第26話

文字数 8,803文字

 私は、菊池重方(しげかた)を、見た…

 メガネをかけているが、すらりとした長身は、息子の菊池冬馬そっくり…

 瓜二つだ…

 顔立ちも同じ…

 瓜二つ…

 そっくりだ…

 ただし、ひとつだけ違うのは、険がないこと…

 冬馬は、見るからに、目に険があり、嫌なヤツだが、目の前の重方(しげかた)には、険がない…

 むしろ、穏やか…

 冬馬とは、真逆に穏やかにすら、見えた…

 私は、つくづく、目の力は大きいと思った…

 姿形は、そっくりなのに、目の違いだけで、まったく別の印象を受ける…

 逆に言えば、目の違いがなければ、まさに父子…

 年齢が違うだけだ…

 私が、そんなことを、考えてると、

 「…失礼ですが、このまま、話します…誰が見ているのか、わからないので…」

 と、重方(しげかた)が、言った…

 私は、その声で、重方(しげかた)を見るのは、止めた…

 わざと、重方(しげかた)から、視線をそらした…

 「…どうして、気付きました…」

 重方(しげかた)の声がした…

 「…簡単です…」

 「…簡単?…」

 「…この状況で、私に近付いてくるのは、二人しかいない…」

 「…二人? …誰ですか?…」

 「…大場小太郎代議士か、重方(しげかた)さんの、二人だけです…」

 「…」

 と、重方は絶句した…

 それから、しばらくして、

 「…どうして、そう思うんですか?…」

 と、聞いた…

 「…私が、諏訪野伸明さんと、結婚するかもしれないからです…」

 私の言葉に、

 「…」

 と、重方(しげかた)が、黙った…

 「…そして、この佐藤ナナ…彼女に指示を出すのは、大場代議士よりも、五井家の人間の方がいい…例えば、息子の冬馬理事長を通じて、佐藤さんに、会い、それから、私の動静を見張らせれば、いい…」

 私の言葉に、

 「…」

 と、またも、重方(しげかた)は、黙った…

 「…違いますか?…」

 と、私は、念を押した…

 すると、一転、

 「…なにもかも、承知というわけですか?…」

 と、重方(しげかた)が、笑った…

 「…別にそういうわけでは…ただ…」

 「…ただ、なんですか?…」

 「…監視されるのは、菊池リンさんの件で、慣れてます…」

 「…菊池リン?…」

 「…彼女は、五井家が、私を監視するために、派遣したスパイでした…」

 「…スパイ?…」

 「…私が、五井一族の血を引く者だと、誤解して…」

 「…それは、噂で聞きました…」

 「…」

 「…建造さんが、外に作った子供だと、誤解していたと…」

 「…」

 「…その子供が死亡して、アナタは、その子供に成りすました…入れ替わったわけですね…だから、建造さんは、誤解した…」

 私は、その言葉で、この菊池重方(しげかた)が、ただのボンクラでないことが、わかった…

 決して、無能な人間でないことが、わかった…

 「…よく、ご存知ですね…」

 「…そのぐらいの情報は、掴んでます…」

 あっさりと、言った…

 「…そこまで、無能では、ないですよ…」

 と、笑った…

 「…さきほどの、話に戻りますが、どうして、私か、大場先生だと思ったんですか?…」

 「…大場先生も、重方(しげかた)さんも、五井の動向を窺っている…」

 「…」

 「…五井家が…いえ、昭子さんが、どう動くか、窺ってる…」

 「…」

 「…違いますか?…」

 「…さあ、それは、どうですか?…」

 と、とぼけた…

 だから、私は、

 「…違いますか?…」

 と、繰り返した…

 「…だったら、なぜ、寿さん、アナタなんですか?…」

 「…どういう意味ですか?…」

 「…なぜ、姉の昭子の意思を確認するために、アナタに接触しなくては、いけないんですか? アナタに接触するよりも、息子の伸明クンに、接触する方が、姉の意思を確認できるんじゃないですか?…」

 「…それは…」

 「…それは、なんですか?…」

 「…私が、他人だからです…」

 「…他人?…」

 「…もっと、言えば、五井一族ではないからです…」

 「…」

 「…五井一族だと、下手をすれば、接触していることを、昭子さんに、報告されるかもしれない…その危険があります…昭子さんは、五井家の女帝…昭子さんに、睨まれれば、五井家内での立場が、危うくなるかもしれない…だから、協力しない可能性も高い…だから、五井家の中枢に接していて、しかも、他人の方がいい…」

