第8話

文字数 9,336文字

 「…なにを、考えてるの? …綾乃さん…」

 ちょうど、見舞いにやって来た、藤原ナオキが、私に聞いた…

 「…どうして、そんなことを聞くの?…」

 「…最近、綾乃さんを見ると、なんだか、楽しそうだから…」

 ナオキが指摘した…

 さもありなん…

 私の担当の二人…

 医師の長谷川センセイと、看護師の佐藤ナナのやりとりが、面白く、実に楽しかった…

 私は、この病院で、ベッドに横になってるだけなので、他に、刺激もなにもない…

 だから、余計に、この病院の人間関係だとか…

 そういうものに惹かれる…

 あるいは、

 自然と、興味を持つ…

 その中で、自分の担当の医者と、看護師の女性の仲が、見ていて、楽しかった…

 微笑ましいというか…

 一方が、もう一方を好きなのに、一方は、まったく気づいていない…

 それが、面白かった…

 やはり、人生は楽しむに限る…

 そして、今の私のように、病院のベッドの上で、寝ているだけでも、このように、人生を楽しむことができる…

 そう考えると、つくづく、生きていて、良かったと思った…

 だから、

 「…生きていて、良かった…」

 と、ポツリと言った…

 「…だから、楽しいの…」

 私は、答える…

 私の返答に、藤原ナオキは、納得したようだ…

 「…それは、良かった…」

 ナオキが、言った…

 「…綾乃さんの表情を見れば、楽しいのが、わかる…なにが、楽しいか、わからないけど…」

 「…それは、秘密…」

 「…秘密?…」

 「…冗談よ…この病院の私の担当の看護師の佐藤ナナさんという女性が、私の担当の医師の長谷川センセイを好きみたいなの…でも、長谷川センセイは、まったく、彼女の気持ちに気付いていない…それが、面白くて…」

