第88話
文字数 6,372文字
私、寿綾乃、32歳…
私は、これまで、自分のために、生きてきたつもりだった…
自分一人の力で、生きてきたつもりだった…
だが、そうではなかった…
藤原ナオキ、あっての私だった…
ナオキあっての私だった…
今さらながら、その現実に、気付いた…
その事実に、気付いた…
そして、今、必要なこと…
私にできることは、このナオキのために、生きること…
そして、数年後、私が、この世から、いなくなった後も、ナオキが、無事、社長業を続けることができるように、少しでも、環境を整えること…
それが、この寿綾乃の残された人生の間に、やらねばならぬことだと、気付いた…
一介の、なんの力もない、ナオキの秘書風情の女が、そんな大層なことを、言うのは、バカげているが、私は、幸か不幸か、五井家の人間と、知り会った…
五井家の頂点に立つ、伸明とも、親しくさせてもらった…
そして、今、なにより、その伸明を超える力を持つ、伸明の母から、自宅に招かれた…
おそらく、その目的は、ユリコ…
藤原ナオキの前妻のユリコが、集めた、五井造船の株の扱いに対して、私に、ユリコに、翻意させるように、頼むつもりだろう…
私は、ユリコの唯一の弱点を握っている…
それは、ユリコの息子、ジュン君のこと…
ジュン君は、以前、私をクルマで、轢き殺そうとした…
私が、ジュン君の父親が、ナオキでないことを、ユリコに告げ、動揺したユリコは、呆気なく、その事実を認めた…
その一部始終を、あの菊池リンが、ジュン君に告げた…
菊池リンは、五井家が、私につけたスパイだった…
私が、本物の寿綾乃だと思っていたからだ…
本物の寿綾乃は、五井の先代当主、建造の娘だった…
建造が、外に作った娘だった…
私を本物の寿綾乃と、誤解していたのだ…
自分が、ナオキの血が繋がった息子だと信じていたジュン君は、それが、事実でないとわかると、どうしていいか、わからず、会社から、出てきた私をクルマで、撥ねた…
それを見た、菊池リンが、五井記念病院に私を入院させる手筈を整えた…
結果、私は、生き延びた…
そして、それが、あろうことか、僥倖(ぎょうこう)となった…
僥倖=禍を転じて福と為った…
ユリコは、天敵…
常に、私を敵と見なして、邪魔をした…
私が、ユリコから、ナオキを奪ったからだ…
が、
私をクルマで、轢いたジュン君は、殺人犯…
今現在、拘置所に収容されている…
まだ、裁判は、始まっていない…
ユリコにしてみれば、裁判が、始まったとき、私に、宥恕(ゆうじょ)=許すと、言ってもらいたい…
私に一言、宥恕(ゆうじょ)すると、言えば、ジュン君の刑は、減刑される可能性が、高い…
また、逆に言えば、私が、
宥恕(ゆうじょ)する…
と、言わない限り、減刑の可能性は、低いというか…
まずないと、断言できる…
それゆえ、ユリコは、私に借りを作ったというか…
私から言わせれば、ユリコの弱みを握ったとも、言える…
そして、おそらく、そのすべての経緯を、あの昭子は、知っているに違いない…
知っていて、私を、自宅に招いたに違いない…
まさに、女傑…
五井の女傑だ…
私は、思った…
そして、本当ならば、私は、あの昭子に会いたくはなかった…
なぜなら、どうあがいても、太刀打ちできないからだ…
が、
虎穴に入らずんば虎子を得ずの言葉通り、昭子に会わなければ、ならない…
会って、ナオキのことを、頼まなければ、ならない…
どんなことがあっても、ナオキの今後のことを、頼まなければ、ならない…
そう、思った…
そして、そう思うと、おのずから、覚悟が決まった…
おそらく、もはや、五井にとって、私の利用価値はない…
だから、これが、最後のチャンス…
私が、ユリコを説得させる条件として、少しでも、ナオキに有利な言葉を引き出させなければ、ならない…
たとえ、それが、口約束でも、構わない…
これは、契約ではない…
