第77話
文字数 6,631文字
恋かもしれない…
違うかもしれない…
私は、いつも、考える…
それは、諏訪野伸明に会う、ずっと前から…
そして、それは、もしかしたら、藤原ナオキに会う、ずっと前からかも、しれなかった…
男と女が出会う…
だけでなく、
女と女でもいい…
要するに、恋でなくてもいい…
女同士の友情でもいい…
私は、率直に言って、そんなものとは、無縁…
無縁の人生だった…
矢代綾子が、寿綾乃を名乗る…
そのずっと以前から、私は、一人…
一人ぼっちだった…
それは、友人が、いるとか、いないとかでは、ない…
ハッキリ言って、小学校や、中学校でも、友人は、いたし、クラスでも、一人ぼっちの経験はない…
だから、その当時の友人やクラスメートや、担任の教師に聞いても、私が、一人ぼっちの気分を抱いていたと、告白すれば、仰天するだろう…
しかし、それが、真実…
紛れもない真実だった…
いわば、もやもやと、満たされない気持ちを持っていたといえば、いいのだろうか?
だからだろう…
母が、病気になり、従妹の寿綾乃が、亡くなったとき、その死に際して、
「…矢代綾子ではなく、寿綾乃と名乗りなさい…これからは、寿綾乃として、生きなさい…」
と、母が、私に告げたとき、私は、仰天したが、決して、嫌ではなかった…
それは、子供ながら、どこかで、自分の人生を変えたかった…
リセットしたかった気持ちがあったからかもしれない…
なんというか、それまで、生きてきて、それまでの生活が、大げさにいえば、非現実というか…
夢遊病者ではないが、自分の人生をしっかり生きている実感がなかった…
しっかりと、地に足がついている感覚がなかった…
その感覚に乏しかった…
だから、母の死に際の遺言…
「…矢代綾子ではなく、寿綾乃として、生きなさい…」
という言葉は、大げさに、言えば、人生をやり直せる重みがあった…
現に、私は、一人、田舎から、上京して、やって来た…
寿綾乃として…
そして、藤原ナオキに会った…
当時のナオキは、ただのコンピュータオタクだった…
オタクの仲間同士、会社を立ち上げ、私は、ひとの紹介で、偶然、ナオキの会社で、アルバイトをすることになった…
だが、ナオキは、自分自身が、どれほど、意識しているか、わからないが、長身のイケメンだった…
が、
出会った当時は、信じられないかもしれないが、女好きではなかった(笑)…
いや、
男だから、当然、女は好きだっただろう…
だが、当時は、オタク仲間と、会社を立ち上げるのに、必死だった…
文字通り、全力を尽くしていた…
そして、その会社はITバブルの波に乗り、発展…
やがて、上場を果たした…
それを契機に莫大な創業者利益が、ナオキの手元に入った…
それから、ナオキの本格的な女遊びが始まったといえる…
実のところ、それよりずっと以前に、会社が、大きくなり、経営が安定した頃から、ナオキの女遊びが始まった…
誰でもそうだが、お金があるとしれば、自然に、女が寄ってくるものだ…
飲みに行き、
「…あのひと、会社の社長なんだって…」
と、女同士耳打ちする…
すると、当然ながら、気になる…
そして、ナオキ当人が、思わずとも、周囲の人間が、ナオキが思う以上に、成功していると、考え、ナオキの周囲に女が群がって来た…
だから、最初は、ナオキ当人が、その気がなくても、いつのまにか、大げさにいえば、女好きが、開花するというか…
いつのまにか、女を求めるようになる…
誰もが、そうだが、女にモテて、悪い気持ちになる男はいない…
