第69話
文字数 7,791文字
…なんというか…
ここまで、考えると、なにか、今、電話をしている最中の、諏訪野伸明という男が、身近に見えてきたというか…
決して、遠く離れた存在ではないと、思えるようになってきた…
なぜなら、あまりにも、人間臭いというか…
これほどのイケメンで、びっくりするくらいのお金持ちなのに、中身は、普通に、コンプレックスを持っている男…
それを、考えれば、随分、身近な人間に思えた…
無論、私とは、違う…
比較にならない…
にも、関わらず、身近に感じた…
いや、
これは、私が、勝手に身近に感じたに過ぎないのかもしれない…
ただ、誰でも、そうだが、凄いと思われた人間のたわいもないエピソードを聞いて、身近に感じた例は、枚挙にいとまがない…
東大出のエリートが、見るからに、まったくの凡人に見えた場合など、その典型だろう…
例えば、今の時代、同じ年に生まれた出生数が、110万人いて、そのうちの上位、100人に入れなければ、財務省=旧大蔵省には、入れないと言われている…
財務省は、国家公務員のエリートの頂点…
いわば、選ばれた人間の集まりだ…
それは、財務省が、この国の財布を握っているからだ…
財布=お金を握っているからだ…
金を握っている者が、一番偉い…
これは、いつの時代でも、変わらない…
しかしながら、その選ばれた人間は、あくまで、頭の良さで選ばれている…
当たり前だが、そこにルックスで選ばれたわけではない…
だから、ルックス=見た目は、関係ない…
だが、どうしても、一般人は、ルックス=見た目を気にする…
だから、実際に、そのエリートを見て、
「…あんなひとが?…」
と、驚嘆することが、よくある…
見た目は、まったくの平凡な人物で、頭もよく見えないからだ…
だから、
「…どうして、あんなひとが?…」
と、なる…
また、実際に接していても、頭の良さが、わからない場合も、多々ある…
そもそも、例えば、偏差値50程度の高校や大学を出て、東大のトップクラスの人間と接しても、その人間の頭の良さが、わかるはずもない(爆笑)…
相手の頭の中身が、どの程度か、察するには、自分の頭が、最低でも、同じ程度でなければ、わからないからだ…
だから、見た目にこだわる…
頭の中身が、わからないから、堂々としているとか…
威厳があるとか…
背が高いとか…
ルックスがいいとか…
要するに、一目見て、誰もが、わかることに、こだわる…
それしか、判断する材料がないからだ(爆笑)…
また、なにより、見たことも、会ったこともないことが大きい…
普通に、東大生を身近に知っていれば、誰も、そんなことは、言わない…
見たことも、会ったこともないから、勝手に想像する…
まるで、テレビや映画で見たような、長身のイケメンが、もしや、やって来るのではないか?
と、期待する…
自分でも、そんなことはないだろうと、思いながらも、どこかで、期待する…
そういうことだ…
いわば、雲の上の存在…
普通の人間が、生涯会うことのない人間…
にもかかわらず、自分と同じように考える人間が、思いのほか、大きい…
いつのまにか、諏訪野伸明のことを考えながら、違うことを、考えていた…
いつものことだ(笑)…
「…寿さん…」
伸明が、いきなり、私の名前を呼んだことで、私は、我に返った…
「…なんでしょうか?…」
「…冬馬…アイツのことを、どう思いますか?…」
いきなり、伸明が、聞いた…
私は、面食らったというか…
思わず、
「…どうして、そんなことを…」
と、聞いた…
なぜ、いきなり、伸明が、そんなことを、私に聞くか、わからなかったからだ…
「…さっき、寿さんが、ボクに、冬馬のことをどう思うのか、聞くからですよ…」
伸明が答えた…
「…だったら、そういう寿さんが、冬馬のことを、どう思うのか、知りたくて…」
当たり前のことだった…
「…寿さん…冬馬をどう思います?…」
伸明の言葉に返答に困った…
どう言おうか、考えた…
しかし、ウソをつくのは、嫌だ…
しばし、悩んだ挙句、
「…好きではありません…」
と、答えた…
伸明は、
「…」
と、無言だった…
「…ですが、嫌いでもありません…」
「…どういうことですか?…」
「…好きか、嫌いか、問われれば、嫌いです…ですが、顔を見たくなるほど、嫌いかと言われれば、そこまで、嫌いじゃない…そういうことです…」
私の言葉に、またも、伸明は、
「…」
と、沈黙した…
それから、しばし、沈黙した後、
「…正直なひとだ…」
と、爆笑した…
私は、驚いた…
まさか、電話の向こうで、伸明が、爆笑するとは、思わなかったからだ…
「…だから、寿さんに、憧れる…寿さんを好きになる…」
「…」
「…世の中には、誰でも、わかるウソを平然とついて、平気な人間もいる…」
伸明が、思いがけないことを、言い出した…
「…そんな人間には、心底なりたくないし、付き合うのは、ごめんだ…」
「…」
「…だが、少なくとも、寿さんは、そんな人間じゃない…」
誰のことだろう?
