第16話

文字数 8,393文字

 「…じゃ…寿さん…これで…」

 突然、諏訪野マミが、言った…

 思わず、

 「…エッ?…」

 と、声に出して、言ってしまった…

 この諏訪野マミが、ミッションの有無について、語ったので、それについて、考え込んでしまっていた…

 その最中に、あっけなく、

 「…これで…」

 と、言われたので、驚いたというか、拍子抜けしたというか…

 「…いえ、いつまでも、病人の近くで、色々頭を悩ますようなことを言うのは、まずいと思って…」

 諏訪野マミが、言い訳するように、言う…

 「…とにかく、これで、帰るわ…寿さん、元気で…」

 と、言うと、諏訪野マミは、呆気なく病室を去った…

 それは、まるで、つむじ風…

 つむじ風が、突然、やって来て、突然、去ったようなものだった…

 私は、驚いたと同時に、落胆した…

 諏訪野マミに、もっといてもらいたかった…

 それが、偽らざる本音だった…

 なにより、諏訪野マミといると、安心するというか…

 正直、ホッとする…

 大人になって、できたかけがえのない友人なのかもしれなかった…

 誰でも、そうだが、友人は、学生時代の友人が一番…

 高校でも、大学でも、学生時代の友人が、一番安らげるといおうか…

 要するに、子供時代に出会った人間が、一番打ち解けることができる…

 それは、やはり、脳が関係しているのかもしれない…

 若い時の方が、なんでも夢中になれる…

 それと、同じことかもしれない…

 実際、30歳、40歳を過ぎても、友人はできるが、やはり、学生時代の友人と比べると打ち解けることが難しい…

 それが、正しいか否かは、わからないが、少なくとも、私は、そう感じている…

 が、

 もちろん、例外はある…

 その数少ない例外が、私にとっては、諏訪野マミだった…

 だから、彼女が去って、落胆した…

 と、同時に、その去り方が、彼女らしいとも思った…

 行動が、実にサバサバしている…

 それは、それで、心地良かった…

 諏訪野マミとは、こういう人間…

 こういう女だとわかる、去り方だった…

 
 長谷川センセイと、佐藤ナナが、翌日、病室に、検診にやって来たとき、私は、思いきって、聞いた…

 「…センセイ…」

 「…なんですか? 寿さん?…」

 「…私は、一体、いつ、退院できるんでしょうか?…」

 「…いつと言われても…」

 長谷川センセイは、戸惑った様子だった…

 どう言って、いいか、わからない様子だった…

 それを見かねた、看護師の佐藤ナナが、

 「…寿さん…焦ってはいけません…」

 と、口を挟んだ…

 「…寿さんは、まだ意識が、回復して、二週間しか経っていません…何事も焦っては、いけません…急いては事を仕損じるというでは、ありませんか?…」

 佐藤ナナが言う。

 「…急いては事を仕損じる…」

 私は、佐藤ナナの言葉を繰り返した…

 相変わらず、古臭いことを言う…

 私は、思った…

 佐藤ナナの浅黒い褐色の肌と、キラキラと輝いた瞳と、その言葉が、実に似合わない…

 22歳の女のコが、使う言葉ではない(苦笑)…

 だが、それを、佐藤ナナに告げることはできない…

 なにより、私のことを、思っての言葉だったからだ…

 私が、そんなことを、考えながら、佐藤ナナの愛くるしい顔を見ていると、

 「…やっぱり、古いですか?…」

 と、佐藤ナナが、ちょっと、恥ずかしそうに、笑った…

 たしかに、佐藤ナナの言葉は、古い…

 しかし、それを佐藤ナナに、指摘するのは、酷というものだ…

 佐藤ナナは、外国で、育って、日本人の高齢の男性から、日本語を、教わったと、聞いた…

 だから、日本語は、基礎からしっかりとしたものだったが、少々古臭いというか…

 いわゆる、しっかりとした日本語だが、今、現実に、あまり使わないような言葉を使う…

 だが、それを、指摘するのは、やはり、可哀そうというものだ…

 だから、私は、

 「…いいえ、基礎がしっかりしていることが、一番重要…」

 と、言った…

 「…基礎?…」

 佐藤ナナが、その愛くるしい瞳で、私を見つめながら、問う…

 「…そう…いわゆる、基本…佐藤さんは、高齢の男性に、日本語を習ったと言ってましたね…」

 「…ハイ…」

 「…きっと、その方は、昔ながらの正しい日本語を佐藤さんに、教えたんだと思います…別の言い方をすれば、教科書通りの…」

 「…教科書通り…」

 「…でも、それが、正解…ただしい、やり方…」

 「…正しいやり方って?…」

 「…何事も、基礎が、重要…基礎ができれば、あとは、応用が利く…」

 「…応用…」

 「…今、佐藤さんが、言った、急いては事を仕損じるという言葉は、正直、あまり日常では使わない…でも、その意味を知らない、日本人は、あまりいないと思う…」

 「…」

 「…だから、その言葉を知ったのは、正解…正しい…あとは、日本人の日常会話から、実際にやりとりする言葉を聞いていれば、なにを使って、なにを、使わないか、わかってくる…」