まして、ナオキは、長身のイケメンだった…
だから、女もその気になる…
そして、ナオキも…
しかしながら、ナオキは、本当は、純粋というか…
根がオタクだった…
だから、遊びが苦手…
結局、海千山千の女たちの金づるにされ、捨てられた…
私は、それを、身近に見ていた…
身近に見て、心が痛んだ…
といえば、いいが、実は、それほどでもなかった(笑)…
女に食い物にされているとまではいわないが、たかられているといった印象…
だが、ナオキは、お金持ち…
だから、どうってことない…
それが、現実だった…
ただ、バカな男と思った…
調子に乗り過ぎてると、思った…
しかし、それを直接、口にすることもなかった…
なぜなら、私は、そんなナオキから、十分に恩恵を受けていた…
ナオキの息子と思われたジュン君の面倒を見る代わりに、ナオキから、生活の面倒を見て、もらっていた…
すでに私は、ナオキと男女の関係にあったから、傍目には、ナオキの妻だったユリコを家庭から追い出して、ユリコの後釜に座ったようにも、思えたかもしれないが、それでも、私自身は、幸福だった…
田舎で、母と二人暮らしだった頃に、比べ、人生が、充実していた…
それは、思うに、ただナオキとジュン君と、気が合ったから…
気が合って、楽しかったからに他ならない…
だから、ハッキリいえば、ナオキが成功する前…
安いアパートで、ナオキとジュン君と私と三人で暮らした時代が、私にとって、もっとも、幸福な時代だったかもしれない…
私は、思った…
そして、なぜ、そんなことを、思ったかといえば、さっき、菊池重方(しげかた)が、諏訪野伸明を評して、
「…子供時代から伸明クンを知っているが、決して幸せには見えなかった…」
と、言ったからだ…
由緒ある家の大金持ちのボンボンに生まれ、ルックスもいい…
いわば、すべてを持って生まれた男だった…
それが、幸せに見えなかったとは…
なんたる皮肉…
お金も、ルックスも、頭脳も、いわば、すべてを持って生まれたにも、かかわらず、諏訪野伸明本人は、少しも幸せではなかったのだろう…
そして、それは、本人以上に、周囲の人間が、感じるものだ…
と、ここまで、考えて、気付いた…
それは、ひょっとしたら、私…
矢代綾子が、寿綾乃と名乗る前の私と同じだったかもしれないと…
思えば、私が、寿綾乃と名乗った頃から、人生が変わった…
ハッキリ言って、人生が好転した…
それは、なにも、お金だけではない…
藤原ナオキやジュン君と出会って、人生が、充実したというか…
つまり、好きなひとと、巡り合えた幸運というか…
それまでは、私が、感じたことのない満ち足りた人生を送った…
まさに、充実した日々だった…
お金は、なくても、愛する家族に恵まれた…
そういうことだった…
まさに、人生はめぐり逢い…
人とのめぐり逢いだ…
誰と知り合うかで、その後の人生が、変わる…
激変する…
そして、もしかしたら、私にとっても、あの時代が、ピークだったのかもしれない…
あの時代が、私にとって、人生のピークだったのかもしれない…
私は、思った…
そんなことを、考えていると、夜になり、ナオキが帰って来た…
我ながら、ホッとする瞬間だった…
ナオキとは、すでに、男女の関係は、終わっている…
が、
なぜか、ナオキといると、ホッとする…
ドキドキするとか、そんな感覚は、一切ない…
普通、恋は、ドキドキするもの…
が、
この藤原ナオキに至っては、出会った当初から、そんな感覚は、まるでなかった…
それはなぜか?
