第41話 透き通るように繊細な「あお」

文字数 2,452文字

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 その年の梅雨入りは少し変わっていた。九州、中国四国地方に続き、関東甲信越地方も梅雨入りが発表された。けれど近畿地方だけはまるで置いてきぼりにされたようにぽつんと取り残されていた。そんな六月中旬のある夜のこと。

 入浴前に静子は、脱いだ下着にうっすらと染まったおしるしを目にした。しかし慌てる事もなく、いつものように入浴を済ませ、風呂から出た後、髪の水気をバスタオルに吸わせながら、僕にそのことをさも当たり前のように告げた。

 僕が焦って「すぐ車を回す!」と言うと、「大丈夫、破水じゃないから。ただのおしるしやから」と落ち着いた様子で答えた。

 それから彼女は何事もなかったように直也の相手をしながら、あらかじめ用意してあった入院セットを押入れから引っ張り出した。

 元より今回は余裕を持ってお産に臨もうと二人で話し合っていた。病院の方も、出産の少し前から受け入れてもらえる産科専門の病院を選んだ。そして出産予定日がわかった時点で早々に入院分娩予約を済ませていた。

 その病院から、兆候があったら電話して下さいと言われていたので、すぐに電話したところ、入院予約日より少し早いけれど、一応、明日の朝に来院してくださいとのことだった。

 翌朝一番で僕は上司に直接電話を掛けて昼まで休むことを伝えた。遠慮がちに伝えると、上司は快諾し、励ましの言葉までくれた。

 出産する女性に励ましを送るのは当然だろうが、会社に迷惑を掛ける僕にまで励ましをくれることに、どうにも後ろめたい気持ちになる。

 そして僕は両手に大きな旅行カバンやら紙袋やらを持てるだけ持って階下に降りた。駐車場で空を見上げる。一面を覆う乳色の空からは今にも雨が降り出しそうだった。

 玄関前に車を停め、静子たちを連れに部屋に戻ると、静子は玄関でどっかりと尻を付いて靴を履こうと悪戦苦闘の真っ最中だった。僕は慌てて手伝おう歩み寄るが、静子はちょっと辛そうな表情ながらも口元には多少の余裕がある。破水こそまだだったが、早朝ぐらいからゆっくりと痛みを繰り返す前駆陣痛と言うものがすでに始まっていたらしい。

「前の時はこんなんじゃなかったわ。これ、思ってるより早いかもしれへん」

 慌てる僕を意に介することなく、お腹をさすりながら静子は言った。

 僕は入院セットを詰め込んだ鞄をラゲッジスペースに載せ、もしもの破水に備えて念のため、あるだけのタオルも持ち込んだ。

 そして身重の静子と、さっきから「あお、あお、あお」とわけのわからないことを呟く直也を後部座席に押し込むように乗せた。

 慌てて車を発進させようとする僕は、左右を確認する。その時、駐車場横の前栽が目に入る。ハッとした。たくさんの紫陽花たちが儚げに咲いている。透き通るように繊細な「あお」だった。それはこの朝を象徴する色として僕の記憶にはっきりと残った。

 まずひかりの家で直也を下ろした。その時、玄関で出迎えた近藤や、他のママ友達やスタッフ達が皆、わが事のように口を揃えて言う。

「え? 今から産みに行くの? うそぉ! しずちゃん、がんばって! がんばりや! 元気な子、産んでな!」

「ありがとう!」

 大きなお腹を抱えた静子が、にっこり笑って答える。その表情はとても力強く、そして溌剌としている。僕は静子のそんな晴れ晴れとした表情を見たことがなかった。いつもながら自分の居場所がそこにはないような気がして、一刻も早くその場を立ち去りたいと思った。

 そしてその足で病院へと向かった。予約日はもう一週間ほど先だったが、静子の状態や障害を持つ直也の世話のこともあり、やはりその日から入院と言う運びになった。

 患者とその家族への心遣いが有難い。僕はこの時ばかりは素直に良い病院だと思った。

 その病院は妊婦たちの間ではある意味ブランドと称されるほどの人気があり、その分、料金が高い。静子が候補に上げた時、僕は瞬時に頭の中でソロバンを弾いていた。お金には換えられないことだとわかっていたが、心のどこかに身の丈にそぐわない勿体無いことだと引っかかっていた。

 でも静子は違った。

「苦しい思いをして産むのは、わたしやし、産んだ後はまた地獄みたいな日が始まるんやから、せめて病院ぐらい贅沢させて! あんな流れ作業みたいな出産はもう懲り懲りです」と言う。

 明らかに前回のことを言っているのだ。でも前の病院を避ける理由が本当は別にあることも僕は知っていた。直也のことだ。それは決して病院のせいではないのだろうが、少なくともこれに関しては良い印象を持っていなかった。

 でも前の病院を一番嫌がっていたのは静子の両親だった。かわいい娘のあのような痛々しい姿を見せ付けられたら印象も悪くなるのだろう。それに関しても、決して病院のせいではないだろうが、まあ仕方あるまい。

 だから今回の入院費の相談をした時、彼女の両親は二つ返事でお金を出した。もちろん僕もその申し出には感謝していたが、義父母に大きな借りを作ってしまうことで後々引け目を感じる事になりはしないかと危惧していた。人の好意を借りだと捉える僕の猜疑心は未だ健在していた。

翌日。僕は会社を昼から早退して静子の両親といっしょに病院へ来ていた。外はとても蒸し暑かったが、院内は快適な湿度と温度が保たれている。

 そこは四人部屋だった。光沢のあるフローリング、シミ一つないベージュのクロスが張られた壁面、腰ぐらいの高さから天井まである大きな窓には白いレースのカーテンが吊られている。今日は曇天なのでそれほどでもないが、晴れた日には明るい陽光が部屋中を満たすのだろう。

 全体として落ち着いた雰囲気の部屋だ。とても清潔感に溢れ、まるで洗練されたホテルの一室のようで、ベッドと仕切りのカーテンがなければとても病室には見えなかった。

 前回のパイプベッドをずらりと並べた野戦病院さながらの部屋とは随分違う。料金が高いのは伊達ではない。

                                    続く
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