 「…なるほど…」

 「…でしょ?…」

 「…それで、綾乃さんは、どうするの?…」

 「…どうするって、なにを?…」

 「…綾乃さんが、二人の恋のキューピッドに立候補するの?…」

 思いがけないことを、ナオキが言った…

 「…私も、まだ、そこまでは、考えてなかった…」

 正直に言った…

 「…それに…」

 「…なに?…」

 「…私は、ただ、ベッドの上から、二人の関係を見ただけ…実は、二人とも、付き合ってるひとがいるかもしれない…」

 「…なるほど…」

 「…男と女の関係は、わからない…仮に佐藤ナナさんに、付き合っているひとは、いても、長谷川センセイに惹かれることはある…」

 言いながら、ふと、このナオキが、佐藤ナナと、すでに会っていながら、覚えてないことを思い出した…

 「…ナオキ…アナタ…佐藤さんと、会って、二度目でも、彼女と以前、会ったことを、忘れていたでしょ?…」

 私は、怒った…

 私の指摘に、藤原ナオキは、考え込んだ…

 「…そうだったかな?…」

 と、考え込んだ…

 「…申し訳ないけど、覚えていない…」

 「…ナオキ…アナタ、有名人でしょ?…」

 「…」

 「…だから、余計に気をつけなくちゃダメ…アナタが、一度会っただけで、相手を覚えてなくても、相手は、アナタを覚えている…それをいつも念頭に置いて、行動しないと…」

 私の指摘に、

 「…至極、ごもっともな意見…ありがとうございます…」

 ナオキが、おどけた…

 「…やっぱり、綾乃さんだ…意識が、戻らないときは、心配したけど、だんだん、いつもの綾乃さんに戻ってきた…」

 ナオキが楽しそうだ…

 それから、表情を引き締め、

 「…だが、綾乃さんの担当なら、ボクも覚えてると思うけど…」

 と、言った…

 私は、ナオキの言葉に、もしかしたら、諏訪野伸明と、混同してるのかも? と、思った…

 佐藤ナナは、この病院の理事長、菊池冬馬と、諏訪野伸明が、私の見舞いにやって来たと言っていた…

 それと、混同しているのかも、と気付いた…

 が、それを今さら、私の口から、言うわけには、いかない…

 自分の過ちを、認めるわけには、いかない…

 私は、ズルい人間ではないが、このときは、言わない方が、賢明だと、判断した(笑)…

 が、

 ナオキは気付いた…

 「…それって、もしかしたら、諏訪野さんと、混同してない?…」

 と、告げた…

 私は、驚いた…

 ナオキの指摘に目を丸くした…

 「…当たらずといえども、遠からじというところかな…」

 ナオキが、自信満々に言う。

 「…どうして、そう思うの?…」

 「…ボクと諏訪野さんは、タイプが似ている…共に背が高く、自分で言うのもなんだが、イケメン…それに年齢も同じ四十代前半だ…」

 「…」

 「…だから、綾乃さんの担当の看護師の方が、ボクと諏訪野さんを混同しても、おかしくはない…」

 ナオキが至極、真っ当なことを言う…

 「…それに、ボクが、女好きだということを、綾乃さんは、忘れてるよ…」

 ナオキが、笑わせた…

 「…ボクは、自分で言うのも、なんだけど、美人には、目がない…だから、綾乃さんの担当の看護師の女性が、色が浅黒い美人だということは、覚えてるよ…」

 私は、ナオキの返答に、

 「…」

 と、言葉もなかった…

 おそらく、ナオキの指摘は、その通り…

 その通りだからだ…

 女好きな男は、美人は忘れない…

 一度会っただけの美人を、簡単に忘れることはない…

 これは、女も同じ…

 イケメン好きな女は、一度見たイケメンを、簡単には、忘れない…

 そういうことだ…

 だから、あの藤原ユキコは、一度会ったイケメンは、容易に忘れないだろう(笑)…

 それを、思い出した…

 現実に、ユリコは、長谷川センセイに興味を持った様子だった…

 長谷川センセイが、背の高い、イケメンだからだ…

 ユリコのターゲットにピッタリ…

 もろに、ストライクゾーンに違いない…

 なにしろ、ユリコは、今、私の傍らにいる、藤原ナオキの元の妻だった女だ…

 長谷川センセイと、藤原ナオキも、長身のイケメンという共通点がある…

 年齢は、長谷川センセイが、藤原ナオキより、十歳若いが、タイプは同じ…

 だから、ユリコが惹かれるのは、わかる…

 そして、それを言えば、ジュン君の本当の父親も、また、藤原ナオキに似たタイプの男だといっていた…

 それゆえ、ユリコは、藤原ナオキが、ジュン君の息子といっても、問題ないと、思ったと、告白した…

 バレないと思ったと、言うのだ…

 それを考えると、ユリコの男の好みは、常に、長身のイケメンということになる…

 それを、考えた…

 「…なにを、考えてるの? …綾乃さん?…」

 ナオキが聞く…

 私は、今、思っていたユリコのことを、言おうとしたが、止めた…

 今さら、ユリコのことを、話題にしても、仕方がないと思った…

 なにより、ユリコが、以前のように、私に、あれこれちょっかいを出しているわけではないからだ…

 それより、五井家の内紛のことが、気になった…

 ナオキは、五井家の内紛を掴んでいるのだろうか?

