第77話

文字数 6,631文字

 恋かもしれない…

 違うかもしれない…

 私は、いつも、考える…

 それは、諏訪野伸明に会う、ずっと前から…

 そして、それは、もしかしたら、藤原ナオキに会う、ずっと前からかも、しれなかった…

 男と女が出会う…

 だけでなく、

 女と女でもいい…

 要するに、恋でなくてもいい…

 女同士の友情でもいい…

 私は、率直に言って、そんなものとは、無縁…

 無縁の人生だった…

 矢代綾子が、寿綾乃を名乗る…

 そのずっと以前から、私は、一人…

 一人ぼっちだった…

 それは、友人が、いるとか、いないとかでは、ない…

 ハッキリ言って、小学校や、中学校でも、友人は、いたし、クラスでも、一人ぼっちの経験はない…

 だから、その当時の友人やクラスメートや、担任の教師に聞いても、私が、一人ぼっちの気分を抱いていたと、告白すれば、仰天するだろう…

 しかし、それが、真実…

 紛れもない真実だった…

 いわば、もやもやと、満たされない気持ちを持っていたといえば、いいのだろうか?

 だからだろう…

 母が、病気になり、従妹の寿綾乃が、亡くなったとき、その死に際して、

 「…矢代綾子ではなく、寿綾乃と名乗りなさい…これからは、寿綾乃として、生きなさい…」

 と、母が、私に告げたとき、私は、仰天したが、決して、嫌ではなかった…

 それは、子供ながら、どこかで、自分の人生を変えたかった…

 リセットしたかった気持ちがあったからかもしれない…

 なんというか、それまで、生きてきて、それまでの生活が、大げさにいえば、非現実というか…

 夢遊病者ではないが、自分の人生をしっかり生きている実感がなかった…

 しっかりと、地に足がついている感覚がなかった…

 その感覚に乏しかった…

 だから、母の死に際の遺言…

 「…矢代綾子ではなく、寿綾乃として、生きなさい…」

 という言葉は、大げさに、言えば、人生をやり直せる重みがあった…

 現に、私は、一人、田舎から、上京して、やって来た…

 寿綾乃として…

 そして、藤原ナオキに会った…

 当時のナオキは、ただのコンピュータオタクだった…

 オタクの仲間同士、会社を立ち上げ、私は、ひとの紹介で、偶然、ナオキの会社で、アルバイトをすることになった…

 だが、ナオキは、自分自身が、どれほど、意識しているか、わからないが、長身のイケメンだった…

 が、

 出会った当時は、信じられないかもしれないが、女好きではなかった(笑)…

 いや、

 男だから、当然、女は好きだっただろう…

 だが、当時は、オタク仲間と、会社を立ち上げるのに、必死だった…

 文字通り、全力を尽くしていた…

 そして、その会社はITバブルの波に乗り、発展…

 やがて、上場を果たした…

 それを契機に莫大な創業者利益が、ナオキの手元に入った…

 それから、ナオキの本格的な女遊びが始まったといえる…

 実のところ、それよりずっと以前に、会社が、大きくなり、経営が安定した頃から、ナオキの女遊びが始まった…

 誰でもそうだが、お金があるとしれば、自然に、女が寄ってくるものだ…

 飲みに行き、

 「…あのひと、会社の社長なんだって…」

 と、女同士耳打ちする…

 すると、当然ながら、気になる…

 そして、ナオキ当人が、思わずとも、周囲の人間が、ナオキが思う以上に、成功していると、考え、ナオキの周囲に女が群がって来た…

 だから、最初は、ナオキ当人が、その気がなくても、いつのまにか、大げさにいえば、女好きが、開花するというか…

 いつのまにか、女を求めるようになる…

 誰もが、そうだが、女にモテて、悪い気持ちになる男はいない…

 まして、ナオキは、長身のイケメンだった…

 だから、女もその気になる…

 そして、ナオキも…

 しかしながら、ナオキは、本当は、純粋というか…

 根がオタクだった…

 だから、遊びが苦手…

 結局、海千山千の女たちの金づるにされ、捨てられた…

 私は、それを、身近に見ていた…

 身近に見て、心が痛んだ…

 といえば、いいが、実は、それほどでもなかった(笑)…

 女に食い物にされているとまではいわないが、たかられているといった印象…

 だが、ナオキは、お金持ち…

 だから、どうってことない…

 それが、現実だった…

 ただ、バカな男と思った…

 調子に乗り過ぎてると、思った…

 しかし、それを直接、口にすることもなかった…

 なぜなら、私は、そんなナオキから、十分に恩恵を受けていた…

 ナオキの息子と思われたジュン君の面倒を見る代わりに、ナオキから、生活の面倒を見て、もらっていた…

 すでに私は、ナオキと男女の関係にあったから、傍目には、ナオキの妻だったユリコを家庭から追い出して、ユリコの後釜に座ったようにも、思えたかもしれないが、それでも、私自身は、幸福だった…

