第12話
文字数 9,230文字
「…昭子叔母様…ボクはこれで…」
菊池冬馬が、笑顔で、言った…
「…ボクも、肩書だけとはいえ、この五井記念病院の理事長です…それなりに、忙しいので…」
そう言って、菊池冬馬は、私のいる病室から、去ろうとした…
そう言った、冬馬は、やはり、写真で、見た通り、目に険があり、一筋縄ではいかない、やんちゃなイメージがあった…
昭子は、なにも、言わなかった…
が、
私は、
「…長谷川センセイ…」
と、冬馬に、声をかけた…
「…腕のいい、センセイを私の担当にして頂き、ありがとうございました…」
と、この病室を去り行く、冬馬の背中に、声をかけた…
すると、すぐに、冬馬が、反応した…
いったんは、私と昭子に背を向けて、病室の出入り口に向かっていたが、すぐに、踵(きびす)を返した…
「…長谷川…いい男ですよ…アイツは…」
と、笑った…
「…腕はいいし、人柄も申し分ない…寿さんの治療に全力を尽くすことを、理事長として、お約束します…」
真面目な顔で、言った…
それから、一転して、
「…でも、アイツは、真面目過ぎるのが、玉に瑕(きず)というか…外科医にかかわらず、あまり女に免疫がない…寿さん…あまり、アイツをからかわないで、下さい…」
笑いながら、警告した…
いや、警告では、ないかもしれない…
顔は笑っていたが、目は笑っていなかった…
私は、そんな菊池冬馬の表情を見て、気付いた…
…気付いている…
…私が、長谷川センセイを、からかった…
…私が、長谷川センセイを、誘惑したことを、知っている…
そう思った…
それから、私は、誰から、その情報が漏れたか、考えた…
やはり、あの佐藤ナナからか?
ということは、あの佐藤ナナは、菊池冬馬と繋がっている?
普通に考えれば、そう…
しかし、その可能性は、低い…
五井記念病院の理事長と、ただの若手の看護師…
その二人が、繋がっている可能性は、低い…
だとすると、どうだ?
他の可能性は、長谷川センセイ?…
長谷川センセイ当人が、この菊池冬馬に漏らした可能性が、高い…
少なくとも、佐藤ナナから、菊池冬馬に、告げた可能性よりも、はるかに、高い…
後は、伝聞…
人を介した噂話…
あるいは、これが、一番、可能性が高いかもしれない…
私は、考える…
すると、
「…随分、考え込んでますね…」
と、私をからかうような声がした…
私は、その声の主を見た…
その声の主は、当たり前だが、菊池冬馬だった…
「…誰が、ボクに、寿さんが、長谷川をからかったと言ったのか、考えたのでしょ?…」
私は、その質問に、
「…」
と、答えなかった…
そして、私と、冬馬は睨み合った…
互いの視線が、ぶつかり合った…
敵!
とっさに、思った…
この男は、敵!
敵、認定!
紛れもない敵に違いない…
そう思ったときだった…
「…冬馬さん…そのように、他人様をからかう癖は、お止めなさい…」
と、昭子が、厳しく叱責した…
「…以前にも、注意したはずです…」
昭子が、怒った…
私は、昭子に視線を送ったが、すぐに、冬馬に視線を戻した…
なにより、冬馬が、どう答えるか、興味があったからだ…
自分の叔母に叱られて、どういう態度を取るのか、興味があった…
だから、冬馬が、どういう態度を取るのか、ジッと、凝視した…
「…スイマセン…」
ぶっきらぼうに、菊池冬馬が、詫びた…
が、
その冬馬に、昭子が、追い打ちをかけた…
「…冬馬さん…」
「…ハイ…」
「…この寿さんが、伸明の妻となると、言ったのは、ウソでも、なんでも、ないのよ…」
昭子が言った…
冬馬は、
「…」
と、答えなかった…
「…それに、これは、和子も承知していること…」
「…和子叔母様も…」
これには、冬馬も驚いたようだ…
「…伸明さんは、リンちゃんと、結婚するんじゃ…」
「…その可能性は、否定しません…ですが、現時点では、この寿さんが、第一候補…なにより、伸明は、寿さんを一番頼りにしてます…」
昭子の言葉に、
「…」
と、冬馬は、なにも、言わなかった…
「…わかりました…」
少し経つと、冬馬は答え、
「…寿さんを、からかうような真似をして、申し訳ありませんでした…」
と、私に頭を下げた…
「…で、どこから、聞いたの? 冬馬さん…」
すかさず、昭子が尋ねた…
「…長谷川ですよ…」
ぶっきらぼうに、答える…
まるで、子供がすねた感じだった…
「…昭子叔母様…これでも、ボクは、寿さんのことは、人一倍気にかけているつもりです…伸明さんには、子供の頃、よく遊んでもらいましたし、その伸明さんが、大切にしている女性ですから、いい加減な対応はしていません…長谷川を、寿さんの担当につけたのだって、アイツの腕を信頼しているからです…もっと、ボクを信用して、下さい…」
冬馬の抗議に、昭子は、
「…似ているわね…」
と、いきなり、言った…
…似ている?…
…誰に?…
私は、思った…
「…重方(しげかた)にそっくり…」
昭子が、言った…
「…重方(しげかた)の子供時代に、そっくり…」
昭子が続ける…
「…私や、和子が、注意すると、すぐに、すねて…やはり、血は争えないものね…」
昭子の指摘に、
「…」
と、冬馬は答えなかった…
「…重方(しげかた)は、私と和子より、十歳年下…ちょうど、伸明と、冬馬さんと、同じ…十歳、離れてる…だから、いかにも、弟という感じ…」
昭子が、続ける…
「…でも、冬馬さん…アナタには、重方(しげかた)の真似はしてもらいたくない…」
「…どういう意味ですか?…」
「…五井本家に、弓を引くような真似は、止めなさいと、言いたいの…」
昭子の言葉に、
「…ボクは、親父とは、違いますよ…」
と、冬馬が、即答した…
「…そんなバカな真似はしない…仮に、そんな真似をして、五井家を追放されたら、生きてゆけなくなる…」
あっさりと、言った…
