第25話
文字数 8,743文字
ただのお嬢様ではない…
あらためて、この諏訪野マミという女を見た…
身長、155㎝と、小柄な女…
ただ、35歳という年齢にもかかわらず、ミニスカを穿き、それが、また似合っている…
だから、年齢よりも、若く見える…
そして、エネルギッシュ…
誰よりも、精力的…
小柄だが、エネルギーに満ち溢れている…
現に、自分より、はるかに、身長の高い、菊池冬馬と、話していても、常に、この諏訪野マミが、会話をリードしていたというか…
常に、上から目線というか(笑)…
年齢が、菊池冬馬より、3歳上だから、当たり前なのかもしれないが、やはり、この小柄なカラダにも、かかわらず、リーダーシップに溢れていた…
私が、そんなことを、考えていると、
「…寿さん…」
と、諏訪野マミが、声をかけた…
「…なんですか?…」
「…寿さんって、つくづく不思議なひとね…」
「…不思議? どうしてですか?…」
「…欲がない…」
「…欲ですか?…」
「…重方(しげかた)さんが、そうだけど、五井一族でありながら、より大きなお金…大きな権力を目指す…誰もが、羨む、生まれながらのお金持ちにもかかわらず、もっと上を目指す…」
「…」
「…でも、寿さんは、それがない…昔の言葉でいえば、足るを知るというのかな…必要以上に、背伸びしないというか…」
「…生きてさえいければ、それで、満足です…」
「…満足…」
「…衣食住、事足りていれば、満足です…」
「…」
「…私は、凡人です…お金持ちの家に生まれたわけでも、ありません…人並みに働き、人並みの生活を送れれば、それで、十分です…」
私の言葉に、諏訪野マミは、黙り込んだ…
そして、しばし、考え込んだ…
「…寿さんが、それを本気で、言っているのが、わかる…」
「…本気…ですか?」
「…ええ…ウソを付いていれば、誰でもわかる…寿さんは、本気で言っている…だから、伸明さんにも、昭子さんにも、そして、和子さんからも、信頼を得られる…」
「…」
「…誰もが、上昇志向の塊というわけじゃないけど、金持ちと知り会えば、結婚したくなるのが、人情…でも、寿さんには、それがない…いつも、平常心というか…」
「…そんな買いかぶり過ぎです…私は、自分を知っているだけです…」
「…そう…たしかに、自分を知らない人間が、世の中には、多すぎる…」
意味深に笑う…
「…重方(しげかた)さんが、その代表…」
「…重方(しげかた)さんが?…」
「…五井家に生まれたから、五井の関連の会社の社長になれたし、それを足掛かりにして、国会議員にもなれた…すべては、五井ありき…五井を土台にして、成り上がった…」
「…」
「…それで、十分…十分、人並み以上…いえ、なにもしなくても、五井に生まれた以上、十分、人並み以上の生活を送れる…にも、かかわらず、上を目指す…」
「…」
「…ホント、人間の欲望には、キリがない…重方(しげかた)さんは、五井がなければ、ただの凡人…とりたてて、優れてもなければ、劣っているわけでもない、まったくの凡人…普通のひと…」
「…」
「…でも、そんな凡人だからかな…上を目指す…あの冬馬だって、重方(しげかた)さんには、無理だって、わかってるのに…」
私は、諏訪野マミの重方(しげかた)の評価に、言葉もなかった…
辛辣といえば、あまりにも、辛辣…
この上ない、辛辣な評価だったからだ…
「…もしかしたら…」
「…なんですか?…」
「…もしかしたら、寿さんが、新鮮なのかもしれない…」
「…どういう意味ですか?…」
「…伸明さんも、昭子さんも、金目当ての人間や、上昇志向の強い人間に辟易(へきえき)している…そんなときに、寿さんに、会った…」
「…」
「…だから、言葉は悪いけど、伸明さんにとっても、昭子さんにとっても、寿さんのような人間は、会ったことがないんじゃないかな…それゆえ、新鮮に感じるし、興味深く、感じる…」
「…」
「…誰もが、そう…見たことのない人間は、驚くし、最初は、新鮮に感じる…」
「…」
「…でも、それは、最初だけ…すぐに、中身が問われる…」
「…」
「…寿さんには、その中身がある…」
諏訪野マミが、断言した…
私は、驚いた…
これまで、32年、生きてきて、そんなふうに、言われたことは、一度もなかったからだ…
私に対する評価と言えば、常にルックスに関するものだった…
単純に、キレイとか、美しいとか、いうものだった…
そう言われるのは、正直、嬉しいが、さりとて、そればかり、いつも言われても…
お腹いっぱいだ(笑)…
そして、今のように、歳を取れば、取るほど、容色が衰える不安に襲われる…
キレイだ…
美人だ…
と、言われ続けるのは、嬉しいが、誰でも、二十歳のときの美しさを保てる人間は、いない…
歳を取れば、容色が衰え、結局は、自分にあるものと、言えば、ルックスだけということを、思い知らされる…
三十歳では、まだ、男に声をかけられるが、四十歳では、無理…
至極、当たり前のことだ…
そして、自分が、神様から与えられた、ただ一つの武器である、ルックスが、衰えたときは、どうすれば、いいのか、不安になる…
自分には、美人という武器しか、与えられていないからだ…