ふと、思った…
それとも、一般論だろうか?
「…とにかく、今日は、寿さんに、連絡出来て、良かった…」
「…」
「…では、これで、失礼します…」
と、言って、一方的に、電話を切った…
私は、唖然とした…
まさか、一方的に、電話を切られるとは、思わなかったからだ…
…似合わないというか…
ありえない言動だった…
伸明が、忙しいのは、わかる…
五井家当主として、さまざまな業務があるだろう…
その忙しい業務の合間を縫って、私に、電話をかけてきたに違いないからだ…
しかしながら、私の了解も得ず、一方的に、電話を切るとは、思わなかった…
一体、どうしたのだろう?
それとも…
それとも、もしかしたら、これが、伸明の正体なんだろうか?
ふと、思った…
これまで、私は、お行儀の良い、いわば、金持ちのお坊ちゃまとしての、諏訪野伸明しか、見ていなかった…
それは、言葉は悪いが、見てくれというか…
どこか、他人行儀の諏訪野伸明しか、見ていなかったということだ…
交際は、しているが、まだ、いっしょに暮しているわけではない…
セックスも、まだ、していない…
セックスをすれば、なにか、変わるかといえば、そんなことはないが、ただ、相手が、馴れ馴れしくなる可能性が高い…
ありていにいえば、
…オレは、この女と、寝た…
…私は、この男と、寝た…
と、いうことで、素(す)の姿を見せるというと、大げさだが、少しは、等身大の、自分の姿を見せることが多い…
セックスをする上で、大きな利点は、コレ…
コレだ!
これまで、見せなかった態度を見せるかもしれない…
私は、まだ、伸明と、寝ていない…
ならば、これから、伸明と寝れば、伸明の別の側面を見ることが、できるのだろうか?
期待した…
が、
と、そこまで、考えて、自分自身の考えに爆笑した…
思わず、吹き出した…
それでは、まるで、子供…
十代や、そこらのお子ちゃまだ…
諏訪野伸明も、すでに、四十代前半…
たかだか、一回、女と寝たぐらいで、態度が、豹変するお子ちゃまでは、ありえない…
一回寝れば、急に馴れ馴れしくなり、まるで、昔からの親しい友人のように、なんでも、話しかけてくる…
もし、そんなことがあると、すれば、それは、幻想だ…
間違いなく、幻想だ…
私は、自分で、自分の考えに、爆笑した…
そんなことより、本当は、一刻でも長く、諏訪野伸明と、接すること…
そうすることによって、見えてくるものがある…
結婚は、学校時代の友人や、職場の同僚が、多いのは、身近に、接することで、どういう人間か、わかってくるからだ…
いっしょに、仕事をしたり、同じクラスで、勉強したりして、どういう人間か、目の当たりにするからだ…
それゆえ、ある意味、安心して、付き合える…
事前に、相手が、どんな人間か、わかっているからだ…
それが、前提にある…
が、
私と、伸明には、それがない…
会うのは、ときどきだし、電話も、それほど、するわけじゃない…
だから、なんだか、付き合っているといっても、他人行儀…
どこか、壁があるというか…
素(す)の、諏訪野伸明という男を、まだ見ていない気がする…
だから、とりあえず、セックスを考えたが、これも、バカげている…
一度でも、セックスをすれば、互いに、素(す)の姿を見せあうものではあるまい…
現に、さきほどの、結婚相手と出会う場所として、学校時代の友人や、職場の同僚が、多いといったのは、要するに、それ以外は、男女が、出会う場所がないことの裏返しでもある…
そして、学校や会社で、出会い、結婚しても、
「…こんなひととは、思わなかった…」
と、男女ともに嘆くのは、良く聞く話だ…
要するに、学校や会社で、知り合い、男女の関係になっても、相手の本当のことは、良くわからない…
五年、十年と、いっしょに、住んでいるわけではないからだ…
とりわけ、学校や会社では、背伸びして、自分の良いところだけ、見せている者も多い…
いわば、公(おおやけ)の自分を意図的に見せている…
だから、私(わたし)の自分は、公(おおやけ)の自分とは、まるで、違う…
別人…
大げさにいえば、その可能性もある…
もっとも、これは、大げさ過ぎるが、公(おおやけ)の姿を見て、私(わたし)の姿と異なる、ひとは、多い…
例えば、いつも、公(おおやけ)では、礼儀正しく、きちんとした人間だと思っていたひとが、私(わたし)では、いつも、横柄で、周囲に怒鳴りまくっている…
よく聞く話だ(笑)…
学校や、会社では、少しでも、良い自分を見せようと、努力している…
言葉は悪いが、大げさにいえば、会社や学校での自分は、公(おおやけ)での自分だから、少しでも、よく見せたい…