 それを、知りたくなった…

 だから、

 「…諏訪野さん…諏訪野伸明さんのこと…」

 と、言った…

 「…諏訪野さん?…」

 「…ええ…諏訪野さんが、五井家の内紛について、語って…ナオキ…アナタ、知ってる?…」

 私の問いに、ナオキは、無言で、首を縦に振って、頷いた…

 「…知ってる…」

 短く言った…

 「…なにより、諏訪野伸明さんから、直接聞いている…」

 これは、驚きだった…

 まさか、ナオキが、諏訪野伸明さん、当人から、相談を受けていたとは、思わなかったからだ…

 「…諏訪野さんとは、以前、諏訪野マミさんが、ボクに、興味を持って以来、知り会って、それ以来、定期的に、交流している…」

 そうだった…

 諏訪野マミは、雑誌の対談で会った、藤原ナオキに一目惚れ…

 積極的に、ナオキに、アタックした…

 しかし、実のところ、それは、諏訪野マミの実父、諏訪野建造の指図だった…

 諏訪野マミは、藤原ナオキに、積極的に、アタックして、ナオキに近づいたが、本当の目的は、私だった…

 私、寿綾乃だった…

 五井家の血を引くと、思われていた、私、寿綾乃に近付くべく、娘のマミを、藤原ナオキに接近させようとした…

 つまりは、五井家は、諏訪野マミと、菊池リンという二人の女性を、ほぼ同時に、私の身近に近付かせ、その動静を探ろうとした…

 まさか、五井家が、そこまで、するとは、思わなかったので、それを知ったときは、震撼した…

 やるときは、徹底的にやる…

 五井家の姿勢を見た思いだった…

 「…諏訪野さんは、困惑していた…」

 ナオキが言った…

 「…自分は、望んで、五井家の当主の座に就いたわけじゃない…なりゆきというか、気が付いたら、当主の座に就いたというのが、偽らざる気持ちだとね…」

 さもありなん…

 諏訪野伸明は、先代当主、諏訪野建造の実子ではない…

 血が繋がってない…

 それを知ったのは、後年だと言っていたが、そもそも、諏訪野伸明は、野心家ではなかった…

 その長身のイケメンという、ルックスにもかかわらず、野心がなかった…

 それは、やはり、大げさにいえば、出生に秘密を抱えていたからかもしれないし、そうではないかもしれない…

 出生に秘密を抱えていれば、必ずしも、野心家でないとはいえない…

 つまるところ、本人の持って生まれた性格だろう…

 片や、建造の実子である、次男の秀樹は、野心家だった…

 ルックスは、長男の伸明とは、真逆…

 背が低く、容姿も平凡…

 にもかかわらず、野心家だった…

 私自身は、秀樹とは、会話も交わしたことがなかった…

 しかし、実父である、建造が、野心家と、私とナオキの前で、断言したのだから、その通りなのだろう…

 間違いはないに違いない…

 が、その秀樹も、種違いの兄の伸明に、後継者争いで、勝てないことを、悟ると、呆気なく、死を選んだ…

 自殺した…

 だが、これは、見ようによっては、コメディだった…

 モデルのようなルックスの伸明に対して、秀樹は、凡庸なルックスだった…

 かといって、ルックスで、伸明に勝てないのならば、頭脳や人柄で、他者を魅了する魅力があるのかといえば、それもない…

にもかかわらず、野心だけは旺盛…

 つまり、実力もないのに、野心家だった…

 最初から、秀樹に勝ち目はなかったのだ…

 そんなことが、わからない実力の持ち主だった…

 だから、コメディ…

 辛辣な物言いになるが、コメディだった…

 ルックスも頭脳も人柄すら劣っているにも、かかわらず、他者を出し抜いて、自分が、他人様よりも、いい地位に就く…

 そんなあり得ない夢を見る男だった…

 そして、それを考えたとき、つくづく、自分が、愚かだと思ったのは、諏訪野伸明と、弟の秀樹が、兄弟であるということへの疑問を感じなかったこと…

 誰が見ても、まったくの他人…

 とても、血が繋がった兄弟とは、思えない…

 だから、最初から、二人が、本当に、血が繋がった兄弟か否か、疑わなければ、ならなかった…

 それができなかった私は、やはり、能力が劣っているのだろう…

 自殺した秀樹の能力が、劣っていると、さんざ悪口を言いながらも、その悪口を言っている、私自身も、大した能力がない…

 まさに笑わせる…

 私は、考える…

 「…諏訪野さんは、綾乃さんが羨ましいとも、言っていた…」

 「…私が、羨ましい?…」

 あまりにも、意外な言葉だった…

 「…諏訪野さんが、綾乃さんに憧れてるのは、おそらく、二人は、似ているからだ…」

 ナオキが、説明する。

 「…諏訪野さんも、綾乃さんも、同じように、ルックスが良く、どこにいても、周囲の人目を引く…」

 「…それを言えば、ナオキ、アナタだって…」

 「…綾乃さん…話は最後まで聞いてくれ…」

 「…」

 「…ボクは、自分でいうのも、なんだが、女好き…だが、諏訪野さんも、綾乃さんも、それがない…二人とも、女好きでも、男好きでもない…ルックスがいいにも、かかわらずね…」

