第12話

文字数 9,230文字

 「…昭子叔母様…ボクはこれで…」

 菊池冬馬が、笑顔で、言った…

 「…ボクも、肩書だけとはいえ、この五井記念病院の理事長です…それなりに、忙しいので…」

 そう言って、菊池冬馬は、私のいる病室から、去ろうとした…

 そう言った、冬馬は、やはり、写真で、見た通り、目に険があり、一筋縄ではいかない、やんちゃなイメージがあった…

 昭子は、なにも、言わなかった…

 が、

 私は、

 「…長谷川センセイ…」

 と、冬馬に、声をかけた…

 「…腕のいい、センセイを私の担当にして頂き、ありがとうございました…」

 と、この病室を去り行く、冬馬の背中に、声をかけた…

 すると、すぐに、冬馬が、反応した…

 いったんは、私と昭子に背を向けて、病室の出入り口に向かっていたが、すぐに、踵(きびす)を返した…

 「…長谷川…いい男ですよ…アイツは…」
 
 と、笑った…

 「…腕はいいし、人柄も申し分ない…寿さんの治療に全力を尽くすことを、理事長として、お約束します…」

 真面目な顔で、言った…

 それから、一転して、

 「…でも、アイツは、真面目過ぎるのが、玉に瑕(きず)というか…外科医にかかわらず、あまり女に免疫がない…寿さん…あまり、アイツをからかわないで、下さい…」

 笑いながら、警告した…

 いや、警告では、ないかもしれない…

 顔は笑っていたが、目は笑っていなかった…

 私は、そんな菊池冬馬の表情を見て、気付いた…

 …気付いている…

 …私が、長谷川センセイを、からかった…

 …私が、長谷川センセイを、誘惑したことを、知っている…

 そう思った…

 それから、私は、誰から、その情報が漏れたか、考えた…

 やはり、あの佐藤ナナからか?

 ということは、あの佐藤ナナは、菊池冬馬と繋がっている?

 普通に考えれば、そう…

 しかし、その可能性は、低い…

 五井記念病院の理事長と、ただの若手の看護師…

 その二人が、繋がっている可能性は、低い…

 だとすると、どうだ?

 他の可能性は、長谷川センセイ?…

 長谷川センセイ当人が、この菊池冬馬に漏らした可能性が、高い…

 少なくとも、佐藤ナナから、菊池冬馬に、告げた可能性よりも、はるかに、高い…

 後は、伝聞…

 人を介した噂話…

 あるいは、これが、一番、可能性が高いかもしれない…

 私は、考える…

 すると、

 「…随分、考え込んでますね…」

 と、私をからかうような声がした…

 私は、その声の主を見た…

 その声の主は、当たり前だが、菊池冬馬だった…

 「…誰が、ボクに、寿さんが、長谷川をからかったと言ったのか、考えたのでしょ?…」

 私は、その質問に、

 「…」

 と、答えなかった…

 そして、私と、冬馬は睨み合った…

 互いの視線が、ぶつかり合った…

 敵!

 とっさに、思った…

 この男は、敵!

 敵、認定!