「…それは、困る…ボクは、五井家あっての菊池冬馬です…五井家に生まれたからこそ、この若さで、五井記念病院の理事長になれた…五井家に生まれたゆえに、こんな大病院の理事長になれたわけです…」
冬馬の言葉に、
「…それを信じてます…」
と、昭子が返した…
「…その気持ちをいつまでも、忘れずに…」
昭子の言葉に、冬馬は、グッと、昭子を睨みつけ、なにか、言いかけたが、なにも、言わず、病室を出て行った…
その冬馬の背中を見ていた、昭子が、
「…ホント、重方(しげかた)に、そっくり…やんちゃで、人の言うことを聞かないで…」
と、ため息をついた…
「…やはり、血は争えない…ダメなものは、ダメ…」
自分自身に言い聞かせるように、呟いた…
「…義春さんや、秀樹があんなふうな最期になったのを、間近で、見ているくせに、五井家の当主になろうなんて、愚の骨頂…潰さなくては、ならない…」
…潰す?…
…血を分けた、自分の弟を?…
私は、昭子の言葉に、仰天した…
…本気?…
…本気で、言っているのだろうか?…
私は、考える。
私が、そんなことを、考えながら、昭子を見ていると、昭子が、私の心の中を見透かすように、
「…別に、冗談を言っているわけじゃない…」
と、言って、笑った…
「…反乱の芽は摘む…五井の歴史は、400年…ご先祖様は、そうやって、五井を守ってきた…五井の歴史は、骨肉の争いの歴史…親、兄弟、血が繋がった一族が、当主の座を目指して、争う…その繰り返し…」
昭子が、嘆息する…
「…バカバカしいといえば、実にバカバカしい…時代が、変わっても、ひとのやることは、同じ…金と権力のある座を、ひとは、目指す…」
「…」
「…建造が、伸明を当主にしようとしたのは、欲がないから…」
以前、私が、思っていたことと、同じことを、昭子が言った…
「…真逆に、建造が、自分の血を引いた息子である、秀樹を、当主にしようとしなかったのは、欲が強いから…」
昭子が嘆息する…
「…私としても…主人の…建造の判断は、正しいと思う…でも、秀樹は、主人にとって、自分の血を引く息子…片や、伸明は、血が繋がらない息子…よく、そんな決断をできたと、思う…」
「…」
「…でも、それは、五井家のことを、考えて…伸明では、なにも、起こらないが、秀樹では、騒動を起こす…その欲の強さから、一族で、ひと悶着を起こす…それが、わかっているから、主人は、伸明を、次の当主に選んだ…」
「…」
「…にも、かかわらず、騒動は、続いている…伸明は、欲がないにも、かかわらず、欲の皮の突っ張った連中が、当主の座を狙う…ホント、バカバカしいというか…うんざりする…」
昭子が笑った…
たしかに、昭子の言葉だけ、聞けば、気が滅入るが、昭子自身は、その柔らかい口調で、淡々と話していた…
それは、むしろ、病室で、傍らのベッドで、寝ている、私に、言うというよりも、自分自身に言い聞かせる感じだった…
「…今日、私が、寿さんに会いに来た目的は…」
いきなり、昭子が言った…
「…伸明の置かれた状況を、寿さんに、見せるため…」
「…私に見せるため?…」
「…寿さん…アナタが、伸明の、花嫁第一候補であることは、間違いはありません…」
「…」
「…決して、菊池リンではない…」
「…どうして、菊池さんでは、ないんでしょうか?…」
「…伸明が、リンちゃんと、結婚する気がないのが、一番の理由…」
「…」
「…伸明とリンちゃんでは、年齢が、二十歳も離れてます…これが、最大の理由です…」
「…」
「…男は、若い女が好きというのは、本当のことだし、伸明も例外ではないでしょう…でも、いくらなんでも、二十歳は、歳が離れすぎてますし、そもそも、伸明は、リンちゃんの未来を奪いたいと、思ってないことも、一因でしょう…」
「…菊池さんの未来?…」
「…リンちゃんの立場になれば、誰だって、二十歳も上の男と結婚するのは、嫌でしょ?…」
昭子が屈託なく、笑う…
「…物事には、何事も、限度というものが、あります…二十歳ちょっとの娘が、四十過ぎのオジサンと結婚するのは、誰だって、嫌でしょ? …少なくとも、私なら嫌です…受け入れません…」
「…」
「…伸明が、リンちゃんと、結婚を考えないのは、伸明の優しさでしょう…そんな伸明だから、主人は、自分の後継者に選んだ…たとえ、血が繋がっていなくても…」
昭子が力説した…
「…最初の話に戻りますが、今日、寿さんの元に、伺ったのは、寿さんという女性を、私の目で見ること…そして、伸明の今後を、よろしくと、頼みたかったのです…」
「…でも、私は、この通り、ベッドの上で、寝ているだけで、なにもできません…」
「…それは、違います…」
「…違う…どう、違うんですか?…」
「…ベッドの上で、寝ているだけでも、情報が入ります…現実に、寿さんは、この病院の理事長…菊池冬馬…そして、冬馬の友人の長谷川センセイと、知り会うことができました…戦争ではありませんが、指揮官が、現場に出向いて、最前線で、指揮を執る必要はありません…最新の研究では、本能寺の変のとき、明智光秀は、本能寺にいなかったというでは、ありませんか? …それと、同じです…」
…それは、さすがに、大げさ過ぎる例えではないか?…
思ったが、口にできなかった…
「…いずれにしろ、伸明は、寿さんを頼りにしてます…」
「…私を頼りに?…」
意外な言葉だった…
意外過ぎた…
「…どうして、私を頼りにしているのでしょうか?…」
私は、率直に言った…
聞かずには、いられなかったからだ…
「…たぶん、五井家のゴタゴタが原因でしょう…」
「…五井家のゴタゴタ? …どういう意味でしょうか?…」
「…誰もが、嫌なことがあると、現実から目を背けたくなるというか…そんなとき、必要なのが、好きな異性や、友人…なんのしがらみもない仲間と接すること…それが、最高の息抜きになります…」
「…」
「…でも、残念ながら、伸明には、それがいない…唯一、寿さんぐらいしか…」
なるほど、それが、理由か?
