第4話

文字数 11,321文字

 いささか、疲れた…

 これが、正直な感想だった…

 佐藤ナナという看護師のことだ…

 東南アジア系の美人のハーフ…

 それ自体は、なんということはない…

 ただ、鋭い…

 おそらく、手ごわい…

 どうしても、テレビや映画の勧善懲悪のドラマではないが、敵、味方で、相手を区別してしまう…

 これも、また、寿綾乃という虚飾な人生を歩んできた報いというか…

 それが、習い性となっている…

 「…どうしたの…綾乃さん?…」

 私の様子に気付いた、傍らのナオキが、聞いた…

 「…菊池さん…」

 とっさに、言った…

 「…菊池さん?…」

 「…菊池リン…彼女のことを、思い出したの?…」

 菊池リン…

 五井家が、私につけたスパイ…

 ちょうど、さっきの、佐藤ナナという看護師と同じく、可愛く、そして、どこか、頼りない…

 いわば、理想の妹だった…

 しかし、実際は、五井家が、私の動静を探るために、私につけたスパイだった…

 私は、あのジュン君の運転するクルマにはねられる直前に、その事実を知った…

 菊池リンが、本来、立ち入ってはいけない、社長室にいたからだ…

 それまでは、看護師の佐藤ナナ同様、その愛くるしく、頼りない外観に、すっかり、騙されていた…

 気を許していた…

 それゆえ、無防備…

 まったくの無防備だった…

 警戒することなく、アレコレと話した…

 その結果、私は、丸裸にされた…

 私の会社内の動静は、菊池リンに筒抜けだった…

 私は、それを思い出した…

 と、そのときだった…

 「…菊池さんは、退職したよ…」

 ナオキが、言った…

 「…退職?…」

 一瞬、驚いたが、さもありなん…

 彼女の目的が、寿綾乃の監視ならば、すでに、その目的は果たした…

 それゆえ、会社を退職したに違いない…

 そう思った…

 「…突然だった…」

 残念そうに、ナオキが言った…

 「…理由は? …退職理由は、言いましたか?…」

 「…それは、ちょうど、諏訪野伸明氏が、五井グループの総帥に就任するので、そのお手伝いというか、五井グループをまとめるのに、協力しなさいと、祖母から言われたと言っていた…」

 菊池リンの祖母?

 自殺した、諏訪野義春氏の妻である、和子のことだ…

 すぐに、思い出した…

 一度会ったきりだが、女傑という言葉が当てはまった…

 私、寿綾乃など、まるで、問題外の女傑…

 おそらくは、持って生まれた能力のみならず、くぐった修羅場の数も、私など、及びもしないのだろう…

 そして、それを、考えると、思わず、身振るいした…

 もしかしたら、五井家は、私、寿綾乃を決して、許さないのかもしれない…

 それを、考えると、ただ、ただ、怯えた…

 寿綾乃を名乗った私を決して、許さないのかもしれない…

 日本を代表する財閥が、仮に、私を許さないというのなら、私は、この日本に、身の置き所がなくなる…

 それを思った…

 「…でも、寿さんは、ラッキーだ…」

 いきなり、ナオキが言った…

 …ラッキー?…

 …ラッキーセブン?…

 …まさか、ナナ?…

 …佐藤ナナ?…

 私が、考えていると、

 「…この五井記念病院だよ…」

 と、ナオキが言った…

 「…どういう意味?…」

 「…諏訪野伸明氏が、寿さんのために、手配してくれたんだ…」

 「…諏訪野さんが?…」

 驚いた…

 まさか、諏訪野伸明さんが、手配してくれたとは、思わなかった…

 ということは?

 ということは、どうだ?

 敵ではない?

 私は、五井家から、敵認定されてない?