 紛れもない敵に違いない…

 そう思ったときだった…

 「…冬馬さん…そのように、他人様をからかう癖は、お止めなさい…」

 と、昭子が、厳しく叱責した…

 「…以前にも、注意したはずです…」

 昭子が、怒った…

 私は、昭子に視線を送ったが、すぐに、冬馬に視線を戻した…

 なにより、冬馬が、どう答えるか、興味があったからだ…

 自分の叔母に叱られて、どういう態度を取るのか、興味があった…

 だから、冬馬が、どういう態度を取るのか、ジッと、凝視した…

 「…スイマセン…」

 ぶっきらぼうに、菊池冬馬が、詫びた…

 が、

 その冬馬に、昭子が、追い打ちをかけた…

 「…冬馬さん…」

 「…ハイ…」

 「…この寿さんが、伸明の妻となると、言ったのは、ウソでも、なんでも、ないのよ…」

 昭子が言った…

 冬馬は、

 「…」

 と、答えなかった…

 「…それに、これは、和子も承知していること…」

 「…和子叔母様も…」

 これには、冬馬も驚いたようだ…

 「…伸明さんは、リンちゃんと、結婚するんじゃ…」

 「…その可能性は、否定しません…ですが、現時点では、この寿さんが、第一候補…なにより、伸明は、寿さんを一番頼りにしてます…」

 昭子の言葉に、

 「…」

 と、冬馬は、なにも、言わなかった…

 「…わかりました…」

 少し経つと、冬馬は答え、

 「…寿さんを、からかうような真似をして、申し訳ありませんでした…」

 と、私に頭を下げた…

 「…で、どこから、聞いたの? 冬馬さん…」

 すかさず、昭子が尋ねた…

 「…長谷川ですよ…」

 ぶっきらぼうに、答える…

 まるで、子供がすねた感じだった…

 「…昭子叔母様…これでも、ボクは、寿さんのことは、人一倍気にかけているつもりです…伸明さんには、子供の頃、よく遊んでもらいましたし、その伸明さんが、大切にしている女性ですから、いい加減な対応はしていません…長谷川を、寿さんの担当につけたのだって、アイツの腕を信頼しているからです…もっと、ボクを信用して、下さい…」

 冬馬の抗議に、昭子は、

 「…似ているわね…」 

 と、いきなり、言った…

 …似ている?…

 …誰に?…

 私は、思った…

 「…重方(しげかた)にそっくり…」

 昭子が、言った…

 「…重方(しげかた)の子供時代に、そっくり…」

 昭子が続ける…

 「…私や、和子が、注意すると、すぐに、すねて…やはり、血は争えないものね…」

 昭子の指摘に、

 「…」

 と、冬馬は答えなかった…

 「…重方(しげかた)は、私と和子より、十歳年下…ちょうど、伸明と、冬馬さんと、同じ…十歳、離れてる…だから、いかにも、弟という感じ…」

 昭子が、続ける…

 「…でも、冬馬さん…アナタには、重方(しげかた)の真似はしてもらいたくない…」

 「…どういう意味ですか?…」

 「…五井本家に、弓を引くような真似は、止めなさいと、言いたいの…」

 昭子の言葉に、

 「…ボクは、親父とは、違いますよ…」

 と、冬馬が、即答した…

 「…そんなバカな真似はしない…仮に、そんな真似をして、五井家を追放されたら、生きてゆけなくなる…」

 あっさりと、言った…

 「…それは、困る…ボクは、五井家あっての菊池冬馬です…五井家に生まれたからこそ、この若さで、五井記念病院の理事長になれた…五井家に生まれたゆえに、こんな大病院の理事長になれたわけです…」

 冬馬の言葉に、

 「…それを信じてます…」

 と、昭子が返した…

 「…その気持ちをいつまでも、忘れずに…」

 昭子の言葉に、冬馬は、グッと、昭子を睨みつけ、なにか、言いかけたが、なにも、言わず、病室を出て行った…

 その冬馬の背中を見ていた、昭子が、

 「…ホント、重方(しげかた)に、そっくり…やんちゃで、人の言うことを聞かないで…」

 と、ため息をついた…

 「…やはり、血は争えない…ダメなものは、ダメ…」

 自分自身に言い聞かせるように、呟いた…

 「…義春さんや、秀樹があんなふうな最期になったのを、間近で、見ているくせに、五井家の当主になろうなんて、愚の骨頂…潰さなくては、ならない…」

 …潰す?…

 …血を分けた、自分の弟を?…

 私は、昭子の言葉に、仰天した…

 …本気?…

 …本気で、言っているのだろうか?…

 私は、考える。

 私が、そんなことを、考えながら、昭子を見ていると、昭子が、私の心の中を見透かすように、

 「…別に、冗談を言っているわけじゃない…」

 と、言って、笑った…

 「…反乱の芽は摘む…五井の歴史は、400年…ご先祖様は、そうやって、五井を守ってきた…五井の歴史は、骨肉の争いの歴史…親、兄弟、血が繋がった一族が、当主の座を目指して、争う…その繰り返し…」

