第99話
文字数 8,602文字
私は、唖然とした…
いや、
私だけではない…
ここにいる、ユリコと、佐藤ナナもまた、同じだった…
同じように、唖然としていた…
今、目の前で、起こったことが、理解できないというか…
あまりにも、突然のことで、うまく頭の整理ができなかった…
だから、私たち3人が、全員、沈黙した…
沈黙したままだった…
正直、なにを話していいか、わからなかったからだ…
すると、いつのまにか、さっきまで、昭子の座っていた席に、和子が、着いた…
正真正銘の五井の女帝が着いた…
そして、言った…
「…ユリコさん…藤原ユリコさん…でしょうか?…」
さっきまでの昭子に比べれば、穏やかな口調で、和子が、口を開いた…
「…ハ、ハイ…」
ユリコが、戸惑ったような声で、言った…
「…姉から、事前に聞いています…アナタが、所有する五井造船の株を、1・5倍で、五井は、買い取ります…それで、いいでしょう…」
穏やかだが、有無を言わせぬ口調だった…
が、
ユリコは、
「…」
と、黙ったままだった…
やはり、納得できなかったのだろう…
当たり前だ…
ユリコは、購入額の3倍で、五井に買い取れと、言っていたのだ…
1・5倍では、その半分…
儲けも、たいしたことはない…
それを思えば、ユリコが、返事をしないのも、もっともだった…
そんな返事をしないユリコに、
「…ユリコさん…」
と、和子が、続けた…
「…身の丈に合った生き方をしなさい…」
と、一転して、強い口調で、言った…
「…背伸びは、しない…」
と、続けた…
「…これ以上、五井に手を出せば、市場から、事実上、アナタを締め出すことも、可能なのですよ…」
和子が、脅した…
文字通り、脅迫した…
ユリコの表情が、固まった…
文字通り、固まった…
たしかに、五井が全力を傾ければ、ユリコのような投資ファンドは、市場から、姿を消したとしても、おかしくはない…
ユリコは、投資ファンドの代表だが、所詮は、他人のふんどしで、相撲を取るようなもの…
誰かから、資金の供給を受けて、市場に投資する…
それで、儲ける…
だから、極端な話、ユリコに金を預けるなと、力のあるものが、厳命すれば、ユリコは、商売にならない…
そして、五井のような巨大な財閥ならば、それが、簡単にできる…
ユリコは、それを悟っていた…
和子は、さらに、追い打ちをかけた…
「…高雄さん…山田会の…」
と、いきなり、言った…
ユリコの表情が、さらにこわばった…
「…高雄さんは、手を引くと言ったそうですね…」
「…」
「…すぐにでも、返金しなければ、なりませんね…高雄さんは、経済ヤクザとして、名を馳せてますが、当たり前ですが、ヤクザです…投資したお金が返せなければ、どうなるか? わかりますね?…」
穏やかに、言った…
ユリコの顔から、サッと血の気が引いた…
顔面蒼白になった…
「…高雄さんと、中国政府との間で、仕手戦を演じて、五井造船の株を吊り上げ、売り抜けるのが、ユリコさんの描いたシナリオだったかもしれないけれども、なんなら、五井が空売りを仕掛けて、今日から、五井造船の株を下げても、構わないんですよ…」
「…」
「…もちろん、短期ですが…そうなれば、ユリコさんは、高雄さんに借りた、百億だか、二百億だかの金は、返せないでしょう…すると、どうなるかは、わかりますね…」
明らかな脅しだった…
ユリコは、なにも、言えなかった…
ただ、顔面蒼白のまま、下を向いていた…
「…もう一度、言います…ユリコさん…五井造船の株は、五井が、買い取り金額の1・5倍で、買い取ります…それで、いいですね…」
和子が、念を押した…
最後通牒だった…
「…ハイ…わかりました…」
ユリコが、下を向いたまま、蚊の鳴くような声で、答えた…
敗北宣言…
完全なユリコの敗北宣言だった…
私は、それを唖然として、見ていた…
いや、
私だけではない…
それは、同席した佐藤ナナも、同じだった…
明らかに、それまでとは、違った緊張した表情になった…
佐藤ナナの褐色の肌が、緊張のため、変色していた…
「…佐藤さん…」
「…ハイ…」
「…さっさと荷物をまとめて、五井から出てゆきなさい…」
佐藤ナナが、和子の言葉に、
「…エッ?…」
と、絶句した…
言葉もなかった…
「…五井には、アナタも、重方(しげかた)も必要ありません…居場所を用意するつもりもありません…」
和子が、冷酷に、宣言した…
「…これも、すでに姉の昭子と相談したうえでの、決定です…伸明の了承も得ています…」
和子が、告げた…
佐藤ナナが、ユリコ同様、下を向いたまま、悔しそうに、唇を噛んだ…
もしかしたら、佐藤ナナの方が、ユリコよりも、悔しいのかもしれない…
ふと、思った…
なぜなら、佐藤ナナの方が、ユリコよりも、はるかに、若い…
ユリコは、40代前半…
片や、佐藤ナナは、半分の23歳…
当然、自分の実力がわからない…
だから、簡単に、五井に潜り込めると、思った可能性が、高い…
若いから、経験がない…
だから、なんでも、簡単に考えるからだ…
だから、ユリコよりも、屈辱が大きい可能性が高い…
老練なユリコは、自分の実力がわかっている…