テストでいえば、100点に近い、優秀な自分を見せたい…
だが、私(わたし)では、そんな必要は、一切ないから、素(す)の自分を見せる…
そういうことだ(笑)…
だから、当てにならない…
それを、前提に、結婚するのだから、世の中、離婚する人間が多いのも、わかる…
それまで、見てきた相手と結婚した相手が、微妙に違う…
男女ともに、そんな感じだろう…
だから、男女ともに、
「…こんなひととは、思わなかった…」
と、嘆く人間が、この世の中に多いのだろう…
私は、思った…
いつのまにか、伸明から、世間一般の男女まで、話が、広がった…
妄想が、広がった…
いつものことだった(笑)…
その夜、ナオキが、帰ってきて、早速、今日の出来事を話した…
ナオキが、どういう感想を言うのか、興味があったからだ…
他人の意見を聞くのは、大事…
どんなことでも、そうだが、自分以外の人間の意見を聞くことで、自分では、考えられない意見を聞くことができるからだ…
昔、亡くなった母から、バブル時代の話を聞いたことがある…
バブル時代は、景気がメチャクチャいいから、大げさに、いえば、どんな人間でも採用した…
が、
バブルが弾け、たちまちバブル時代に採用された多くの人間が、リストラされた…
それを、聞いていた子供時代の私は、ふと、思った…
「…だったら、リストラされたひとたちは、その後、どうしたの?…」
と、母に聞いた…
単純な疑問だった…
バブル期=景気のいい時代に採用された人間が、景気が悪くなったから、一斉にリストラ=クビにされた…
だったら、クビになった人間は、その後、どうなったのだろ?
子供ながら、疑問だった…
だが、母は、私の質問に、面食らった様子だった…
「…そういえば、そこまでは、考えなかった…」
と、苦笑した…
「…たしかに、あの時代は、誰が見ても、おかしかった…異常だった…だから、会社の採用でも、それまでとは、一転して、レベルが下がったのは、一目瞭然だった…」
「…」
「…でも、リストラされたひとたちが、その後、どうなったのかは、考えなかった…きっと、私が、そのひとたちと、接することがなかったから、余計ね…」
母が笑った…
「…そして、どんなことでも、自分以外のひとの意見を聞くことは大事ね…自分では、思いもしないことを、言ってくれる…」
と、言った…
そんな母の言葉が、今も脳裏に残る…
他人の意見を聞くことで、それまで、自分が、考えもしなかった考えを聞くことが、できるからだ…
そして、それは、頭の良し悪しは、あまり関係がない…
例え、東大を出ていても、周囲の状況の変化に気付かない人間も多い…
だから、母の言ったバブル時代を例に取れば、
「…こんなことは、ありえないから、この景気が終われば、きっと、ここ数年、採用された人間の多くのひとのクビを切るよ…一気にレベルが下がったからね…」
と、言っても、わからない…
例えば、この会社は大手だから、そんなことは、ありえないとか…
要するに、採用された人間ではなく、会社を見ているから、そんなことは、ありえないと、信じているのだ…
人間を見れば、それまで、採用された人間とは、明らかに違うレベル…
一気にレベルが下がったのが、誰の目にもわかる…
だが、そんなことは、考えない…
いくら、東大を出て、頭が良くても、そんなことを、考えない人間も、数多い…
それが、現実だ…
いわば、世間知が低いというか…
周りが、見えない…
今、目の前で、なにが、起こっているか、わからない…
勉強が出来る能力と、別の能力が、必要と、わかる…
ただ、勉強が出来ても、ダメということが、わかる顕著な例だ…
真逆に、偏差値40の工業高校を出ていても、一目で、わかる者もいる…
世間知というと、大げさだが、直観で、わかるのだろう…
それは、勉強が出来る頭の良さとは、違う、頭の良さが、あるのだと、思う…
また、そういう人間は、鋭い…
会社で、誰と誰が付き合っているかなど、同じ職場の人間が、知らないことでも、直観で、わかる…
上司との不倫を含めて、同じ職場で、男と女が、付き合っていたとする…
すると、どうしても、ちょっとしたことで、馴れ馴れしさが出る…
それを見逃さないのだろう…
男も女も一度、男女の関係になれば、馴れ馴れしさが、出てくるのは、当然…
しかしながら、職場で、互いに付き合っているのを、公表しないカップルは、多い…
そもそも、結婚するかどうか、わからないし、また公(おおやけ)で、付き合っていることを、公表することで、マイナスになることも多い…
だから、公表しない…
秘密にするということだ…