私は、この伸明の母が、どうして、この病室に、私を訪ねて、やって来たのか?
ようやく、その理由が、わかった気がした…
つまりは、一言で言えば、諏訪野伸明が、私と、この病室で、たわいもない、おしゃべりをすることが、伸明にとって、最高の息抜きになるに違いない…
それを知って、この昭子が、今日、やって来た…
それが、最大の理由ではないか?
私、寿綾乃という女が、どういう女か、自分の目で、確かめたかった…
それが、一つ…
そして、もうひとつは、伸明が、私の病室にやって来ることを了承してもらうこと…
それが、一番の目的ではないのか?
私は、気付いた…
「…わかりました…」
私は、答えた…
「…私も伸明さんが、この病室にやって来て、頂くことは、嬉しいです…」
私の返答に、昭子の顔が、パッと、華やいだというか…
喜色満面の笑顔になった…
その笑顔を見て、やはり、この病室に、諏訪野伸明がやって来ることを、私に了承を取り付けることが、今日の来訪の目的だと、私は、確信した…
母が息子の動静を気遣う上で、最大限の配慮をすべく、やって来たというのが、本音だろうと、喝破した…
五井家の内乱…
昭子が、帰った後に、考えた…
結局は、お金があるところへ、権力があるところへ、ひとは、誰でもいきたがる…
それゆえ、その地位を巡って、争いが起きる…
諏訪野伸明の父、建造は、それを恐れて、伸明を後継者にした…
欲がない、伸明ならば、争いが、起きづらいに違いないと、判断したからだ…
それが、血が繋がった実子の秀樹ではなく、血が繋がってない、妻の昭子の連れ子の伸明を、後継者に選んだ理由だった…
しかし、この騒動を見ると、それも、無駄になったというか…
自分では、後継者選びに、最善を尽くしたつもりでも、ダメだったということか?
それを思えば、天国の建造が、可哀そうになった…
建造のことは、詳しくは知らないが、おそらくは、五井家の存続に、人生を捧げたに違いないからだ…
五井家に人生を捧げたに決まっているからだ…
にも、かかわらず、争いが起きる…
天国の建造は、この事態を一体、どういうつもりで、見ているのだろう?
ふと、思った…
先代の五井家当主は、泉下で、今回の争いを、どう思っているのだろう?
やっぱり…
それとも、
仕方がない…
おそらくは、そんな気持ちかもしれない…
争いは、いつも、起きる…
ただ、精一杯、それに対策を講じなければ、ならない…
案外、泉下の建造が、言いたいのは、そんなことかもしれないと思った…
佐藤ナナが、長谷川センセイと検診にやって来た…
「…寿さん…調子は、どうですか?…」
長谷川センセイが、愛想よく、私に聞いた…
「…状態はいいです…」
私は、長谷川センセイに即答した…
が、
私は、長谷川センセイよりも、同行した、看護師の佐藤ナナの方が気になった…
やはり、というか、私によそよそしい…
その浅黒い肌の色に、可愛らしく、それでいて、華やかな顔を、私に見せまいとする様子だった…
私と直接、視線を合わせないように、している感じだった…
だから、
「…佐藤さん…この前は、スイマセンでした…」
と、佐藤ナナに詫びた…
本当ならば、長谷川センセイがいないところで、佐藤ナナに詫びたかったが、機会を逃した…
このところ、佐藤ナナに会う機会がなかったからだ…
ここ数日、別の看護師が、検診にやって来て、佐藤ナナが、この病室に顔を出すことは、なかった…
おそらく、私を避けたに違いなかった…
私と会いたくないために、わざと、この病室に顔を出さなかったに違いない…
誰か、別の看護師に頼んで、私の病室にやって来るのを、避けたに違いなかった…
それが、今日、この病室にやって来たのは、長谷川センセイが、いっしょだからだろう…
だが、佐藤ナナから、返事はなかった…
そういえば、この長谷川センセイも、この病室に顔を見せるのは、数日ぶりだった…
なにか、あったのだろうか?