 私の言葉に、

 「…」

 と、重方(しげかた)が、黙り込んだ…

 それから、少しして、

 「…他人の方が、危険がありませんか?…」

 「…どういうことですか?…」

 「…だって、五井家の当主と結婚できる位置にいるんですよ…なにか、あったら、真っ先に、伸明クンや、姉に、報告するんでは? と、考えませんか?…」

 「…そのために、この佐藤さんを、私の担当につけたんでしょう…私と、日常的に接して、私が、どんな人間か、見極めようとしていた…」

 「…」

 「…この佐藤さんに、私が、伸明さんと、結婚するのを、どう思うのか、このベンチで、質問させたのも、重方(しげかた)さんの指示でしょう…」

 私が、ダメ出しをした…

 すると、

 「…」

 と、重方(しげかた)は、黙った…

 それから、しばらくして、

 「…いやはや、すべて、お見通しということですか?…」

 と、言葉を発した…

 「…いえ、そんなことは、ありません…」

 「…」

 「…アナタが、大場小太郎か、菊池重方(しげかた)か、最後まで、わかりませんでした…」

 「…では、どうして、わかったんです…」

 「…やはり、さっきの質問でしょう…」

 「…質問?…」

 「…私が、伸明さんと結婚するかもしれないことを、執拗に聞く…これは、大場小太郎ならば、しない質問でしょう…同じ五井一族の重方(しげかた)さんだから、する質問…一般人が、五井のようなお金持ちと結婚することを、どう思うのか? …五井家の人間ならば、誰でもしたい質問です…」

