第88話

文字数 6,372文字

 私、寿綾乃、32歳…

 私は、これまで、自分のために、生きてきたつもりだった…

 自分一人の力で、生きてきたつもりだった…

 だが、そうではなかった…

 藤原ナオキ、あっての私だった…

 ナオキあっての私だった…

 今さらながら、その現実に、気付いた…

 その事実に、気付いた…

 そして、今、必要なこと…

 私にできることは、このナオキのために、生きること…

 そして、数年後、私が、この世から、いなくなった後も、ナオキが、無事、社長業を続けることができるように、少しでも、環境を整えること…

 それが、この寿綾乃の残された人生の間に、やらねばならぬことだと、気付いた…

 一介の、なんの力もない、ナオキの秘書風情の女が、そんな大層なことを、言うのは、バカげているが、私は、幸か不幸か、五井家の人間と、知り会った…

 五井家の頂点に立つ、伸明とも、親しくさせてもらった…

 そして、今、なにより、その伸明を超える力を持つ、伸明の母から、自宅に招かれた…

 おそらく、その目的は、ユリコ…

 藤原ナオキの前妻のユリコが、集めた、五井造船の株の扱いに対して、私に、ユリコに、翻意させるように、頼むつもりだろう…

 私は、ユリコの唯一の弱点を握っている…

 それは、ユリコの息子、ジュン君のこと…

 ジュン君は、以前、私をクルマで、轢き殺そうとした…

 私が、ジュン君の父親が、ナオキでないことを、ユリコに告げ、動揺したユリコは、呆気なく、その事実を認めた…

 その一部始終を、あの菊池リンが、ジュン君に告げた…

 菊池リンは、五井家が、私につけたスパイだった…

 私が、本物の寿綾乃だと思っていたからだ…

 本物の寿綾乃は、五井の先代当主、建造の娘だった…

 建造が、外に作った娘だった…

 私を本物の寿綾乃と、誤解していたのだ…

 自分が、ナオキの血が繋がった息子だと信じていたジュン君は、それが、事実でないとわかると、どうしていいか、わからず、会社から、出てきた私をクルマで、撥ねた…

 それを見た、菊池リンが、五井記念病院に私を入院させる手筈を整えた…

 結果、私は、生き延びた…

 そして、それが、あろうことか、僥倖(ぎょうこう)となった…

 僥倖=禍を転じて福と為った…

 ユリコは、天敵…

 常に、私を敵と見なして、邪魔をした…

 私が、ユリコから、ナオキを奪ったからだ…

 が、

 私をクルマで、轢いたジュン君は、殺人犯…

 今現在、拘置所に収容されている…

 まだ、裁判は、始まっていない…

 ユリコにしてみれば、裁判が、始まったとき、私に、宥恕(ゆうじょ)=許すと、言ってもらいたい…

 私に一言、宥恕(ゆうじょ)すると、言えば、ジュン君の刑は、減刑される可能性が、高い…

 また、逆に言えば、私が、

 宥恕(ゆうじょ)する…

 と、言わない限り、減刑の可能性は、低いというか…

 まずないと、断言できる…

 それゆえ、ユリコは、私に借りを作ったというか…

 私から言わせれば、ユリコの弱みを握ったとも、言える…

 そして、おそらく、そのすべての経緯を、あの昭子は、知っているに違いない…

 知っていて、私を、自宅に招いたに違いない…

 まさに、女傑…

 五井の女傑だ…

 私は、思った…

 そして、本当ならば、私は、あの昭子に会いたくはなかった…

 なぜなら、どうあがいても、太刀打ちできないからだ…

 が、

 虎穴に入らずんば虎子を得ずの言葉通り、昭子に会わなければ、ならない…

 会って、ナオキのことを、頼まなければ、ならない…

 どんなことがあっても、ナオキの今後のことを、頼まなければ、ならない…

 そう、思った…

 そして、そう思うと、おのずから、覚悟が決まった…

 おそらく、もはや、五井にとって、私の利用価値はない…

 だから、これが、最後のチャンス…

 私が、ユリコを説得させる条件として、少しでも、ナオキに有利な言葉を引き出させなければ、ならない…

 たとえ、それが、口約束でも、構わない…

 これは、契約ではない…