だから、たとえ、約束して、極端な話、書面に残して、昭子がその約束を守らず、それを、元に、裁判を起こしても、私に勝ち目はない…
藤原ナオキの今後をバックアップしてもらいたいたい、などという書面が、効力を持つとは、考えにくいからだ…
私は、思った…
当日、迎えのクルマが来た…
私は、そのクルマに乗って、諏訪野昭子の元に向かった…
迎えに来た、クルマは、黒塗りのベンツ…
どこにでもあるクルマだった…
それでいて、高級感のあるクルマだった…
会社のお偉いさんが、よく使うクルマ…
それは、以前、ナオキが、言っていたが、黒塗りのベンツは、目立たないから、いいと、言っていた…
誰もが知る高級車だが、ある意味、ありふれている…
だから、どこかの駐車場に、停まっていても、誰が、乗っているか、わからない…
だから、いいと、言っていた…
ビジネスで、商談をするときに、目立つクルマでは、困る…
たとえば、日本で、数台もないクルマでは、すぐに、そこにいることが、バレてしまうからだ…
すると、誰とそこで、会って、なんの話をしていたか? ということになる…
だから、そういうふうに、身バレしないように、黒塗りのベンツに乗る経営者が、多いのだと、以前、ナオキに教えられた…
ナオキもまた、誰かに教えられたに違いないから、そのひとの受け売りだった(苦笑)…
私は、そんなことを、考えながら、ベンツに乗って、昭子の待つ、成城学園に向かった…
その間、私は、さまざまなことを考えた…
いや、
考えざるをなかったというべきか…
そもそも、私が、従妹の寿綾乃に成りすまさなければ、私は、五井と関わることは、なかった…
五井のような大金持ちと、私は、生涯関わることはなかった…
以前も言ったように、大学も行っていない、私、矢代綾子は、都会に出ても、派遣社員かなにかで、生計を立てていたに違いない…
そうなれば、当然、五井のような大金持ちと、生涯関わることはなかった…
あるいは、会社で、姿を見ることは、あっても、声をかけられることもなかっただろう…
こんなことを、言っては、差別になるかもしれないが、多くの人間が、結婚相手は、自分の交流する集団の中で、選ばざるを得ない…
交流する集団とは、学校の友人や会社の同僚のこと…
例えば、スーパーやコンビニで、パートをしていて、お客さんと顔なじみになり、交際するというケースはあまりない…
なぜなら、相手がどこの誰か、わからないからだ…
誰もが、結婚相手を見つけるとなると、慎重になる…
だから、職場の同僚や、学校の友人は、安心するというわけだ…
私が、寿綾乃になりすますこともなく、矢代綾子のままなら、仮に都会に出ても、諏訪野伸明と知り合うこともなく、どこか、派遣社員や契約社員で、入った会社の同僚と結婚しただろう…
ボンヤリと、そう思った…
だから、そんなことを、考えると、今さらながら、自分自身の数奇な運命を思った…
矢代綾子ではなく、寿綾乃として、生きる…
その結果の数奇な運命を考えた…
そもそも、私が、寿綾乃を名乗らなければ、五井家の人間と知り会えなかったからだ…
いや、もしかしたら、藤原ナオキとも知り会えなかっただろう…
矢代綾子のまま、田舎にこもり、生涯、都会で暮らすこともなかったのかもしれない…
仮に、都会に出て、藤原ナオキと知り会っても、諏訪野伸明と知り合う可能性は、ゼロに近い…
それを、思えば、人生は、まさに、出会い…
出会いに他ならない…
ナオキと出会うことで、人生が花開き、伸明と知り合うことで、世界が広がった…
そういうことだ…
そんなことを、考えながら、クルマに乗っていると、やがて、目的地に着いた…
目的地の諏訪野伸明の家に着いた…
「…到着しました…」
と、運転手に告げられて、私は、クルマから降りた…
そして、諏訪野伸明の家を見た…
それから、横に立つ、菊池リンの家を見た…
…一体、いつ以来だろうか?…
ふと、思った…
以前、この家を訪れたのは、いつのことだろうか?