 「…」

 「…なにより、欲がない…有名になりたいとか、お金が欲しいとか、思ってないのは、傍から見ていても、わかる…だから、二人は、信頼できる…」

 「…」

 「…ただ、二人は、立場が違う…」

 ナオキは、力を込めた…

 「…綾乃さんは、ボクの秘書…諏訪野さんは、五井家当主だ…同じような人柄で、同じような才覚の持ち主にもかかわらず、立場が、まるで、違う…」

 「…」

 「…しかも、面白いのは、言葉は悪いが、頂点に上り詰めた諏訪野さんが、綾乃さんを羨やましがることだ…」

 「…」

 「…本当は、諏訪野さんは、綾乃さんのようになりたいんだと思う…ただ、立場上、それができない…二人は似た者同士…才能があっても、欲がない…だから、余計に惹かれる…その控えめな性格に、余計に惹かれるんだと思う…

 ナオキが、総括した…

 …うまいことを言う…

 たしかに、私は、欲はない…

 いい生活をしたい…

 お金が欲しい…

 要するに、上昇志向が、乏しい…

 それは、自分が、たいした人間ではないと、わかっているから…

 ナオキは、私が美人だと持ち上げるが、この世の中、私より美人は、ごまんといる…

 頭がいいのも、同じ…

 私は高卒で、大学にも行っていない…

 そんな私が、上昇志向を持って、どうする? と、思う…

 上昇志向は、東大や京大を出たエリートに任せておけばいい…

 私は、そう思う…

 自分とは、縁のないものだからだ…

 しかし、さにあらず…

 私より、頭が悪い人間で、上昇志向の塊のような人間は稀にいる…

 世の中、広いと思うと同時に、どうして、その能力で、上に上がりたいと思うのか、甚だ疑問に思う…

 それは、おそらく、諏訪野伸明も、同じ…

 私と同じ考えのはずだ…

 ゆえに、二人は、惹かれ合う…

 まるで、磁石のように、惹かれ合った…

 詰まるところ、考え方が似ているのだ…

 似ているから、惹かれる…

 似ているから、安心できる…

 それだけだった…

 「…しかし、そんな諏訪野さんを追い落とそうとする輩(やから)が現れた…」

 ナオキが、言った…

 「…しかも、それが、自分の母親の出身母体だというから、開いた口が、塞がらないというか…諏訪野さんが、悩むのも、わかる…」

 私は、ナオキの言葉に、興味を惹かれた…

 おそらくは、ナオキは、私が、知っている五井家の内紛の内幕よりも、はるかに、詳しく知っていると、確信したのだ…

 「…諏訪野さんの母親の出身母体…」

 私が、わざと、言うと、

 「…五井東家というらしい…」

 と、即座に、ナオキが反応した…

 しかも、

 「…菊池…菊池リンちゃんと、関係が深いらしい…」

 ナオキが、続ける…

 菊池リン…

 五井家が、私につけたスパイ…

 が、私は、それに気付かず、妹のように、彼女を可愛がった…

 その結果、私の動静は、丸裸にされた…

 それを、思い出すと、今さらながら、自分の愚かさが、恥ずかしくなる…

 まったくの無防備で、彼女に接していた、自分の愚かさに、腹が立つ…

 「…そして、その五井東家の人間が…」

 「…この病院の理事長、菊池冬馬と言うんでしょう…」

 私は、言った…

 ナオキは、驚いて、私を見た…

 「…なんだ、綾乃さん、知ってたんだ?…」

 「エエ…」

 私は、言った…

 「…だったら…」

 ナオキが、言いかけたところで、

 「…アナタが、どこまで、知ってるか、知りたかったの…」

 と、言った…

 「…テストの答え合わせのようなものよ…」

 「…どういう意味?…」

 「…お互いが、最初に、答えを言っては、ダメでしょ? どっちかが、しゃべって、それから、もう一方が、答えを言う…そうしないと、どっちが、どれだけ、そのことを知ってるか、わからない…」