が、
世の中の大半の人間は、なにも与えられていない…
それを、思えば、自分は、十分過ぎるほど、恵まれている…
ルックスという武器を、神様から、与えられた…
ただし、そのルックスは、時間と共に、衰える…
変な話、それは、魔法に似ている…
若さという魔法が効いているときは、誰もが、憧れるが、若さが、なくなれば、魔法が解けるからだ…
魔法が解ければ、美人もなにもない…
ただのオバサンだ(涙)…
同年代の女たちが、集まれば、私が、一番かもしれないが、それは、同年代の女たちの集まりだから…
四十歳の女と、二十歳の女を見れば、誰もが、普通は二十歳の女を選ぶ…
まあ、四十歳の、とんでもない美人と、二十歳のブスな女を比べれば、話は、変わるが、普通は、四十歳の女が、二十歳の女に勝てることは、まずない…
これが、現実だ…
が、
欲を言えば、ルックスではなく、お金持ちの家に生まれたり、頭が良く、生まれたかった…
なぜなら、ルックスは、若さがなくなれば、衰えるが、お金持ちの家に生まれたり、頭が良く生まれたりするのは、年齢に左右されないからだ…
ルックスのように、若さがなくなれば、ダメということはなくなる…
ただし、街を歩いていて、見ず知らずの人間から、
「…キレイなひとね…」
と、囁かれるような、優越感は、得られない…
美人や、イケメンに生まれて、もっとも、嬉しいのは、見ず知らずの人間から、褒められることだ…
羨ましがられることだ…
頭の良さも、金持ちの家に生まれても、この優越感は得られない…
頭の良さも、金持ちの家に生まれても、一目見るだけでは、誰にもわからないからだ…
とりわけ、頭の良さは、わからない場合が多々ある…
話していて、簡単にわかる場合も、多いが、わからない場合も、また多い(笑)…
つまりは、東大や京大を卒業しても、街を歩いていて、背中に、東大卒や、京大卒の、大きなステッカーでも、貼っていなければ、誰にも、わからないということだ(笑)…
私は、思った…
そして、そんなことを、考えながら、諏訪野マミを見た…
…中身がある…
というのは、これまで、言われたことのない誉め言葉だった…
が、
どうして、そんなことを、言ったのか、諏訪野マミに聞きたかったが、止めた…
聞いても、本当のことを言うのか、怪しいからだ…
諏訪野マミは、私が、心を許した、伸明を除けば、唯一の人間だったが、やはりというか、心の底から、信用することができない…
残念ながら、それが、真実だった…
それから、いつのまにか、菊池重方(しげかた)の、菊池派の立ち上げの話題が、世間から消えた…
一切、しなくなった…
おそらく、菊池重方(しげかた)が、菊池派の立ち上げを断念したのか、あるいは、断念する寸前にまで、追い込まれたのだろうと、思った…
推測した…
先日の諏訪野マミや、諏訪野伸明、さらには、重方(しげかた)の息子の冬馬からの話を聞く限りは、失礼ながら、どうあがいても、菊池重方(しげかた)に、勝ち目はない様子だった…
なにより、もっとも、身近な親族である、自分の息子に、勝ち目がないと見られているのは、最悪だった…
普通ならば、親族ならば、どうしても、評価が甘くなる…
にもかかわらず、勝ち目がないと、酷評されたのだ…
重方(しげかた)の評価は、推して知るべしだった…
一方、私はと言えば、だいぶ、体調が回復してきた…
あの日、諏訪野マミがやって来て、
「…寿さん…歩いてみて…」
と、言われて、歩いたときは、最悪だった…
が、
あの日以降は、目に見えて、体調が回復した…
今では、自分一人でも、なんとか、ベッドから降りで、松葉杖をついて、リハビリルームに行くぐらいなら、頑張れば、できるようになった…
といっても、現実には、いつも、看護師の佐藤ナナが、私の隣にいた…
だから、安心したというか…
やはり、歩けるようになったといっても、一人では、不安…
心細い…
佐藤ナナの顔を見ると、安心した…
それに、気付いたのだろう…
私が、佐藤ナナの顔を見ると、
「…寿さん…私のことを好きみたいですね…」
と、いたずらっぽく、笑った…
まだ二十二歳の佐藤ナナは、肌は浅黒いが、華やかな印象の東南アジア系のハーフ…
なにより、笑顔が、チャーミングだ…
純粋の日本人では、彼女のように、魅力的にはなれない…
これは、まるで、ハワイか、どこかで、ビキニ姿の彼女と、出会えば、一気に、恋に落ちる…
そんな感じだった…
なにしろ、純粋な日本人にはない、華やかさがある…
本人が、自分をどう思っているのか、さっぱりわからないが、この華やかさ、こそ、彼女の武器だった…
佐藤ナナの圧倒的な武器だった…
「…ええ…好き…」
私は、彼女の質問に、答えた…
「…きっと、私が、男のひとで、若ければ、佐藤さんを一目見て、恋に落ちたに違いないわ…」
私の言葉に、佐藤ナナは、
「…そんな…おおげさな…」
と、顔を赤らめた…
「…寿さん…私のことを、買いかぶり過ぎです…」
「…そんなことはない…佐藤さんは、魅力的過ぎる…」
私の言葉に、
「…寿さん…私をからかってるんでしょ?…」
と、佐藤ナナが、怒った…