考えた…
まだ、一年も経っていない…
以前、隣の菊池リンの家を訪れたときは、菊池リンの祖母の和子に会った…
昭子の一卵性双生児の妹の和子にあった…
そして、その際に、私とは、けた違いの女傑だと、思った…
私など、足元にも及ばない女傑だと思った…
年齢もさることながら、たとえ、私より、歳下でも、その実力は、けた違い…
到底、私の及ぶところではなかった…
まして、これから、会う、昭子は、その和子よりも、上だった…
一卵性姉妹の姉ということもあるが、やはり、先代当主、建造の妻だったということも大きいかもしれない…
昭子と和子では、嫁いだ相手が、違う…
昭子は、五井家当主…
和子は、当主の弟だ…
また、建造と、弟の義春は、器が違った…
残念ながら、義春は、建造の足元にも及ばなかった…
それでいて、野心家だった…
そして、義春は、建造の実子、秀樹に似ていた…
甥の秀樹に似ていた…
共に野心家だが、能力は、イマイチ…
こんなことを、言っては、失礼だが、それは、学校では、勉強はできないが、会社に入れば、オレは、勉強ができるヤツには、負けないと言っているようなものだった…
すでに、自分の能力も、他人の能力も、冷静に計ることができない人間たちだった…
私は、それを思い出した…
そして、それを思い出すと、やはりというか、案外というか…
もしかしたら、和子の方が、昭子よりも、上かもと、考えを変えた…
なぜなら、和子は、義春の妻だった…
今も言ったように、義春は、兄の建造に比べて、能力は劣るが、野心家だった…
となると、和子は、その義春をうまくコントロールする必要がある…
馬ではないが、手綱をうまく引く必要がある…
すると、その方が、難しいかもしれないからだ…
自分の能力を考えず、暴走しかねない夫をコントロールすることの方が、当主夫人である、昭子よりも、能力が必要となるかもしれないからだ…
片や、当主の建造は、賢明な人物だった…
己の能力を冷静にわきまえていた…
だから、その当主夫人である昭子は、和子のように、夫の手綱をうまく引く必要がなかった…
いや、
それはないか?
やはり、当主夫人の方が、気苦労が絶えないかもしれない…
五井家の当主と、当主の弟では、立場が違う…
当主の方が、当たり前だが、大変…
その当主をサポートするのだから、やはり、昭子の方が、能力が高いのかもしれない…
そんなことを、考えながら、いずれにしても、二人とも、猛女であると、思った…
常人とは、異なるレベルの猛女…
甲乙つけがたい猛女…
私は、それを考えながら、その猛女とこれから、対面するんだと、考え、自分自身を鼓舞した…
私が、そんなことを、考えていると、一人の、女が、歩いて、私の元にやって来るのが、わかった…
私は、誰だろう? と、思った…
が、
近くまで、来て、驚いた…
佐藤ナナだった…
あのベトナム人と、日本人のハーフ…
昭子の弟、菊池重方(しげかた)の娘だった…
私は、それを、目の当たりにして、なんとなく、これまでの謎が、解けてきたような気がした…
大げさではなく、漠然と、これまで、霧というか、靄(かすみ)というか…
全体が、かすんで見えなかった、事件の全貌が、見えてきた気がした…
佐藤ナナは、私の前まで来ると、
「…こんにちは…」
と、はにかんだような表情で、私に挨拶した…
私もまた、
「…こんにちは…」
と、返した…
「…お久しぶりね…」
私が、言うと、
佐藤ナナは、はにかんだ表情のまま、なにも言わなかった…
「…昭子さんは?…」
「…中で、待ってます…」
「…そう…」
私は、言って、佐藤ナナの導きで、諏訪野家の屋敷に入った…
諏訪野家は、まさに、豪邸だった…
隣にある、以前、訪れた、菊池リンの家より、明らかに大きかった…
