第98話

文字数 6,296文字

「…まさに、五井の女帝…」

 昭子が、和子に、言った…

 「…和子…アナタと、私は、瓜二つ…だから、五井の女帝と呼ばれていたのが、世間では、私だと、勘違いした人間が、多かった…」

 「…」

 「…実際、五井家と親交のある、政界、財界の著名人の中にも、誤解するひとがいた…私たち二人とも、姿形は、そっくり…どこかのパーティーで、和子…アナタを見て、そして、五井家で、私を見る…当然、誰もが、別人だとは、思わない…」

 「…」

 「…なにより、私は、五井家当主、建造の妻…当たり前だけれども、五井の女帝と呼ばれた人物がいれば、当主の妻だと、世間は、思う…誤解する…」

 「…」

 「…だけれど、実際は、当主の弟、義春の妻…それが、五井の女帝の正体だった…」

 昭子が、ゆっくりと、説明する…

 が、

 わからなかった…

 冷静に、考えれば、わからなかった…

 どうして、当主の妻ではなく、当主の実弟の妻が、五井の女帝なのだろう…

 考えてみれば、不思議だった…

 それは、ユリコも、思ったらしい…

 「…ちょ…ちょっと…和子さんとやら…」

 ユリコが、質問した…

 「…どうして、アナタが、五井の女帝なの? 女帝っていうのは、普通、五井の当主の妻なんじゃ…」

 「…簡単ですよ…」

 答えたのは、和子ではなく、昭子だった…

 「…簡単って?…」

 と、ユリコ…

 「…主人の建造は、五井家全般のことは、私ではなく、この和子に相談していたからです…」

 「…エッ?…」

 ユリコが、絶句した…

 …まさか?…

 …、まさに、まさか、だ…

 「…ウソォ!…」

 と、声を上げたのは、またも、ユリコだった…

 私は、不思議だった…

 こんなとき、

 「…ウソォ!…」

 と、声を上げるのは、佐藤ナナだと思ったからだ…

 若い、佐藤ナナの役割だと、思ったからだ…

 が、

 佐藤ナナは、なにも、言わなかった…

 それで、気付いた…

 当たり前だが、佐藤ナナは、菊池重方(しげかた)の娘…

 重方(しげかた)は、この昭子、和子、一卵性姉妹の、年の離れた弟…

 つまり、五井家内を熟知している…

 だから、本当の五井の女帝は誰か? 

 知っていたということだ…

 私は、それを思った…

 「…主人の建造は、この和子を信頼していた…また、こういってはなんだけれども、和子の夫である、義春さんも、死んだ秀樹に似て、実力が、それほどないにもかかわらず、上昇志向が、強い男だった…だから、建造と和子は、私の目を盗んで、密会した…建造は、私のことを…この和子は、義春さんのことを、相談したのでしょう…また、それに限らず、二人して、五井の全般を話し合ったのだろうと思う…」

 「…」

 「…決して、この和子と、主人の建造が、不倫をしていたとは、思わない…でも、やはり、妻である、私にしてみれば、いい気はしなかった…それで、不倫して、冬馬が生まれ…」

 …そういうことか?…

 私は、思った…

 …そう言われれば、わかる…

 五井は、先代当主、建造と、建造の義理の妹の和子が、仕切って来た…

 除け者にされた、昭子が、怒るのは、わかる…

 不満が、堪るのは、わかる…

 だから、不倫した…

 その結果、冬馬が、産まれた…

 しかしながら、昭子が不倫したのは、夫である建造にも、原因がある…

 だから、昭子の言葉通り、建造が、激怒しなかったとすれば、その原因が、自分にもあると、考えたからだろう…

 建造は、穏やかな人物だった…

 私も生前、何度か会ったが、決して、自分を飾らす、威張らず、五井家の当主とは、思えないほど、腰の低い、謙虚な人物だった…

 そして、それを、この和子は、気に入ったのではないか?