 だから、たとえ、約束して、極端な話、書面に残して、昭子がその約束を守らず、それを、元に、裁判を起こしても、私に勝ち目はない…

 藤原ナオキの今後をバックアップしてもらいたいたい、などという書面が、効力を持つとは、考えにくいからだ…

 私は、思った…

 
 当日、迎えのクルマが来た…

 私は、そのクルマに乗って、諏訪野昭子の元に向かった…

 迎えに来た、クルマは、黒塗りのベンツ…

 どこにでもあるクルマだった…

 それでいて、高級感のあるクルマだった…

 会社のお偉いさんが、よく使うクルマ…

 それは、以前、ナオキが、言っていたが、黒塗りのベンツは、目立たないから、いいと、言っていた…

 誰もが知る高級車だが、ある意味、ありふれている…

 だから、どこかの駐車場に、停まっていても、誰が、乗っているか、わからない…

 だから、いいと、言っていた…

 ビジネスで、商談をするときに、目立つクルマでは、困る…

 たとえば、日本で、数台もないクルマでは、すぐに、そこにいることが、バレてしまうからだ…

 すると、誰とそこで、会って、なんの話をしていたか? ということになる…

 だから、そういうふうに、身バレしないように、黒塗りのベンツに乗る経営者が、多いのだと、以前、ナオキに教えられた…

 ナオキもまた、誰かに教えられたに違いないから、そのひとの受け売りだった(苦笑)…

 私は、そんなことを、考えながら、ベンツに乗って、昭子の待つ、成城学園に向かった…

 その間、私は、さまざまなことを考えた…

 いや、

 考えざるをなかったというべきか…

 そもそも、私が、従妹の寿綾乃に成りすまさなければ、私は、五井と関わることは、なかった…

 五井のような大金持ちと、私は、生涯関わることはなかった…

 以前も言ったように、大学も行っていない、私、矢代綾子は、都会に出ても、派遣社員かなにかで、生計を立てていたに違いない…

 そうなれば、当然、五井のような大金持ちと、生涯関わることはなかった…

 あるいは、会社で、姿を見ることは、あっても、声をかけられることもなかっただろう…

 こんなことを、言っては、差別になるかもしれないが、多くの人間が、結婚相手は、自分の交流する集団の中で、選ばざるを得ない…

 交流する集団とは、学校の友人や会社の同僚のこと…

 例えば、スーパーやコンビニで、パートをしていて、お客さんと顔なじみになり、交際するというケースはあまりない…

 なぜなら、相手がどこの誰か、わからないからだ…

 誰もが、結婚相手を見つけるとなると、慎重になる…

 だから、職場の同僚や、学校の友人は、安心するというわけだ…

 私が、寿綾乃になりすますこともなく、矢代綾子のままなら、仮に都会に出ても、諏訪野伸明と知り合うこともなく、どこか、派遣社員や契約社員で、入った会社の同僚と結婚しただろう…

 ボンヤリと、そう思った…

 だから、そんなことを、考えると、今さらながら、自分自身の数奇な運命を思った…

 矢代綾子ではなく、寿綾乃として、生きる…

 その結果の数奇な運命を考えた…

 そもそも、私が、寿綾乃を名乗らなければ、五井家の人間と知り会えなかったからだ…

 いや、もしかしたら、藤原ナオキとも知り会えなかっただろう…

 矢代綾子のまま、田舎にこもり、生涯、都会で暮らすこともなかったのかもしれない…

 仮に、都会に出て、藤原ナオキと知り会っても、諏訪野伸明と知り合う可能性は、ゼロに近い…

 それを、思えば、人生は、まさに、出会い…

 出会いに他ならない…

 ナオキと出会うことで、人生が花開き、伸明と知り合うことで、世界が広がった…

 そういうことだ…


 そんなことを、考えながら、クルマに乗っていると、やがて、目的地に着いた…

 目的地の諏訪野伸明の家に着いた…

 「…到着しました…」

 と、運転手に告げられて、私は、クルマから降りた…

 そして、諏訪野伸明の家を見た…

 それから、横に立つ、菊池リンの家を見た…

 …一体、いつ以来だろうか?…

 ふと、思った…

 以前、この家を訪れたのは、いつのことだろうか?