 昭子が、嘆息する…

 「…バカバカしいといえば、実にバカバカしい…時代が、変わっても、ひとのやることは、同じ…金と権力のある座を、ひとは、目指す…」

 「…」

 「…建造が、伸明を当主にしようとしたのは、欲がないから…」

 以前、私が、思っていたことと、同じことを、昭子が言った…

 「…真逆に、建造が、自分の血を引いた息子である、秀樹を、当主にしようとしなかったのは、欲が強いから…」

 昭子が嘆息する…

 「…私としても…主人の…建造の判断は、正しいと思う…でも、秀樹は、主人にとって、自分の血を引く息子…片や、伸明は、血が繋がらない息子…よく、そんな決断をできたと、思う…」

 「…」

 「…でも、それは、五井家のことを、考えて…伸明では、なにも、起こらないが、秀樹では、騒動を起こす…その欲の強さから、一族で、ひと悶着を起こす…それが、わかっているから、主人は、伸明を、次の当主に選んだ…」

 「…」

 「…にも、かかわらず、騒動は、続いている…伸明は、欲がないにも、かかわらず、欲の皮の突っ張った連中が、当主の座を狙う…ホント、バカバカしいというか…うんざりする…」

 昭子が笑った…

 たしかに、昭子の言葉だけ、聞けば、気が滅入るが、昭子自身は、その柔らかい口調で、淡々と話していた…

 それは、むしろ、病室で、傍らのベッドで、寝ている、私に、言うというよりも、自分自身に言い聞かせる感じだった…

 「…今日、私が、寿さんに会いに来た目的は…」

 いきなり、昭子が言った…

 「…伸明の置かれた状況を、寿さんに、見せるため…」

 「…私に見せるため?…」

 「…寿さん…アナタが、伸明の、花嫁第一候補であることは、間違いはありません…」

 「…」

 「…決して、菊池リンではない…」

 「…どうして、菊池さんでは、ないんでしょうか?…」

 「…伸明が、リンちゃんと、結婚する気がないのが、一番の理由…」

 「…」

 「…伸明とリンちゃんでは、年齢が、二十歳も離れてます…これが、最大の理由です…」

 「…」

 「…男は、若い女が好きというのは、本当のことだし、伸明も例外ではないでしょう…でも、いくらなんでも、二十歳は、歳が離れすぎてますし、そもそも、伸明は、リンちゃんの未来を奪いたいと、思ってないことも、一因でしょう…」

 「…菊池さんの未来?…」

 「…リンちゃんの立場になれば、誰だって、二十歳も上の男と結婚するのは、嫌でしょ?…」

 昭子が屈託なく、笑う…

 「…物事には、何事も、限度というものが、あります…二十歳ちょっとの娘が、四十過ぎのオジサンと結婚するのは、誰だって、嫌でしょ? …少なくとも、私なら嫌です…受け入れません…」

 「…」

 「…伸明が、リンちゃんと、結婚を考えないのは、伸明の優しさでしょう…そんな伸明だから、主人は、自分の後継者に選んだ…たとえ、血が繋がっていなくても…」

 昭子が力説した…

 「…最初の話に戻りますが、今日、寿さんの元に、伺ったのは、寿さんという女性を、私の目で見ること…そして、伸明の今後を、よろしくと、頼みたかったのです…」

 「…でも、私は、この通り、ベッドの上で、寝ているだけで、なにもできません…」

 「…それは、違います…」

 「…違う…どう、違うんですか?…」

 「…ベッドの上で、寝ているだけでも、情報が入ります…現実に、寿さんは、この病院の理事長…菊池冬馬…そして、冬馬の友人の長谷川センセイと、知り会うことができました…戦争ではありませんが、指揮官が、現場に出向いて、最前線で、指揮を執る必要はありません…最新の研究では、本能寺の変のとき、明智光秀は、本能寺にいなかったというでは、ありませんか? …それと、同じです…」