 ふと、気付いた…

 この和子は、姉の昭子同様、やり手の女傑…

 いわば、集団を仕切るリーダーだ…

 が、

 建造は、決して、そんなタイプではなかった…

 いわば、黙々と自分のなすべきことを、やるべきタイプ…

 だから、昭子、和子の姉妹とは、真逆のタイプだ…

 だからこそ、気に入ったのかもしれない…

 私は、思った…

 同じタイプは、気が合うと、思いがちだが、意外と反発するものが、多い…

 磁石ではないが、同じNとN、SとSとでは、反発する…

 性格が、似すぎていると、かえって、ウザいというか…

 身近に、もう一人の自分が、いるのが、嫌なのかもしれない…

 自分そっくりの人間が、身近にいるのが、嫌なのかもしれない…

 だから、むしろ、真逆なタイプの方が、うまくいくことも多い…

 意外なことだが、これは、事実だ…

 案外、世間に多い…

 だが、そこまで、考えて、ふと、思った…

 だったら、この昭子は、亡くなった主人の建造のことを、どう思っていたのだろう?

 妹の和子のように、相性が、良かったのか?

 それとも、真逆に、反発したか?

 どっちだったのだろう…

 疑問だった…

 が、

 それは、すぐに、わかった…

 「…建造は、周囲に、波風を立てない男でした…」

 と、昭子が、告げたからだ…

 「…建造は、誰にも気配りのできる立派な男でした…もちろん、私にも、です…」

 「…」

 「…私が、建造以外の男の子供が、お腹に宿っていたことを知ったときも、なにも、言いませんでした…無論、腹の中では、忸怩たる気持ちもあったでしょう…でも、建造の立場では、今さら、私との結婚を、ひっくり返すことは、できなかった…黙って、受け入れるしか、なかった…」

 「…」

 「…和子…アナタは、誤解しているようね?…」

 「…誤解? …なにを、誤解しているの?…」

 「…私が、建造を愛していないと、思ったでしょ?…」

 「…」

 「…私は、建造を誰よりも愛した…その結果、秀樹をいち早く、五井の後継者から、外した…」

 「…」

 「…秀樹は、策士で、上昇志向の塊だった…いわば、五井家の中で、悪い部分を、持って生まれた男だった…だけれども、建造と、私の間に生まれた息子…正直、どうしていいか、わからなかった…扱いに困った…」

 「…」

 「…そして、それは、建造もまた同じだった…同じように、秀樹を見ていた…だから、本当ならば、いち早く排除するしかない…だけれども、自分の血を引いた息子…だから、悩んでいた…」

 「…」

 「…結局、建造の後押しをする形で、秀樹を、後継者から、外そうとした…その矢先に、建造が、急死して…」

 昭子が、内実を告白した…

 「…そして、それは、冬馬も同じだった…」

 「…どう、同じだったの?…」

 ユリコが、訊いた…

 「…私は、冬馬を愛した…」

 「…」

 「…冬馬の不器用さを愛した…」

 「…ちょっと…不器用さを愛したって、どういうこと?…」

 と、ユリコ…

 …たしかに、意味がわからない…

 「…秀樹は、器用に立ち回る男だった…」

 昭子が、告げた…

 「…能力は、決して、ずば抜けては、いない…が、バカではない…だから、いけなかった…うまく、周囲に立ち回って、利益を得ようとする人間だった…つまり、良くも悪くも、人間関係が、巧みだった…」

 「…」

 「…だけれども、冬馬は、真逆…話していても、どれほど、悪い男ではない…だけど、結果として、孤立する…人間関係が、うまく築けない…空回りする…」

 「…」

 「…それを、見ているのが、辛かった…」

 昭子が、心情を吐露した…

 「…だから、五井記念病院の理事長に推した…」

 「…それって、どういう意味?…」

 と、ユリコ…

 「…病院の理場長ならば、会社とは、違って、実績は、求めないと、思った…」

 「…」

 「…会社では、たとえ、五井一族といえども、実績が、求められる…そして、人間関係が、苦手な冬馬に、会社の集団行動は、難しいと思った…それならば、病院の肩書だけの理事長の方が、うまくいくと思って…和子にも相談して…」