「…からかう? …とんでもない…」
「…だったら、バカにしている…」
佐藤ナナが、私を睨んだ…
私と彼女は、病院の廊下で、リハビリルームに向かう途中だった…
その廊下で、ふと、立ち止まって、会話していた…
私は、彼女を褒めたつもりだったが、彼女は、バカにされたと、思ったらしい…
それは、彼女の肌の色が、浅黒いから、それが、コンプレックスになり、素直に、私の言葉を、受け取れないのだ…
たしかに、東南アジア系と日本人との間のハーフなので、日本人の中にいれば、肌が、浅黒いので、目立つ…
しかしながら、黒人のように、黒くはないし、純粋な日本人としても、彼女のように、肌の黒い人間は、稀にいる…
なにより、若さ…
まだ二十二歳の佐藤ナナは、三十二歳の私の目からしても、十分、輝いていた…
おそらくは、人生のピークの輝きに違いない…
若さが、その浅黒い肌を、むしろ、魅力的に見せていた…
これが、十年後の、私と、同じ年齢では、その魅力は、半減する…
「…佐藤さん…」
「…なんですか?…」
「…外へ行きましょう…」
いきなり、私は、言った…
「…外へ?…」
「…リハビリもいいけど、たまには、外へ出たい…この病院の外へ出て、新鮮な空気を吸ってみたい…」
「…」
「…お願いできる?…」
「…わかりました…」
彼女は、私の提案を了承した…
私としては、逃げるつもりは、なかったが、ここで、佐藤ナナと、口論になるのは、嫌だった…
なんといっても、今、私と佐藤ナナがいるのは、五井記念病院の廊下…
病院の廊下で、言い争う愚は避けたい(苦笑)…
私は、とっさに、外へ出ましょう、と、提案したが、これは、我ながら、妙案だった…
というのは、私は、まだ、この病院に入院して以来、外へ出たことが、一度もなかったからだ…
病室の窓から、ぼんやりと、外を眺めることは、あったが、外へ出たことは、一度もなかった…
私は、元々アウトドア派でも、なんでもなかったが、やはり、この病院の中だけに、閉じこもっているのは、嫌だった…
だから、外へ出ると言ったのは、正解だった…
私と、佐藤ナナは、お互い、黙ったまま、外へ向かった…
黙っていたのは、私が、松部杖をついて歩いているときは、佐藤ナナに話しかける余裕がなかったからだ…
そして、佐藤ナナもまたプロの看護師…
私が、一生懸命、松葉杖をついて、歩いている最中に、私に話しかけるのは、遠慮したのだ…
一生懸命、松葉杖をついて、歩く、私に話しかけても、答える余裕は私にはない…
それが、わかっていたからだ…
エレベーターに乗り、二人とも、黙ったまま、外へ向かった…
外、外と、言っても、ただ、病院の建物から、一歩、外へ出ただけだ…
が、
その一歩を、まだ、この病院に入院して以来、踏み出したことがなかった…
私は、病院の外へ、一歩踏み出しただけで、開放感というと、おおげさだが、なんだか、別世界へと、飛び出した気分というか、一気に視界が開けたというか…
思えば、ここまで、回復したという気持ちだった…
そう考えると、自然と、頬を涙が伝わった…
自分でも、自分が、泣いていることが、意外だった…
自分が、涙を流していることが、意外だった…
私の波を見て、
「…鬼の目にも、涙ってやつですね…」
と、佐藤ナナが茶化した…
が、
佐藤ナナは、別に、私をからかっているわけでも、なんでもなかった…
これまで、ベッドの上で、寝ているだけの毎日だった私が、やっと、歩けるようになり、ようやく、今、外へ出れることができた…
その喜びを、誰よりも、わかっていた…
また、もし、わからなければ、看護師は、できないだろう…
患者の痛みを共有することが出来なければ、看護師は、務まらない…
なにより、患者の痛みに寄り添えなければ、それは、看護師の態度に出て、病院に、苦情がいくだろう…
私は、思った…
「…やっぱり、外はいいわ…」
私は、外の景色を眺めながら、呟いた…
とりたてて、なんの変哲もない光景だったが、今の私を十分、満足させるものだった…
ただ、病院の外に、整備された庭がある…
それだけだった…
だが、それが、私には、嬉しかった…
思えば、こうして、外へ出たのは、何か月ぶりだろうか?
考えた…
最後に、外へ出たのは、あのジュン君の運転するクルマで、轢かれたとき…
あの日以来だ…
三か月は、優に経つ…
三か月は、時間にしては、決して長くはないが、その三か月の間に、色々あり過ぎた(苦笑)…
冷静に考えてみれば、私がこれまで、三十二年間、生きてきた中で、もっとも、変化にとんだ三か月ということになる(苦笑)…
私は、佐藤ナナと、いっしょに、ゆっくりと、病院の庭を歩いた…
その庭は、当たり前だが、豪華…
豪華絢爛だった…
まさに、五井の名前にふさわしい…
日本中に名の知れた五井家の名前を冠した、五井記念病院にふさわしい庭園だった…
今さらながら、五井の実力を思った…
そして、諏訪野伸明…
五井家当主…
私は、本当に、諏訪野伸明と結婚できるのだろうか?
こんな凄い病院を、系列に持つ、大金持ちの、五井家当主と結婚できるのだろうか?
ふと、疑問になる…
シンデレラではないが、本当に、王子様と、結婚できるのか?