 私の回答に、重方(しげかた)は、考え込んだ…

 「…たしかに、鋭い…」

 と、感嘆した…

 「…あの姉の昭子が、気に入るだけのことは、ある…」

 納得するように、言う…

 「…驚きました…」

 「…別に、驚くほどのことは、ありませんよ…」

 私は、言った…

 「…菊池リンさんの経験が、生きているだけです…」

 「…そんなに、辛かったんですか?…」

 いきなり、重方(しげかた)が、言った…

 これは、予想外の質問だった…

 「…菊池リンが、スパイだったことが、そんなに辛かったんですか?…」

 繰り返した…

 私は、一瞬、どう言おうか、悩んだが、

 「…自分の身近にいて、しかも、信頼している人間に裏切られるのは、辛かったです…」

 と、正直に言った…

 「…私は、菊池リンさんが、好きでした…ちょうど、この佐藤さんと、同じようなキャラで、誰からも愛された…」

 「…」

 「…当然、私も好き…一番のお気に入りでした…それが、自分の動向を探るために、近付いたとわかったときは、言葉にならないほどのショックでした…」

 私の告白に、

 「…」

 と、沈黙した…

 が、

 それから、すぐに、

 「…同じ過ちは、二度と繰り返さないということですか…」

 と、私に質問した…

 いや、

 念を押したというべきか…

 私は、黙って、首を縦に振って、頷いた…

 そして、絞り出すように、言った…

 「…ひとは、信用できない…」

 私の言葉に、

 「…」

 と、重方(しげかた)は、黙った…

 「…それが、菊池リン…彼女が、私に与えた教訓です…」

 私は、忸怩たる思いで、言った…

 あれ以来、むやみに、人を信用できなくなった…

 いや、

 違う…

 本当は、あの後、ジュン君に轢かれたから…

 ジュン君の運転するクルマに轢かれたから…

 つまりは、菊池リンと、ジュン君の二人の裏切りに、私は、絶望したということだ…

 私は、あらためて、思った…

 だから、最初、目が覚めて、自分が生きていることが、わかっても、たいして、嬉しくはなかった…

 むしろ、

 …生き残ってしまった…

 そんな忸怩たる思いがあった…

 それは、第二次世界大戦の特攻で死ぬ前に、戦争が終え、

…自分だけ、生き残ってしまった…

 と、いう特攻隊員の気持ちに似ている…

 なんだか、自分だけ、生き残ってしまった事実が、申し訳ない…

 そんな気持ちだった…

 それが、氷解するというか…

 徐々に、そんな生き残って、後悔した気持ちが、私の病室に訪れたさまざまな見舞客の姿から、変わったというか…

 …生きていてくれて、良かった…

 と、心の底から、言ってくれる人間を、目の当たりに見て、気持ちが変わった…

 藤原ナオキ…

 諏訪野伸明…

 二人を、頂点とした、人たち…

 ナオキの元の妻、ユリコ…

 伸明の母、昭子…

 伸明の腹違いの妹、マミ…

 そんなさまざまな人たちが、私が、生きていることを、心の底から祝福してくれた…

 これは、あり得ないことだった…

 これまで、32年生きていて、一度も体験したことがなかったことだった…

 そして、それを思えば、やはり、自分も変わらざるを得なくなった…

 自分が、生き残ったことに、絶望することはなくなった…

 むしろ、自分が生きていたことを、心の底から、喜んでくれる、この人たちのためにも、生きたいと、思うようになった…

 ジュン君の運転するクルマに轢かれる前までは、末期の癌であることを、隠して、生きてきた…

 いわば、自分自身を欺いて生きてきた…

 それは、やはり、根底には、自分が、寿綾乃を名乗る女に過ぎない、負い目があるのかもしれなかった…

 矢代綾子が、寿綾乃と名乗って生きることに、うしろめたさがあるのかもしれなかった…

 そして、それゆえ、どこか、自分自身が捨て身というか…

 …やけのやんぱちというか…

 自暴自棄になっている、自分がいた…

 だから、ジュン君の運転するクルマにはねられたとき、どこか、ホッとした…

 どこか、安心できた、自分がいた…

 これで、ようやく終われる…

 そんな気持ちを持った自分がいたことは、間違いがなかった…

 だから、真逆に言えば、自分が、この五井記念病院で、目覚めたときに、とっさに思ったことは、

 …自分は、生き残ってしまった…

 という後悔の念だった…

 が、今も言ったように、そんな気持ちが、見舞客の姿を見るたびに、徐々に…やがて、劇的に変わっていった…

 …私が、生きていることを喜んでくれた、この人たちのためにも、もう少し、生きたい…

と、思うように変わった…

すると、今度は、癌が、邪魔になったというか…

 せっかく、生きたいと願うようになった自分にとって、長く生きることができない、この病気が、邪魔になった…

つくづく、何事も、思うようにいかない…

もっとも、癌が見つかったから、厭世的な気分になり、人生に絶望したというか…

どこか、僧侶ではないが、人生を達観した気持ちがあったことは、否めない…

病気が根底にあり、さらには、自分が、他人になりすまして、生きる…

そんな、自分自身を、どこかで、嫌になっていた…

だから、死ぬことが、嫌でなかったのかもしれなかった…

私は、この菊池重方(しげかた)との会話から、そんなさまざまなことを思った…

そう思ったときだった…

「…寿さんって、随分ナイーブなんですね…」

それまで、黙っていた、佐藤ナナが、言った…

「…ナイーブ?…」

「…寿さんは、もっと、強いと思ってました…そんなに傷つきやすいとは、思わなかった…」

あっさりと、佐藤ナナが言った…

私は、驚いた…

と、同時に、この佐藤ナナのことを、考えた…

彼女の立ち位置は、一体、なんだろ?

と、考えた…

が、

深く、考えるのは、止めた…

今、考えるのは、この佐藤ナナのことではなく、菊池重方(しげかた)のことだからだ…

この重方(しげかた)が、私に、一体、なんのために近付いた?

いや、

この私に、なにをさせたいのか?

それが、問題だった…

「…すると、寿さんは、案外、弱いということですね…」

重方(しげかた)が、佐藤ナナの言葉を引き継いだ…

私は、黙った…

あえて、なにも言わなかった…

重方(しげかた)が、なにを言い出すのか、知りたかった…

「…でも、それが、いい…」

「…どういう意味ですか?…」

「…完璧な人間など、どこにもいない…強く見えて、実は、案外傷つきやすい人間は、意外と多い…」

「…」

「…私もその一人だ…」

「…」

「…菊池派を立ち上げるはずが、ついてくる人間が、誰もいなくなった…」

突然、言った…

「…誰もいなくなった?…」

「…ハイ…文字通り、一人もいなくなりました…」

仰天の事実だった…

私は、あまりの事実に、呆気に取られた…

文字通り、言葉もなかった…

「…大場小太郎…そして、姉の昭子の力を甘く見てました…」

重方(しげかた)が、告白する…

「…姉は、もう少し、私に優しいと思いました…」

「…」

「…なにより、10歳、離れてます…子供の頃は、随分、可愛がって、もらいました…その記憶が、あるからか…姉が、ここまで、厳しいとは、想像もつきませんでした…」

「…」

「…まあ、もっとも、姉は、子供の頃から、私を評価していなかった…」

「…」

「…それが、根底にあるのかもしれない…」

重方(しげかた)が、嘆く…

「…今日は、一体、どういうご用件で…」

私は、言った…

重方(しげかた)の愚痴を、これ以上、聞くのは、堪らなかった…

一体、自分に、どんな用事があるのだろう?

