第45話 幸福のピンク色の光

文字数 2,337文字

 幸せ一杯のその声を聞いても、別段、嬉しいとも何とも感じなかった。僕は自分のことなのにまるで他人事のように感じていた。

 いや、そんなことよりも、別に生まれ変わりだとか、そんなことではないが、翔一くんが亡くなって、自分と静子の下に新しい命が誕生したことに、僕は何か不思議な縁を感じた。



   4



 君は一体何を思う?

 君は未来を知っているのか?

 君はなぜここに生まれて来た?

 僕は暫くの間、保育器の中で眠る新しい命をぼんやりと見つめていた。

 その時何処からか声が聞こえた。

 ――ここはお前のような者がいる場所ではないぞ!

 僕はハッとしてゆっくりと顔を上げて辺りを見回す。すると、その子を取り囲む親族たちは皆、ピンク色の眩い光で包まれているではないか。ゾッとした。

 と、次の瞬間、そこはありふれた新生児室に戻った。保育器の硝子越しに、にこにこしながら眺めている親たちもいつもと変わらない。

 その光景はただの僕の妄想だったのだろうか。きっと自分はおかしくなってしまったのではないか? あるいは心の中に、何か恐ろしい悪魔でも潜んでいるのかもしれない。僕はそう思った。

 前回、まる二日間も苦しんだことがまるでウソのようだ。陣痛が始まって二時間足らずの安産だった。予定より三日ほど早かったが、とても立派な男の子だ。僕はベッドで休んでいる静子に労いの言葉を掛けながら、例の伊藤さんのことを伝えなければならないことに心を痛めた。とてもではないが言える状況ではなかった。

 よく見ると、幸福のピンク色の光に包まれていない人物が僕以外にもう一人いる。当の静子本人だ。その表情は暗い。無事に出産を終えて、普通なら安堵の表情のはずなのに、なぜそんなに哀しそうな顔をするのか?

 静子の親たちが席を外した時、彼女は僕の目を見ずにぽつりと呟いた。

「この子は、大丈夫なんやろか……」

 僕はすぐに悟った。それが彼女の顔を曇らせている理由だと。

「大丈夫、しっかりしてる。大丈夫や」

 僕はすぐさま答えた。たぶん、カラ元気と聞こえただろう。しかし、たとえこの子の未来に何が待っていようと、こう言うしかないことも今までの経験から知っていた。

 それでも静子の不安は拭えない。障害児の生まれた家庭は、続けて障害を持った子供が生まれる可能性はかなり高いことを静子もよく知っている。ひかりの家には、そんな兄弟姉妹がたくさんいる。僕はますます翔一くんのことを言えなくなってしまった。

「ああ、名前、決めなあかんな」

 僕は唐突に切り出す。

「うん。そやな。決めなあかんな」

「まあとにかく、無事に生まれて良かった。今はゆっくり休めよ」

「うん。ありがとう」

 静子は淋しそうに微笑んだ。翔一くんのことは、明日の朝には伝えよう。今は、よそう。僕はそう思った。

 明けて土曜日。朝、少し早い時間に僕は病院を訪ねた。

 昨日とは打って変わって、雲一つない青空がどこまでも広がっていた。どうやら入梅宣言を踏み止まった大阪管区気象台に軍配が上ったらしい。でもその朝の僕にとっては嫌な青空だった。これから静子に会って残酷な事実を伝えなければならない。逆に隠々滅滅とした雨模様ならまだよかったのに。

「すみません、四〇一号の天宮です。着替えを持って来ました」

「おはようございます。朝からご苦労様ですね。今ちょうど授乳時間でお母さん出てはりますけど、すぐ帰って来られると思いますので病室の方でお待ち下さい」

「え、あの、嫁のいない病室に私一人で入ってもいいのですか?」

「ええ、こちらで入室手続きしてもらって……あ、ではご案内しますので私といっしょに行きましょう」

 若い看護師は僕の一瞬の困惑を見逃さず、部屋まで同行してくれると言う。満点の笑顔だ。いつぞやの婦人科の受付とは違う。ここは業務意識が非常に高い。値段の高いだけのことはあると思った。

 ナースステーションで手続きを終えて案内されるままに病室へ入った。朝食時間だったらしく、カーテンはすべて開放されていて、四床ある内の静子以外の母親たち三人がそこにいた。三人の視線が一斉に僕と看護師に注がれる。僕は軽く会釈する。前回の野戦病院さながらの大部屋よりははるかに落ち着いているが、それでも慣れない。

 この居心地の悪さの原因は、たぶん僕の持つ女性に対するコンプレックスの表れなのだろう。男はこの神聖な領域に入る権利を持っていないと漠然と感じている。

 逆に言えば、子供を産むことのできる性を心のどこかで羨んでいた。昨日は静子がいたのでそうでもなかったが、看護師の案内なしに自分ひとりでここへ入る勇気はない。

 正面の大きな窓のレースのカーテン越しに明るい陽光がたくさん降り注いでいた。見た目の美しさと機能性を兼ね備えた洒落た木製のベッドが、広々とした部屋に四床ある。

 静子のベッドの上のテーブルにもトレーに載せられた朝食が置かれていた。メニューはオムレツにパンケーキとフルーツだった。

 シティホテルのブレックファストのようだ。それをおいしそうに頬張る向かいのベッドの女性。僕と目が合う。彼女は少しはにかみながら咄嗟に視線を外した。

 朝早いせいもあってか、見舞い客も付添い人もいない。もちろん男は僕だけだ。食べ終わった後の女性たちは、僕のことなどまったく気にする様子もなく、テレビを見たり、本を読んだり、皆、思い思いの時を過ごしている。

 いや過ごしていると言うより、満ち足りた時間を満喫していると言った風か。静子が持っていた妊活情報誌では退院することが惜しまれると記載されていた。なるほど。おそらく出た後は、それこそ大変な時間が待っているのだから。

                                     続く
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