま、数年過ぎ、男女とも、別の異性と結婚する…
そうなって、初めて、
…こんなはずじゃなかった…
…あっちの方が、良かった…
と、悔やむ人間は、あまたいるだろう…
それと似ている…
要するに、いなくなって、初めて、その価値に気付くということだ…
誰でも、なくなって、初めて、気付くことがある…
子供の頃で、いえば、学校を、転校や、進学をして、友達が変わることで、以前の友達に会えなくなり、その価値に気付くことがある…
学校が変わって、以前のように、親しい友達が、できなければ、当たり前だが、以前が、懐かしくなる…
そういうことだ…
大切なおもちゃでも、本でも、フィギュアでも同じ…
なくして、初めて、その価値に気付く…
二度と手に入らないからだ…
容易に手に入るようならば、金さえあれば、買える…
金で、買えないから、困るのだ…
金で、買えないから、価値があるのだ…
私は、そんなことを、考えた…
諏訪野和子から、連絡があったのは、それから、まもなくだった…
私が、ようやく、体調が、回復して、なんとか、なってきた…
そう自覚したときに、連絡があった…
私のスマホのベルが鳴り、私が、出ると、
高齢の女性の落ち着いた声が、聞こえてきた…
「…寿さんですか?…」
「…ハイ…そうですが…」
「…諏訪野…諏訪野和子と申します…菊池リンの祖母の…お久しぶりです…」
私は、驚いた…
まさか、諏訪野和子から、連絡が来るとは、思わなかった…
諏訪野和子は、五井家当主、伸明の母、昭子の一卵性双生児の妹…
一度、菊池リンの家で、以前、会っただけだが、まさに、女丈夫というか…
肝の据わった女だった…
外見は、伸明の母、昭子と同じ…
そっくりだ…
一卵性双生児だから、無理もない…
ただ、昭子と比べたときは、昭子の方が、和子よりも、もっと、しっかりしている印象だった…
和子も、初めて、会ったときは、堂々とした、女丈夫だと、思ったが、昭子の方が、上だった…
やはり、これも、姉妹だから、姉の方が、上なのかもしれない…
私は、そんなことを、思いながら、
「…こちらこそ、ご無沙汰しています…」
と、返事をした…
そして、
…一体、なんの用だろう?…
と、思った…
失礼ながら、和子が、私に電話をかけてくる意図が、読めなかった…
いや、
意図は、一つだけ、あったのかもしれない…
孫のリン…
菊池リンのことだ…
私は、今、菊池リンと、伸明さんを巡って争っている…
だから、私に連絡をして、私から、伸明さんのことは、諦めて欲しい…
そんな頼み事をするのではないか?
私は、ふと、気付いた…
そして、そんなことを、考えていると、
「…ホント…随分、久しぶりですね…」
と、和子が言った…
「…でも、私のような年寄りだと、寿さんに会ったのが、つい昨日のことのように、感じるわ…」
たしかに、私は、菊池リンの家で、この和子と会った…
それは、大げさに、言えば、恐怖だった…
物腰は、柔らかく、丁寧で、いかにも、お金持ちの婦人…
だが、底知れない迫力というか…
私など、及びもしない、能力の持ち主だと思った…
人間の器というか…
持って生まれた能力が、違うと、一目見て、わかった…
後で、伸明の母である、昭子と会ってみたときは、昭子が、和子以上に、堂々としていて、驚いたが、それは、和子と比べたから…
初めて、和子と会ったときは、その存在感に圧倒された…
そして、大げさに言えば、それこそが、五井なのかもしれなかった…
五井、400年の歴史を体現しているのかも、しれなかった…
私は、今、和子と電話で話しながら、それを思い出した…
すると、
「…当然の電話で、戸惑っているようね…」
と、声がした…
私は、
「…いえ…」
と、短く答えたが、その通りだったので、それ以上は、言わなかった…
「…一度、寿さんにお会いしたいんですが…」
と、和子が言った…
予想通りの言葉だった…
まさか、電話がかかってきて、
「…寿さん…元気?…」
で、終わるはずがない(笑)…
当然、会いたいと、言ってくるのは、わかっていた…
だから、驚かなかった…
ただ、やはり、今は、マズい…
体調が、回復したばかり…
例えば、今日や明日は、マズい…
一週間とは、言わないが、三日、四日は、待って欲しい…
そう思った…
だから、
「…お会いするのは、構いませんが、数日、待って頂けないでしょうか?…」
と、言った…
「…数日? …ですか?…」
「…ハイ…実は、ここ数日、微熱が続いて、寝込んでまして…」
私が、説明すると、
「…それは、申し訳ありません…マミが、寿さんを、無理に病院に誘って、体調が悪化したとか…」
知っていた…
とっさに、思った…
当たり前だが、私に電話をかける前に、事前に、諏訪野マミから、私を、冬馬に会わせるために、一芝居打って、五井記念病院に、行かせたことを、聞いたのであろう…
また、諏訪野マミは、同居するナオキから、電話を受けて、私が、あの後、体調が悪化したのを知った…