 私は、言った…

 それから、長谷川センセイを、見て、

 「…でしょ? …センセイ?…」

 と、同意を求めた…

 私の言葉に、

 「…まったく、寿さんには、驚かせられる…」

 と、長谷川センセイが、頭を掻いた…

 「…まだ、意識が回復してから、二週間足らずだというのに、佐藤さんに語りかける言葉を聞いてると、教師のようだ…」

 「…教師?…」

 「…とても、ボクと、同い年とは、思えない…」

 長谷川センセイが、断言する…

 「…ボクより、ずっと年上の女性…母親か、ずっと年の離れた、お姉さんという気持ちがする…」

 「…母親?…」

 私は、文字通り、その言葉に、絶句した…

 …褒められているのか?…

 それとも、

 …けなされているのか?…

 一瞬、悩んだ…

 やはり、同い年の男性に、自分より、年上に見られるのは、嬉しいことではない…

 これが、二十歳のころなら、どうということはないが、私、寿綾乃は、32歳…

 やはり、年齢に敏感になる(笑)…

 だから、私は、長谷川センセイに、なにか、言おうとしたところ、

 「…センセイ、寿さんに、失礼ですよ…」

 と、佐藤ナナが、突然、言った…

 「…失礼? …なにが?…」

 「…センセイ…同い年の女性に、自分より、年上に見えるというのは、禁句です…」

 佐藤ナナが、注意する…

 長谷川センセイは、その言葉で、私と佐藤ナナの顔を、交互に見た…

 それから、

 「…アッ!…」

 と、小さな声を上げた…

 佐藤ナナの言う意味がわかったらしい…

 要するに、私が、自分より、ずっと年上に見えると言ったことで、私が、若い佐藤ナナと比べて、言ったと、思われるかもしれないと、言いたかったのだろう…

 それを、婉曲に指摘したということだ…

 長谷川センセイは、佐藤ナナの指摘を理解して、黙り込んだ…

 「…そういうことか…」

 長谷川センセイが、頭を抱える…

 そして、すぐに、

 「…申し訳ない…」

 と、私に謝った…

 「…そんなつもりじゃなかった…」


 「…そんなつもりじゃなかったって、どんなつもりだったんですか?…」

 と、本来は、問い詰めたい気持ちもあったが、止めた…

 これ以上、ゴタゴタは避けたい…

 だから、私は、それ以上、なにも、言わなかった…

 代わりに、

 「…私の退院は?…」

 と、繰り返した…

 佐藤ナナの指摘は、枝葉末節の問題に過ぎない…

 だが、私の退院は、そんな枝葉末節の問題ではない…

 重要なことだ…

 長谷川センセイが、躊躇っているのを見て、

 「…半年もすれば、退院できると聞いたんですが、ホントですか?…」

 と、追い打ちをかけた…

 長谷川センセイは、驚いた…

 「…誰が、そんなことを言ったんですか?…」

 「…冬馬…菊池冬馬理事長…」

 「…冬馬が?…」

 長谷川センセイが、驚いた…

 「…いえ、冬馬理事長から、直接聞いたわけじゃありません…この病室に見舞いに来て頂いた、五井家の方から…」

 と、正直に、暴露した…

 私の言葉に、長谷川センセイは、悩んだ…

 しばし、考え込んだ…

 それから、ゆっくりと、口を開いた…

 「…たしかに、半年もすれば、寿さんが、退院できるだろうと、冬馬に言いました…それは、間違いありません…」


 「…」

 「…ですが、癌の方が…」

 「…癌?…」

 「…完治には、程遠い…いわば、騙し騙し、しているようなもの…それで、半年ぐらいとは、いったものの、自分でも、どうしていいか、わかりませんでした…」

 「…」

 「…ホントなら、病院を退院するんですから、すべて、治してから、退院してもらいたい…」

 長谷川センセイが、苦渋に満ちた表情で、言った…

 …それは、わかる…

 思わず、心の中で、呟いた…

 長谷川センセイの気持ちはわかる…

 医者として、当然の気持ちだろう…

 だが、世の中、できることと、できないことがある…

 私は、長谷川センセイに、そう言ってやりたかった…

 「…センセイのお立場は、わかります…」

 私は、つい言ってしまった…