 「…なるほど…」

 「…だったら、これは、どうかな…その菊池冬馬理事長のお父さんが、国会議員の菊池重方(しげかた)氏だと知っているかな?…」

 「…菊池重方(しげかた)?…」

 その名前は聞いたことがある…

 たしか、国会でも、それなりに、知られた人物だ…

 誰でも、そうだが、あまたいる国会議員の中でも、世間に知られた人間は、一握り…

 大抵の人間は、世間に知られていない…

 だから、知名度のあるテレビキャスターや芸能人が、自民党や野党に誘われて、選挙に出る…

 選挙に勝てる確率が高いからだ…

 それでいて、選挙に当選しても、今までよりは、はるかに、露出がなくなる…

 国会議員としては、実績がないからだ…

 残念ながら、これが、現実だ…

 「…ということは、その菊池重方(しげかた)さんが、黒幕?…」

 私は、はっきりと、口にした…

 「…たぶん…」

 曖昧に言葉を濁した…

 私はナオキの物言いに、疑問を感じた…

 だから、

 「…どうして、そんな言い方をするの?…」

 と、聞いた…

 ナオキは、笑いながら、

 「…これでも、ボクは、会社の社長だよ…」

 と、返答した…

 「…どういう意味?…」

 「…つまりは、確実に裏が取れないと、口にしないということ…」

 「…」

 「…諏訪野さんと、何度か、飲んだときに、その話題になったが、諏訪野さんは、明確には、言わなかった…ただ…」

 「…ただ…なに?…」

 「…もしかしたら、諏訪野さんは、綾乃さんのことを、思って、あえて、言わなかったのかもしれない…」

 「…どういう意味?…」

 「…この五井記念病院の理事長、菊池冬馬は、国会議員、菊池重方(しげかた)の息子…綾乃さんは、その病院に入院している…」

 「…」

 「…ある意味、綾乃さんを人質に取られている…だから、諏訪野さんは、あえて、菊池冬馬を刺激しないようにしているんじゃ…」

 「…まさか…」

 私は、ナオキの推測を一蹴した…

 「…たかが、知り合いの女が、入院しているぐらいで、そんな気遣いをするはずが…」

 「…ただの知り合いの女じゃないよ…」

 「…どういうこと?…」

 「…おそらく、諏訪野さんにとっては、綾乃さんは、代わりの効かない女性だと思う…」

 「…そんなこと…」

 「…あるわけないって、言いたいわけ?…」

 「…」

 「…はっきりと、口にしないが、諏訪野さんは、綾乃さんを、そう思ってると、思う…」

 私は、ナオキの言葉に、考え込んだ…

 しばし、間を置いて、出てきた言葉は、

 「…私は、あと何年生きるか、わからない…」

 というものだった…

 「…そんな女を相手にしても、時間の無駄になるだけ…ナオキ…アナタ、今度、諏訪野さんに会ったら、そう言ってあげて…」

 私の言葉に、ナオキが、真剣な表情になった…

 「…綾乃さん…」

 「…なに?…」
 
 「…綾乃さんが、この病院に入院したのを知ったとき、諏訪野さんが、真っ先に、なにをしたか、知ってる?…」

 「…なにをしたの?…」

 「…この病院の理事長、菊池冬馬に連絡して、この病院の一番腕の利く医者を、綾乃さんの担当にしてくれと、頼んだそうだ…」

 「…」

 「…それほど、綾乃さんを、大切に思ってる…」

 私は、

 「…」

 と、言葉もなかった…

 私の担当の長谷川センセイが、優秀なのは、わかる…

 想像がつく…

 しかし、それは、この病院の理事長、五井家の当主、諏訪野伸明の知人だからと、思っていた…

 五井家の人間に頼まれたから、この病院で、もっとも、優秀な医者を担当にしたのだろうと、想像がついた…

 しかしながら、そうではなかった…

 なにより、自分の当主就任に、難癖をつける人物の息子が理事長を務める病院に、私が、入院しているとは、思わなかった…

 「…一体、私は、どうすれば?…」

 つい、口に出した…

 つい、言葉に出した…

 言わずには、いられなかった…

