第5話 欲望の塊

文字数 1,950文字

「ああ、ちょっと量、少ないですね」

 あのホームページの写真より老けている。年は六十代半ばといったところか、好色そうな髭を蓄えた、いかにもナースの好きそうな院長先生は言った。

「少ないですか?」

「一回の量にしてはね。1CCあるかないか。んー全部取った? こぼさんかった? 部屋汚したんちゃうか?」

「い、いいえ」

「ほんなら毎日励みすぎちゃいますか」

(本気でそんなこと言っているのか?)

「まあそれは冗談やけど、最初やからちょっと緊張したかなあ」

「はあ、少し……」

「まあ単位あたりの個数は標準より多少少ないけど元気の悪いやつもそんなに多くはないし、もう少し量があったら妊娠は可能ですよ」

 その机に置かれたまん丸いモニターには、好き勝手に泳ぎ回る小さな蟲たちが映っていた。こいつらすべてが自分の欲望なのだと思った。昔、まだ静子と付き合い始めた頃、セックスが終わって外したコンドームを静子は手に取り、それを蛍光灯にかざしながら言った。

「ああ、子の素、子の素」

 あの時僕は思わず噴出しそうになった。事後の余韻も何もあったものではない。しかし静子は笑うことなく、その袋の中の白濁液を愛おしそうに眺めていた。その様子は、どこか動物的な雌の欲望を彷彿させて少し怖かった。あの袋の中身が、今こうしてモニター狭しと泳ぎ回っているのだ。やはりこいつらは欲望だ。欲望の塊に違いない。

 静子は医師の話を聞いて安堵に胸を撫で下ろした。それと共に、やはり自分が頑張らなければならないのだと固く思ったようだ。

「今回はちょっと少なすぎてね、試すだけ無駄だと思うので、次は家で採取して来ますか? そのほうがご主人、あなたも落ち着くでしょう。きっと」

「はい。そうできるなら」

 彼は思った。あんな気まずい思いはもうたくさんだ。女子更衣室から始まって次は実験用の動物にでもなった気分だった。できるならここへはもう来たくない。世の妊活と言うものに真剣に取り組んでいる男たちはきっとそうは思わないのだろうか。

「じゃあね、容器と説明書渡しますから、次回奥さんが持って来てください」

 そのナース好き医師は、まるで「おう、同じ男同士じゃないか。そんなに緊張するなよ」とでも言いたげに厭らしい笑いを浮かべながら言った。たぶん励ましているつもりなのだろう。だが、こいつに毎回、静子は……。そんな下世話なことがつい頭をよぎった。しかし腹は立たなかった。ただ一刻も早くここから出たいと思った。

「お大事に」

 受付で会計を済ませて出ようとした時に、例のマニュアル女が僕たちに声を掛けた。当然マニュアル通りだろうが、珍しく僕にはその女が自然に微笑んでいるように見えた。さっき彼女と〝した〟からか。その薄く紅を引いた口元。僕は再び、とても厭らしい気分になった。

「あんた、何さっきからにやけてんの?」

 静子が帰り道で僕に尋ねた。僕は思わず心を見透かされたようでドキッとした。

「あ、いや、その、採精室でな、ア、アダルトビデオ、置いてあったんやけどな」

「ええ、そんな物まで置いてあるの?」

「ああ、あったで。それもなあ」

「それも、何? なあ勿体ぶらんと教えてよ」

「ナース物やったで」

「うそっ!」

「ほんまや。あの院長の趣味ちゃうか?」

 二人して大爆笑した。仲良く見えるのだろう。たぶん。こんな他愛もないことをきっと積み重ねて行くのだろう。普通なら。

 

二度目以降の採精は家での作業となった。本来ならば神聖な行為の筈が、神聖のシの字も感じられなかった。しかし僕には、あの公然猥褻のような場所から解放されるだけでも有難かった。

「唾液と混ざったらあかんねんて。せやから手でしかできへんけど……」

「い、いや、大丈夫。俺一人で」

「そう」

 その朝、静子はまた手伝いを申し出たが、やはり僕は頑なにそれを拒み続けた。

(絶対違うやろ!)と言う意識が常に僕を支配していた。これは男と女がお互いに身も心も求め合ってすることではない。妊娠の第一ステップ、受精において、第三者が介在する医療行為だ。私的感情はない。それは頭ではわかっていても、医療行為だと完全に割り切れないところに如何ともし難い虚しさが残る。

 静子が出て行った寝室に一人残り、袋からプラスチック容器を取り出し、じっと見つめる。違和感は拭えない。そして僕は、意を決したようにパンツを下ろした。

「じゃあ出たら言うてな。二時間以内に持って行かなあかんから」

 静子の声がドアの外で聞こえた。(待っているのか? しかも出たらって)

「ああ、わかってる」

 平然と答えたものの、心中は穏やかではなかった。まるで種馬のようだ。これを嬉々として協力する世の男たちがいることが信じられなかった。

                                   続く
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