 口に出して、しまった…

 「…ですが、自分のカラダです…完治は、無理でも、とりあえず、退院して、元の生活に戻りたい…」

 私は、言った…

 「…正直、いつまで、生きれるか、わかりません…ですが、それは、考えていても、答えが出る話じゃない…」

 「…」

 「…答えが出ない話をいつまでも、悩んでいても仕方がない…」

 私の言葉に、長谷川センセイは、

 「…」

 と、絶句した…

 そして、考え込んだ…

 しばし、経ってから、

 「…寿さん…それは、他人事です…」

 と、長谷川センセイが、言った…

 「…他人事?…」

 「…そう…他人事です…どうせ、治らないんだから、いつまでも、入院していても、仕方がない…体調が、よくなれば、退院させればいいのでは? と、思うのは、所詮、他人事です…ですが、誰もが、他人事だから、そう言える…でも、寿さん…アナタは、自分のことを、そう言っている…正直、驚かせられる…」

 「…」

 「…ボクが、医者という職業に就いて、真っ先に、思ったことは、決して、どんな患者も、他人事には、しないということでした…」

 「…」

 「…患者の身になって考える…青臭いですが、それを信条としています…ですから、寿さんに、担当医として、安易に、あと半年で、この病院を退院できるとは、言いたくなかった…いや、言えなかった…」

 「…」

 「…冬馬とは…理事長とは、学生時代の友人なので、軽い雑談の延長で、寿さんの容態を話したのですが、それが、いけなかった…」

 「…」

 「…反省しています…」

 そう言うと、長谷川センセイは、私に頭を下げた…

 私は、どう言っていいか、わからなかった…

 …正直、私は、退院したい…

 退院して、それが、私の神様から、与えられたミッションならば、諏訪野伸明のために、動きたい…

 行動したい…

 なにより、私は、行動派…

 基本、カラダを動かす人間だ…

 アレコレと、ウジウジ、ベッドの上で、悩んでいるのは、性に合わなかった…

 体力が、回復すれば、カラダを動かして、行動に出る…

 それが、私、寿綾乃という女だった…

 だから、退院したいが、それを、長谷川センセイに、これ以上、頼むことはできなかった…

 なにより、長谷川センセイは、私の身を案じて言ってくれている…

 それを、思うと、これ以上、口出しできなかった…

 沈黙が、あたりを、支配した…

 思わず、息苦しくなるほど、部屋の空気が、重たくなった…

 すると、突然、佐藤ナナが、

 「…長谷川センセイ…」

 と、口を開いた…

 「…センセイは、寿さんを好きでしょ?…」

 いきなり、言った…

 「…な、なにを、突然…」

 長谷川センセイが、当惑する…

 「…だから、余計、近くで、見守りたい…でしょ?…」

 佐藤ナナが、言う…

 「…佐藤さん…そんなことは…」

 「…そんなことはないと言いたいんでしょ? …でも、それは、ウソです…」

 「…ウソ? …どうして、佐藤さんに、そんなことがわかる?…」

 「…好きだから、心配なんです…これは、誰だって、同じ…センセイは、医者として、患者に他人事と思って、接したくないと、おっしゃいましたが、センセイも人間です…誰だって、好きな患者と、嫌いというほどではないけど、好きになれない患者がいるはすです…」

 「…」

 「…寿さんだって、一生、死ぬまで、この病院のベッドの上で、過ごすのは、嫌なはずです…」

 佐藤ナナが、ダメ出しした…

 その言葉が、すべてだった…

 「…たしかに、佐藤さんの言うことは、わかる…」

 ゆっくりと、考えながら、長谷川センセイが、言った…

 「…ボクも、担当医として、もう一度、ゆっくりと、考えてみる…寿さんを、ずっと、このベッドの上で、過ごさせるのは、やはり酷だ…」

 長谷川センセイが、断言した…

 これは、私、寿綾乃の勝利というよりは、佐藤ナナの勝利だった…

 実際、佐藤ナナは、検診が終わって、この病室を出てゆくとき、ニコッと、私に笑って見せた…

 それは、佐藤ナナが、私を気遣って、言ってくれたことか?