 考えた…

 まだ、一年も経っていない…

 以前、隣の菊池リンの家を訪れたときは、菊池リンの祖母の和子に会った…

 昭子の一卵性双生児の妹の和子にあった…

 そして、その際に、私とは、けた違いの女傑だと、思った…

 私など、足元にも及ばない女傑だと思った…

 年齢もさることながら、たとえ、私より、歳下でも、その実力は、けた違い…

 到底、私の及ぶところではなかった…

 まして、これから、会う、昭子は、その和子よりも、上だった…

 一卵性姉妹の姉ということもあるが、やはり、先代当主、建造の妻だったということも大きいかもしれない…

 昭子と和子では、嫁いだ相手が、違う…

 昭子は、五井家当主…

 和子は、当主の弟だ…

 また、建造と、弟の義春は、器が違った…

 残念ながら、義春は、建造の足元にも及ばなかった…

 それでいて、野心家だった…

 そして、義春は、建造の実子、秀樹に似ていた…

 甥の秀樹に似ていた…

 共に野心家だが、能力は、イマイチ…

 こんなことを、言っては、失礼だが、それは、学校では、勉強はできないが、会社に入れば、オレは、勉強ができるヤツには、負けないと言っているようなものだった…

 すでに、自分の能力も、他人の能力も、冷静に計ることができない人間たちだった…

 私は、それを思い出した…

 そして、それを思い出すと、やはりというか、案外というか…

 もしかしたら、和子の方が、昭子よりも、上かもと、考えを変えた…

 なぜなら、和子は、義春の妻だった…

 今も言ったように、義春は、兄の建造に比べて、能力は劣るが、野心家だった…

 となると、和子は、その義春をうまくコントロールする必要がある…

 馬ではないが、手綱をうまく引く必要がある…

 すると、その方が、難しいかもしれないからだ…

 自分の能力を考えず、暴走しかねない夫をコントロールすることの方が、当主夫人である、昭子よりも、能力が必要となるかもしれないからだ…

 片や、当主の建造は、賢明な人物だった…

 己の能力を冷静にわきまえていた…

 だから、その当主夫人である昭子は、和子のように、夫の手綱をうまく引く必要がなかった…

 いや、

 それはないか?