「…センセイも、ここ数日、顔を見せませんでしたね…」
私が、言うと、
「…学会で、忙しくて…」
長谷川センセイが、答えた…
「…これでも、結構、忙しいんです…」
長谷川センセイが、笑いながら、言った…
すると、
「…長谷川センセイは、学会のホープなんですよ…」
と、いきなり、佐藤ナナが、口を挟んだ…
「…ホープ?…」
思わず、繰り返した…
いまどき、ホープなんて、あまり聞かない言葉だ…
ホープ=希望だが、最近は、そんな言い方は、あまりしない…
私より、10歳も年下の佐藤ナナが、そんな古臭い言葉を使うのに、妙な違和感があった…
それは、長谷川センセイも同じだったようだ…
「…佐藤さん…いまどき、ホープなんて、言わないよ…」
長谷川センセイが、苦笑する…
「…一体、誰から、聞いたの?…」
長谷川センセイの問いかけに、佐藤ナナが、黙った…
その褐色の顔を赤らめた…
すると、顔を赤らめて、困った表情が、彼女の顔を余計に、愛らしく見せた…
少なくとも、私は、そう思った…
「…ホープは、おかしいですか?…」
しばらくして、佐藤ナナが、口を開いた…
「…いや、おかしくはないけど、今は、あまり、そんな言い方は…」
長谷川センセイが、佐藤ナナを慮って、曖昧に言葉を濁した…
佐藤ナナは、傍目にも、動揺した…
「…私、日本に、来て、まだ、数年だから…」
言い訳するように、言った…
「エッ? ウソッ?…」
長谷川センセイが、驚いた…
それは、私も、また、いっしょだった…
「…だって、佐藤さん…日本と、東南アジアのハーフだって…」
「…でも、来日したのは、ここ数年です…」
「…」
「…向こうで、日本語を習って、来日したんですが、日本語を教えてくれたひとが、お爺ちゃんだったので、言葉遣いが、古いのかもしれない…」
佐藤ナナが、告白する。
「…そんなに、日本語が堪能なのに…」
思わず、私は言った…
まさか、佐藤ナナが、ここ数年、来日したばかりの人間とは、思わなかった…
だが、それが、いけなかった…
佐藤ナナが、再び、射るような視線で、私を睨んだ…
敵?…
敵、認定!
佐藤ナナにとって、私は、敵…
長谷川センセイを、巡って、恋敵(こいがたき)…
恋のライバルだ…
「…日本語が、堪能なんかじゃありません…」
私を睨みつけるようにして、佐藤ナナが、言った…
「…まだまだです…」
佐藤ナナが、悔しそうに言った…
私は、どうして、いいか、わからなかった…
きっと、大好きな長谷川センセイの前で、古臭い日本語を使ったのが、恥ずかしいのだろう…
しかも、自分が、恋敵と睨んだ、私の前で、そんな古臭い言葉を使ったことが、余計に、悔しいのかもしれない…
要するに、佐藤ナナは、大好きな長谷川センセイの前で、恥を掻いたのだ…
しかも、それは、恋敵の目の前…
私が、想像する以上の屈辱かもしれない…
佐藤ナナにとって、私、寿綾乃が、想像する以上の、失態と思ったのかもしれない…
…どうすれば?…
…どうすれば、彼女の失態を、うまく、やわらげることができるか?…
考えた…
…うまく、笑いに変えることができるか?…
頭を巡らせた…
すると、長谷川センセイが、
「…寿さんは、この前、冬馬…菊池冬馬と、この病室で、会ったんですって?…」
と、とっさに、言った…
話題を変えたのだ…
私は、射るような、佐藤ナナの視線から、逃れるように、長谷川センセイの顔を見た…
「…ハイ…数日前に、この病室にいらっしゃって…」
私は、答えた…
答えながら、長谷川センセイに、感謝した…
いつまでも、佐藤ナナの古い日本語の話題を引きずるのは、困る…
なにより、その話題を続けることで、佐藤ナナの恨みを買うのは、困る…
「…面白い男でしょ?…」
いきなり、長谷川センセイが、言った…
…面白い?…
…一体、なにが、面白いんだろ?…
意味がわからなかった…
一度、会っただけだが、菊池冬馬は、面白い男ではなかった…
「…なにが、面白いんですか?…」
私は、聞いた…
どう考えても、面白い男ではなかったからだ…
「…子供ですよ…」
「…子供?…」
「…五井家のお坊ちゃまとして生まれ、何不自由のない生活をして、今は、こんな大病院の理事長をしている…だから、子供…まるで、成長がない…昔から、知ってますが、学生時代と、なにも、変わらない…」
長谷川センセイが、苦笑する…
…たしかに、言われてみれば、わかる…
…あの叔母である、諏訪野昭子に、叱られて、ふてくされたような態度を取ったのは、まさに子供…
子供に他ならない…
「…でも、まあ、そんな冬馬だから、今も付き合える…」
「…どういうことですか?…」
「…少なくとも、冬馬には、裏表がない…この病院で、見た冬馬と、プライベートで、会った冬馬が、まるで、別人というわけじゃ、絶対ない…」
長谷川センセイが、苦笑する。
「…世の中、案外、そんな人間が多い…でも、冬馬は、そんな人間じゃなかった…そんな冬馬に誘われたから、ボクも、この病院にやって来たんです…」
長谷川センセイが、告白した…
「…理事長に誘われたから…」
「…ハイ…ボクも、以前は、違う病院に勤めていて…」
そうか…
きっと、長谷川センセイの腕を買ったに違いない…
今、佐藤ナナが、言ったように、この長谷川センセイは、腕のいい、医者として、業界で、知られているに違いない…
だから、それを知って、あの菊池冬馬は、自分の病院に来るように、誘ったに違いない…
私は、思った…
が、
それがいけなかった…
「…理事長が、この病室に来た?…」
佐藤ナナが、驚きの声を上げた…
「…そんな…理事長が?…」
「…別に、驚くことじゃないよ…」
長谷川センセイが、説明した…
「…この寿さんは、五井家の当主、諏訪野伸明さんの、婚約者と言おうか…その伸明さんから、冬馬が、面倒を見るように、頼まれて、それで、ボクにお鉢が回って来たといおうか…」
長谷川センセイの説明に、佐藤ナナが、目を丸くした…
「…そんな…凄い…」
佐藤ナナが、感嘆する…
そして、それは、逆効果だった…
長谷川センセイの説明は、佐藤ナナの怒りに、火を注いだ…
嫉妬に、さらに、燃料を投下したようなものだった…
「…そんな凄い婚約者が、いるのに、長谷川センセイに、自分を好きになってもらいたいなんて、ことを言うなんて…」
佐藤ナナが、怒りの表情で、私を睨んだ…
佐藤ナナが、いまにも、殴りかかって来る感じで、私を睨んだ…
菊池冬馬が、笑顔で、言った…
「…ボクも、肩書だけとはいえ、この五井記念病院の理事長です…それなりに、忙しいので…」
そう言って、菊池冬馬は、私のいる病室から、去ろうとした…
そう言った、冬馬は、やはり、写真で、見た通り、目に険があり、一筋縄ではいかない、やんちゃなイメージがあった…
昭子は、なにも、言わなかった…
が、
私は、
「…長谷川センセイ…」
と、冬馬に、声をかけた…
「…腕のいい、センセイを私の担当にして頂き、ありがとうございました…」
と、この病室を去り行く、冬馬の背中に、声をかけた…
すると、すぐに、冬馬が、反応した…
いったんは、私と昭子に背を向けて、病室の出入り口に向かっていたが、すぐに、踵(きびす)を返した…
「…長谷川…いい男ですよ…アイツは…」
と、笑った…
「…腕はいいし、人柄も申し分ない…寿さんの治療に全力を尽くすことを、理事長として、お約束します…」
真面目な顔で、言った…
それから、一転して、
「…でも、アイツは、真面目過ぎるのが、玉に瑕(きず)というか…外科医にかかわらず、あまり女に免疫がない…寿さん…あまり、アイツをからかわないで、下さい…」
笑いながら、警告した…
いや、警告では、ないかもしれない…
顔は笑っていたが、目は笑っていなかった…
私は、そんな菊池冬馬の表情を見て、気付いた…
…気付いている…
…私が、長谷川センセイを、からかった…
…私が、長谷川センセイを、誘惑したことを、知っている…
そう思った…
それから、私は、誰から、その情報が漏れたか、考えた…
やはり、あの佐藤ナナからか?
