第95話

文字数 5,776文字

 「…養子縁組解消…」

 佐藤ナナが、その褐色の肌から、血の気が引いた表情で、呟いた…

 「…そうです…」

 昭子が、冷淡に、言った…

 それは、さっき、ユリコに言ったときよりも、はるかに、厳しい表情だった…

 ユリコに対するときと、表情が、違った…

 別次元で、厳しかった…

 いかに、この昭子が、この佐藤ナナを、憎んでいるのか、わかった…

 いや、

 佐藤ナナを、憎んでいるのでは、ないのかもしれない…

 佐藤ナナの父、重方(しげかた)を、憎んでいるのだ…

 それに、気付いた…

 「…後ほど、養子縁組の解消の手続きを、弁護士の先生に、お願いするつもりです…」

 昭子は、冷淡に言った…

 すでに、その言葉に感情はなかった…

 昭子の中では、決まったことだった…

 決定したことだった…

 だから、機械のスイッチを入れるように、なんの感情もなく、言ったのだろう…

 私は、今さらながら、この諏訪野昭子という女の恐ろしさを垣間見た思いだった…

 一度は、養女としたにも、かかわらず、その人間の本性を見れば、容易に切り捨てる…

 その恐ろしさを、見た思いだった…

 そして、そんな冷淡な人間でなければ、五井は仕切れないのだろうと、思った…

 そんな冷酷な人間でなければ、五井を守ることはできないのだろうと、思った…

 要するに、昭子は、一度、佐藤ナナを、養女として、受け入れて、彼女の人間性を見たのだった…

 佐藤ナナを、テストしたのだった…

 その結果、不合格…

 そういうことだろう…

 いわば、会社の試用期間ではないが、とりあえず、養女として、見て、判断しようとしたのだろう…

 ただ、やみくもに、五井家の血を引く人間だから、養女としたわけではないということだ…

 昭子の冷静さと、冷酷さを、今さらながら、垣間見る思いだった…

 ふと、見ると、ユリコもまた固唾を飲んで、その成り行きを、見守っていた…

 私も、ユリコも、五井一族ではない…

 だから、一切口出しは、できなかった…

 また、仮に、同じ一族だとしても、一切、口出しをできない雰囲気が、あった…

 まるで、大げさにいえば、リングの上に、いるように、昭子と佐藤ナナとの間で、殺意が充満していた…

 不穏な雰囲気が、満ち満ちていた…

 昭子が、再び、ゆっくりと、箸を動かして、食事を再開した…

 その姿を、佐藤ナナが、無言のまま、睨んでいた…

 射すくめるというような言葉が、似合う感じで、ずっと、昭子を睨んでいた…

 一方の昭子はというと、まったくその視線を異に関した感じはなかった…

 昭子に言わせれば、すべては、終わったことなのだろう…

 この佐藤ナナを、とりあえず、養女として、受け入れ、様子を見た…

 試用期間をおいて、試した…

 その結果、不合格…

 だから、後は、勝手にしなさいということだろう…

 私は、昭子の気持ちを、そう見た…

 そう睨んだ…

 すると、昭子が、食事を取りながら、

 「…佐藤さん…」

 と、声をかけた…

 私は、一体、なにを言うのだろうと、思った…

 この期に、及んで、なにを言うのだろうと、考えた…

 が、

 その言葉は、

 「…この場所で、ずっと、私を睨み続けるか、それとも、食事を続けるか、この部屋から、出て行くか? どれかに決めなさい…」

 と、冷徹に告げた…

 それでも、佐藤ナナは、無言のまま、昭子を睨み続けた…

 一方、昭子はというと、まるで、佐藤ナナの視線がないように、黙々と、食事を続けた…

 まるで、なにもないかのようだった…

 この光景を目の当たりにして、私とユリコは、思わず、顔を見合わせた…

 お互い、どうしていいか、わからなかった…

 だから、互いに、相手が、どうするのかと、思って、互いの顔を見たのだ…

 私たちは、門外漢…

 そもそもの当事者は、この昭子と、佐藤ナナの二人だった…

 だから、すでに、この場に長居は無用…

 この場から去るに限る…

 私も、ユリコも、互いに、そう思った…

 そして、そう思ったから、席から立ち上がり、この場を去ろうとした…

 が、

 昭子が、それを制した…

 「…寿さんも、ユリコさんも、お帰りになるとしても、キチンと、食事は、取って、お帰りなさい…」

 穏やかに、告げた…

 そして、その言葉を告げながらも、昭子本人は、黙々と、箸を休めずに、食事を続けた…

 一方、佐藤ナナはいうと、相変わらず、昭子を睨んだままだった…

 まるで、親の仇(かたき)のように、睨んだままだった…

 いや、

 親の仇(かたき)のようではない…

 親の仇(かたき)なのだ…

 私は、それを、思い出した…

 この諏訪野昭子は、紛れもない、佐藤ナナの実父、菊池重方(しげかた)の仇(かたき)なのだ…

 それを、思った…

 そして、それを思ったときだった…

 「…やれやれ…」

 と、ため息をつきながら、昭子が、箸を止めた…

 「…相変わらずというか…ますます、重方(しげかた)そっくりね…」

 昭子が、嘆息した…

 「…自分の思い通りにならないと、相手を睨み付けて、相手が根負けするまで、睨み続ける…」

 「…」

 「…まさに、似た者父娘…やだやだ…」

 昭子が、苦笑した…

 「…それだから、嫌われる…逃げられる…自民党で、菊池派を立ち上げようとして、失敗…すると、いっしょに、大場派を脱退して、菊池派を立ち上げようとした同志が見るも無残に、消滅した…雲散霧消した…」