やはり、兄弟とは、いえ、五井家当主と、当主の弟では、格差というか…
違いをつけなければ、ならないのかもしれない…
仮に、誰か、ひとを招いたときに、同じ家の大きさでは、いかに兄弟とはいえ、おかしい…
兄は、五井家当主…
弟は、五井家のグループ会社の社長…
その差は、明確にしなければ、ならないからだ…
しかし、大きな家だ…
私は、ただ唖然とした…
これでは、まるで、お城といえば、大げさだが、余裕で、民宿程度は、できる…
私は、思った…
だから、この佐藤ナナが、今、この屋敷から、出てきたのだろうと、思った…
急に、それまで、見ず知らずの他人が、いっしょに住むと、言っても、まったく困らない…
普通の家なら、ありえないことだ(笑)…
私など、田舎出身者にもかからず、家も小さかった(笑)…
まさに、貧乏の極み(笑)…
私は、子供心にも、それを口にすることは、なかった…
それを、口にすれば、母が悲しむからだ…
大好きな母が、悲しむからだ…
そして、たぶん、それが、寿綾乃ではなく、矢代綾子の原点だった…
母と娘、二人だけの田舎の生活…
それが、原点だった…
だから、無意識の間に、金持ちに憧れる…
自分自身は、意識していないが、金持ちに憧れる…
諏訪野伸明に憧れる…
それは、私自身の貧乏な田舎生活が、原点だったのかもしれない…
どんな人間も、自分の過去からは、逃れることはできない…
貧乏に育った人間は、金持ちに憧れる…
同時に、反発する…
金持ちに憧れ、同時に、憎む…
自分の持っていないものを、持っているからだ…
また、貧乏に生まれた人間は、金に汚くなる傾向が強い…
それは、どんなに、金持ちになっても、変わらない…
日産のトップだったカルロス・ゴーンは、貧乏な家庭の出身だった…
それゆえ、金に執着した…
一般の日本人から見れば、目の玉の飛び出るくらいの高給をもらっていたが、自分の妻の経営する店の経費も、日産から出させたと言われている…
つまりは、日産を自分の財布にしたのだ…
日産内での自分の権力で、公私のけじめをつけずに、傍若無人に振る舞った…
目の玉が飛び出るくらいの高給をもらいながら、自分自身の金を、一銭でも出したくなかったのだろう…
残念ながら、それが、悪い実例だろう…
貧乏人が、出世して成功した、残念な例だろう…
私自身もまた、カルロス・ゴーンのように、金に汚いわけではないが、金持ちに、無自覚のうちに憧れるのは、同じ理屈だと思う…
今さらだが、諏訪野伸明が、五井家の御曹司だと知らなければ、私は、伸明に憧れなかった可能性が高い…
もちろん、伸明を、好きにならなかったとまでは、言わない…
だが、大金持ちの子息と、わからなければ、ここまで、憧れることはなかったろう…
自分自身の気持ちを振り返って、あらためて、思った…
佐藤ナナの導きで、玄関に入り、諏訪野家の中に入った…
私は、その家の中に、入って、ただただ圧倒された…
まるで、公共のホテルというか、美術館のような内装だからだ…
お金持ちとは、こういうものなのか…
そう、考えざるを得なかった…
私自身は、藤原ナオキの援助もあり、いわゆる億ションに住んでいる…
だから、私も、世間の目からすれば、成功者の部類…
成功者の一人に違いないからだ…
しかしながら、この諏訪野家を訪れると、私の住む億ションとは、大違いというか…
桁が違うことがわかる…
私は、小金持ちだが、この諏訪野家は、大金持ちだと、わかる…
私は、たたただ圧倒されながら、家の中を歩いた…
そして、到着した先には、あのユリコがいた…
ナオキの元の妻、藤原ユリコの姿があった…
私は、これまで、自分のために、生きてきたつもりだった…
自分一人の力で、生きてきたつもりだった…
だが、そうではなかった…
藤原ナオキ、あっての私だった…
ナオキあっての私だった…
