第37話 お迎え、お願いできませんか

文字数 2,252文字

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 ――けど今回は、できるような気がする。

 あの夜、静子は言った。その言葉通りだった。前回の苦労は一体何だったのだろう。

 妊娠するまでの精神的、肉体的、おまけに経済的な苦痛に加え、あまつさえ、あの出産。前回はのた打ち回る静子を押さえつけて腹から無理やりえぐり出したような出産だった。

 比べて、今回の妊娠はあまりに自然。あまりに安易。しかもたった一回だ。一回きりの性交で彼女は身篭った。僕はすっかり拍子抜けしてしまった。

 経産婦は授かりやすい体質に変わる。世間では道が付くと言うらしいが、僕はそうは思ってはいなかった。

(ほらやっぱり、思ったとおりだ。この妊娠は神がかり的な何かがついている)などと都合良く考えていた。僕の脳内は相当におめでたかったと言える。

 そして妊娠中も悪阻らしい悪阻もほとんどなく、出産までずっと食欲もあり、経過は順調そのものだった。これは僕に取っても大変有難かった。ずっと苦しむ静子を見ずに済むのだから。

 五月。予定日まで後ひと月となり、静子の腹は風船のように膨れ上がって来た。しかし僕は、直也がお腹にいた時に感じていたような、例の〝欲望の塊〟がどんどん膨らんで行くあの何とも言えない嫌悪感はもう覚えなかった。僕の中で多少の人間らしい変化が起こったのかもしれない。

 それでも静子の孤軍奮闘は続いていた。非協力的な僕を横目に見ながら、家事や育児を懸命にこなしていたが、できることとできないことの取捨選択、つまり精神論ではもう何ともならない物理的困難な状況はすぐにやって来た。

 それはある夕食の時のことだった。テーブルに付かせても、片時もじっとしていない直也が勢い余って目の前のコップを倒した。

 機関車トーマスの絵柄の付いた大きなプラスチックコップだ。入れたばかりで並々と入っていた麦茶は、あっという間にテーブルクロスに広がり、並べられた茶碗や皿はそのほとんどが薄茶色の水溜りに飲み込まれた。

 さらにテーブルの端からポタポタと滴り落ちた液体は床のカーペットまで濡らした。何もかも麦茶まみれだ。だが僕は席を立とうともせず、悠長にその様子を見ながら言う。

「お茶でよかったな、ジュースじゃなくて」

 次の瞬間、静子の怒号が響き渡る。

「直也ぁ! あんた、せやから言うたやろ、ちゃんとしなさいて!」

 そう言うや否や、彼女は倒れたコップをさっと拾い上げ、勢いに任せて背後のシンクに向かって投げつけた。

 派手な音がしてシンクの縁に当たったコップは跳ね返って床に転がり落ちた。でも割れない。プラスチックだから。大きな音がしただけだ。

 その派手な音に僕も驚いたが、直也を縮み上がらせるには十分だった。まるで小動物のように慌ててテーブルの下に逃げ込む直也。静子は振り返り、僕の方を見て、低い声で静かに言った。

「すみませんけど、直也のひかりの家からのお迎え、お願いできませんか?」

 有無を言わさない、圧倒的な威圧感。改まった敬語が怖い。本当はずっとこれを言いたくて我慢していたのだと、その時僕はやっと気が付いた。彼女の目を見ず「わかった」と小さく答え、従う他なかった。

 ひかりの家では、いや、どこの保育園でも、子供の送迎は母だけでなく父親も担っているはずだ。自発的にその役を買って出るべきところだし、普通の父親ならばもっと早くにそうしただろう。

 しかし僕はいよいよ静子が動けなくなるまで、そして意を決した静子から頼まれるまで動かなかった。面倒臭い、確かにそれもあった。でも本当はひかりの家に通う子供たちや、その親たちに会いたくない。僕は臆病だったのだ。だが事態は急を要していた。四の五の言う次元はすでに超している。

 

 その翌日。早速それは実行に移された。朝は静子が送った。そして夕方四時過ぎ、一度家に戻って自転車で迎えに行こうかと考えたが、時間がないので職場から直接車で向かうことにした。

 梅雨にはまだ少し早いが、昼前から降り始めた雨は時折その雨脚を強めたり、また弱めたりを繰り返しているが止むことはなかった。予報によれば夜には本降りになるらしい。

 斑むらのない灰白色の空だけを見るとわからないが、無数の細かい雨が降っているのだろう。ゴムのすり減ったワイパーが不快な音と共にガラス越しの街を滲ませていた。車で来て正解だと僕は思った。自転車ならば僕も直也もずぶ濡れになっていたところだ。

 バス通りから、気を付けていなければうっかり通り過ぎてしまいそうな四つ角を曲がり、一方通行路を少し走るとその狭い道路沿いの右側にそれはあった。

 小規模な幼稚園か、あるいは小さなコミュニティーホールのような建物だ。もう随分と古そうだ。その正面入り口まで来て、まず車で敷地の中まで入っても良いものかと悩むところから始まった。外で停めて、歩いて入った方が良いのではないか? と迷っていた時に、後ろからやって来た車がクラクションを鳴らした。狭い道を塞ぐなと言わんばかりだ。結局僕は追い立てられるように敷地に車を乗り入れた。

 なんとなく見覚えがある。と言うのも、ここへ来るのは、あの運動会以来二度目だった。運動場と呼ぶにはあまりに狭い広場――前回の運動会会場だった――の隅にそっと車を停め、建屋までの数十メートル、傘を差し、足元に気をつけて水溜りを避けながら足早に向かった。

 その日、僕は直也の通所二年目にしてようやくひかりの家の館内に足を踏み入れた。

                                    続く
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