しかしながら、勘の鋭い人間は、簡単に、その男女が、秘密裏に付き合っていることに、気付く…
そういうことだ(笑)…
私が、そんなことを、考えていると、
「…諏訪野さんは…」
と、ナオキが、話し出した…
「…きっと、綾乃さんに、なにかを、求めているんだと思うよ…」
実に、意外な言葉だった…
「…私に、なにかを求めている? …一体、なにを私に?…」
「…それは、諏訪野さんじゃないから、わからない…」
「…」
「…でも、男が女を好きな場合、相手になにかを求めている場合が、多い…もっとも、これは、女が男を好きな場合も、同じだけれども…」
「…」
「…一番ありがちなのは、背の低い男が、背の高い女に憧れること…これは、わかるだろ?…」
「…自分にないものを、求めている…」
「…その通り…」
「…」
「…でも、そんなわかりやすい例は、世の中に案外多いけれども、意外なことも、結構ある…」
「…意外? …どういうこと?…」
「…以前、知っていた女性の例だけれども、いかにも、気が強く、しっかり者で、学校でも、職場でも、誰かに、頼られる存在の女性がいた…ちょうど、綾乃さんみたいな…」
「…私みたいな?…」
「…でも、意外や意外…その女性は、父親ほども年齢の男と、結婚したんだ…」
「…どういうこと?…」
「…ファザコン…」
「…ファザコン? …ファーザーコンプレックス?…」
「…その通り…その女性は、小さいときに、父親を亡くして、無意識のうちに、父親を求めていた…だから、学校でも、会社でも、誰かに頼られる姉御肌の人間にも、かかわらず、心の底では、父親を欲していた…自分を守ってくれる父親が、欲しかったんだろう…」
「…」
「…だから、年上…自分より、20歳は、上でないとダメ…どんなに頼れる男でも、同年代ではダメ…彼女の中では、受け入れられない…」
「…」
「…だから、それを知ったときは、実に驚いたし、面白いと思った…」
「…面白い? …どうして、面白いの?…」
「…だって、綾乃さんのように、しっかりした女性が、実は、ファザコンで、誰かに頼りたいなんて…誰も思わないよ…」
ナオキが、爆笑した…
私は、それを見て、ひどく頭に来た…
「…ひどい、ナオキ…一体、私をなんだと思っているの?…」
「…しっかり者のお姉さん…」
ナオキが、即答した…
「…だから、案外、諏訪野さんも、そんな綾乃さんに、惚れたんじゃ…」
「…どういう意味?…」
「…諏訪野さんも、見かけに寄らず、案外、気が弱い…だから、綾乃さんに、守ってもらいたいんじゃ…」
「…バカなことを…」
私が、言うと、ナオキが、笑いながら、
「…そう…たしかに、バカなことかもしれない…でも、真相は、案外、そんなバカなことが多い…世の中、そんなものさ…」
と、言った…
私は、開いた口が塞がらなかった…
そして、こんな大事なことを、ナオキに相談したことが、間違いだと気付いた…
「…ナオキ…アナタに聞いたのが、間違いだった…」
「…それは、どうも…スイマセン…」
ナオキが、おどける…
私は、頭にきて、そんなナオキを目の前で、睨んだ…
が、
すぐに、プッと吹き出した…
目の前のナオキが、道化師よろしく、わざと、変な顔をしていたのだ…
わざと、ひょっとこのように、口を曲げていた…
「…ナオキ…どうして、アナタ、そんな顔を…イケメンが、台無しよ…」
「…すねているのさ…大好きな綾乃さんに、叱られて…」
「…叱る? …いつ、私が、ナオキを叱ったの?…」
「…今…たった今さ…」
ナオキが、主張する…
そして、また、わざと、ひょっとこのように、口を曲げた…
私は、
「…止めて、そんな顔をしないで…」
と、笑いながら、ナオキに頼んだ…
が、
ナオキは、止めない…
私は、ふと、ナオキの心情を思った…
…おそらく、自分が、道化師に徹して、私を笑わせようしている…
そんな事実に、気付いた…
たぶん、今の話で、諏訪野伸明もまた、謎の多い人物だと、悟ったに違いない…
だから、私を笑わせようとした…
空気を変えようとしたのだ…
そんな事実に、気付いた私は、今さらながら、この藤原ナオキという男の優しさに気付いた…
決して、自分には、得がたい人物…
あらためて、それが、わかった…
にもかかわらず、諏訪野伸明に惹かれた…
諏訪野伸明の闇を知るにつけ、さらに惹かれた…
つくづく、自分は、自分勝手…
自分勝手、極まりない女だと、悟った…
ここまで、考えると、なにか、今、電話をしている最中の、諏訪野伸明という男が、身近に見えてきたというか…
決して、遠く離れた存在ではないと、思えるようになってきた…
なぜなら、あまりにも、人間臭いというか…
