第8話 保育園からの伝言

文字数 3,193文字

     5



  一九九八年  春

 あの悪夢のような出産から三年が経とうとしていた。

 素直な心でまっすぐに成長してほしいという願いから、僕と静子は、その子に直也と名付けた。このまま何事もなく平穏に時は過ぎて行くはずだ、と、少なくとも僕はそう思っていた。ところが、穏やかな湖面に一石を投じるがごとく、この子が僕たち二人の平穏な人生に大きな波紋を呼び起こすことになった。

 それは保育園からの一本の電話によって始まった。逃げることは叶わぬ現実だ。その一本の電話が掛かって来るまで僕にはわからなかったが、実は静子はそうではなかったらしい。

   

     ※                ※

 

 保育園でこういうやり取りがあったのではないかと僕は想像する。

「園長先生、すみません、私たちもう、正直言って直也くんのこと、面倒看きれません」

 その保育士は、嘆願するように園長に言った。

「またそのこと? そうは言うてもね、あなたたちそれが仕事なんやから。主任のあなたがそんなこと言うてどうするの?」

「いいえ、以前から何度も申し上げておりますように、あの子は、その、普通じゃありません。今日もちょっと姿が見えないと思ったら、二階の手洗い場とトイレの、蛇口という蛇口を全部ひねって廊下にまで水が溢れて、そこらじゅう水浸しで大変なことになってたんです。それももう二回目ですよ、二回目! 私たちもかなり頑張ってはみたんですが、あの子に手を取られると他の園児さんたちに、その、迷惑がかかります。今の少ない人手では到底回りきれません。きっとそのうちほかの保護者の方からクレームが出ます」

 そう言うと、主任と呼ばれるその保育士は一枚の報告書を園長に手渡した。

 園長は渋々その報告書を手に取ると、ざっと目を通して、そして深いため息をつきながら言った。

「わかりました。おうちの方へ連絡を取ります」

 そう言って園長は天宮宅に電話を入れた。しかし生憎、僕は仕事だったし静子もパート勤めで居なかった。それで園長は留守電に伝言を残した。

 天宮家は言うほど裕福ではない。がしかし、静子が子供を保育園に預けて働きに出なくとも、贅沢さえしなければ僕の収入だけで何とかやりくりはできたはずだ。

 でも静子は自分で直也の保育園もパートも決めた。この件に関して僕は静子から事前に相談を受けておらず、「わたし、働くことにしたから」と、彼女からの事後報告で知り及んだ。

 当然納得できない僕はその理由を尋ねた。

「なぜ子供を預けてまで、無理して働く必要があるのか?」と。 一瞬、彼女は困惑の表情を浮かべ、そして「将来の貯蓄」とだけ言った。僕は何となくもやもやした物を感じてはいたが、それ以上何も言わなかった。育児に関して、自分の出る幕などないと心のどこかで思っていたに違いない。



 さて僕たちが住んでいるマンションの正面、入口を挟んでその両側には都市型賃貸マンションには珍しく、少し広めの前裁があった。静子はこの前栽が好きだった。ここには数々の花木が植えられていて、人々は出掛けに、あるいは帰宅時に、その色とりどりの花々や香りを楽しむ。不動産屋の入居時の情報によれば、オーナーが無類の花好きと言うことで、このマンションを建てるに当たって、わざわざ利益の出る駐車場を潰してまで前栽を造作したのだそうだ。

 その中の一本に、優に三メートルを超える立派な木蓮の木が植えられていた。春、このぐらいの時期になると、まだ葉さえ付かない細い枝に大ぶりの薄紫色をした木蓮の花たちが天を仰いで一斉に咲く。

 僕と静子が、不動産屋に連れられて初めてここを訪れた時、その可憐に咲き誇る花々を一目見てここにしようと決めたのだから、わざわざ駐車場を潰す価値は十分にあるのだろう。