ということは、あの佐藤ナナは、菊池冬馬と繋がっている?
普通に考えれば、そう…
しかし、その可能性は、低い…
五井記念病院の理事長と、ただの若手の看護師…
その二人が、繋がっている可能性は、低い…
だとすると、どうだ?
他の可能性は、長谷川センセイ?…
長谷川センセイ当人が、この菊池冬馬に漏らした可能性が、高い…
少なくとも、佐藤ナナから、菊池冬馬に、告げた可能性よりも、はるかに、高い…
後は、伝聞…
人を介した噂話…
あるいは、これが、一番、可能性が高いかもしれない…
私は、考える…
すると、
「…随分、考え込んでますね…」
と、私をからかうような声がした…
私は、その声の主を見た…
その声の主は、当たり前だが、菊池冬馬だった…
「…誰が、ボクに、寿さんが、長谷川をからかったと言ったのか、考えたのでしょ?…」
私は、その質問に、
「…」
と、答えなかった…
そして、私と、冬馬は睨み合った…
互いの視線が、ぶつかり合った…
敵!
とっさに、思った…
この男は、敵!
敵、認定!
紛れもない敵に違いない…
そう思ったときだった…
「…冬馬さん…そのように、他人様をからかう癖は、お止めなさい…」
と、昭子が、厳しく叱責した…
「…以前にも、注意したはずです…」
昭子が、怒った…
私は、昭子に視線を送ったが、すぐに、冬馬に視線を戻した…
なにより、冬馬が、どう答えるか、興味があったからだ…
自分の叔母に叱られて、どういう態度を取るのか、興味があった…
だから、冬馬が、どういう態度を取るのか、ジッと、凝視した…
「…スイマセン…」
ぶっきらぼうに、菊池冬馬が、詫びた…
が、
その冬馬に、昭子が、追い打ちをかけた…
「…冬馬さん…」
「…ハイ…」
「…この寿さんが、伸明の妻となると、言ったのは、ウソでも、なんでも、ないのよ…」
昭子が言った…
冬馬は、
「…」
と、答えなかった…
「…それに、これは、和子も承知していること…」
「…和子叔母様も…」
これには、冬馬も驚いたようだ…
「…伸明さんは、リンちゃんと、結婚するんじゃ…」
「…その可能性は、否定しません…ですが、現時点では、この寿さんが、第一候補…なにより、伸明は、寿さんを一番頼りにしてます…」
昭子の言葉に、
「…」
と、冬馬は、なにも、言わなかった…
「…わかりました…」
少し経つと、冬馬は答え、
「…寿さんを、からかうような真似をして、申し訳ありませんでした…」
と、私に頭を下げた…
「…で、どこから、聞いたの? 冬馬さん…」
すかさず、昭子が尋ねた…
「…長谷川ですよ…」
ぶっきらぼうに、答える…
まるで、子供がすねた感じだった…
「…昭子叔母様…これでも、ボクは、寿さんのことは、人一倍気にかけているつもりです…伸明さんには、子供の頃、よく遊んでもらいましたし、その伸明さんが、大切にしている女性ですから、いい加減な対応はしていません…長谷川を、寿さんの担当につけたのだって、アイツの腕を信頼しているからです…もっと、ボクを信用して、下さい…」
冬馬の抗議に、昭子は、
「…似ているわね…」
と、いきなり、言った…
…似ている?…
…誰に?…
私は、思った…
「…重方(しげかた)にそっくり…」
昭子が、言った…
「…重方(しげかた)の子供時代に、そっくり…」
昭子が続ける…
「…私や、和子が、注意すると、すぐに、すねて…やはり、血は争えないものね…」
昭子の指摘に、
「…」
と、冬馬は答えなかった…
「…重方(しげかた)は、私と和子より、十歳年下…ちょうど、伸明と、冬馬さんと、同じ…十歳、離れてる…だから、いかにも、弟という感じ…」
昭子が、続ける…
「…でも、冬馬さん…アナタには、重方(しげかた)の真似はしてもらいたくない…」
「…どういう意味ですか?…」
「…五井本家に、弓を引くような真似は、止めなさいと、言いたいの…」
昭子の言葉に、
「…ボクは、親父とは、違いますよ…」
と、冬馬が、即答した…
「…そんなバカな真似はしない…仮に、そんな真似をして、五井家を追放されたら、生きてゆけなくなる…」
あっさりと、言った…
「…それは、困る…ボクは、五井家あっての菊池冬馬です…五井家に生まれたからこそ、この若さで、五井記念病院の理事長になれた…五井家に生まれたゆえに、こんな大病院の理事長になれたわけです…」
冬馬の言葉に、
「…それを信じてます…」
と、昭子が返した…
「…その気持ちをいつまでも、忘れずに…」
昭子の言葉に、冬馬は、グッと、昭子を睨みつけ、なにか、言いかけたが、なにも、言わず、病室を出て行った…
その冬馬の背中を見ていた、昭子が、
「…ホント、重方(しげかた)に、そっくり…やんちゃで、人の言うことを聞かないで…」
と、ため息をついた…
「…やはり、血は争えない…ダメなものは、ダメ…」
自分自身に言い聞かせるように、呟いた…
「…義春さんや、秀樹があんなふうな最期になったのを、間近で、見ているくせに、五井家の当主になろうなんて、愚の骨頂…潰さなくては、ならない…」