 とっさに、思った…

 諏訪野伸明さんは、五井家の総帥…

 その総帥が、私を五井記念病院に入れる手配をしてくれた…

 と、ここまで、考えて気付いた…

 諏訪野伸明は、和子の孫ではない…

 あの女傑の孫ではない…

 諏訪野伸明は、あの女傑の姉の子供…

 だから、諏訪野伸明が、私を許したとしても、あの和子が、私を許すか、どうかは、わからない…

 二人は、当たり前だが、別人…

 だから、わからない…

 ただ、普通に考えれば、諏訪野伸明は、私を許すのだろう…

 五井本家を結果として、乗っ取った五井分家出身の諏訪野伸明は私を許すだろう…

 それは、同病相憐れむというか…

 私と諏訪野伸明は、似た者同士だからだ…

 寿綾乃を名乗った私と、諏訪野伸明は、境遇が似ている…

 どちらも、本来あり得ない立ち位置にいる…

 それが、直観的に、わかっていたのだろう…

 出会って、すぐに、惹かれた…

 が、

 それだけ…

 まだ、男女の関係ではない…

 キスをしただけの関係だ(笑)…

 それを、考えると、まるで、子供…

 まるで、高校生か、なにかのようだ…

 30歳を過ぎた女と、40歳を過ぎた男が、ただ、キスをしただけ…

 いまどき、中学生や、高校生に聞いても、

 「…それから、どうしたの?…」

と、聞いてくるに違いない…

ただ、キスを交わしただけ…

それを聞いて、拍子抜けするというか(笑)…

普通は、誰もが、その後に、セックスが、付いてくると、考えるものだ(笑)…

それが、恋とは、誰もが、考えない(笑)…

あるいは、恋かもしれないが、それは、子供の恋(笑)…

大人の恋は、カラダの関係が付いてくるものだ(笑)…

私は、思う…

カラダの関係か?

それを、考えると、たった今、ベッドに横になった、自分のカラダを考えた…

癌にかかったにも、かかわらず、それほど、痩せていない…

だから、誰も周囲の者も、私が、癌にかかっていることに、気付かなかった…

それは、今、傍らにいる、藤原ナオキも同じ…

若い頃は、互いに飽きるほど、カラダを重ねた…

最近では、数えるほどだったが、ナオキは、私が、癌に侵されている事実に、気付かなかった…

私は、それを思った…

「…なにを、考えているの?…綾乃さん?…」

「…別になにも…」

反射的に、言った…

すると、ナオキが、

「…今日は、ボクが、綾乃さんと、名前で言っても、怒らないんだね…」

と、笑った…

「…どういうこと?…」

「…だって、いつも、会社で、私は、寿です…綾乃という名前で、呼ばないで下さいって、ボクを叱るのに…」

「…ナオキ…ここは、会社じゃないわ…だから、綾乃さんと、いってもOK…それに、もう、私は、アナタの秘書じゃない…」

私の言葉に、ナオキが、ニヤッと笑った…

「…いや…秘書さ…」

「…どういうこと?…」

「…あの日、綾乃さんが、会社を辞めるといって、会社を飛び出して、ジュンの運転するクルマにはねられた…それを知って、会社がてんやわんやの大騒ぎになって、まだ、綾乃さんの退職手続きもなにも、やってない…だから、綾乃さんは、今も、FK興産の社員…そして、ボクの秘書…」

「…そんな…」

私は、唖然とした…

「…そして、それが、綾乃さんにも、よかった…」

「…よかった? …どういうこと?…」

「…お金だよ…この病院の入院費…会社員であれば、会社で、入院費等を補填できる…でも、それが、会社を辞めていて、個人で、払うとなると、大変だ…フジテレビの笠井アナウンサーが、フジテレビを退職して、すぐに、癌が見つかった…フジテレビを退職しなければ、フジテレビを、一年や二年、休職しても、給料が払われたりしただろう…だが、会社を辞めて、フリーとなると、それもできない…笠井さんに、面識はないが、フジテレビを辞める前に癌が発見できれば、よかったと、思う…それと同じさ…」