 「…」

 「…それに気付かない愚か者だから、国会議員になって、地位を得たいなどと、思ったのでしょう…」

 昭子の言葉は、辛辣だった…

 どこまでも、辛辣だった…

 言っていることは、間違ってない…

 しかし、これほど、昭子が、辛辣に、重方(しげかた)を、評価しているとは、思わなかった…

 が、

 佐藤ナナは、無言のまま、昭子の言葉を聞いていた…

 恐ろしい形相で、睨みながら、聞いていた…

 それから、ゆっくりと、口を開いた…

 「…昭子さん…」

 佐藤ナナが、感情を昂らせながら、口を開いた…

 「…誰にでも、弱点があります…」

 ゆっくりと、言った…

 まるで、感情を抑えるかのように、ゆっくりと、告げた…

 「…父にも、ありますが、それは、昭子さんにも、です…」

 「…私に、弱点? …どんな?…」

 「…菊池冬馬…」

 ゆっくりと、言った…

 「…冬馬?…冬馬が、どうかしたの?…」

 「…わざと、冬馬さんを、五井家で、孤立させましたね…」

 …わざと、五井家で、孤立?…

 …どういう意味だろ?…

 私は、思った…

 「…伸明さん、可愛さに、冬馬さんを、見殺しにした…同じ自分のお腹を痛めた子供なのに…」

 「…」

 「…アナタは、火遊びをして、冬馬さんを産んだ…そして、その冬馬さんを、父の重方(しげかた)に、預けた…息子として、面倒を見ろと、押し付けた…」

 「…」

 「…その一方で、冬馬さんを、毛嫌いした…冬馬さんを、見れば、自分の過去の過ちを、見ることになるから…」

 「…」

 「…自分の過去の過ちと、向き合うことになるから…」

 昭子は、重方(しげかた)の娘、佐藤ナナの言葉に、無言だった…

 反論しなかった…

 ただ、黙って、佐藤ナナを見た…

 その顔には、表情がなかった…

 まったくの無表情…

 まるで、仮面をつけたようだった…

 「…そうでしょ?…」

 佐藤ナナが、昭子に聞いた…

 昭子に尋ねた…

 昭子が、どう答えるか?

 気が付くと、私とユリコは、固唾を飲んで、見守っていた…

 二人とも、昭子の顔を凝視した…

 「…それが、どうかしたのですか?…」

 昭子が、口を開いた…

 「…誰もが、過ちはあります…」

 昭子が、開き直った…

 「…ここにいる、皆さんも、同じでしょ?…」

 昭子は、私を含む3人に、語りかけた…

 が、

 三人とも、誰も、なにも言わなかった…

 いや、

 佐藤ナナを除けば、私とユリコに、この場で、発言する資格はなかったといえる…

 要するに、この場で、発言できるのは、佐藤ナナだけだ…

 「…違いますか?…」

 昭子が畳みかけるように、言った…

 その言葉に、当たり前ながら、私とユリコは、なにも、言えなかった…

 私とユリコは、佐藤ナナを見た…

 どう答えるのか、知りたかったからだ…

 「…ご自分の息子さんなのに、厳しいんですね…」

 佐藤ナナが、答えた…

 わざと、ユリコの質問に、答えなかった…

 「…そんなに、自分の過去の過ちを認めるのは、嫌ですか?…」

 佐藤ナナの直球の質問に、昭子は、

 「…冬馬は、弱い…」

 と、答えた…

 「…弱い?…」

 と、佐藤ナナ…

 「…弱ければ、当主として、五井を、率いることは、できません…」

 昭子が、答えた…

 「…冬馬は、一言で、言えば、中途半端です…」

 「…中途半端?…どういう意味ですか?…」

 「…さっき、言いましたね…五井の人間は、有能か、あるいは、無能でも、ずるがしこいと…」

 「…」

 「…大抵が、そのどちらかです…でも、冬馬は、違った…」

 「…どう違ったのですか?…」

 「…有能でも、無能でも、ない…」

 「…」

 「…だから、中途半端…」

 「…」

 「…人間関係も、そう…同じ…」

 「…」

 「…決して、嫌な人間では、ないけれども、人とうまくできない…他人とうまく人間関係を結ぶことができない…」

 「…」

 「…産みの母として、悩みました…」

 「…」

 「…幸か不幸か、冬馬は、重方(しげかた)に預けました…重方(しげかた)は、結婚しても、子供がいなかった…だから、重方(しげかた)の子供として、育てることにした…」