…潰す?…
…血を分けた、自分の弟を?…
私は、昭子の言葉に、仰天した…
…本気?…
…本気で、言っているのだろうか?…
私は、考える。
私が、そんなことを、考えながら、昭子を見ていると、昭子が、私の心の中を見透かすように、
「…別に、冗談を言っているわけじゃない…」
と、言って、笑った…
「…反乱の芽は摘む…五井の歴史は、400年…ご先祖様は、そうやって、五井を守ってきた…五井の歴史は、骨肉の争いの歴史…親、兄弟、血が繋がった一族が、当主の座を目指して、争う…その繰り返し…」
昭子が、嘆息する…
「…バカバカしいといえば、実にバカバカしい…時代が、変わっても、ひとのやることは、同じ…金と権力のある座を、ひとは、目指す…」
「…」
「…建造が、伸明を当主にしようとしたのは、欲がないから…」
以前、私が、思っていたことと、同じことを、昭子が言った…
「…真逆に、建造が、自分の血を引いた息子である、秀樹を、当主にしようとしなかったのは、欲が強いから…」
昭子が嘆息する…
「…私としても…主人の…建造の判断は、正しいと思う…でも、秀樹は、主人にとって、自分の血を引く息子…片や、伸明は、血が繋がらない息子…よく、そんな決断をできたと、思う…」
「…」
「…でも、それは、五井家のことを、考えて…伸明では、なにも、起こらないが、秀樹では、騒動を起こす…その欲の強さから、一族で、ひと悶着を起こす…それが、わかっているから、主人は、伸明を、次の当主に選んだ…」
「…」
「…にも、かかわらず、騒動は、続いている…伸明は、欲がないにも、かかわらず、欲の皮の突っ張った連中が、当主の座を狙う…ホント、バカバカしいというか…うんざりする…」
昭子が笑った…
たしかに、昭子の言葉だけ、聞けば、気が滅入るが、昭子自身は、その柔らかい口調で、淡々と話していた…
それは、むしろ、病室で、傍らのベッドで、寝ている、私に、言うというよりも、自分自身に言い聞かせる感じだった…
「…今日、私が、寿さんに会いに来た目的は…」
いきなり、昭子が言った…
「…伸明の置かれた状況を、寿さんに、見せるため…」
「…私に見せるため?…」
「…寿さん…アナタが、伸明の、花嫁第一候補であることは、間違いはありません…」
「…」
「…決して、菊池リンではない…」
「…どうして、菊池さんでは、ないんでしょうか?…」
「…伸明が、リンちゃんと、結婚する気がないのが、一番の理由…」
「…」
「…伸明とリンちゃんでは、年齢が、二十歳も離れてます…これが、最大の理由です…」
「…」
「…男は、若い女が好きというのは、本当のことだし、伸明も例外ではないでしょう…でも、いくらなんでも、二十歳は、歳が離れすぎてますし、そもそも、伸明は、リンちゃんの未来を奪いたいと、思ってないことも、一因でしょう…」
「…菊池さんの未来?…」
「…リンちゃんの立場になれば、誰だって、二十歳も上の男と結婚するのは、嫌でしょ?…」
昭子が屈託なく、笑う…
「…物事には、何事も、限度というものが、あります…二十歳ちょっとの娘が、四十過ぎのオジサンと結婚するのは、誰だって、嫌でしょ? …少なくとも、私なら嫌です…受け入れません…」
「…」
「…伸明が、リンちゃんと、結婚を考えないのは、伸明の優しさでしょう…そんな伸明だから、主人は、自分の後継者に選んだ…たとえ、血が繋がっていなくても…」
昭子が力説した…
「…最初の話に戻りますが、今日、寿さんの元に、伺ったのは、寿さんという女性を、私の目で見ること…そして、伸明の今後を、よろしくと、頼みたかったのです…」
「…でも、私は、この通り、ベッドの上で、寝ているだけで、なにもできません…」
「…それは、違います…」
「…違う…どう、違うんですか?…」
「…ベッドの上で、寝ているだけでも、情報が入ります…現実に、寿さんは、この病院の理事長…菊池冬馬…そして、冬馬の友人の長谷川センセイと、知り会うことができました…戦争ではありませんが、指揮官が、現場に出向いて、最前線で、指揮を執る必要はありません…最新の研究では、本能寺の変のとき、明智光秀は、本能寺にいなかったというでは、ありませんか? …それと、同じです…」
…それは、さすがに、大げさ過ぎる例えではないか?…
思ったが、口にできなかった…
「…いずれにしろ、伸明は、寿さんを頼りにしてます…」
「…私を頼りに?…」
意外な言葉だった…
意外過ぎた…
「…どうして、私を頼りにしているのでしょうか?…」
私は、率直に言った…
聞かずには、いられなかったからだ…
「…たぶん、五井家のゴタゴタが原因でしょう…」
「…五井家のゴタゴタ? …どういう意味でしょうか?…」
「…誰もが、嫌なことがあると、現実から目を背けたくなるというか…そんなとき、必要なのが、好きな異性や、友人…なんのしがらみもない仲間と接すること…それが、最高の息抜きになります…」
「…」
「…でも、残念ながら、伸明には、それがいない…唯一、寿さんぐらいしか…」
なるほど、それが、理由か?