今さらながら、その現実に、気付いた…
その事実に、気付いた…
そして、今、必要なこと…
私にできることは、このナオキのために、生きること…
そして、数年後、私が、この世から、いなくなった後も、ナオキが、無事、社長業を続けることができるように、少しでも、環境を整えること…
それが、この寿綾乃の残された人生の間に、やらねばならぬことだと、気付いた…
一介の、なんの力もない、ナオキの秘書風情の女が、そんな大層なことを、言うのは、バカげているが、私は、幸か不幸か、五井家の人間と、知り会った…
五井家の頂点に立つ、伸明とも、親しくさせてもらった…
そして、今、なにより、その伸明を超える力を持つ、伸明の母から、自宅に招かれた…
おそらく、その目的は、ユリコ…
藤原ナオキの前妻のユリコが、集めた、五井造船の株の扱いに対して、私に、ユリコに、翻意させるように、頼むつもりだろう…
私は、ユリコの唯一の弱点を握っている…
それは、ユリコの息子、ジュン君のこと…
ジュン君は、以前、私をクルマで、轢き殺そうとした…
私が、ジュン君の父親が、ナオキでないことを、ユリコに告げ、動揺したユリコは、呆気なく、その事実を認めた…
その一部始終を、あの菊池リンが、ジュン君に告げた…
菊池リンは、五井家が、私につけたスパイだった…
私が、本物の寿綾乃だと思っていたからだ…
本物の寿綾乃は、五井の先代当主、建造の娘だった…
建造が、外に作った娘だった…
私を本物の寿綾乃と、誤解していたのだ…
自分が、ナオキの血が繋がった息子だと信じていたジュン君は、それが、事実でないとわかると、どうしていいか、わからず、会社から、出てきた私をクルマで、撥ねた…
それを見た、菊池リンが、五井記念病院に私を入院させる手筈を整えた…
結果、私は、生き延びた…
そして、それが、あろうことか、僥倖(ぎょうこう)となった…
僥倖=禍を転じて福と為った…
ユリコは、天敵…
常に、私を敵と見なして、邪魔をした…
私が、ユリコから、ナオキを奪ったからだ…
が、
私をクルマで、轢いたジュン君は、殺人犯…
今現在、拘置所に収容されている…
まだ、裁判は、始まっていない…
ユリコにしてみれば、裁判が、始まったとき、私に、宥恕(ゆうじょ)=許すと、言ってもらいたい…
私に一言、宥恕(ゆうじょ)すると、言えば、ジュン君の刑は、減刑される可能性が、高い…
また、逆に言えば、私が、
宥恕(ゆうじょ)する…
と、言わない限り、減刑の可能性は、低いというか…
まずないと、断言できる…
それゆえ、ユリコは、私に借りを作ったというか…
私から言わせれば、ユリコの弱みを握ったとも、言える…
そして、おそらく、そのすべての経緯を、あの昭子は、知っているに違いない…
知っていて、私を、自宅に招いたに違いない…
まさに、女傑…
五井の女傑だ…
私は、思った…
そして、本当ならば、私は、あの昭子に会いたくはなかった…
なぜなら、どうあがいても、太刀打ちできないからだ…
が、
虎穴に入らずんば虎子を得ずの言葉通り、昭子に会わなければ、ならない…
会って、ナオキのことを、頼まなければ、ならない…
どんなことがあっても、ナオキの今後のことを、頼まなければ、ならない…
そう、思った…
そして、そう思うと、おのずから、覚悟が決まった…
おそらく、もはや、五井にとって、私の利用価値はない…
だから、これが、最後のチャンス…
私が、ユリコを説得させる条件として、少しでも、ナオキに有利な言葉を引き出させなければ、ならない…
たとえ、それが、口約束でも、構わない…
これは、契約ではない…
だから、たとえ、約束して、極端な話、書面に残して、昭子がその約束を守らず、それを、元に、裁判を起こしても、私に勝ち目はない…