 田舎で、母と二人暮らしだった頃に、比べ、人生が、充実していた…

 それは、思うに、ただナオキとジュン君と、気が合ったから…

 気が合って、楽しかったからに他ならない…

 だから、ハッキリいえば、ナオキが成功する前…

 安いアパートで、ナオキとジュン君と私と三人で暮らした時代が、私にとって、もっとも、幸福な時代だったかもしれない…

 私は、思った…

 そして、なぜ、そんなことを、思ったかといえば、さっき、菊池重方(しげかた)が、諏訪野伸明を評して、

 「…子供時代から伸明クンを知っているが、決して幸せには見えなかった…」

 と、言ったからだ…

 由緒ある家の大金持ちのボンボンに生まれ、ルックスもいい…

 いわば、すべてを持って生まれた男だった…

 それが、幸せに見えなかったとは…

 なんたる皮肉…

 お金も、ルックスも、頭脳も、いわば、すべてを持って生まれたにも、かかわらず、諏訪野伸明本人は、少しも幸せではなかったのだろう…

 そして、それは、本人以上に、周囲の人間が、感じるものだ…

 と、ここまで、考えて、気付いた…

 それは、ひょっとしたら、私…

 矢代綾子が、寿綾乃と名乗る前の私と同じだったかもしれないと…

 思えば、私が、寿綾乃と名乗った頃から、人生が変わった…

 ハッキリ言って、人生が好転した…

 それは、なにも、お金だけではない…

 藤原ナオキやジュン君と出会って、人生が、充実したというか…

 つまり、好きなひとと、巡り合えた幸運というか…

 それまでは、私が、感じたことのない満ち足りた人生を送った…

 まさに、充実した日々だった…

 お金は、なくても、愛する家族に恵まれた…

 そういうことだった…

 まさに、人生はめぐり逢い…

 人とのめぐり逢いだ…

 誰と知り合うかで、その後の人生が、変わる…

 激変する…

 そして、もしかしたら、私にとっても、あの時代が、ピークだったのかもしれない…

 あの時代が、私にとって、人生のピークだったのかもしれない…

 私は、思った…


 そんなことを、考えていると、夜になり、ナオキが帰って来た…

 我ながら、ホッとする瞬間だった…

 ナオキとは、すでに、男女の関係は、終わっている…

 が、

 なぜか、ナオキといると、ホッとする…

 ドキドキするとか、そんな感覚は、一切ない…

 普通、恋は、ドキドキするもの…

 が、

 この藤原ナオキに至っては、出会った当初から、そんな感覚は、まるでなかった…

 それはなぜか?