私は、この伸明の母が、どうして、この病室に、私を訪ねて、やって来たのか?
ようやく、その理由が、わかった気がした…
つまりは、一言で言えば、諏訪野伸明が、私と、この病室で、たわいもない、おしゃべりをすることが、伸明にとって、最高の息抜きになるに違いない…
それを知って、この昭子が、今日、やって来た…
それが、最大の理由ではないか?
私、寿綾乃という女が、どういう女か、自分の目で、確かめたかった…
それが、一つ…
そして、もうひとつは、伸明が、私の病室にやって来ることを了承してもらうこと…
それが、一番の目的ではないのか?
私は、気付いた…
「…わかりました…」
私は、答えた…
「…私も伸明さんが、この病室にやって来て、頂くことは、嬉しいです…」
私の返答に、昭子の顔が、パッと、華やいだというか…
喜色満面の笑顔になった…
その笑顔を見て、やはり、この病室に、諏訪野伸明がやって来ることを、私に了承を取り付けることが、今日の来訪の目的だと、私は、確信した…
母が息子の動静を気遣う上で、最大限の配慮をすべく、やって来たというのが、本音だろうと、喝破した…
五井家の内乱…
昭子が、帰った後に、考えた…
結局は、お金があるところへ、権力があるところへ、ひとは、誰でもいきたがる…
それゆえ、その地位を巡って、争いが起きる…
諏訪野伸明の父、建造は、それを恐れて、伸明を後継者にした…
欲がない、伸明ならば、争いが、起きづらいに違いないと、判断したからだ…
それが、血が繋がった実子の秀樹ではなく、血が繋がってない、妻の昭子の連れ子の伸明を、後継者に選んだ理由だった…
しかし、この騒動を見ると、それも、無駄になったというか…
自分では、後継者選びに、最善を尽くしたつもりでも、ダメだったということか?
それを思えば、天国の建造が、可哀そうになった…
建造のことは、詳しくは知らないが、おそらくは、五井家の存続に、人生を捧げたに違いないからだ…
五井家に人生を捧げたに決まっているからだ…
にも、かかわらず、争いが起きる…
天国の建造は、この事態を一体、どういうつもりで、見ているのだろう?
ふと、思った…
先代の五井家当主は、泉下で、今回の争いを、どう思っているのだろう?
やっぱり…
それとも、
仕方がない…
おそらくは、そんな気持ちかもしれない…
争いは、いつも、起きる…
ただ、精一杯、それに対策を講じなければ、ならない…
案外、泉下の建造が、言いたいのは、そんなことかもしれないと思った…
佐藤ナナが、長谷川センセイと検診にやって来た…
「…寿さん…調子は、どうですか?…」
長谷川センセイが、愛想よく、私に聞いた…
「…状態はいいです…」
私は、長谷川センセイに即答した…
が、
私は、長谷川センセイよりも、同行した、看護師の佐藤ナナの方が気になった…
やはり、というか、私によそよそしい…
その浅黒い肌の色に、可愛らしく、それでいて、華やかな顔を、私に見せまいとする様子だった…
私と直接、視線を合わせないように、している感じだった…
だから、
「…佐藤さん…この前は、スイマセンでした…」
と、佐藤ナナに詫びた…
本当ならば、長谷川センセイがいないところで、佐藤ナナに詫びたかったが、機会を逃した…
このところ、佐藤ナナに会う機会がなかったからだ…
ここ数日、別の看護師が、検診にやって来て、佐藤ナナが、この病室に顔を出すことは、なかった…
おそらく、私を避けたに違いなかった…
私と会いたくないために、わざと、この病室に顔を出さなかったに違いない…
誰か、別の看護師に頼んで、私の病室にやって来るのを、避けたに違いなかった…
それが、今日、この病室にやって来たのは、長谷川センセイが、いっしょだからだろう…
だが、佐藤ナナから、返事はなかった…
そういえば、この長谷川センセイも、この病室に顔を見せるのは、数日ぶりだった…
なにか、あったのだろうか?
