第26話 ICU

文字数 2,179文字

 隣で居眠りをしていた三郎も目を覚ました。しかし祐一は鼾を掻いている。しかも酒臭い。友里が起こそうとしたが、三郎が「そんな奴ほっとけ!」と制止した。まだ怒りが収まらない様子だった。

 仕方なく友里は咲希を抱きかかえて部屋に入ろうとすると、看護師からストップがかかった。乳飲み子の咲希は規則で部屋には入れない。その看護師は寝ている祐一をちらりと横目で見遣り、呆れ顔で「面会の少しの間だけ私が看ていましょう」と申し出てくれた。

 友里は咲希を彼女に託した。おそらくは彼女にも子供がいるに違いない。咲希を抱く彼女からはどことなく母の匂いがした。

 それから二人はICUの準備室で入室に関しての説明を受けた。執拗に手を洗い、靴も履き替え、頭からつま先まで完全防備で望んだ。頑丈なドアは、それがまるで入室の儀式のように足元のスイッチをつま先で蹴って操作する。ここまで厳重に守られた奥に都がいるのかと思うと、友里は驚きと共にますます滅入るばかりだった。

 先ほど待合で見かけた家族の一人がICUの入り口で医師と何かをひそひそと話し合っていたが、他の身内の姿はおろか、肝心の患者の姿もなかった。その表情と口ぶりではたぶんダメだったのだろう。

 ここは生と死が混在している場所だ。どこまでが生でどこからが死なのか? その境目は何だろう。人形のように動かぬ患者を見ながら友里はふとそんなことを思った。

 しかし、ベッドに横たわる都の姿を見た時、生とか死とか、そんな哲学じみた他人事のような考えは一瞬でどこかに消え去ってしまった。

 都は生きていた。いや、懸命に生きようとしていた。複雑な機械に囲まれ、頭を包帯でぐるぐる巻きにされ、口には管、全身をチューブや線で繋がれて、昨日の朝まで元気に走り回っていた都は、今は動かない。肌は青黒く、薄目は開けていたがその視線は虚ろに宙を泳ぐ。瞳には何が写っているのだろう。

「ミヤ?」

 友里が声を掛けると、視線はゆっくりとその声のする方に向けられていたが、声を発することはなかった。とりあえず、耳は聞こえているようだ。

「せんせ、どないなんですか?」

真っ先に尋ねたのは三郎だった。

「今のところ安定していますよ」

 隣のベッドでこちらに背を向けてせわしなく動いている医師はそれ以上語らなかった。目下の患者の容態が最重要事項なのだろう。詳しくはまた後ほどと言うことらしい。

「また来るわな」と、友里は一言だけ話し掛けると、都の虚ろだった視点は友里を認め、ほんの少し微笑んだように見えた。

 枕元の機械から発せられる規則正しい音だけがいつまでも友里の耳に残った。とても嫌な音だ。

 

      6



 一週間が過ぎた。

 都は集中治療室から一般外科病棟に移された。思ったよりも順調に回復していた。子供の回復は早いと言うが、都はすでに一人で起き上がれるところまで良くなっていた。担当した医師もその回復力の早さには驚いていた。

 また、心配された後遺症と呼べるものは、現時点では時折、顔の左側がぴくぴくっと引き攣つる程度のもので、そのほか、特にこれと言って重篤な症状は見られなかった。

 そして友里が最も恐れていたこと――都の怪我の原因について――は、幸か不幸か、頭を打った前後三十分ほど、都の記憶がすっぽりと抜け落ちていたために表沙汰になることはなかった。

 都が覚えていることと言えば、あの時、ママが急にいなくなったこと。そして次に気が付けば病院のベッドで寝ていたこと。

 誰に何度聞かれてもこれ以上のことは言わなかった。医者に言わせると、頭を強打すると、こう言った一時的な記憶障害が起こることはよくあることらしい。

 しかし友里の心中では記憶障害などと言う簡単な一言で片付く問題ではない。もしかしたら嘘をついているのではないのか? 都なりに母を庇っているのではないのか? いつか誰かに詰問されると小さい子供のことだから、きっと本当のことを言うに違いない。

 それは都の顔を見る度、友里の心に不安の影を落とした。そしてこれ以後ずっと友里の中で、答えの出ない煩悶に苦しめられることになった。

もちろん友里は、祐一には本当のことを何度も言おう、話そうと思ったが、いざその時になると恐怖のために口は貝のように閉ざされて何も話せなかった。

 父、三郎にそのことを相談すると、「二つや三つの子がそない巧妙なウソついたりするかいな! 考えすぎや」とたしなめられたが、これに加えて、「ええか、友里、妙な気ぃ起こすな。いらんこと言わんでええ。このことはだまって墓まで持って行け」とひどく真顔で言われた。その時友里はかつての父の本質を見たような気がした。しかしこの問題は、友里一人で抱え込むにはあまりに荷が重過ぎる。

 一般外科病棟に移ってひと月が経とうとしていた。経過は順調そのものだった。この分ならうまく行けば、秋口には退院も可能だと告げられて、ほっとしてはいたが、友里はその身も心も憔悴しきっていた。

 その証拠に、ベッドで静かに眠る都をぼんやりと眺めながら、この夏の騒動を振り返り、本当に大変なことはたった一つしか起こってはいないはずなのに、心の中で(いろんなことがあった、いろんなことが……)と何度も繰り返し呟く友里だった。

                                       続く
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