…たしかに、それは、わかる…

偶然とはいえ、会社を辞めると啖呵を切ったというか、一方的に、宣言して、会社を飛び出した…

そして、その直後、ジュン君の運転するクルマにはねられた…

だから、この藤原ナオキも慌てて、私、寿綾乃の退職手続きを取る暇もなかったのだろう…

それが、幸いしたということか…

私は、考える…

そして、それを、考えたとき、ジュン君のことを、思った…

ジュン君は、ずっと、この藤原ナオキの子供だと思っていた…

純粋に血の繋がった息子だと、信じていたに違いない…

にも、かかわらず、違った…

一体、それを、この藤原ナオキは、どう思っているのだろう…

聞いてみたくなった…

そして、それを聞いてみることは、私には、おせっかいでも、なんでもなかった…

いわば、私は、ジュン君の母親代わり…

ユリコに代わって、ジュン君を育てた…

だから、純粋に、血の繋がった父親と思われた、ナオキに、聞いてみることは、おせっかいでも、なんでもなかった…

「…ナオキ?…」

「…なに? …綾乃さん?…」

「…ジュン君のこと? …アナタ、どう思っているの?…」

直球で、聞いた…

ナオキの顔が明らかに、曇った…

困惑している様子だった…

「…どう…思っていると、言われても…」

戸惑った表情だった…

「…アイツが…ジュンが、ボクの血の繋がった息子じゃないと、知ったときは、驚天動地といえば、大げさだけど、考えもしないことだったから、ただ、驚いた…」

「…」

「…そして、その直後、ジュンが、綾乃さんを、クルマで、轢き殺そうとしたことを、知った…ボクは、もうパニック状態で、なにが、なんだか、わからなかった…その直後に、ジュンが、警察に出頭して、何度か、拘置所に、面会にも行った…」

「…それで、ジュン君は、一体なにを話したの?…」

「…ただ、涙を流しながら、ごめんなさいと…」

「…」

「…綾乃さんにも、取り返しのつかないことをしてしまったから、ごめんなさいと…それから、ボクにも、本当は、血の繋がった父子じゃなかったにもかかわらず、面倒をみてくれて、ごめんなさいと…」

ナオキが、困惑の表情で、言う…

しかしながら、いかにも、ジュン君らしい…

気が弱く、根が純情な、ジュン君らしいと、思った…

ジュン君が、泣きながら、ナオキに詫びる拘置所の光景が目に浮かぶようだ…

容易に想像できる…

それを、思うと、思わず、ニヤリとした…

そして、私の笑みに、ナオキが、すぐに、気付いた…

「…どうしたの? …なにが、おかしいの? …綾乃さん?…」

「…だって、今、ナオキが言った光景が、あまりにも、簡単に想像できちゃうから…」

私が、笑って言うと、一呼吸おいて、

「…たしかに…」

と、ナオキも笑った…

そして、聞いた…

「…これから、どうするの? ジュン君のこと?…」

私の質問に、しばし、時間を置いて、

「…まだ、なにも…」

と、答えた…

「…なにも、決めていない…」

「…そう…」

「…とりあえず、裁判にかかる費用だとかは、出すけど…それから、後…ジュンが、刑務所から出てから、どうするかとか…まだ、なにも決めていない…」

「…」

「…正直、どうするかは、まったく、わからない…子供の頃から、自分の子供だと信じて、育ててきた…だから、愛情はある…でも…でも、綾乃さんを、クルマで轢き殺そうとするなんて…」

ナオキが、当惑する…

「…まさか、そんなことをするなんて、思わなかった…そして、ジュンが、ボクの血の繋がった息子ならば、許せるのかもしれないが、ちょうど、そのタイミングで、ボクと血が繋がってないことが、わかった…赤の他人だということがわかった…だから、どうして、いいか、わからない…ジュンには、純粋に怒りはある…なにしろ、綾乃さんを、轢き殺そうとしたんだ…でも、これまで、自分の息子として、育ててきた…だが、実は、血が繋がってないことが、わかった…だから、どうして、いいか、わからない…」

藤原ナオキが、激白する…

私は、苦悩に満ちたナオキの表情を見るにつけ、心底、この問題で、悩み続けたことが、容易に、想像できた…

すると、自然に、

「…考えないこと…」

と、私の口から、言葉が突いて出た…

自分でも、意外だった…

「…考え過ぎないこと…これは、ジュン君も同じ…悪いのは、ユリコさん…アナタたち二人が悩む話じゃない…」

私の助言に、ナオキは、耳を傾けた…

「…悪いのは、ユリコさん…この病室に来て、私に言いました…」

「…綾乃さんに? ユリコが、この病室に来た?…」

ナオキは、驚いた…

「…やはり、ジュン君の母親だからでしょう…ジュン君の裁判もあるし、私に、ジュン君を許す発言をしてもらいたかったんだと思う…そうすれば、少しでも、刑期が軽くなるから…」