 「…」

 「…でも、うまくいかないものね…冬馬は、ただ、理事長の肩書だけなのに、張り切って、実績を残そうとして、かえって、周囲から、孤立して…」

 「…」

 「…バカな子…」

 昭子が、嘆息した…

 「…バカな子…なにもしなければ、よかったのに…ただ、理事長という役職だけで、周囲に、担がれていれば、よかったのに…」

 昭子が、涙を流した…

 私も、ユリコも言葉もなかった…

 …そうか?…

 …そうだったのか?…

 今さらながら、この昭子の目論見がわかった…

 人間関係が、苦手な冬馬に、わざと、会社の成績が、重視されない、五井記念病院に、配属させたのだ…

 会社に配属されれば、嫌でも、成績が求められる…

 会社は、チームワークが大事…

 学校の勉強ではないのだから、個人だけで、動くのは、無理…

 それが、苦手な冬馬が、会社生活を続けるのは、困難…

 だから、肩書だけ与えて、五井記念病院に、理事長として、押し込んだのか?

 ようやく、納得が、いった…

 と、

 そのときだった…

 「…この世の中に、スーパーマンは、いないわ…」

 と、突然、誰かが言った…

 私は、その人物を見た…

 和子だった…

 「…勉強ができれば、仕事ができるわけじゃない…ある会社で、成功しても、別の会社では、成功しない…出世できない…そんな例は、世間に、ありふれている…」

 「…」

 「…成功したのは、たまたま、その人間に、会社や職場の雰囲気や、仕事が、合っていたから…それだけに、過ぎない…むろん、能力がなければ、話にならないのだけれども、それでも、会社や仕事が、その人に合うか、否かは、運の要素が大きい…」

 「…」

 「…だから、どんな職場も、どんな仕事もできる人間は、この世の中に、いない…スーパーマンは、この世にいない…いるとすれば、それは、物語の中だけ…架空の話の中だけ…」

 和子が、昭子の胸中を補足した…

 冬馬のことを、補足したのだ…

 冬馬が、決して、ダメな人間では、ないと、言いたかったのかも、しれない…

 が、

 それに、あろうことか、昭子が、口を挟んだ…

 「…いえ、スーパーマンは、この世にいる…」

 と、断言した…

 「…スーパーマンが、いる? …ウソォ?…」

 ユリコが、口を挟んだ…

 「…どこにいるの?…」

 「…ここにいる…この和子が、そう…」

 昭子が、断言した…

 「…和子さんが?…」

 「…そう…子供の頃から、優秀で、なんでも、そつなくできた…結婚しても、建造の良き相談相手となり、事実上、五井を指揮した…」

 「…」

 「…まさに、五井の女帝…」

 「…」

 「…そして、今、私は、その女帝に、五井家の追放を宣言された…」

 しんみりと、告げた…

 「…すべて、終わった…」

 昭子が、明るく、笑った…

 屈託が、なにもなかった…

 「…もっとも、冬馬が、自殺した時点で、私の人生も、終わったも、同じだった…」

 「…姉さん?…」

 和子が、声をかけた…

 「…冬馬の件もあって、いてもたってもいられなくなった…亡くなった父や母や、和子との約束を忘れたわけじゃない…でも、どうしても、やり残したことがあった…」

 「…やり残したこと?…」

 「…五井の行く末…」

 「…」

 「…もはや、残っているのは、伸明のみ…伸明のためにも、私が生きている間に、禍根の根は、断たねばならなかった…」

 「…禍根の根って?…」

 と、和子…

 「…重方(しげかた)のことよ…」

 「…」

 「…これ以上、重方(しげかた)に、五井を、かき回されることは、させたくなかった…」

 「…」

 「…そうでしょ? …佐藤さん?…」

 いきなり、昭子は、佐藤ナナに、話しかけた…

 佐藤ナナは、

 「…」

 と、なにも、言わなかった…

 「…さっき、アナタとの養子縁組を解消すると言ったのは、これ以上、重方(しげかた)に、五井と関りを、持たせない意味もある…アナタを、本家の養女としておけば、再び、重方(しげかた)は、五井に舞い戻り、なにか、よからぬことをするでしょう…だけれども、それは、絶対させない…させては、ならない…」