 簡単に言えば、ナオキが、オタクだったから…

 ただのコンピュータオタクだったからだ(笑)…

 この藤原ナオキもまた、諏訪野伸明に勝るとも劣らない、長身のイケメン…

 しかしながら、出会った当時は、ただのオタクだった…

 たしかに、顔はいいものの、その顔の良さを生かせない…

 女でいえば、美人に生まれたものの、化粧もしないし、服も、無頓着…

 汚らしいとまでは、言わないが、見た目にまったくこだわらないから、ルックスの良さを生かせない…

 ルックスの良さも半減する…

 そういうことだ(笑)…

 それが、ナオキが、徐々に成功の階段を駆け上がると、同時に、洗練されてきた…

 仕事の都合上、他の会社のお偉いさんと、出会う機会も増える…

 また、行く店も、それまでと違って格式の高い店に変わる…

 結果、服選びから、変わらざるを得なかった…

 が、

 服選びから、変わることで、藤原ナオキの持つ、生来の顔の良さが、生きてきた…

 それは、まるで、美人だが、服にもメイクにも、無頓着な女が、キチンとメイクをして、おめかしをして、街を歩き出すようなもの…

 いつのまにか、ナオキは、思わず、周囲の者も振り返るほどの、イケメンに成長した…

 私は、そんなことを、考えながら、ナオキを見た…

 ナオキは、そんな私の心の内に気付いたのか、

 「…どうしたの…綾乃さん…そんな目で、ボクを見て…」

 と、呟いた…

 私は、そんなナオキを見て、思わず、

 「…フラれちゃった…」

 と、言った…

 ナオキが、驚いた…

 「…フラれた? …誰に?…」

 ビックリした表情で、訊いた…

 「…諏訪野さん…諏訪野伸明さん…」

 「…諏訪野さんに、フラれた?…」

 ナオキが、驚いた表情で、言った…

 「…そう…私は、ただ、利用されただけ…」

 「…利用?…」

 「…伸明さんは、私を利用して、私と結婚するフリをした…それで、周囲の人間を騙して、その間に、五井での自分の立ち位置を固めようとした…」

 私の告白に、

 「…」

 と、ナオキは、なにも言わなかった…

 むしろ、優しい目で、私を見た…

 「…どうしたの? …驚かないの?…」

 「…いや…」

 「…いやって? なにが、いやなの?…」

 「…なにか、目的があると思った…」

 言いづらそうに、ポツリと、漏らした…

 「…目的?…」

 「…ボクと、綾乃さんは、いっしょだ…」

 「…なにが、いっしょなの?…」

 「…平民ってこと…」

 「…平民?…」

 「…金持ちでも、貧乏人でもない、一般人…」

 「…」

 「…その一般人に、諏訪野さんのような大金持ちが、結婚を前提とした交際を申し込む…だから、なにか、あるって、考えるのが、普通だ…」

 ナオキが、言いにくそうに、言う…

 私は、ナオキの言葉に、

 「…」

 と、言葉もなかった…

 …気付いていた…

 とっさに、思った…

 …やはり、ナオキも気付いていた…

 そう考えると、肩の力が抜けるというか…

 全身の力が抜けて、ヘラヘラとその場に倒れ込みそうな感覚になった…

 「…ナオキ…アナタ?…」

 「…ゴメン…正直、何度も言おうと思ったこともあった…でも…」

 「…でも、なに?…」

 「…綾乃さんの顔を見ると言えなかった…」

 「…」

 「…もしかしたら、なにか、別の目的があるんじゃ…と、言いたかったけれども…嬉しそうな綾乃さんの顔を見ると…」

 後は、言葉が続かなかった…

 その言葉を聞きながら、私は、なんだか、ナオキに、申し訳なくなった…

 まさか…

 まさか、ナオキが、そんなふうに、私に気を使っているとは、思えなかったからだ…

 だが、

 私の口から出た言葉は、

 「…バカね…」

 と、ナオキを非難する言葉だった…

 「…バカ? …どうして、バカなの?…」

 「…バカはバカ!…」

 「…だから、どうして、バカなの?…」

 「…私が、そんなに傷つくと思う? …」

 「…思う…」

 ナオキが、即答した…

 「…綾乃さんも、女さ…」

 「…女?…」

 「…でも…」

 「…でも、なに?…」

 「…ボクが、諏訪野さんには、なにか、目的があるんじゃないかって、綾乃さんに、言わなかったのは、もう一つ理由がある…」

 「…どんな理由?…」

 「…諏訪野さんが、綾乃さんに、惚れてることさ…」

 思いがけない言葉だった…

 「…私に惚れてる? …ナオキ、アナタ、バカなんじゃないの?…」

 「…いや、バカじゃない!…」

 「…だったら、どうして?…」

 「…綾乃さんに接している、諏訪野さんの態度さ…」

 「…」

 「…自分では、綾乃さんを利用しているつもりかもしれないが、誰がどうみても、ホの字が入っている…」

 「…」

 「…案外、自分では、気付かないことも、周囲の人間は、気付いているものさ…」

 「…」

 「…だから、菊池さんも、今では、諏訪野さんと、結婚したいって、言い出しただろ?…」

 驚いた…

 まさか…

 まさか、ナオキが、そんなことまで、知っているといるとは、思わなかった…

 「…まさか、ナオキ…アナタ…今、五井でなにが、起こっているか、知ってるの?…」

 「…大方はね…」

 肩をすくめた…

 「…菊池さんが、綾乃さんの担当看護師だった佐藤さんに対抗して、諏訪野さんと結婚したいと言い出したそうだけれども、根底には、綾乃さんに対抗する気持ちもあると、思ってる…」