 あるいは、

 佐藤ナナが、自分が、好きな、長谷川センセイから、私を遠ざけるために、したことか、わからなかった…

 女心はわからない…

 まして、私より十歳年下の女のことは、わからなかった…

 ただ、結果的に、私の退院時期が、見えてきた…

 これは、確かなことだった…


 後日、藤原ナオキが、病室にやって来たときに、

 「…綾乃さんの退院後のことだけど…」

 と、いきなり、ナオキが、私に言った…

 「…決まったの?…」

 私は、つい声を弾ませた…

 が、

 ナオキは、無言で、首を横に振って、否定した…

 「…そう…」

 私は、落胆した…

 …たしかに、そんなに早く、退院できるはずもなかった…

 私は、まだベッドから、起き上がることもできなかった…

 「…退院は、まだ早いよ…」

 ナオキが私を慰める…

 「…まずは、歩くことから、始めないと…」

 私は、言葉もなかった…

 「…でも、まもなく、歩けるようにはなる…」

 「…ホント?…」

 「…ホントさ…諏訪野伸明氏が、言っていた…」

 「…伸明さんが?…」

 おそらく、菊池冬馬から、聞いたのだろう…

 私は、思った…

 「…それで、綾乃さんの退院後のことだけど…」

 さっきの話に戻った…

 「…できれば、綾乃さんには、元のジュンといっしょにいたマンションに戻って欲しい…」

 これは、渡りに船…

 嬉しい申し出だった…

 「…本当に、それでいいの?…」

 思わず、ナオキに聞いた…

 「…いいも、なにも、あのマンションは、綾乃さんと、ジュンの住まいじゃないか?…」

 「…でも、お金を出したのは、ナオキ…アナタじゃない? ホントに、私が、あのマンションに住んでいいの?…」

 「…構わない…それに、そうしなければ、この病院を出ても、綾乃さんは、住むところがない…まずは、住むところから、探さなくちゃならないだろ?…」

 「…それは、そうだけど…」

 「…それに、綾乃さんが、退院して、あのマンションに戻ったら、ボクも、今のマンションから、綾乃さんのいる、マンションに、引っ越すつもりだ…」

 「…エッ? …どうして?…」

 「…病み上がりの綾乃さんを、ひとりきりには、できないだろ?…」

 ナオキが、私のことを、これほど、思ってくれるとは、正直、思わなかった…

 だから、

 「…ありがと…」

 と、小さな声で言った…

 本当は、もっと大きな声で、言うべきことだが、なんだか、恥ずかしかった…

 誰でも、そうだが、身内の人間に、感謝の言葉を述べるのは、案外、恥ずかしいものだ…

 感謝は、他人にするから、言える…

 身内では、どうにも気恥ずかしい…

 「…いえ、どう致しまして…」

 ナオキが、おどけた口調で、返した…

 「…ただ、心配なことが、ひとつだけある…」

 「…なにが、心配?…」

 「…諏訪野伸明氏…彼が、これを知って、どう思うか?…」

 …たしかに、言われてみれば、その通り…

 私が、もし、諏訪野伸明と、今後、付き合うのならば、諏訪野伸明は、いい思いはしないだろう…

 明らかに、私に不利…

 藤原ナオキと同居するのは、不利だ…

 しかしながら、ナオキの申し出を断ることはできなかった…

 なにより、ナオキは、私の身を心配して、同居を提案したのだ…

 「…もちろん、綾乃さんの恋路を邪魔する気は、毛頭ない…だから、ボクの口から、諏訪野さんには、事情を説明するつもりだ…」

 ナオキが、言う…

 事実、ナオキは、そうするだろう…

 しかし、それを諏訪野伸明が、どう取るかは、わからない…

 私とナオキが、かつて、男女の関係にあったことは、知っているだろう…

 それが、私のためとはいえ、退院後、再び、同じマンションに同居する…

 たとえ、ナオキが、今は、私と男女の関係がないと、断言しても、それを素直に取るかどうかは、わからない…

 疑えば、切りがないからだ…

 が、

 もし、藤原ナオキが、諏訪野伸明に、そう説明して、それを信じなければ、それで、いいのでは?