藤原ナオキの今後をバックアップしてもらいたいたい、などという書面が、効力を持つとは、考えにくいからだ…
私は、思った…
当日、迎えのクルマが来た…
私は、そのクルマに乗って、諏訪野昭子の元に向かった…
迎えに来た、クルマは、黒塗りのベンツ…
どこにでもあるクルマだった…
それでいて、高級感のあるクルマだった…
会社のお偉いさんが、よく使うクルマ…
それは、以前、ナオキが、言っていたが、黒塗りのベンツは、目立たないから、いいと、言っていた…
誰もが知る高級車だが、ある意味、ありふれている…
だから、どこかの駐車場に、停まっていても、誰が、乗っているか、わからない…
だから、いいと、言っていた…
ビジネスで、商談をするときに、目立つクルマでは、困る…
たとえば、日本で、数台もないクルマでは、すぐに、そこにいることが、バレてしまうからだ…
すると、誰とそこで、会って、なんの話をしていたか? ということになる…
だから、そういうふうに、身バレしないように、黒塗りのベンツに乗る経営者が、多いのだと、以前、ナオキに教えられた…
ナオキもまた、誰かに教えられたに違いないから、そのひとの受け売りだった(苦笑)…
私は、そんなことを、考えながら、ベンツに乗って、昭子の待つ、成城学園に向かった…
その間、私は、さまざまなことを考えた…
いや、
考えざるをなかったというべきか…
そもそも、私が、従妹の寿綾乃に成りすまさなければ、私は、五井と関わることは、なかった…
五井のような大金持ちと、私は、生涯関わることはなかった…
以前も言ったように、大学も行っていない、私、矢代綾子は、都会に出ても、派遣社員かなにかで、生計を立てていたに違いない…
そうなれば、当然、五井のような大金持ちと、生涯関わることはなかった…
あるいは、会社で、姿を見ることは、あっても、声をかけられることもなかっただろう…
こんなことを、言っては、差別になるかもしれないが、多くの人間が、結婚相手は、自分の交流する集団の中で、選ばざるを得ない…
交流する集団とは、学校の友人や会社の同僚のこと…
例えば、スーパーやコンビニで、パートをしていて、お客さんと顔なじみになり、交際するというケースはあまりない…
なぜなら、相手がどこの誰か、わからないからだ…
誰もが、結婚相手を見つけるとなると、慎重になる…
だから、職場の同僚や、学校の友人は、安心するというわけだ…
私が、寿綾乃になりすますこともなく、矢代綾子のままなら、仮に都会に出ても、諏訪野伸明と知り合うこともなく、どこか、派遣社員や契約社員で、入った会社の同僚と結婚しただろう…
ボンヤリと、そう思った…
だから、そんなことを、考えると、今さらながら、自分自身の数奇な運命を思った…
矢代綾子ではなく、寿綾乃として、生きる…
その結果の数奇な運命を考えた…
そもそも、私が、寿綾乃を名乗らなければ、五井家の人間と知り会えなかったからだ…
いや、もしかしたら、藤原ナオキとも知り会えなかっただろう…
矢代綾子のまま、田舎にこもり、生涯、都会で暮らすこともなかったのかもしれない…
仮に、都会に出て、藤原ナオキと知り会っても、諏訪野伸明と知り合う可能性は、ゼロに近い…
それを、思えば、人生は、まさに、出会い…
出会いに他ならない…
ナオキと出会うことで、人生が花開き、伸明と知り合うことで、世界が広がった…
そういうことだ…
そんなことを、考えながら、クルマに乗っていると、やがて、目的地に着いた…
目的地の諏訪野伸明の家に着いた…
「…到着しました…」
と、運転手に告げられて、私は、クルマから降りた…
そして、諏訪野伸明の家を見た…
それから、横に立つ、菊池リンの家を見た…
…一体、いつ以来だろうか?…
ふと、思った…
以前、この家を訪れたのは、いつのことだろうか?