が、この事実は、ナオキにとっては、思いもかけない出来事だったみたいだ…

「…ユリコが、そんなことを…」

と、繰り返す…

「…まさか、ユリコが、綾乃さんの病室にやって来るなんて…」

「…でも、これで、よかった…」

「…よかった? …なにが、よかったの?…」

「…これで、ユリコさんが、もう私に敵対しない…」

「…敵対しない?…」

「…裁判で、ジュン君を許すことをいえば、私に、今後、敵対しないって、断言したの…」

「…」

「…私は、あと何年生きるか、わからない…でも、ユリコさんが、常に、私を攻撃してくるのは、疲れる…これは、まさに、私にとって、渡りに船…願ったり、叶ったり…」

「…」

「…とにかく、私は、自分の残された時間は、自分のために使いたい…誰かのためじゃなく…」

「…」

「…これまで、寿綾乃として、生きることで、無用の敵を作った…五井家の人たちは、この先、私に牙を剥いてくるかもしれない…五井家の血を引くと思っていた、私が、赤の他人だった…五井家は、私を決して、許すことは、ないかもしれない…」

「…そんなこと…いくらなんでも、考えすぎだよ…綾乃さん…現に、この五井記念病院は、諏訪野伸明さんの指示で、こうして、今、綾乃さんは、入院しているじゃないか?…」

「…それは、そうだけど…」

「…何事も考え過ぎは、よくないよ…」

ナオキが、私を慰める…

しかし、ナオキは、知らない…

諏訪野伸明は、五井財閥の当主になったかもしれないが、実権があるかどうかは、わからない…

一度会っただけだが、あの菊池リンの祖母、和子は、紛れもない女傑だった…

彼女が、五井家の実質的なリーダーだとしても、私は、驚かない…

 彼女の姉であり、諏訪野伸明の母である、昭子とは、面識はないが、諏訪野伸明が、夫であった、今は亡き諏訪野建造の血の繋がった息子ではなかった負い目から、彼女は、五井家で、発言権がなかった…

 あるいは、意図的に発言しなかった…

 だから、ひとまず、彼女のことを置いておいて、菊池リンの祖母、和子の動静が気になる…

 果たして、彼女は、私、寿綾乃に対して、どう出るのか?

 あるいは、ユリコ同様、私に対して、彼女が、敵対的行動に出たときに、諏訪野伸明は、どうするのか?

 私、寿綾乃を守ってくれるのか?

 それとも、見て見ぬふりをするのだろうか?

 わからない…

 相手の出方が、まるで、わからない…

 私は、考える…

 そして、ナオキが、言うように、

 「…何事も考え過ぎは、よくない…」

 というのは、事実…

 いくら、考えても、答えの出ないことを、考え続けるのは、よくない…

 それに、なにより、私は、入院中…

 カラダに悪い(笑)…

 いや、

 そもそも、

 「…考えないこと…」

 と、ナオキに、最初に言ったのは、私ではないのか?

 私、寿綾乃ではないのか?