 「…どうして、そう思うの?…」

 「…菊池さんが、五井の人間だからさ…」

 「…どういう意味?…」

 「…五井の人間は、五井の人間と、結婚するのが、掟なんだろ?…」

 「…」

 「…にもかかわらず、諏訪野さんは、綾乃さんに、気がある…それが、純粋に五井の人間である、菊池さんが見ていて、許せるものじゃないってことさ…」

 「…」

 なんだか…

 なんだか、急速に肩の力が抜けたというか…

 ナオキが、こんなにも、五井のことに、詳しいとは、思わなかった…

 以前にも、私が説明したことはあったが、まさか、ここまで、五井の内部事情に詳しいとは、思わなかった…

 脱力感というか…

 なんだか、カラダ中から、力が抜けてゆく気がした…

 私は、これまで、一人で、五井と戦っていたというと、大げさだが、一人で、諏訪野伸明について、考え込んでいた…

 しかし、こんなにも、身近に、私以上に、冷静に、諏訪野伸明を観察している人間が、いるとは、思わなかった…

 そう考えると、肩の力が抜けた…

 「…諏訪野さんが、綾乃さんと、簡単に別れられるとは、思わない…」

 「…どうして?…」

 「…未練がある…正直、綾乃さんと身近に接して、綾乃さんは、余人には、代えがたい、魅力がある…」

 「…ナオキ…アナタ…まさか、こんなときに、私を口説こうとしているじゃないでしょうね?…」

 私の言葉に、ナオキは、唖然とした表情になった…

 「…私を持ち上げて、ベッドに運ぼうとしているんじゃ…」

 私の言葉に、

 「…これだから、綾乃さんは…」

 と、苦笑した…

 「…肝心のときに、わけのわからないことを言い出す…」

 「…」

 「…でも、だから、好きだ…」

 そう言うと、まるで、子供にするように、私のおでこに軽くキスをした…

 「…本当は、唇がいいんだが、それは、諏訪野さんに…」

 ナオキが笑った…

 「…まだ、綾乃さんは、諏訪野さんと、終わっていない…」

 「…」

 「…完全終了しない限り、ボクは、綾乃さんと、キスができない…」

 ナオキが、笑いながら、言った…

 私は、それを聞きながら、

 「…ナオキ…アナタ、今、自分で、自分が、いい男だと思ったでしょ?…こんなセリフを口にする自分がいい男だと思ったでしょ?…」

 「…どうして、わかったの?…」

 「…今、かすかに、鼻の穴が広がった…自分で、自分を褒めてる証拠…」

 私の言葉に、ナオキが、笑った…

 「…これは、参った…一本取られた…」

 ナオキが、苦笑する…

 「…ナオキ…アナタ、一体、私をなんだと、思っているの?…」

 「…寿綾乃…」

 「…寿綾乃?…」

 「…そう…誰にも負けない鉄の女…」

 「…」

 「…だから、病気にも、負けない…五井にも、負けない…」

 ジッと、私に、目を据えて、言った…

 私は、その言葉で、ナオキが、私を励ましていることに、気付いた…

 傷つき、凹んだ私を励ましていることに、気付いた…

 そして、それが、嬉しかった…

 こんなにも、自分のことを、思ってくれる人間が、身近にいることが、嬉しかった…

 すでに、父も母も死に、私一人…

 血の繋がった家族は、誰もいない…

 だから、私にとって、このナオキは、家族だった…

 恋人ではない…

 夫でもない…

 家族…

 いっしょにいる家族だった…

 ナオキが、どう思おうと、私にとっては、家族だった…

 疑似家族だった…

 だから、諏訪野伸明と付き合うことができた…

 恋人や、夫では、ナオキを裏切れない…

 が、

 家族は、別…

 誰もが、家族以外の人間と付き合うからだ…

 恋をするものだからだ…

 だが、

 これは、もしかしたら、屁理屈…

 私だけ、感じていることだろうか?

 このナオキは、そう考えていないのだろうか?

 私は、この藤原ナオキを眼前にしながら、そんなことを、考えた…

 考え続けた…

                 
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