だから、自分の実力以上のことは、しない…
撤退すべきときは、潔く撤退する…
負けは負けだからだ…
だが、若い佐藤ナナに、それが、理解できるか、わからない…
いや、
たぶん、理解できないであろう…
私は、思った…
そんなことを、考えていると、今度は、
「…寿さん…」
と、和子が、私の名前を呼んだ…
「…ハイ…」
「…すでに、姉の昭子が言ったように、一刻も早く、オーストラリアに、向かいなさい…」
「…」
「…五井西家の長谷川センセイが、すべての準備を整えて、待っています…」
和子が、優しく、語りかけた…
が、
私は、疑問だった…
すでに、私のカラダに巣くった癌細胞は、消滅させることができないほどだと、他ならぬ、長谷川センセイ自身が、私に告げていた…
長谷川センセイは、癌の専門家ではないが、外科医…
だから、長谷川センセイの言葉に、ウソがあるとは、思えないからだ…
だから、
「…でも…」
と、つい、口に出した…
「…でも…なんですか?…」
「…本当に治るのでしょうか?…」
私は、訊いた…
「…すでに、完治は、難しいと、ほかならぬ長谷川センセイから、以前、言われました…」
私の質問に、
「…それは、わかりません…」
と、和子が、答えた…
「…ただ、西郷輝彦さんの例で、わかるように、オーストラリアでは、今、日本で、認められていない、最新の癌治療が、行われています…それに賭けてみることです…」
「…」
「…はっきり言って、寿さんの癌が、なくなくかどうか、わかりません…ただ、一つ言えることは、おそらく、これが、最後のチャンスかもしれないということです…」
「…最後のチャンス…」
「…伸るか反るか、やってみなければ、わかりません…人生は、チャレンジ…チャレンジの連続です…ただ、待っていても、幸運の糸を手繰り寄せることは、できません…」
「…」
「…人生は、チャンレンジあるのみです…」
和子が、繰り返した…
私は、その言葉に納得した…
たしかに、和子の言う通り…
ビビっていても、仕方がない…
どうにもならないと、嘆いているよりも、1%でも、可能性があるのならば、それに賭けてみることだ…
結果をウジウジ考えても、仕方がない…
なるようにしか、ならないからだ…
「…費用は、すべて、五井が、持ちます…」
和子が、続けた…
「…これは、昭子の置き土産です…」
「…置き土産?…」
「…姉の昭子は、本当は、伸明と寿さんを結婚させたかった…これは、私も同じ…」
「…でも、できなかった…これは、そのお詫びです…だから、遠慮なく、受け取って欲しい…」
私は、この言葉に、素直に答えることができなかった…
だから、
「…」
と、黙った…
「…アナタが生きることが、私と、姉の昭子の希望です…当然、伸明も…」
「…私が、生きることが、希望…」
「…寿さん…」
「…ハイ…」
「…生きていて、なにが、一番楽しいか、わかりますか?…」
いきなり、凄い質問だった…
…生きていて、なにが、楽しいか?…
そんなこと、いきなり、言われても、わからない…
私が、戸惑っていると、
「…私の答えは、生きがいです…」
「…生きがい?…」
「…誰かに、愛される…誰かに、頼られる…必要とされる…会社でも、学校でも、家庭でも、同じ…誰かに、なにかを求められることほど、嬉しいものはない…」
「…」
「…今、出て行った、姉の昭子には、それが、なかった…」
「…」
「…本来は、昭子が、五井の女帝だった…それに、ふさわしい能力もあった…」
「…」
「…ただ、幸か不幸か、伸明をお腹に、宿した状況で、五井本家の建造さんと、結婚せざるを得なかった…それで、昭子の人生が狂った…」
「…」
「…自分の能力をどこに発揮していいか、わからなくなったんです…」
「…」
「…思えば、不幸な人生です…」
「…」
「…それに比べ、寿さんは、恵まれている…」
「…私が、恵まれている?…」
「…寿さんの事実上のパートナーだった、藤原さんや、伸明にも、頼られている…必要とされている…」
「…」
「…そして、それが、生きること…寿さんに、なにか、あれば、悲しむ人間が、何人もいる…これ以上、自分が生きていて、嬉しいことはないと、私は、思いますよ…」
和子が、説明した…
実に、よくわかる説明だった…
十二分に、納得のできる説明だった…
私は、思った…
そして、それを最後に、まもなく、五井本家を、出た…
すでに、話はなかった…
私、ユリコ、佐藤ナナと、和子の間に、話は、なかった…
だから、これ以上、この場に、留まる意味は、なかった…
ただ、別れ際に、ユリコが、
「…ナオキによろしく…」
と、はにかんだような、笑いで、私に告げた…
ユリコは、藤原ナオキの元の妻…
しかしながら、自分の産んだジュン君を、ずっと、ナオキの子供だと、偽っていた…
しかし、それが、ウソだと、わかった…
私が、暴露したのだ…
だから、今さら、ナオキに会わす顔が、なかったのかもしれない…
私は、思った…
一方、佐藤ナナはというと、最後まで、硬い表情のままだった…
さもありなん…
五井家から、出て行けと、命じられたのだ…