不安になった…
私が、そんなことを、考えていると、
「…本当…凄い病院ですね…」
と、佐藤ナナが、言った…
私は、黙って、頷いた…
私が、なにか、言うよりも、佐藤ナナが、なにを言うのかの方が、興味があったからだ…
「…長谷川センセイは、こんな凄い病院の理事長と、仲良しなんですね…」
「…」
「…そして、寿さんは、その理事長の親族である、五井家当主と結婚する…」
「…」
「…凄いですね…」
「…なにが、言いたいの?…」
「…別に…」
佐藤ナナは、黙った…
「…座りましょう…」
と、私は言って、近くのベンチに座った…
佐藤ナナも、隣に座った…
それから、少しして、
「…羨ましい…」
と、佐藤ナナが、本音を吐いた…
私は、どう言っていいか、わからないから、
「…」
と、黙った…
「…寿さんが、羨ましい…こんな美人に生まれて、こんな凄い病院の一族のひとと、結婚する…」
「…」
「…まるで、シンデレラ…」
私は、どう答えていいのか、わからないから、
「…」
と、黙っていた…
私は、二人が座るベンチの周囲を見た…
近くで、中年の紳士が、立っていた…
「…寿さんは、一体、自分をどう思ってるんですか?…」
「…どうって?…」
「…こんな凄い、お金持ちの一族と結婚することを…」
私は、彼女の言葉に、しばし、考え込んだ…
そして、口を開いて、出た言葉は、
「…わからない…」
だった…
「…わからないって? …どうして、わからないんですか?…」
「…ひとの運命って、わからないものよ…」
「…そんな言い方って…逃げないで下さい…」
「…別に逃げてない…」
私は、言った…
「…佐藤さんは、まだ若すぎる?…」
「…どういう意味ですか?…」
「…自分で、努力をすれば、運命を切り拓けると、思っている…」
「…」
「…でも、そう思うのは、若いときだけ…」
「…どういう意味ですか?…」
「…例えば、佐藤さんが、私の代わりに、諏訪野伸明さんと、結婚したとする…」
「…私が…ですか?…」
「…でも、伸明さんとうまくいかなくなったりして、離婚したり…あるいは、五井が、潰れるとまでは、いかなくても、縮小して、これまでのような贅沢は、できなくなるかもしれない…」
「…そんなこと?…」
「…誰もないとは、断言できない…佐藤さん…東大って、知ってる?…」
「…東大? 大学ですか?…」
「…そう…東京大学…日本で、一番、入るのが、難しい大学…その大学の出身者で、評論家の森永卓郎さんという方が、いる…その方が、おっしゃるには、ボクと、同年代で、東大を卒業して、うまくいった人間は、二割ぐらいだと…」
「…二割?…」
「…そう…20%…びっくりするほど、少ないでしょ?…」
「…」
「…森永さんは、60歳ぐらい…日本で、一番の大学を卒業しても、二割の人間しか、成功しない…びっくりでしょ?…」
「…」
「…誰だって、東大を卒業したときは、有頂天…自分は、社会で、成功すると、大半の人間が、思ってると思う…まして、森永さんが、卒業したのは、40年も前だもの…でも、今、成功したと、いえるのは、わずか、20%…5人に1人だけ…」
「…」
「…どうしてだか、わかる?…」
「…わかりません…」
「…一番は、たぶん、職場…いくら東大を出ても、どんな会社でも受かるわけでもない…いざ、入ってみて、仕事や職場が、自分になじめない場合は、多々ある…そうすれば、東大卒の肩書は、通用しない…仮に東大を出ても、佐藤さんよりも、使えない人間は、いっぱいいる…」
「…そんなこと…」
「…つまり、それが運命…会社に就職しても、それが、自分に合うかどうかは、誰にもわからない…職場の雰囲気や仕事が合えば、いいけど、合わなければ、悲惨…」
「…」
「…結婚も同じ…」
「…同じ?…」
「…この後、私は、諏訪野伸明さんと結婚しても、うまくいくか、どうかは、私にも、わからない…」
「…」
「…たぶん、それは、伸明さんも、伸明さんのお母様の昭子さんも、わかってる…」
「…」
「…人生は、誰も思うようには、いかない…予定された人生なんて、どこにもない…大半のひとの人生は、若いときに夢見たほど、うまくいかない…稀に、自分が、想像もしてなかったほど、うまくいくひとがいる…たぶん、それが私…」
「…寿さん…」
「…でも、病気は治らない…諏訪野伸明さんと結婚しても、あと何年生きれるか、わからない…それを思えば、プラマイゼロ…」
「…プラマイゼロ?…」
「…お金持ちと結婚できるのが、プラスだとしたら、病気は、マイナス…それを合わせて、計算すれば、ゼロ…良くも悪くもない…」
「…」
「…佐藤さんが、誰の指金で、動いているのかは、なんとなくわかる…」
私の指摘に、佐藤ナナの顔色が変わった…
「…だから、私も、佐藤さんに、外へ出ましょう、と、誘ったの…」
「…」
「…この方が、お互い、都合がいいでしょ?…」
私は、笑った…
「…病院の中にいるよりも、目立たない…いえ、目立つかもしれないけど、こうして、ベンチに腰掛けて、話していれば、わからない…ねえ…そこのひと…」
私は、私と佐藤ナナが、腰掛けるベンチの近くに立った、すらりとした紳士に、話しかけた…
当たり前だが、その紳士は、反応しなかった…
私は、