これほどのイケメンで、びっくりするくらいのお金持ちなのに、中身は、普通に、コンプレックスを持っている男…
それを、考えれば、随分、身近な人間に思えた…
無論、私とは、違う…
比較にならない…
にも、関わらず、身近に感じた…
いや、
これは、私が、勝手に身近に感じたに過ぎないのかもしれない…
ただ、誰でも、そうだが、凄いと思われた人間のたわいもないエピソードを聞いて、身近に感じた例は、枚挙にいとまがない…
東大出のエリートが、見るからに、まったくの凡人に見えた場合など、その典型だろう…
例えば、今の時代、同じ年に生まれた出生数が、110万人いて、そのうちの上位、100人に入れなければ、財務省=旧大蔵省には、入れないと言われている…
財務省は、国家公務員のエリートの頂点…
いわば、選ばれた人間の集まりだ…
それは、財務省が、この国の財布を握っているからだ…
財布=お金を握っているからだ…
金を握っている者が、一番偉い…
これは、いつの時代でも、変わらない…
しかしながら、その選ばれた人間は、あくまで、頭の良さで選ばれている…
当たり前だが、そこにルックスで選ばれたわけではない…
だから、ルックス=見た目は、関係ない…
だが、どうしても、一般人は、ルックス=見た目を気にする…
だから、実際に、そのエリートを見て、
「…あんなひとが?…」
と、驚嘆することが、よくある…
見た目は、まったくの平凡な人物で、頭もよく見えないからだ…
だから、
「…どうして、あんなひとが?…」
と、なる…
また、実際に接していても、頭の良さが、わからない場合も、多々ある…
そもそも、例えば、偏差値50程度の高校や大学を出て、東大のトップクラスの人間と接しても、その人間の頭の良さが、わかるはずもない(爆笑)…
相手の頭の中身が、どの程度か、察するには、自分の頭が、最低でも、同じ程度でなければ、わからないからだ…
だから、見た目にこだわる…
頭の中身が、わからないから、堂々としているとか…
威厳があるとか…
背が高いとか…
ルックスがいいとか…
要するに、一目見て、誰もが、わかることに、こだわる…
それしか、判断する材料がないからだ(爆笑)…
また、なにより、見たことも、会ったこともないことが大きい…
普通に、東大生を身近に知っていれば、誰も、そんなことは、言わない…
見たことも、会ったこともないから、勝手に想像する…
まるで、テレビや映画で見たような、長身のイケメンが、もしや、やって来るのではないか?
と、期待する…
自分でも、そんなことはないだろうと、思いながらも、どこかで、期待する…
そういうことだ…
いわば、雲の上の存在…
普通の人間が、生涯会うことのない人間…
にもかかわらず、自分と同じように考える人間が、思いのほか、大きい…
いつのまにか、諏訪野伸明のことを考えながら、違うことを、考えていた…
いつものことだ(笑)…
「…寿さん…」
伸明が、いきなり、私の名前を呼んだことで、私は、我に返った…
「…なんでしょうか?…」
「…冬馬…アイツのことを、どう思いますか?…」
いきなり、伸明が、聞いた…
私は、面食らったというか…
思わず、
「…どうして、そんなことを…」
と、聞いた…
なぜ、いきなり、伸明が、そんなことを、私に聞くか、わからなかったからだ…
「…さっき、寿さんが、ボクに、冬馬のことをどう思うのか、聞くからですよ…」
伸明が答えた…
「…だったら、そういう寿さんが、冬馬のことを、どう思うのか、知りたくて…」
当たり前のことだった…
「…寿さん…冬馬をどう思います?…」
伸明の言葉に返答に困った…
どう言おうか、考えた…
しかし、ウソをつくのは、嫌だ…
しばし、悩んだ挙句、
「…好きではありません…」
と、答えた…
伸明は、
「…」
と、無言だった…
「…ですが、嫌いでもありません…」
「…どういうことですか?…」
「…好きか、嫌いか、問われれば、嫌いです…ですが、顔を見たくなるほど、嫌いかと言われれば、そこまで、嫌いじゃない…そういうことです…」
私の言葉に、またも、伸明は、
「…」
と、沈黙した…
それから、しばし、沈黙した後、
「…正直なひとだ…」
と、爆笑した…
私は、驚いた…
まさか、電話の向こうで、伸明が、爆笑するとは、思わなかったからだ…
「…だから、寿さんに、憧れる…寿さんを好きになる…」
「…」
「…世の中には、誰でも、わかるウソを平然とついて、平気な人間もいる…」
伸明が、思いがけないことを、言い出した…
「…そんな人間には、心底なりたくないし、付き合うのは、ごめんだ…」
「…」
「…だが、少なくとも、寿さんは、そんな人間じゃない…」
誰のことだろう?