考えた…
まだ、一年も経っていない…
以前、隣の菊池リンの家を訪れたときは、菊池リンの祖母の和子に会った…
昭子の一卵性双生児の妹の和子にあった…
そして、その際に、私とは、けた違いの女傑だと、思った…
私など、足元にも及ばない女傑だと思った…
年齢もさることながら、たとえ、私より、歳下でも、その実力は、けた違い…
到底、私の及ぶところではなかった…
まして、これから、会う、昭子は、その和子よりも、上だった…
一卵性姉妹の姉ということもあるが、やはり、先代当主、建造の妻だったということも大きいかもしれない…
昭子と和子では、嫁いだ相手が、違う…
昭子は、五井家当主…
和子は、当主の弟だ…
また、建造と、弟の義春は、器が違った…
残念ながら、義春は、建造の足元にも及ばなかった…
それでいて、野心家だった…
そして、義春は、建造の実子、秀樹に似ていた…
甥の秀樹に似ていた…
共に野心家だが、能力は、イマイチ…
こんなことを、言っては、失礼だが、それは、学校では、勉強はできないが、会社に入れば、オレは、勉強ができるヤツには、負けないと言っているようなものだった…
すでに、自分の能力も、他人の能力も、冷静に計ることができない人間たちだった…
私は、それを思い出した…
そして、それを思い出すと、やはりというか、案外というか…
もしかしたら、和子の方が、昭子よりも、上かもと、考えを変えた…
なぜなら、和子は、義春の妻だった…
今も言ったように、義春は、兄の建造に比べて、能力は劣るが、野心家だった…
となると、和子は、その義春をうまくコントロールする必要がある…
馬ではないが、手綱をうまく引く必要がある…
すると、その方が、難しいかもしれないからだ…
自分の能力を考えず、暴走しかねない夫をコントロールすることの方が、当主夫人である、昭子よりも、能力が必要となるかもしれないからだ…
片や、当主の建造は、賢明な人物だった…
己の能力を冷静にわきまえていた…
だから、その当主夫人である昭子は、和子のように、夫の手綱をうまく引く必要がなかった…
いや、
それはないか?
やはり、当主夫人の方が、気苦労が絶えないかもしれない…
五井家の当主と、当主の弟では、立場が違う…
当主の方が、当たり前だが、大変…
その当主をサポートするのだから、やはり、昭子の方が、能力が高いのかもしれない…
そんなことを、考えながら、いずれにしても、二人とも、猛女であると、思った…
常人とは、異なるレベルの猛女…
甲乙つけがたい猛女…
私は、それを考えながら、その猛女とこれから、対面するんだと、考え、自分自身を鼓舞した…
私が、そんなことを、考えていると、一人の、女が、歩いて、私の元にやって来るのが、わかった…
私は、誰だろう? と、思った…
が、
近くまで、来て、驚いた…
佐藤ナナだった…
あのベトナム人と、日本人のハーフ…
昭子の弟、菊池重方(しげかた)の娘だった…
私は、それを、目の当たりにして、なんとなく、これまでの謎が、解けてきたような気がした…
大げさではなく、漠然と、これまで、霧というか、靄(かすみ)というか…
全体が、かすんで見えなかった、事件の全貌が、見えてきた気がした…
佐藤ナナは、私の前まで来ると、
「…こんにちは…」
と、はにかんだような表情で、私に挨拶した…
私もまた、
「…こんにちは…」
と、返した…
「…お久しぶりね…」
私が、言うと、
佐藤ナナは、はにかんだ表情のまま、なにも言わなかった…
「…昭子さんは?…」
「…中で、待ってます…」
「…そう…」
私は、言って、佐藤ナナの導きで、諏訪野家の屋敷に入った…
諏訪野家は、まさに、豪邸だった…