 「…」

 「…だから、一歩引いてみることができた…」

 昭子が、告げた…

 「…一歩、引いて? …どういうこと?…」

 と、ユリコが、口を挟んだ…

 「…身近にいすぎると、わからなくなる…」

 「…」

 「…身近にいすぎると、見えなくなる欠点が、容易に、見えた…」

 「…どういう意味?…」

 と、ユリコ…

 「…身近にいれば、我が子可愛さに、欠点が見えなくなる…」

 昭子の答えに、

 「…」

 と、ユリコは、黙った…

 ユリコもまたジュン君の母親だからだ…

 「…それが、良かった…私の手元には、伸明と、秀樹がいた…そして、秀樹は、手元に置いたにもかかわらず、容易に、欠点が、見えた…」

 昭子が、苦笑する…

 「…秀樹は、論外…残念ながら、論外…私も、夫の建造も嫌っていた…その点、伸明は、違った…」

 「…」

 「…欲がない…ただし、それが欠点だった…また、人柄もいい…だけど、総じて、人柄がいい人間は、無欲…どちらかが、道を譲らなければならない一本道で、誰かと、出会えば、自分から、相手に、道を譲る人間…」

 「…」

 「…ひととして、それは立派だけれども、それでは、大成しない…もっと、自分を出さなければ、ならない…」

 「…」

 「…だから、世の中、うまくいかない…伸明、秀樹、冬馬と三人いても、どれも、五井の次期当主の器の人物がいなかった…」

 昭子が、ガッカリしたように、言った…

 …なんだか、凄い話になってきた…

 私は、思った…

 当初は、冬馬の話だったのが、伸明と、秀樹を加えた、五井本家の三兄弟の話になった…

 「…そして、思いがけず、伸明は、冬馬を可愛がった…」

 昭子が続けた…

 「…伸明のひとの良さね…それで、私は、一計を案じた…」

 「…どういう意味?…」

 と、ユリコ…

 「…さっき、この佐藤さんが、言ったように、わざと、冬馬を一族から、孤立させた…」

 「…エッ?…」

 思わず、ユリコが、声を上げた…

 「…どうして、そんな真似を?…」

 「…伸明が、どう出るか、見たかった…」

 昭子が、告げた…

 「…一族の鼻つまみ者と、言われた冬馬と、どう接するのか、見たかった…」

 「…」

 「…他方で、冬馬の動きも見たかった…」

 「…」

 「…どういう意味?…」

 「…ゴルフで、いえば、アゲインスト…向かい風…逆風…その中で、どうふるまうか、試してみたかった…」

 「…」

 「…伸明と、冬馬の二人には、悪いけれども、五井のためには、それが、必要だった…」

 「…」

 「…私の使命は、五井の次期当主を育てること…それ以外に、なんの使命もない…冬馬のことは、私の過ちだったけれども、後にそれが、有利になった…」

 「…有利になった…どうして?…」

 と、ユリコ…

 「…伸明、秀樹、冬馬とそれぞれ、三人が、父親が違う…」

 「…」

 「…それが、メリット?…」

 「…ちょっと、それ、どういうこと?…」

 ユリコが舌鋒鋭く聞いた…

 「…つまり、三人が、それぞれ、ルックスも、能力も、人柄も違う可能性が高い…」

 「…」

 「…その中から、次期当主を選ぶ…だから、選択肢が増える…同じ父親から、できた子供よりも、選択肢が増える…まるで、金太郎あめのように、どこで、切っても、同じタイプの人間じゃない…だから、選択肢が、増える…普通の父親も母親も同じ人間から、生まれた子供よりも、落差が激しいと思った…」

 昭子が、告白する…

 そして、その告白が、一見、残酷だが、実に、合理的だと思った…

 父も母も同じ人間から、生まれたよりも、父親だけでも、異なる方が、違う人間ができる…

違う兄弟ができる…

つまり、当たり外れが、大きい…

父も母も同じ親から生まれれば、子供が、あたりの場合は、三人が、当たりの場合が、多いが、真逆に、子供が、外れの場合は、三人、全員外れの場合が、多い…

いわゆる、姉が美人ならば、妹も美人の場合が多い…

その逆に、姉がブスならば、妹も、ブス…

兄が、東大卒ならば、弟も、早稲田や慶応は出ている可能性が高い…

真逆に、兄が、偏差値40の工業高校を出ていれば、弟も、それと同等の偏差値の高校を出ている可能性が高い…

残念ながら、世の中、そういうものだ…

 だが、父親でも、母親でも、一方が違えば、その可能性が、狭められる…

 極端な話、姉が、ブスでも、妹が、美人の可能性もある…

 父か、母が違えば、どちらが、劣っていても、どちらが、優秀な可能性が、ある…

 これは、頭も同じ…

 兄が、高卒でも、弟が、東大に入学できるかもしれない…

 つまり、兄弟姉妹でも、まったく、異なる人間が生まれる可能性が高い…

 いわば、昭子は、自分の産んだ子供たち、三人の父親が違うことを、逆手に取ったのだ…

 まさに、女傑…

 五井の女傑だった…

 常人では、考えもつかないことを、考える人間だった…

                

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