第32話 メロディさん

文字数 2,249文字

「あ、ママ」

 三郎もベビーカーを押す手を止めて友里の方を見た。

「友里……」

「お父さん、あれ、誰なん?」

「あの女か? あれな……」と三郎が言おうとした言葉を都が遮った。

「メロディさんや」

「メロディさん?」

「せやで、メロディさんはな、今うちにおんねんて」

「え?」

「そうらしいねん、いっしょに住んどるらしいわ」

「メロディさんはパパの歌う曲作ってるねんて。ほんでメロディさん言うねん」

「曲? あっ!」

 やっと思い出した。あの近鉄の屋上で祐一のライブを初めて見た時、最前列に陣取っていた黒服のワンレン女だ。

「ちょっと、住んどるって、それどう言うことなん?」

「ああ、そう言うこっちゃ」

 もしかしたら二人の関係はあれからずっと続いていたのかもしれない。休日になると祐一は音楽活動を名目にあの女に逢いに行っていたのかもしれない。

 しかしもう今の友里に取って祐一のことなどどうでも良かった。ただ、自分がいなくなった途端にちゃっかり入り込んだ泥棒ネコと迎え入れた祐一に対して心の底から沸々と怒りが込み上げて来た。

「何それ、あたし家出てまだひと月やのに」

「ああ」

 三郎は都の方を見遣り、悲しそうな表情で言った。

「ほんで、何しに来たん? あの女」

「ママ、あの女ちゃう。メロディさんや」

 都の口出しがいちいち癇に障った。友里の強張った表情から怒りの色を感じ取ったのか、都はそれきり口を閉ざして積もった落ち葉をじっと見つめた。

「まあ、顔見せってとこやろな」

「顔見せ?」

「ああ、まだ今日はその辺のこと詳しくは何にも言わんかったし、わしも聞かへんかったけどな、行く行くは、たぶん、その、おまえの後釜に据えるつもりなんやろ。せやから、顔見せや。子供らにな」

「それでわざわざ休みの日に、それも二人揃ってここまで来たんやな。おかしい思たわ!」

 友里は悔しくてたまらなかった。自然に涙がこぼれた。

「友里、おい、ちょっと落ち着け、まだそうなると決まったわけやない」

「イヤっ  何であんな女に子供ら渡さなあかんの! アホちゃうか!」

 ヒステリックな甲高い声が、午後の静かな公園に響き渡る。その瞬間、すぐ傍に居た都は、びくっと体を震わせた。友里はハッとして都を見つめる。

 行き交う人々は何事かと友里たちを横目で見ながら通り過ぎて行く。そして都はその場にしゃがみこんで、まるで何かに憑かれたように、ただ懸命に両手で葉っぱをかき集め出した。咲希も泣き出した。その大きな泣き声が引き金となって今まで何とか抑え付けて来た友里の自我が崩壊する。

 そして友里はいつもの発作を起こしてその場にへたり込んでしまった。こうなるともう動けない。布施の家に居るときは、あんなに子供たちのことで悩んでいたのに、今は「都、咲希」と、何度もその名前を呼んでいた。

「おい、しっかりせえ、友里!」

 何度揺すっても、起こそうとしてもただ震えるばかりで反応がない。友里の蒼ざめたこめかみに幾筋もの紫の血管が走っている。三郎は初めて友里のパニック発作を目の当たりにして、その尋常ではない様子に目を見張っていた。

 と、その時だった。

「おじいちゃん、こうやるねん」

 さっきまで銀杏の落ち葉を集めていた都が、いつのまにかうずくまる友里の横にぴったり寄り添ってぎこちなくその背中をさすっていた。友里の中の氷がゆっくり溶けて行く。

「ミヤ、お前……お母さん、いつもこんなんか?」

 都はこくんと頷いた。

 数日後、父の強い勧めもあり、都の主治医から紹介された心療内科を受診することになった。

 友里は二人の幼子を連れて病院へ行かなければならないことにかなりの躊躇いがあったが、三郎が友里の不在の間は二人の子供たちを看てくれると言う。

 あれだけネグレクトで苦しめた父の変わり様に驚くと共に、少しでも自分の時間が持てることに友里はとても感謝していた。祐一に比べるとよほど今の父の方がましだと思った。

 初めて訪れた心療内科。それまでそういう専門の外来があることすら友里は知らなかった。当日午前九時の予約だった。余裕を見て友里は八時過ぎに外来を訪れた。診療開始時間までまだ一時間近くあるにもかかわらず、待合室は診察を待つ患者たちで溢れていた。こんなにもたくさん自分と同じような悩みを抱えている人がいることに驚いたが、同時に自分だけが苦しんでいるのではないと言う不思議な安心感も覚えた。

 結局、予約時間を一時間近く過ぎた頃、ようやく名前が呼ばれた。ただ診察を待つだけで具合が悪くなりそうなところだと友里は思った。

 診察室に入った友里は一瞬違和感を覚えた。壁も天井も床も、見回す限り、病院に在りがちな白い色がどこを探しても見当たらない。

 机も他の部屋にあるようなスチール製の無機質な事務机ではなく、書斎にあるような大ぶりの木の机で何より診察台すらない。 

 壁には専門書がぎっしり並んだ本棚と、部屋の中央には一人掛けのソファーが対面で一対。友里はまるで応接室に通されたように感じた。

 重厚な机に向かっていた医師は立ち上がり、友里の方を向いて愛想の良い笑顔を見せた。白衣は着ていなかった。

 仕立ての良い黒のスーツ姿で、胸に心療内科 岡田というネームプレートを付けていた。年は六十前後ぐらいだろうか。髪はきれいに七三に分けられ、所々白い物が混じる。

 銀縁の眼鏡を掛け、糊の利いた淡い水色のカッターシャツに濃紺のネクタイ。とても上品な初老の紳士といった感じを受ける。

                         続く
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み