「…菊池重方(しげかた)さんと、お呼びすれば、いいんでしょうか?…」
と、わざと、言った…
紳士が、私の方を見た…
その紳士の顔は、明らかに驚いていた…
私が、菊池重方(しげかた)と、呼んだのが、図星だと、証明していた…
あらためて、この諏訪野マミという女を見た…
身長、155㎝と、小柄な女…
ただ、35歳という年齢にもかかわらず、ミニスカを穿き、それが、また似合っている…
だから、年齢よりも、若く見える…
そして、エネルギッシュ…
誰よりも、精力的…
小柄だが、エネルギーに満ち溢れている…
現に、自分より、はるかに、身長の高い、菊池冬馬と、話していても、常に、この諏訪野マミが、会話をリードしていたというか…
常に、上から目線というか(笑)…
年齢が、菊池冬馬より、3歳上だから、当たり前なのかもしれないが、やはり、この小柄なカラダにも、かかわらず、リーダーシップに溢れていた…
私が、そんなことを、考えていると、
「…寿さん…」
と、諏訪野マミが、声をかけた…
「…なんですか?…」
「…寿さんって、つくづく不思議なひとね…」
「…不思議? どうしてですか?…」
「…欲がない…」
「…欲ですか?…」
「…重方(しげかた)さんが、そうだけど、五井一族でありながら、より大きなお金…大きな権力を目指す…誰もが、羨む、生まれながらのお金持ちにもかかわらず、もっと上を目指す…」
「…」
「…でも、寿さんは、それがない…昔の言葉でいえば、足るを知るというのかな…必要以上に、背伸びしないというか…」
「…生きてさえいければ、それで、満足です…」
「…満足…」
「…衣食住、事足りていれば、満足です…」
「…」
「…私は、凡人です…お金持ちの家に生まれたわけでも、ありません…人並みに働き、人並みの生活を送れれば、それで、十分です…」
私の言葉に、諏訪野マミは、黙り込んだ…
そして、しばし、考え込んだ…
「…寿さんが、それを本気で、言っているのが、わかる…」
「…本気…ですか?」
「…ええ…ウソを付いていれば、誰でもわかる…寿さんは、本気で言っている…だから、伸明さんにも、昭子さんにも、そして、和子さんからも、信頼を得られる…」
「…」
「…誰もが、上昇志向の塊というわけじゃないけど、金持ちと知り会えば、結婚したくなるのが、人情…でも、寿さんには、それがない…いつも、平常心というか…」
「…そんな買いかぶり過ぎです…私は、自分を知っているだけです…」
「…そう…たしかに、自分を知らない人間が、世の中には、多すぎる…」
意味深に笑う…
「…重方(しげかた)さんが、その代表…」
「…重方(しげかた)さんが?…」
「…五井家に生まれたから、五井の関連の会社の社長になれたし、それを足掛かりにして、国会議員にもなれた…すべては、五井ありき…五井を土台にして、成り上がった…」
「…」
「…それで、十分…十分、人並み以上…いえ、なにもしなくても、五井に生まれた以上、十分、人並み以上の生活を送れる…にも、かかわらず、上を目指す…」
「…」
「…ホント、人間の欲望には、キリがない…重方(しげかた)さんは、五井がなければ、ただの凡人…とりたてて、優れてもなければ、劣っているわけでもない、まったくの凡人…普通のひと…」
「…」
「…でも、そんな凡人だからかな…上を目指す…あの冬馬だって、重方(しげかた)さんには、無理だって、わかってるのに…」
私は、諏訪野マミの重方(しげかた)の評価に、言葉もなかった…
辛辣といえば、あまりにも、辛辣…
この上ない、辛辣な評価だったからだ…
「…もしかしたら…」
「…なんですか?…」
「…もしかしたら、寿さんが、新鮮なのかもしれない…」
「…どういう意味ですか?…」
「…伸明さんも、昭子さんも、金目当ての人間や、上昇志向の強い人間に辟易(へきえき)している…そんなときに、寿さんに、会った…」
「…」
「…だから、言葉は悪いけど、伸明さんにとっても、昭子さんにとっても、寿さんのような人間は、会ったことがないんじゃないかな…それゆえ、新鮮に感じるし、興味深く、感じる…」
「…」
「…誰もが、そう…見たことのない人間は、驚くし、最初は、新鮮に感じる…」
「…」
「…でも、それは、最初だけ…すぐに、中身が問われる…」
「…」
「…寿さんには、その中身がある…」
諏訪野マミが、断言した…
私は、驚いた…
これまで、32年、生きてきて、そんなふうに、言われたことは、一度もなかったからだ…
私に対する評価と言えば、常にルックスに関するものだった…
単純に、キレイとか、美しいとか、いうものだった…
そう言われるのは、正直、嬉しいが、さりとて、そればかり、いつも言われても…
お腹いっぱいだ(笑)…
そして、今のように、歳を取れば、取るほど、容色が衰える不安に襲われる…
キレイだ…
美人だ…
と、言われ続けるのは、嬉しいが、誰でも、二十歳のときの美しさを保てる人間は、いない…
歳を取れば、容色が衰え、結局は、自分にあるものと、言えば、ルックスだけということを、思い知らされる…
三十歳では、まだ、男に声をかけられるが、四十歳では、無理…
至極、当たり前のことだ…