 …それは、さすがに、大げさ過ぎる例えではないか?…

 思ったが、口にできなかった…

 「…いずれにしろ、伸明は、寿さんを頼りにしてます…」

 「…私を頼りに?…」

 意外な言葉だった…

 意外過ぎた…

 「…どうして、私を頼りにしているのでしょうか?…」

 私は、率直に言った…

 聞かずには、いられなかったからだ…

 「…たぶん、五井家のゴタゴタが原因でしょう…」

 「…五井家のゴタゴタ? …どういう意味でしょうか?…」

 「…誰もが、嫌なことがあると、現実から目を背けたくなるというか…そんなとき、必要なのが、好きな異性や、友人…なんのしがらみもない仲間と接すること…それが、最高の息抜きになります…」

 「…」

 「…でも、残念ながら、伸明には、それがいない…唯一、寿さんぐらいしか…」

 なるほど、それが、理由か?

 私は、この伸明の母が、どうして、この病室に、私を訪ねて、やって来たのか?

 ようやく、その理由が、わかった気がした…

 つまりは、一言で言えば、諏訪野伸明が、私と、この病室で、たわいもない、おしゃべりをすることが、伸明にとって、最高の息抜きになるに違いない…

 それを知って、この昭子が、今日、やって来た…

 それが、最大の理由ではないか?

 私、寿綾乃という女が、どういう女か、自分の目で、確かめたかった…

 それが、一つ…

 そして、もうひとつは、伸明が、私の病室にやって来ることを了承してもらうこと…

 それが、一番の目的ではないのか?

 私は、気付いた…

 「…わかりました…」

 私は、答えた…

 「…私も伸明さんが、この病室にやって来て、頂くことは、嬉しいです…」

 私の返答に、昭子の顔が、パッと、華やいだというか…

 喜色満面の笑顔になった…

 その笑顔を見て、やはり、この病室に、諏訪野伸明がやって来ることを、私に了承を取り付けることが、今日の来訪の目的だと、私は、確信した…

 母が息子の動静を気遣う上で、最大限の配慮をすべく、やって来たというのが、本音だろうと、喝破した…


 五井家の内乱…

 昭子が、帰った後に、考えた…

 結局は、お金があるところへ、権力があるところへ、ひとは、誰でもいきたがる…

 それゆえ、その地位を巡って、争いが起きる…

 諏訪野伸明の父、建造は、それを恐れて、伸明を後継者にした…

 欲がない、伸明ならば、争いが、起きづらいに違いないと、判断したからだ…

 それが、血が繋がった実子の秀樹ではなく、血が繋がってない、妻の昭子の連れ子の伸明を、後継者に選んだ理由だった…

 しかし、この騒動を見ると、それも、無駄になったというか…

 自分では、後継者選びに、最善を尽くしたつもりでも、ダメだったということか?

 それを思えば、天国の建造が、可哀そうになった…

 建造のことは、詳しくは知らないが、おそらくは、五井家の存続に、人生を捧げたに違いないからだ…

 五井家に人生を捧げたに決まっているからだ…

 にも、かかわらず、争いが起きる…

 天国の建造は、この事態を一体、どういうつもりで、見ているのだろう?

 ふと、思った…

 先代の五井家当主は、泉下で、今回の争いを、どう思っているのだろう?