簡単に言えば、ナオキが、オタクだったから…
ただのコンピュータオタクだったからだ(笑)…
この藤原ナオキもまた、諏訪野伸明に勝るとも劣らない、長身のイケメン…
しかしながら、出会った当時は、ただのオタクだった…
たしかに、顔はいいものの、その顔の良さを生かせない…
女でいえば、美人に生まれたものの、化粧もしないし、服も、無頓着…
汚らしいとまでは、言わないが、見た目にまったくこだわらないから、ルックスの良さを生かせない…
ルックスの良さも半減する…
そういうことだ(笑)…
それが、ナオキが、徐々に成功の階段を駆け上がると、同時に、洗練されてきた…
仕事の都合上、他の会社のお偉いさんと、出会う機会も増える…
また、行く店も、それまでと違って格式の高い店に変わる…
結果、服選びから、変わらざるを得なかった…
が、
服選びから、変わることで、藤原ナオキの持つ、生来の顔の良さが、生きてきた…
それは、まるで、美人だが、服にもメイクにも、無頓着な女が、キチンとメイクをして、おめかしをして、街を歩き出すようなもの…
いつのまにか、ナオキは、思わず、周囲の者も振り返るほどの、イケメンに成長した…
私は、そんなことを、考えながら、ナオキを見た…
ナオキは、そんな私の心の内に気付いたのか、
「…どうしたの…綾乃さん…そんな目で、ボクを見て…」
と、呟いた…
私は、そんなナオキを見て、思わず、
「…フラれちゃった…」
と、言った…
ナオキが、驚いた…
「…フラれた? …誰に?…」
ビックリした表情で、訊いた…
「…諏訪野さん…諏訪野伸明さん…」
「…諏訪野さんに、フラれた?…」
ナオキが、驚いた表情で、言った…
「…そう…私は、ただ、利用されただけ…」
「…利用?…」
「…伸明さんは、私を利用して、私と結婚するフリをした…それで、周囲の人間を騙して、その間に、五井での自分の立ち位置を固めようとした…」
私の告白に、
「…」
と、ナオキは、なにも言わなかった…
むしろ、優しい目で、私を見た…
「…どうしたの? …驚かないの?…」
「…いや…」
「…いやって? なにが、いやなの?…」
「…なにか、目的があると思った…」
言いづらそうに、ポツリと、漏らした…
「…目的?…」
「…ボクと、綾乃さんは、いっしょだ…」
「…なにが、いっしょなの?…」
「…平民ってこと…」
「…平民?…」
「…金持ちでも、貧乏人でもない、一般人…」
「…」
「…その一般人に、諏訪野さんのような大金持ちが、結婚を前提とした交際を申し込む…だから、なにか、あるって、考えるのが、普通だ…」
ナオキが、言いにくそうに、言う…
私は、ナオキの言葉に、
「…」
と、言葉もなかった…
…気付いていた…
とっさに、思った…
…やはり、ナオキも気付いていた…
そう考えると、肩の力が抜けるというか…
全身の力が抜けて、ヘラヘラとその場に倒れ込みそうな感覚になった…
「…ナオキ…アナタ?…」
「…ゴメン…正直、何度も言おうと思ったこともあった…でも…」
「…でも、なに?…」
「…綾乃さんの顔を見ると言えなかった…」
「…」
「…もしかしたら、なにか、別の目的があるんじゃ…と、言いたかったけれども…嬉しそうな綾乃さんの顔を見ると…」
後は、言葉が続かなかった…
その言葉を聞きながら、私は、なんだか、ナオキに、申し訳なくなった…
まさか…
まさか、ナオキが、そんなふうに、私に気を使っているとは、思えなかったからだ…
だが、
私の口から出た言葉は、
「…バカね…」
と、ナオキを非難する言葉だった…
「…バカ? …どうして、バカなの?…」
「…バカはバカ!…」
「…だから、どうして、バカなの?…」
「…私が、そんなに傷つくと思う? …」
「…思う…」
ナオキが、即答した…
「…綾乃さんも、女さ…」
「…女?…」
「…でも…」
「…でも、なに?…」
「…ボクが、諏訪野さんには、なにか、目的があるんじゃないかって、綾乃さんに、言わなかったのは、もう一つ理由がある…」
「…どんな理由?…」
「…諏訪野さんが、綾乃さんに、惚れてることさ…」
思いがけない言葉だった…
「…私に惚れてる? …ナオキ、アナタ、バカなんじゃないの?…」
「…いや、バカじゃない!…」
「…だったら、どうして?…」
「…綾乃さんに接している、諏訪野さんの態度さ…」
「…」