「…センセイも、ここ数日、顔を見せませんでしたね…」
私が、言うと、
「…学会で、忙しくて…」
長谷川センセイが、答えた…
「…これでも、結構、忙しいんです…」
長谷川センセイが、笑いながら、言った…
すると、
「…長谷川センセイは、学会のホープなんですよ…」
と、いきなり、佐藤ナナが、口を挟んだ…
「…ホープ?…」
思わず、繰り返した…
いまどき、ホープなんて、あまり聞かない言葉だ…
ホープ=希望だが、最近は、そんな言い方は、あまりしない…
私より、10歳も年下の佐藤ナナが、そんな古臭い言葉を使うのに、妙な違和感があった…
それは、長谷川センセイも同じだったようだ…
「…佐藤さん…いまどき、ホープなんて、言わないよ…」
長谷川センセイが、苦笑する…
「…一体、誰から、聞いたの?…」
長谷川センセイの問いかけに、佐藤ナナが、黙った…
その褐色の顔を赤らめた…
すると、顔を赤らめて、困った表情が、彼女の顔を余計に、愛らしく見せた…
少なくとも、私は、そう思った…
「…ホープは、おかしいですか?…」
しばらくして、佐藤ナナが、口を開いた…
「…いや、おかしくはないけど、今は、あまり、そんな言い方は…」
長谷川センセイが、佐藤ナナを慮って、曖昧に言葉を濁した…
佐藤ナナは、傍目にも、動揺した…
「…私、日本に、来て、まだ、数年だから…」
言い訳するように、言った…
「エッ? ウソッ?…」
長谷川センセイが、驚いた…
それは、私も、また、いっしょだった…
「…だって、佐藤さん…日本と、東南アジアのハーフだって…」
「…でも、来日したのは、ここ数年です…」
「…」
「…向こうで、日本語を習って、来日したんですが、日本語を教えてくれたひとが、お爺ちゃんだったので、言葉遣いが、古いのかもしれない…」
佐藤ナナが、告白する。
「…そんなに、日本語が堪能なのに…」
思わず、私は言った…
まさか、佐藤ナナが、ここ数年、来日したばかりの人間とは、思わなかった…
だが、それが、いけなかった…
佐藤ナナが、再び、射るような視線で、私を睨んだ…
敵?…
敵、認定!
佐藤ナナにとって、私は、敵…
長谷川センセイを、巡って、恋敵(こいがたき)…
恋のライバルだ…
「…日本語が、堪能なんかじゃありません…」
私を睨みつけるようにして、佐藤ナナが、言った…
「…まだまだです…」
佐藤ナナが、悔しそうに言った…
私は、どうして、いいか、わからなかった…
きっと、大好きな長谷川センセイの前で、古臭い日本語を使ったのが、恥ずかしいのだろう…
しかも、自分が、恋敵と睨んだ、私の前で、そんな古臭い言葉を使ったことが、余計に、悔しいのかもしれない…
要するに、佐藤ナナは、大好きな長谷川センセイの前で、恥を掻いたのだ…
しかも、それは、恋敵の目の前…
私が、想像する以上の屈辱かもしれない…
佐藤ナナにとって、私、寿綾乃が、想像する以上の、失態と思ったのかもしれない…
…どうすれば?…
…どうすれば、彼女の失態を、うまく、やわらげることができるか?…
考えた…
…うまく、笑いに変えることができるか?…
頭を巡らせた…
すると、長谷川センセイが、
「…寿さんは、この前、冬馬…菊池冬馬と、この病室で、会ったんですって?…」
と、とっさに、言った…
話題を変えたのだ…
私は、射るような、佐藤ナナの視線から、逃れるように、長谷川センセイの顔を見た…
「…ハイ…数日前に、この病室にいらっしゃって…」
私は、答えた…
答えながら、長谷川センセイに、感謝した…
いつまでも、佐藤ナナの古い日本語の話題を引きずるのは、困る…
なにより、その話題を続けることで、佐藤ナナの恨みを買うのは、困る…
「…面白い男でしょ?…」
いきなり、長谷川センセイが、言った…
…面白い?…
…一体、なにが、面白いんだろ?…
意味がわからなかった…
一度、会っただけだが、菊池冬馬は、面白い男ではなかった…
「…なにが、面白いんですか?…」
私は、聞いた…
どう考えても、面白い男ではなかったからだ…
「…子供ですよ…」
「…子供?…」
「…五井家のお坊ちゃまとして生まれ、何不自由のない生活をして、今は、こんな大病院の理事長をしている…だから、子供…まるで、成長がない…昔から、知ってますが、学生時代と、なにも、変わらない…」
長谷川センセイが、苦笑する…
…たしかに、言われてみれば、わかる…
…あの叔母である、諏訪野昭子に、叱られて、ふてくされたような態度を取ったのは、まさに子供…
子供に他ならない…
「…でも、まあ、そんな冬馬だから、今も付き合える…」
「…どういうことですか?…」
「…少なくとも、冬馬には、裏表がない…この病院で、見た冬馬と、プライベートで、会った冬馬が、まるで、別人というわけじゃ、絶対ない…」
長谷川センセイが、苦笑する。
「…世の中、案外、そんな人間が多い…でも、冬馬は、そんな人間じゃなかった…そんな冬馬に誘われたから、ボクも、この病院にやって来たんです…」
長谷川センセイが、告白した…
「…理事長に誘われたから…」
「…ハイ…ボクも、以前は、違う病院に勤めていて…」
そうか…
きっと、長谷川センセイの腕を買ったに違いない…
今、佐藤ナナが、言ったように、この長谷川センセイは、腕のいい、医者として、業界で、知られているに違いない…
だから、それを知って、あの菊池冬馬は、自分の病院に来るように、誘ったに違いない…
私は、思った…
が、
それがいけなかった…
「…理事長が、この病室に来た?…」
佐藤ナナが、驚きの声を上げた…
「…そんな…理事長が?…」
「…別に、驚くことじゃないよ…」
長谷川センセイが、説明した…
「…この寿さんは、五井家の当主、諏訪野伸明さんの、婚約者と言おうか…その伸明さんから、冬馬が、面倒を見るように、頼まれて、それで、ボクにお鉢が回って来たといおうか…」
長谷川センセイの説明に、佐藤ナナが、目を丸くした…
「…そんな…凄い…」
佐藤ナナが、感嘆する…
そして、それは、逆効果だった…
長谷川センセイの説明は、佐藤ナナの怒りに、火を注いだ…
嫉妬に、さらに、燃料を投下したようなものだった…
「…そんな凄い婚約者が、いるのに、長谷川センセイに、自分を好きになってもらいたいなんて、ことを言うなんて…」
佐藤ナナが、怒りの表情で、私を睨んだ…
佐藤ナナが、いまにも、殴りかかって来る感じで、私を睨んだ…