 私は、思った…

 それを思うと、思わず、

 「…プッ!…」

 と、吹き出した…

 「…な、なに? …なにが、おかしいの?…」

 と、ナオキ…

 「…だって、ナオキ…私が、最初、考え過ぎないことって、アナタに言ったのに、いつのまにか、私が、アナタに、考え過ぎは、良くないって、諭されるなんて…」

 私の言葉を聞いて、

 「…それは、そうだね…」

 と、ナオキが、相槌を打った…

 「…たしかに、笑える…」

 「…でしょ?…」

 私とナオキは、互いに、顔を見合わせて、笑った…

 それを見て、思った…

 思えば、私もナオキも、笑いのツボが、似ている…

 テレビを見ても、同じ場所で、笑う…

 会話もそう…

 互いに、同じように、考える…

 つまるところ、話が合うのだ…

 気が合うのだ…

 いかに、大金持ちのイケメンと、いえども、自分と話が、まったく合わないのでは、いっしょにいて、息が詰まる…

 互いに、息苦しいというか…

 どうして、いいか、わからないに違いない…

 世間で、誰もが羨む美男美女のカップルでも、その実、性格がまったく合わないのでは、いずれは、破局する…

 いっしょに、いることが、お互い、息苦しくなる…

 当たり前のことだ…

 互いに、やることなすこと、気に入らない…

 これが、自分と血が繋がった親や兄弟姉妹ならば、仕方ないと考えるが、恋人や夫婦は、他人…

 いっしょに、暮らさなければ、いいと、遅かれ早かれ、互いが、思うものだ…

 いや、

 もしかしたら、それも、違うかもしれない…

 美男美女のカップルといえども、そこに、お金が、絡むと、違うだろう…

 男女、いずれかが、お金持ちだった場合は、違うだろう…

 片方は、平民…

 そして、もう片方は、お金持ち…

 ならば、平民は、お金持ちを離したくないに違いない…

 だから、性格が、合わずとも、我慢する…

 普通は、そう思う…

 だが、どこまで、我慢できるか、だ…

 いずれは、爆発する(笑)…

 結婚して、離婚時に、財産の分与を狙うだろうが、普通は、そんなに、うまくいかない…

 甘くない…

 なぜ、甘くないと言えば、お金持ちは、人脈も広く、有能な弁護士等を、知っている場合が大半…

 それに、比べ、平民に、そんな知恵も、人脈もない…

 仮に、結婚できても、離婚時に、思うように、慰謝料は、取れないだろう…

 いや、

 そもそも、互いに、付き合っているときから、そんな相手の打算は、お見通し…

 ゆえに、結婚は、まずないと、考えるのが、普通…

 百歩譲って、仮に、結婚したとしても、金持ちと平民とでは、生まれ持った環境が、違う…

 金持ちは、金持ちの人脈がある…

 世間に知られた有能な人材を知っている場合が、大半…

 それに比べ、平民は、所詮、付け刃(やいば)の知識というか…

 本やネットで、知った知識程度に、過ぎない…

 だから、仮に結婚して、離婚となった場合は、お金持ちは、世間に知れた有能な弁護士を雇い、裁判に備えるだろう…

 それに比べ、平民は、ネットで調べた、ごく平凡な弁護士を頼む…

 すでに、勝負あった!