 ふと、思った…

 藤原ナオキは、私の信頼する人物…

 無名時代から、いっしょに会社をやってきた仲間だ…

 同士だ…

 その信頼する藤原ナオキの言葉を、諏訪野伸明が、信じられないのならば、所詮、諏訪野伸明は、その程度の人間…

 私が、好きになるほどの男ではないかもしれない…

 そう気付いた…

 そして、その直後に、気付いた…

 これでは、話が逆だ…

 あべこべだ…

 五井家当主の諏訪野伸明が、私を選ぶので、あって、私が、諏訪野伸明を選ぶんじゃない…

 そもそも、二人は、同列じゃない…

 同じ身分じゃない…

 なにを、一体、調子に乗ってるんだ…

 上から目線もたいがいにしろ!

 と、自分自身に言いたくなった…

 どれほど、調子に乗ってるんだと、言いたくなる…

 病院のベッドの上で、アレコレ、考えるだけの毎日…

 妄想するだけの毎日だ…

 だから、自己が肥大化する…

 自意識だけ、肥大化する…

 膨張する…

 まるで、自分が世界の中心…

 おおげさにいえば、そんな思考になる…

 これは、危険…

 危険極まりない…

 どんなことでも、自分中心に考えることほど、恐ろしいことはない…

 これでは、他人が見えない…

 周囲が見えない…

 他人が、なにを考えているか、わからないのに、むやみやたらに、行動すれば、容易に足元をすくわれる…

 私は、そんな危険に、気付いた…

 つまりは、私は、まだ、退院には、早すぎる…

 周囲の人間の思考を読み取ることが、できない人間が、外に出ては、いけない…

 この五井記念病院を出ては、いかない…

 そう思った、私は、

 「…やはり、私には、まだ退院は、早いみたい…」

 と、ナオキに言った…

 「…綾乃さん…どうしたの? …早く退院したいんじゃ、なかったの?…」

 「…ううん…自分の状態がわかったの…」

 「…自分の状態?…」

 「…私は、まだ意識が回復して、二週間…心もカラダも、全快には、ほど遠い…焦っちゃ、ダメ…」

 「…焦っちゃ、ダメ…」

 「…そう、自分に言いたい…」

 私は、言って、笑った…

 残念なことだが、まだ、退院には、早い…

 そう自分自身に言い聞かせることが、なにより、大切だと、気付いた…

 …急いては事をし損ずる…

 と、佐藤ナナが、私に言ったではないか?

 まさに、その通り…

 佐藤ナナの言う通りだった…

 「…綾乃さん…」

 ナオキが言った…

 「…なに?…」

 「…先日、ひとを介して、ボクに会いたいと、言ってきた、人物がいるんだが…」

 ナオキが、言いにくそうに、言った…

 「…誰? …いえ、どうして、私に、そんなことを言うの?…」

 「…会うか、どうかは、まだ決めちゃいないが、綾乃さんの意見も聞きたくて…」

 「…それは、誰? …一体、相手は、どんな目的で、ナオキ、アナタに会いたいの?…」

 「…今、世間に知られた、IT経営者で、テレビのキャスターも務める、この藤原ナオキに会って、一度食事でもって、誘われてる…」

 「…誘われてる? …とすると、相手は女性? …ナオキ、相変わらず、女にモテモテなのね…」

 「…いや、誘った相手は、残念ながら、男性だ…しかも、六十代…」

 「…六十代の男性?…ナオキ、もったいぶってないで、さっさと、その男性の名前を言いなさい…」

 「…綾乃さんを試すような真似をして、すまない…」

 ナオキが、詫びた…

 「…ボクに、一度、いっしょに、食事でもと、誘ったのは、国会議員の菊池重方(しげかた)氏だ…」

 ナオキが、告白する…

 …菊池重方(しげかた)…

 この五井記念病院の菊池冬馬の父…

 その名前を聞いて、驚いたが、内心、来るべきものが、来たとも思った…

 …菊池重方(しげかた)…五井家当主の座を、諏訪野伸明から、奪おうとする男…

 その男が、ついに、仕掛けてきた…

 私は、そう思った…

                

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