 木蓮と言えば大体は白い花を思い浮かべる。しかしここの花は鮮やかな薄紫だった。

 一斉に咲いた木蓮の花は、散る時も一斉に散るのだそうだ。それも何の前ぶれもなく突然に散る。しかも花びらが一枚ずつはらはらと散るのではなく、椿のようにその花ごと散る。花一つ一つが大人のこぶしぐらいあるものだから、それはもう散るというよりぽとりと落ちると言った方が正しい。

 しおれたり、色があせたりとか、そういった終焉を迎える変化もわかりにくく、いきなり散るものだから、それがいつなのかはわからない。ただその光景を目にした人に言わせると、それはまるで花たちに意思があり、「さあ、落ちましょう」と皆で申し合わせたように一斉に落ちるのだと言う。

 無数に咲いた花々が一斉に落ちるものだから、大粒の雨が突然降り出したごとく、バラバラっと音が聞こえることもあると言う。夜まできれいに咲き誇っていた花たちが、朝にはすべて残らず落ちていたこともあった。

 それはそれで大変潔い。いつもすべて落ちきった後、地面に積もった花の残骸しか見たことがない静子も一度はその落ちる光景を目にしてみたいと言っていた。

 そして木蓮にはもう一つ大きな特徴がある。それは香りである。その強烈な芳香がずっと遠くまで届く。やがてその強い香りは季節を感じさせる指標となり、この時期、ここを通ることで、ああ、また春がやって来たのだと実感できる。





 ここから少しの間、後に聞き及んだ話を元に静子の視点で書いてみたいと思う。
 午後、静子がパートから帰って来た時のこと。甘い香りを放つ木蓮を横目で見ながら、パートから戻った静子は一人、エントランスに入った。小奇麗には見えるけれど、この建物ももう二十年は経っているらしく、エレベーターもかなり旧式なものでゆっくりとしか動かない。

 ②のランプが付いたままなかなか一階まで降りて来ないエレベーターを待つのは、忙しい静子にとってはかなりのストレスだ。やっと降りて来たと思ったら誰も乗っていなかった。

 エレベーターを三階で降り、短い通路の突き当りにある扉の鍵を開ける。決して高級なマンションではない。小さな不満はいくつもあった。けれども静子はここがとても気に入っていた。

 暮らし始めてもうすぐ十年になる。努力の甲斐あって二人の愛の結晶も授かった。多少育児に手を焼いてはいたが、大した問題ではない。とても幸せだと感じていた。そう、その時までは。

 中に入ると、今まで居た外の暖かい陽気とは対照的に、朝、出がけのままの空気がひんやりと床に沈んでいた。静子は一直線にバルコニーを目指した。アルミサッシを開け放つと、たちどころに薄暗い部屋は春の空気で満たされていった。

 そして玄関の方を振り向いた時、カウンターの上に置かれた電話機の留守電ランプが点滅していることに気が付いた。彼女は近付いて躊躇なく再生ボタンを押す。プーっと言う電子音が鳴り「お預かりしているメッセージは一件です」に続き、スピーカーから女性の声が流れ出した。

「もしもし、ハッピー保育園の園長の幸田と申します。直也君のことでお伝えしておきたい大切なことがございますので、早急ではございますが、ご主人様にも一度お時間を作っていただきたいと思います。明日直也君といっしょに来園されましたら一声お掛け下さい。取り急ぎ用件だけで失礼いたします」

 数秒の空白の後、プーっと電子音が鳴る。静子は明滅の消えた電話機をじっと見つめたままその場を動けなかった。

 開け放った窓から、木蓮の甘い香りが部屋の中にまで漂って来ていた。しかしそのメッセージは明るく柔らかな外の世界とは裏腹に静子の心に暗い不安の陰を落とした。あまりに不安だったのですぐにでも僕に電話をしようと思ったらしいが、受話器を握りしめたまま暫く考えたあげくに結局また置いた。

 その夜。静子は仕事から帰って来てすぐの僕を玄関で待ち構えるように捕まえて電話のことを話した。

                                      続く

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