 互いに依頼した弁護士の質を見て、勝負あった、と、思う…

 それが、残念ながら、お金持ちと、平民の違いだろう…

 そして、この寿綾乃もまた、まったくの平民…

 それは、傍らにいる、藤原ナオキもまた同じ…

 たまたま、事業が当たり、お金持ちの仲間入りをしたかもしれないが、元は平民…

 つい十年ちょっと前までは、普通の生活だった…

 だから、生まれながらの金持ちとは、違う…

 生まれながらの金持ちとは、政界、財界と、いろんなところに、人脈のネットワークを張っている…

 ネットワークを持っている…

 父や祖父、さらには、曾祖父が、すでにお金持ちだったから、その繋がりから、生まれながらに、優れた人脈のネットワークを持っている…

 それは、身近にいえば、あの諏訪野伸明氏がそう…

 政界の麻生太郎代議士ではないが、生まれながらの金持ち…

 藤原ナオキのような成り上がりの金持ちではなく、生まれながらの金持ち…

 昨日今日成り上がった金持ちではない、純粋というか、生粋の金持ちというか…

 そもそも、出自が違う…

 五井は400年の歴史がある、お金持ち…

 藤原ナオキのようなポッと出とは、わけが違う…

 いつのまにか、諏訪野伸明さんのことを考えている自分に驚いた…

 そんな私に気付いたのだろう…

 「…なにを考えているの? …綾乃さん?…」

 と、ナオキが聞いてきた…

 やはり、腐れ縁というか(笑)…

 十年以上の付き合いは、伊達ではない…

 すぐに、相手が、なにか、考えていることが、わかる…

 「…諏訪野さんのこと…」

 と、私。
 
 「…諏訪野さん?…」

 「…ええ…」

 私は、短く言った…

 が、

 ナオキの次の質問は、私の予想を超えるものだった…

 「…綾乃さんは、諏訪野さんと、結婚したい?…」

 「…エッ?…」

 思わず、声に出した…

 あまりというか…

 あまりに、意外な質問だったからだ…

 一体、どうして、ナオキは、そんなことを言うのだろう…

 「…ナオキ…アナタ、頭は大丈夫?…」

 「…これは、失敬な…」

 ナオキが苦笑する…

 「…いや、綾乃さんが、諏訪野さんと結婚したいなら、ボクは、応援するよ…」

 ナオキが、真顔で言った…

 「…ボクは、綾乃さんの幸せを祈っている…」

 が、

 私は、ナオキの言葉に、直接反論しなかった…

 私が、諏訪野伸明さんに、惹かれているのは、確かだからだ…

 しかしながら、あと何年生きれるか、わからない…

 そんな、私が、諏訪野伸明さんと、結婚するなんて、夢のまた夢…

 だから、

 「…バカなことを言わないで…諏訪野さんんに失礼でしょ?…」

 と、ナオキを叱った…

 が、

 ナオキは、私に反論した…

 「…綾乃さん…自分の気持ちに素直にならなきゃ、ダメだよ…」

 と、優しく、私を諭した…

 「…好きなら好き…それを行動に出さなきゃ…」

 「…ナオキ…あと何年、私が生きれると思ってるの? アナタだって、私の病気のことは、知ってるでしょ?…」

 「…だからだよ…」

 「…どういう意味?…」

 「…せっかく生き残ったんだ…残りの人生は、自分の好きなことに使う…恋愛なら恋愛…それでいいじゃないか? …なにか、ひとつでもあれば、それで生きる張り合いができる…」

 「…うまいこと言うのね…ナオキ…いつから、そんなに口がうまくなったの?…」

 「…これでも、ボクは、綾乃さんの年上だよ…しかも、立派な上場企業の社長さ…」

 「…さすが、社長さんというところね…場数を踏んで、口がうまくなった?…」

 「…まあ、そういうところかな…」

 言い終えると、ナオキが、私に近づき、私の唇に、自分の唇を重ねた…

 私は、驚いた…

 まさか、入院先のベッドの上で、ナオキが、私に、キスをするとは、思わなかったからだ…

 時間は、わずかだったが、それでも、私に自分の唇を重ねてくるとは、思わなかった…

 ナオキが、離れると、

 「…ナオキ…アナタ…なんてことを!…」

 と、私は、ナオキを叱った…

 が、

 ナオキは、

 「…綾乃さんを、元気づけるためさ…」

 と、うそぶいた…

 「…キスをすれば、互いに、生きていることがわかる…カラダを重ねれば、互いの心臓の音が聞こえる…その音を聞けば、生きてることが、わかる…さすがに、この病院で、綾乃さんと、カラダを重ねることは、できないからね…」

 「…呆れた…随分、口がうまくなったのね…」

 が、ナオキは、それには、答えず、

 「…生きる目標を持つことさ…」

 と、だけ、言った…

 「…目標?…」

 「…恋愛でも、結婚でもいい…そうだ…なんなら、子供でもいい…綾乃さんも、まだ32歳だ…その歳なら、まだ何人も子供が産めるだろう…それを目標にすれば、生きる張り合いができる…」

 「…」

 「…大事なのは、なにか、目標を持つことだよ…」

 ナオキが繰り返した…

 「…ナオキ…私が、諏訪野さんと、結婚してもいいの?…」

 「…もちろん…」

 「…どうして、私を諏訪野さんと、結婚させたいの?…」

 「…綾乃さん…ボクと綾乃さんは、もう終わっている…」

 「…どういうこと?…」

 「…ジュンと、綾乃さんと、ボクは、三人で、暮らした…ユリコと入れ代わりに、綾乃さんが、やって来て、暮らした…そして、いつのまにか、ボクが、出て行って、綾乃さんと、ジュンの二人きりになった…その時点で、男と女としては、終わったんだと思う…」

 「…」

 「…ボクは、自分で言うのもなんだけど、浮気性…あっちの女…こっちの女と、いつも、フラフラしてる…そんな男に寄って来る女は、皆、ボクの金目当て…ろくな女はいない…」