 やっぱり…

 それとも、

 仕方がない…

 おそらくは、そんな気持ちかもしれない…

 争いは、いつも、起きる…

 ただ、精一杯、それに対策を講じなければ、ならない…

 案外、泉下の建造が、言いたいのは、そんなことかもしれないと思った…

 
 佐藤ナナが、長谷川センセイと検診にやって来た…

 「…寿さん…調子は、どうですか?…」

 長谷川センセイが、愛想よく、私に聞いた…

 「…状態はいいです…」

 私は、長谷川センセイに即答した…

 が、

 私は、長谷川センセイよりも、同行した、看護師の佐藤ナナの方が気になった…

 やはり、というか、私によそよそしい…

 その浅黒い肌の色に、可愛らしく、それでいて、華やかな顔を、私に見せまいとする様子だった…

 私と直接、視線を合わせないように、している感じだった…

 だから、

 「…佐藤さん…この前は、スイマセンでした…」

 と、佐藤ナナに詫びた…

 本当ならば、長谷川センセイがいないところで、佐藤ナナに詫びたかったが、機会を逃した…

 このところ、佐藤ナナに会う機会がなかったからだ…

 ここ数日、別の看護師が、検診にやって来て、佐藤ナナが、この病室に顔を出すことは、なかった…

 おそらく、私を避けたに違いなかった…

 私と会いたくないために、わざと、この病室に顔を出さなかったに違いない…

 誰か、別の看護師に頼んで、私の病室にやって来るのを、避けたに違いなかった…

 それが、今日、この病室にやって来たのは、長谷川センセイが、いっしょだからだろう…

 だが、佐藤ナナから、返事はなかった…

 そういえば、この長谷川センセイも、この病室に顔を見せるのは、数日ぶりだった…

 なにか、あったのだろうか?

 「…センセイも、ここ数日、顔を見せませんでしたね…」

 私が、言うと、

 「…学会で、忙しくて…」

 長谷川センセイが、答えた…

 「…これでも、結構、忙しいんです…」

 長谷川センセイが、笑いながら、言った…

 すると、

 「…長谷川センセイは、学会のホープなんですよ…」

 と、いきなり、佐藤ナナが、口を挟んだ…

 「…ホープ?…」

 思わず、繰り返した…

 いまどき、ホープなんて、あまり聞かない言葉だ…

 ホープ=希望だが、最近は、そんな言い方は、あまりしない…

 私より、10歳も年下の佐藤ナナが、そんな古臭い言葉を使うのに、妙な違和感があった…

 それは、長谷川センセイも同じだったようだ…

 「…佐藤さん…いまどき、ホープなんて、言わないよ…」

 長谷川センセイが、苦笑する…

 「…一体、誰から、聞いたの?…」

 長谷川センセイの問いかけに、佐藤ナナが、黙った…

 その褐色の顔を赤らめた…

 すると、顔を赤らめて、困った表情が、彼女の顔を余計に、愛らしく見せた…

 少なくとも、私は、そう思った…

 「…ホープは、おかしいですか?…」

 しばらくして、佐藤ナナが、口を開いた…

 「…いや、おかしくはないけど、今は、あまり、そんな言い方は…」

 長谷川センセイが、佐藤ナナを慮って、曖昧に言葉を濁した…

 佐藤ナナは、傍目にも、動揺した…

 「…私、日本に、来て、まだ、数年だから…」

 言い訳するように、言った…

 「エッ? ウソッ?…」

 長谷川センセイが、驚いた…

 それは、私も、また、いっしょだった…

 「…だって、佐藤さん…日本と、東南アジアのハーフだって…」

 「…でも、来日したのは、ここ数年です…」

 「…」

 「…向こうで、日本語を習って、来日したんですが、日本語を教えてくれたひとが、お爺ちゃんだったので、言葉遣いが、古いのかもしれない…」

 佐藤ナナが、告白する。

 「…そんなに、日本語が堪能なのに…」

 思わず、私は言った…

 まさか、佐藤ナナが、ここ数年、来日したばかりの人間とは、思わなかった…

 だが、それが、いけなかった…

 佐藤ナナが、再び、射るような視線で、私を睨んだ…

 敵?…

 敵、認定!