ふと、思った…
それとも、一般論だろうか?
「…とにかく、今日は、寿さんに、連絡出来て、良かった…」
「…」
「…では、これで、失礼します…」
と、言って、一方的に、電話を切った…
私は、唖然とした…
まさか、一方的に、電話を切られるとは、思わなかったからだ…
…似合わないというか…
ありえない言動だった…
伸明が、忙しいのは、わかる…
五井家当主として、さまざまな業務があるだろう…
その忙しい業務の合間を縫って、私に、電話をかけてきたに違いないからだ…
しかしながら、私の了解も得ず、一方的に、電話を切るとは、思わなかった…
一体、どうしたのだろう?
それとも…
それとも、もしかしたら、これが、伸明の正体なんだろうか?
ふと、思った…
これまで、私は、お行儀の良い、いわば、金持ちのお坊ちゃまとしての、諏訪野伸明しか、見ていなかった…
それは、言葉は悪いが、見てくれというか…
どこか、他人行儀の諏訪野伸明しか、見ていなかったということだ…
交際は、しているが、まだ、いっしょに暮しているわけではない…
セックスも、まだ、していない…
セックスをすれば、なにか、変わるかといえば、そんなことはないが、ただ、相手が、馴れ馴れしくなる可能性が高い…
ありていにいえば、
…オレは、この女と、寝た…
…私は、この男と、寝た…
と、いうことで、素(す)の姿を見せるというと、大げさだが、少しは、等身大の、自分の姿を見せることが多い…
セックスをする上で、大きな利点は、コレ…
コレだ!
これまで、見せなかった態度を見せるかもしれない…
私は、まだ、伸明と、寝ていない…
ならば、これから、伸明と寝れば、伸明の別の側面を見ることが、できるのだろうか?
期待した…
が、
と、そこまで、考えて、自分自身の考えに爆笑した…
思わず、吹き出した…
それでは、まるで、子供…
十代や、そこらのお子ちゃまだ…
諏訪野伸明も、すでに、四十代前半…
たかだか、一回、女と寝たぐらいで、態度が、豹変するお子ちゃまでは、ありえない…
一回寝れば、急に馴れ馴れしくなり、まるで、昔からの親しい友人のように、なんでも、話しかけてくる…
もし、そんなことがあると、すれば、それは、幻想だ…
間違いなく、幻想だ…
私は、自分で、自分の考えに、爆笑した…
そんなことより、本当は、一刻でも長く、諏訪野伸明と、接すること…
そうすることによって、見えてくるものがある…
結婚は、学校時代の友人や、職場の同僚が、多いのは、身近に、接することで、どういう人間か、わかってくるからだ…
いっしょに、仕事をしたり、同じクラスで、勉強したりして、どういう人間か、目の当たりにするからだ…
それゆえ、ある意味、安心して、付き合える…
事前に、相手が、どんな人間か、わかっているからだ…
それが、前提にある…
が、
私と、伸明には、それがない…
会うのは、ときどきだし、電話も、それほど、するわけじゃない…
だから、なんだか、付き合っているといっても、他人行儀…
どこか、壁があるというか…
素(す)の、諏訪野伸明という男を、まだ見ていない気がする…
だから、とりあえず、セックスを考えたが、これも、バカげている…
一度でも、セックスをすれば、互いに、素(す)の姿を見せあうものではあるまい…
現に、さきほどの、結婚相手と出会う場所として、学校時代の友人や、職場の同僚が、多いといったのは、要するに、それ以外は、男女が、出会う場所がないことの裏返しでもある…
そして、学校や会社で、出会い、結婚しても、
「…こんなひととは、思わなかった…」
と、男女ともに嘆くのは、良く聞く話だ…
要するに、学校や会社で、知り合い、男女の関係になっても、相手の本当のことは、良くわからない…
五年、十年と、いっしょに、住んでいるわけではないからだ…
とりわけ、学校や会社では、背伸びして、自分の良いところだけ、見せている者も多い…
いわば、公(おおやけ)の自分を意図的に見せている…
だから、私(わたし)の自分は、公(おおやけ)の自分とは、まるで、違う…
別人…
大げさにいえば、その可能性もある…
もっとも、これは、大げさ過ぎるが、公(おおやけ)の姿を見て、私(わたし)の姿と異なる、ひとは、多い…
例えば、いつも、公(おおやけ)では、礼儀正しく、きちんとした人間だと思っていたひとが、私(わたし)では、いつも、横柄で、周囲に怒鳴りまくっている…
よく聞く話だ(笑)…
学校や、会社では、少しでも、良い自分を見せようと、努力している…