五井家の養子縁組を解くと、宣言されたのだ…
嬉しいわけは、なかった…
表情が、硬いのは、当たり前だった…
結局、その日は、私は、ユリコと、佐藤ナナと、そんな感じで、別れた…
私は、一人ぼっちで、帰路に着いた…
五井家に、用意されたクルマで、自宅まで、送ってもらった…
家に帰ると、早速、荷造りをしようと、思ったが、体力が、続かなかった…
すでに、疲労困憊の状態だった…
当たり前だが、私は、病人に近い…
癌患者だ…
だから、普段は、めったに家から出ない…
外出しない…
それが、今日は、五井本家まで、出向いた…
いくら、用意されたクルマで、送り迎えをしてもらっても、疲れて、当たり前だった…
だから、荷造りは、諦めて、ベッドに横になった…
すると、まるで、スイッチを切ったように、眠りに落ちた…
目が覚めると、辺りは、すでに暗かった…
すでに、夜になっていた…
私は、起き上がった…
やることがある…
諏訪野伸明に連絡を入れるのだ…
「…伸明さん?…早く出て…」
と、スマホの電話を入れながら、私は、願った…
一時も早く、伝えたいことがある…
が、
背後に、ふと、誰かの気配を感じた…
振り返ると、昭子が、鬼の形相で、睨んでいた…
「…やっぱり、アンタが、スパイだったのね?…」
昭子が、断言した…
私は、恐怖で、震えた…
ガクガクと、全身が震えて、カラダが、動かなかった…
そこで、ハタと、夢が醒めた…
目が覚めて見ると、
…一体、どうして、そんな夢を見たのだろう?…
自分でも、不思議だった…
これでは、まるで、私が、五井の獅子身中のスパイ…
誰かに、命じられて、五井にスパイとして、潜り込んでいたようだ…
が、
その理由は、すぐにわかった…
誰か、近くで、話している声が聞こえてきた…
聞き覚のある声…
声の主は、ナオキ…
同居する、藤原ナオキだった…
「…諏訪野さん…ご無沙汰しています…藤原です…」
「…お久しぶりです…」
「…寿綾乃に関する件ですが、今のところ、体調に、問題はありません…」
…体調に、問題は、ない?…
…一体、どういう意味だ?…
「…そうですか?…」
「…しかし、一体、諏訪野さんも、モノ好きというか…どうして、そんなに、寿のことを、気にするのですか? …すでに、結婚するつもりは、ないのでしょ?…」
「…寿さんには、すでに藤原さんが、いるでしょ?…」
「…」
「…ボクは、ただ、彼女の体調が、気になるのです…ぜひ、オーストラリアで、完治してもらいたい…」
「…」
「…藤原さんが、いつも、寿さんのことを、連絡してくれるから、助かります…」
「…いえ、こちらこそ、いつも、五井銀行に、融資を頂き、助かっています…」
…なに、それ?…
仰天した…
…それって、まさか、ナオキは、諏訪野伸明さんに、私について、報告を入れていた…
…融資の見返りに、私の動静を逐一、伸明に、報告していたってこと?…
ウソォ!
あり得ない…
それが、本当なら、ナオキは、私の知らないところで、私の情報を、伸明に、売っていたことになる…
FK興産の融資の見返りに、売っていたことになる…
そんな…
藤原ナオキが、そんな人間だったなんて…
信じられなかった…
いや、
信じたくなかった…
だが、
これが、現実だった…
まごうことなき、現実だった…
夢なら、覚めろと、心の中で、思ったが、夢ではなかった…
「…でも…藤原さんが、こんなに、詳細に、寿さんのことを、報告してくれるとは、思いませんでしたよ…寿さんを、好きでは、なかったのですか? …」
皮肉だった…
が、
その返答は、
「…好きですよ…」
と、いうものだった…
「…エッ?…」
電話の向こうで、伸明が、絶句したのが、わかった…
「…なら、どうして?…」
「…ボクと、暮らすより、諏訪野さんと、結婚する方が、幸せだからですよ…」
「…」
「…ボクは、所詮、ベンチャー企業の社長です…いつ、どうなるか、わからない…今もこうして、諏訪野さんに、会社の運営資金を、調達してもらってます…」
「…」
「…そんな、いつ、どうなるかわからない男と、いっしょに、いるよりも、諏訪野さんのような由緒あるお金持ちと、結婚した方が、幸せになれると、思う…」
「…」
「…ですが、そうはならなかったようで、残念です…」
ナオキが、告げた…
…私の幸せ?…
…私の幸せのため?…
…ウソォ!…
なんとも、言えなかった…
私の動静を諏訪野伸明に告げて、見返りに、五井銀行から、融資を得る…
それが、私の幸せのため?
本当に、そう思っている?
心の底から、思っている?
わからなかった…
真実が、一体、なんだか、わからなかった…
藤原ナオキにとって、会社が、大事か、私が、大事か、わからなかった…
それとも、これは、二十代前半の会社に入社したての女の子が、付き合っている彼氏に聞く、
「…私と、仕事のどっちが、大事なの?…」
と、同じレベルの悩みなのだろうか?
まったく、別のモノを同一に論じることと、同じなのだろうか?
悩んだ…
考えた…
すると、
「…ボクは、菊池リンさんと、結婚します…」
という伸明の声が、聞こえた…
…菊池リンと結婚?…
ウソォ!