 佐藤ナナにとって、私は、敵…

 長谷川センセイを、巡って、恋敵(こいがたき)…

 恋のライバルだ…

 「…日本語が、堪能なんかじゃありません…」

 私を睨みつけるようにして、佐藤ナナが、言った…

 「…まだまだです…」

 佐藤ナナが、悔しそうに言った…

 私は、どうして、いいか、わからなかった…

 きっと、大好きな長谷川センセイの前で、古臭い日本語を使ったのが、恥ずかしいのだろう…

 しかも、自分が、恋敵と睨んだ、私の前で、そんな古臭い言葉を使ったことが、余計に、悔しいのかもしれない…

 要するに、佐藤ナナは、大好きな長谷川センセイの前で、恥を掻いたのだ…

 しかも、それは、恋敵の目の前…

 私が、想像する以上の屈辱かもしれない…

 佐藤ナナにとって、私、寿綾乃が、想像する以上の、失態と思ったのかもしれない…

 …どうすれば?…

 …どうすれば、彼女の失態を、うまく、やわらげることができるか?…

 考えた…

 …うまく、笑いに変えることができるか?…

 頭を巡らせた…

 すると、長谷川センセイが、

 「…寿さんは、この前、冬馬…菊池冬馬と、この病室で、会ったんですって?…」

 と、とっさに、言った…

 話題を変えたのだ…

 私は、射るような、佐藤ナナの視線から、逃れるように、長谷川センセイの顔を見た…

 「…ハイ…数日前に、この病室にいらっしゃって…」

 私は、答えた…

 答えながら、長谷川センセイに、感謝した…

 いつまでも、佐藤ナナの古い日本語の話題を引きずるのは、困る…

 なにより、その話題を続けることで、佐藤ナナの恨みを買うのは、困る…

 「…面白い男でしょ?…」

 いきなり、長谷川センセイが、言った…

 …面白い?…

 …一体、なにが、面白いんだろ?…

 意味がわからなかった…

 一度、会っただけだが、菊池冬馬は、面白い男ではなかった…

 「…なにが、面白いんですか?…」

 私は、聞いた…

 どう考えても、面白い男ではなかったからだ…

 「…子供ですよ…」

 「…子供?…」

 「…五井家のお坊ちゃまとして生まれ、何不自由のない生活をして、今は、こんな大病院の理事長をしている…だから、子供…まるで、成長がない…昔から、知ってますが、学生時代と、なにも、変わらない…」

 長谷川センセイが、苦笑する…

 …たしかに、言われてみれば、わかる…

 …あの叔母である、諏訪野昭子に、叱られて、ふてくされたような態度を取ったのは、まさに子供…

 子供に他ならない…

 「…でも、まあ、そんな冬馬だから、今も付き合える…」

 「…どういうことですか?…」

 「…少なくとも、冬馬には、裏表がない…この病院で、見た冬馬と、プライベートで、会った冬馬が、まるで、別人というわけじゃ、絶対ない…」

 長谷川センセイが、苦笑する。

 「…世の中、案外、そんな人間が多い…でも、冬馬は、そんな人間じゃなかった…そんな冬馬に誘われたから、ボクも、この病院にやって来たんです…」

 長谷川センセイが、告白した…

 「…理事長に誘われたから…」

 「…ハイ…ボクも、以前は、違う病院に勤めていて…」

 そうか…

 きっと、長谷川センセイの腕を買ったに違いない…

 今、佐藤ナナが、言ったように、この長谷川センセイは、腕のいい、医者として、業界で、知られているに違いない…

 だから、それを知って、あの菊池冬馬は、自分の病院に来るように、誘ったに違いない…

 私は、思った…

 が、

 それがいけなかった…

 「…理事長が、この病室に来た?…」

 佐藤ナナが、驚きの声を上げた…

 「…そんな…理事長が?…」

 「…別に、驚くことじゃないよ…」

 長谷川センセイが、説明した…

 「…この寿さんは、五井家の当主、諏訪野伸明さんの、婚約者と言おうか…その伸明さんから、冬馬が、面倒を見るように、頼まれて、それで、ボクにお鉢が回って来たといおうか…」

 長谷川センセイの説明に、佐藤ナナが、目を丸くした…

 「…そんな…凄い…」

 佐藤ナナが、感嘆する…

 そして、それは、逆効果だった…

 長谷川センセイの説明は、佐藤ナナの怒りに、火を注いだ…

 嫉妬に、さらに、燃料を投下したようなものだった…

 「…そんな凄い婚約者が、いるのに、長谷川センセイに、自分を好きになってもらいたいなんて、ことを言うなんて…」

 佐藤ナナが、怒りの表情で、私を睨んだ…

 佐藤ナナが、いまにも、殴りかかって来る感じで、私を睨んだ…

                

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