そして、自分が、神様から与えられた、ただ一つの武器である、ルックスが、衰えたときは、どうすれば、いいのか、不安になる…
自分には、美人という武器しか、与えられていないからだ…
が、
世の中の大半の人間は、なにも与えられていない…
それを、思えば、自分は、十分過ぎるほど、恵まれている…
ルックスという武器を、神様から、与えられた…
ただし、そのルックスは、時間と共に、衰える…
変な話、それは、魔法に似ている…
若さという魔法が効いているときは、誰もが、憧れるが、若さが、なくなれば、魔法が解けるからだ…
魔法が解ければ、美人もなにもない…
ただのオバサンだ(涙)…
同年代の女たちが、集まれば、私が、一番かもしれないが、それは、同年代の女たちの集まりだから…
四十歳の女と、二十歳の女を見れば、誰もが、普通は二十歳の女を選ぶ…
まあ、四十歳の、とんでもない美人と、二十歳のブスな女を比べれば、話は、変わるが、普通は、四十歳の女が、二十歳の女に勝てることは、まずない…
これが、現実だ…
が、
欲を言えば、ルックスではなく、お金持ちの家に生まれたり、頭が良く、生まれたかった…
なぜなら、ルックスは、若さがなくなれば、衰えるが、お金持ちの家に生まれたり、頭が良く生まれたりするのは、年齢に左右されないからだ…
ルックスのように、若さがなくなれば、ダメということはなくなる…
ただし、街を歩いていて、見ず知らずの人間から、
「…キレイなひとね…」
と、囁かれるような、優越感は、得られない…
美人や、イケメンに生まれて、もっとも、嬉しいのは、見ず知らずの人間から、褒められることだ…
羨ましがられることだ…
頭の良さも、金持ちの家に生まれても、この優越感は得られない…
頭の良さも、金持ちの家に生まれても、一目見るだけでは、誰にもわからないからだ…
とりわけ、頭の良さは、わからない場合が多々ある…
話していて、簡単にわかる場合も、多いが、わからない場合も、また多い(笑)…
つまりは、東大や京大を卒業しても、街を歩いていて、背中に、東大卒や、京大卒の、大きなステッカーでも、貼っていなければ、誰にも、わからないということだ(笑)…
私は、思った…
そして、そんなことを、考えながら、諏訪野マミを見た…
…中身がある…
というのは、これまで、言われたことのない誉め言葉だった…
が、
どうして、そんなことを、言ったのか、諏訪野マミに聞きたかったが、止めた…
聞いても、本当のことを言うのか、怪しいからだ…
諏訪野マミは、私が、心を許した、伸明を除けば、唯一の人間だったが、やはりというか、心の底から、信用することができない…
残念ながら、それが、真実だった…
それから、いつのまにか、菊池重方(しげかた)の、菊池派の立ち上げの話題が、世間から消えた…
一切、しなくなった…
おそらく、菊池重方(しげかた)が、菊池派の立ち上げを断念したのか、あるいは、断念する寸前にまで、追い込まれたのだろうと、思った…
推測した…
先日の諏訪野マミや、諏訪野伸明、さらには、重方(しげかた)の息子の冬馬からの話を聞く限りは、失礼ながら、どうあがいても、菊池重方(しげかた)に、勝ち目はない様子だった…
なにより、もっとも、身近な親族である、自分の息子に、勝ち目がないと見られているのは、最悪だった…
普通ならば、親族ならば、どうしても、評価が甘くなる…
にもかかわらず、勝ち目がないと、酷評されたのだ…
重方(しげかた)の評価は、推して知るべしだった…
一方、私はと言えば、だいぶ、体調が回復してきた…
あの日、諏訪野マミがやって来て、
「…寿さん…歩いてみて…」
と、言われて、歩いたときは、最悪だった…
が、
あの日以降は、目に見えて、体調が回復した…
今では、自分一人でも、なんとか、ベッドから降りで、松葉杖をついて、リハビリルームに行くぐらいなら、頑張れば、できるようになった…
といっても、現実には、いつも、看護師の佐藤ナナが、私の隣にいた…
だから、安心したというか…
やはり、歩けるようになったといっても、一人では、不安…
心細い…
佐藤ナナの顔を見ると、安心した…
それに、気付いたのだろう…
私が、佐藤ナナの顔を見ると、
「…寿さん…私のことを好きみたいですね…」
と、いたずらっぽく、笑った…
まだ二十二歳の佐藤ナナは、肌は浅黒いが、華やかな印象の東南アジア系のハーフ…
なにより、笑顔が、チャーミングだ…
純粋の日本人では、彼女のように、魅力的にはなれない…
これは、まるで、ハワイか、どこかで、ビキニ姿の彼女と、出会えば、一気に、恋に落ちる…
そんな感じだった…
なにしろ、純粋な日本人にはない、華やかさがある…
本人が、自分をどう思っているのか、さっぱりわからないが、この華やかさ、こそ、彼女の武器だった…
佐藤ナナの圧倒的な武器だった…
「…ええ…好き…」
私は、彼女の質問に、答えた…
「…きっと、私が、男のひとで、若ければ、佐藤さんを一目見て、恋に落ちたに違いないわ…」
私の言葉に、佐藤ナナは、
「…そんな…おおげさな…」
と、顔を赤らめた…
「…寿さん…私のことを、買いかぶり過ぎです…」
「…そんなことはない…佐藤さんは、魅力的過ぎる…」
私の言葉に、
「…寿さん…私をからかってるんでしょ?…」