驚いた…
一体、どうして、伸明は、菊池リンと、結婚するのだろう?
謎だった…
そして、それは、ナオキも同じだったようだ…
「…一体、どうして?…」
ナオキが、焦ったように、訊いた…
「…それは、藤原さん…ボクが、オヤジだからです…」
「…オヤジ?…」
「…40を過ぎて、お世辞にも、若くはない…最初は、リンちゃんを、昔から知っているから、親戚の子供ぐらいにしか、思ってなかった…でも、突然、リンちゃんと同じぐらいの年齢の佐藤ナナという、同じ五井一族の子が現れて、恥ずかしながら、その佐藤さんを、女として、見た、意識した…」
「…」
「…すると、その若さが羨ましくなった…それから、遅ればせながら、リンちゃんを女として、見れるようになった…同じ年代の藤原さんなら、ボクの気持ちをわかってくれると思う…」
「…」
「…ボクの中身は、ただの若い女が、好きな、中年のスケベオヤジですよ…」
伸明が、自嘲気味に、言う声が、聞こえた…
しかし、それが、伸明の本心か、否かは、わからなかった…
ただ、伸明が、菊池リンと、結婚することが、五井の安定に繋がることは、たしか…
五井は、同じ五井一族の者と、結婚する…
それが、原則…
その原則を当主自ら、破るわけには、いかないからだ…
それが、わかっているのだろう…
ナオキも、また、なにも、言わなかった…
「…」
と、無言だった…
すると、少しの沈黙の後、
「…藤原さん…」
と、いう伸明の声が聞こえた…
「…寿さんを幸せにしてください…」
「…」
「…共に、人生を歩んで、ください…」
絞り出すような声だった…
この声を耳にして、今さらながら、伸明が、私を好きだったんだと、思った…
愛してくれていたんだと、思った…
が、
それに、返答した、ナオキの声は、
「…わかりました…」
と、機械のように、味気なく答えただけだった…
これには、聞き耳を立てていた、私自身が、拍子抜けした…
一体、これでは、ナオキが、本当に、私を愛してくれているのか、疑問だった…
今の電話から、漏れ聞く会話を聞く限り、伸明の方が、私を愛していた…
伸明の方が、信じられた…
そう、思った…
私と、同じ立場ならば、誰もが、そう思うに違いない…
一体、ナオキは、私のことを、どう思っているのか?
単なる、金づる?
五井銀行から、融資を受けるための道具?
それとも、本当に、愛している?
心の底から、愛している?
謎だった…
これまで、私は、知らず知らずのうちに、ナオキと、伸明を秤にかけていた…
両天秤にかけていた…
が、
それは、ナオキもまた同じだったかもしれない…
ふと、気付いた…
私を好き…
愛している…
その一方で、伸明=五井との融資の取引材料に使っている…
そういうことだろう…
そう思うと、落胆した…
急速に、肩の力が抜けたというか…
が、
私が、それを怒ることはできない…
ナオキを叱ることはできない…
私もまたナオキを利用してきた…
まだ高校生だった頃から、ナオキと男女の関係になり、今では、こうして、億ションにまで、住まわせて、もらっている…
傍から見れば、どんなきれいごとを言おうと、社長の愛人だった…
それ以外の言葉は、見つからなかった…
愛人でなければ、すでに、結婚しているだろう…
本当に、好きならば、結婚して、籍を入れているだろう…
つまり、好きは、好きだが、その程度に、好きでしか、ないのだろう…
今さらながら、気付いた…
他人のことなら、そんなことも、わからないの?
と、陰で、嘲笑するところだが、自分のこととなると、さっぱりわからない…
バカな女…
そして、
バカな男…
互いが、互いを利用して、生きている…
そして、その事実に、二人とも気付かない…
いや、
気付かないフリをしている…
バカなカップル…
それに、気付くと、ため息が出た…
そして、なんだか、すべてが、バカバカしくなった…
面白くなった…
なんだか、これまで、真剣に悩んでいたこが、笑えた…
すべては、コメディ…
コメディ=喜劇に思えた…
私の体調も、ナオキの会社も、すべてが、どうでもよくなった…
ただ…
ただ、自分の人生は、喜劇かもしれないが、もう少し、生きてみたくなった…
これまでは、自暴自棄というか…
癌になり、完治が絶望的と知ると、厭世的になった…
ある意味、生きていることが、どうでもよくなった…
なにより、どうせ長く生きれないだろうと、思った…
が、
今のナオキの態度を知るにつけ、もう少し、生きてみたくなった…
ナオキも、そうだが、伸明の今後も知りたくなった…
彼らを含めた、これまで知り会った五井一族…
諏訪野マミ…
佐藤ナナ…
菊池重方(しげかた)…
諏訪野昭子…
諏訪野和子…
彼ら、彼女らの行く末をみたくなった…
いや、五井一族だけではない…
ユリコも、ジュン君の行く末をみたくなった…
ドラマや小説ではないが、この後、彼ら、あるいは、彼女らが、どんな人生を歩むのか、知りたくなった…
そして、それこそが、私の生きる原動力になった…
これまで、知り会った人々の行く末が、みたいと、心の底から、思うようになった…
もう少し、生きてみたい…