「…自分では、綾乃さんを利用しているつもりかもしれないが、誰がどうみても、ホの字が入っている…」
「…」
「…案外、自分では、気付かないことも、周囲の人間は、気付いているものさ…」
「…」
「…だから、菊池さんも、今では、諏訪野さんと、結婚したいって、言い出しただろ?…」
驚いた…
まさか…
まさか、ナオキが、そんなことまで、知っているといるとは、思わなかった…
「…まさか、ナオキ…アナタ…今、五井でなにが、起こっているか、知ってるの?…」
「…大方はね…」
肩をすくめた…
「…菊池さんが、綾乃さんの担当看護師だった佐藤さんに対抗して、諏訪野さんと結婚したいと言い出したそうだけれども、根底には、綾乃さんに対抗する気持ちもあると、思ってる…」
「…どうして、そう思うの?…」
「…菊池さんが、五井の人間だからさ…」
「…どういう意味?…」
「…五井の人間は、五井の人間と、結婚するのが、掟なんだろ?…」
「…」
「…にもかかわらず、諏訪野さんは、綾乃さんに、気がある…それが、純粋に五井の人間である、菊池さんが見ていて、許せるものじゃないってことさ…」
「…」
なんだか…
なんだか、急速に肩の力が抜けたというか…
ナオキが、こんなにも、五井のことに、詳しいとは、思わなかった…
以前にも、私が説明したことはあったが、まさか、ここまで、五井の内部事情に詳しいとは、思わなかった…
脱力感というか…
なんだか、カラダ中から、力が抜けてゆく気がした…
私は、これまで、一人で、五井と戦っていたというと、大げさだが、一人で、諏訪野伸明について、考え込んでいた…
しかし、こんなにも、身近に、私以上に、冷静に、諏訪野伸明を観察している人間が、いるとは、思わなかった…
そう考えると、肩の力が抜けた…
「…諏訪野さんが、綾乃さんと、簡単に別れられるとは、思わない…」
「…どうして?…」
「…未練がある…正直、綾乃さんと身近に接して、綾乃さんは、余人には、代えがたい、魅力がある…」
「…ナオキ…アナタ…まさか、こんなときに、私を口説こうとしているじゃないでしょうね?…」
私の言葉に、ナオキは、唖然とした表情になった…
「…私を持ち上げて、ベッドに運ぼうとしているんじゃ…」
私の言葉に、
「…これだから、綾乃さんは…」
と、苦笑した…
「…肝心のときに、わけのわからないことを言い出す…」
「…」
「…でも、だから、好きだ…」
そう言うと、まるで、子供にするように、私のおでこに軽くキスをした…
「…本当は、唇がいいんだが、それは、諏訪野さんに…」
ナオキが笑った…
「…まだ、綾乃さんは、諏訪野さんと、終わっていない…」
「…」
「…完全終了しない限り、ボクは、綾乃さんと、キスができない…」
ナオキが、笑いながら、言った…
私は、それを聞きながら、
「…ナオキ…アナタ、今、自分で、自分が、いい男だと思ったでしょ?…こんなセリフを口にする自分がいい男だと思ったでしょ?…」
「…どうして、わかったの?…」
「…今、かすかに、鼻の穴が広がった…自分で、自分を褒めてる証拠…」
私の言葉に、ナオキが、笑った…
「…これは、参った…一本取られた…」
ナオキが、苦笑する…
「…ナオキ…アナタ、一体、私をなんだと、思っているの?…」
「…寿綾乃…」
「…寿綾乃?…」
「…そう…誰にも負けない鉄の女…」
「…」
「…だから、病気にも、負けない…五井にも、負けない…」
ジッと、私に、目を据えて、言った…
私は、その言葉で、ナオキが、私を励ましていることに、気付いた…
傷つき、凹んだ私を励ましていることに、気付いた…
そして、それが、嬉しかった…
こんなにも、自分のことを、思ってくれる人間が、身近にいることが、嬉しかった…
すでに、父も母も死に、私一人…
血の繋がった家族は、誰もいない…
だから、私にとって、このナオキは、家族だった…
恋人ではない…
夫でもない…
家族…
いっしょにいる家族だった…
ナオキが、どう思おうと、私にとっては、家族だった…
疑似家族だった…
だから、諏訪野伸明と付き合うことができた…
恋人や、夫では、ナオキを裏切れない…
が、
家族は、別…
誰もが、家族以外の人間と付き合うからだ…
恋をするものだからだ…
だが、
これは、もしかしたら、屁理屈…
私だけ、感じていることだろうか?
このナオキは、そう考えていないのだろうか?