と、佐藤ナナが、怒った…
「…からかう? …とんでもない…」
「…だったら、バカにしている…」
佐藤ナナが、私を睨んだ…
私と彼女は、病院の廊下で、リハビリルームに向かう途中だった…
その廊下で、ふと、立ち止まって、会話していた…
私は、彼女を褒めたつもりだったが、彼女は、バカにされたと、思ったらしい…
それは、彼女の肌の色が、浅黒いから、それが、コンプレックスになり、素直に、私の言葉を、受け取れないのだ…
たしかに、東南アジア系と日本人との間のハーフなので、日本人の中にいれば、肌が、浅黒いので、目立つ…
しかしながら、黒人のように、黒くはないし、純粋な日本人としても、彼女のように、肌の黒い人間は、稀にいる…
なにより、若さ…
まだ二十二歳の佐藤ナナは、三十二歳の私の目からしても、十分、輝いていた…
おそらくは、人生のピークの輝きに違いない…
若さが、その浅黒い肌を、むしろ、魅力的に見せていた…
これが、十年後の、私と、同じ年齢では、その魅力は、半減する…
「…佐藤さん…」
「…なんですか?…」
「…外へ行きましょう…」
いきなり、私は、言った…
「…外へ?…」
「…リハビリもいいけど、たまには、外へ出たい…この病院の外へ出て、新鮮な空気を吸ってみたい…」
「…」
「…お願いできる?…」
「…わかりました…」
彼女は、私の提案を了承した…
私としては、逃げるつもりは、なかったが、ここで、佐藤ナナと、口論になるのは、嫌だった…
なんといっても、今、私と佐藤ナナがいるのは、五井記念病院の廊下…
病院の廊下で、言い争う愚は避けたい(苦笑)…
私は、とっさに、外へ出ましょう、と、提案したが、これは、我ながら、妙案だった…
というのは、私は、まだ、この病院に入院して以来、外へ出たことが、一度もなかったからだ…
病室の窓から、ぼんやりと、外を眺めることは、あったが、外へ出たことは、一度もなかった…
私は、元々アウトドア派でも、なんでもなかったが、やはり、この病院の中だけに、閉じこもっているのは、嫌だった…
だから、外へ出ると言ったのは、正解だった…
私と、佐藤ナナは、お互い、黙ったまま、外へ向かった…
黙っていたのは、私が、松部杖をついて歩いているときは、佐藤ナナに話しかける余裕がなかったからだ…
そして、佐藤ナナもまたプロの看護師…
私が、一生懸命、松葉杖をついて、歩いている最中に、私に話しかけるのは、遠慮したのだ…
一生懸命、松葉杖をついて、歩く、私に話しかけても、答える余裕は私にはない…
それが、わかっていたからだ…
エレベーターに乗り、二人とも、黙ったまま、外へ向かった…
外、外と、言っても、ただ、病院の建物から、一歩、外へ出ただけだ…
が、
その一歩を、まだ、この病院に入院して以来、踏み出したことがなかった…
私は、病院の外へ、一歩踏み出しただけで、開放感というと、おおげさだが、なんだか、別世界へと、飛び出した気分というか、一気に視界が開けたというか…
思えば、ここまで、回復したという気持ちだった…
そう考えると、自然と、頬を涙が伝わった…
自分でも、自分が、泣いていることが、意外だった…
自分が、涙を流していることが、意外だった…
私の波を見て、
「…鬼の目にも、涙ってやつですね…」
と、佐藤ナナが茶化した…
が、
佐藤ナナは、別に、私をからかっているわけでも、なんでもなかった…
これまで、ベッドの上で、寝ているだけの毎日だった私が、やっと、歩けるようになり、ようやく、今、外へ出れることができた…
その喜びを、誰よりも、わかっていた…
また、もし、わからなければ、看護師は、できないだろう…
患者の痛みを共有することが出来なければ、看護師は、務まらない…
なにより、患者の痛みに寄り添えなければ、それは、看護師の態度に出て、病院に、苦情がいくだろう…
私は、思った…
「…やっぱり、外はいいわ…」
私は、外の景色を眺めながら、呟いた…
とりたてて、なんの変哲もない光景だったが、今の私を十分、満足させるものだった…
ただ、病院の外に、整備された庭がある…
それだけだった…
だが、それが、私には、嬉しかった…
思えば、こうして、外へ出たのは、何か月ぶりだろうか?
考えた…
最後に、外へ出たのは、あのジュン君の運転するクルマで、轢かれたとき…
あの日以来だ…
三か月は、優に経つ…
三か月は、時間にしては、決して長くはないが、その三か月の間に、色々あり過ぎた(苦笑)…
冷静に考えてみれば、私がこれまで、三十二年間、生きてきた中で、もっとも、変化にとんだ三か月ということになる(苦笑)…
私は、佐藤ナナと、いっしょに、ゆっくりと、病院の庭を歩いた…
その庭は、当たり前だが、豪華…
豪華絢爛だった…
まさに、五井の名前にふさわしい…
日本中に名の知れた五井家の名前を冠した、五井記念病院にふさわしい庭園だった…
今さらながら、五井の実力を思った…
そして、諏訪野伸明…
五井家当主…
私は、本当に、諏訪野伸明と結婚できるのだろうか?
こんな凄い病院を、系列に持つ、大金持ちの、五井家当主と結婚できるのだろうか?
ふと、疑問になる…
シンデレラではないが、本当に、王子様と、結婚できるのか?