それが、聞きたかった…

「…諏訪野伸明…そして、母の昭子…」

「…」

「…二人とも、食わせ者です…」

「…食わせ者?…」

「…二人とも、見た目と違う…」

「…」

「…十分、気をつけることです…」

重方(しげかた)は、言った…

そして、それだけ言うと、去っていった…

これには、私も驚いた…

仰天したというか…

まさか、これだけで、帰るとは、思わなかった…

私は、呆気に取られた…

そして、一体、なんのために、菊池重方(しげかた)が、やって来たのか、あらためて、考えた…

「…重方(しげかた)さんは、一体?…」

思わず、呟いた…

すると、同じベンチに腰かける、佐藤ナナが、私の膝を、ポンポンと、手で叩いた…

私は、驚いた…

佐藤ナナが、そんなことをするとは、思わなかったからだ…

「…なに? 佐藤さん?…」

私が、尋ねると、佐藤ナナが、私の膝の上に置いた指で、人差し指を指した…

私は、その指の差す方向を見た…

そこには、病院の建物から、こちらを見る白衣の男性の姿があった…

長身の男…

それは、よく見ると、明らかに、菊池冬馬だった…

重方(しげかた)の息子…冬馬だった…

そして、気付いた…

あの菊池重方(しげかた)は、自分の息子である、冬馬が、自分が、私、寿綾乃と接触している姿を見られているのを知って、会話を止めたということか…

ということは、どうだ?

冬馬は、菊池重方(しげかた)の敵?

敵ということか?