 「…どうすればいいの?…」

 自分に歯向かう、一族の運営する病院に、私が、入院している…

 それは、まるで、人質を預けるようなもの…

 諏訪野伸明が、自らの弱点を晒すようなものだからだ…

 「…転院…」

 とっさに、思った…

 「…どこか、別の病院に、転院の手続きを、取ってもらえない…ナオキ…」

 私は、言った…

 私という存在が、諏訪野伸明の負担になっていると思うと、耐えられなかった…

 今すぐにでも、この病院を出てゆきたい…

 そんな気持ちになった…

 「…アナタの力で、どこか、いい病院を見つけて、そこに私を転院させて…お願い…」

 私の願いに、ナオキは、呆れた…

 「…綾乃さん…落ち着いて…」

 ナオキが、まるで、子供に言い聞かすように、私に言った…

 「…バカなことを言わないで…」

 「…バカなこと? …どうして、バカなことなの?…」

 「…諏訪野さんの気持ちを考えて…」

 「…諏訪野さんの気持ちを考えてるから、一刻は早く、転院したいの…諏訪野さんに迷惑をかけたくないの?…」

 「…迷惑? …逆だよ…」

 「…どういうこと?…」

 「…好きな女が、入院して、力になれるんだ…諏訪野さんは、喜んでいると思う…」

 「…そんなバカなこと…」

 「…バカなことでも、なんでもないよ…これが、綾乃さんが、諏訪野さんの立場なら同じ…好きな男が入院して、自分の力で、いい病院に入院させることができる…力になれるんだ…それが、できる機会なんて、滅多にない…」

 私は、ナオキの言葉に、言葉もなかった…

 たしかに、そう言われれば、わかる…

 そう言われれば、納得する…

 だが、やはり、私という存在が、諏訪野伸明の足かせになっている事実は、変わらないと思う…

 それを、考えると、心が重かった…

 が、

 次の言葉は、私の負担を軽くするものだった…

 「…ただ、やはり、諏訪野さんが、明確に、菊池重方(しげかた)が、敵と断言しないのは、ボクと同じかもしれない…」

 「…どういうこと?…」

 「…菊池重方(しげかた)が、目に見える敵という形で、現れたのかもしれないが、それ以外にまだ、誰が、敵なのか、よくわからないのかもしれない…だから、はっきりと口にしない…ボクが、経営者として、はっきりと、わからないことに、アレコレ、口を挟まないのと、同じだ…」

 そう言えば、思い出した…

 先日、諏訪野伸明が、私の病室にやって来たとき、

 「…敵は、冬馬じゃない…冬馬の背後にいる輩(やから)だ…」

 と、言った…

 これは、正確には、誰だか、わかっていないのではないか?

 掴めていないのではないか?

 だから、あえて輩(やから)と、曖昧な表現をしたのではないか?

 私は、その可能性に気付いた…

 つまり、五井家内で、内紛が、勃発…

 しかし、現時点で、誰が敵で、誰が味方か、わからないのではないか?

 五井十三家の誰が敵で、誰が味方か、わからないのではないか?

 だから、動けない…

 迂闊(うかつ)に動いて、足を取られるようなことがあっては、困る…

 足元をすくわれるようなことがあっては、困るからだ…

 だから、安易に動けない…

 私は、その事実に気付いた…

 諏訪野伸明が、陥っている現実に気付いた…

 諏訪野伸明の直面している現実に、同情した…

 一難去ってまた一難…

 本当なら、すでに、諏訪野伸明が、五井家の当主に就任することで、五井家の内紛は、すでに、終わったはずだった…

 それが、まだ、続いているとは?

 私、寿綾乃が、死んだと思ったのに、生きていたのと、同じで、まだ、内紛は、終わってはいなかった…

 続いていた…

 それが、驚きだった…

 まさに、ちゃぶ台返し…

 最初から、やり直しだった…

                

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