心底、そう思えるようになった…
そして、それこそが、原動力…
私の生きる原動力だった…
いや、
私だけではない…
ここにいる、ユリコと、佐藤ナナもまた、同じだった…
同じように、唖然としていた…
今、目の前で、起こったことが、理解できないというか…
あまりにも、突然のことで、うまく頭の整理ができなかった…
だから、私たち3人が、全員、沈黙した…
沈黙したままだった…
正直、なにを話していいか、わからなかったからだ…
すると、いつのまにか、さっきまで、昭子の座っていた席に、和子が、着いた…
正真正銘の五井の女帝が着いた…
そして、言った…
「…ユリコさん…藤原ユリコさん…でしょうか?…」
さっきまでの昭子に比べれば、穏やかな口調で、和子が、口を開いた…
「…ハ、ハイ…」
ユリコが、戸惑ったような声で、言った…
「…姉から、事前に聞いています…アナタが、所有する五井造船の株を、1・5倍で、五井は、買い取ります…それで、いいでしょう…」
穏やかだが、有無を言わせぬ口調だった…
が、
ユリコは、
「…」
と、黙ったままだった…
やはり、納得できなかったのだろう…
当たり前だ…
ユリコは、購入額の3倍で、五井に買い取れと、言っていたのだ…
1・5倍では、その半分…
儲けも、たいしたことはない…
それを思えば、ユリコが、返事をしないのも、もっともだった…
そんな返事をしないユリコに、
「…ユリコさん…」
と、和子が、続けた…
「…身の丈に合った生き方をしなさい…」
と、一転して、強い口調で、言った…
「…背伸びは、しない…」
と、続けた…
「…これ以上、五井に手を出せば、市場から、事実上、アナタを締め出すことも、可能なのですよ…」
和子が、脅した…
文字通り、脅迫した…
ユリコの表情が、固まった…
文字通り、固まった…
たしかに、五井が全力を傾ければ、ユリコのような投資ファンドは、市場から、姿を消したとしても、おかしくはない…
ユリコは、投資ファンドの代表だが、所詮は、他人のふんどしで、相撲を取るようなもの…
誰かから、資金の供給を受けて、市場に投資する…
それで、儲ける…
だから、極端な話、ユリコに金を預けるなと、力のあるものが、厳命すれば、ユリコは、商売にならない…
そして、五井のような巨大な財閥ならば、それが、簡単にできる…
ユリコは、それを悟っていた…
和子は、さらに、追い打ちをかけた…
「…高雄さん…山田会の…」
と、いきなり、言った…
ユリコの表情が、さらにこわばった…
「…高雄さんは、手を引くと言ったそうですね…」
「…」
「…すぐにでも、返金しなければ、なりませんね…高雄さんは、経済ヤクザとして、名を馳せてますが、当たり前ですが、ヤクザです…投資したお金が返せなければ、どうなるか? わかりますね?…」
穏やかに、言った…
ユリコの顔から、サッと血の気が引いた…
顔面蒼白になった…
「…高雄さんと、中国政府との間で、仕手戦を演じて、五井造船の株を吊り上げ、売り抜けるのが、ユリコさんの描いたシナリオだったかもしれないけれども、なんなら、五井が空売りを仕掛けて、今日から、五井造船の株を下げても、構わないんですよ…」
「…」
「…もちろん、短期ですが…そうなれば、ユリコさんは、高雄さんに借りた、百億だか、二百億だかの金は、返せないでしょう…すると、どうなるかは、わかりますね…」
明らかな脅しだった…
ユリコは、なにも、言えなかった…
ただ、顔面蒼白のまま、下を向いていた…
「…もう一度、言います…ユリコさん…五井造船の株は、五井が、買い取り金額の1・5倍で、買い取ります…それで、いいですね…」
和子が、念を押した…
最後通牒だった…
「…ハイ…わかりました…」
ユリコが、下を向いたまま、蚊の鳴くような声で、答えた…
敗北宣言…
完全なユリコの敗北宣言だった…
私は、それを唖然として、見ていた…
いや、
私だけではない…
それは、同席した佐藤ナナも、同じだった…
明らかに、それまでとは、違った緊張した表情になった…
佐藤ナナの褐色の肌が、緊張のため、変色していた…
「…佐藤さん…」
「…ハイ…」
「…さっさと荷物をまとめて、五井から出てゆきなさい…」
佐藤ナナが、和子の言葉に、
「…エッ?…」
と、絶句した…
言葉もなかった…
「…五井には、アナタも、重方(しげかた)も必要ありません…居場所を用意するつもりもありません…」
和子が、冷酷に、宣言した…
「…これも、すでに姉の昭子と相談したうえでの、決定です…伸明の了承も得ています…」
和子が、告げた…
佐藤ナナが、ユリコ同様、下を向いたまま、悔しそうに、唇を噛んだ…
もしかしたら、佐藤ナナの方が、ユリコよりも、悔しいのかもしれない…
ふと、思った…
なぜなら、佐藤ナナの方が、ユリコよりも、はるかに、若い…
ユリコは、40代前半…
片や、佐藤ナナは、半分の23歳…
当然、自分の実力がわからない…
だから、簡単に、五井に潜り込めると、思った可能性が、高い…
若いから、経験がない…
だから、なんでも、簡単に考えるからだ…
だから、ユリコよりも、屈辱が大きい可能性が高い…