言葉は悪いが、大げさにいえば、会社や学校での自分は、公(おおやけ)での自分だから、少しでも、よく見せたい…
テストでいえば、100点に近い、優秀な自分を見せたい…
だが、私(わたし)では、そんな必要は、一切ないから、素(す)の自分を見せる…
そういうことだ(笑)…
だから、当てにならない…
それを、前提に、結婚するのだから、世の中、離婚する人間が多いのも、わかる…
それまで、見てきた相手と結婚した相手が、微妙に違う…
男女ともに、そんな感じだろう…
だから、男女ともに、
「…こんなひととは、思わなかった…」
と、嘆く人間が、この世の中に多いのだろう…
私は、思った…
いつのまにか、伸明から、世間一般の男女まで、話が、広がった…
妄想が、広がった…
いつものことだった(笑)…
その夜、ナオキが、帰ってきて、早速、今日の出来事を話した…
ナオキが、どういう感想を言うのか、興味があったからだ…
他人の意見を聞くのは、大事…
どんなことでも、そうだが、自分以外の人間の意見を聞くことで、自分では、考えられない意見を聞くことができるからだ…
昔、亡くなった母から、バブル時代の話を聞いたことがある…
バブル時代は、景気がメチャクチャいいから、大げさに、いえば、どんな人間でも採用した…
が、
バブルが弾け、たちまちバブル時代に採用された多くの人間が、リストラされた…
それを、聞いていた子供時代の私は、ふと、思った…
「…だったら、リストラされたひとたちは、その後、どうしたの?…」
と、母に聞いた…
単純な疑問だった…
バブル期=景気のいい時代に採用された人間が、景気が悪くなったから、一斉にリストラ=クビにされた…
だったら、クビになった人間は、その後、どうなったのだろ?
子供ながら、疑問だった…
だが、母は、私の質問に、面食らった様子だった…
「…そういえば、そこまでは、考えなかった…」
と、苦笑した…
「…たしかに、あの時代は、誰が見ても、おかしかった…異常だった…だから、会社の採用でも、それまでとは、一転して、レベルが下がったのは、一目瞭然だった…」
「…」
「…でも、リストラされたひとたちが、その後、どうなったのかは、考えなかった…きっと、私が、そのひとたちと、接することがなかったから、余計ね…」
母が笑った…
「…そして、どんなことでも、自分以外のひとの意見を聞くことは大事ね…自分では、思いもしないことを、言ってくれる…」
と、言った…
そんな母の言葉が、今も脳裏に残る…
他人の意見を聞くことで、それまで、自分が、考えもしなかった考えを聞くことが、できるからだ…
そして、それは、頭の良し悪しは、あまり関係がない…
例え、東大を出ていても、周囲の状況の変化に気付かない人間も多い…
だから、母の言ったバブル時代を例に取れば、
「…こんなことは、ありえないから、この景気が終われば、きっと、ここ数年、採用された人間の多くのひとのクビを切るよ…一気にレベルが下がったからね…」
と、言っても、わからない…
例えば、この会社は大手だから、そんなことは、ありえないとか…
要するに、採用された人間ではなく、会社を見ているから、そんなことは、ありえないと、信じているのだ…
人間を見れば、それまで、採用された人間とは、明らかに違うレベル…
一気にレベルが下がったのが、誰の目にもわかる…
だが、そんなことは、考えない…
いくら、東大を出て、頭が良くても、そんなことを、考えない人間も、数多い…
それが、現実だ…
いわば、世間知が低いというか…
周りが、見えない…
今、目の前で、なにが、起こっているか、わからない…
勉強が出来る能力と、別の能力が、必要と、わかる…
ただ、勉強が出来ても、ダメということが、わかる顕著な例だ…
真逆に、偏差値40の工業高校を出ていても、一目で、わかる者もいる…
世間知というと、大げさだが、直観で、わかるのだろう…
それは、勉強が出来る頭の良さとは、違う、頭の良さが、あるのだと、思う…
また、そういう人間は、鋭い…
会社で、誰と誰が付き合っているかなど、同じ職場の人間が、知らないことでも、直観で、わかる…
上司との不倫を含めて、同じ職場で、男と女が、付き合っていたとする…
すると、どうしても、ちょっとしたことで、馴れ馴れしさが出る…
それを見逃さないのだろう…
男も女も一度、男女の関係になれば、馴れ馴れしさが、出てくるのは、当然…
しかしながら、職場で、互いに付き合っているのを、公表しないカップルは、多い…