 「…」

 「…だけど、綾乃さんは、違う…そんな綾乃さんには、幸せになってもらいたいと、心の底から、思う…」

 「…そんな買いかぶり過ぎよ…私だって、ナオキの持つ財産を狙っているかもしれないわよ…」

 「…それはない…」

 「…どうして、そう思うの?…」

 「…何年付き合っていると思うんだ? 綾乃さんが、どんな人間か、わかっているつもりだ…」

 「…だったら、私は、どんな人間?…」

 「…貞操観念が強い、しっかり者…」

 「…ずいぶん、早く答えを出すのね…あらかじめ、答えを用意してたでしょ? 私が、こう聞けば、こう答えると…」

 「…何年、付き合ってると思っているんだ?…」

 そう言って、ナオキは、再び、私の唇を奪った…

 そして、すぐに、離れた…

 「…綾乃さん…」

 「…なに?…」

 「…このまま、時が止まればいい…」

 「…なにをバカなことを言ってるの? …それにそれは、女のセリフ…私のセリフ…」

 「…綾乃さんが、そんなことを言うわけない…そんなセリフを綾乃さんが、口にするのを、待ってたら、日が暮れちゃうよ…」

 「…まあ、一体、私をなんだと、思っているの?…」

 「…貞操観念の強い、しっかり者…」

 さっきのセリフを繰り返した…

 「…だから、自分から、行かなきゃ…」

 「…」

 「…自分から、諏訪野さんを誘わななきゃ…」

 「…バカね…このカラダで、どうやって、誘うというの?…」

 「…カラダは、いずれ、回復するよ…病院のセンセイが、言っていた…」

 「…センセイって、長谷川センセイ?…」

 「…名前は忘れたけど…三十代前半の長身のイケメンのセンセイ…ちょうど、綾乃さんと、同じくらいの年齢…」

 「…だったら、それが、長谷川センセイよ…私の担当…」

 言いながら、長谷川センセイは、私の体力が、回復すると、ナオキに伝えたのかと、思った…

 そして、また、長谷川センセイは、藤原ナオキに会ったのか、とも、思った…

 「…そうだ? …綾乃さん?…」

 と、ナオキが言った…

 それから、子供がするように、いたずらっぽい顔で、

 「…手始めに、あの長谷川センセイを誘惑してみればいい…綾乃さんの実力が、まだ、衰えてないことが、立証できる…」

 と、笑った…

 もちろん、冗談であることは、わかっている…

 藤原ナオキは、冗談を言って、ベッドの上の私を勇気づけしようとしているのだろう…

 だから、私は、

 「…手遅れよ…」

 と、答えた…

 「…手遅れ? …どういうこと?…」

 「…もう、やってみた…」

 「…エッ? どうやって?…」

 「…手術するには、裸を見せる必要があるでしょ? 長谷川センセイは、すでに、私の裸を見ているわ…」

 私の言葉に、ナオキは、唖然とした…

 それから、すぐに、

 「…そりゃ、そうだ…」

 と、爆笑した…

 「…医者ならば、綾乃さんの裸を見るのは、当たり前だ…」

 そう言って、笑い続けた…

 「…相変わらず、ボクは、トロいな…」

 と、言って、頭を掻いた…

 「…ボクには、まだ綾乃さんが、必要だ…」

 と、真顔になった…

 「…藤原ナオキには、寿綾乃が必要…」

 「…バカね…いい加減、独り立ちしなさい…あと、何年生きれるか、わからない女に頼っていては、ダメ…さっさと、新しい女を見つけなさい…」

 私は、ナオキを突き放した…

 「…アナタは、まだ四十代…人生、百年時代の今、まだ半分にも達していない…自分に親身になって尽くしてくれる女を探しなさい…」

 私が、強く言った…

 すると、

 「…できない…」

 と、ナオキが、言った…

 声が震えていた…

 「…このまま、綾乃さんを見捨てることはできない…」

 震えた声で言って、再び、私の顔に、自分の顔を寄せ、唇を重ねた…

 すぐに、離れると、

 「…綾乃さんが、生きている限り、ボクにできることは、なんでもする…頼りにして欲しい…」

 いつのまにか、男の顔で言った…

 まるで、頼りなかった息子が、高齢の母親に、言うセリフだと、思った…

 それを、考えると、あらためて、私と、ナオキの関係を考えた…

 夫婦…

 恋人…

 ビジネスパートナー…

 さまざまな言葉が、脳裏に浮かぶ…

 だが、一番、しっくりする言葉は、

 母子…

 年齢は、逆転するが、母子だった…

 きっと、藤原ナオキにとって、私、寿綾乃は、お母さん…

 年下のお母さんに、他ならなかった…

 あるいは、年下の、しっかり者のお姉さんに他ならなかった…

 私は、あらためて、その現実に気付いた…

                


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