私は、この藤原ナオキを眼前にしながら、そんなことを、考えた…
考え続けた…
違うかもしれない…
私は、いつも、考える…
それは、諏訪野伸明に会う、ずっと前から…
そして、それは、もしかしたら、藤原ナオキに会う、ずっと前からかも、しれなかった…
男と女が出会う…
だけでなく、
女と女でもいい…
要するに、恋でなくてもいい…
女同士の友情でもいい…
私は、率直に言って、そんなものとは、無縁…
無縁の人生だった…
矢代綾子が、寿綾乃を名乗る…
そのずっと以前から、私は、一人…
一人ぼっちだった…
それは、友人が、いるとか、いないとかでは、ない…
ハッキリ言って、小学校や、中学校でも、友人は、いたし、クラスでも、一人ぼっちの経験はない…
だから、その当時の友人やクラスメートや、担任の教師に聞いても、私が、一人ぼっちの気分を抱いていたと、告白すれば、仰天するだろう…
しかし、それが、真実…
紛れもない真実だった…
いわば、もやもやと、満たされない気持ちを持っていたといえば、いいのだろうか?
だからだろう…
母が、病気になり、従妹の寿綾乃が、亡くなったとき、その死に際して、
「…矢代綾子ではなく、寿綾乃と名乗りなさい…これからは、寿綾乃として、生きなさい…」
と、母が、私に告げたとき、私は、仰天したが、決して、嫌ではなかった…
それは、子供ながら、どこかで、自分の人生を変えたかった…
リセットしたかった気持ちがあったからかもしれない…
なんというか、それまで、生きてきて、それまでの生活が、大げさにいえば、非現実というか…
夢遊病者ではないが、自分の人生をしっかり生きている実感がなかった…
しっかりと、地に足がついている感覚がなかった…
その感覚に乏しかった…
だから、母の死に際の遺言…
「…矢代綾子ではなく、寿綾乃として、生きなさい…」
という言葉は、大げさに、言えば、人生をやり直せる重みがあった…
現に、私は、一人、田舎から、上京して、やって来た…
寿綾乃として…
そして、藤原ナオキに会った…
当時のナオキは、ただのコンピュータオタクだった…
オタクの仲間同士、会社を立ち上げ、私は、ひとの紹介で、偶然、ナオキの会社で、アルバイトをすることになった…
だが、ナオキは、自分自身が、どれほど、意識しているか、わからないが、長身のイケメンだった…
が、
出会った当時は、信じられないかもしれないが、女好きではなかった(笑)…
いや、
男だから、当然、女は好きだっただろう…
だが、当時は、オタク仲間と、会社を立ち上げるのに、必死だった…
文字通り、全力を尽くしていた…
そして、その会社はITバブルの波に乗り、発展…
やがて、上場を果たした…
それを契機に莫大な創業者利益が、ナオキの手元に入った…
それから、ナオキの本格的な女遊びが始まったといえる…
実のところ、それよりずっと以前に、会社が、大きくなり、経営が安定した頃から、ナオキの女遊びが始まった…
誰でもそうだが、お金があるとしれば、自然に、女が寄ってくるものだ…
飲みに行き、
「…あのひと、会社の社長なんだって…」
と、女同士耳打ちする…
すると、当然ながら、気になる…
そして、ナオキ当人が、思わずとも、周囲の人間が、ナオキが思う以上に、成功していると、考え、ナオキの周囲に女が群がって来た…
だから、最初は、ナオキ当人が、その気がなくても、いつのまにか、大げさにいえば、女好きが、開花するというか…
いつのまにか、女を求めるようになる…
誰もが、そうだが、女にモテて、悪い気持ちになる男はいない…