いや、

敵だったら、どうして、この佐藤ナナを、私の監視につけた…

この佐藤ナナを私の担当につけることで、私の動静を窺った…

これは、冬馬の協力なしには、できないこと…

これは、確か…

だが、もしかしたら、これは、父子だから、最低限の協力はした…

そういうことかもしれない…

父子だから、冬馬とて、父の重方(しげかた)から、頼まれれば、断れないだろう…

しかし、その先は、別かもしれない…

どういうことかといえば、これ以上、父の重方(しげかた)に、協力すれば、昭子に睨まれる…

最悪、五井家を、追放されるかもしれない…

そういうことだろう…

だから、最低限、父に協力する…

が、その先は、別…

具体的には、今日、重方(しげかた)が、私に接触したのを、逐一、冬馬は、あの昭子に報告するかもしれないのだ…

それを考えれば、重方(しげかた)とて、これ以上、私に接触しているわけには、いかなかったのかもしれない…

私は、思った…

いずれにしろ、厄介な件に巻き込まれた…

あらためて、思った…

菊池重方(しげかた)が、私に接触してくることは、想像がついたが、こういう形で、出会うとは、思わなかった…

まして、この佐藤ナナが、私の動静を見張るスパイとは、思わなかった…

いや、

思わないではない…

想像は、ついていた…

前例があるからだ…

すべては、菊池リン…

彼女の前例があるからだ…

この佐藤ナナ同様、愛想よく、誰からも愛されるキャラゆえ、私もつい、油断したというか…

矢代綾子が、寿綾乃を名乗り、過去を捨て、生きる…

それゆえ、生まれ育った故郷も捨てた…

まさか、生まれ育った町にいては、なりすましはできないからだ…

矢代綾子が、寿綾乃と名乗ることは、できないからだ…

それゆえ、あとは、緊張の連続だった…

まさかとは、思うが、私が、矢代綾子と、気付く人間と会うかもしれないからだ…

なりすましに気付く人間がいるかもしれないからだ…

だから、緊張の連続だった…

だから、どこか、ビクビクして、生きてきた…

そして、それゆえ、内心の恐怖を、相手に悟らせないために、ヤクザではないが、どこか、虚勢を張って生きてきたのかもしれなかった…

そして、それを最初に見抜いたのは、ユリコ…

藤原ナオキの元の妻のユリコだった…

やはりというか、十年近く経っているにも、関わらず、私を見て、

「…矢代さん…」

と、わざと、カマを賭けた…

それから、

「…ゴメン…今は、寿綾乃と名乗っているんだっけ…」

と、笑った…

わざと、

「…矢代…」

と、いう名前を出し、私が、どういう反応を示すのか、探ったのだろう…

まさに、ユリコの面目躍如というか…

したたかで、食わせ者のユリコにふさわしいカマのかけかただった…

私は、一挙に、緊張した…

私の正体に気付いている?…

そんな人間が、身近に現れたのだ…

私は、思った…

そんな、ある意味、緊張状態で、生きてきた私にとって、菊池リン…

彼女の存在は、一服の清涼剤のようだった…

爽やかで、おいしい…

そんな清涼剤のような、存在だからこそ、油断したというか…

まさか、彼女が、五井家が、私を監視するスパイだったとは、思わなかった…

しかし、同じ愚は繰り返さないというか…

この五井記念病院に入院して、意識が回復しても、どこか、緊張状態にあった…

さきほど、菊池重方(しげかた)に、言ったように、

「…ひとは、信用できない…」

という思いがあったからだ…

だから、この佐藤ナナと、接していても、どこか、身構えていたというか…

ボクシングではないが、決して、ノーガードで、接していなかった…

だから、今、この佐藤ナナが、私を監視するスパイだと知っても、驚かなかった…

ただ、

「…ああ、そうか…」

と、一言思うだけだった…

つまり、どこかで、常に警戒心を抱いていたということだ…

前置きが、長くなったが、要するに、私にとって、菊池リンの存在が、実に大きかったということかもしれない…

彼女の裏切りが、私に再び、緊張状態を取り戻させたということだ…

私が、そんなことを、考えていると、隣の佐藤ナナが、私の様子を窺っていることに、気付いた…

自分が、私を監視していたことが、バレてしまった…

当たり前だが、バツが悪いのだろう…

が、

私は、彼女を恨む気持ちには、なれなかった…

私は、松葉杖をついて、ベンチから、立ち上がった…

「…行きましょう…」

私の言葉に、ベンチに座った佐藤ナナが、無言で、私を見上げた…

「…休憩は、終わり…リハビリルームに向かいましょう…」

私の言葉に促され、佐藤ナナもまた、ベンチから立ち上がった…

それから、二人とも、無言で、リハビリルームに向かった…

私は、歩きながら、考えた…

考えたのは、同伴する佐藤ナナのことではない…

あの菊池重方(しげかた)のことだ…

重方は、すでに、自分と、いっしょに、菊池派を、立ち上げると、言ってきた仲間が、すべて、逃げ出したことを、私に告げた…

告白した…

それを聞いて、驚いたが、一方で、さもありなんと、納得する自分がいた…

菊池重方(しげかた)が、そんなに、有能ならば、姉の昭子も、息子の冬馬も、あんなに、悪しざまに、言わないに違いないからだ…

おそらく、諏訪野マミが、指摘したように、誰かに唆(そそのか)されて、菊池派を旗揚げしようとしたに決まっている…

そして、菊池重方(しげかた)の元に集まった人間は、皆、本気で、菊池重方(しげかた)を、支えようとする人間が、一人もいなかったに違いない…

誰もが、菊池重方(しげかた)が、五井家出身ゆえに、五井の金目当てに、支持したに過ぎないに違いないからだ…

それゆえ、現当主の伸明や、その母、昭子を中心とした、五井家や、大場小太郎の反撃が、予想した以上の効果をもたらしたに違いなかった…

ありていに言えば、重方(しげかた)では、勝てないと、思って、皆、重方(しげかた)の元から、逃げ出したに違いなかった…

それを、考えれば、重方(しげかた)が、哀れだった…

が、

同情することは、できない…

五井東家という分家の出身でありながら、五井本家を乗っ取ろうとした、重方(しげかた)が、そもそも悪いのだ…

自分の立場や力量を省みず、五井本家を乗っ取ろうとした、重方(しげかた)が、悪いのだ…

それを、思えば、同情することはできなかった…

これは、ある意味、街で、ホームレスのひとを見かけるのと、同じだった…

昔は、ホームレスを見ると、ただ、同情したが、歳を取ると、なぜ、ホームレスになったのか、考えるようになった…

その理由の如何では、同情する余地もないかもしれないからだ…

ただ、ホームレスになったのは、可哀そうと、昔は、思ったが、今はなぜ、そうなったのか、知り、その理由如何で、同情するか否か、考えるようになった…

それと同じように考えると、菊池重方(しげかた)に、同情の余地はなかった…

だから、それから、まもなく、

…菊池重方(しげかた)、菊池派の立ち上げを断念!…

と、新聞の隅に、載っても、驚くことは、なかった…

むしろ、新聞の隅に小さく、載っていることが、政界での菊池重方(しげかた)の存在感の小ささを、現わしていた…

              
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