不安になった…
私が、そんなことを、考えていると、
「…本当…凄い病院ですね…」
と、佐藤ナナが、言った…
私は、黙って、頷いた…
私が、なにか、言うよりも、佐藤ナナが、なにを言うのかの方が、興味があったからだ…
「…長谷川センセイは、こんな凄い病院の理事長と、仲良しなんですね…」
「…」
「…そして、寿さんは、その理事長の親族である、五井家当主と結婚する…」
「…」
「…凄いですね…」
「…なにが、言いたいの?…」
「…別に…」
佐藤ナナは、黙った…
「…座りましょう…」
と、私は言って、近くのベンチに座った…
佐藤ナナも、隣に座った…
それから、少しして、
「…羨ましい…」
と、佐藤ナナが、本音を吐いた…
私は、どう言っていいか、わからないから、
「…」
と、黙った…
「…寿さんが、羨ましい…こんな美人に生まれて、こんな凄い病院の一族のひとと、結婚する…」
「…」
「…まるで、シンデレラ…」
私は、どう答えていいのか、わからないから、
「…」
と、黙っていた…
私は、二人が座るベンチの周囲を見た…
近くで、中年の紳士が、立っていた…
「…寿さんは、一体、自分をどう思ってるんですか?…」
「…どうって?…」
「…こんな凄い、お金持ちの一族と結婚することを…」
私は、彼女の言葉に、しばし、考え込んだ…
そして、口を開いて、出た言葉は、
「…わからない…」
だった…
「…わからないって? …どうして、わからないんですか?…」
「…ひとの運命って、わからないものよ…」
「…そんな言い方って…逃げないで下さい…」
「…別に逃げてない…」
私は、言った…
「…佐藤さんは、まだ若すぎる?…」
「…どういう意味ですか?…」
「…自分で、努力をすれば、運命を切り拓けると、思っている…」
「…」
「…でも、そう思うのは、若いときだけ…」
「…どういう意味ですか?…」
「…例えば、佐藤さんが、私の代わりに、諏訪野伸明さんと、結婚したとする…」
「…私が…ですか?…」
「…でも、伸明さんとうまくいかなくなったりして、離婚したり…あるいは、五井が、潰れるとまでは、いかなくても、縮小して、これまでのような贅沢は、できなくなるかもしれない…」
「…そんなこと?…」
「…誰もないとは、断言できない…佐藤さん…東大って、知ってる?…」
「…東大? 大学ですか?…」
「…そう…東京大学…日本で、一番、入るのが、難しい大学…その大学の出身者で、評論家の森永卓郎さんという方が、いる…その方が、おっしゃるには、ボクと、同年代で、東大を卒業して、うまくいった人間は、二割ぐらいだと…」
「…二割?…」
「…そう…20%…びっくりするほど、少ないでしょ?…」
「…」
「…森永さんは、60歳ぐらい…日本で、一番の大学を卒業しても、二割の人間しか、成功しない…びっくりでしょ?…」
「…」
「…誰だって、東大を卒業したときは、有頂天…自分は、社会で、成功すると、大半の人間が、思ってると思う…まして、森永さんが、卒業したのは、40年も前だもの…でも、今、成功したと、いえるのは、わずか、20%…5人に1人だけ…」
「…」
「…どうしてだか、わかる?…」
「…わかりません…」
「…一番は、たぶん、職場…いくら東大を出ても、どんな会社でも受かるわけでもない…いざ、入ってみて、仕事や職場が、自分になじめない場合は、多々ある…そうすれば、東大卒の肩書は、通用しない…仮に東大を出ても、佐藤さんよりも、使えない人間は、いっぱいいる…」
「…そんなこと…」
「…つまり、それが運命…会社に就職しても、それが、自分に合うかどうかは、誰にもわからない…職場の雰囲気や仕事が合えば、いいけど、合わなければ、悲惨…」
「…」
「…結婚も同じ…」
「…同じ?…」
「…この後、私は、諏訪野伸明さんと結婚しても、うまくいくか、どうかは、私にも、わからない…」
「…」
「…たぶん、それは、伸明さんも、伸明さんのお母様の昭子さんも、わかってる…」
「…」
「…人生は、誰も思うようには、いかない…予定された人生なんて、どこにもない…大半のひとの人生は、若いときに夢見たほど、うまくいかない…稀に、自分が、想像もしてなかったほど、うまくいくひとがいる…たぶん、それが私…」
「…寿さん…」
「…でも、病気は治らない…諏訪野伸明さんと結婚しても、あと何年生きれるか、わからない…それを思えば、プラマイゼロ…」
「…プラマイゼロ?…」
「…お金持ちと結婚できるのが、プラスだとしたら、病気は、マイナス…それを合わせて、計算すれば、ゼロ…良くも悪くもない…」
「…」
「…佐藤さんが、誰の指金で、動いているのかは、なんとなくわかる…」
私の指摘に、佐藤ナナの顔色が変わった…
「…だから、私も、佐藤さんに、外へ出ましょう、と、誘ったの…」
「…」
「…この方が、お互い、都合がいいでしょ?…」
私は、笑った…
「…病院の中にいるよりも、目立たない…いえ、目立つかもしれないけど、こうして、ベンチに腰掛けて、話していれば、わからない…ねえ…そこのひと…」
私は、私と佐藤ナナが、腰掛けるベンチの近くに立った、すらりとした紳士に、話しかけた…
当たり前だが、その紳士は、反応しなかった…
私は、
「…菊池重方(しげかた)さんと、お呼びすれば、いいんでしょうか?…」
と、わざと、言った…
紳士が、私の方を見た…
その紳士の顔は、明らかに驚いていた…
私が、菊池重方(しげかた)と、呼んだのが、図星だと、証明していた…