まして、ナオキは、長身のイケメンだった…
だから、女もその気になる…
そして、ナオキも…
しかしながら、ナオキは、本当は、純粋というか…
根がオタクだった…
だから、遊びが苦手…
結局、海千山千の女たちの金づるにされ、捨てられた…
私は、それを、身近に見ていた…
身近に見て、心が痛んだ…
といえば、いいが、実は、それほどでもなかった(笑)…
女に食い物にされているとまではいわないが、たかられているといった印象…
だが、ナオキは、お金持ち…
だから、どうってことない…
それが、現実だった…
ただ、バカな男と思った…
調子に乗り過ぎてると、思った…
しかし、それを直接、口にすることもなかった…
なぜなら、私は、そんなナオキから、十分に恩恵を受けていた…
ナオキの息子と思われたジュン君の面倒を見る代わりに、ナオキから、生活の面倒を見て、もらっていた…
すでに私は、ナオキと男女の関係にあったから、傍目には、ナオキの妻だったユリコを家庭から追い出して、ユリコの後釜に座ったようにも、思えたかもしれないが、それでも、私自身は、幸福だった…
田舎で、母と二人暮らしだった頃に、比べ、人生が、充実していた…
それは、思うに、ただナオキとジュン君と、気が合ったから…
気が合って、楽しかったからに他ならない…
だから、ハッキリいえば、ナオキが成功する前…
安いアパートで、ナオキとジュン君と私と三人で暮らした時代が、私にとって、もっとも、幸福な時代だったかもしれない…
私は、思った…
そして、なぜ、そんなことを、思ったかといえば、さっき、菊池重方(しげかた)が、諏訪野伸明を評して、
「…子供時代から伸明クンを知っているが、決して幸せには見えなかった…」
と、言ったからだ…
由緒ある家の大金持ちのボンボンに生まれ、ルックスもいい…
いわば、すべてを持って生まれた男だった…
それが、幸せに見えなかったとは…
なんたる皮肉…
お金も、ルックスも、頭脳も、いわば、すべてを持って生まれたにも、かかわらず、諏訪野伸明本人は、少しも幸せではなかったのだろう…
そして、それは、本人以上に、周囲の人間が、感じるものだ…
と、ここまで、考えて、気付いた…
それは、ひょっとしたら、私…
矢代綾子が、寿綾乃と名乗る前の私と同じだったかもしれないと…
思えば、私が、寿綾乃と名乗った頃から、人生が変わった…
ハッキリ言って、人生が好転した…
それは、なにも、お金だけではない…
藤原ナオキやジュン君と出会って、人生が、充実したというか…
つまり、好きなひとと、巡り合えた幸運というか…
それまでは、私が、感じたことのない満ち足りた人生を送った…
まさに、充実した日々だった…
お金は、なくても、愛する家族に恵まれた…
そういうことだった…
まさに、人生はめぐり逢い…
人とのめぐり逢いだ…
誰と知り合うかで、その後の人生が、変わる…
激変する…
そして、もしかしたら、私にとっても、あの時代が、ピークだったのかもしれない…
あの時代が、私にとって、人生のピークだったのかもしれない…
私は、思った…
そんなことを、考えていると、夜になり、ナオキが帰って来た…
我ながら、ホッとする瞬間だった…
ナオキとは、すでに、男女の関係は、終わっている…
が、
なぜか、ナオキといると、ホッとする…
ドキドキするとか、そんな感覚は、一切ない…
普通、恋は、ドキドキするもの…
が、
この藤原ナオキに至っては、出会った当初から、そんな感覚は、まるでなかった…
それはなぜか?