 やはり、当主夫人の方が、気苦労が絶えないかもしれない…

 五井家の当主と、当主の弟では、立場が違う…

 当主の方が、当たり前だが、大変…

 その当主をサポートするのだから、やはり、昭子の方が、能力が高いのかもしれない…

 そんなことを、考えながら、いずれにしても、二人とも、猛女であると、思った…

 常人とは、異なるレベルの猛女…

 甲乙つけがたい猛女…

 私は、それを考えながら、その猛女とこれから、対面するんだと、考え、自分自身を鼓舞した…


 私が、そんなことを、考えていると、一人の、女が、歩いて、私の元にやって来るのが、わかった…

 私は、誰だろう? と、思った…

 が、

 近くまで、来て、驚いた…

 佐藤ナナだった…

 あのベトナム人と、日本人のハーフ…

 昭子の弟、菊池重方(しげかた)の娘だった…

 私は、それを、目の当たりにして、なんとなく、これまでの謎が、解けてきたような気がした…

 大げさではなく、漠然と、これまで、霧というか、靄(かすみ)というか…

 全体が、かすんで見えなかった、事件の全貌が、見えてきた気がした…

 佐藤ナナは、私の前まで来ると、

 「…こんにちは…」

 と、はにかんだような表情で、私に挨拶した…

 私もまた、

 「…こんにちは…」

 と、返した…

 「…お久しぶりね…」

 私が、言うと、

 佐藤ナナは、はにかんだ表情のまま、なにも言わなかった…

 「…昭子さんは?…」

 「…中で、待ってます…」

 「…そう…」

 私は、言って、佐藤ナナの導きで、諏訪野家の屋敷に入った…

 諏訪野家は、まさに、豪邸だった…

 隣にある、以前、訪れた、菊池リンの家より、明らかに大きかった…

 やはり、兄弟とは、いえ、五井家当主と、当主の弟では、格差というか…

 違いをつけなければ、ならないのかもしれない…

 仮に、誰か、ひとを招いたときに、同じ家の大きさでは、いかに兄弟とはいえ、おかしい…

 兄は、五井家当主…

 弟は、五井家のグループ会社の社長…

 その差は、明確にしなければ、ならないからだ…

 しかし、大きな家だ…

 私は、ただ唖然とした…

 これでは、まるで、お城といえば、大げさだが、余裕で、民宿程度は、できる…

 私は、思った…

 だから、この佐藤ナナが、今、この屋敷から、出てきたのだろうと、思った…

 急に、それまで、見ず知らずの他人が、いっしょに住むと、言っても、まったく困らない…

 普通の家なら、ありえないことだ(笑)…

 私など、田舎出身者にもかからず、家も小さかった(笑)…

 まさに、貧乏の極み(笑)…

 私は、子供心にも、それを口にすることは、なかった…

 それを、口にすれば、母が悲しむからだ…

 大好きな母が、悲しむからだ…

 そして、たぶん、それが、寿綾乃ではなく、矢代綾子の原点だった…

 母と娘、二人だけの田舎の生活…

 それが、原点だった…

 だから、無意識の間に、金持ちに憧れる…

 自分自身は、意識していないが、金持ちに憧れる…

 諏訪野伸明に憧れる…

 それは、私自身の貧乏な田舎生活が、原点だったのかもしれない…

 どんな人間も、自分の過去からは、逃れることはできない…

 貧乏に育った人間は、金持ちに憧れる…

 同時に、反発する…

 金持ちに憧れ、同時に、憎む…

 自分の持っていないものを、持っているからだ…

 また、貧乏に生まれた人間は、金に汚くなる傾向が強い…

 それは、どんなに、金持ちになっても、変わらない…

 日産のトップだったカルロス・ゴーンは、貧乏な家庭の出身だった…

 それゆえ、金に執着した…

 一般の日本人から見れば、目の玉の飛び出るくらいの高給をもらっていたが、自分の妻の経営する店の経費も、日産から出させたと言われている…

 つまりは、日産を自分の財布にしたのだ…

 日産内での自分の権力で、公私のけじめをつけずに、傍若無人に振る舞った…

 目の玉が飛び出るくらいの高給をもらいながら、自分自身の金を、一銭でも出したくなかったのだろう…

 残念ながら、それが、悪い実例だろう…

 貧乏人が、出世して成功した、残念な例だろう…

 私自身もまた、カルロス・ゴーンのように、金に汚いわけではないが、金持ちに、無自覚のうちに憧れるのは、同じ理屈だと思う…

 今さらだが、諏訪野伸明が、五井家の御曹司だと知らなければ、私は、伸明に憧れなかった可能性が高い…

 もちろん、伸明を、好きにならなかったとまでは、言わない…

 だが、大金持ちの子息と、わからなければ、ここまで、憧れることはなかったろう…

 自分自身の気持ちを振り返って、あらためて、思った…

 
 佐藤ナナの導きで、玄関に入り、諏訪野家の中に入った…

 私は、その家の中に、入って、ただただ圧倒された…

 まるで、公共のホテルというか、美術館のような内装だからだ…

 お金持ちとは、こういうものなのか…

 そう、考えざるを得なかった…

 私自身は、藤原ナオキの援助もあり、いわゆる億ションに住んでいる…

 だから、私も、世間の目からすれば、成功者の部類…

 成功者の一人に違いないからだ…

 しかしながら、この諏訪野家を訪れると、私の住む億ションとは、大違いというか…

 桁が違うことがわかる…

 私は、小金持ちだが、この諏訪野家は、大金持ちだと、わかる…

 私は、たたただ圧倒されながら、家の中を歩いた…

 そして、到着した先には、あのユリコがいた…

 ナオキの元の妻、藤原ユリコの姿があった…

               
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