 昭子が、力を込めた…

 「…これは、以前、すでに、和子にも、相談しています…」

 「…姉さん…」

 「…私の一生は、五井に捧げた…これは、さっきも言ったように、ウソではありません…」

 「…」

 「…ただ、やり過ぎたのかもしれません…いえ、たしかに、やり過ぎたのでしょう…なにしろ、たった今、五井の女帝が、私のクビを切りにやってきたのですから…」

 昭子が笑った…

 そして、それだけ言うと、ゆっくりと、席を立った…

 部屋を出て行こうとした…

 が、

 部屋を出てゆく際に、足を止めて、振り返った…

 そして、

 「…寿さん…」

 と、私に声をかけた…

 「…伸明のこと…本当に、ごめんなさい…」

 と、丁寧に、腰を折って、私に詫びた…

 私は、思わず、

 「…とんでもありません…」

 と、席を立って、頭を下げた…

 「…でもね…寿さん…」

 「…ハイ…」

 「…以前、アナタに言った、アナタに、伸明と、結婚してもらいたい気持ちに、ウソは、なかった…これだけは、信じてもらいたい…」

 「…」

 「…アナタに、伸明といっしょになって、五井を支えてもらいたかった…」

 「…」

 「…でも、男と女のことは、わからない…不倫を何度もした私が、こんなことを言うのは、なんだけれども、誰が見ても、お似合いの美男美女のカップルでも、互いに好きになれないことは、結構ある…」

 「…」

 「…気が合うのだけれども、互いに、ときめかない…これでは、恋は生まれない…」

 昭子が、苦笑した…

 「…寿さん…」

 「…ハイ…」

 「…オーストラリアに行きなさい…」

 突然、昭子が言った…

 意味がわからなかった…

 「…オーストラリアへ? …どうして?…」

 つい、口に出した…

 「…俳優の西郷輝彦さん…」

 「…西郷輝彦さん…ですか?…」

 「…そうです…西郷さんは、日本では、認められていない、最先端の癌治療で、癌を撲滅したそうです…」

 「…エッ? …癌細胞を撲滅? …ですか?…」

 「…そうです…カラダの中にあった癌細胞が、すべて、消滅したそうです…」

 「…」

 「…五井西家の長谷川センセイ…彼に頼んで、寿さんが、オーストラリアで、西郷さんと、同じ治療を受けられるように、手配に動いてくれてます…ぜひ、一刻も早く、オーストラリアに、飛びなさい…グズグズしては、ダメ…ことは、一刻を要するのです…」

 昭子が、強い口調で、私に命じた…

 が、

 私は、その申し出に、

 「…ハイ…」

 と、答えるわけには、いかなかった…

 最先端の癌の治療を勧めてくれるのは、嬉しい…

 が、

 それには、当然、費用がかかるだろう…

 なにしろ、オーストラリアでは、日本の保険が、効かない…

 きっと、途方もない費用がかかるに違いない…

 そんな費用は、とてもじゃないが、私では、工面できないと、思ったのだ…

 だから、答えられなかった…

 なにも、言えなかった…

 そんな思いが、私の表情に出たのだろう…

 「…心配しなさんな…」

 と、昭子が続けた…

 「…費用は、すべて、五井が、持つ…伸明のことで、あれだけ、寿さんに、迷惑をかけたんだ…それぐらいしても、当然…それじゃ、足りないぐらいさ…」

 昭子が、明るく言って、

 「…和子…それで、いいだろ?…」

 と、妹の和子に、同意を求めた…

 「…これが、私が、五井を去るにあたって、最後にすること…文句はないね…」

 「…わかりました…」

 和子が、同意した…

 「…数日以内で、この家は出てゆく…安心しな…二度と、五井には、戻らない…和子、あとは、アンタが、伸明の良き相談相手として、いっしょに、五井を盛り立ててくれ…」

 そう、言うと、バタンと、扉を閉めた…

 そして、それが、昭子の姿を見た、最後だった…

                
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