老練なユリコは、自分の実力がわかっている…
だから、自分の実力以上のことは、しない…
撤退すべきときは、潔く撤退する…
負けは負けだからだ…
だが、若い佐藤ナナに、それが、理解できるか、わからない…
いや、
たぶん、理解できないであろう…
私は、思った…
そんなことを、考えていると、今度は、
「…寿さん…」
と、和子が、私の名前を呼んだ…
「…ハイ…」
「…すでに、姉の昭子が言ったように、一刻も早く、オーストラリアに、向かいなさい…」
「…」
「…五井西家の長谷川センセイが、すべての準備を整えて、待っています…」
和子が、優しく、語りかけた…
が、
私は、疑問だった…
すでに、私のカラダに巣くった癌細胞は、消滅させることができないほどだと、他ならぬ、長谷川センセイ自身が、私に告げていた…
長谷川センセイは、癌の専門家ではないが、外科医…
だから、長谷川センセイの言葉に、ウソがあるとは、思えないからだ…
だから、
「…でも…」
と、つい、口に出した…
「…でも…なんですか?…」
「…本当に治るのでしょうか?…」
私は、訊いた…
「…すでに、完治は、難しいと、ほかならぬ長谷川センセイから、以前、言われました…」
私の質問に、
「…それは、わかりません…」
と、和子が、答えた…
「…ただ、西郷輝彦さんの例で、わかるように、オーストラリアでは、今、日本で、認められていない、最新の癌治療が、行われています…それに賭けてみることです…」
「…」
「…はっきり言って、寿さんの癌が、なくなくかどうか、わかりません…ただ、一つ言えることは、おそらく、これが、最後のチャンスかもしれないということです…」
「…最後のチャンス…」
「…伸るか反るか、やってみなければ、わかりません…人生は、チャレンジ…チャレンジの連続です…ただ、待っていても、幸運の糸を手繰り寄せることは、できません…」
「…」
「…人生は、チャンレンジあるのみです…」
和子が、繰り返した…
私は、その言葉に納得した…
たしかに、和子の言う通り…
ビビっていても、仕方がない…
どうにもならないと、嘆いているよりも、1%でも、可能性があるのならば、それに賭けてみることだ…
結果をウジウジ考えても、仕方がない…
なるようにしか、ならないからだ…
「…費用は、すべて、五井が、持ちます…」
和子が、続けた…
「…これは、昭子の置き土産です…」
「…置き土産?…」
「…姉の昭子は、本当は、伸明と寿さんを結婚させたかった…これは、私も同じ…」
「…でも、できなかった…これは、そのお詫びです…だから、遠慮なく、受け取って欲しい…」
私は、この言葉に、素直に答えることができなかった…
だから、
「…」
と、黙った…
「…アナタが生きることが、私と、姉の昭子の希望です…当然、伸明も…」
「…私が、生きることが、希望…」
「…寿さん…」
「…ハイ…」
「…生きていて、なにが、一番楽しいか、わかりますか?…」
いきなり、凄い質問だった…
…生きていて、なにが、楽しいか?…
そんなこと、いきなり、言われても、わからない…
私が、戸惑っていると、
「…私の答えは、生きがいです…」
「…生きがい?…」
「…誰かに、愛される…誰かに、頼られる…必要とされる…会社でも、学校でも、家庭でも、同じ…誰かに、なにかを求められることほど、嬉しいものはない…」
「…」
「…今、出て行った、姉の昭子には、それが、なかった…」
「…」
「…本来は、昭子が、五井の女帝だった…それに、ふさわしい能力もあった…」
「…」
「…ただ、幸か不幸か、伸明をお腹に、宿した状況で、五井本家の建造さんと、結婚せざるを得なかった…それで、昭子の人生が狂った…」
「…」
「…自分の能力をどこに発揮していいか、わからなくなったんです…」
「…」
「…思えば、不幸な人生です…」
「…」
「…それに比べ、寿さんは、恵まれている…」
「…私が、恵まれている?…」
「…寿さんの事実上のパートナーだった、藤原さんや、伸明にも、頼られている…必要とされている…」
「…」
「…そして、それが、生きること…寿さんに、なにか、あれば、悲しむ人間が、何人もいる…これ以上、自分が生きていて、嬉しいことはないと、私は、思いますよ…」
和子が、説明した…
実に、よくわかる説明だった…
十二分に、納得のできる説明だった…
私は、思った…
そして、それを最後に、まもなく、五井本家を、出た…
すでに、話はなかった…
私、ユリコ、佐藤ナナと、和子の間に、話は、なかった…
だから、これ以上、この場に、留まる意味は、なかった…
ただ、別れ際に、ユリコが、
「…ナオキによろしく…」
と、はにかんだような、笑いで、私に告げた…
ユリコは、藤原ナオキの元の妻…
しかしながら、自分の産んだジュン君を、ずっと、ナオキの子供だと、偽っていた…
しかし、それが、ウソだと、わかった…
私が、暴露したのだ…
だから、今さら、ナオキに会わす顔が、なかったのかもしれない…
私は、思った…
一方、佐藤ナナはというと、最後まで、硬い表情のままだった…
さもありなん…
五井家から、出て行けと、命じられたのだ…