隣にある、以前、訪れた、菊池リンの家より、明らかに大きかった…
やはり、兄弟とは、いえ、五井家当主と、当主の弟では、格差というか…
違いをつけなければ、ならないのかもしれない…
仮に、誰か、ひとを招いたときに、同じ家の大きさでは、いかに兄弟とはいえ、おかしい…
兄は、五井家当主…
弟は、五井家のグループ会社の社長…
その差は、明確にしなければ、ならないからだ…
しかし、大きな家だ…
私は、ただ唖然とした…
これでは、まるで、お城といえば、大げさだが、余裕で、民宿程度は、できる…
私は、思った…
だから、この佐藤ナナが、今、この屋敷から、出てきたのだろうと、思った…
急に、それまで、見ず知らずの他人が、いっしょに住むと、言っても、まったく困らない…
普通の家なら、ありえないことだ(笑)…
私など、田舎出身者にもかからず、家も小さかった(笑)…
まさに、貧乏の極み(笑)…
私は、子供心にも、それを口にすることは、なかった…
それを、口にすれば、母が悲しむからだ…
大好きな母が、悲しむからだ…
そして、たぶん、それが、寿綾乃ではなく、矢代綾子の原点だった…
母と娘、二人だけの田舎の生活…
それが、原点だった…
だから、無意識の間に、金持ちに憧れる…
自分自身は、意識していないが、金持ちに憧れる…
諏訪野伸明に憧れる…
それは、私自身の貧乏な田舎生活が、原点だったのかもしれない…
どんな人間も、自分の過去からは、逃れることはできない…
貧乏に育った人間は、金持ちに憧れる…
同時に、反発する…
金持ちに憧れ、同時に、憎む…
自分の持っていないものを、持っているからだ…
また、貧乏に生まれた人間は、金に汚くなる傾向が強い…
それは、どんなに、金持ちになっても、変わらない…
日産のトップだったカルロス・ゴーンは、貧乏な家庭の出身だった…
それゆえ、金に執着した…
一般の日本人から見れば、目の玉の飛び出るくらいの高給をもらっていたが、自分の妻の経営する店の経費も、日産から出させたと言われている…
つまりは、日産を自分の財布にしたのだ…
日産内での自分の権力で、公私のけじめをつけずに、傍若無人に振る舞った…
目の玉が飛び出るくらいの高給をもらいながら、自分自身の金を、一銭でも出したくなかったのだろう…
残念ながら、それが、悪い実例だろう…
貧乏人が、出世して成功した、残念な例だろう…
私自身もまた、カルロス・ゴーンのように、金に汚いわけではないが、金持ちに、無自覚のうちに憧れるのは、同じ理屈だと思う…
今さらだが、諏訪野伸明が、五井家の御曹司だと知らなければ、私は、伸明に憧れなかった可能性が高い…
もちろん、伸明を、好きにならなかったとまでは、言わない…
だが、大金持ちの子息と、わからなければ、ここまで、憧れることはなかったろう…
自分自身の気持ちを振り返って、あらためて、思った…
佐藤ナナの導きで、玄関に入り、諏訪野家の中に入った…
私は、その家の中に、入って、ただただ圧倒された…
まるで、公共のホテルというか、美術館のような内装だからだ…
お金持ちとは、こういうものなのか…
そう、考えざるを得なかった…
私自身は、藤原ナオキの援助もあり、いわゆる億ションに住んでいる…
だから、私も、世間の目からすれば、成功者の部類…
成功者の一人に違いないからだ…
しかしながら、この諏訪野家を訪れると、私の住む億ションとは、大違いというか…
桁が違うことがわかる…
私は、小金持ちだが、この諏訪野家は、大金持ちだと、わかる…
私は、たたただ圧倒されながら、家の中を歩いた…
そして、到着した先には、あのユリコがいた…
ナオキの元の妻、藤原ユリコの姿があった…