だから、マミ経由で、知っていた…
そういうことだろう…
だからこそ、このタイミングで、電話をしてきた…
そう、気付いた…
私が、体調を崩して、数日が過ぎ、体調が、それなりに回復したと、判断したのだろう…
だから、今日、電話をしてきた…
そう、気付いた…
すると、
「…寿さんの都合のよい日で、構いませんので、一度お会いできませんか?…」
と、再び、声が聞こえてきた…
私は、断る理由がなかった…
また、
断ることもできなかった…
だから、
「…わかりました…では、来週にでも…こちらから、必ず、ご連絡しますので…」
と、答えると、
「…わかりました…寿さんの都合の良い日で、お願いします…」
と、言って、電話が切れた…
私は、電話が、終わると、しばし、ボーッとした…
放心状態だったといっていい…
…まさか?…
…まさか、あの和子から、電話があるとは、思っても、みなかった…
あの菊池リンの祖母の和子から、電話があるとは、夢にも、思って見なかった…
が、
そうではない…
来るべきものが、来た…
そう、考えを変えた…
なぜなら、菊池リン、菊池冬馬…この二人の関係に、もっとも、縁の深い人間が、ほかならぬ和子なのだ…
なにより、菊池リンの祖母…
伸明と結婚するかもしれない、菊池リンの祖母…
そして、菊池冬馬いわく、冬馬を溺愛する、叔母だった…
姉の昭子が、冬馬を毛嫌いするのと、対照的に、冬馬を、可愛がっていた…
なにより、五井家を追放された冬馬を、孫の菊池リンと結婚させて、五井家に復帰させるという離れ業をやってのけた人物だ…
通常、誰もが考え付かないことを、発案する人物…
その人物が、私に会いたいという…
なにか、ないわけがなかった…
おそらく、五井家の根幹に関わるものではないか?
私は、直観した…
結局、数日後、近くのファミレスで、和子と、会った…
本当は、もっと、ちゃんとした場所…
例えば、格式の高い日本料理店や、料亭などで、会わなければ、失礼…
礼を欠くと、考えた…
しかしながら、自分の体調を考えると、それは、無理…
できなかった…
先週、諏訪野マミに呼び出され、五井記念病院に行っただけで、グタッとして、体力を消耗してしまった…
まだ、退院したばかり…
とてもではないが、以前のように、普通の生活はできない…
だから、本当は、和子を自宅に招くか、あるいは、今回のように、自宅近くのどこかの店で、会うしかなかった…
それゆえ、近所のファミレスで会った…
ここが、自宅近くで、誰とでも、気軽に会える場所だったからだ…
「…このような場所に、わざわざ、お越し頂き、申し訳ありません…」
私は、開口一番、和子に詫びた…
和子は、一人で、来ていた…
大方、店の駐車場に、運転手付きの、高級車が、停まっているのだろう…
私は、考えた…
まさか、七十代と、高齢の五井家の人間が、ひとりで、やって来たとは、思えないからだ…
「…いえ、こちらこそ、カラダがまだ、回復していないにも、かかわらず、お会いしたいなんて、無理を言って、すいません…」
和子が、丁寧に詫びた…
私は、
「…とんでもありません…」
と、言うしかなかった…
それ以外に、言葉が見つからなかった…
「…私風情のために、わざわざ…」
私が言うと、
「…それを言えば、私も同じです…」
「…同じ? …なにが、同じなんですか?…」
「…今、寿さんが、おっしゃった、私風情という言葉…私もまた、五井家の人間に、生まれなければ、大した人間じゃなかった…ただ、お金持ちの家に生まれただけ…」
「…」
「…ただ、運がいい…その運の良さで、ここまで、生きてきただけです…」
そう言って、和子が笑った…
そして、それは、ウソだった…
言葉通りでは、なかった…
金持ちの家に生まれたのは、運がいいことなのかもしれなかった…
が、
金持ちに家に生まれれば、生まれるで、当然、苦労する…
例えば、金持ちは、頭がいいのが、大半…
両親だけでなく、周囲の親戚も、頭がいいのが、多い…
先祖が、頭がいいから、社会で、成功したからだ…
その先祖の血を受け継いできたから、当然、大半が、頭がいい…
皆、東大を始め、有名大学を卒業している…
だから、自分も、有名大学に進学できなければ、周囲の人間に笑われる…
つまりは、学業で、まずは、苦労する…
生まれつき、頭が、良ければいいが、稀にそうでない者もいる…
そういった人間が、金持ちの家に生まれれば、大変だ…
下手をすれば、自分だけ、除け者にされかねない…
私は、以前、そんな話を聞いたことがある…
つまりは、金持ちに生まれれば、金持ちの苦労がある…
私は、和子の話を聞いて、今、それを思い出した…
が、
さすがに、それを、ここで言うことは、できない…
私は、ただ頭を下げて、席に着いた…
すると、
「…寿さん…」
と、和子が声をかけた…
「…なんでしょうか?…」
「…アナタ…五井家の人間になりたいの?…」
単刀直入な質問だった…