五井家の養子縁組を解くと、宣言されたのだ…
嬉しいわけは、なかった…
表情が、硬いのは、当たり前だった…
結局、その日は、私は、ユリコと、佐藤ナナと、そんな感じで、別れた…
私は、一人ぼっちで、帰路に着いた…
五井家に、用意されたクルマで、自宅まで、送ってもらった…
家に帰ると、早速、荷造りをしようと、思ったが、体力が、続かなかった…
すでに、疲労困憊の状態だった…
当たり前だが、私は、病人に近い…
癌患者だ…
だから、普段は、めったに家から出ない…
外出しない…
それが、今日は、五井本家まで、出向いた…
いくら、用意されたクルマで、送り迎えをしてもらっても、疲れて、当たり前だった…
だから、荷造りは、諦めて、ベッドに横になった…
すると、まるで、スイッチを切ったように、眠りに落ちた…
目が覚めると、辺りは、すでに暗かった…
すでに、夜になっていた…
私は、起き上がった…
やることがある…
諏訪野伸明に連絡を入れるのだ…
「…伸明さん?…早く出て…」
と、スマホの電話を入れながら、私は、願った…
一時も早く、伝えたいことがある…
が、
背後に、ふと、誰かの気配を感じた…
振り返ると、昭子が、鬼の形相で、睨んでいた…
「…やっぱり、アンタが、スパイだったのね?…」
昭子が、断言した…
私は、恐怖で、震えた…
ガクガクと、全身が震えて、カラダが、動かなかった…
そこで、ハタと、夢が醒めた…
目が覚めて見ると、
…一体、どうして、そんな夢を見たのだろう?…
自分でも、不思議だった…
これでは、まるで、私が、五井の獅子身中のスパイ…
誰かに、命じられて、五井にスパイとして、潜り込んでいたようだ…
が、
その理由は、すぐにわかった…
誰か、近くで、話している声が聞こえてきた…
聞き覚のある声…
声の主は、ナオキ…
同居する、藤原ナオキだった…
「…諏訪野さん…ご無沙汰しています…藤原です…」
「…お久しぶりです…」
「…寿綾乃に関する件ですが、今のところ、体調に、問題はありません…」
…体調に、問題は、ない?…
…一体、どういう意味だ?…
「…そうですか?…」
「…しかし、一体、諏訪野さんも、モノ好きというか…どうして、そんなに、寿のことを、気にするのですか? …すでに、結婚するつもりは、ないのでしょ?…」
「…寿さんには、すでに藤原さんが、いるでしょ?…」
「…」
「…ボクは、ただ、彼女の体調が、気になるのです…ぜひ、オーストラリアで、完治してもらいたい…」
「…」
「…藤原さんが、いつも、寿さんのことを、連絡してくれるから、助かります…」
「…いえ、こちらこそ、いつも、五井銀行に、融資を頂き、助かっています…」
…なに、それ?…
仰天した…
…それって、まさか、ナオキは、諏訪野伸明さんに、私について、報告を入れていた…
…融資の見返りに、私の動静を逐一、伸明に、報告していたってこと?…
ウソォ!
あり得ない…
それが、本当なら、ナオキは、私の知らないところで、私の情報を、伸明に、売っていたことになる…
FK興産の融資の見返りに、売っていたことになる…
そんな…
藤原ナオキが、そんな人間だったなんて…
信じられなかった…
いや、
信じたくなかった…
だが、
これが、現実だった…
まごうことなき、現実だった…
夢なら、覚めろと、心の中で、思ったが、夢ではなかった…
「…でも…藤原さんが、こんなに、詳細に、寿さんのことを、報告してくれるとは、思いませんでしたよ…寿さんを、好きでは、なかったのですか? …」
皮肉だった…
が、
その返答は、
「…好きですよ…」
と、いうものだった…
「…エッ?…」
電話の向こうで、伸明が、絶句したのが、わかった…
「…なら、どうして?…」
「…ボクと、暮らすより、諏訪野さんと、結婚する方が、幸せだからですよ…」
「…」
「…ボクは、所詮、ベンチャー企業の社長です…いつ、どうなるか、わからない…今もこうして、諏訪野さんに、会社の運営資金を、調達してもらってます…」
「…」
「…そんな、いつ、どうなるかわからない男と、いっしょに、いるよりも、諏訪野さんのような由緒あるお金持ちと、結婚した方が、幸せになれると、思う…」
「…」
「…ですが、そうはならなかったようで、残念です…」
ナオキが、告げた…
…私の幸せ?…
…私の幸せのため?…
…ウソォ!…
なんとも、言えなかった…
私の動静を諏訪野伸明に告げて、見返りに、五井銀行から、融資を得る…
それが、私の幸せのため?
本当に、そう思っている?
心の底から、思っている?
わからなかった…
真実が、一体、なんだか、わからなかった…
藤原ナオキにとって、会社が、大事か、私が、大事か、わからなかった…
それとも、これは、二十代前半の会社に入社したての女の子が、付き合っている彼氏に聞く、
「…私と、仕事のどっちが、大事なの?…」
と、同じレベルの悩みなのだろうか?
まったく、別のモノを同一に論じることと、同じなのだろうか?
悩んだ…
考えた…
すると、
「…ボクは、菊池リンさんと、結婚します…」
という伸明の声が、聞こえた…
…菊池リンと結婚?…
ウソォ!
