第72話 もう、おうち……

文字数 2,497文字

 訳もわからず車の流れのままにアクセルを踏む。気がつけば法円坂から阪神高速に入っていた。空は曇り空。昼からは雨の予報だった。僕の心と同様に鉛色の雲が隙間なく重く垂れ込めていた。走りながら僕の頬を涙が伝った。景色が滲む。

「俺、なんで泣くのかな……なんで、泣くのかな」

 ただそう呟いて前を走る車のテールをぼんやりと見ながら走る。環状線から外れ、車は十一号池田線に入った。

 友里に、友里に会いたい。それ以外は何も考えられずに、僕はただ、高速を北へ北へと向かっていた。このまま北を目指したところで友里に会えるわけもないのに。ただ泣きながら北に向かっていた。助手席に直也を乗せたまま。

 阪神高速を終点の池田で降り、そのまま国道一七六号をひたすら走った。フロントガラスに雨粒が付き始めた。やがて雨は本降りになった。それでも僕は北を目指した。途中で携帯が鳴った。静子からだ。ひかりの家に来ていない直也を心配して近藤が静子に連絡したのかもしれない。でも僕は携帯の電源を切った。

 何も考えられずに、僕はただ、北へ北へと向かっていた。行く宛なんかなかった。ただ泣きながら北に向かっていた。

 

 海が見える。いつの間にか城崎まで来ていた。道はそこで突き当たりになった。僕は車を海岸脇の駐車場に止め、直也の手を引いて海の方へと歩いて向かった。低気圧が来ているようで、岸壁から見る海はとても荒れていた。

 もうすぐ十二月。日本海を吹き荒ぶ風はとても冷たかった。僕はただじっと、小雨に降られながら、砕け散る白い波を見ていた。見渡す限りの海はどす黒く、遠くには白い波頭が無数に見える。

 ――なんて冷たそうな海なんだ。

 僕もあそこへ行きたかった。頭の中をいろいろな人の顔が駆け巡る。

 と、そのとき、握っていた直也の左手が僕の手を強く引いた。 

 僕はゆっくりと直也の方を向く。直也は何も言わず、ただじっと僕を見ていた。

 次の瞬間、直也の小さな口元が微かに動いた。けれど風の音でよく聞こえない。

「どうした直也? なんて?」

 黒く大きな瞳は僕の顔をじっと見ている。再び声が聞こえた。

「もう、おうち……」

「そうか、そうやな。お前や、遼太がおるね。僕は一人じゃない」

 おもむろに僕は携帯を取り出して、一つ深呼吸して、電源を入れ、静子にメールを書いた。

「今、城崎にいる。少し頭を冷やしに来た。これから家に戻る」

 そして、次に友里にもメールを打った。

「今、城崎にいる。本当はもう帰らないつもりで来たけれど、やはり逃げるわけにはいかない。今から大阪に戻るが、もう一度会ってほしい。三時間後、いつものミスタードーナツ前で待つ」

 静子からすぐに返信が来た。

「わかりました。家で待ちます。もう一度話をしましょう」

 戦おうと思った。自分の運命と。そう決めて、僕は大阪に向かった。



 大阪に近付く頃、雨は本降りになっていた。土砂降りの雨を突いて僕はひたすら大阪市内を目指す。

 もう、涙はなかった。あるのは強く固まった意思だ。ただ、友里が来てくれるか不安だったが、もう行くしかないと僕は思った。

 阪神高速道頓堀ランプで下り、上本町方面へ向かう。雨はますますひどくなる一方だった。上本町近鉄の角を右折して、ミスドの前を見る。

 いた! 間違いない。友里だ。大雨の中、ぽつんと立っている。僕は大急ぎでミスドの前に車を止めて、傘もささずに友里の下へ向かう。そして、何も言わず、強く抱きしめた。もう周りの人の目は気にならなかった。

 彼女のからだはとても冷たかった。きっと長い時間ここで僕を待っていたのだろう。そう思うと、また涙が出た。

「あんなメール、心配するやん」

「ごめん」

「ううん。でもほんまはもう来るの止めようと思っててん。けどやっぱり居ても立ってもおられへんようになって来てしもた。友里な、天宮さんにすごく会いたかってん」

「ありがとう。来てくれて」

「ううん。けどこれからどうするのん?」

「うん。直也も連れてるし、一回家に帰る」

「いやや、そんなん。お願いやからもう一人にせんといて。私を置いて行かんといて」

 友里はまるで幼い女の子が困った時に見せるような悲しい顔をする。けれど静子に城崎から戻って話をしようとメールした手前、今はここにいるわけにも行かない。

「ごめん、一度帰って話を付けて来る。必ず迎えに来る。約束する」

「うん。わかった。待ってていい?」

「ここで?」

「うん」

「風邪引くよ」

「お店で待ってるから」

「わかった。じゃあまた後で」

 僕はその場を後にした。だがこれが良くなかった。元々あった彼女のパニック発作に火を付けてしまった。

 家に戻った僕は静子に、勝手な行動を詫びた。しかしながら、僕はもうこのままの状態ではとてもやっていけないとはっきり言った。

 そして、強い意思を持ち、冷静に、別れることを前提の下、今後の話をしようとしたが、その時、静子の顔色がそれまでの怒りから恐怖の表情へと一気に変わった。

 静子は僕の友里に向けられた気持ちがどれほど本気であるかわかっていなかったのだろう。自分が出産のために、妻として、女性としての勤めを果たさなかったので僕がほんの遊びで、つまり風俗へでも行くようなつもりで尻軽な女友達に手を出してしまった、ぐらいに思っていたようだ。

 女友達連中や近藤の力を借りて僕を説得できるに違いない。そして犯した罪を十分に償わせてやり直せるに違いない。静子はそう思っていたらしい。だから僕の口から、本気で離婚という言葉が飛び出すとは思っていなかった。

 静子はこれだけのことをされても、僕のことをまだ愛して止まなかった。しかし僕の心の中に静子はもういない。すでにそのすべてが友里で一杯だった。

 古びた永遠の誓いにすがろうとする者。さっさと立ち去ろうとする者。はっきりとした温度差。こうなると、開き直った僕の方が逆に強い立場になる。

 静子は狼狽を隠せない。やり場のない悔しさと悲しさで静子はその場に泣き崩れた。そんな静子を目の当たりにしても僕の意思はもう変わらない。

                                      続く
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