簡単に言えば、ナオキが、オタクだったから…
ただのコンピュータオタクだったからだ(笑)…
この藤原ナオキもまた、諏訪野伸明に勝るとも劣らない、長身のイケメン…
しかしながら、出会った当時は、ただのオタクだった…
たしかに、顔はいいものの、その顔の良さを生かせない…
女でいえば、美人に生まれたものの、化粧もしないし、服も、無頓着…
汚らしいとまでは、言わないが、見た目にまったくこだわらないから、ルックスの良さを生かせない…
ルックスの良さも半減する…
そういうことだ(笑)…
それが、ナオキが、徐々に成功の階段を駆け上がると、同時に、洗練されてきた…
仕事の都合上、他の会社のお偉いさんと、出会う機会も増える…
また、行く店も、それまでと違って格式の高い店に変わる…
結果、服選びから、変わらざるを得なかった…
が、
服選びから、変わることで、藤原ナオキの持つ、生来の顔の良さが、生きてきた…
それは、まるで、美人だが、服にもメイクにも、無頓着な女が、キチンとメイクをして、おめかしをして、街を歩き出すようなもの…
いつのまにか、ナオキは、思わず、周囲の者も振り返るほどの、イケメンに成長した…
私は、そんなことを、考えながら、ナオキを見た…
ナオキは、そんな私の心の内に気付いたのか、
「…どうしたの…綾乃さん…そんな目で、ボクを見て…」
と、呟いた…
私は、そんなナオキを見て、思わず、
「…フラれちゃった…」
と、言った…
ナオキが、驚いた…
「…フラれた? …誰に?…」
ビックリした表情で、訊いた…
「…諏訪野さん…諏訪野伸明さん…」
「…諏訪野さんに、フラれた?…」
ナオキが、驚いた表情で、言った…
「…そう…私は、ただ、利用されただけ…」
「…利用?…」
「…伸明さんは、私を利用して、私と結婚するフリをした…それで、周囲の人間を騙して、その間に、五井での自分の立ち位置を固めようとした…」
私の告白に、
「…」
と、ナオキは、なにも言わなかった…
むしろ、優しい目で、私を見た…
「…どうしたの? …驚かないの?…」
「…いや…」
「…いやって? なにが、いやなの?…」
「…なにか、目的があると思った…」
言いづらそうに、ポツリと、漏らした…
「…目的?…」
「…ボクと、綾乃さんは、いっしょだ…」
「…なにが、いっしょなの?…」
「…平民ってこと…」
「…平民?…」
「…金持ちでも、貧乏人でもない、一般人…」
「…」
「…その一般人に、諏訪野さんのような大金持ちが、結婚を前提とした交際を申し込む…だから、なにか、あるって、考えるのが、普通だ…」
ナオキが、言いにくそうに、言う…
私は、ナオキの言葉に、
「…」
と、言葉もなかった…
…気付いていた…
とっさに、思った…
…やはり、ナオキも気付いていた…
そう考えると、肩の力が抜けるというか…
全身の力が抜けて、ヘラヘラとその場に倒れ込みそうな感覚になった…
「…ナオキ…アナタ?…」
「…ゴメン…正直、何度も言おうと思ったこともあった…でも…」
「…でも、なに?…」
「…綾乃さんの顔を見ると言えなかった…」
「…」
「…もしかしたら、なにか、別の目的があるんじゃ…と、言いたかったけれども…嬉しそうな綾乃さんの顔を見ると…」
後は、言葉が続かなかった…
その言葉を聞きながら、私は、なんだか、ナオキに、申し訳なくなった…
まさか…
まさか、ナオキが、そんなふうに、私に気を使っているとは、思えなかったからだ…
だが、
私の口から出た言葉は、
「…バカね…」
と、ナオキを非難する言葉だった…
「…バカ? …どうして、バカなの?…」
「…バカはバカ!…」
「…だから、どうして、バカなの?…」
「…私が、そんなに傷つくと思う? …」
「…思う…」
ナオキが、即答した…
「…綾乃さんも、女さ…」
「…女?…」
「…でも…」
「…でも、なに?…」
「…ボクが、諏訪野さんには、なにか、目的があるんじゃないかって、綾乃さんに、言わなかったのは、もう一つ理由がある…」
「…どんな理由?…」
「…諏訪野さんが、綾乃さんに、惚れてることさ…」
思いがけない言葉だった…
「…私に惚れてる? …ナオキ、アナタ、バカなんじゃないの?…」
「…いや、バカじゃない!…」
「…だったら、どうして?…」
「…綾乃さんに接している、諏訪野さんの態度さ…」
「…」
「…自分では、綾乃さんを利用しているつもりかもしれないが、誰がどうみても、ホの字が入っている…」
