第9話 ある兆候

文字数 2,494文字

「今日な、直也のことで大事な話があるって保育園から電話があってん」

(その悲壮感漂う静子の形相。仕事から帰って来ていきなりこれか!)と、僕はゲンナリとしたが、できるだけ静子を刺激しない口調で慎重に答える。

「大事な電話って?」

「わかれへんけど、留守電に入っててん。あたし、なんか心配で」

「わかった、ごめん、先に着替えさせて」

「うん。ごめん、ごめんやで」

 元々静子には、急な場面に直面すると、どうして良いかわからなくなるメンタル的に弱い部分があった。今までも僕に対する依存度はかなり高かった。僕もそれは理解していたが、時に彼女のペースに振り回されてしまう。

「それでなんて?」

「ほんで、あんたにもいっしょに来てほしいって」

「そうか……」

「こら、直也! あんたまた何やってんのん、さっきからおとなしい思たら!」

 会話の途中でいきなり静子が大声をあげた。僕には静子がいつも怒鳴っているように見えた。僕はうんざりしながら直也の方を見る。

 さっきまで〝おかあさんといっしょ〟を噛り付くように見ていた直也は、今は一生懸命本棚の上に這い上がろうとしていた。見ると番組はすでに終わっていて、棚の上のビデオを取ろうとしていたようだ。そのビデオも〝おかあさんといっしょ〟だ。僕は慌てて席を立って直也のところまで行く。

「こいつ、これ好きやなあ」

 僕は呆れたように言いながら、ひょいと直也を抱きかかえて本棚から下ろす。直也は一瞬泣きそうな顔になるが、すぐにビデオデッキにテープをセットすると再びテレビの前におとなしく座った。少したって聞き慣れた歌のお姉さんの声が流れ出した。

「せやろ、それもう二本目やで。ほんまに真剣に見てるわ。しかも同んなじやつ。まあこれ見てる間はおとなしいからええねんけどな」

「そうか……」

「それで、保育園、いつ行ってくれるのん?」

「わかった。明日の朝はちょっと無理やから、来週明けにでも時間作るようにするわ」

「うん、助かるわ。明日そう言うふうに伝えます。無理言ってすみません」

「いや、子供のことやからな」

 僕は顔では心配を装ってはいた。けれど、内心は面倒臭いし、第一、直也を預けて働きに出ると勝手に決めたのは静子なのに、と思ったがそれはおくびにも出さなかった。



 そして週明け、月曜日。僕は仕事を少し早めに切り上げ、静子と二人で園長先生を訪ねた。

 さて出ようと言う段になって、車で行くかどうか迷ったが、結局徒歩で向かうことにした。気候も良く散歩がてら歩くにはちょうど良い距離であったし、何より閉鎖された狭い空間で重く沈んだ静子と二人きりになることが嫌だった。

 帰りは直也を乗せて帰るからと、静子は自転車を押して歩き、僕はその横を並んで歩いた。歩き出して少し経ってから、ちらっと静子の方を見た。静子は口をきゅっと一文字に結び、瞬きもせずじっと前を見つめながら黙々と自転車を押していた。不安が、その横顔に滲み出ている。

 じっと見られている気配を察知したのか、急に僕の方を向き、「何言われるんやろな」と、ぽつりと呟いた。

「う、うん、何やろな……」

 僕は曖昧に答える。さほど心配はしていなかった。おそらく、どうせまた酷い悪戯か何かを注意されるのでは? ぐらいに考えていた。

 それきり僕たち二人は何もしゃべらず、足早に保育園を目指して歩く。暖かな陽射しの中、やわらかい風が僕の頬を撫でる。しかし静子の重苦しい表情のせいでうららかな春の陽気を感じることはなかった。ただ静子の押す自転車のチェーンが空回りする音だけが耳に響いていた。

 十五分ぐらい歩いて保育園に到着した。古びた雑居ビルの一階と二階が保育園になっていた。一階のビルの出入り口の上から、二階の窓との壁面いっぱいに、かわいいキリンや象やライオンなどの動物の絵が描かれていた。その真ん中付近にライオンを押しのけるように巨大な、たぶんコアラだろうと思われる動物が鎮座していたが、これはすぐ近くにある天王寺動物園だろうか? ここの子供たちが見学に行き、一生懸命描いたものだろう。

 その古びた外観は、見た目からしてお世辞にも綺麗だとは言えない。民間の都市型保育園なんてこんなものだろうと自分を納得させながら、僕は園内に初めて足を踏み入れた。

 元々育児に積極的とは言えない僕は、静子が、急に子供をどこかに預けて働くと言ったときに、何かしら一抹の不安を覚えた。 

 夫は外で働き、妻は家庭で家事と育児に専念してほしいと、心のどこかで思い描いていたのかもしれない。それは性差別とかそう言った類の古風な観念ではない。僕自身、幼少の頃、父母の仕事が忙しく、ほとんど構ってもらうことができなかった。そんな家庭に育った僕だから子供にどのように接すれば良いのかわからなかった。

 いや、本音を言えば、僕は子供が怖かった。できるだけ子供から逃げたかった。この保育園も、静子が一人で調べて見つけてきたものだ。だから僕はこの一件があるまでここへは来たことがなかった。

 中に入ると、オルガンに合わせて賑やかな子供たちの歌声が聞こえて来た。黄色いエプロン姿の保育士さんが、パタパタとせわしなく上履きの音を響かせて、子供の名前を大きな声で呼びながら駆け回っていた。

 辺りに充満している、べったりとした乳臭い匂いが鼻を衝く。当たり前と言えば当たり前だが、これが公共における育児現場の最前線なのだと僕は思った。

 そして居心地の悪さと妙な感動を味わいながら、園長室のドアをノックした。

「本日はわざわざお越し下さいまして……」

 どこにでもいそうな大阪のおばちゃんと言った感じの園長先生が、人の良い笑顔で僕たちを迎えてくれた。

「いえ、こちらこそ、ご連絡いただきまして有難うございます」

「早速ですが」

 先ほどまでのにこやかな表情から一転して、園長は、教育者の真剣な眼差しに変った。

「お電話でもお伝えしました、お子さんの直也君のことなのですが、これはあくまでも、私たちの主観なのですが、どうも直也君の、その行動に、ある兆候が見られます」

                                 続く
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み