驚いた…
一体、どうして、伸明は、菊池リンと、結婚するのだろう?
謎だった…
そして、それは、ナオキも同じだったようだ…
「…一体、どうして?…」
ナオキが、焦ったように、訊いた…
「…それは、藤原さん…ボクが、オヤジだからです…」
「…オヤジ?…」
「…40を過ぎて、お世辞にも、若くはない…最初は、リンちゃんを、昔から知っているから、親戚の子供ぐらいにしか、思ってなかった…でも、突然、リンちゃんと同じぐらいの年齢の佐藤ナナという、同じ五井一族の子が現れて、恥ずかしながら、その佐藤さんを、女として、見た、意識した…」
「…」
「…すると、その若さが羨ましくなった…それから、遅ればせながら、リンちゃんを女として、見れるようになった…同じ年代の藤原さんなら、ボクの気持ちをわかってくれると思う…」
「…」
「…ボクの中身は、ただの若い女が、好きな、中年のスケベオヤジですよ…」
伸明が、自嘲気味に、言う声が、聞こえた…
しかし、それが、伸明の本心か、否かは、わからなかった…
ただ、伸明が、菊池リンと、結婚することが、五井の安定に繋がることは、たしか…
五井は、同じ五井一族の者と、結婚する…
それが、原則…
その原則を当主自ら、破るわけには、いかないからだ…
それが、わかっているのだろう…
ナオキも、また、なにも、言わなかった…
「…」
と、無言だった…
すると、少しの沈黙の後、
「…藤原さん…」
と、いう伸明の声が聞こえた…
「…寿さんを幸せにしてください…」
「…」
「…共に、人生を歩んで、ください…」
絞り出すような声だった…
この声を耳にして、今さらながら、伸明が、私を好きだったんだと、思った…
愛してくれていたんだと、思った…
が、
それに、返答した、ナオキの声は、
「…わかりました…」
と、機械のように、味気なく答えただけだった…
これには、聞き耳を立てていた、私自身が、拍子抜けした…
一体、これでは、ナオキが、本当に、私を愛してくれているのか、疑問だった…
今の電話から、漏れ聞く会話を聞く限り、伸明の方が、私を愛していた…
伸明の方が、信じられた…
そう、思った…
私と、同じ立場ならば、誰もが、そう思うに違いない…
一体、ナオキは、私のことを、どう思っているのか?
単なる、金づる?
五井銀行から、融資を受けるための道具?
それとも、本当に、愛している?
心の底から、愛している?
謎だった…
これまで、私は、知らず知らずのうちに、ナオキと、伸明を秤にかけていた…
両天秤にかけていた…
が、
それは、ナオキもまた同じだったかもしれない…
ふと、気付いた…
私を好き…
愛している…
その一方で、伸明=五井との融資の取引材料に使っている…
そういうことだろう…
そう思うと、落胆した…
急速に、肩の力が抜けたというか…
が、
私が、それを怒ることはできない…
ナオキを叱ることはできない…
私もまたナオキを利用してきた…
まだ高校生だった頃から、ナオキと男女の関係になり、今では、こうして、億ションにまで、住まわせて、もらっている…
傍から見れば、どんなきれいごとを言おうと、社長の愛人だった…
それ以外の言葉は、見つからなかった…
愛人でなければ、すでに、結婚しているだろう…
本当に、好きならば、結婚して、籍を入れているだろう…
つまり、好きは、好きだが、その程度に、好きでしか、ないのだろう…
今さらながら、気付いた…
他人のことなら、そんなことも、わからないの?
と、陰で、嘲笑するところだが、自分のこととなると、さっぱりわからない…
バカな女…
そして、
バカな男…
互いが、互いを利用して、生きている…
そして、その事実に、二人とも気付かない…
いや、
気付かないフリをしている…
バカなカップル…
それに、気付くと、ため息が出た…
そして、なんだか、すべてが、バカバカしくなった…
面白くなった…
なんだか、これまで、真剣に悩んでいたこが、笑えた…
すべては、コメディ…
コメディ=喜劇に思えた…
私の体調も、ナオキの会社も、すべてが、どうでもよくなった…
ただ…
ただ、自分の人生は、喜劇かもしれないが、もう少し、生きてみたくなった…
これまでは、自暴自棄というか…
癌になり、完治が絶望的と知ると、厭世的になった…
ある意味、生きていることが、どうでもよくなった…
なにより、どうせ長く生きれないだろうと、思った…
が、
今のナオキの態度を知るにつけ、もう少し、生きてみたくなった…
ナオキも、そうだが、伸明の今後も知りたくなった…
彼らを含めた、これまで知り会った五井一族…
諏訪野マミ…
佐藤ナナ…
菊池重方(しげかた)…
諏訪野昭子…
諏訪野和子…
彼ら、彼女らの行く末をみたくなった…
いや、五井一族だけではない…
ユリコも、ジュン君の行く末をみたくなった…
ドラマや小説ではないが、この後、彼ら、あるいは、彼女らが、どんな人生を歩むのか、知りたくなった…
そして、それこそが、私の生きる原動力になった…
これまで、知り会った人々の行く末が、みたいと、心の底から、思うようになった…
もう少し、生きてみたい…
心底、そう思えるようになった…
そして、それこそが、原動力…
私の生きる原動力だった…