そもそも、結婚するかどうか、わからないし、また公(おおやけ)で、付き合っていることを、公表することで、マイナスになることも多い…
だから、公表しない…
秘密にするということだ…
しかしながら、勘の鋭い人間は、簡単に、その男女が、秘密裏に付き合っていることに、気付く…
そういうことだ(笑)…
私が、そんなことを、考えていると、
「…諏訪野さんは…」
と、ナオキが、話し出した…
「…きっと、綾乃さんに、なにかを、求めているんだと思うよ…」
実に、意外な言葉だった…
「…私に、なにかを求めている? …一体、なにを私に?…」
「…それは、諏訪野さんじゃないから、わからない…」
「…」
「…でも、男が女を好きな場合、相手になにかを求めている場合が、多い…もっとも、これは、女が男を好きな場合も、同じだけれども…」
「…」
「…一番ありがちなのは、背の低い男が、背の高い女に憧れること…これは、わかるだろ?…」
「…自分にないものを、求めている…」
「…その通り…」
「…」
「…でも、そんなわかりやすい例は、世の中に案外多いけれども、意外なことも、結構ある…」
「…意外? …どういうこと?…」
「…以前、知っていた女性の例だけれども、いかにも、気が強く、しっかり者で、学校でも、職場でも、誰かに、頼られる存在の女性がいた…ちょうど、綾乃さんみたいな…」
「…私みたいな?…」
「…でも、意外や意外…その女性は、父親ほども年齢の男と、結婚したんだ…」
「…どういうこと?…」
「…ファザコン…」
「…ファザコン? …ファーザーコンプレックス?…」
「…その通り…その女性は、小さいときに、父親を亡くして、無意識のうちに、父親を求めていた…だから、学校でも、会社でも、誰かに頼られる姉御肌の人間にも、かかわらず、心の底では、父親を欲していた…自分を守ってくれる父親が、欲しかったんだろう…」
「…」
「…だから、年上…自分より、20歳は、上でないとダメ…どんなに頼れる男でも、同年代ではダメ…彼女の中では、受け入れられない…」
「…」
「…だから、それを知ったときは、実に驚いたし、面白いと思った…」
「…面白い? …どうして、面白いの?…」
「…だって、綾乃さんのように、しっかりした女性が、実は、ファザコンで、誰かに頼りたいなんて…誰も思わないよ…」
ナオキが、爆笑した…
私は、それを見て、ひどく頭に来た…
「…ひどい、ナオキ…一体、私をなんだと思っているの?…」
「…しっかり者のお姉さん…」
ナオキが、即答した…
「…だから、案外、諏訪野さんも、そんな綾乃さんに、惚れたんじゃ…」
「…どういう意味?…」
「…諏訪野さんも、見かけに寄らず、案外、気が弱い…だから、綾乃さんに、守ってもらいたいんじゃ…」
「…バカなことを…」
私が、言うと、ナオキが、笑いながら、
「…そう…たしかに、バカなことかもしれない…でも、真相は、案外、そんなバカなことが多い…世の中、そんなものさ…」
と、言った…
私は、開いた口が塞がらなかった…
そして、こんな大事なことを、ナオキに相談したことが、間違いだと気付いた…
「…ナオキ…アナタに聞いたのが、間違いだった…」
「…それは、どうも…スイマセン…」
ナオキが、おどける…
私は、頭にきて、そんなナオキを目の前で、睨んだ…
が、
すぐに、プッと吹き出した…
目の前のナオキが、道化師よろしく、わざと、変な顔をしていたのだ…
わざと、ひょっとこのように、口を曲げていた…
「…ナオキ…どうして、アナタ、そんな顔を…イケメンが、台無しよ…」
「…すねているのさ…大好きな綾乃さんに、叱られて…」
「…叱る? …いつ、私が、ナオキを叱ったの?…」
「…今…たった今さ…」
ナオキが、主張する…
そして、また、わざと、ひょっとこのように、口を曲げた…
私は、
「…止めて、そんな顔をしないで…」
と、笑いながら、ナオキに頼んだ…
が、
ナオキは、止めない…
私は、ふと、ナオキの心情を思った…
…おそらく、自分が、道化師に徹して、私を笑わせようしている…
そんな事実に、気付いた…
たぶん、今の話で、諏訪野伸明もまた、謎の多い人物だと、悟ったに違いない…
だから、私を笑わせようとした…
空気を変えようとしたのだ…
そんな事実に、気付いた私は、今さらながら、この藤原ナオキという男の優しさに気付いた…
決して、自分には、得がたい人物…
あらためて、それが、わかった…
にもかかわらず、諏訪野伸明に惹かれた…
諏訪野伸明の闇を知るにつけ、さらに惹かれた…
つくづく、自分は、自分勝手…
自分勝手、極まりない女だと、悟った…