「…」
「…案外、自分では、気付かないことも、周囲の人間は、気付いているものさ…」
「…」
「…だから、菊池さんも、今では、諏訪野さんと、結婚したいって、言い出しただろ?…」
驚いた…
まさか…
まさか、ナオキが、そんなことまで、知っているといるとは、思わなかった…
「…まさか、ナオキ…アナタ…今、五井でなにが、起こっているか、知ってるの?…」
「…大方はね…」
肩をすくめた…
「…菊池さんが、綾乃さんの担当看護師だった佐藤さんに対抗して、諏訪野さんと結婚したいと言い出したそうだけれども、根底には、綾乃さんに対抗する気持ちもあると、思ってる…」
「…どうして、そう思うの?…」
「…菊池さんが、五井の人間だからさ…」
「…どういう意味?…」
「…五井の人間は、五井の人間と、結婚するのが、掟なんだろ?…」
「…」
「…にもかかわらず、諏訪野さんは、綾乃さんに、気がある…それが、純粋に五井の人間である、菊池さんが見ていて、許せるものじゃないってことさ…」
「…」
なんだか…
なんだか、急速に肩の力が抜けたというか…
ナオキが、こんなにも、五井のことに、詳しいとは、思わなかった…
以前にも、私が説明したことはあったが、まさか、ここまで、五井の内部事情に詳しいとは、思わなかった…
脱力感というか…
なんだか、カラダ中から、力が抜けてゆく気がした…
私は、これまで、一人で、五井と戦っていたというと、大げさだが、一人で、諏訪野伸明について、考え込んでいた…
しかし、こんなにも、身近に、私以上に、冷静に、諏訪野伸明を観察している人間が、いるとは、思わなかった…
そう考えると、肩の力が抜けた…
「…諏訪野さんが、綾乃さんと、簡単に別れられるとは、思わない…」
「…どうして?…」
「…未練がある…正直、綾乃さんと身近に接して、綾乃さんは、余人には、代えがたい、魅力がある…」
「…ナオキ…アナタ…まさか、こんなときに、私を口説こうとしているじゃないでしょうね?…」
私の言葉に、ナオキは、唖然とした表情になった…
「…私を持ち上げて、ベッドに運ぼうとしているんじゃ…」
私の言葉に、
「…これだから、綾乃さんは…」
と、苦笑した…
「…肝心のときに、わけのわからないことを言い出す…」
「…」
「…でも、だから、好きだ…」
そう言うと、まるで、子供にするように、私のおでこに軽くキスをした…
「…本当は、唇がいいんだが、それは、諏訪野さんに…」
ナオキが笑った…
「…まだ、綾乃さんは、諏訪野さんと、終わっていない…」
「…」
「…完全終了しない限り、ボクは、綾乃さんと、キスができない…」
ナオキが、笑いながら、言った…
私は、それを聞きながら、
「…ナオキ…アナタ、今、自分で、自分が、いい男だと思ったでしょ?…こんなセリフを口にする自分がいい男だと思ったでしょ?…」
「…どうして、わかったの?…」
「…今、かすかに、鼻の穴が広がった…自分で、自分を褒めてる証拠…」
私の言葉に、ナオキが、笑った…
「…これは、参った…一本取られた…」
ナオキが、苦笑する…
「…ナオキ…アナタ、一体、私をなんだと、思っているの?…」
「…寿綾乃…」
「…寿綾乃?…」
「…そう…誰にも負けない鉄の女…」
「…」
「…だから、病気にも、負けない…五井にも、負けない…」
ジッと、私に、目を据えて、言った…
私は、その言葉で、ナオキが、私を励ましていることに、気付いた…
傷つき、凹んだ私を励ましていることに、気付いた…
そして、それが、嬉しかった…
こんなにも、自分のことを、思ってくれる人間が、身近にいることが、嬉しかった…
すでに、父も母も死に、私一人…
血の繋がった家族は、誰もいない…
だから、私にとって、このナオキは、家族だった…
恋人ではない…
夫でもない…
家族…
いっしょにいる家族だった…
ナオキが、どう思おうと、私にとっては、家族だった…
疑似家族だった…
だから、諏訪野伸明と付き合うことができた…
恋人や、夫では、ナオキを裏切れない…
が、
家族は、別…
誰もが、家族以外の人間と付き合うからだ…
恋をするものだからだ…
だが、
これは、もしかしたら、屁理屈…
私だけ、感じていることだろうか?
このナオキは、そう考えていないのだろうか?
私は、この藤原ナオキを眼前にしながら、そんなことを、考えた…
考え続けた…